私の好きな遍路道(4) 讃岐

私の好きな遍路道 目次                                       
 (1) 阿波                                               
 (2) 土佐                                               
 (3) 伊予
 (4) 讃岐 (この記事)


私がお勧めする遍路道(つづき)
讃岐



1、雲辺寺道で雲辺寺に上る。 地図:讃岐「豊浜付近」「雲辺寺道付近

雲辺寺に上る道と言えば、池田町佐野から上る道あるいは曼陀峠を通る道というのが定番でしょうが、ここでは捻くれ心を発揮して古くからの雲辺寺道を上るルートを推します。
雲辺寺道は古道で豊浜をその始点とします。ですから、三角寺または奥ノ院から雲辺寺の上り道として採ろうとするとアプローチはちょっと遠回り、例えば、三角寺→奥の院→平山→川之江→箕浦→豊浜。
この道は雲辺寺の下りに採る場合は、番外萩原寺は道のすぐ傍ですから便利かもしれません。
豊浜からの雲辺寺道古道の道筋はほぼ残っています。溜池の連なる道を尋ね尋ねて井関池畔まで。瀧宮神社、櫃負観音堂を経て山道へ。かなり荒れた箇所もありますが、地蔵や丁石に励まされるいい道です。ロープウエイの山上駅の傍に出ます。
(該当遍路日記「平成27年春その2」)

2、箸蔵寺から雲辺寺への道。 地図:阿波「箸蔵寺付近」讃岐「猪ノ鼻峠付近」「六地蔵峠付近」「雲辺寺付近

ここから三つは箸蔵寺から(へ)の道です。箸蔵寺は阿波の国の内ですから、阿波と讃岐を跨る道となります。
まず一つ。池田町佐野に泊まった遍路が箸蔵寺へ参るには、国道192号、県道267号を往復するルートを採ることが多かったのではないかと思いますが、箸蔵寺からの還路、直接雲辺寺へ行く道があります。
箸蔵寺への山道の入口付近から緩い上りの国道32号を行き県道6号に入ります。野呂内下の集落の道、それは素晴らしい道です。道傍に山からの水場もあります。
運が良ければ村の人から声を掛けていだけるかも・・
「右こんひらみち 左うんへんみち」と刻んだ古い道標も見られます。古くからの遍路道でもあるのです。
鮎苦谷川に沿って県道268号を上り雲辺寺へ。約19kの道程。
なお、国道32号から土讃線つぼじり駅に下り下野呂内に行くルートはスイッチバックも見られる楽しい道筋です。
(該当遍路日記「2巡目第5回その4」)

3、中蓮寺峰越えで箸蔵寺へ行く道。 地図:讃岐「六地蔵峠付近」「猪ノ鼻峠付近」阿波「箸蔵寺付近

この道は「四国のみち」です。昔から多くの遍路が通った道ではありません。むしろハイキングコースとして風光を愛でる道かもしれません。
道は遍路が好んで泊まる宿の近く粟井ダムを見上げる処から始まります。逆瀬川の傍を通り中蓮寺峰の登山口、もみじ橋を渡り急坂を山頂へ。
ここは絶好のハングライダーのフライト場。若狭峰を越えて猪ノ鼻峠へ。そして二軒茶屋で箸蔵街道に入り馬除から箸蔵寺へ。大師堂の横に直接出ます。
約22kの行程です。
(該当遍路日記「3巡目第7回その5」)

4、箸蔵街道の道。 地図:讃岐「財田付近」「猪ノ鼻峠付近」阿波「箸蔵寺付近

箸蔵街道は金毘羅さんとその奥の院とも称される箸蔵寺を結ぶ道です。
琴平を出た道は、樅ノ木峠の飛行神社を経て黒川の南の山を越え財田へ。ここまでの古道はやや消えかかった所もあるようです。
財田から箸蔵寺までの道はすべてが古道というわけではないようですが道筋は明確に維持されています。石仏、二軒茶屋、馬除を経ます。
財田から馬除を経て三好の昼間まで通じた道は「箸蔵越え」と呼ばれた阿讃国境を越える古道の一つ。二軒茶屋の茶屋跡や馬除の廃屋など、昔の賑わいの名残りでしょうか。

