四国遍路の旅記録  三巡目 第1回 その3

青い海、白い波、千羽海崖の道     (平成21年4月8日)

昨夜から薬王寺宿坊遍路会館に泊めていただいています。
朝6時から本堂でお勤め。桜がいっぱいの境内に参ります。
少しひんやりとした朝の空気が気を引き締めてくれます。
今日4月8日は灌仏会、読経のあと、お釈迦さまのお話がありました。
「天上天下唯我独尊」は自らが言われたのではないとのこと。ええ、そういう説があることは知っています。でも、釈迦の言葉でもいいのではないか・・と思ったりしました。もっとも、この言葉を誤解して、自己中心的と解されることを恐れるためのお話であったでしょうか。そうであれば、正しい解釈をお話いただければ、と思いましたよ。

さて、今日は、通常の国道55号を通るルートではなく、千羽海崖の上の道を通って白沢へ。さらに山を越えて海岸近くの道で牟岐まで行く計画。結果としては、後半の白沢以降は断念し、国道を通ることになったのですが・・。
そうなると、寄りたいと思っていた山河内の打越寺、そして日和佐トンネル上の横子峠越えの遍路道を素通りに・・。
そこで昨日、時間があったので、鉄道で山河内駅までワープ、逆打ちで23番薬王寺まで歩いたのです。そのこと、ここに書いておきます。

山河内駅のすぐ傍、駅路山打越寺に寄ります。この寺、江戸時代、阿波蜂須賀藩が、遍路や旅人の宿泊のために置いた駅路寺の一つなのです。
因みに撫養(鳴門)から宍喰に至る道筋に置かれた8つの駅路寺を辿っておきます。
①長谷寺(現鳴門市撫養町木津)、②瑞雲寺(現6番札所安楽寺)、③福生寺(現吉野川市山川町川田)、④長善寺(現三好郡三加茂町中庄)、⑤青色寺(現三好市池田町佐野)、⑥梅谷寺(現阿南市桑野町桑野)、⑦打越寺(現海部郡美波町山河内)、⑧円頓寺(現大日寺、海部郡海陽町宍喰)
6番札所の安楽寺は昔駅路寺だった瑞雲寺を併合した寺だそうです。そういえば、仁王門上の宿泊場、現在の立派な宿坊、駅路寺の心が伝えられているのでしょう。
打越寺の大師堂にお参りして、運よくご住職とも少しお話ができました。
ここから白沢を経て山を越え海岸に沿い牟岐に至る道が、昔の遍路道であったことも確認できました。

薬王寺まで逆打ちで横子峠越えの遍路道を探ります。山河内から1kほど、日和佐トンネルの入り口、右側に入る林道があります。
方向としては林道を左折、でも道は見通せません。近くに人影、すぐ聞く。「ワシも知らんが・・あんなもんが・・」と指さす。古い朽ちかけた遍路マーク。
「うーん、間違いねーですな」
谷筋を分け入るがすぐに道を失い藪の中。強引に左斜面を登り開けた場所に。振り返ると何と遍路札が。
5分ほどで横子峠に。峠には地蔵、それに「是より東寺へ・・」の道標。そうか、次の札所は室戸岬の最御崎寺なんだと納得。
峠を下るとすぐ荒れた林道へ。右へ行くがいつまでも登り。引き返し400mほどで林道の出口、国道に出ます。
この林道深い溝が刻まれ草ぼうぼう、廃道のよう。ガードレールだけが無傷な気味悪さ。
入口は鉄柵で閉鎖。片隅に遍路道の表示が見えます。
この横子峠遍路道、全長1.3k、約30分。順打ちであれば、遍路札もあり迷うことはないでしょう。
なお、出口より薬王寺寄りに300m、右下に降りる道があり、これが本来の横子峠に通ずる道と思われますが、現在通行可かどうか、未確認です。

横子峠への道

横子峠

さてさて、今日の本題でござんす。
薬王寺を出て日和佐駅の東口から向かいに見える日和佐城を目指して坂道を登ります。その先が千羽海崖の上を通る四国の道の始まりです。
千羽海崖は、その中央部は高さ200m前後の海蝕崖が2kmに渡ってつづく大岸壁の景観をつくっています。夢の世界なのです。
海崖部分を通る道の長さは7k、その間、指の鼻、大磯、嵐瀬、通り岩、千羽の5個所の休憩所が1~1.5kごとにあり、それぞれ違った海崖と海の姿を見せてくれるのです。
ただ、地図を眺めながらの想像と相違した点は、例の四国の道特有の擬木の階段の上がり下がりが結構厳しいこと、それに休憩所以外では樹木などに遮られ展望の利く場所は意外に少ないこと。
朝の時間は、朝日に輝く海面の荘厳さに魅せられます。樹林の中の道でもいつも海の音が聞こえています。それに、時たま、トットット・・という漁船の音が混じります。
中央部では、大岩壁の壮大さに目を見張ります。
その下の岩は通り岩。高さ20mの岩島で、幅、高さともに10mの洞穴が貫通しています。
千羽休憩所の先からは、外ノ牟井の浜が望めます。青い青い海、白い波、砂浜、一艘の漁船・・。
このところ不眠症気味。そんな光景に浸っているうち、その場で暫しまどろんだようです。まさに夢ですな・・。


千羽海崖の道、指の鼻付近

指の鼻休憩所

指の鼻付近

千羽富士の三角点

千羽海崖の道、嵐瀬付近

千羽海崖の道、嵐瀬付近

嵐瀬付近

嵐瀬付近

通り岩付近

通り岩付近

千羽休憩所付近

千羽休憩所付近

外ノ牟井海岸

 

