四国遍路の旅記録  三巡目 第8回 その3

遍路道に復帰、弥谷寺から善通寺まで  (平成23年10月4日)

71番弥谷寺の手前6kほどにある宿を出て、弥谷寺、別格18番海岸寺、72番曼荼羅寺、73番出釈迦寺、74番甲山寺そして75番善通寺まで行きます。
本山寺から弥谷寺への道は、協力会のへんろ地図(但し、私のは第8版)では国道11号となっていますが、実際の道のへんろシールは旧道に貼ってあります。車の少ない、いい道なのですが、宿の女将の話では「距離が長くなるので国道を歩く人の方が多いよう・・」とのこと。

弥谷寺では、すっかり有名になった俳句茶屋の前でも、本堂の前でも多くの遍路にお会いしました。オーストラリアの女性の方にも。
弥谷寺の周囲の岩壁の様子は、他の寺とは異なる独特の幽玄な雰囲気を醸し出しています。
澄禅もその様子を詳細に記述した上で、本堂横の岩壁について
「・・又一段上リテ石面ニ阿弥陀ノ三尊、脇ニ六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉り。九品ノ心持トナリ。・・山中石面ハ一ツモ残サズ仏像ヲ切付玉ヘリ。・・」と。
澄禅の時より360年を経て、風化は進み多くの仏の姿は朧になってきたでしょうが、今も本堂横の阿弥陀三尊の姿は明瞭であるし、その横の岩面の中に多くの仏が隠れておられるのを想像するに難くないのです。

弥谷寺参道


仁王門

 参道の観音菩薩(金剛挙菩薩)


弥谷寺本堂横の岩壁、多くの隠れた仏・・


弥谷寺本堂横の岩壁、阿弥陀三尊


(追記) 弥谷寺の大師堂、獅子之岩屋について

現在、弥谷寺大師堂の奥にある獅子之岩屋と呼ばれる場所は、大師との所縁の深さで江戸時代を通じて(あるいは、もっと以前から・・)寺の信仰の中心となっていたように思えます。しかし、江戸期から現在まで寺の伽藍、岩屋、仏像、石造物などの変化とともに、参拝者に伝えられる信仰意識の変遷が見られるように感じられます。江戸期の記録よりその概要を追ってみたいと思います。
まず澄禅「四国遍路日記」(承応2年(1653))の弥谷寺の項。直に岩屋の記述に入る。
「寺ハ南向、持仏堂ハ西向ニ厳ニ指カゝリタル所ヲ、広サ二間半奥ヘハ九尺、高サ人ノ頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固ニ切入テ、仏壇ハ一間奥ヘ四尺ニ是モ切入テ左右ニ五如来ヲ切玉ヘリ。中尊ハ大師ノ御影木像、左右ニ藤新太夫夫婦ヲ石像ニ切玉フ。・・・東南ノ二方ニシキイ・鴨居ヲ入テ戸ヲ立ル様ニシタリ。扨、寺ノ広サ庭ヨリ一段上リテ鐘楼在、又一段上リテ護摩堂在、是モ広サ九尺斗二間ニ岩切テ口ニハ戸ヲ仕合タリ。・・・又一段上リテ石面ニ阿弥陀ノ三尊、脇ニ六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉ヘリ、九品ノ心持トナリ。又一段上リテ本堂在、・・・本尊千手観音也。・・・」
次に寂本「四国偏礼霊場記」(元禄2年(1689))剣五山弥谷(やこく)寺千手院の項。
「本堂千手観音大師の御作、不動 毘沙門を脇士とせり、」と記した後「護摩の岩屋二間四方」、「高野道範阿闍梨の像」を記す。その後「聞持窟は九尺に二間余内のまはり岩面には五仏・虚空蔵・地蔵等切付られたり。又大師の御両親に擬らへ玉ふとて、弥陀・弥勒、石像に作り給いけるあり。今の人直に大師の御両親とぞ拝みけり。又大師の御影もあり、いにしえは木像にてありけるを石にて改め作り奉る。・・・本堂の左の磐石に弥陀三尊、六字の名号九くだり大師の御筆にあそばしたり。・・・」
寛政12年(1800)の「四国遍礼名所図会」。
本堂等の記述に続き「・・・護摩の窟、大師護摩御修行のごまだんあり、権現社、窟の上にあり・・・十王堂、ごまの窟より下り、観音堂、十王堂に隣る、本尊三十三の観音、奥院大師堂、茶堂の側より上る、求問持の窟、大師堂の後にあり、大師御父母の像あり・・・」また、仁王門より大師堂方面に至る道傍には、仁王門、祖谷坊、穴薬師堂、灌頂川、法雲橋、船石名号が図示・記述されています。
終わりに絵図として見事な金毘羅参詣名所図会(弘化4年(1847))の弥谷寺図を掲げておきます。この図では仁王門の後に二天門、丈六金仏などが加えられています。また、「求聞持厳窟」の解説として「四国偏礼霊場記」の記述がそのまま用いられています。