5、金毘羅・土佐伊予街道を行く。 地図:讃岐「箕浦付近」「豊浜付近」「大野原付近」「山本付近」「中屋敷付近
佐文付近」            「琴平付近

この道は遍路道ではありません、金毘羅道です。
金毘羅参りに利用された主な道は「高松街道」「丸亀街道」「多度津街道」「阿波街道」「伊予・土佐街道」の五つで金毘羅五街道と通称されています。
道の呼び方について一言。阿波街道や伊予街道などは讃岐一国に留まらない長い道ですが、これらの地から讃岐の金毘羅に向かっては同じ道を「讃岐街道」とか「金毘羅道」とかと呼ばれます。紛らわしいですね。
さて、ここで推す道は伊予・土佐街道が国境の余木崎を越え讃岐に入ってから金毘羅までの道。
その道には多くの石燈篭(金毘羅燈篭と呼ばれる)や札納、丁石などが残り、昔の金毘羅道の雰囲気をよく残していると言われる道です。
箕浦から豊浜町、大野原町中姫、山本町辻、ここで大興寺を出る遍路道と交差、山本町財田西、中屋敷、立石、作文そして牛屋口。ここには土佐や伊予の人の寄進による鳥居や石燈篭が並びます。そして金毘羅宮へ。
この道、遍路姿をしていても地元のお年寄りからは「ごくろうさまです、きをつけて・・」と声が掛かります。きっと金毘羅参りの人と見ていただいているのでしょう。
(該当遍路日記「3巡目第8回その2」)

 

6、弥谷寺から海岸寺への道。 地図:讃岐「弥谷寺・海岸寺付近

白方の海岸寺、奥ノ院それに佛母院に参るには、天霧峠を下るのが最短であり雰囲気のよい道です。
弥谷寺からは殆どが下りの道で、峠下の荒れた道もこの頃は落ち着いてきたようです。天霧八王山奥の院は荒れたお堂の様子ですが、内部はかなり広い洞窟となっており驚かされます。坂を下った虚空蔵寺辺りは春には桜の園。
海岸寺、奥ノ院、佛母院の辺りも含めて・・土台、この白方の地は、何やら時間がゆっくり経っている別世界の風情を醸し出しているように、私には思えます。
(該当遍路日記「平成27年春その3」他)

7、国分坂を上がると・・ 地図:讃岐「国分寺付近」「五色台付近

真念は「・・これより白峰寺迄五十町、此間に坂有、国分坂といふ。十町ほどのぼる、谷川有」と。また澄禅は「屏風ヲ立タル様成坂・・上リ上リテ渓水在。此水由緒有水也、水上ニ地蔵堂有り・・」と記しています。
ここに国分坂と書かれた道は今も残っています。実は、その上の国分台は自衛隊の演習地となっていて、白峰寺へ通り抜けることはお勧めできませんが・・ 
急坂を九十九折れで上る道にはしっかりと丁石地蔵が残されており、坂途中にはへんろ坂大師堂もあります。(大師像は国分寺の境内に遷されています。)
坂の上から見える神崎池や国分の田園。雲で霞んでいなければ素晴らしい眺望も得られるでしょう。
白峰への道の途中にあるという渓水(おそらく西方、神谷に下る水だと思われます。)を見たいという望みは諦めなくてはならないでしょう。
(該当遍路日記「平成23年晩秋その1」)

8、白峰寺から根来寺への道。 地図:讃岐「五色台付近

高屋から81番白峰寺に行く道。今は北側の山裾をまわる長い石段の道ですが、昔の道は神谷川畔に立つ讃岐最大の道標(寛政6年)「すく遍ん路ミち」から東に直進し山に入る道であったと思われます。
江戸初期にはこの道に白峰寺の中門や大門もある参道であったようですが、今は道共々消えてしまっています。
白峰寺から82番根来寺への道は全長4.6k、五色台スカイラインと交差する足尾大明神社の辺りを除いて土道の古道です。
道傍には多くの古いものが残されています。白峰寺の近く、別所の三重塔跡、摩尼輪塔、奥ノ院毘沙門窟、中間の閼伽井、十九丁の地蔵など。
この道はハイキングの団体や遠足の小学生によく出会う道でもあります。
根来寺から83番一宮寺に向かう道。今はスカイラインを通る遍路が多いようですが、その道の東側に沿って土道があります。赤子谷まで殆ど土道を辿ることができるのです。
赤子谷の地蔵堂の先、袋山を巻いて鬼無町の衣懸池に出る古道、私は何度か探りましたがちょっと難しいようです。
(該当遍路日記「2巡目第6回その3」他)