外ノ牟井海岸


外ノ牟井海岸への分岐(南阿波サンラインの千羽トンネルの真上にあたる)を過ぎると、前方に見えるアンテナ鉄塔が立ち並ぶ山へのきつい上り、そして急坂の下り。
谷川の傍には一軒の廃屋。分岐から2.8k、白沢集落の家と田圃を目にします。

ここまでの所要時間を整理しておきます。薬王寺から外ノ牟井分岐まで、7.3k:3時間15分。分岐から白沢まで、2.8k:1時間20分。

白沢集落にある「牟岐駅14,4k」の道標の前に座りこんでしばらく考えました。
ここから標高400mの山を越えて、海岸の道を経て牟岐に行く・・、そうそう当初予定の道、昨日昔の遍路道だと確認した。
道標には14.4kとあるが、地図上短縮路を採れば11.5kと見込んでいます。
さもなくば、ここより山河内に出て国道55号で牟岐に向かうか。こちらは11kです。
苦をとるか楽をとるか、・・大いに迷った末・・。かなり参っている、暑い、を理由に楽を選んじゃいました。この軟弱ものが!・・。

国道55号をひたすら歩き、牟岐の街に入りました。
牟岐警察横の遍路接待所に呼び止められます。冷たい飲料、お茶、羊羹をいただきお話をします。
今日は何処から・・というので、言いたくなかったけれど千羽海崖経由というと、おばさん連はびっくり。後から出てきたおじさんが怪訝な顔をする。だから言いたくなかったのに・・。

牟岐の海岸

宿は2k先の内妻荘に。
同宿は東京のお洒落なハーレーおじさんに、何と前日薬王寺で同宿の千葉のAさんがいる。
「何でここに・・」、ちょっと足を痛め減速したと言っています。
楽しい夕食。ご主人は遍路道の維持にも尽力されておられるようで、明日行く予定の旧遍路道の情報をいただくことができました。



古目峠越えの道     (平成21年4月9日)

内妻荘を出てすぐの松坂峠遍路道を通らせていただきました。
峠からの展望が素晴らしい。古江の浜では「犬かえり」の岩場もよいしょと越えました。
朝の光輝く太陽の欠片がいつも左側の波打ち際にありました。

内妻の海岸、朝


内妻の海岸、朝

別格4番鯖大師にお参りします。

鯖大師八坂寺

海辺の輝き

浅川駅の先、喫茶Fに寄ります。
ここは、初めての遍路の時に寄り、おいしいコーヒーと女主人の魅力に魅せられた店。2巡目の時はお休み、4年振りで寄れました。
相変わらず愛嬌のある女主人のFさん。夜はカラオケも繁盛しているとのこと。
連日同宿の千葉のAさんも追いついてきて入ってきます。
でも、ここでもう一人、不思議な人と出会いました。
行者の出で立ちでロッカーのような巨大なものを背負っている。中は木造の地蔵菩薩、重量40kだという。
胸には亡くなった奥さまの魂を下げ、地蔵を背に修行して廻っているといいます。
竜王や様々な日本の神と縁の深かった奥さまの多くの不思議な行状についての話を聞きました。
私にはなかなか理解できないけれど、無碍に否定するものとも思えません。我々凡人の世界と細い通路で繋がった独自の異世界の存在を思わせました。不思議な体験でした。

八重桜

その少し先、海南の1号遍路小屋香峰に寄り、施主のかをりおばあちゃんにも会えました。
品のよいかわいらしいおばあちゃんです。昔懐かしい本当の味のトマトを御馳走になりました。
今度、遍路小屋のシンポジュームで講演するんだ・・と言っておられました。合掌してご健康をお祈りさせていただきました。

宍喰までAさんと同行です。私はこの先旧道の峠を探るので、道の駅宍喰温泉でお別れしました。

徳島県の宍喰から高知県の甲浦に行く遍路道は、今は水床トンネルを通りますが、昔は当然山越えの道があった訳です。
阿波の国と土佐の国の境ですから、峠の両側には関所もありました。
この峠道、宍喰峠と表示した地図もあるようですが、やはり古目(こめ)峠と呼ばれるべきでしょう。その古道を探ります。
まず、宍喰の街外れの古目大師にお参りします。
現在の遍路道はここから正梶の集落を左に見て国道55号へ左折しますが、左折せずそのまま進むと、右手草の中に「古目関所跡」の石柱。その先、工場の建物を過ぎたすぐ左に「古道、土佐街道」の標識。ここが古目峠への入口です。
道は荒れてはいますが、しっかり存在感を主張しており、海部ロータリークラブの遍路標識も随所で、迷うことはありません。趣のあるいい道です。
峠には、首の無い石仏があります。
下りは、石が多くなり河原のような所も通りますが、すぐに「ひがしまたはし」、民家の庭先に出ます。港の入江に面して「甲浦東股番所跡」の石碑。
約1.3k、30分の峠越えでした。

古目峠入口

峠への道

古目峠

東股番所跡

(追記)笠塔婆(法華経塔)について
江戸時代中期以降の四国遍路は大師信仰が要。訪れる遍路も殆どいないと思えますが、一つの貴重な標石(笠塔婆)について追記しておきましょう。
甲浦の奥まった港の傍、満福寺の参道階段に「(正面)南無妙法蓮華経」と刻す法華経塔があります。幡多郡柏島法蓮寺の住持、日教が貞享元年(1684)、同様の塔を土佐国内の宿毛市市山、高知市五台山、東洋町甲浦の三ヶ所に建立します。その一つ、甲浦の初建の地は船越(甲浦小学校辺りか)であったといわれます。塔の下には法華経の経典が収められているとも伝えます。


