四国遍路の旅記録  平成26年秋  その4ー1

小松、吉祥寺、前神寺、西条へ

この日は小松の宿を発って、63番吉祥寺、64番前神寺におまいりし、旧讃岐街道を辿り西条まで、そして一部バスを利用して石鎚山の麓、西之川まで行く予定です。
後半の行程については後にして、まず前半の行程の御託から。

この辺りの遍路道は基本的には旧讃岐街道に拠っています。しかし、前神寺の先から西条を越えた飯岡までは、旧讃岐街道に拠らず、武丈公園や地蔵原を通る山裾のルートが歩くにはとてもよい道筋であり、これを通る遍路が多いようです。
協力会のへんろ地図も、この道(のみ)を遍路道として採っています。
私はヘソ曲がりですから、4度目にして初めて旧讃岐街道を辿って西条まで行ってみることにします。

63番吉祥寺。境内には成就石やくぐり吉祥天女などの仕掛けがあり、多くの遍路が試します。
門外に茂兵衛道標(197度目、明治36年)、北口に「これより前神寺へ廿丁」の徳右衛門標石。東口に安永9年の「これより一丁かち水あり」と芝之井を案内する標石。南口に明治14年の円柱と角の二つの利平道標、など。

 吉祥寺で

 吉祥寺南口の利平道標

前神寺への道。
西泉の阿弥陀堂の隣に「のだふじ」の樹。その一角に「こんぴら大門より十九里」の金毘羅道標。
その先、久万笠松城主であった丹民部守越智清光の墓と神社。(丹氏は河野氏の出。天正13年豊臣秀吉の四国侵略で討死。)
石鎚神社(口ノ宮)の大鳥居を見て参道を横切り64番前神寺へ。(石鎚神社へは明後日まいる予定。)
前神寺は、江戸時代までは石鎚神社の境内にあった寺。澄禅は石鎚山の「里坊」、真念は「前札所」と表現しています。
「名所図会」の前神寺の絵図を見ると、まさに今の石鎚神社の配置であることが確認できます。高台に蔵王権現、その下に大師堂、その右が寺であると想像できます。


「名所図会」前神寺絵図

今の前神寺は阿弥陀如来を祀る。鬱蒼とした森に囲まれた本堂はそれは立派な佇まいであり、元札所とも言える石鎚神社に負けまいとする気迫が感じられるようです。大師像も他の寺では見られない独特の姿を見せます。

 前神寺本堂

前神寺の大師像

西参道にある昭和8年の、次の札所三角寺に近い三島までの汽車利用を勧める標石、東参道の「是より三角寺十里」の徳右衛門標石、奥の院仙龍寺への参詣を勧める長文が刻まれた茂兵衛道標(202度目、明治37年)。これらの多くは以前の日記でも紹介したように思います。
もちろん、徳右衛門標石は、旧地石鎚神社前から移設されたものでしょう。


前神寺東参道の茂兵衛道標(202度目、明治37年)

 前神寺東参道の茂兵衛道標(部分)

 前神寺東参道の徳右衛門標石

前神寺から1kほどで、武丈公園に向う新しい遍路道を分け、旧讃岐街道は国道11号を斜めに渡って直進します。道筋に自然石の常夜燈や地蔵堂などが残りますが、新しい家が多く旧街道の風情を感じるという道ではありません。
やがて加茂川の土手に。土手の下には地蔵堂、上には明治4年の大きな常夜燈。
昔は、水の多い時には渡し舟、普段は流れに板をわたして渡っていたとか。今もそんな流れの川です。ここに木橋が架けられたのは明治44年のこと。

 加茂川左岸の常夜燈


加茂川、旧街道の渡河地点付近

今は少し上流の国道に架る加茂川橋を渡ります。
大常夜燈の対岸の場所から旧街道は続きます。土手に地蔵堂。
街に入ったお堂の前に「へんろ道、前神寺へ二十丁、三角寺奥の院へ十三里半、駅へ七町半、次ノ四辻ヨリ左へ曲ル」と丁寧な道標。