9、高松市街の遍路道。 地図:讃岐「高松市街(南)」「高松市街(北)」

一宮寺から84番屋島寺へは県道173号などにより市街の中心部を通る遍路が多いようです。しかし、江戸時代の後期には藩が遍路の城下への立ち入りを禁止したとも言われ、一宮を出て南西から北東へ階段状の道筋で屋島を目指すルートが定着していったようです。
三名町、太田上町、太田下町、伏石三石神社、野田池、松縄町、木太町、春日町、屋島中町と辿ります。道傍には思いの込められた地蔵や道標が多く見られます。
道を尋ねれば、また多くの人から優しい言葉を戴ける道でもあります。
(該当遍路日記「平成27年春その4」)」

10、結願の寺大窪寺への道。 地図:讃岐「前山付近」「大窪寺付近

88番大窪寺への道は、助光、多和を通り山門の前に出るルートと、女体山を越えて直接境内に入るルートがあります。
女体山を越える道は前山のおへんろ交流サロンから8.5k、前者の道より短いものの山越えの厳しい道です。平成へんろ石もこちらの道に立っていて、この頃はこの道が遍路道の主道といった観があります。しかし、昔からの道は山門に出る前者の道の方です。といっても、実際の古道は途切れ途切れに残っているだけですから、古道の近くに後からできた町道などと言った方が正確でしょうか。多くの遍路はその道を歩きます。
おへんろ交流サロンを出て相草の手前は近年に地元の人によって開かれた山越えの道「花折山へんろ道」があります。
大窪寺門前まで多くの丁石地蔵が残っていますが、その多くは古道の傍。地蔵と素晴らしい土道の断片が残っている場所もあります。でも、丁石の丁数を数えてそんな道を歩きたいと思うと行きつ戻りつを繰り返さなくてはなりません。残念なことです。
(該当遍路日記「3巡目第8回その5」「2巡目第6回その4」)

11、大瀧山上り下りの道。 地図:讃岐「塩江付近」「大相山付近」「大瀧山付近

番外別格大瀧寺への道は、従来より塩江からの道と夏子からの道が知られていました。その後、近年になって長谷の金毘羅神社から阿讃国境の尾根道が古くからの遍路道であったことが紹介されて、この道を通る遍路も増えてきたようです。
この道にはロープに縋らないと上れない所が数箇所ある厳しい道で、健脚者のみに許された道といえましょう。
嘗ては草に覆われていた夏子からの道は最近は林道化して、雨後などはかえって歩き難い道となっているようです。それと、夏子に近い細野辺りから5kに及ぶ「長靴」をまわらなくてはならない弱点もあります。長靴をショートカットする道を多くの人が探っているようですが、良い道は見つかってないようです。
地図に?付で示した道は、猪除けの柵を越えなくてはならない所があり、これもよい道とはいい難いもの。
大瀧山に登るその他の土道ルートとして、遍路道としてはアプローチに難がありますが、脇町方面より、大谷、鼓尾を経て上る道。
この道は阿讃国境の峠道の一つ「大瀧山越え」の古道の一部でもあります。鳥居や庚申塔などが残る道です。
(該当遍路日記「2巡目第6回その4」)

 

 

 

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私の好きな遍路道(3) 伊予

私がお勧めする遍路道(つづき)
伊予




1、宿毛街道の道、その1、松尾峠、御荘、柏坂、岩松、松尾峠。 地図:土佐「宿毛付近」伊予「札掛付近」「城辺付近」「御荘付近」「柏付近」「柏坂付近」「畑地付近」「岩松付近」「松尾峠・野井坂付近

