四国遍路の旅記録(平成18年)第4回 その5

5月10日     外国の若者、日本の若者


天候:曇り時々雨
5:30より御影堂で御勤めがある。
清清しい朝の空気の中、御影堂に立派な堂内の装飾に囲まれて二十人ほどのお坊さまの読経がこだます。読経が途切れた間には、堂外の鳥の声が聞こえたりする。
開経偈から般若心経、御宝号のところは2、30人の参加者全員が唱和する。
創建1200年を記念して開帳された秘仏本尊、瞬目大師像も拝見させていただく。

30分ほどの御勤めが終り、私は堂の地下にある戒壇めぐりを行う。真っ暗の中、左手を壁に沿わして歩く。中ほどでお大師の声が聞こえたりする。

食事の後、7:00頃宿坊を出発する。
7:50 76番金倉寺に着く。
次の道隆寺への道をYさんと歩いていると、後ろから背の高い外国人の青年が追いついてくる。遍路だ。この2月、オランダから日本に来て、4月中旬より野宿で歩いているという。
全くのカタコトの日本語。札所の番号、コンビニのマーク以外判読できない日本語の遍路地図が頼りだという。いやーびっくり。大したものだ。
人馴つっこい笑顔の好青年。この笑顔が様々な難題を解決させてきたのだと納得させられる。

8:40 77番道隆寺に到着。
Nさん、Kさんもいる。もう一人、20k近い荷物を担いだ背の高い人がいる。この人が京都のKTさん。野宿主体で歩いているという。この後もお会いすることになる。
本堂で般若心経を唱えていると、横にオランダ君。何とローマ字をふった経本を小声で読んでいるではないか。

金倉寺仁王門

金倉寺

道隆寺

県道21号、33号に沿って、丸亀の市街を抜ける。丸亀城が見える。
一人の女性に呼び止められる。聞けば、ここより20kぐらい先、国分寺門前の民宿の女将だという。
最近、電話番号が変わり、それを知らない遍路が多く、泊まりが減っている、車でここまで来て勧誘しているのだという。
「今晩おたくにお願いしてますよ」「あーらそう、お待ちしてますよー」「あとからいっぱい来るよ。勧誘したらー」。いやいや民宿業も大変なんだなー。

11:20 78番郷照寺に着く。Yさんそれに久しぶりのRさんもいる。
ここは札所では珍しい時宗のお寺。他の札所とは雰囲気が違う。
本堂の左に、金色の小さな千体仏、何体おられるかわからぬほどの数、気おされて早々に失礼。

昼飯時だ。坂出の街をRさんと歩きながら、私はうどん屋を探す。Rさんは80番を打った後、この坂出の宿まで戻るということで先行。
うどん屋に入り食ったぶっかけのうまかったこと。さすが、本場の讃岐うどん。

霊場八十場(やそば)の水に寄る。ここは、讃岐に流された崇徳上皇が崩ぜられた時、夏のことで、都から確認の役人が来るまで、この清水の中に柩が置かれたというところ。
水場の傍からNさん、Kさんの「お待ちしておりやんした・・」の声。

郷照寺(遍路はYさん)

郷照寺

八十場の水

13:45 79番高照院に着く。
ここは大きな白峰神社の片隅にあるような小さな寺。昔は崇徳上皇との縁に因み崇徳天皇と通称された。神社の境内には、菊のご紋章のついた馬の銅像があったりする。
納経所の人が話好きな方で、何かの拍子に73番奥の院捨身ケ嶽禅定の話になる。
「7歳の大師が岩の上から身を投げたところ天女が大師を受け止めたんだ・・」。
これを聞いていた隣の青年が「それほんとのはなしー?・・」。
納経所の方は、ポカーンと口を開けたまま言葉もでなーい。慌てて私は「・・そういうはなしなんだよー・・」といらぬお節介の助け船。
この青年が、茨城の22歳4浪君。金がないので野宿でまわっているという。
この青年とは、次の80番への道の半ばまで同行することになる。
「大学行く気あるのかー。何のために行くんだ」。「大学行きゃー、その間好きなことして遊べるじゃねーですか・・」。「おいおい、そのために大学ゆくのか。困ったもんだなー」などと半ば真面目、半ばトンチンカンの応酬。
結局、晩飯代、お接待する羽目になっちゃう。お接待受け取ると、「81番手前の公園で野宿しますから・・」と足を速めて去る。困った若者もいるもんだ。