 旧街道と川原町の道標


西条市川原町の寿し駒の道標

その先ホームセンター前に徳右衛門風の道標。これは明治44年の「寿し駒」日野駒吉のもの。
その先の旧街道沿いには、「三角寺迄九里」の下部の埋まった徳右衛門標石。更に1kほど先に同文の刻まれた標石。そこはもう新遍路道との合流点近くです。

JR西条駅に戻り、バスで黒瀬峠まで移動。石鎚山の麓、西之川を目指します。
さて、本日後半の御託その1を述べましょう。
前日の日記で石鎚山と横峰寺の関係と参拝ルートについて書きましたが、ここで石鎚神社(里社、今の口ノ宮)と前神寺の関係ともう一つの参拝ルートについて書いておかなくてはなりません。おっと、その前に石鎚山霊場の変遷について触れておかなくてはなりませんね・・

石鎚山霊場の様相の変遷
石鎚山霊場の変遷について概況しましょう。
中世までの石鈇霊場(明治に至るまで「石鎚」の名を用いることはない。)の開山に関して、それをそのまま今の石鎚山に当てはめることはできず、笹ヶ峰、瓶が森、石鈇の三つの山の鼎立状態にあったと解釈すべきであると思われます。
中世期が進むに連れ役小角の伝説が広まり、蔵王権現を祀る修験者の活動が見られるようになります。神仏習合の流れのなかで、この地域に開かれたとされる霊山と別当寺の組み合わせを縁起などの諸文献に見られるものを拾い上げ、年代の古い順に挙げると次のようになると言われます。
    笹ヶ峰・・・正法寺(新居浜市)
    瓶が森(石土山)、子持権現山・・・・天河寺(てんがじ)(極楽寺の向いの大保木に存在した、室町時代に焼失、     現廃寺。中腹に石土山常住(坂中廃寺)を有す。)
    石鈇・・・・前神寺、(常住(成就)を有す。)、横峯寺

即ち、中世末期から江戸初期に笹ヶ峰が衰微し、続いて瓶が森が衰微し、江戸時代においては前神寺と横峯寺の競合が続くという様相を呈するのです。
さて江戸時代以降の様子を見てみましょう。
上記の如く江戸時代に入るまでは石鎚(石鈇)の社は常住の地(今の成就)にあり、別当としての前神寺もそこにありました。江戸時代に入り四国遍路が盛んとなると、常住まで上ることの困難さから、横峰寺は星ヶ森に遥拝所を、一方前神寺は遥か離れた平地に蔵王権現を祀り、里前神寺を設け納経所を置きます。(常住の地の寺は奥前神寺と呼ばれます。)
真念の「道指南」(1687)は、六十番横峰寺の項「・・よこミねより二町のぼりいしづち山の前札所、鉄のとりゐ有。」六十四番里前神寺の項「蔵王権現のやしろ、これすなわち石鎚山の前札所なり。」と記します。
江戸時代中期の石鎚山(石鈇山)別当職をめぐる前神寺と横峰寺の争い(どちらが石鎚山(石鈇山)の山号を名乗るか)は京都御所に持ち込まれ、明和6年(1769)「(両寺)論条御裁断之事」により「「石鈇山社別当」は前神寺が専称し、「仏光山石鈇山社別当」は横峰寺が称するとする、曖昧な裁決となります。
「名所図会」(1800)では、六拾番仏光山福智院横峰寺の項「石鈇山遥拝所門より壱丁下り印木より左へ三丁余上りあり、石鈇山へハ常に参る事を得ず、此所にて拝す、」と、六拾四番里前神寺の項「此寺ハ、石鈇山へ人常に参る事を得ず、此所にて拝す。」とあります。
その後、江戸後期文化年間に常住の地が属する千足山村と横峰寺(小松藩)より前神寺(西條藩)に訴訟があり、文政8年(1825)の公裁により「常住の寺は奥前神寺とは呼ばず常住山と称すべきこと、ただし別当は前神寺のままとする」となります。(「西條誌」)
明治の神仏分離により、里社としての石鎚神社と前神寺の分離と前神寺の一時的廃寺、横峰寺もまた一時的廃寺という事態を経て、それぞれの神社、寺が不明確で微妙な立場を保ちつつ石鎚山信仰を支えているというのが現状と言えましょうか。
こうして石鎚山霊場の変遷を見てくると、それは様々な紆余曲折を孕みつつ進み、特に明治の神仏分離政策が信仰する者の心とは離れ、経緯と真実を歪めてきたという印象を拭うことができないのです。
                             (令和5年12月改記)