この先もう一つ山越えの道があります。
河内から生見に抜け、甲浦トンネルを避ける道です。実はこの道、内妻荘の主人から、山賊?が出るので通らない方がいいと言われた道。入口だけ探っておきました。
河内の簡易水道施設手前の橋を渡りそのまま山に入ります。道は1m幅の普通の山道。やがて果樹園の中に。
その手前、左に上る細い荒れた道、おそらくこれが峠越えの道です。私はここまでで止めておきました。

何を考えているのか、今日の宿は22番平等寺の門前です。
甲浦から阿佐海岸鉄道で海部まで。乗客は私一人です。
海部からはJR牟岐線で新野駅に向かうのです。

(追記)「八坂八浜」について
 牟岐から浅川までの二里の道は、古くより「八坂々中、八浜々中」と呼ばれた坂と浜の繰り返しでした。これらの坂や浜は特に定説はないようですが、真念「道指南」(1687)では次のようにあてています。(△:坂 〇:浜)△逢坂 〇うちすま △松坂 〇ふるえ △しだ坂 〇ふくら村 △ふくら坂 〇さばせ村 △はぎの坂 〇大すな △かぢや坂 △あわの浦坂 〇いせだ村 〇あさ川浦 △からうと坂 〇いな村 。細田周英「四国偏礼絵図」(1763)も真念に倣っています。
文化11年(1814)の「阿波名所図会」では、絵図の為位置関係は必ずしも正確とは言えませんが、当時の「八坂八浜」の雰囲気がよく伺えます。(本図の掲載が不都合の場合はお知らせください。削除します。)真念の表記の坂、浜の他に「九(?)島の浜」「志ろツホの浜」「楠坂」「桶島の浜」などの表記がみられます。「フクラハマ」の浜辺には今の鯖大師本坊の前身とされる「行基庵」が見られます。またカジマ(加島)やミウラが島であったことが認められ興味が尽きません。


阿波名所図会 八坂八浜図

                                                 (R1.8追記)

 

 

 

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四国遍路の旅記録  三巡目 第1回 その2

地蔵峠のお地蔵さんの前で     (平成21年4月7日)

この日、私はどういう訳か、JR徳島線鮎喰(あくい)の駅に降りました。
ここより鮎喰川を渡り17番札所井戸寺へ。そして、番外地蔵院に参り徳島市街の西の地蔵越を経て、18番恩山寺、19番立江寺まで行く予定なのです。
このルートの大半は、2巡目で通った道なのですが、実は、地蔵越が終わる新貝で園瀬川を渡り、その先あづり越という峠を越えて、JR地蔵橋駅付近に至るへんろ地図に未記載の道を通るというのが目的の一つなのです。
あづり越の道は、最近、地元の高校生の協力により遍路道として整備されたものと聞きます。

距離はおよそ次のようです。鮎喰駅→17番井戸寺:2k、井戸寺→地蔵院:4.2k、地蔵院→園瀬川(地蔵越):3k、園瀬川→地蔵橋付近国道55号(あづり越):7k、国道55号地蔵橋駅付近→18番恩山寺:5.8k、恩山寺→19番立江寺:4k、
以上計26k。

地蔵越では、とてもいい出会いをいただいたし・・、その前後は省いて、地蔵院からあづり越までの道程を記しておきましょう。
その前に、一つだけ。JR徳島線の鮎喰という駅、もちろん無人駅ですけれど・・。ローカル線の風情がいっぱいの感動的な駅なのです。篤と写真でご覧ください。

鮎喰駅で

早朝の井戸寺も、そして地蔵院も人気はなくガランとしていました。
この度は、お参りはしても納経はしません。気楽なような、何か忘れ物をしたような・・気分ですね。
ああ、満開の桜がきれいでした。特に地蔵院の前の池に姿を映す桜は見事でした。

地蔵院

地蔵院前の桜

地蔵院を出てすぐ遍路道に入ります。
この地蔵越、車道ができる前の山道が遍路道として残されていて、その全てを選べば大半、土の上を歩くことができるのです。
最初の遍路道は、小さな流れに沿った道、ししおどしやミニ水車がある、ロープを伝う場所もある・・小さなロマンの道です。
次の遍路道は、峠の最高部を越える道です。地蔵があります。
お参りして近くのベンチで休んでいると、赤いセータの人がやってきて地蔵に手を合せ、花に水をやり、周りの清掃をしています。
ベンチの隣に座って話しを始めます。
「わしは91になるんじゃ・・、
ばあさんが逝ってから13年になるけんどー。こやって毎朝、みそしるつくってひとりでくらしとる・・
せこいこともさびしーこともありゃせん。
人間、最後はみーんなひとりじゃ・・」
「この新しい道ができるまで、みーんなこの峠みち歩いたもんや。
車でとーるようなってから、おじぞうさんだーれも世話せんようになってなー。それを思いだしたんや・・。
こやって元気でおられるんも、おじぞうさんのおかげじゃ思うてのー。毎日あがって、花やって、水やって・・
そら、そこん見える水仙、人に頼んで車で近くまでもってきてもろうたんや。」
「おーそう、おへんろさんこれ・・」と言って、ポケットから乳酸飲料の小さな瓶を出すのです。
「いやー、ここで飲むの、楽しみにされとったでしょう・・、気持ちだけで・・」
「いやいや、わしのはここにあるけー」
おじーさんとは、どうしても呼べなかったですよ。
「いい顔しとられる・・写真を一枚お願いしますよ」
品をつくった、その人の顔、それがこの写真です。

