四国遍路の旅記録  平成24年春  その3

丹前峠、白沢峠を越えて牟岐へ

薬王寺から、旧土佐街道であるという丹前(たんまえ)峠越えの道を通って、23番奥の院泰仙寺、戻って山河内の打越寺、そして、白沢から白沢峠(この峠、無名のようですが、ここでは白沢峠と呼んでおきます)を越えて水落、下浜辺の海岸を通って牟岐まで。
泰仙寺へは、5年前になる平成19年春に行っています。印象に残る寺です。
また、白沢から峠越えで牟岐まで行く道は平成21年秋に通っています。この道は古道ながら、現在は「四国のみち」になっているため、よく整備された道です。峠を越えて見た青い海の印象がいつまでも消えることのない、私の好きな道の一つです。

このルートの前半、峠を越えて泰仙寺、それから打越寺という道順は、江戸時代中後期に記されたと言われる「四国遍礼名所図会」に書かれています。この部分の一部を抜粋しておきます。
(廿三番薬王寺の項)
「・・北河内村、河原土手を行ク。丹前坂、森の内社の側より登ル。西河内村、谷川渡リ。是より玉づしヘ十丁。玉津志観音本尊、観音庵、是より窟迄三丁登る。・・西河内村亦川渡る。山河内村、西河内自リ廿五丁ナリ是迄谷川数十在。打越寺、往還の右の方山側有、辺路人ノ為大守様御建立・・」

薬王寺から国道55号を少し戻り、日和佐川に架る橋の手前を左へ。1k少々で丹前の集落。
田圃の中の真直ぐな道の先に玉木八幡神社の森が見えます。
神社の左が丹前峠越えの道の入口です。
入口の左に駆上り地蔵堂があります。この地蔵には「寛政九年(1797)西河内村丹前講中」と刻まれているそうで、もともと丹前坂(峠)に祀られていたものを明治の終りに、ここに移したといいます。
この場所が何故駆け上りなのか、ちょっと理解できませんが、今は学業成就など子供の願いを聞いてくれる地蔵としておられるとか。ちょっと縁起の発生の様を見るようですね・・
道はゆるやかに上ります。さすがに旧土佐街道であったことを偲ばせる切り通しの道の形が残っています。今は通る人も殆どいないようで、日の当たる場所は一面の羊歯に覆われている所もあります。
峠の直下で「道が無い・・」と思わせる所がありますが、よく見通せば、大きく右折左折を繰り返し、切り通しの峠に到着です。
峠に地蔵が居られないのはやはり残念なこと。
下り道は上りよりよく整備されています。おそらく、旧道の一部は後に造られた林道に吸収されていると思われます。林道特有の迂回道で、直登の道筋ではありません。
すぐに府内の県道36号に出ます。約3.2k、1時間50分の峠越えでした。

丹前峠への道

丹前峠への道、羊歯の繁茂

丹前峠の切通し

ここから23番奥の院泰仙寺に参ります。
短いけれど急な道の参道。以前のお参りの印象と変わらぬ趣あるお寺でした。昔の記録にある窟へは寺よりさらに上りますが、ちょっと危険な道です。
山河内に戻って、打越寺にお参り。この寺はご住職も常住される里の寺ですが、由緒ある寺にもかかわらず何とも寂しい風情です。
その直前、県道36号と国道55号の分岐近くに茂兵衛道標219度目、明治40年があります。

山河内川


白沢の田圃

山河内から白沢(はくさわ)へ。ここから峠を越えて、南阿波サンラインを渡り、灘、水落そして牟岐へ。
白沢の畑から声がかかります。「これから峠越えかのー・・ごくろうなことで・・」 
3年前は台風の後だったでしょうか。荒れた道の印象はきれいに払拭されていました。さすが「四国のみち」ですね。
仰げば杉の枝の見事な密生。この度は鹿の足音は聞けませんでしたが、峠(「四国のみち」の標示は「山頂」ですが)では懐かしい地蔵にも会えました。
「東牟岐へ七十丁/薬王寺へ二リ」。(刻字は「楽王寺」ですが) 「東寺へ・・」の刻字はありません。古道ではあっても、昔から遍路道のメインルートではなかったのかもしれません。

ここで仮に「白沢峠」と呼んだ峠は、昔は「ゲダノタオ」と呼ばれていたようです。(徳島民族学会「阿波学会紀要43」橘禎男)報文では「この辺り昔はよくお化けが出たので、お地蔵さんを立てた」という地元の人の話を載せています。ゲダはゲドウの意(ゲドとも)。外道は仏教以外の真理に背いた教えを言いますが、転じて人に憑依して害をなす霊、あるいは獣を指すこともあるようです。