雨が降り出した中、広い国道11号を横切って、15:45 80番国分寺に着く。

白峰神社

高照院

国分寺への道の遍路マーク

国分寺

国分寺の仏足石

16:45 門前の民宿えびすやに入る。
午前中、丸亀で会った女将が迎えてくれる。
同宿は、Nさん、Kさん、KTさん、それに北九州のWさん。相当被害者が出たようだ。

本日の歩行:47113歩

本日お参りした札所

第七十六番 鶏足山   宝幢院    金倉寺(こんぞうじ)
本尊:薬師如来
宗派:天台宗寺門派
開山:和気道善
智証大師円珍誕生地。唐の青龍寺を模し百三十二坊を擁した。円珍の祖父である和気道善が開き道善寺と称したが、円珍の死後、醍醐天皇が勅命で金倉寺と改称した。
智証大師の父は和気氏の宅成、母は佐伯氏であった。従って智証大師は、弘法大師の親戚に当たる。

第七十七番 桑多山   明王院    道隆寺
本尊:薬師如来
宗派:真言宗醍醐派
開山:和気道隆
和気道善の弟・道隆の開基。道隆の桑園であったが、ある日、妖しい光を見た道隆が矢を射かけたところ、乳母が矢を受けて倒れていた。悲しんだ道隆が一宇建立。孫の朝祐が二代目住持となり、伽藍を整備した。次に弘法大師の弟・法光大師、次に智証大師、次に理源大師と、高僧の住持が続いた。
本尊は「目治し薬師」と呼ばれる。

第七十八番 仏光山   広徳院    郷照寺
本尊:阿弥陀如来
宗派:時宗
開山:行基
一遍が滞在したこともある。高野山の高僧が逃れてきて、時宗、真言宗の両宗を称揚する寺となったという。寛文年間に、時宗となる。

第七十九番 金華山   高照院  天皇寺
本尊:十一面観音菩薩
宗派:真言宗御室派
開山:空海
大師が通りかかり、虚空から、霊木があるので仏像を刻んで安置せよとの声を聞いたという。
流罪となり客死した崇徳院の遺体を、ここに暫く安置したことが、寺名の由来であるという。

第八十番 白牛山   千手院     国分寺
本尊:千手観音菩薩
宗派:古義真言宗御室派
開山:行基
奈良時代作の鐘は重要文化財。もともとあったものではなく、この鐘を被った大蛇が人々を苦しめていた。弓の名手・戸継八郎が本尊の十一面観音に祈って射たところ、大蛇は鐘を捨てて逃げ去ったので、その鐘を国分寺に奉納したという伝説がある。近世、高松城主が鐘を城中に運び込んだが、病人が続出したため、寺に返したという。

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四国遍路の旅記録(平成18年)第4回 その4

5月9日     弥谷の無数の石仏に

天候:晴れ
6:30 宿を出て、6:45 70番本山寺にお参りする。
Rさんに出会う。近くに泊まったようだ。
ここには立派な五重塔がある。明治末に建てられたものだという。

本山寺

本山寺山門

門前を出て、枯木地蔵堂を探す。
このお堂は、本山寺建立の天狗が用材の一つを落とした跡に建ったという伝説のところ。畑の中に小さなお堂がある。案内書の字の大きさに比べいかにも小さい。これがその地蔵堂なのか?ちょっと自信はないが。
近くの妙音寺(宝積院)にもお参りする。門前で掃除をしている女性が「ここは70番奥の院です。皆さん納経されますよ」という。
「お参りだけさせていただきます・・」。私はお参りしても札所以外は納経はしない。