もう一度お地蔵さんにお参りする振りして、その人に手を合せましたよ。
三つ目の遍路道を下る足の何と軽かったこと・・、いい出会いでした。

峠の地蔵

峠で会った人

眉山の緑の中に、ポツポツと山桜のピンクが彩る様を振り返りながら下ると、園瀬川が見えてきます。
この川、水量はそれほどではないけれど、葦などの水棲植物が豊かに奔放で、以前から印象に残っています。

園瀬川

園瀬川を潜水橋で渡って寺山地区に入ります。
国道438号から県道208号が分岐する辺り、道路の整備工事中で道が大変分かりにくくなります。
このあたりで「あづり越」と聞いても、殆どの人は知らないようです。
「で、どこに行くの、大日寺?」と言われます。後で気づいたことですが、ここから13番大日寺は県道208号で5kほどなのです。
国道438号に沿った新しい住宅地に迷いこみ、「どうも変だ・・」。住宅地図を持って、何やら配達している車に会って、やっと誤りに気づく始末。
「あづり越」の道、近くに行ってもどうも不人気。畑のおばさんから「昔は通った人もいたようだ。今は通れないのでは・・」 
ただ、地図にもある目印、おおぎ学園は廃校、今は障害者支援施設「あおばの杜」です。
峠へはけっこうきつい登り、道も荒れています。
峠には大師宝号塔、江戸後期文政の年号があります。
ハイキングの人に出会います。「この道で遍路さんに会うのは珍しい、私も歩き遍路したくてねー。こうして歩いて足を鍛えているのですよ・・」遍路のこと、いろいろと聞かれました。

あづり越えの道


あづり越えから見た徳島の街

菜の花と山桜

一説に言う、屋島に向かう源義経があづった(この地方の言葉で「苦労した」の意)のがあづり越の語源というのは、捏造であるとか。また、歴史上この道が遍路道であったことは一度もないとか。いろいろ言われているようですね。
それはともかく、この道、17番井戸寺から18番恩山寺に行く道として、徳島市街を通るよりづっといい道だと思いますが・・ね。

休憩、話、道迷いなど含んだ凡その所要時間を書いておきましょう。
地蔵院から地蔵越で園瀬川まで:1時間。園瀬川からあづり越を経て国道まで:2時間40分。恩山寺まで1時間20分。立江寺まで1時間。

ここから国道55号に向かう途中にある弁天山。山と名付けられた自然の山としては日本最低だといいます。(6.1m、頂上に厳島神社(弁財天)を祀る)
まあ、絶対寄らにゃきゃ損というほどでもないですが、話のネタにはなるでしょう。

その先でお会いした平服の女性。聞けば88ヵ所周り20数回の先達さんだと・・(歩きは阿波1国1回だと言っておられましたが)。
教育的指導のお話も・・19番立江寺への道中のお話も、まとめて省略とさせていただきます。
ただ、これまたどういう訳か、その晩は桜が咲き乱れる23番薬王寺にお参りしています。写真だけでも載せておきましょう。

桜咲く薬王寺

薬王寺で


薬王寺で


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四国遍路の旅記録  三巡目 第1回 その1

阿波一国 あっちこっち 

3月、88番大窪寺で二巡めの結願をさせていただいたのち、もし三巡目を廻らせていただけるとしたら、電車やバスも使って、歩きたい所だけを歩く、ちょっと怠けの、いや自在な遍路をしたいと思っておりました。
この度の「阿波一国あっちこっち」が三巡目の端緒となるとすれば、まさに自在な遍路となりました。できるだけ、これまで通ったことのない道を歩くという希望を絡めて計画したのですが、結果的には、ちょっと自在過ぎる、はちゃめちゃの行程となった感もあります。まあ、それもお許しいただけるでしょうか。

4月6日から11日までの6日間。桜満開の下の遍路道でした。まずは、二巡目結願のお礼参りを兼ねて、1番霊山寺に参ります。本来は大窪寺から歩かないといけないのかもしれませんが、東かがわ市引田から歩きました。
その代わりと言うわけではありませんが、霊山寺の奥の院大麻比古神社とその奥宮のある大麻山にも参りました。
徳島市の西、地蔵越えの道と新たに遍路道として整備されたあづり越えの道をあるきました。
それから23番薬王寺まで飛んで、横子峠と山河内まで海崖の上の道を歩きました。この道、感動の道でしたが、もちろん古くから遍路道であったことはありません。
牟岐から南下し別格4番鯖大師を経て、阿波、土佐国境の古目峠を探りました。
反転して22番平等寺から20番鶴林寺まで逆打ち。別格3番慈眼寺に参りました。そこから山を越えて神山町まで参りました。これも遍路道ではありません。
焼山寺参りを前にして、所用のため打ち切りとなりましたが・・。

春遍路の季節。多くの遍路さんにお会いしました。また、多くの地元の方々にお目にかかれ、深く心に残る出会いもありました。
ありがとうございました。 南無大師遍照金剛。

 


大坂峠から大麻山を越えて     (平成21年4月6日)

3月に88番大窪寺で2巡目の結願をさせていただいたところです。本来は、ここより歩いて1番霊山寺にお礼参りに行くのが筋なのかもしれません。でも、どういう訳かちょっと飛んで、引田(東かがわ市)から大坂峠、卯辰峠、そして大麻山を越えて霊山寺へ参ることにしました。何故か。
長らく絶版となっていた、宗教民族学者五来重博士の「四国遍路の寺」が文庫本化により入手可能になりました。その影響も少なからずあります。
この本、博士の講演録を元に刊行されたもので、若干の曖昧な部分を残しているとは言え、大きな骨格として、多くの寺が元々は山岳信仰などを基とする修行の地から里におりてきたものとする主張。そして、その始原の地は、現在奥の院として残されているとする。
霊山寺の奥の院は、1.5kほど北にある阿波一宮大麻比古神社です。そしてその奥宮は神社の背後、鳴門一の高山、大麻山(538m)の山頂にあるのです。
やはり、奥宮と神社にもお参りしたいと思わせられるのですね。