(追記)「虫送り」について
白沢から南東へ1.5k程、標高285mの峠は昔より「サデモリノタオ」と呼ばれていました。
この地方では昭和の初め頃まで、稲の害虫を防除するための「虫送り」の行事が行われていたと伝えられています。
虫送りの日は打越寺に集まって、日和佐の浄光寺から借りてきた大きな数珠をまわして祈祷した後、里芋の葉にオガ(害虫)を包んだものを1.2m 位の笹竹にぶら下げて「サイトウ ベットウ サーデモリ」と言いながら、峠まで持って行って捨てるといった単純な行事。
「サイトウ サデモリ」とは、源平合戦で活躍した平安時代末期の武将、斉藤別当実盛のこと。実盛と虫送りとの関係については様々な説があるようですが、一つには木曽義仲軍と戦った際、馬が稲株につまずいて転倒したところを源氏方の武将に討たれて無念の死を遂げたとされ、その死の原因となった稲を祟って害虫になって現れるというもの。実盛の怨霊を地域の外に送り出すことが虫送りの目的とされる。
海陽町樫ノ瀬地区の事例が紹介されています。そこでは、虫送りの行列は「サイトコ ベットコ ウッテントン イネノムシャー トサヘイケー」(その後に「トサノツギハイヨニユケ」と加えられることもあったという)と唱えて進むとされる。
虫送りの行事は日本各地に伝えられていますが、特に瀬戸内海周辺地域の虫害は厳しかったと言われます。
2011年、映画「八日目の蝉」の撮影を機に復活した小豆島中山地区(千枚田で知られる)の虫送り。それはその本来の目的と姿とはかけ離れたものかもしれませんが、ロマンな感情を掻き立てるものとなりました。松明に火をともし、千枚田を下る行列はさすがにサデモリとは詠わず「トーモセ トモセ」と声をあげます。
コロナ禍の現在、過去の人々は様々な自然からの禍(わざわい)を受け止めて生きてきたこと(この「送る」という言葉のなかにこそ・・)を、より現実感をもって認識できるように感じられます。(参考文献:阿波学会研究紀要第43号「日和佐町の峠道」(1997.3)他)              (令和4年2月)


天を仰ぐ(峠付近)

白沢峠

峠の地蔵


峠を越えて見た青い海



峠を越えて見た青い海

道下の潮騒

海沿いの道を行く


海沿いの道を行く

峠を越えると、もう木の間越しにちらちらと青い海が見えていました。
サンラインを渡って、水落の簡易舗装の道に入ると、海は目の前いっぱいに拡がっていました。
道の際、眼下の崖の下では白波が騒いでいるし、空には掃いたような雲。三年前と何も変わっていないように思えます。
所々に隠れたような家はあるのですが、車1台にも会わず、人1人にさえも出合わず、寂しさは一層増しているようにさえ思えました。高知神社の素朴な掲額も、地蔵堂の南無地蔵菩薩の赤い幟もそのままで・・
牟岐少年自然の家の立派過ぎるような建物を左に見て、下浜辺の浜の道を行きます。
若い親子連れの姿。
浜の岩に足を伸ばして座りこむ遍路は、小さな女の子から「こんにちはー」の声を戴きます。

下浜辺沖、岩上の釣り人、島は右より出羽島、津島、大島


下浜辺の浜

                                             (平成24年4月15日)

 山河内付近の地図 辺川・白沢付近の地図を載せておきます。


海部の峠を越えて

牟岐から高知県県境までの遍路道は、協力会のへんろ地図によれば、その殆どが国道55号を通ることになっています。山が海に迫っていて、道が自らの場所を選ぶ余地は少なく、昔の土佐街道も今の国道に近接していますし、復元または維持されている旧道も厳しく危険な箇所は殆どありませんから、私のような旧道好きならずとも通ってみたいと思う人が多いのではないでしょうか。
牟岐を出て先ず通るのが大坂峠の道。草鞋大師を経て内妻ノ浜を歩き松坂峠へ。そして古江ノ浜へ。
そうそう、この草鞋大師。協力会地図などでは大きく表記されているので、当然お堂の中と思い勝ちですが、もともと峠にあったものを移してきた露天の大師像なのですね。ちょっと戸惑います。
古江ノ浜から先は、少々国道を歩いた後、福良トンネルの前から鯖大師の境内に直接入る山越えの道に繋がります。
この辺りは昔から八坂八浜と呼ばれた道なのだそうで、真念も坂や浜の名を詳細に書き留めています。
大坂峠の旧道は、現在の道より下の山裾を通り、急坂で一気に峠を越えていたようですが、復元された道の方がずっと楽だと思えます。
浅川と海部川周囲の小さな平野を経て旧道は二つの山越えの道。奥の方から、居敷越そして馬路越です。
那佐に出た道は宍喰を経て土佐国境の峠道へ。ここも二つの山越えの道。元越と古目峠越えとなるのです。
ここでちょっとご注意。居敷越の南の出口の近くから海岸寄りに入り海崖の上方を越す短い道があります。「旧土佐街道」の標示はありますが、この道だけは入らない方がよいでしょう。ちょっと危険な道です。