枯木地蔵堂

妙音寺

国道11号を行き、やがて田園の中の細い道、弥谷寺の参道に至る。
この弥谷寺の辺りの山や谷は、特別のところであるらしい。寂本も「・・この山で目につくところ、足の踏むところには必ず仏像がある。・・その数幾千あるか分からない。・・このため仏谷と号し、仏山と呼んでいる・・」と書いている。
また、死霊の集まる山として「イヤダニマイリ」の習俗があったとされる。このことは、ちょっと私的な関係も絡んで以前から興味をもっていたこと。別欄「コラム」に記す。

この日は珍しく晴天であったが、多くの石仏、鬱蒼とした谷の湿った何処かざわついた、他の霊場とは違った雰囲気を感じとることはできたように思う。
10:15 71番弥谷寺に着く。
長い階段を上って本堂、大師堂に参る。大師堂は靴を脱いでお参りする。
参道を下る途中、俳句茶屋という障子や襖にぎっしり俳句が書かれた茶店がある。
ここに荷を置いて上ってくるYさん、Rさんに出会う。

弥谷寺への道

弥谷寺仁王門

弥谷寺参道

弥谷寺本堂


弥谷寺より三野を望む


72番に向う山道は、気持ちの良い竹林の中を通る。
大池の周りを半周して、池畔の七佛寺にお参り。
荒れた寂しい寺である。大池に向って打つゴルフ練習場の打球の音が聞こえる。
寺の縁に座って昼食のパンを戴く。
このあたりの道からは、讃岐平野の上のもっこりとした起伏、五岳山のうち、火上山、中山、我拝師山(わがはいしやま)、筆山が望まれる。
晴れた五月の空の下、独特の風景を造っている。我拝師山の中腹に、これから参る捨身ケ嶽禅定とおぼしきお堂が見える。

12:00 72番曼荼羅寺に到着。続いて600m先の73番出釈迦寺には12:50の到着。
納経所の人は「きついよー、1時間半はかかる」ということであったが、せっかくきたんじゃけーおまいりさせておくんなせー」と荷物を置かせていただき、1.4k先の捨身ケ嶽禅定(73番奥の院)へ上る。
道はほんの僅か迂回歩道が残されているだけで、総て舗装車道。
しかし、その傾斜の急なこと。余程手馴れの運転手でないと無理だ。
ここは大師7歳の折、捨身の修行をしたと伝えるところ。
禅定は切り立った岩の上にある。禅定からは、多度津、丸亀の街が一望のもとである。
私の足で登り40分、下り20分。殆ど下り切ったところで、上ってくるふくよかな若い女性。「あとどのくらーい・・」もう息を切らしている。「うーんあと30分ぐらいかなー、それほどきつくはないよー」と激励。

ここより崇徳院のご陵のある白峯にかけて、西行の足跡を多くみる。院と親しかったといわれる西行、院が流罪の地、讃岐で客死した後、この地を訪れている。
西行の座った石というものや和歌が石碑に刻まれ残されている。私は行かなかったが、近くに西行庵跡もある。西行の歌
「曇りなき山にて海の月見れば島ぞこほりの絶え間なりける」

曼荼羅寺への道


我拝師山中腹、捨身ケ嶽のお堂が見える

七仏寺

曼荼羅寺

出釈迦寺

捨身ケ嶽禅定

捨身ケ嶽禅定


捨身ケ嶽禅定より多度津、丸亀を望む

73番から3k、15:10 74番甲山寺に着く。
この先は善通寺の市街である。大師が幼時、泥土で塔や仏像を造って遊んだところと伝える仙遊寺にお参りした後、16:00 75番善通寺に着く。
ここは大師の三大霊跡のひとつだけあって、さすがに立派なお堂や五重塔が並ぶ。
多くの人で賑わっている。境内の出店の多さにも驚く。
秋遍路以来のアイスクリンも食す。懐かしい味だ。
ここの大師堂は御影堂(みえどう)という。
御影堂に隣接して今夜の宿、善通寺宿坊がある。宿坊といってもここはホテル並みの施設。ただ、室にテレビはないしルームキーもない。
ポンと背中をたたく人、浴衣姿のYさん、もう先着している。
同宿はYさん、Rさん、Sさん、SKさんと民宿岡田以来の遍路仲間半数以上が集合。その他歩き遍路2人、車遍路5、6人であった。