引田から大坂峠の登り口まで3k。途中、番外東海寺に参ります。境内は満開の桜でした。
大坂峠への道は、たっぷりと幅をとった素晴らしい土の道です。
2kほど登ったところに案内板、その上に展望台があります。
案内板には、この道が明治8年、それまでの「歩荷」(人が荷物を運搬する)の道から「駄荷」(牛馬が荷物を運搬する)や車の道に改修されたことが記され、その後に次のように書き添えられています。
「・・ここより650m上った峠には、昭和10年3月まで営業していた「豆茶屋」がありました。・・豆茶は峠を往来する人に重宝がられ、茶屋は憩いの場所として春などは「おへんろさん」接待の場となっていたといいます・・」
目を閉じて、当時の情景を思い浮かべ、羨むばかりです。
展望台からは、春霞の向こう、引田の街と海が見えます。そこの案内板には、江戸時代、商港としても栄えた引田港の様子が記されています。
500mほど行くと、不動明王が祀られています。素朴なお顔の、怖くないお不動さんです。そのすぐ先が香川県と徳島県の県境で、ここが峠です。

大坂峠への道

展望台から望む引田の街

大坂峠越えの車道

大坂峠の不動明王

大坂峠(県境)

三叉路を左折し急坂を下ると車道に交差します。上り口から3kほどでしょうか。
大坂峠を越えた多くの遍路はここから右に下る道を選び、3番金泉寺に向かうでしょう。金泉寺まで6.3kです。
私は、ここより卯辰峠まで6.4k、さらに大麻山まで3.7kの道程です。
1k余りで舗装も切れ、ベタノ谷という谷に沿う山間の道となります。たまに通っていた車にも全く出会わなくなります。なんとこの山の向こうは広大なゴルフ場であるらしい。何ということでしょう。
県道41号に交差し、卯辰峠までの2.4kの登り舗装道は足に応えます。
余談。峠から下る県道沿いは、大量のゴミの不法投棄場所として悪名高いところ。私は目にできませんが、今はどうなっているのでしょう。


大坂峠を越えて東谷の集落を望む(JR高徳線と3番金泉寺への道が見える)

大麻山への道


大麻山への道から鳴門大麻町を望む

卯辰峠から大麻山山頂までは3.7k。最後の0.4kは大麻比古神社からまっすぐ北に向かう奥宮参道に合流します。
参道分岐までの3.3kは、上ったり下ったりの道、四国の道特有の擬木の階段が続くのです。これがけっこうきつい・・。初日で体調も悪い私は休憩を繰り返し(擬木の階段、リュックを上段に掛けて休むのには好都合・・)最後は急な石段のパンチを食らい、2時間近くを掛けました。通常なら1時間20分というところでしょうか。
途中、夫婦、男一人、男2、3人と実に多くのハイキングの人に会いました。一様に、この道で遍路に会うのは初めてだと驚かれます。そして、いろんなお話をいただきます。ハイカーの多くは、きつい参道は登らず、四国の道から分岐して北西側から頂上に至る緩い登りを選ぶようです。(この道は地形図にはありません。)
あっそうそう、ハイカーには人気であるらしいヤッホー地蔵尊にもお会いしましたよ。

登り口から少しのところに「をたつの祠」があります。昔からこの地方の人はをたつに雨乞いをしたり、豊作を祈ったりしたといいます。
をたつと卯辰峠、何か関連があるのでしょうか。もっとも卯辰は東南東を示す方位、大坂峠の東南東に当たるための命名との説もあるようですが・・。

ヤッホー地蔵尊

大麻比古神社奥宮

奥宮参道の石段

奥宮は予想以上に大きなお社でした。主神は猿田彦大神。
お参りしていると奥からトントンと音がします。大工さんが一人で床を普請中です。
宮の周囲には小さな末社が三つほど。それに、20mはあろうと思われる航空管制灯の鉄塔があります。
奥宮の参道は、よくぞ造ったと感心するような見事な石段。これが山を下るまで2kに渡って続きます。
途中で出会ったハイキングの二人連れとの話。地元では、足腰鍛練のためこの参道を上下する人が多いとのこと。またまた、日本国中の歩き道について話の花が咲くのです。

大麻比古神社

大麻比古神社本殿

大麻比古神社の大楠

神社参道の花ニラ

大麻比古神社は阿波の一の宮。誠に立派な神社で、境内は凛とした幽玄の空気が身を包みます。
祭神は大麻比古大神(天太王命:あめのふとたまのみこと)と猿田彦大神。
天太王命の孫、天富命がこの地に来て麻布木綿を生産し殖産興業に尽くしたことが由緒に書かれています。また猿田彦大神は、大麻山山頂より下りここに合祀されたと言われます。
神木の大楠に目を見張り、近くの草原一面の花ニラに心慰められます。

霊山寺

霊山寺門前

山門横の桜が満開の霊山寺にお参り。
5時を過ぎており、境内は静かです。自らの般若心経の声に驚いたりします。

門前の宿に入ります。4年前、最初の遍路の初日に泊まった宿です。
若女将、そちらはお忘れでしょうが、私は覚えてましたよ。
相変わらずきれいな宿、これから初の遍路・・緊張した感じの人も同宿で、当時の自分を見るよう、懐かしい宿でした。

