長州大工の心と技 その6 伊予神社、金毘羅寺

                                                                      
                                                                  

長州大工門井友祐は、明治20年代以降係わってきた神社建築において主としてその彫刻を担当してきたと思われるのですが、自ら棟梁でもあったりあるいは兄門井宗吉の棟梁のもとであったりで、多かれ少なかれ建築の中の彫刻ということを意識せざるをえない状況にあったと思われます。しかし、ここに紹介する二つの社寺では、建築の普請とは一応切り離された立場の彫刻師として参加しているのです。そのことが、門井友祐が納めた彫刻にどのような影響をおよぼしたか・・興味あるところです。

伊予神社

松山に近い松前町神崎にある伊予神社は、第7代孝霊天皇の第三皇子で伊予の国を治める功績の高かった彦狭島命(ひこさしまのみこと)を主祭神とし、愛比売命(えひめのみこと)、伊予津彦命、伊予津姫命さらに孝霊天皇、細姫命、速後神命を配神して祀る延喜式内名神大社です。(彦狭島命は越智氏、河野氏の祖とされる小千命の父)古来より歴代の朝廷の尊崇をうけ、源義経、河野家等が社殿を造営してきたと伝えます。明治29年、かくも格式の高い神社の拝殿改築に際し、彫刻師として門井友祐の名が挙がったのは、当時中山の永田三島神社、川崎神社、佐礼谷の山吹御前神社などの実績が松前にまで伝えられていたためであろうと言われています。
拝殿前拝の木鼻の獅子と獏、大瓶束の飾り付けは神功皇后征韓凱旋、水引虹梁上の蟇股の龍、向拝側面の蟇股の喰合獅子と巣籠鷹。明細記録には彫刻の名称がこのように記されているといいます。その一つ一つをじっくり見て回ります。
喰合獅子は永徳寺大師堂以来のまさに門井のものと感じさせますが、その他の彫刻は極めて立派な重厚さを見せるものの、あの木組みを飛び出してゆくような奔放な躍動感は何処か抑制されていると感じたのは私だけでしょうか。

伊予神社境内へ


拝殿


拝殿前拝部


拝殿木鼻の獏と獅子


拝殿木鼻の獅子


大瓶束の彫刻、水引虹梁上の蟇股の龍


喰合獅子


拝殿内部


本殿





金毘羅寺

金毘羅寺は松山の東、旧讃岐街道(現国道11号)に近い東温市河之内にあります。隣接する惣河内神社と合わせ広大な鎮守の森を有する大寺です。
平安時代の長寛年間(1163~5)の創立、称明寺と称したが、慶長年間、藩主加藤喜明により松尾山金毘羅寺と改められたと伝えます。寺名が示すように金毘羅大権現を本尊とし、今は真言宗豊山派に属します。近年は1981年に創設された伊予十三仏霊場の結願寺ともなっています。(伊予十三仏霊場には、浄土寺、太山寺、西林寺、八坂寺と四つの四国八十八霊場を含んでいます。)
寺ではありますが、全体の雰囲気は神社であり、拝殿、本殿の配置をそのまま維持し、仏殿と呼ばれる本殿は二重塔の様な形態とし神仏分離を実証しようとしたようにも感じられます。明治29年の拝殿、仏殿の再建に際し、拝殿の彫刻師として門井友祐が参加しています。
拝殿の前拝、水引虹梁上の龍、向拝柱の牡丹に唐獅子あるいは波に蓑亀?の籠彫り、拝殿周囲の欄間を飾る植物の透し彫り。これらは門井友祐のこれまでの仕事には見られない手法が含まれていると言われます。一方で、これらの彫刻は建物に対して控え目であり、独立した彫刻作品のように見えるとの評を生んでいるようです。

この金毘羅寺の彫刻を見て、私は同じ金毘羅大権現を本尊とする箸蔵寺(徳島県三好市池田町)の本殿を思い起こしたものでした。幕末に建てられたとされる箸蔵寺本殿、門井友祐もきっと目にしたことと思われます。その本殿を圧倒するような独特の彫刻を門井友祐はどう見たのでしょうか・・大変興味が湧くことです。参考に箸蔵寺の写真も加えておきます。

石段と仁王門


拝殿


拝殿前拝


拝殿前拝の龍


拝殿木鼻の籠彫り


拝殿木鼻の籠彫り


拝殿木鼻の籠彫り


拝殿前間


本殿(仏殿)


石段を下る



(参考)箸蔵寺本殿の彫刻


(参考)箸蔵寺本殿の彫刻


(参考)箸蔵寺本殿の木組み






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

長州大工の心と技 その5 永田三島神社、川崎神社

                                           
                                                   