真念は「道指南」与州の初めに次のように記します。「これよりいなり(41番龍光寺)へ道すぢ三有。一すぢ、なだ道のり十三里。一すぢ中道、大がんだう越、のり十三里。一すぢ、さゝ山越、のり十四里半。三すぢともに岩ぶち満願寺ニ至ル。」。
その「なだ道」(灘道)と記された道。宇和島手前の松尾峠を越えるまで。古くより宿毛街道のうち最も多くの遍路が歩いたとされるお馴染みの道。私見の要注目箇所を含めて概略辿ります。
宿毛より国境松尾峠越、札掛の先旧赤坂街道の土道、40番観自在寺、そこから繋がる笹子谷への古道、柏坂、つわな奥から由良半島の眺望、上畑地の禅蔵寺、オサカの鼻、岩松から松尾峠越えて柿の木庚申堂・・(なお、江戸期において岩松から宇和島への道は専ら野井坂越であり、松尾峠の利用は少なかったようです。)
(該当遍路日記は「平成25年秋その8」「平成25年秋その9」他)

2、宿毛街道の道、その2、中道、満願寺、野井坂。地図:伊予「城辺付近」「大岩道付近」「小岩道付近」「畑地付近」「岩松付近」                         「願寺付近」「松尾峠・野井坂付近」「祝森付近

40番観自在寺から満願寺までの「中道」は平成25年から29年、地元の中道復元実行委員会の活動により整備・復元された道。(実質的な整備区間は御荘長月の山に入る道から本俵の山を出るまでの道の区間)
この中道は宿毛街道の主道でしたが、言わば「官道」としての利用が専らで、遍路や旅人は早い時期から姿を消したと言われます。この道を歩いて気が付くことは道標や石仏が殆ど見られないこと。私が確認したのは二体の石仏のみでした。
本俵から満願寺の旧道は、今の県道より東の山際を通る道でした。
野井坂越は消えかかった古道の道跡を探りながらの踏査で越えたり、越えなかったりしたものでしたが、この道も平成23年復旧事業により復元されました。少々残念なことは、復元された道は歩き易い道筋を選んだためかと思われますが、古道よりやや東に寄っており、古道にある地蔵などに会えない道となったこと。道復元の難しさを思います。
柿の木庚申堂で中道と松尾峠越の道が合流します。
もう宇和島も近い保田の川を渡る道も旧道の趣を感じます。
(該当遍路日記は「平成25年秋その10」他)

3、宿毛街道の道、その3、篠山越。 地図:伊予「札掛付近」「山北付近」「篠山付近」「祓川温泉付近」「御内付近」    「満願寺付近

篠山越えの道は宿毛街道の道の中で最も厳しいが、それ故にまた魅力に富んだ道であると言えましょう。
この道は札掛の篠山神社一の鳥居から始まります。東へ道をとり昔、猿越と呼ばれた小坂を越え中組へ、安養寺、徳右衛門標石も見る。昔は峠今は篠南トンネルを抜けて山北に入る、歓喜光寺、蕨岡家。御在所の二の鳥居より山道。山頂の篠山神社、観世音寺跡。下り道は安政7年の標石から左へ焼滝に下る道。この道は悪路要注意。
古道は尾根を辿る道で、通行した人もいるようですが、難所。
祓川温泉近くの裏参道二の鳥居も必見。岩陰大師に寄り日限地蔵、少林寺飛大師、御槇神社。
横吹渓谷沿いの道を行き馬ノ渕の大師堂、堂前の徳右衛門標石は盛んな遍路道であったことの証です。颪部で野井坂の道を分け満願寺へ。
厳しく長く、夢のような道でもあります。
(該当遍路日記は「平成28年秋その3」 「3巡目第4回その2」他)




4、窓峠の古道を通って龍光寺へ。 地図:伊予「務田付近

三間町辺り、多くの遍路は新道の窓峠を越え予土線のむでん駅の近くを通って龍光寺に向かう道をとるようですが、峠手前から左に入る旧窓峠越えの古道が残っています。
峠の切通しの先には七度栗の伝説を持つ大師堂(多福院)があります。峠を下り旧道を辿って41番龍光寺へ。
(該当遍路日記は「平成26年春その1」)