地図上の距離と所要時間を整理しておきましょう。なお上にも記したようにこの日は特に体調不良。山上りの時間はあまり参考にならないでしょう。
大坂峠入口~大坂越分岐:3.3k、1時間、大坂越分岐~卯辰峠:6.4k、2時間、大麻山登山口~奥宮:3.7k、1時間50分、奥宮~大麻比古神社:2.4k、1時間10分。

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四国遍路の旅記録  二巡目 第6回 その4

平成21年3月17日     女体山を越えて・・、桔願へ


志度の街、古い家並を見ながら志度寺の門前で南に折れて進むと、左手にオレンジタウンと大きな看板を掲げた、新しい住宅地が広がっています。朝日が溜池に光を落とし輝いていました。

志度の街で

オレンジタウンの朝

それを過ぎるとすぐ道際に長尾寺の奥の院と言われる玉泉寺があります。お参りします。
ここより3k、ついに桔願寺直前の寺、87番長尾寺に着きます。
この寺の縁起はよくわからないところが多いようです。長尾寺は今は天台宗ですが、昔、志度寺の一院が、先ほどお参りした奥の院の位置に、そしてここに移ってきたのではないかと言われています。
お参りは私の他1人だけ、寂しい境内です。

87番長尾寺

大窪寺への道はやがて鴨部川に沿い、前山ダムの畔、おへんろ交流サロンに着きます。
桔願前の歩き遍路はここで「へんろ大使」と称する認定証とバッジを戴けるのですが、私は1巡目のとき戴いているので名前を書いただけです。
ここで戴いた地図によると、ここから大窪寺までのへんろ道は5つあるということです。
①バス通りコース。県道3号と国道377号を通る道で、歩行3時間。
②旧へんろ道コース。昔からの遍路道に最も近い道と言われる道。多和相草からは、①の旧道です。歩行2時間50分。
③花折山遍路道。②の最初の部分花折林道の迂回路で最近整備された道です。急坂あり。この部分以外は②を通り、歩行3時間。
④四国の道コース。来栖渓谷を経て女体山(763m)越えの道。最も地道が長い。歩行3時間30分
⑤多和神社コース。多和神社を経由する舗装林道で太郎兵衛館先で④に合流する。歩行3時間。
私は、1巡目の時は雨で②を選んだのですが、今回は天気も良いし最も地道の多い④を行きます。

前山ダム湖畔の道祖神


古いベンチ (来栖神社手前)

サロンを出て、県道を左に外れ橋を渡ります。すぐ来栖神社。
来栖渓谷沿いの舗装道、所々に民家があります。来栖神社より1.2kで右に分岐。山道に入ります。
分岐から500mほど最後の民家(東さん)までは辛うじて舗装道、その先は山道。厳しい急坂を越えて下り多和神社経由の舗装林道に合流します。
分岐から2k。ここより女体山山頂まで1.5k、標高差270mを登る山道です。
山頂近く、急斜面が崩れて道が無くなった箇所、コンクリートを流し、鉄の階段と橋が造られています。
最後は岩に縋って山頂まで達します。サロンを出て3時間でした。
山頂からは春霞の彼方、屋島、五剣山、高松が望まれます。絶景です。

女体山への道

女体山山頂より

ここより0.7k下った場所より分岐する大窪寺奥の院胎蔵峯の往復0.4kを含め1.5kを大窪寺まで下ります。
奥の院胎蔵峯は、波型トタンとブロックの粗末なお堂ですが、内部は清潔で岩窟のなかに阿弥陀仏と大師の石像が祀られています。
辺りには多くの石仏、幽玄を感ずる場所です。
奥の院のお参りを含め女体山山頂から大窪寺まで1時間10分でした。

胎蔵峰奥の院

88番大窪寺。この寺は昔から桔願寺と決まっていた訳ではなさそうです。
しかし、若い空海が生誕地の善通寺から阿波の焼山寺、太龍寺、さらには室戸岬に行く経路としては、ここは重要な場所で奥の院に修行の場を置いたであろうことは確かのようです。
さすがに四国巡礼の桔願所、多くの遍路で賑わっています。団体バスから降りた遍路さんたちは、本堂前に用意された階段に並んで記念撮影です。
その横では、ベンチに座って目を瞑り、何やら感慨に耽っていそうな歩き遍路の姿もあります。ここで桔願を迎え、涙が止まらなくなったという遍路も多く耳にします。
お前はどうなんだ・・。いやいや、私は2巡目だし、区切りだし・・、それほどのこたーないですよ。でも、本堂と大師堂で、いつもより倍くらいの時間を掛けて読経させていただきました。
広島から持ってこられた原爆の火にもお参りしました。
皆さんおっしゃるように、それでも納経所の対応は事務的でクールなものでしたけれどね。

88番大窪寺

大窪寺の遍路

金剛杖の果て

山門を出たところで飴湯のお接待。
門前の店で、水をいっぱい所望、うどんを注文しましたが、半分食べるのが精いっぱい。早々に門前の宿に入りました。

同宿は、志度寺前で一緒に歩いた若い人も、へんろサロンで私と入れ替わりに出ていった人も、高松から歩いてきたという超健脚の人も、善通寺近くの若いお坊さま夫妻もいました。
桔願を果たした人は皆どこかすっきりした顔をしています。

明日の大瀧寺行きのこと、女将さんに相談しましたが、そんな道は知らん・・こちらからじゃ無理じゃないかと・・。まあ、どうにかなるだろう。早朝の車の手配だけはお願いしました。

     本日の歩行:     34199歩
     地図上の距離:    20.2k



平成21年3月18日     ロープと木に縋ってよじ登る、大瀧寺へ


88番大窪寺で2巡目結願の翌日、香川・徳島県境の阿讃縦走コースを通り別格20番大瀧寺に参りました。
この寺は標高910mの大瀧山山頂にあり、歩きでは最もお参りが困難な寺と言われます。しかし、ここは別格20札所桔願の寺でもあるのです。