永田三島神社

この神社は仁徳天皇の時代(5世紀前期)九州より来て伊予の国永田の里を造ったと言われる長田連(ながたのむらじ)を祭るために建てられたのがその始まりと伝えられます。
元禄6年(1693)伊福城主直系の仙波氏によって今に見る神社の原型が造られます。明治に入り、東に山一つ越え流通も盛んであった砥部の総津に総森三島神社が落成したとの噂を聞き、長年の宿願であった本殿、拝殿を備えた神社の普請を実現すべく門井宗吉、友祐の兄弟が招かれた・・といった経緯であったと想像されています。
神社沿革誌には「明治25年6月本殿斧始、明治26年9月上棟式、遷宮式、明治27年9月拝殿屋根(草葺きを瓦葺きに改築)10月上棟式、大工棟梁、本殿、拝殿とも山口県周防大島郡家室西方村字本郷 門井宗吉門井友祐の両人」と記されているといいます。門井宗吉は大工棟梁として、また門井友祐は彫刻師としての役割分担が明確になりつつある時代と見られています。
拝殿は屋根の改築とともに前拝部の改築も行われたものと思われます。木鼻の獅子や獏は永徳寺大師堂で見られた門井家特有の表情を有するものですが、水引虹梁上の蟇股は「二見ヶ浦の夫婦岩」夫婦円満、家内安全、海上安全などを願う伝統的な図柄で、他の神社にはあまり見られないものとなっています。
本殿の木鼻の龍や獅子についても門井家特有のものと見られますが、本殿で特に注目されるのは縁の下部の腰板に彫刻が施されていることです。それは各面3枚、3面に及んでいます。題材は中国の仙人の説話や「牛若丸と弁慶」など当時ポピュラーであったと思われるものが選ばれています。その図案の大胆さと彫りの巧みさは唖然とさせられるほどです。この彫刻はこの後、炷森三島神社など多くの神社の装飾に影響を及ぼしたものと言われます。
この他本殿側面は猿や獅子などの動物が躍動していますし脇障子も「加藤清正の虎退治」など迫力のあるもの。
この本堂は、まさに彫刻に満ち満ちているのです。これらは彫刻師の提案を住人が承認すると形式で為されたようで、住人にとっても心躍る楽しい過程であったと思われます。

中山の街は近接した二つの神社のお祭りで何やら賑わった雰囲気。仕事に忙しそうなおじさんに道を聞いてはいけません。「そんな神社、なんかそんへんにあったのー・・」。年かさのおばさんに道を聞くべきです。車の置場まで親切に教えてもらえます。

拝殿


拝殿水引虹梁上の「二見ヶ浦の夫婦岩」


拝殿木鼻の獅子


本殿


本殿木鼻の龍、虹梁、手挟


本殿脇障子の「加藤清正の虎退治」


本殿脇障子の彫刻


本殿腰板の彫刻「弁慶」


本殿腰板の彫刻「牛若丸」


本殿腰板の彫刻


本殿腰板の彫刻


本殿腰板の彫刻


本殿腰板の彫刻


本殿腰板の彫刻


本殿腰板の彫刻


本殿腰板の彫刻


本殿腰板の彫刻


中山の街





川崎神社

川崎神社は中山町の町中、永田三島神社の南400mほどにあります。永田三島神社が平地であるのに対し小高い丘の上。
社伝によると第53代淳和天皇の天長元年(824)の創立と伝えます。祭神は孝霊天皇、後に菅原道真を合祀して社号を天満宮とします。江戸時代には大洲藩主の崇拝篤く加藤泰候の自書した「天満宮」の扁額が拝殿奥に掲げられています。
川崎という社号は、中山川、栗田川が合流している崎ある社であるという意味と伝えられます。
今にある社殿(本殿、拝殿)は明治27年に建てられたもの。棟札には、本殿棟梁 門井宗吉、拝殿棟梁 吉金庄次郎の他長州それ以外を含む多くの大工が名を連ねているといいます。一か所の神社の普請では珍しいことであると言われます。それらの大工の中に門井友祐も含まれます。門井友祐はここでも彫刻師としての参加であったと考えられています。
中山の街中に「神清」「智明」と刻まれた注連柱。そこから始まる石段が神社の入口です。やがて杉林の中、素朴な手水舎も好ましい。拝殿は永田三島神社に似た形式。前拝、水引虹梁上の龍、木鼻の獅子。獅子の口は赤い。まさに門井の獅子と思わせられます。
本殿の木鼻の龍は永徳寺大師堂のそれを思わせる巨大なもの。本殿の周りは暗く狭く足場も悪い。脇障子の彫刻(「神功皇后」「武内宿祢」とおもわれますが)は迫力ある優れたものと感じさせられますが、カメラのピント合わせには苦労します。(やはりピンボケ)