金毘羅参詣名所図会 弥谷寺(下部)


金毘羅参詣名所図会 弥谷寺(上部)
                                     (令和2年12月追記)

(追記) 天保15年弥谷寺絵図について

江戸時代およびそれ以降現在に至る弥谷寺の宗教スタンスの変化を見てきましたが、特にこの寺は古くより多様な要素を有しており、その変化は一挙に成った訳ではありません。江戸時代末の寺の姿は、上記の「金毘羅参詣名所図会」に示されています。奥の院(大師堂)以北本堂に至る様相は、これ以降現在を含め大きな変化は無いと見られますが、問題は山門から大師堂に至る箇所です。実はこの部分、上記の絵図には若干の誤り(あるいは脚色)があると思われます。そこで、新たに天保15年(1844)の中川法眼馬嶺画の弥谷寺全図(香川県立図書館デジタルライブラリー)をもとに大師堂までの寺域の様子を追ってみたいと思います。
絵図の寺参道に「是ヨリ本堂ヘ八丁」の書き込みがあり、その右側に「大門跡」の立札、左側に堂(今の八丁目大師堂の位置)が絵描かれます。現在もこの辺り「大門」、その南に「寺地」という小字が残ります。昔は寺域がここまで拡がっていたこと、そしてこの位置に大門(仁王門)があったと思われます。(大門は寛永年間に大破したという記録も残されているようです。)
その後に中門(元々多聞天、持国天を安置する二天門)が再建され、仁王像が安置されるようになって「仁王門」と呼ばれるようになったと思われます。(現在の仁王門) 
大門跡と仁王門との間には、遍照院、安養院、和光院、青木院、巧徳院、龍花院、右方の分岐道(曼荼羅寺への道と思われる。)の先に大師七才作穴薬師、薬師院と多くのお堂が見られます。これらのお堂は、修験者、高野聖、念仏僧の拠点であり、主に念仏信仰の広まりに貢献したと見られています。(現在は「俳句茶屋」が見られるのみ・・)
分岐道の先には初地菩薩。(曼荼羅寺道を経て弥谷寺へ人を導くため、そのスタートであり、現在の碑殿上池畔の大地蔵がこれに当り、終点(十地)が寺内の金剛挙菩薩である・・との説もある。因みに絵図の初地菩薩の横に「東入口初地菩薩 石像御長一丈六尺」とある。)
仁王門の先に船ハカ(船石名号)。法雲橋を越えて二天門、そして丈六金仏(金剛挙菩薩)。(このあと大師堂までの部分、今は赤く塗られた長い鉄階段となっています。)
以上、寺内大師堂までの諸元、あらましとします。


天保15年(1844)の中川法眼馬嶺画 弥谷寺全図  (クリックで拡大)

                                (令和4年6月追記)  
                            


弥谷寺から山道を通って、白方の海岸寺に参ります。
後ろから一人、私についてくる人がいます。見ると先ほど会ったオーストラリアの女性です。
「コレハマンダラジへユク道デハナイノデスカ・・」
曼荼羅寺へは一番下の石段を弥谷寺とは反対に行くのだと説明すると、
「オーザンネン・・」と戻って行きます。
この白方へのルートは、澄禅は「・・峠ヨリ真下ニ岩クミノ谷ノ間ヲ下ル・・」と書き、真念も「・・白方へかけぬれバ山越に行道有。・・」と書いているように昔からの道なのです。
先日の台風で荒れているのでは・・と心配しましたが、それほどのことはなく、比較的楽に下れます。ただ、元々谷に沿った道ですから雨の日は止めた方がいいでしょう。
峠の三十三番から始まる西国三十三観音仏を辿りながらの下りです。余談ながら、この石仏とても見事な彫りだと思わせられます。
途中、1箇所、倒木が道を塞いでいますが、ここは山側を迂回するのが安全です。
十五番仏の場所に天霧八王山奥の院があります。
やがて砂防ダム。ダム堤の上(ほんとは上がってはいけませんが・・)から見る白方の街、多度津の港、その向こうの瀬戸の海、粟島・・見事な風景です。

