四国遍路の旅記録  三巡目 第6回 その1

東北関東大震災の被災者のことを考えながら・


昨年の秋、三巡目五回目の区切りで、松山まで来ておりました。
今回は、できれば讃岐の国の入口観音寺まで、少なくとも伊予の国は歩いておきたいと思っていました。そして、前回心残りであった久万高原の峠についてももう少し探りたいと・・。

しかし、既に松山に入っていた3月11日の午後、東北地方の沖で発生した大地震。テレビ、ラジオの報道を聞く度に、これはまさに未曾有の大震災であることを知らされます。そして、被害を受けた福島の原発は、人間いやあらゆる生命に対し放射線という恐ろしい害厄を与えつつあるのです。これは、天災を引き金とした人災と言えるでしょう。
被災の報道に涙を流し、恐怖に怯え、心は塞がってきました。帰宅したからといって、私に為し得ることは何もないのですけれど歩く気力は失せてきました。四日間歩いて中断することにしました。

昨年11月、へんろ道保存協力会会長、宮崎建樹さんが行かれようとして近くの山道で遭難死された、福見寺への道。四国八十八霊場でもなく、番外霊場とも呼ばれないけれど、ここに慰霊登山することも目的のひとつでした。それから、鎌大師から去られる明応さんにご挨拶することも・・。
結局、今治まで歩いて帰ってきました。東北、関東の被災地で一日も早く、いつもの生活が戻ってきますよう祈りながら・・。                                                    (平成23年3月11~14日)


(久万高原の遍路道で・・)


福見山の参道で   (平成23年3月11日 12日)

「へんろ道保存協力会」(以下「協力会」と書きます)。この巡礼日記を見ていただける人の多くは、おそらく遍路経験者であり、この団体のことはよくご存知であろうと思います。その協力会の会長、宮崎建樹さんが昨年(平成22年)11月、松山市福見川町の標高850mの山中にある福見寺(厳密には東温市山之内の山中の無住の寺)の近くの山道で遭難、亡くなられたのです。
協力会についても少し書いておきましょうか。
宮崎さんは自らが札所巡拝で道に迷った体験から、昭和62年松山市内の遍路道に道標を付けたことを皮切りに88札所すべての道標を平成元年までに設置終ります。その数2000本以上といいます。あのへんろの影と矢印と「へんろ道」の字、白地に赤の道標です。その他に協力会は全国からの奉仕者を募って、埋もれてしまった旧遍路道の整備や草刈りの実施、そして歩き遍路のためのガイドブック「四国遍路ひとり歩き同行二人」の作成と発刊。今の歩き遍路でこの地図を持たずに四国を歩く人は皆無といってよいでしょう。
このように歩き遍路に限りない恩恵を与え続けてきた協力会、その運営をほとんど独力で行ってきたと言われる宮崎さん亡きあと、これからに大きな不安を感じます。あの地図はもう改訂されることはないのでは・・とも言われています。
宮崎さんが、何故八十八ヶ所霊場でも番外霊場でもなく、また嘗ての遍路道の近くでもない福見寺に参られようとしたのか・・不明の点が多いのです。
この山中にある福見寺は現在は無住ですが、真言宗豊山派の古刹で、山号の俵飛山は飢饉の時瀬戸内海を通る船から米俵が飛んできたことに由来するとか、それには播磨の諸寺に縁の深い天竺の人法道仙人が係わっているとか(ああ、別格13番仙龍寺も法道仙人との縁が・・)弘法大師との縁もあるとか・・そんな伝説を持つ古い寺のようです。
遍路としては恩義限りない宮崎さんの思いをあれこれと想像しながら、慰霊のための登山をさせていただくことにしました。

白鷺湖の湖面

松山市の51番札所石手寺の近くから国道317号を今治方面に歩きます。4kで奥道後の大きなホテルの前を過ぎ、やがて石手川ダム、白鷺湖。湖面は輝いていても、何とも寂しいダム湖の風情です。
松山と今治を繋ぐ国道だけあってかなりの交通量。もちろん歩道はありませんから、車には十分な注意が必要です。
湖を過ぎ玉谷町に入る所に神社。ふと見上げると鳥居に「八幡若宮神社」の社号額。何と陸軍大将秋山好古書とあります。日露戦争で世界最強と言われたコサック騎兵と戦い、日本騎兵の父と呼ばれた・・あの「坂の上の雲」の主役のひとりじゃないですか。元帥位も固辞し晩年は地元の中学校校長に就いたというこの人の性格を写したような書体に思えます。
でも随分墨色鮮やか・・(後で調べてみると、これは亡くなる3年前の昭和2年の揮毫。平成22年に墨を入れ直したばかりのものと判明。)

八幡若宮神社鳥居社号額

道を行くと電動車椅子で移動中の老夫婦にお会いします。
「まあー、めずらしい、おへんろさん?・・」
札に「五穀成就」とか「町内安全」とか書いて寺の印を押し笹竹に挟んで里山の麓などに数本立てる。何という風習でしょうか、そんなものをよく見掛けるところです。