注連柱、鳥居


手水舎


拝殿


拝殿前拝木鼻の獅子


拝殿前拝木鼻の獅子


拝殿前拝水引虹梁上の龍


本殿

本殿


本殿木鼻の龍


本殿脇障子の彫刻


本殿脇障子の彫刻





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

長州大工の心と技 その4 山吹御前神社 炷森三島神社

                                         
                                                  
山吹御前神社

松山と大洲を繋ぐ旧大洲街道は概ね現在の国道56号に沿っているのですが、伊予市大平から犬寄峠を越えた辺りから東方へ外れ、山間の道を採ります。犬寄(いぬよせ)の大師堂を過ぎ杉林の中の急坂を下ると谷に沿う集落に源氏、山吹、日浦という字名を聞きます。この山吹の地に山吹御前神社があります。
旧大洲街道はここを過ぎると再び現在の国道56号に寄り中山へと向かうのです。

山吹御前神社に祀られる山吹御前とはどういう人だったのでしょうか。
源頼朝の平家追討に呼応して木曽義仲が信濃の木曽谷に挙兵したのは治承4年(1180)のこと。京に入った義仲の様子を平家物語は次のように記します。
「木曽は信濃を出しより巴、山吹とて二人の美女を具せられたり、山吹はいたわりあって都に止まりぬ・・」
頼朝に追われる立場になった義仲は巴のみを連れて追討軍に立ち向かい寿永3年(1184)近江、粟津が原に敗死します。京に残った山吹については、大津で亡くなったとされる他、各地に様々な伝承が遺されており定かではありません。この伊予の地、佐礼谷(されたに)で亡くなったとする伝えもその一つです。
神社の前に立つ「神社の由来」の案内はその様子を次のように紹介しています。長くなりますが、その一部を抜き書きさせていただきます。
「・・京に止まった山吹は生前伊予守であった義仲のゆかりもあってか、少数の供と共に伊予を目指して落ちて行ったと思われる。しかし、その伊予の国も文治二年(1186)頼朝の所領となったことで頼れる先も失われ、一行に対する風は冷たかった。ある日、一艘の舟が伊予の灘浦(伊予市双海町上灘)に着いた。ひそかに上陸した僅かな人影に囲まれて病んだ山吹御前の姿があった。一行は隠れ里を求め上灘川の流れに沿って真東に見える山方に向かって進んだ。そして現在の伊予市双海町大栄、翠小学校の所より坂道にかかる。一行は竹を切って笹舟とし、これに次第に衰えを見せる山吹御前を乗せ右手の山肌を斜行しながら遂に山頂まで引き上げた。この時より人々はこの山坂を曳き坂と呼び、辿り着いた山頂で山吹御前を真中にして楯を立て従者がこれを囲んで一夜を明かした地を築楯という。またその辺りの集落を高見と呼ぶのは遥か伊予灘の彼方を望見して追手を警戒すると共に沈む夕日に漂泊の思いを深くしたと思われる。一行は更に、現在の国道五六号を東に向かって横切り山に分け入って伊予市中山町佐礼谷平野(ひらの)に出て川の流れに逆らって日浦に至ったが、もうその間に山吹御前は波乱と薄幸の生涯を終えたと思われ衣裳替え地と呼ばれる小祠の所で死装束に改められた。
素朴で心優しい日浦の人々は、この美しい貴人がこの地を永遠の隠れ里としたことに感激し従者と共に地を選んで鄭重に葬ると共にその上に五輪塔を建てた。更に時は過ぎ旧大洲街道の傍に山吹御前を神とする社を造営した。何れも山吹御前の故里に対して東向きとし此の地を山吹(小字)と呼ぶ。山吹御前のこと、囲む人々の優しい心を蛍の里日浦のゲンジホタルの青い光と共に末長く伝えてゆきたい。」

村の人々の願いであった神社が建てられたのは明治27年のこと。「大工棟梁 山口県大島郡西方村 門井友祐」と社記に記録され、その銘は拝殿の獅子の彫刻の裏にも残されているといいます。
山吹御前の五輪塔墓の所在を聞いても、村のやや若い人は「いやーわしは知らんので・・」。でも狭い山吹の地、少し歩けば容易に見つかります。立札などないのが好ましい・・。
山吹御前の伝えと日浦、山吹の人の熱意が長州大工門井友祐の心を大いに揺るがしたであろうことは容易に想像できます。この「長州大工の心と技」の旅を終わってみて私は改めて思ったものです。門井友祐はこの山吹御前神社で最も素晴らしい仕事をしたのではなかったかと。それは確信に近いものでした。
杉林から清い水が流れていました。昔の大洲街道はきっとこんな道、と思う山吹の集落の中の道をできるだけ歩き、街道を導く道標も見て中山に向かいました。