石鎚山頂上社に達する参拝ルートとして、前日の日記で横峰寺を経る二つについて記しましたが、現状では、それよりやや鮮明な色合いを呈するように思えるルートとして、前神寺→石鎚神社(里社、今は口ノ宮と称する)→(二並山(ふたなやま))→黒瀬峠→大保木→中奥→河口→今宮付近→成就社(中宮)→頂上社、が確定しています。(二並山のルートについては後でふれます。)
これは、このルート上に石鎚参拝道標としての石鎚三十六王子社が置かれていることからも確認できると思われます。
因みに、「名所図会」の横峰寺の項の前段に「・・おうごう村(大郷)・・深方村(現不明、あるいは「ふるぼうむら」のことか)・・是より甚だ山坂けわしく拾七丁程上り一ノ皇子社、石鈇山三拾六王子の内也、左手にあり・・」と記されるように、現在黒瀬湖近くにある第一王子社は江戸時代中期には大郷から上る道筋(おそらく古坊あたり)にあったと思われます。石鎚参拝道の主導権争いの熾烈な様相を感じないではおれません。

さて、こういう御託の成行きで、石鎚神社の一の鳥居がある黒瀬峠から石鎚山頂上社まで、王子社を辿りながら往復しようという計画です。
まず、河口までの参拝道を辿ります。河口から県道12号で西之川へ、ここで一泊。翌日、西之川登山道(正しくは御塔谷道というらしい)を上り(この西之川道、あるいはその近くに7つの王子社が置かれているのです。)石鎚山頂上社へ。頂上山荘に一泊。翌日、頂上社から成就社へ下り、今宮道を通って河口へ。そして、往路で残された黒瀬峠から石鎚神社(口ノ宮)への道を探ろうというものです。
ただ、計画と実行とは異なります。私の場合、大抵、実行は易きに流れます。今回もそうでした。それは兎も角・・ 
それに参拝道は基本的には修行道です。詳細な地図や案内書を持たない私は行きつけない王子社も多いでしょうし、ルートは分かっていても体力的に無理なところもあるでしょう。遥拝も含めて、その近くを通るというだけでも満足することにします。
西之川へ行くということは、その奥にある東之川に行きたいという、もう一つの目的もあるのです。これについては、西之川に着いたときに書くことにしましょう。勿体つけて・・

一ノ鳥居をくぐり黒瀬峠から南、大保木に向かいます。この古くからの道は、加茂川に沿う現在の県道(17号)に依るのではなく西の山麓を伝うルートをとります。
横峰寺への車道(平野林道)の出発点でもある旅館のすぐ傍にあるのが、第一福王子社。覆堂の中に地蔵と小さな石殿。次の王子社は大保木に入ってから出会う第二檜王子社。番号付で呼ばれます。しかし、江戸後期の「西條誌稿本」(天保13年 1842 詳細は後記)には、黒瀬山の項に「・・石鈇の道にある三十六王子の如きものにて有たるならん・・」、また、前大保木山の項に檜の王子としながらも「三十六王子内にてハなし・・」と、やや曖昧な書き様。これは前にも少々触れたように、江戸後期の石鈇参拝道の勢力が横峯寺を経るルートに偏っていたためでしょうか。
第一福王子社から緩やかな道を1k足らず、尾根に達すると道外れに古い鳥居。ここが「七曲り坂」の始まり。谷まで標高100m下り50m上る。昭和初期の地図には記されるが現在は廃道。山屋も苦労するようです・・「西條誌稿本」には「・・七曲りといひ来りたれ共實実ハ八曲りあり、・・」と紹介される。(昭和初期の大保木地図参照)
大保木に入ると、第二檜王子社。第一王子社と同様の設え。その先には、私が何度も訪れたことのある大保木小学校廃校跡。懐かしい・・子供たちの声も甦るようです。
それからほど近くに九品山極楽寺。石鎚山真言宗総本山(むかしは古義真言宗、京都仁和寺末、檀家五百余軒を数えたという。これから訪ねる観音堂や地蔵堂の総元締めの立場にもあります。向かいに聳える屏風のような山の頂き。(昔は龍王山と呼ばれた。その山中にあった天河(ガイ)寺が極楽寺の前身であったと伝える。)寺から県道に下る330段の石段が見おろせます。
この道は、河口、西之川を経て瓶ケ森へ、県境を越えて土佐寺川そして阿波へ繋がる道です。 (令和5年2月 改追記)