歩き始めて12k。河中町を右折、県道196号(河中平井線)に入ります。日浦小学校と他所者とみると一斉の吠えかかる犬飼育場の間を抜けて福見川町へ。
「天然記念物三本杉」の標識を左折。(杉は直ぐの新宮神社境内にあります)
河中より1.6kで登山参道入口に着きます。「福見山道登十八丁」の石標。
石標の前、直進道の左空地は、あー宮崎さんの車が停まっていた場所・・思わず合掌します。
ここから尾根までの1kの道は、所々にコンクリートを流し軽四輪も入れるよう整備された道ですが、標高差280mですからかなりの急坂です。
尾根手前50mほどを左に戻るように上る山道、これが参道ですが、この分岐点が唯一の問題の場所。何の標識も無いのです。私はこの地点を見過ごし尾根の三差路に。四駆の軽四輪が停まっていて、下の方の樹間から電ノコの音が聞こえます。左折が参道ということが頭にありましたから左道へ。どこまで行っても下り道です。これはおかしい・・と気付き戻ります。30分の彷徨。
ひょっとしたら宮崎さんはこの辺りから細い山道に入られたのでは・・
尾根手前50m地点に戻り辺りを探すと、土と枯葉に覆われ半ば朽ちた「福見山」の道標。掘り出して置き、近くに持参の青色の包装テープをいっぱい吊るしておきました。これなら分かるでしょう。
ここからは細い山道。でも登山道標識の他に、丁石や石仏なども。丁石は八丁から二丁まで、頼もしい道案内です。

福見山参道入口

参道の石標


問題の分岐点、先の明るい所が尾根。左手前折り返すように上る

0.8kで福見寺の石段が見えてきます。広い境内、左手に鐘楼、右手に通夜堂と書かれた建物、正面に本堂があります。立派な鐘を突かせていただきます予想を遥かにこえた山中に深く深く響き渡る音の中に浸ります。本堂は四間四方の宝形造。唐破風の向拝、軒下に鳳凰の飾り、妻飾りの位置には「俵」の字も見える立派なもの。横に回ると回廊を通して坂の上のお堂に繋がっています。神社の本殿、拝殿の造りを踏襲しているようにも思えます。
本堂の中に入り心経を読ませていただき、札を納め宮崎さんのご冥福を祈らせていただきました。
境内には古るそうな五輪塔や立派な石仏(お大師像と思われる)がありこの寺の歴史の厚みを思わせます。
古い消えかかった木札に、温泉郡重信町山之内岡(現東温市山之内)にある福見寺の奥の院であること(実際はこの山中のこの寺が元寺、それを街に降ろして里寺とした)、伊予道前道後十観音霊場の札所であることが記されています。

 福見寺


福見寺境内の大師像

ただ、正面石段横に建物があり、その前に「所有地 福見山 文殊院 法昌寺 庚申堂 伊予市○○・・」と書いた立て札があります。(以前の訪問記などによると、ここに四国五十一番奥の院」と併記されていたようですがそれは白ペンキで消されていました。)随分曖昧な標記です。
後に聞いた話ですが、この寺、ある原因により火災を起こし山門や本堂含め焼失、廃材で現在の寺が再建されたとか・・何やら子細がありそうです。触れない方がよさそう・・

境内には昨年11月宮崎さんが行方不明になった時の捜索願い板がそのまま残されていました。取り外しておこうかと思案しましたが、管理寺さんのご配慮を期待する意味もあって敢えて残しておくことにしました。協力会の方の善処をお願いしたいと思います。

本堂の右脇に急な坂があり福見山登道の標識があります。坂の途中は鎮守です。急坂を登り途中山道を一つ横切り更に上り20分ほどで福見山の山頂(1053m)です。展望はありません。
山の尾根道は更に続き、明神ヶ森(1217m)までは1時間の距離だといいますが私は行きません。
この福見山、明神ヶ森への道は格好なハイキングルートとなっているらしく、50~60代の二人のハイカーにお会いしました。お二人とも何度目かの登山で松山から車で登山口まで来られています。

高縄半島を横断する国道317号は、平成9年に完成した2800mの水ヶ峠トンネルにより、松山から今治への最短ルートとなっていますが、トンネルが出来るまでは脊梁山脈を越える700mの峠越えの道であり、メインルートとなったことはありません。
歩くということを前提とすれば、国道317号の河中から今治までは26kほどあり、福見寺を経由して今治まで歩くことは無理です。もちろん途中で野宿でもすれば別ですが・・。
残念ですが、来た道を松山まで戻ることにします。


福見寺に参る前の日、久万高原にある以前から気になっていた二つの峠道を、一つは越して、一つはちょっと探ってきました。ここに付けくわえて書いておきます。
一つ目、千本峠の道です。この道は45番岩屋寺を打ち終え、三坂峠を下って46番浄瑠璃寺に向う際に便利な昔からの遍路道です。県道12号の河合から峠を越えて国道33号の仰西(こうざい)まで1.7kの道。どういう訳か、最新のへんろ地図から、遍路道としては削除されているというし、入口に近い宿の女将に聞くと「最近は通る人いないよー、通らないことー・・」と強く言われます。
行けるとこまで行って引き返すつもりで入って見ました。
結論としては、何の問題も無く通れます。案内の遍路札も新しいものが随所に付けられていますし、道も悪い所はありません。私は3年前にも通っていますが、むしろその時よりよく整備されている感じを受けました。詳細は略しますが、いい道です。特に峠を越した菅生の集落を見る道の風情は特筆もの・・
ここに記しておきましょう。


千本峠手前の石仏(大師像)

千本峠

残雪の高野の道


菅生の集落を見て下る

菅生の道標

二つ目は六部堂越えの道です。昨年秋、上畑野川の方から挑戦しましたが、峠まで100mか・・という所で断念しました。
そこで反対の国道33号の方から探ってきました。残雪の残る条件の悪さでしたが・・。
宿の名は敢えて伏せますが、その前を通ります。今日は時間がないので失礼しますよー。
国道から1.5k上り、林道「樅の木支線」に達します。ここから峠に向う登道を探りましたが、結局すべて失敗。残雪に滑り転倒して捻挫のおマケまで・・。
インターネットの登山記録などには皿ヶ嶺への途上路として紹介されている道なのですが、どうも林道が拡張整備されその入口を破壊してしまったようです。もっと条件の良い日に再挑戦するか、地元のハイカーに聞くか・・悩ましいところですね。残念・・。

六部堂越に向う道


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