鳥居


山吹姫御前幟


拝殿、本来の拝殿の前拝部のみが残る。現在の拝殿は集会所を兼ね昭和34年に建てられたもの。


拝殿水引虹梁上の彫刻(素戔嗚尊か)


拝殿木鼻の獅子(右)


拝殿木鼻の獅子(左)


拝殿根肘木の獏


本殿


本殿木鼻の龍


本殿木鼻の龍


本殿


本殿


本殿


本殿


本殿


本殿腰板の彫刻


本殿腰板の彫刻


本殿脇障子の彫刻


本殿脇障子の彫刻


山吹御前の五輪塔墓


神社横の道、昔の大洲街道はきっとこんな道


山吹の集落


旧大洲街道の道標、(手印)なかやま(手印)みやもと 大正五年六月



(追記)大洲街道(大洲道)について
本項は長州大工が愛媛に残したもの、その足跡を追うものです。山吹御前神社、永田三島神社、川崎神社は通称「大洲街道」と呼ばれた道に沿って置かれています。(もっとも、伊予では藩政期、藩直轄の道は存在せず、松山から郡中(現在の伊予市中心部)、市場、犬寄峠、中山・佐礼谷を経て内子、大洲に至る道は「大洲道」と呼ぶ方が正しいのかもしれません。)
この道はいわゆる「遍路道」ではありません。この道のこと、この日記のどこに書き留めておくのか戸惑うところです。
佐礼谷から中山への道を辿る本文、ここで大洲街道について追記しておくことにしましょう。

地図「伊予市付近」、地図「向井原付近」、地図「伊予大平付近」、地図「日浦付近」、地図「伊予中山付近」、地図「伊予中野付近」、地図「伊予立川付近」、地図「六日市付近

明治期における大洲街道の最終の道筋については、松山在住の谷向夫妻が現地を実際に踏査して記した貴重な記録(WEB「四国の古道・里山を歩く「大洲街道」)があります。(このブログは長らく姿を消していましたが最近アーカイブとして復活しました。ありがたいことです。)私の作成した大洲街道の地図についても、このWEBに拠るところが大きいもの。私が実際に歩いたのは街道の極く一部であるに過ぎないのですから・・
藩政時代以前の街道(大洲道)には多くの枝道が存在したようです。(脇往還)その一部を大洲道古道として地図に加えました。
藩政期以前の道の多くは1~2m程度の土道であり、近代の交通事情に合わず、廃道として姿を消していった道も多いと思われます。残された道標や仏堂、茶堂などからその道筋を想像するしかない状況でしょう。藤の郷川沿いに北西に進む古道(地図上には大洲古道1と表記)が東の山道に入る所、永木には藤縄之森三島神社と茶堂(永木新四国の中心、天保3年(1832)三島神社地より薬師如来像を現地に移転、「森の御堂」と呼ばれる
)があります。三島神社の鳥居には、応永9年(1402)、元禄16年の銘がある古社。
郡中以南に残る金毘羅道標を示すと次のとおり。
・伊予市市場(南組)「左金毘羅道 右谷上山道」 ・伊予市市場(南組)「金毘羅大門ヨリ三十二リ」 ・伊予市佐礼谷(日浦)「右金毘羅大門ヨリ三十四リ」弘化2年 ・伊予市佐礼谷榎峠「右金毘羅大門ヨリ三十四リ半/施主檜尾 榎峠/左なだ道/天保5年
また、郡中以南に今に残る大師堂を数えれば次のとおり。
・伊予市中山町佐礼谷丙(犬寄) ・伊予市佐礼谷(藤ノ瀬) 明和2年(1765)の地蔵を祀るが地元では大師堂と呼ばれる。
・伊予市中山町出渕(櫓谷) 元文2年(1739)の地蔵を祀るが「南無大師遍照金剛」と刻む。・伊予市中山町(中山) ・喜多郡内子町立川(茶谷)
以上より、大洲街道(大洲道)は金毘羅街道であったこと。そして、遍路道としての補助的役割も担っていたことが認められるのではないでしょうか・・
永木小学校(平成17年閉校)の正門横には古い道標があります。「右 かみなだ二リ十二丁 うしのみね一リ三丁/左 いしだゝたみ」。ここより北西に牛ノ峯を経て(双海町)上灘へ、西方(内子町)石畳へ行く壮大な山道を案内していると思われます。街道や往還道によることなく、山間の厳しい道を往来した当時の人々の苦労と健気さを思わされます。


元永木小学校横の道標


永木の茶堂(森の御堂と呼ばれる)