白方へ下る道、峠

砂防ダムからの展望

海岸寺奥の院二重塔が見える

ここから下る道がない・・と慌てないこと。ダムの右手、草に覆われてはいますが、階段があります。階段が見えるよう少々草刈りをしておきました。
海岸寺奥の院の二重塔(多宝塔ではない、珍しい二重塔なのです)が遠くからよく見えます。
別格18番札所の海岸寺と奥の院は少し離れた所にあり、大師堂が奥の院にあるという変わった形式。それと奥の院の方がお堂が立派で広い境内を持っています。
どちらでも、「まあ、上にあがってお参りを・・」言われますが、私はこの度は別格霊場では納経はしないこにしているので「こちらで結構です・・」と遠慮します。
大師の母、玉依御前の屋敷跡と言われる仏母院にもお参りします。
正式名は八幡山三角寺仏母院。玉依御前がこの地の産土神、熊手八幡宮(今も仏母院の北、300mほどにあります。昔は白方八幡宮と呼ばれたとか)に祈り空海を出産したといわれます。山号はその由来。
京都、東寺の鎮守に八幡宮が存在するのもこれに係わるとか。まさに大師のルーツの地なのです。
県道217号を南にとり、曼荼羅寺に向います。72番曼荼羅寺にお参りし、73番出釈迦寺に。
おーそうそう、今年の春遍路以来、ちょっと凝っている標石のこと。今回は出釈迦寺から76番金倉寺にかけて、中務茂兵衛の添句標石について下調べしてきました。
でも、その目的なら別ですが、目も悪いことも手伝って、時間に追われる遍路の途中で標石を探すことの難しさを実感。見つかったものも、そうでなかったものもあります。結果だけは逐次書いておきましょう。
曼荼羅寺から出釈迦寺へ向う道、五差路の角にある標石はすぐ見つかります。これは、明治29年、151度目のもの。
探していたのはもう一つ、旧坂口屋の前にあるという、明治28年、140度目。これには「鶴多ちし あとへ往天徒(ゆきてつ)む若菜可那 吉備・津太嶋」の添句があるといいます。
茂兵衛標石には珍しい内容の句。自分の句ではなく、吉備・津太嶋が作者ということでしょうか。
坂口屋が改装工事を経たためか見付けることができませんでした。
出釈迦寺の納経所で、ついこの標石のことを聞くと、どうしてだか、若いお坊さん?は途端に不機嫌。
「寺の参道には標石は一切ありません・・」
実は奥の院捨身ヶ嶽禅定に参るため、荷物を預かってもらおうとしていたのですが、それを言いだす機会を失いました。
捨身ヶ嶽禅定は諦め、その代りといっては変ですが、東へ1kほどにある西行庵を見ておくことにしました。なかなか立派な庵でした。当然、当時のものが残っている訳はないのですが、地元の人の西行に対する親しみと尊敬を感じさせるものです。(主として歌の評価でしょうけれど・・)
西行庵といえば、奈良県吉野山の奥にもあった・・見に行ったことがあります。そこの庵よりづっと立派なものです。


出釈迦寺奥の院を望む

西行庵

西行庵辺りから見た弥谷山、天霧山、吉原大池

74番甲山寺に向います。
ここでまた茂兵衛標石。曼荼羅寺から甲山寺への遍路道は二つあり、県道48号を通らないと、この標石には出会えません。
ちょっと探しました。T字路の角、M自転車店の前です。明治44年、241度目。
添句「まよふ身を 教えて 通寿(す)法の道」。茂兵衛さんが最も好きであった句のようで、同句標石は他に4基あるといいます。
75番善通寺。本堂境内はがらんとしています。三度目のお参りになりますが、境内にお店が一軒もないのは初めてのこと。
五重塔に対面した佐伯祖廟や寺領の元の氏神という五社明神、大楠などもゆっくりと拝観してから宿坊に入りました。
宿坊では嬉しい出会いもありましたが、遍路の方ではないので、これは秘密、省略しておきましょう。