甲山寺

仙遊寺

善通寺本堂

善通寺五重塔

賑わう善通寺境内

本日の歩行:43450歩

本日お参りした札所

第七十番 七宝山   持宝院   本山寺(もとやまじ)
本尊:馬頭観音菩薩
宗派:高野山真言宗
開山:空海
当初は長福寺と称した。馬頭観音は、多くの観音と違って憤怒形をとり、曼荼羅で明王部(衛兵)に配される。
石清水八幡末社別当として嘉禎二年、不断法華の祈願所となる。創建当時の姿を残し、国宝、重文も多い寺。

第七十一番 剣五山   千手院    弥谷寺
本尊:千手観音菩薩
宗派:真言宗善通寺派
開山:行基
行基菩薩の開基。この山の霊験を見た大師が登って求聞持修行をしていたとき、空から五柄の宝剣が降ってきたという。山号の由来である。
大師の足跡の多い寺で、奥の院は大師堂の中にある。

第七十二番 我拝師山  延命院    曼荼羅寺
本尊:大日如来
宗派:真言宗善通寺派
開山:空海
元は世坂寺と称し大師の先祖佐伯氏の氏寺として、推古4年(596)建立。
大師が、唐から持ち帰った両部の曼荼羅を納めた。玉依御前菩提を弔うため、唐・青龍寺の伽藍を模したという。

第七十三番 我拝師山  求聞持院   出釈迦寺
本尊:釈迦如来
宗派:真言宗御室派
開山:空海
七歳の大師が身を投げた。もし自分が人々を救済できるなら、証を見せて欲しいと祈って。釈迦が現れ、天女が大師(真魚)を抱き止めたと伝える。
西行は、この寺について次のように書いている。「奥の院に登る道は手を立てたように急で、まことに骨が折れる。空海が自筆の経を埋めた峰だ」。寂本も「険しいため、参詣の人は杖を捨て岩に取り付いて登る。」と書いている。往時の苦労が偲ばれる。

第七十四番 医王山   多宝院    甲山寺(こうやまじ)
本尊:薬師如来
宗派:真言宗善通寺派
開山:空海
弘仁十二年、築満濃池別当に任じられた大師は、農民を動員し三カ月で完成させたという。このとき朝廷から与えられた資金で、建立した。
山の形が毘沙門天の甲(かぶと)に似ている。これが寺名の由来。

第七十五番 五岳山   誕生院    善通寺
本尊:薬師如来
宗派:真言宗善通寺派
開山:空海
大師誕生の地。高野山、(京都)東寺と共に、空海三大霊地。「お大師さん」と呼ばれている。東院は寺院としての伽藍、西院は誕生遺跡が並ぶ。
唐から持ち帰った八カ寺の砂を撒き、唐・青龍寺を模して建立。大同元年に発願し、七年後の弘仁四年に七堂伽藍が完成した。
大師誕生の地については、海岸寺と善通寺の二説がある。御影堂の地下に、暗黒の中、89mを壁伝いに歩く「戒壇めぐり」がある。


コラム 「イヤダニマイリについて」

 

イヤダニマイリとは何か。
弥谷寺は死霊の行く山とされる。亡くなって間もない人の霊(具体的には髪の毛や着物)を背中に背負って弥谷寺まで運んでくるという習俗が、古くから行われてきたというものである。
いくつかのガイドブックにもこの地方の奇習として紹介されている。
この習俗は、多度津在住の民族学者、武田明が1950年頃発見し、学会に発表、認められるようになった。
私事にわたり恐縮ではあるが、実は武田氏の夫人は、私の母の妹なのである。そういうこともあり、イヤダニマイリについては以前から興味を持っていた。
武田夫妻は故人になられてすでに久しい。直接お話を伺う機会は永久に失われてしまった。

最近出版された、森正人「四国編路の近現代」(創元社)の中でも、イヤダニマイリとその発見の経緯が紹介されている。
森氏は、人間の霊は山に行くという当時の先祖観や死生観の流れの中で、武田氏によって創りあげられた習俗ではないかとのニュアンスで述べられている。
しかし、私の母(岡山出身)は幼い頃から、祖母より霊が集まる場所としての弥谷の話を幾度も聞かされたと記憶していると語っていた。
近隣の地にこういう言い伝えが何かの形で残されていたとも考えられる。
事実はすでに闇の中である。