昭和初期の大保木地図                           

 

大保木小学校跡

 極楽寺本堂

 
極楽寺山門(後方は高森)

極楽寺から続く山道を千野々近くの県道に下りたところの崖上に第三大保木王子社があります。そこより10mほど下ったところに三十六王子社最初の「覗きの行場」。山道を行き県道に降りる手前に第四鞘掛王子社。しばらく県道を行き、淀の集落の先、右上に上る狭い舗装道で細野へ。
細野には数軒の家と畑もみられますが人の気配は殆ど感じられませんが下ってくる若者を乗せた軽自動車に出会いました。あるいは何軒かには人が住んでおられるのかも。
王子社の案内標識があり、そこから山道に入ります。廃屋の横を抜け、足元は一応自然石の石段になっていますが、雑草の繁茂が著しく進めなくなります。


第5、第6王子社への道

 森の中の軍人の墓

彷徨するうち森のなかで、あの先の尖った独特の墓石の軍人の墓に出会います。
「居士ハ大正六年○月○日父○○ノ三男ニ生れ資性温良昭和十二年六月一日志願兵トシテ佐世保海兵団ニ入団同十五年十月横須賀機関学校ヲ卒業累進シテ機関兵曹長ニ任ゼラレ第二次世界大戦下波濤萬里ヲ馳駆シテ各所ニ転戦中昭和十九年○月○日比島沖海戦ニ於テ戦死セリ・・昭和二十二年○月○日」 
この村から出て行った若者は還らなかったのですね。こういった墓銘、遠い遠い昔の日にも何処かで、私は見たことがあることを想いだしていました。
結局、この日は第五以降の王子社には達することができませんだした。日を改めて到達し得た王子道(参拝道)についてここに記しておきましょう。

大嶽

細野の集落の中の車道から山道に入り暫く行くと迫割禅定(跡?)、そこから100mほどで第五細野王子社。この辺り、岩山(大嶽)が聳え立っているのが見えます。ここより下る急坂に昔は鎖があったといいます。江戸時代後期の「西條誌」には「今の弥山の下より第一の鎖、昔は此処に懸り有りしと云、此坂嶮きゆえ也、後世道を作り、少し歩み易く成りたれば、其鎖リを弥山へ移す」と記されています。その先数分で第六子安場王子社。ここに二つ目の「覗の行場」があります。
正面に河口の三碧橋、今宮登山口も見えています。素堀りのトンネルをくぐり河口、今宮登山道にかかります。道が左に大きくカーブする先、荒れ果てた三光坊不動堂の横から入り第七今宮王子社、その奥10mほどで第八黒川王子社。覗の行場があります。黒川谷を見下ろす恐怖の急崖。今宮道から旧王子道に入り、廃屋跡、その奥に地蔵堂。このお堂、昔は権現堂であって女人禁制であったとも言われます。少し上ると第九四手坂王子社。その先は急坂の四手坂。「西條誌」に「川を渡れバ此坂あり、坂の間、十町也、王子あり、覗あり、前の覗に比すれバ浅し、四手坂、家数わずかに四五軒」とあります。坂を登れば加茂川を隔てて東側の稜線の岩山が見えます。(昔は人の顔に見え「目鼻岩」と言われた。少し下にある写真「今宮道の入口付近から二ノ岳(だき)を望む」の二ノ岳の岩山が昔は目鼻に見えたのだと思われます。)
第九より40分ほどで第10二之王子社、さらに第11小豆禅定王子社、第12今王子社、第13雨乞王子社と続き、その先で今宮登山道に合流し成就までは整備された道となります。
なお、第10から第13の王子社の道は厳しく林道にも惑わされ辿ることは容易ではありません。山道に慣れた人以外は遠慮した方がよいでしょう。私もその途中で道を失い今宮まで戻りました。