善通寺

善通寺


善通寺


 善通寺五重塔

善通寺本堂の屋根



雨の中、寄り道までして・・善通寺から国分寺へ  (平成23年10月5日)

善通寺、御影堂での朝のお勤め。以前に参加させてもらった時は、読経の声の背後で鳥の声が随分聞こえたように記憶していましたが、今朝は殆ど・・
そうなんだ、雨なんだ。御講話も「自然を恐れず、付き合っていこう・・」といった平易ないいお話でした。
カッパを着て、76番金倉寺に向います。
寺の門前、見ておきたい茂兵衛標石があります。
明治24年、121度目。「真如乃月 かゝや久や 法の道 冷善」の添句。
茂兵衛さんらしい句に思えますが、冷善というのは作者なのでしょうか。
もう一つ、明治35年、192度目。「煩悩の暗を破りて 介(け)ふ能月」とこれも月が出てくる標石があるということですが、見付けられませんでした。
(:追記: 私は、添句付きの茂兵衛標石について、ある研究者の方の資料に依って事前調べを行ったのですが、この明治35年、192度目の標石については、別の方から3番札所、金泉寺にあると指摘をうけました。調査資料の誤記(誤植か?)であったようです。)

その代りという訳ではありませんが、境内の大師堂横に、明治21年、100度目の標石がありました。この標石にも句のようなものが彫ってあるようですが判読できません。(下調べをせず、現地で古い標石の字を判読することは困難なことです。)
茂兵衛標石に添句が多くなるのは100度目以降ですから、もしこれもそうであれば初期のものということになります。
(:また追記です: この茂兵衛100度目の標石、ある人の調査によれば 「花の香やいと奥婦可支(おくふかき)法の道」の添句があるそうです。)
昨日、曼荼羅寺の境内では見たような記憶がありますが、寺の境内にある標石というのは、極めて少ないという気がします。中務茂兵衛は明治10年(この年までにすでに30回の遍路を行っていたと言われます。)この金倉寺で得度をしているのです。茂兵衛さんにとって特別の寺なのですね。

金倉寺山門

 門前の茂兵衛標石、「真如乃月・・」

大師堂横の茂兵衛標石

葛原正八幡の彼岸花

道隆寺山門

77番道隆寺への道。葛原正八幡神社の森陰の彼岸花、印象に残ります。
遍路道と併行して西に1k余り、金毘羅街道の一つ、多度津街道が走っています。実は雨でなければ通る積りでしたが、少しでも歩く距離を短縮するため止めにしました。でも、道隆寺にお参りした後、多度津街道の出発点、多度津の街だけは見ておきたく寄りました。
(多度津の町には親戚の家があります。日頃付き合いはないのですが、突然顔を出すのも・・。その首尾はここでは書かないことにします。)
古い街並が残ると聞く「本通り」を歩きます。確かに格子を顔にした土蔵造りの古い家が残っていますが、それらの間には新しい家が建っていて、街並としての統一性を欠いています。
街並保存地区にはならなかったよう・・旧いものを見に来る観光客や金毘羅街道の昔を追う人にとっては残念なことです。
「この辺が旧い街並が残っている所ですか・・」道を歩く人に聞きます。
「はい、そうやわ。この辺がそういう所やわ・・」 とちょっと済まなさそうに言います。
街に残る石燈籠には金毘羅と明和6年(1769)、天保9年(1838)の文字を見ましたが、鳥居のあるお社は金刀比羅宮でした。
私の母は、岡山県玉島(現倉敷市)の生まれですが、昭和の始め、子供の頃、玉島の港から船で多度津港に渡り、金毘羅参りをしたものだ・・とよく聞かされたものでした。
もうその頃は、多度津の街と金毘羅街道の賑わいは去っていたのでしょうが、そのいくらかかの余韻は残っていたのではないか・・ 想いを巡らすのみです。