私は、弥谷寺への道を歩きながら、湿ったような岩陰に、樹木の陰に、多くの石の仏を見、この地が霊が集まるところであるという思いを拭い去ることができなかった。
思えば、地球上のある地点は変わることがない。そこに、何百年、何千年と人の生活と思いが蓄積し、澱のように沈んで行く。
この不思議に思いを馳せた、私の弥谷寺参りであった。

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四国遍路の旅記録(平成18年)第4回 その3

5月8日     雲辺寺も霧中

天候:曇り時々雨
6:30 宿を発ち、雲辺寺を目指す。
雲辺寺は88札所中最高の場所(標高880m)にある。4kの厳しい山道を登る。
私はおそらく同宿の遍路中、最遅の足である。先発した者はまたたく間に姿を消し、後から出た者にも皆道を譲る。あはは・・。
濃い霧の中、すべてが幻想的な世界である。ぼうと現れる杉の樹影と緑の葉が格別の風景を造っている。
別格15番箸蔵寺への分岐点を過ぎてすぐ、8:30 66番雲辺寺に到着。
「五百羅漢も是非見て行ってください・・」と教えてくれる人がいる。
ほんとにすごい数の羅漢像、現在も造られその数を増しているという。羅漢像の中心には釈迦涅槃像がある。

雲辺寺への登りの始まり


霧の中、Yさんが行く



霧の樹林



雲辺寺山門


雲辺寺本堂


雲辺寺大師堂



五百羅漢


山道の山つつじ

雲辺寺を下る



登っただけ下らなくてはならんのだ。ヒザをガクガクさせながら山道を降りる。
別格16番萩原寺へ行く予定であった。しかし、萩原寺へ至る山道の分岐はついに発見できなかった。見落としたようだ。
山道の周囲のやまつつじが殊の外美しい。その柔らかな色合いが輝くようだ。
民宿青空さんの前を通り、大興寺に向う。
この道には、丁石仏がいくつか残されている。心和む。
清涼飲料水配達の軽自動車が停まる。娘さんが出てきて「こんにちはー。これ余りましたからー・・」とヤ○○トのお接待。

参道の森を過ぎると、大興寺が見えてくる。入れ違いに山門を出て行くYさんの姿。「おーい・・」手を振る。
12:20 67番大興寺着。
お参りし、ベンチで宿でいただいたお握りを食っていると、SさんSKさんが連れ立って現れる。萩原寺をまわってきた、これから70番を先に打って、今夜68、69番の門前に泊まると言っている。地図を見るとなるほどここからは68番より70番の方がづっと近い。
ワシはくそまじめだから、順番通りまわるぞ。

大興寺への丁石仏

大興寺仁王門

大興寺

溜池の多い田園の中の道を歩く。
観音寺の市街を過ぎると大きな神社の森が見える。明治維新前までの68番札所、琴弾八幡宮である。
先にここにお参りする。長い長ーい石段、500mもあろうか。社務所には巫女さんがただひとり。神恵院への道を聞く。神恵院は八幡への車道を下りきったところにある。
15:10 68番神恵院に着く。69番観音寺は、何と同じ境内。何か得したような損したような・・。むむむ・・。
納経所で納経を待っていると、Sさんが現れる。早すぎる。「SKさんが足を痛め、70番からタクシーで来ちゃった」

琴弾八幡の石段

琴弾八幡

68番69番仁王門

神恵院

観音寺

15:50門前を出る。次の70番まで5k、納経時間(17時)まで着くのは微妙な時間。
焦ることはないと、のんびり財田川の右岸の道をのんびり歩いたが、やや近い左岸の道を急げば間に合っていたかもしれない。
川に沿ったこの道、のんびりとした良い道だ。河畔の神社で休憩する。
所々に数台の自転車がかたまって置いてある。川は中学生達の格好な遊び場になっているのだ。白鷺が悠々と川面を舞う姿も見える。