5、歯長峠上り下りの道、法華津峠への道。 地図:伊予「歯長峠付近」「卯之町付近

仏木寺から歯長峠に上る道は、休憩所の先が鎖を張った急坂で、伊予の遍路道中でも特徴のある道の一つに数えられるでしょう。
最近その急坂の先の道の一部が崩落して不通となっているようです。従って県道の歯長トンネルを通らざるを得ない状況です。
トンネルを出ると目の前に「四国のみち」が待ち受けていてその道に誘われますが、ここは左に上がる林道を経由しても古道である遍路道を辿り下川(ひとうかわ)へ下りたいものです。やや荒れ気味ですがいい道です。中間点には寛政7年の美しい標石が待っています。
実は、この辺りで私が特に推したい道がもう一つあります。
これまで遍路道であったことはないと思われますが、歯長峠から高森山を経て法華津峠に出て卯之町へ下る道です。(一部は「四国のみち」)
法華津峠から見た宇和海の海の色、島々の影、それらを背にして立つ西村清雄の歌碑。卯之町に下る旧宇和島街道そのままの石畳の道にも出会えます。
私が何故この道に感動し推すのか・・それはもう遍路日記、「平成26年春その1」を見ていただくしかないでしょう。

6、笠置峠越えの道。 地図:伊予「坂戸・笠置峠付近」「東多田付近

この道は札所と札所を繋ぐ遍路道ではありません。九州方面からの人が八幡浜に上陸し、卯之町や宇佐に行くあるいは帰るために越えた道です。
宇佐側の上り口にある安養寺は臨済宗の寺ですが大師堂があります。
道傍には標石や遍路墓が残り、峠には立派な地蔵があります。それに昭和20年代まで峠に茶屋があり、旅人の憩いとなっていたそうです。
この道ほど古い遍路道いや街道の雰囲気を保っている道はそうざらにあるものではありません。地元の人々の心が感じられる道です。
(該当遍路日記 「平成26年春その2」)

7、金山出石寺の山道、瀬田道、地蔵道。 地図:伊予「大洲付近」「十夜ケ橋付近」「金山出石寺付近

金山出石寺は古くからの霊山であり、ここ単独で参拝がなされてきました。地元では「おいずしさん」と呼ばれます。
九州や山陽からも講を組んだ多くの参拝登山が行われ、その出発点は八幡浜や長浜が多かったのではないかと思われます。長浜からは、下須戒、柿の久保、刈屋峠、尻高峰を経る道。八幡浜からは、名坂峠を越え喜木川、野地川沿いに進み、山神坊、防秦野を経る道であったと思われます。
別格二十霊場あるいは四国八十八ヶ所霊場と併せて参拝する場合は、アプローチの利便から大洲からのルートとなります。
大洲からは阿蔵の深井または八幡神社の前から上る阿蔵ルートが最も楽な道。高山を経る尾根の舗装道で、県道248号と交差する所から土道、雰囲気のある参道となります。
この阿蔵ルートに繋がってくるのが地蔵道、瀬田道と呼ばれる道。地蔵道は地蔵堂のある地蔵堂(字)の先から土道、3.6kで阿蔵道に合流します。多くの作業道が交差する道で道筋定めに苦労する所もありますが、最近はボランティアの方の案内札も増えたようです。
瀬田道は多くが土道ですが、沼田と瀬田の集落の所で舗装道となります。県道248交差よりさらに寺に近い所で参道に合流します。この道も迷い易い箇所があります。遍路札や案内札を見落とさぬよう注意が必要でしょう。
(該当遍路日記「平成28年秋その1」 「2巡目第4回その5」)

8、内子前後の古道、五十崎の道、水戸森峠。 地図:伊予「新谷付近」「内子付近

内子の街はたくさんの古いものが美しく保存されていて歩いていても楽しくなりますが、街の前後の道もまたいい道です。
黒内坊の国道との分岐に置かれた徳右衛門標石に「左へんろちかみち」と彫られているので戸惑いますが、これは右にゆく国道が出来た時に後刻されたもの。左の遍路道が歴とした昔からの「大洲街道」であるようです。
入ればすぐに土道となり、春は花の道、秋は黄金の田圃の道となる見事さ。舗装化されないのが不思議に思えます。
思案堂、駄馬池から眺める廿日市の街、ここが内子の発祥地だといいます。
内子の街を抜け、福岡大師堂で旧大洲街道を分け直の道を行くとすぐに水戸森峠。水戸森という地名は江戸時代の記録には見られないようですが、道筋からいってやはり古道でしょう。
峠を下ったところに石浦大師堂。あまり古いものではないと思われますが力の籠った立派なお堂です。村の人々の拠り所として賑わったことを感じさせる堂周辺です。
(該当遍路日記「平成28年秋その1」「平成26年春その3」他)