三光坊不動堂

今宮は嘗ては石鎚山参詣の人々の中継地であり、大正8年には36戸、178人、11軒の宿屋があったという記録があります。小学校の分校もありましたが、昭和47年に閉校されます。それから村は急激に消えて行きました。立派な石垣や宿屋であったであろう大きな構えの廃屋が数軒みられます。明治や大正の年号を見る墓も荒れ果てたまま、参る人もないのでしょう。勇み立った男の声が響く今宮を思い起こすように見おろす大杉がありました。
(今宮の項は「平成26年秋その5」の記事と重複。付近の王子社などの写真も同記事をご覧下さい。)


今宮道の入口付近から二ノ岳(だき)を望む


河口付近の加茂川の流れ

石鎚山系南端の集落へ

これまで加茂川に沿って石鎚に迫ったいくつかの
集落にも既にその色彩は強く表れていましたが、これより行く西之川、東之川は意識的な「限界集落」「消滅集落」への辿りということができるかもしれません。

(追記)限界集落、消滅集落について
限界集落という語が語られはじめてからもう大分長い時が経ちましたが、今やその限界を通り越して消滅集落(住人0(ゼロ))となった多くの山村集落があります。これらの集落は日本全国に散在すると思われます。最近、そういった消滅集落を訪ねネットなどで語る人もけっこう現れたように思えます。
私は四国遍路の途上、平成20年から27年にかけてそれら限界集落や消滅集落の道を歩くことができました。ほんの一部だけですけれどね・・
愛媛県中東部では、南に石鎚山を望む山懐、西条市の大保木、西之川、東之川そして小松町石鎚(旧千足山村)の一部です。
藩政時代や明治には多くの人の生活が営まれた舞台は今は消えてしまったのです。日本はそんな国になってしまったのでしょうか・・その衝撃・・

 行者帰還(西之川登山口)

さて、今宮から西之川に向かいます。
西之川の登山口から、多くの行者姿の人が下りてくるところでした。ここから夜明峠、成就社をまわる修行の行事のようでした。
私は西之川から更に2kほど入った愛媛県最奥の集落、東之川へ行くつもりです。
その御託を書かなければなりませんね。この日の後半の御託その2です。

民族学者宮本常一は「山と人間」(民族学研究32卷4号、昭和43年)の中で、天保末年編の「西条誌」を引いて、西条藩で水田を全く持たない山村を挙げています。それは私が今日歩いて来た地と重なっています。
前大保木山村、148軒、590人、鉄砲持ち9人、畑34石8斗。中奥山村、168軒、634人、鉄砲持ち19人、畑43石6斗。西之川山村、55軒、244人、鉄砲持ち9人、畑10石8斗。東之川山村67軒315人、鉄砲持ち9人、畑6石5斗。
畑の石高はその人口を養うにはあまりにも少ない。宮本はこれらの村では焼畑や杣仕事に依存していたと見ています。山を渡り狩猟採取生活をしていた山の民が山の上から谷に下り、焼畑や定畑で食を得る生活に移ったと想定しているのです。鉄砲持ちが多いのもその一つの証であると。
畑では粟、稗、芋、円豆(大豆)、空豆、後には茶が作られる。
例えば、平家の落人(源平合戦において平家方に与し、落ちのびた人をいう。必ずしも平氏一族ではない。)のように水田耕作の経験を持つ民が山中に移った場合、大抵、水のあるところを見付けて水田を開いているということも指摘しています。
東之川は愛媛県最奥の山村。越えれば高知県の寺川。
宮本常一は、昭和16年の暮れ、伊予小松から、おそらく私が今日辿ってきた道を通って東之川を経て寺川まで行っています。
「忘れられた日本人」にも収められた「土佐寺川夜話」のなかで、寺川への途中の山道でカッタイの老婆に出会ったことを記しています。東之川から瓶ヶ森、子持権現山を越えると、シライ(白猪)という谷を通って吉野川の源流、そして寺川です。シライとは彼岸花のこと。元々救荒植物として田の畔に植えられたものです。伊予から来た人達はシライを掘り、川の水で晒して毒を抜いてシライ餅と呼ばれる餅にして食したといいます。これも宮本が記したこと・・

