黄金の水田の中の社倉


















     広島県の中央部、加計町下筒賀(現安芸太田町)に、社倉(しゃそう)が残されて
     いるという話を聞いた。社倉とは何か・・  江戸時代の中頃、広島藩は飢饉に
     備え、村ごとに麦を貯蔵する倉を設けることを督促したという。貯蔵された麦の
     一部は年々低金利で貸しつけることも行われ、利殖と救用を兼ね備えた制度で
     ある。
     この社倉は、県内各地に残るものの一つ。小規模ながら、建立時の状態をよく
     伝えているものと言われる。
     山間を縫う太田川に沿った国道を歩いていると、人に尋ねて聞くまでもない、少し
     高い場所の田圃の中に、特徴ある茅葺き屋根と白壁の倉が目に入ってくる。
     純白の壁、塗り直されて間もないようだ。
     黄金に染まりつつある豊かな稲の穂の向こうに、輝くような土蔵・・。
     社倉を設け、運用し、そしてこの時代にまで立派に維持してきた・・。村の人々の
     誇りを見る思いがした。
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山間の街の小さな薬師堂


















     広島県の中央部、山に囲まれた戸河内(現安芸太田町)に願福寺薬師堂がある。
     ある夏の日、行った。郵便局で聞いても知らないという。小さな街の曲がりくねっ
     た道を歩きながら、やっと一人のおばあさんにお会いした。
     「ええ、薬師さんじゃけどのー・・。みんな知らんかいのー・・」
     道と家とに挟まれた狭い敷地に薬師堂はあった。
     願福寺は、鎌倉時代から室町時代にかけては、禅宗の大寺院であったという。
     江戸時代以降衰退し、今は薬師堂のみが残されている。広島県重文指定。
     お参りする。方三間の宝形造り、小さいが立派なお堂である。禅宗様の木鼻、
     出三斗の花の手挟み(写真4)、緩い湾曲を持つ垂木など、かっての大寺の面影
     を伝えるものか。内部の後陣には、薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将などが
     祀られる。
     このお堂の屋根、以前どこかの写真で見た時は瓦葺きであった。この銅板葺き
     と思われる屋根は宝珠とその台座を含め最近の改修によるもの。それが本来の
     形に近いものなのか、私にはわからないが、そのスマートさとその下の木組みの
     重厚さとの違和感を拭うことはできない。
     お堂の扉に、花瓶と花が添えられている。この薬師さんを敬い、愛する地元の
     人々の心を感じるように思った。
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夏の田園、茅葺屋根の家


















     広島の市街からそれほど遠くないこの地、志和(現東広島市志和町)に、多くの
     茅葺き屋根の住居が残されていると聞いた。ああ、前に紹介した「酒造蔵のある
     村」、同じ場所です。6年前の調査では、15棟の茅葺き民家が確認されていたと
     いうことですが、当時も放置状態にあった4棟を除き10棟足らずが残されていま
     した。何といっても、住居として実際に住まわれているものであることが、貴重な
     ことです。維持保存には、大変な苦労がいることでしょう。でも・・、
     緑の濃さを増した水田の稲の向こうに茅葺き屋根の家を見るとき、何と美しく、
     そして何故か懐かしい風景を見たという思いを拭うことができませんでした。

     (暑い夏の日中、燃えあがるような田圃の中の道を歩く。
      「この辺に茅葺き屋根の家がたくさんあるって聞きましたが・・」
      こんな昼、田に出ている人は殆どいない。たまたま水の見回りに来た人を見つけ、
      聞く。丁寧に道を教えていただいたうえ、「夜来れば、蛍が見れるがのー・・
      是非・・」と、熱心に宣伝をされる。村の人は、茅葺の家や里山や蛍を求めて
      やってくる人を待っているのです。
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多家神社境内の校倉


















     私の家からすぐ近くに校倉(あぜくら)造りの建物がある・・と聞いて、自転車で
     出かけた。20分ぐらいかな。
     多家(たけ)神社境内にある宝蔵。小ぶりで迫力には欠けるけれど、立派な校倉だ。
     日本全国に現存する校倉は、あの正倉院を始めとして30余棟と言われるが、
     この宝蔵を除いて、その校木の断面は三角形で内部は平となる。平安時代の
     旧い絵巻物に描かれた算盤珠状の断面を持つ校倉として、唯一の遺構という。
     江戸時代の建立。元は、稲荷社の社殿であったため向拝を有する。広島県重文指定。

     広島の市街地の外れ、鬱蒼とした樹木に囲まれたこの多家神社の地は、その昔、
     神武天皇が東征の折、7年とどまった宮殿があったという伝説を持つ。安芸の国
     の三大社の一つとして栄えた平安時代、社運の衰えた中世を経て、明治になり
     広島城内の稲荷社の社殿を移築して復興する。
     盛夏の内、また暑い日。誰もいない境内で汗を拭いていると・・
     突如!怪獣出現・・・。うっそ、神社によくある、あの神馬でありました・・とさ。
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酒造蔵のある村


















     緑の濃くなってきた田圃の中の道を行くと、
     畦に咲くヒメジョオンの向こうに、
     広い瓦屋根と赤い煉瓦の煙突と、
     特徴のある窓を持った大きな蔵が見える。
     酒造蔵です。
     広島は酒どころ。西条(現東広島市)のように、
     多くの酒造元が集まった場所もありますが、
     一つの村の中央に、一つの造り酒屋さんがある・・
     そんな村もけっこうあったのです。
     ここは、西条から山一つ越えた隣村。
     (村といっても今はここも東広島市の市内ですけど)
     酒造りも経営は大変のよう。廃業するところも多いと聞きます。
     大きな蔵の一部は、レストランなどになっています。
     里山や蛍の川や・・、そんなものを求めて人が訪れる
     のを待っているようです。
     でも、もうすぐ黄金に変る水田の中にしっかりと座る
     この大きな蔵は、きっと昔から村の人の誇りであった・・
     そのように思えるのです。
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