大洲街道を歩きながら思ったものでした。
この道は交通路としての役割を国道56号に譲り、山村の過疎化とともに、草に埋もれ沿道の文化とともに消えて行く運命にあるのかも知れないと・・          (令和4年6月追記)(令和5年1月改追記)

(追記) 本村(市場)以北の大洲道枝道
本村(市場)以北の枝道についてもふれておきましょう。
市場で本道から分岐した道は、巨大な伊予稲荷神社の鳥居を見て、稲荷、上吾川、下三谷、上三谷、旗屋、横田、以降現在の砥部伊予松山道周辺、嘗ての広大な条里制が残る道、永田、恵久美、岡田などを経て重信川畔の出合、余土で本道に合流していたと思われます。
特に、上三谷までは金毘羅道標や金毘羅常夜灯が多く見られ、金毘羅道の様相を呈しています。
なお、上三谷より松山へ北上する道については、明確な道筋は無かったように思えます。上三谷の正圓寺門前には文久2年の道標「右さぬき道」があり、やや不明確ですが、重信川を越えて北岸のさぬき道延長上に出る(讃岐道の範囲については、松山市森松町の道標に示されている。)
には、出合の渡しの東に「大間の渡し」、「中川原の渡し」があり、これらの渡しに至る道筋も利用されたことと思われます。
地図については「松前付近」、「伊予市付近」、「向井原付近」を、また道標などについては「四国遍路道の石道標」を参照してください。
                               (令和5年11月)
(追記) 石畳から上灘、下灘、中山そして内子へ


石畳周辺の主要路略図(藩政期~明治期)     (クリックで拡大)

伊予市永木の元小学校の傍の道標に導かれて、もう少し足を延ばしてみましょう。
永木の西石畳(昔は伊予郡下灘村に属し、現在は内子町に所属する。)、基本的には麓川に沿った山麓に点在する、東、岡の成(おかのなる)、小狭(こはぎ)、麓(ふもと)、中、竹乃成の六つの集落(組)より成ります。
大正の頃までは組ごとに集まって、「数珠繰り」や松明を掲げた「虫送り」などが行われていたようです。村全体としては、特に上灘・下灘方面との関係が緊密で牛ノ峯を越えて上灘へ、仏峠を越えて下灘へ、鳥越峠を越えて豊田へと・・ 主な交易品は材木(木挽き)で、後に炭が加わる

牛ノ峯地蔵堂(みねじぞう)の春と夏の縁日には特に賑わったと伝えられます。
村東端の東組から永木を経て中山へ行くよう
になったのは大正時代以降のこと。内子まで出るには麓川に多く設けられた堰の飛び石を渡る必要があり、通行は少なかったと言われます。麓川沿いや中山を経て内子への通行が盛んとなるのは、道路が整備される昭和30年代を待たざるを得なかった・・この「昭和30年代」、日本の国全体が急激に変化した時代(それは良いことも、そうでないことも含めて)。
このことを私の年代の者は実感を持って感じるのです。              (令和4年6月追記)



    

炷森三島神社

炷森(とぼしがもり)三島神社は内子から四国霊場44番札所大宝寺を目指す遍路道(国道379号の旧道)に沿ってあります。
私は平成26年3月の遍路の際寄る予定でしたが、神社の近くのお旅所の傍の茶堂で地元のお年寄りと話し込みそのまま通過してしまったことを思い出します。
この神社は永禄11年(1569)曽根城主曽根宣高が大山積神を大三島より勧請して神殿を建立したと伝えます。
現在の拝殿、幣殿、本殿は明治33年に上棟したもので、拝殿には「炷森三島宮改築工事録表」というものが掲げられています。それによれば、棟梁は地元の大本新五郎でその他地元大瀬をはじめ五十崎や松山などの多くの大工が参加しているのです。長州大工として参加しているのは本殿の彫刻師としての門井友祐のみです。拝殿の木鼻の龍は当地天神村の城崎豊、前拝の彫り物には松山の大可賀、武智武八等の銘がみられるといいます。いずれも門井のものとは趣を異にしますが、立派で華麗な彫りであると感じさせられます。唐破風の中の豪壮な斗拱は、この拝殿の最大の特徴でもあると思われますが、泉吉太郎等の作といわれます。
本殿の門井友祐の彫刻の内、脇障子の彫刻、腰板の中国の神話を題材にした彫刻は特に貴重なものと思われますが、保存のためにガラスがはめられ、見難く撮影も困難であるのは残念なことです。辛うじて撮れた、「王子喬」「瓢箪から駒」の2枚を載せておきます。
拝殿は壁のない開放的な空間で、ここで毎年の秋まつりに行われる獅子舞は独特で貴重なものです。Youtubeでもその映像が公開されています。太鼓の音頭に合わせて踊るその所作と筋書きのおもしろさは繰り返し楽しみたくなるものです。
台風の齎す雨は弱まったり強まったり・・写真を撮る状況にはありませんでした。できうれば別の機会に撮り直ししたいものです。