財田川に沿って

本山寺の五重塔が見える

対岸に五重塔が見えてくる。散歩の男の人がやってきて「あれが本山さんの塔や、ちょっと間に合わないかなー、電話して待ってもらったら・・」。「いいですよ、明日お参りしますから・・」。時計は5時10分前。

今晩の宿、本大ビジネスホテルを探す。地図の場所にはガソリンスタンド。スタンドのおにーちゃん達に聞くが、知らないという。
宿に電話して、100mくらい北方であることがわかる。大きな看板もある。おにーちゃん達、しっかりせー。振り向くと、ニヤニヤしながら頭を下げておる。
15:15 宿に着く。ここは、1DKのアパートをホテルにしたような感じ。当然、食事は出ない。

本日の歩行:50737歩

本日お参りした札所

第六十六番 巨鼇山   千手院     雲辺寺
本尊:千手観音菩薩
宗派:真言宗御室派
開山:空海
標高880メートルにあり、霊場最高地点である。
大師が十六歳のときに修行したともいう。大同2年(807)嵯峨天皇の勅願を奉じ再度入山、本尊を刻んで納めた。四国高野とも呼ばれる。

第六十七番 小松尾山  不動光院   大興寺(だいこうじ)
本尊:薬師如来
宗派:真言宗善通寺派
開山:空海
元々、熊野権現鎮護の霊場として開かれた。後に真言二十四坊、天台十二坊が整備された。本堂の左右に真言、天台の大師堂があり、二宗派によって管理されていた名残り。石段下の大樟の木は、大師お手植えと伝える。
寂本の「四国遍礼霊場記」では、八百屋お七を弔うため吉三郎が仁王像を寄進した話が載っている。

第六十八番 七宝山   神恵院(じんねいん)
本尊:阿弥陀如来
宗派:真言宗大覚寺派
開山:日証
曲亭馬琴の傑作「椿説弓張月」にも登場する琴弾山八幡。
宇佐から京へと向かう途中に、八幡神が立ち寄った琴弾山に日証が、神宮寺として弥勒帰敬寺(六十九番・観音寺の前身)を建立、後に訪れた大師が八幡に本地仏・阿弥陀画像を納め、神恵院とした。神仏分離令で琴弾八幡と分かれた。

第六十九番 七宝山   観音寺
本尊:聖観音菩薩
宗派:真言宗大覚寺派
開山:日証
神恵院と境内を同じくする。大師が聖観音を刻み奉納した。観音は、阿弥陀三尊のうちであり、「濁世の阿弥陀」とされる。唐への留学を終えた大師が、琴弾神社に参詣し無事に帰朝した喜びの儀式を行ったとき、神の啓示によって、この地を開いて寺を建立した。僧侶を常駐させ、琴弾にいます八幡神に仏の教えを及ぼし続けようと考えたのだという。

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四国遍路の旅記録(平成18年)第4回 その2

5月7日     霧の中の三角寺

天候:曇り時々雨
6:30 宿を出る。
三角寺に向う遍路道沿いには、実にたくさんの石仏がある。一人で歩いていても、いつも仏さんに見守られているようで心強くなってくるのです。
三角寺への山道の入り口は、ちょっとわかり難い。生まれつきの方向音痴、例によってウロウロしていると、犬を連れた奥さんがやってきて、丁寧に道順を教えてくださる。
山道は思いのほか荒れていて、けっこう厳しい。

三角寺への道の石仏

 山道の道標


三角寺の山道


三角寺門前


三角寺山門

 三角寺本堂

やがて山道は車道に合流して、寺の門前に。8:20 65番三角寺に着く。
寺は霧の中にある。
山門の鐘を撞くと、何ともいえぬ余韻が身と心を引き締めるようだ。
ここは、大師が三角の護摩壇を築き、護摩秘法を修されたところと伝える。それを伝える石碑もある。
境内を掃除する人が数人。地元の奥様方が交代で来られているという。清清しい境内である。

緩やかな舗装道を下る。川之江に通ずる土佐街道の標石、傍らに中務茂兵衛の遍路石、奥の院へ48丁と記された石仏もある。白い藤の花が美しい。
近くの建設会社が建てた半田の休憩所で一休み。
ここからは、一面の水田の中の道を進む。もう田植もはじまっている。