9、大宝寺へ向かう山道、下坂場峠、鴇田峠。 地図:伊予「宮成付近」「久万付近

内子から44番大宝寺へ行く道は、始めほぼ国道379号に沿い、落合で県道に入り下坂場、鴇田の二つの峠を越える道、これが一つ。
もう一つは先の道の突合から国道380号に沿い、その後、農祖峠を越える山道に繋がる道。この二つがよく知られています。
二つとも古くからの道と思われますが、もう一つ古道がありました。それは国道380号を小田で外れ、県道52号、211号に沿い久万高原町境のほうじが峠を越える道でした。
私は久万高原町の梨の下(なしのさがり)から峠まで上がり、峠から下る微かな道跡を認めましたが下る勇気はありませんでした。右側の林道をクボノに下りました。
国道380号に沿う道は、農祖峠は低く越えるに楽な道なのですが、今は真弓峠を越えることは困難でトンネルをくぐる道となってしまったことが難でしょうか。
このルートの本命はやはり下坂場峠、鴇田峠を越える道ということ。峠付近の現世利益の祈りを見る石造物も他には見られぬ幽玄な雰囲気のものでしょう。
なお、二つの道の三島神社を繋ぐ畑峠の道は協力会が復元したものですが、かつて遍路道であった形跡は少なく、むしろ真弓峠または鴇田峠の閉鎖時の連絡道の位置づけであったかに思えます。
該当遍路日記「平成26年春その3」他)

10、岩屋寺への道、八丁坂、槇谷道。 地図:伊予「岩屋寺付近

多くの遍路は八丁坂を上り、そこで延享5年の巨大な大師宝号石や標石を見、丁石地蔵の並ぶ道を岩屋寺に向かいます。
この道が古くからの参道であることは、寺の山門がこの道の終わりにあることによっても明らかです。参道の途中にあるセリ割行場の様子は江戸時代の「名所図会」の詳細な記述と寸分違わぬもの。また、本堂横上部の岩窟にある阿弥陀像のこと、江戸初期の澄禅や寂本の記述にも現れていたにもかかわらず、最近注目されるようになったのは不思議なことに思われます。
寺からの還り道は、その一部が屡々崩れて不通になるようですが、県道に出ることなく川に沿う道を古岩屋荘まで辿ることができます。
八丁坂に上るもう一つの道は槇谷の素鵞神社からの道。槇谷の集落は、私が遍路を始めた頃の「限界集落」から今は消滅集落に移ったようです。廃屋の傍に立つ「山へんろ道、道険しく足元に注意してお参り下さい」の看板が寂しく残されています。ここから水峠に上り八丁坂上に下る道はやはり厳しく寂しいものです。
(該当遍路日記「平成26年春その4」他)

11、千本峠越えの道。 地図:伊予「久万付近

大宝寺、岩屋寺を打って46番浄瑠璃寺に向かう遍路は、今は峠御堂トンネルを通って三坂峠に向かうことも可能ですが、トンネルのなかった時代には千本峠越えの道は必須の短縮道であったと思われます。今は「四国のみち」にもなっていますが、古道です。
切り通しの峠を下って50mほどの所、元々の道はここから高野の集落に通じていましたが崩落により道が消えて、今は下って上り返す道となっています。最近も道の閉鎖が起こったようで更に下方の迂回路もできています。
高野から下る道は舗装道と土道を繰り返し砕石工場の傍に出ます。新旧の道標も豊富ですので見落としが無ければ迷うことはないでしょう。
この先、三坂峠までの国道33号の周辺旧土佐街道の道が潜んでいます。古道好きは見落とせない・・
峠からは土道の下りです。
(該当遍路日記「平成26年春その4」他)