(追記) 多度津街道の石造物
本文では素っ気なく書いちゃいましたが、多度津の街中を歩いたついでに、町内の金毘羅多度津街道に関わる主要な石造物について纏めて記しておきましょう。これは備忘のためでもあります。
港から桜川に沿って南下、対岸に須賀金毘羅神社を見て本通の旧い街並みに入ります。さらに南下、再び桜川に出合い、越して50mほど。右に金刀比羅宮に小社。その前に明和6年(1769)(写真)と天保9年(1838)の金毘羅灯籠が並びます。前者はこの辺りで見る最も古い年代。
桜川まで戻り川沿いの道を西へ150mほど。鶴橋の手前に嘉永元年(1848)の道標「右いやたに道/左古んひら道/右ふな八」(「ふな八」は船着場のこと)。橋を渡ったところに文化12年(1815)の金毘羅灯籠(周防岩国の人の寄進)。多度津街道を南下、200mほど。ここは金毘羅一の鳥居(寛政6年(1794)出雲松江の人の寄進)と天保11年(1828)の金毘羅灯籠一対(芸州広島の人の寄進)があった所(道路面に表記)。今は桃陵公園に移設されています。
街道をさらに南下、2kほど。三井に廿二丁と二十八丁の丁石が残されています。(いずれも周防岩国人寄進、個人宅保管)(三井は古代には南海道が通過していたところと言われます。)
街道を少し外れたところでは、仲ノ町、摩尼院西交差点に明治14年5月の道標「すく 金刀ひら道/右はしくら道/すく ふな八」があります。(「金刀ひら」の表記に注意)
こんなところです。

多度津の旧い街並

多度津の旧い街

多度津の旧い街

多度津の旧い街

明和6年の金毘羅燈籠


雨は降り止みません。丸亀の街を通り、78番郷照寺へ。そして坂出の街を通り79番高照院へ。ひたすら我慢の歩きです。
高照院の先から遍路道は綾川の畔を通りますが、私は国道11号で直進して、白峰の麓にある神谷神社に寄ります。
神谷(かんだに)神社は延喜式内の古社で、現存する本殿は鎌倉時代初期のもので、三間社流れ造りの古流を伝える日本最古の建築として国宝に指定されているのです。
以前から一度は見ておきたいと思っていたもの。
神谷の小さな集落の奥、森に入ったところに神社はありました。
実際に拝観すると、小さな何処にでもあるといった神社で、やや期待外れの感は拭えないし、雨が強く、まともな写真も撮れなかったのですが、人の気配もない白峰の森の中に潜む古社の雰囲気に浸ったものでした。

神谷神社

 神谷神社

 神谷神社、本殿


神谷神社、本殿


神谷神社

県道150号、国道11号で80番国分寺へ。寺の近くの宿に泊まります。
一日中雨の降り止まぬ日でした。


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コメント
 
 
 
ピンピンシニアさん (枯雑草)
2011-10-30 17:55:13
こんにちは。
弥谷寺から海岸寺への道。25000地形図には弥谷寺から天霧山へ行く尾根道が載っていますが、この
峠から北へ谷に沿って下る道です。
(この道は地図には載っていません)
曼陀羅寺へは、仏母院を経て県道217を通る道です。雨の歩きはうんざりです・・
 
 
 
Unknown (やすし)
2011-10-31 18:22:13
枯雑草さん
10月23日からお遍路に行っていてアップされていたのを知りませんでした。私の今回のルートは琴平駅から88番を経て1番に戻り5番まで別格18番~20番までの7日間でした。ホームページにアップできるのはまだまだ時間がかかりますので気長にお待ちください。今回はほぼ同じ区間だったようで興味があります。
 
 
 
やすしさん (枯雑草)
2011-10-31 19:44:40
こんにちは。
23日から琴平・・・5番でしたか・・。ほぼ私の
ルートと同じでしたね。もっとも私は金比羅街道が
メインでしたが・・それと体調、靴調も悪く(靴に
穴があいた)88番でストップしました。
野井坂は行かれなかったのですね。とっつきのコンクリート道を見て仰天・・。やすしさんが通られた道とは別道のような気がします・・
では、また。
 
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