この香川県と徳島県の県境の尾根を通る阿讃コースは、へんろ地図には載っておらず、インターネットの遍路サイトである方が紹介されたものです。
念願のルートですが、弱足、非野宿、帰りは別ルート、荷物は預けたい、この付近宿が少なく、最も近い唯一つの宿は連泊不可、というクイズのような難問に悩んだ末、大窪寺門前の宿を朝発ち、登山口の長谷集落まで車を利用、途中竹屋敷の宿に荷物を預ける・・という苦肉の策を採ることに。
寺からの帰路はへんろ地図(第8版)にある夏子に下る道を通る。
歩行距離は約26kとなる予定。

道しるべ  大瀧寺への阿讃縦走コース

長谷の金毘羅神社の本殿裏から尾根を通る山道に入ります。
寺近くまで常に尾根道であり、県境杭とピンクテープに導かれ1ヵ所を除き迷い易い所はありません。
石の少ない歩きよい道なのですが・・実は始めの2.8kで標高290mから850mを稼ぐ急坂なのです。歩き始めて20分、最初の急坂、トラロープが張ってあり、これと樹木に縋って強引に登ります。その後連続して2個所も。
通常の山道はジグザグに道を切りますが、ここでは自然の地形のまま・・これがこういうことに。
大相山に分岐する標高850m地点まで1時間40分を要しました。
この分岐が唯一の注意ポイント。道の紹介者が付けられたと思われるへんろ札を見落とさぬように・・左分岐。
その後の1.2kは標高720mほどまで下り道。左手に新設林道が上がってきていてびっくり。おそらく平間集落から上がってくる道。
それから道は上がったり下がったり、2個所の850mのピーク前はまたまた急坂。ここにはロープはありません。木に縋るのみ。
電話鉄塔が見え隠れする、寺は近い。十三丁と彫られた石柱があります。昔は参道であったということなのでしょうか。
無線鉄塔の横を通り車道に出ます。長谷から約7k、私の足で3時間30分でした。やはり、健脚向きの道と言えましょう。
大瀧寺は少し左に下って10分少々です。

ロープに縋って

へんろ札

尾根の笹道

丁石

寺の隣の石段を上ったところの西照神社は、立派ですが、大瀧寺は由緒ある別格20番桔願の寺としては、驚くほど簡素です。

余談。空海の著書「三教指帰」の中で「阿国の大瀧の嶽にのぼりよじ・・・谷響きを惜しまず・・」と書かれているのは、21番札所のある太龍山であるであるという説と、この大瀧山であるという説があります。
当然こちらの寺では後者の説を採っているのですが、いずれの場所でも若き空海が虚空蔵求聞持法を修したというのは大いにありうることだと思われます。

納経所で何度も声をかけますが、人の気配もありません。ふと見るとブザー、何処からともなく女の方が・・。
ここは、水が出ないところと聞いています。持ってきたペットボトルのお茶も残り僅か。その心が通じてしまったのか、あるいは顔に出ていたのか・・。新しいペットボトルのお茶を差し出される。有難くて涙・・でした。
聞こえてきた、この山の上の生活の苦労とも聞きとれる少ない言葉・・。それは、ここでは書くことはできません。ひょっとしたら、聞こえる声ではなかったかもしれませんから。

別格20番大瀧寺


大瀧山山頂より、吉野川が見える

夏子へ下る道

寺からの帰り路はへんろ地図にある夏子に下る道を通りました。
1k余りはコンクリート道で、育苗場の温室や畑があります。その下の九十九折れの道は、湿った赤土で雨の日は歩き難いでしょう。
25000地形図で見ると、周りは果樹園となっていますが、今は森林です。1車線幅の林道の風情。
へんろ地図のH450とH270の間は、多くの方からの情報通り不通。3k以上に渡り舗装道を迂回します。こんなところでへんろ仲間で知人のMさんの遍路札を見ました。ありがたいことです。そういえば鯖大師明善さんのごく最近(この2月)の札も見ました。
迂回路はちょうど足の形をしていて、その足首の部分、畑を越して先の道が下方に見える場所があります。
畑にきれいなおねーさんがいます。「下の道までここを通っていいですか・・」「どうぞ。鉄の格子があるから、元に戻しといてねー」
畑の周囲は、猪除けでしょう、鉄格子があるのです。おかげで、少し短縮。

へんろ地図のH270の地点。カーブミラーに書かれた遍路道の表示、Mさんが書かれた注意書きなど、すべてペンキを塗って消されていました。
寺から約9.7k、3時間20分で夏子ダムの畔、県道193号に出ました。

夏子ダムの傍にある休憩所。小さなお店があります。
おばさん2人、おじさん1人。おばさん1人は確かに店のひとと思えますが、あとの2人は手伝いなのか、暇つぶしに来ているのか不明。突然の遍路の登場に一気に賑わいます。
「おへんろさん、づーと歩いとん?足が強いんじゃねー、それに気ーもな。うちらもへんろするよ。阿波一国廻りでなー。足が弱いけー歩かれへん、バスや。ところでだんなはんは日本人とちゃうんじゃー、どっかの国がまじっとらへん?」
「えー、そんなこと言われたの初めてじゃ。わしには身に覚えのないことでござんすよ・・」
お参りしたのがこの山の上のお寺と聞いて、そのお寺の話になる。
「うちがハタチくらいときやったか、お寺が火事になってご本尊のお軸焼いてしもーてなー。前の住職さんが気ん毒なことなってしもてなー。今のお寺のちょっと先、お墓のとこや・・。」
「そういうことがあったですか。気の毒なことで・・。で、別格20番の桔願所のお寺としてはちょっと寂しいお寺でがんすなー。水も出ないちゅうことだし、近所に人家もないところで暮らすのは、並大抵の事じゃないでしょう・・」
「お寺の横に家建てとったろー。今のご住職がお布施せー、せーいうもんだけーあまりよー言われんのよー。うちは檀家じゃないけーえーけんど・・・」
おっと、際限がない・・。これ以上はカットですな。