12、松山へ、今治へ、点々

浄瑠璃寺から松山までの遍路道は、基本的には旧土佐街道、旧讃岐街道を基幹として、寺と寺を繋ぐ道から成り立っています。
松山市街を通って堀江から今治までは、これはもう旧今治街道一筋です。これらの道の中には古道の面影を残す箇所も多く、また短いながら土道も残っています。私の独断となりますが、心惹かれた道の断片を列記しておきましょう。
重信川北岸に僅かに残る旧道。(地図「西林寺付近」) 石手寺から伊佐爾波神社への裏道。(地図「松山市内」)高浜から52番奥の院への山道。(地図「堀江付近」)粟井坂の旧道。(地図「粟井付近」) 鴻之坂を下る道。窓坂越えの道。(この道が旧今治街道。ひろいあげ坂がゴルフ場で潰されたのが残念。)(地図浅海・窓坂付近」)石清水八幡越えの旧道。仙遊寺への道。(地図「栄福寺・仙遊寺付近
」)栴檀寺奥の院(旧本堂)への山道。(地図「栴檀寺付近」) 

 (該当遍路日記「平成26年春その4」「3巡目第6回その3」「平成26年秋その1」他)

13、横峰寺への道、湯浪道、おこや道。地図:伊予「大頭付近」「小松付近」「横峰寺付近

59番国分寺から60番横峰寺へは西山興隆寺や生木地蔵などの番外札所に寄る遍路が多く、札所番号順にまわるとすると大頭から入り湯浪を経る道が最も自然でしょう。
このルートは他に比べ土道は短いものの谷を渡り石を越える厳しい、その段差が膝に負担を強いるのです。
寺に近づいた古坊、昭和20年代まで数軒の人家があったといいます。昔はこの辺りに石鎚山の一の王子社もあったと思われます。今は荒れた観音堂一つ。前神寺との石鎚山別当争いの結果でしょうか。
この道の前半、馬返から湯浪の間、今は県道ですが、昔の道は山裾の道。多くの丁石地蔵や徳右衛門標石も残っているようですが、私の幾度かの挑戦は失敗しています。
横峰寺への他のルート。香園寺から白瀧を経て上る道、小松駅付近から採石場を経る道、いずれも「おこや」を通り寺に至ります。いずれも急坂ですが、段差の少ない歩き易い道です。
(該当遍路日記「平成26年秋その3」他)

14、石鎚山への道について。 地図:「成就社・石鎚山付近

石鎚山への道は成就に近い奥前神寺が事実上札所でなくなった現在、遍路道とはいい難いでしょう。独自の石鎚山参拝道というべきか。
登山ルートをざっと辿ってみます。一つ、横峰寺からモエ坂を下り虎杖、河口、今宮道(または黒川道)で成就そして山頂石鎚神社。一つ、石鎚神社(里宮)から黒瀬峠、極楽寺、河口、今宮道(または黒川道)で成就そして山頂石鎚神社。
石鎚山までの参拝は本来山頂まで続く36の王子社に参る道であると思えます。この道は荒れた厳しい道筋を含んでいます。地図にはその道筋を示しておきましたが、多くは気楽に近づける道ではなさそうです。
該当遍路日記「平成26年秋その5」「2巡目第5回その3」)

15、三角寺、奥ノ院仙龍寺往還の道。 地図:伊予「三角寺・奥の院付近

三島から三角寺、そして奥の院仙龍寺への往き道、市仲から堀切峠さらに平山までの還り道。この10kを超える土道の連続は四国の多くの遍路道の中でも屈指の素晴らしい古道です。
澄禅は奥の院への道を「是ヨリ奥院ヘハ大山ヲ越テ行事五十町ナリ。・・誠ニ人ノ通ル可キ道ニテハ無シ・・峠ニ至テ又深谷ノ底ニツルベ下ニ下・・」と、奥院から平山への道を「件ノ坂ヲ山ノ中腹ヨリ東ニ向キテ恐シキ山ノカケヲ往ク。所々霜消テ足ノ踏所モ無キ細道ヲ廿余町往テ、少シ平成野ニ出ヅ・・」と記しています。やや大仰な感無きしもあらずですが、当時の道の厳しさが感じられます。
しかし、江戸中期までには道沿いに標石も立ち、不動堂近くの大窪には茶屋も建つようになったようです。仙龍寺への参拝の盛況さが伺われます。堀切峠から平山の道は土佐街道の一部ともなる道で、土佐の殿様道であった遺構も見られます。
なお、平山から川之江に至る土佐街道の旧道は新しい道の建設によりその多くが失われつつあるのは残念なことです。
(該当遍路日記「平成27年春その1」「3巡目第7回その4」他)

 

 

 

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