石段を上る


拝殿が見える


拝殿


拝殿木鼻の龍


拝殿木鼻の龍


拝殿舞台


本殿


本殿


本殿腰板の彫刻


本殿腰板の彫刻





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

長州大工の心と技 その3 永徳寺大師堂、総森三島神社、高森三島神社

                                                 
十夜ヶ橋永徳寺大師堂

十夜ヶ橋永徳寺は四国霊場番外札所、別格二十霊場の内です。とかくの説明は省略しましょう。
愛媛県内の社寺建築で長州大工門井家が最初に携わったのはこの永徳寺大師堂であったとされています。明治19年のこと。向拝の蟇股に門井宗吉の銘が残されているといいます。
このお堂は昭和18年、20年の2度の肱川の氾濫により流された部材を集め修復されたものと言われます。
正面から見ると右の向拝柱の木鼻には獏がありますが、本来は左の向拝柱の巨大な龍と睨みあう形で龍があったとされています。水害により失われたものです。
それにしても左向拝柱の巨大な龍、水引虹梁の根肘木に用いられた獅子、虹梁上の喰合獅子の群れ、この迫力は尋常のものとは思えません。さらに堂の周囲を回れば、そこは龍や獅子や水鳥や様々な動物が躍動する世界。神社という様式を離れた大師堂という舞台で、作者はより自由に振舞った・・とさえ思わせられます。
門井宗吉の作とされていますが、特に喰合獅子や水鳥など、これより後、門井友祐の作とされるものと極めて類似した彫刻もあり、あるいは門井家に共通したフォルムであるのかもしれません。
この大師堂より後、門井宗吉は専ら棟梁として、そして門井友祐はしだいに彫刻師としての道を歩んだとされています。

大師堂全体


水引虹梁周囲の彫刻


虹梁上の獅子群


虹梁上の獅子群


左向拝柱木鼻の巨大な龍


右向拝柱木鼻の獏、根肘木の獅子


向拝柱背面の獅子


向拝右部


右側面


後背面


左側面


尾垂木の上の邪鬼(見えるかな?)




総森三島神社

四国霊場43番明石寺から44番大宝寺に向かう遍路道、内子の先を上田渡で分かれ国道379号をそのまま進めば、砥部町総津の街に入ります。現在の国道379号、33号の道は、近世に砥部焼が興り、最近は砥部陶街道と呼ばれているようです。
総津の街を一望する高みにあるのが総森三島神社です。社殿に並んで境内末社の金毘羅神社が建ち、最近の地図には金毘羅社の記名のみがされているようです。
大化6年(650)斉明天皇が朝鮮出兵に備え伊予に兵を動かした際、大三島大明神の神霊を勧請したのがこの神社の始まりであると伝えます。その後大宝2年(702)浮穴の総鎮守として浮穴神社と称し、天慶2年(940)現地に移り惣社三嶋大明神と改称、明治3年三島神社に改められたとされます。
社殿は明治19年の台風により損壊したものを明治21年に再建したとされます。棟梁の名を示すものは何も残されていませんが、「長州から来た大工が、総津の三島神社の猿を彫った」「・・まるで大根を切るように欅の木を削っていった。籠彫りもいとも簡単に仕上げた・・」という言い伝えとその彫刻の出来栄えから、門井宗吉と門井友祐であろうと推定されています。(籠彫り云々の伝えはありますが、籠彫りが見られるのは次に記す高森三島神社の方でこの神社にはみられません。伝えの混乱があるようです。)
拝殿の向拝の唐破風を飾る鳳凰、水引虹梁上の龍、木鼻の獏、獅子。これより後に見る門井友祐の彫刻に比しやや躍動感に欠けるのでは・・と指摘される向きもあるようですが、この不満は本殿を飾る多くの彫刻によって払拭されます。
作者は村人が喜ぶ神社の形式を熟知していたと言えるかもしれません。本殿の木鼻を飾る龍、根肘木に用いられた獅子はまさに永徳寺大師堂で見たあの門井家のものと思えます。本殿側面も彫刻に満ちています。龍、鳥、馬、人物そして三猿など。脇障子の「素戔嗚尊の八岐大蛇退治」と武将図も素晴らしいものと思わせられます。
ちょうど秋の祭りの頃。拝殿には神輿が出されていました。この地域の人々の自慢の神社であることに納得させられます。