以上が東之川行きの御託です。私がそこに何を見ようと思ったのか・・(巡礼の道と生活の道との補完性は、私にとって確信です。)何となく分かっていただけたでしょうか。
東之川への道の入口に行って驚きました。
右手の山が崩壊して大小の石が道を埋めてしまっています。砂防ダムが造られ、谷に橋を架け、東之川への導入道路の建設工事の最中なのです。(この崩壊は2012年9月4日に発生。幅100m、長さ150m、斜面勾配35°の大規模なもの。上流の1戸2人が孤立。今は西条市内に転居しているとか・・これは後にわかったこと。)

 東之川へ

 崩壊現場

飯場小屋の前まで行き、断られるのは覚悟の上で「東之川へ行きたいのですが・・」と声をかけます。意外にも監督員は親切。ダンプカーや重機の動きの合い間を縫って案内していただきました。遍路姿が幸いしたのかもしれません。
2年間、車の通ることのない道は荒れたところもありましたが、危険ということはありません。

 東之川への道

最初の家の姿を樹間に見て墓地。
墓石には、伊藤家、工藤家、寺川家の銘を見ます。寺川家の新しい宝筐印塔の立派な墓も。石面にはあの折敷に揺れ三文字の家紋が。 
墓地の横に40代くらいの女性が座っています。横には山のものを採取したであろうポリ袋。
「西条から来ました・・もう返るところで・・」
誰かを待っている気配でもありますが、話は滞ります。
当然でしょう。誰もいないと思った所で余所者の遍路姿ですから・・
川に架かる赤い橋の向こうに高智八幡神社、稲荷神社も。 
その先に観音堂、「敬禮救世観自在尊」の石塔。由緒を刻んだと思われる碑。
少し行くと「寺川代吉翁頌徳碑」があり、東之川の中心部でもありましょうか、数軒の家姿が集まっています。
西条市名水名木50選「おたるの滝」の石標。消えかかった石鎚登山案内地図」。「瓶ヶ森山頂まで5.8k」の標識。山道への入口の扉は閉じられています。西条警察署の登山連絡箱は色褪せて寂しそう。背の伸びた草の向こうに「寺川山荘」 「ふみおの山小屋」の看板も。
そう、ここは瓶ヶ森への登山口でもあるのです。登山観光で生きようとしていた姿も見え隠れします。
ちょっと驚くことですが、住友共電㈱の水力発電所もあります。斜面に面した家の敷地は立派な石垣が築かれています。

 墓地

  観音堂

  家

  山荘の跡

登山道入口

 登山連絡箱


発電所建屋

地蔵と石標

おたるの滝標石

草木に埋まる

戻る道、先ほど出会った女性と連れだった年長の男性にお会いします。女性の父親か舅といった感じ。
「西条の家は小いそうてのー、まだここの家の方がましや・・こうやってようさんぽにくるんや。あんたは昔ここに来られたんかのー、○太郎さんに会われたんじゃろー、そこの家じゃ・・」。