大坂峠から

松坂峠から

朝から雨が続く日でした。八坂八浜の道を歩いた後、鯖大師八坂寺にお参りしました。境内には立派な多宝塔もでき、寺勢の盛んなことを感じさせる寺です。
以前、その南側からの入口が発見できず(近所の人に聞いたが結局わからなかった・・)通行していない居敷越の道を北側から歩くことにしました。
海部川橋を渡って、母川の畔を西に行きます。
母川はオオウナギの生息地として有名ですが、水もまた畔の緑もとても美しい川です。
この母川という川の名、何か意味ありげな名ですね。その由来について、真念の「道指南」に紹介されて」います。おもしろい話なので、口語私訳で引いておきましょう。
「空海が巡礼をしていた折、この地に来ると、日照りで山の妖怪の鬚も焦がれ、川の魚もいなくなったというのに、一人の女が遥々と山奥から水を汲んできていた。空海が一滴を請うと女は、日照り続きで幼子一人二人の渇きを見るに忍びず命懸けで岩窟から汲んできた水ではあるが、幸いに今日は母のきぎの寿なので坊様に差し上げようと言って、惜しげもなく空海に水を与えた。女の誠の慈悲水を空海が加持すると、水は溢れて月浮かぶ川となり、どんな日照りでも涸れることがなくなった。・・」


母川




居敷越を望む

居敷越の道

峠の地蔵

4kほどで西山です。
雨は強くなっています。山道にはちょっと不向きですが、ポンチョを着たまま、山道に入ります。
さすが旧土佐街道。入った当座は整備の行き届いた立派な道です。
神社は近くには見あたりませんが、鳥居だけがポツンと立っている所。そこから上り。
その先分岐がありますが、ここも上る方を選びます。この辺の道選びは勘に頼るしかありません。
峠には二体の地蔵があります。1体には「櫛川村子安堂 法道寄進」と彫られているようです。
櫛川は居敷越の入口から母川に沿って1、2k奥に入った今も残る地名です。
峠からの下りはやや荒れた道となります。
南側の出口は2、3m藪漕ぎ。コンクリートブロックの上の細い道を造成された空地に下ります。
よく見れば道跡、赤杭もあります。でも振り返れば道があるようには見えません。以前、入口を探った所は数メートル下。判ってしまえば手品の種明かしのようなものなのです。

那佐からもう一つの峠道、馬路越を今度は南から北へ抜けます。ここは以前にも通ったことがありますが、さすがに馬でも通ったであろうと思わせる石垣を積んだ広い道が残っています。
峠からは眼前の那佐湾の眺望が素晴らしい。(この道は、地元のウマジン(HN)さんが、整備に努められていると聞きます。ありがたいことです。)
ただ、北側から入った場合、山道に入ってすぐ右側の谷を上る道があり、こちらの方が古い道のようですが、南側の出口が崖で出られない恐れがあるようです。注意が必要です。
(追記)この馬路越の道、国土地理院の地図に記載されていますが、現在(私の通行時)最も通行し易いルートはそれとは若干異なるようです。下に地図を追加しておきましたので注意して通行してください。(太赤点線が私が通行したと思われるルート)

二つの峠道を歩き終え、鞆浦の宿に入ります。敢えて名前は書きませんが、町営で遍路には立派過ぎる宿です。
ここから見る那佐湾の夜明けは、また素晴らしいものです。(これは翌日)

宍喰の海岸

                                             (平成24年4月16日)