石段を上がる


拝殿


拝殿向拝


拝殿木鼻の獏と獅子


拝殿内部


本殿覆屋


本殿


本殿木鼻の龍、根肘木の獅子


本殿側面


本殿側面


三猿


脇障子の素戔嗚尊の八岐大蛇退治


脇障子の武将図


神社境内から見た総津の集落




高森三島神社

四国霊場44番札所大宝寺への遍路道である国道379号の上田渡から県道42号に外れ、4.5kほど、砥部町字高森の高森三島神社です。地図ではここも三島神社ではなく境内社である郡羅栖神社が表記されているようです。
この神社は武者所高盛という人が天正15年(1587)に大三島よりこの地に勧請し、高盛の二字を採って高森三島神社と称したと伝えられます。総森三島神社と類似した立地で、高市本村を見下ろす小高い丘にあります。
三間社流れ造の本殿の棟札に「明治三十三年御神殿再建、山口県大島郡家室西方村大字西方大工棟梁門井友祐同門井宗吉・・」とあるといいます。門井友祐の名が兄の宗吉より先に書かれているのは注目されることで、この時期友祐が実質的な棟梁を任されていたと見られているようです。そのことがどういう結果を齎したか・・
結果的には彫物は比較的地味となり、建築本体の組物に多くの工夫が見られるものとなっているのです。具体的には木鼻は龍や獅子ではなく、菊花葉の籠彫りが採用されていること、水引虹梁上の斗拱と桁の下部に巻斗を並べること、廻り縁を支える組物に挿肘木の手法を用い通肘木の上に巻斗を並べること、など。巻斗を多用する組物は住吉神社でも見られたように長州大工の特徴とも言われます。
本殿の彫物も地味ですがその中で脇障子の彫物には目を見張らされるもの。(片方の脇障子は折からの祭りで幔幕が掛けられみることができませんでした。)
拝殿については棟札は見つかっておらず、作者不明ですが、門井友祐のものと見てよいのではないかと思われています。唐破風の鳳凰、水引虹梁上の龍、木鼻の獏、獅子ともに躍動感溢れた優れたものと思わせられました。
神社の長い石段を下りた所に砥部町山村留学センターがあります。子供たちの黄色い声が響いています。その前で話を聞きました。留学生は1年間親元を離れ集団生活をして自然体験や勤労体験を積むのだそうです。明るい将来を感じる成果を期待せざるにはおれません。

鳥居と石段


石段を上る


拝殿


拝殿の向拝、唐破風


拝殿、木鼻の獏と獅子


本殿と覆堂


本殿


本殿の木鼻、籠彫り


本殿側面


廻り縁の組物


廻り縁の組物


脇障子の彫刻


石段を下りる、高市本村の集落





コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

長州大工の心と技 その2 河崎神社、住吉神社、早虎神社

                                                           

最初は土佐に近い久万高原町東南部にある三つの神社です。これ以前の伊予における長州大工の係わりを探れば、東温市滑川の地蔵堂厨子(寛政三年(1791))、砥部市高市の鴨瀧薬師堂(享和二年(1802))、それに「龍澤寺大工」と呼ばれた岡田家が三代に渡って携わった西予市城川町の龍澤寺の諸堂宇をあげることができると言われます。(前記文献より)

河崎神社

河崎神社は四国霊場45番札所岩屋寺の前の道、県道12号を南下、左折した東川にあります。この道さらに進めば国道494号を経て石鎚スカイラインに通ずるルートと言った方がその大体の位置を想像し易いかもしれません。
ちなみに、先の県道12号左折の箇所を右折し500mほどの地点が旧土佐街道が西から東へ交差していた所です。七鳥の集落へ下ってきた道は県道の七鳥下組のバス停の所から面河川へ下ります。今はそこに沈下橋があるのですが、折からの台風増水、橋は水の中のよう。川から杉林の中に消えかかった旧街道が待ち受けているのです。(愛媛の旧街道については谷向夫妻が自らの足で踏査された貴重な記録「四国の古道・里山を歩く」(ブログサイト)があります。)

さて、河崎神社。768年国司越智宿祢玉興に勅して廟舎を定め浮穴郡鎮護の神として祀るという由緒を持ちます。(年代と越智玉興が合わないとも。)惣河内八社大明神とも河前宮と呼ばれたとされ、祭神は五男三女神(ごなんさんじょしん)。神紋「折敷に縮三文字」が飾られます。
長州大工の係わりから言うと、天保五年(1834)の小大工 八城嶌六次良(弘化二年(1845)棟梁 防州大島郡松越住 本田吉蔵直道の棟札もあるとも。)の棟札があるといいます。
「杉ほがよけーおちとるけーきーつけて」、台風で落ちた杉の枝を踏んで森の中の参道を行きます。石段と狛犬、鳥居が見えてきます。両部鳥居です。拝殿から覆屋に囲まれた本殿に至り、この神社が驚くほど立派なものであることに気付かされます。