2年前、道が閉じたとき住んでいた1戸2人とは、この人たちだったのかもしれません。後でそう思いました。

 東之川で会った人

その晩、西之川の宿に泊って、女将から聞いた話、それにネット検索で集めた若干の情報を寄せ集め、東之川の歴史を辿ってみましょう。ランダムですが。

東之川には、伊藤家、工藤家が多く他に寺川家、曽我家があった。工藤家、伊藤家は源氏に追われて瓶ヶ森を越えて逃げてきた平家の落人だと言い伝えられている。(宮本常一の予測とは異なりますが・・) 観音さんの近くに元の氏神が祀られている。
頌徳碑のある寺川代吉氏は長年村会議長を務めた人。寺川は土佐にあるとはいえ、生活圏は伊予側にあったので、寺川を名乗る家がここに移ってきたのは不思議ではないと思えます。
嘗て、東之川の左右の山には鉱山があり、昭和の初期にはかなり栄えて、映画館や日用品を売る店があり、後(昭和30年代)にはバスも通っていたようです。
明治期、東之川には既に小学校があったようですが、昭和10年、高宮、東之川、西之川尋常小学校が統合、西の川に高宮小学校が開かれます。多い時は30名の生徒が通っていましたが、昭和55年に閉校。高等科は大保木にあって、東之川からは北の前田峠(東之川とは標高差200mの峠)を越えて千野々に出て通学していたようです。
天保期に67軒、315人だった人口はその後もほぼそれを保っていたようです。昭和26,7年頃より町への移住が始まり、30軒ほどとなり、平成10年には2軒、そして平成24年は前記のように1軒2人となりました。
西之川では「東之川はもう住む人もいなくなるのに、大金をかけて道路を造ってどうするの・・」という声も聞きました。
ほんとに、東之川、この村はこれからどうなってゆくのでしょうか。ただ消えてゆくだけなのでしょうか・・


東の川地図

                                              (10月28日)(令和2年4月一部改)
                                  
4-2へ続く 

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コメント
 
 
 
Unknown (楽しく遍路)
2014-11-25 15:08:55
こんにちは
(見当はずれかもしれませんが)訪ね歩く楽しさと哀しさを、できれば共有させていただきたく、読みなおしています。
後半の東之川は札所からは離れていますが、これも含めて、素晴らしい遍路行記だと思います。いつか自分も歩いてみたい・・・しきりと誘われるものがあります。次回の地図、コピーして使わせてください。

「カッタイの老婆」が歩いた、もう一つの遍路道、忘れてはならないと思います。これを訪ね、書き留められたこと、敬服いたします。
今後とも、枯雑草遍路、よろしくご教示ください。
 
 
 
楽しく遍路さん (枯雑草)
2014-11-26 10:38:16
ありがとうございます。
そうですね。3巡目くらいから札所霊場の遍路道を外れることもけっこう多くなってきました。楽しく遍路さんをみならう所も多いかも・・
おっしゃる通りですね。訪ね歩くことは楽しさとよもに哀しさに出会うことでもありますね。
信仰の道(いえ、信の道といった方が)と生活の道の重なり合いが、心豊かな生活の原点であってほしいと願いながら歩かせてもらっています。
また、ご指導のほどよろしくお願いします。
 
 
 
Unknown (西岡政太郎)
2021-06-22 13:47:03
はじめまして 
私も西條誌 愛媛の面影をもとに先日 兎之山 黒瀬山
千野々 中奥山 細野 前田 覗 四手坂 今宮  西之川 東之川 おたるの滝(白糸の滝)とその周辺を探索いたしまして 掲載されている写真が私のものと共通が多く楽しく読ませていただきました。何度も行くつもりです。文化14年小松の近藤篤山先生も行かれた高瀑にも行こうと思っています。ほかの記事も読ませていただきます。
 
 
 
西岡政太郎さま (枯雑草)
2021-07-30 14:46:37
こんにちは。コメントありがとうございます。
石槌山北麓の村々を歩いてからもうかなりの日が経ちました。その後も前田峠、瓶ケ森、寺川、小松町石鎚の村々など訪ねたい所も数々でしたが、コロナ、自らの歳(もう歩けないか・・)により実現せずに終わりそうです。西岡さまのサイトなど記事を拝見できれば幸いです。よろしければアドレス等お知らせください。
 
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