(追記)八坂八浜から母川への道
八坂八浜を過ぎ母川に至る道の事、これまで書いたことがないように思います。ここに記憶を辿りながら追記しておくことにしましょう。
 真念の「道指南」(1687)には次のように記されます。
 「・・いせだ川、しほミちくれバ河上へまわりてよし 〇いせだ村〇あさ川浦、大道より左に町有、〇いな村、観音堂あり。・・・〇からうと坂、これまで八坂の中、八浜の中、〇めんきょ村、大師堂有、・・」
 これに続いて、奥浦、鞆浦という賑わった港があるが主道を外れるため、両浦の人が遍路の便を図り、直接那佐に抜ける道を開いた・・というようなことが記されます。
 なお、「めんきょ村」は年貢放免の村で四方原村にあたります。
 伊勢田川を越えて浅川に入った所、右手の小高い丘に天保3年の地蔵や天保8年の弥勒菩薩があり目を惹きます。
 「道指南」文中にある「いな村、観音堂」も気になるところ。江戸時代の地図からは「いな村」の表記を見つけることはできませんが、今も港近くに「イナ」の字名が残っています。港を見おろす丘上の観音庵がこれにあたるとみてよいようです。
 この地は江戸時代から昭和にかけて数度発生した南海地震(いずれもM8.4クラスの大地震)の津波の被害を直に受けたところでもあります。慰霊碑や記念碑が数多くみられます。挙げれば・・ 弥勒菩薩付近の昭和南海地震(昭和21年)の津波死没者供養塔。天神社境内の安政南海地震(嘉永7年(1854))の津波碑文。観音庵の地蔵台石に刻まれた宝永地震(1707)の津波碑文(正徳2年(1712)建立)
「宝永四年丁亥十月四日晴天/日暖ナル同未刻俄大地震暫有/終テ後大海ヨリ髙サ三丈(9m)計ノ大汐指込/浦上村カラウト坂ノ麓迠上リ即刻/引汐ニ浦ノ中千光寺ノ堂一宇殘/有來在家不殘一軒モ海底引落/猶又流レ出ル老若男女百四拾人/余悉ク溺死仕〇依之右亡者/為菩提ノ此石像ノ地蔵〇一躰/致供養奉案地者也」。
観音庵石段に安政南海地震、昭和南海地震の津波の到達点を示す石標。など・・
更に一つ加えておきましょう。
古くより浅川から熟田(ずくだ)の庚申堂へ参る道として熟田越があり、今は新道と変わり一部残る旧道の峠(80m)に祀られる地蔵の一体が嘉永7年の地震碑となっています。(嘉永7年建立)碑の側面には次のように記されます。(海部郡誌)
「寛永度より嘉永7寅年迄百四十八年目なり 干時嘉永七寅年十一月四日辰刻晴天日並よく海上浪静穏にして暖気を催しする時候に背きしかる干天地震動して大
地震潮町中へ溢れ込猶また翌五日申刻大地震並津浪之高サ三丈餘(約十メートル)も山ノ如くニ押来リ諸人周章あへり山上へ逃登り海邊之人家流失野原と相成事也 施主 大里村 銀兵エ」  (R1年8月 R4年11月追記)

 「めんきょ村」以降、「四国遍礼名所図会」(1800)の記述を見てみましょう。
 「・・免許むら放れより左の方鞆浦 奥浦 町家有、陣屋見ユル、大川 船渡し四文宛、野辺村、大師堂右手に有・・」と記されます。
 現在、海陽町博物館に保管される真念石の元位置は旧道(江戸初期開設の土佐街道:この付近は現在の県道299号にほぼ重なる)が現在の国道と交わる辺り(海陽町大里片山1-2付近)とされています。ここより南西に旧道を進み県道193号を越して海南変電所の傍を通り海部川(「名所図会」に云う「大川」)に近く道が消える辺り、草叢に「渡しの地蔵」を見ます。(添付の地図を参照ください。)その先が「さいもんじ(「才門次」あるいは「西文字」をあてる。)渡し跡」です。この渡し、昭和10年頃まで運行されたと言われます。 
 越えれば母川の近く、旧土佐街道は馬路越の山路です。                    (R1年8月追記)

 

牟岐付近の地図浅川付近の地図海部付近の地図を載せておきます。

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コメント
 
 
 
耳慣れない地名 (やすし)
2012-05-15 21:36:04
5巡目の私ですが知らない地名の連続で、枯雑草さんの足跡を追うのに地図ソフトを立ち上げて地名を探しながらどのあたりだという見当をつけています。事前の下調べも入念ですね。私にはまねができません。同じ宿に泊まったこともあるようです。近いうちに遍路道でお会いできるような気がします。
 
 
 
やすしさん (枯雑草)
2012-05-16 08:56:52
こんにちは。
この頃は、ちょっと旧道に凝っていまして、
調べては探っています。捩じくれ遍路です。
次回にも書きますが、通れない道が多く、
残念・・の連続です。
また、よろしくお願いします。
遍路道でお会いできる日を楽しみにします。
 
 
 
ピンピンシニアさん (枯雑草)
2012-05-20 22:18:57
こんにちは。そうですね、この時はけっこうな雨でした。
この辺りは峠といっても旧土佐街道の道ですから、
標高差は200m以下程度です。
 
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