三角寺先の道標



遍路道の傍(田植)

常福寺(椿堂)

常福寺(椿堂)

10:50 別格14番札所常福寺(通称椿堂)に着く。
ここは真っ赤な門や不動明王、傍らには男女のものをおおらかに誇張した福の神がまつられていたり、ちょっと不思議な感じの寺である。
雨が強くなってきた。お堂の屋根の下で雨宿り。
千葉のYさん、滋賀のRさん、二人の遍路に会う。お二人とはこの後もしばしばお会いすることになる。
雨は止みそうにもない。カッパを着て椿堂を発つ。
国道192号を歩く。雨といえどもできれば境目トンネル(長さ855m)は通りたくない。ヘソ曲がりだから。
遍路地図(へんろみち保存協力会編、第7版)に示されている七田のバス停から境目峠に上がる道を目指すが、バス停には通行不可の札が下がっている。仕方なく七曲がりの旧国道を歩き、峠に至る。
峠には「これより東、徳島県・・」の古い道標。これにはちょっとびっくり。愛媛県と徳島県は接しているんだっけ?地理の弱さを暴露しちゃった。
朽ちた国道標識が捨てられたように佇む。車も通らない。忘れられたような旧国道の峠である。

時計は1時をとっくに回っているが、これまで食堂も店も1軒も無かった。さすがに腹が減る。峠を下り、新国道に合流するところにやっと食堂。うどんの昼食にありついた。

旧国道、山つつじが散る道


境目峠

県境の標石(これより東徳島県・・)

境目トンネルの出口

15:00 民宿岡田着。
この宿は、雲辺寺前の一軒宿、ご主人のお人柄もあり遍路仲間では人気が高い。私もここだけは数日前予約を入れておいた。息子さん夫婦が手伝いに来ておられる。濡れたカッパや笠をかいがいしく干してくださる。
同宿の遍路は私を入れて8人。賑やかな夕食となる。「あったまにきた、もう愛媛にゃこねーぞ・・」と意気まいているスキンヘッドの人がいる。この人だけは最後まで名前も出身地もわからなかった。仮にSK氏としておこう。唯一の50代前半。他は皆50代後半から60代中まで。SK氏とづっと同行している大阪のSさん、三重のMさん、名古屋のNさん、宮城のKさん、すでに顔を合わせている千葉のYさん、滋賀のRさんそして私の8人である。これらの人とは、一部同行したり、札所で会ったり、結願所まで幾度も出会うことになる。
食堂の壁いっぱいに泊まった遍路さんの写真が貼ってある。
ご主人からお酒のお接待があるとの噂も聞いていたが、SK氏の荒れ方がちょっと尋常ではない。控えられたようだ。残念。
しかし、翌朝には、握り飯の弁当を持たせていただいたり、親切で楽しい宿であった。

本日の歩行:37545歩

本日お参りした札所

第六十五番 由霊山   慈尊院   三角寺
本尊:十一面観音菩薩
宗派:高野山真言宗
開山:行基
山門が鐘楼を兼ねている。大師が二十一日間の降伏護摩法を修したところと伝える。寂本の「四国遍礼霊場記」では、「慈尊とは弥勒如来の別称。昔は、阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王など、様々の社や堂が並んでいたという。山号は中国の梅の名所。昔はここにも梅が多かったため、ちなんで名付けたのだろう。」と記されている。

別格第十四番 邦冶山 不動院 常福寺 (椿堂)
本尊:延命地蔵菩薩
宗派:高野山真言宗
開山:邦冶居士
大同2年(807)邦冶居士が庵を結んだ。後、大師が病封じの祈祷をされ、そのとき地中に立てた杖から椿の芽が吹き大樹となったといういわれから、椿堂と呼ばれるようになった。

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四国遍路の旅記録(平成18年)第4回 その1



昨年の3月末に、1番霊山寺を発った四国遍路の旅は、この4回目の区切り打ちでいよいよ結願を迎えることになる。
実は、3回目の区切りで、結願を目指して今治を出発したのだが、体調不良と天候不順が重なり、新居浜でリタイアしてしまった。今回は、どうしても88番大窪寺まで行きたい。