参道を行く


石段


狛犬


鳥居


拝殿


拝殿内部


拝殿木鼻の猫のような獅子


拝殿木鼻の獅子


拝殿木鼻の獅子と象


拝殿蟇股の笠と蓑


本殿覆屋


本殿


本殿木鼻の獅子と龍、中央に天狗のような顔




住吉神社

久万高原町下畑野川の住吉神社。四国霊場44番札所大宝寺から45番札所岩屋寺への遍路道に沿っており、私も遍路の際何度か立ち寄った記憶があります。
祭神は住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)。
元文16年(1547)上畑野川岩川よりこの地に遷されたと伝えます。本殿は入母屋造・千鳥破風付、向拝を唐破風とした壮麗なもので、飛翼形春日造と呼ばれます。この造りは高殿神社など近隣の神社に影響を与えたと言われます。(高殿神社は大三島の大工による建築。)
住吉神社本殿は、神社沿革誌に「安政二年(1855)周防大島郡平野村住人、棟梁 丸山熊次郎繁則」の記録を持ちます。
木鼻を飾る彫り物などは控え目ですが、本殿の四手先斗拱の通肘木の各段に巻斗と並べるという独特の組物構成を有しています。

住吉神社参道


拝殿を望む


拝殿


拝殿蟇股の龍、何処かで見たような・・


本殿


本殿




早虎神社

早虎神社がある久万高原町柳井川字本村は、久万高原町の中心部より国道33号で南下、面河川沿いの久万高原町柳井川支所の付近よりヘアピンカーブを重ねる細い舗装道を辿った標高560mほどの高地です。本村という字名が示すように、この高地に結構な数の民家が点在しているのです。
東方に目を向ければ、面河川の深い谷を隔てて高知県境の山、中津山(明神山)1541mが間近に迫ります。
本村へ上る道で「何方から・・」の問いに「広島から・・」と答えると「こちらの出身かのー・・」。所縁のない旅人が来ることは滅多にないことなのでしょう。「神社はまだまだ上、杉の枝が落ちとるけーきーつけて」と親切なお言葉。
神社の前は折からの風で落ちた銀杏の絨毯。手水鉢からは水が湧いている。鳥居、二対の狛犬。周りは樹齢500年にも及ぶ杉の森。
この神社には五穀養生神の伝えを持ち、古くは楊井河内五社大明神と号し、推古天皇4年(596)あるいは神亀5年(728)の設立と伝えられます。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)大山積神、大市日女神、萱野比売神。
石段を上り拝殿の前に立つと、向拝の唐破風の下、兎毛通しの鳳凰、水引虹梁の上の龍の彫物、その全体の流れるような見事な構成に圧倒されます。
拝殿の周囲の壁は新しいアルミサッシがはめ込まれています。この神社は地方祭の中心であったり、結婚式が行われたり・・人々の暮らしの区きりに重要な役割を果たしてきたと聞きます。神社は今も生きています。新しい建材の採用はむしろ喜ぶべきことと思えてきます。
覆堂に覆われた本殿は豊富な彫刻が飾られる一つの世界を造っているようです。向拝柱の木鼻には獅子と龍、脇障子の「鯉と滝」「竹に虎」が彫られます。また、側壁面には司馬温公の説話「瓶割り」、「猩猩と酒甕」が飾られています。
棟札には「安政二年乙六月廿六日 奉上棟早虎五社大明神本社中殿鳥居」「大工棟梁 防州大島郡西方村 吉門浅治郎生勝作 郡御領中 吉門生春」と書かれているといいます。吉門浅治郎とは周防大島の門井家の三代目浅治郎(浅次郎とも書く)のこと。吉門生春はその父門井友助のこと。
安政二年は幕末の1855年。幕末、維新の30年の時を経て愛媛中予地方で多くの社寺建築を残した門井家の四代目、門井宗吉その弟友祐へとその心と技はいかに引き継がれ、いかに変化していったことか。吉門藤次郎、門井友助による土佐山間部の社寺建築、門井宗吉、友祐の明治の愛媛における社寺建築、その結節点としてもこの早虎神社の建築が重要な位置づけにあると言われる所以です。

本村より中津山(明神山)を望む


銀杏


鳥居


手水鉢、水が湧く


狛犬、杉の大樹


石段を上る


拝殿


拝殿の向拝彫刻、折敷に縮三文字の神紋も見える


拝殿内部


本殿


本殿側面、鬼か


脇障子「竹に虎」


脇障子「鯉と滝」


本殿側面、「猩猩と酒甕」


本殿側面、「瓶割り」




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