岡山から瀬戸大橋を渡る列車に乗る。輝く瀬戸内海の向こうに四国の街が、山が見えてくる。宇多津、丸亀、観音寺とこれから歩くであろう道を見る。知らずうちに遍路の姿を探したりする。何とも懐かしい四国の地に戻ってきたことを実感する。
今回の旅では、どんな出会いが待っているのだろうか。胸躍る。
第1回目の春には、梅、桜、椿。2回目の秋にはマンジュシャゲの花とコスモス。3回目の早春には桜の蕾。 それぞれの季節の美しい花と路傍の多くの仏に見守られて、私の巡礼の旅はあった。
この8日間、天候は悪く、雨の日が多かったけれど、山道の山つつじの花が一入美しかった。

徳島、高知、愛媛と歩かせていただきながら、その県民性というか、人情の違いをおぼろげに感じてきたものであるが、本州との交流も繁くなり、人の心の変化も最も激しいのではないかと想像される香川県。「涅槃の道場」と呼ばれるこの地、遍路に対する思い、親しみは他地に勝るとも劣らぬものであることを、実感させていただいた。
その生活の中を歩かせていただいた者として、心から感謝を申しあげたい。

さて、結願に至る8日間を、文と写真で留めておきたいと思う。
なお、札所のコメントは、①へんろみち保存協力会編「四国遍路ひとり歩き同行二人(解説編第6版)」、②伊井暇幻遍路「八十八カ所千枚供養(ホームページ)」、③寂本「四国遍礼霊場記」、④真念「四国遍礼道指南」(③④の口語訳は②による)を参考、一部引用させていただいた。これらの札所の情報は、お参りする前日に目を通すため、リュックに入れて持っていったもの。 (平成18年5月6日~14日)

四国が見える(瀬戸大橋より)


5月6日     路傍の仏を拝しながら

天候:晴れ後くもり

 つつじ咲く道を行く

路傍の石仏

田植が始まっている

朝、新居浜駅に降りる。遍路装束に着替え歩き始める。
しばらく国道11号に沿い、やがて旧道に入る。処所に田植の始まった水田や花畑が見える。道端のつつじの花そして石のほとけの姿に心慰められる。
四国に戻ってきたと実感させられるのである。

昼前、別格12番延命寺に着く。
ここは、大師が松の傍で足の不自由な人を霊符で加持したと伝える、いざり松があり、お参りの人でけっこう賑わっている。
この頃より突風が吹いてきて、笠が飛ばされそう。3kほど先、三福寺にお参りする。大きなお寺である。
誰一人いない境内。本堂で合掌していると、ご住職が出てきて「ようおまいり・・、たいへんやなー、この風はこの辺特有でなー」と、お茶のお接待。感謝して戴く。
境内には地元の人の和歌を刻んだ石柱が数本。そのひとつ

「松が枝に月のかかりて三福寺 十二楽師につどうともから」。

延命寺

延命寺

三福寺

三福寺

道標

ここから伊予三島にかけて、札所への道標とともに、金刀比羅宮(こんぴらさん)への標識を多くみる。「三角寺72丁、金刀比羅10里」などとある。
むかしからの、この地とこんぴらさんの親近感が伝わってくる。

伊予三島の街に入る。自転車を押した男性が親しげに話しかける。「どちらからー・・」。スポーツドリンクのご接待。
16:30 ビジネス旅館ろんどん荘着。
「連休はものすごーくいそがしかったよー」と女将。「今日は食事は出ないよー」。
雨が降り出したなか、中華屋を見付け入る。
同年配の主人。「わしらー、店やっとるから遍路しとうてもゆけませんわ・・」。遍路話でけっこう盛り上がる。

本日の歩行:42502歩

本日お参りした札所

別格12番  摩尼山 延命寺
本尊:地蔵菩薩
宗派:真言宗御室派
大師御手植えの松の傍に居た足の不自由な人に、大師が霊符を授け加持すると脚が立ったと伝える。「いざり松」と呼ばれる。

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