多和の道で

へんろの影

朝通った山道の登り口の長谷まで4.5k。さらに多和を経て宿まで4.5k。
遍路は長い杖を持っているためか、大抵の犬には吠えられます。でも、散歩中の犬は安心。犬連れのお年寄りと取り留めのない話をしました。
何処からか、草と木を焼く香りが匂ってきます。

竹屋敷の宿は遍路には立派すぎる宿。でも温泉とうまい料理で寛げましたよ。
この宿の内外には多くの山頭火句碑があることでも知られます。見て歩くのも楽しいこと。そのなかのいくつかを記しておきましょう。

水音しんじつおちつきました    ずんぶり湯の中顔と顔笑ふ    涸れきった川をわたる

分け居れば水音    分け入っても分け入っても青い山    ひとりひつそり竹の子竹になる

空へ若竹のなやみなし    水あれば椿おちてゐる    カラスないてわたしもひとり

ひらひら蝶はうたへない


2年半を要した私の2巡目の遍路の旅の終わりでした。
これからはもう、すべてのお寺を順番に歩くことはないだろうな・・。どこかの堂守さんが言われたように、好きな場所だけ歩けばいい、電車やバスに乗ったり・・、そんなことを考えていました。


     本日の歩行:     万歩計不良のため計測なし
     地図上の距離:    33k  内7.3kは車利用

     (平成21年3月10日~3月18日)

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四国遍路の旅記録  二巡目 第6回 その3

平成21年3月15日     樹木の向こう、滝の音する奥の院


無人の国分駅に降りたのは、私一人。駅舎で遍路装束に着替え、9時30分出発。
国分寺の門前で一礼、しだいに勾配を増す坂道を登ります。
途中、手に何かの種を置いて鳥に与えている人に出会いました。
「ほー、よく馴れるものですね・・」毎週、この道をハイキングしているとのこと。白峯寺に行ったり、根香寺に行ったり。鳥の名前も聞きましたが、すぐ忘れました。鮮やかな色の鳥です。


白峰に向かう道から、国分町付近

白峰寺への道

標高380mまで山道を上ると、そこには県道が走っています。
一本松という場所。昔は大きな一本松があったのでしょう。
2kほど県道を通り、再び遍路道に入ります。一昨日から昨日にかけて雨だったためか、道には水が流れています。

81番白峰寺。山の寺だけあって何処となく山岳信仰の雰囲気が漂います。金倉寺同様、智証大師所縁の寺ですが、現在の宗派は真言宗です。同じ境内に崇徳上皇の御陵もあります。

白峰寺の大師像

来た道を戻り根香寺に向かいます。
根香寺まで5k、途中五色台で県道に出る他は、その殆どがアップダウンの激しい山道です。雨で泥濘んだ箇所も多く歩き難い道です。
白峯寺より300mほど行くと、下乗石(摩尼輪塔)があります。元応3年(1321)密教僧金剛仏子宗明の建立。上部の空・風・火輪は五輪塔形式、水・地輪は平板な卒塔形式。全国でも珍しいものだそう。向かって左の下乗石は天保7年(1836)高松藩が建てたもの。摩尼輪塔を保存するため覆屋を造り、建立の趣意を裏面に刻字しています。

その少し先、奉献毘沙門天と書かれた石灯篭があり、そこから足元の悪い石段を50m程下った所が白峯寺奥の院毘沙門窟です。薄暗い小さな岩窟の中に石に浮彫された毘沙門天が祀られています。覆い堂は最近建て替えられたようです。
辺りは鬱蒼とした樹木で近くに滝の水音が聞こえます。昔は行場があったのかもしれません。
こうやって、奥の院に拘ってお参りしたいと思うのは何故か。奥の院は現在の本寺の発祥の地であることが多いと聞くからです。
今より千年を超える昔、中国より伝わった仏教や道教の影響で、山は呪力獲得のための修行の場となる。深い山の洞窟に籠り、修行をして巡った古の行者。そこに小さなお堂ができる、それが今の奥の院の地。やがて人が集まり、寺は少し山を下った広い場所に移る・・。88札所の中にもこうして現在に繋がる寺が数多いであろうことに首肯させられるのです。

 摩尼輪塔(右)と下乗石

奥の院の入口

 奥の院毘沙門天石像


根来寺から白峯寺の間の道には五十の丁石地蔵が置かれていますが、その39丁石の所、国分寺からの道が合流します。
丁石地蔵の隣には栗田修三96度目石(昭和11年)、扇子を持った手差しの道標が並びます。
34丁石の近く、大師が掘ったと伝える閼伽井の水。

坂道を上下して十九丁。丁石とともに寛政9年(1797)の石地蔵、遍路墓など多くの石造物。地蔵の台石には(見ることは困難ですが)「(右面)この方志ろミ祢道、(左面)祢古ろ道 藤和右衛門寶、(裏面)この方古くふ道」と刻まれているということ、道標でもあるのです。


39丁石、標石など

19丁、寛政9年の地蔵
 

五色台の県
道に出たところで、自転車の若者たちに会いました。この山の県道の上がり下がりを楽しんでいるようです。
小さなお店の唯一つのメニュー、おでんを若者たちと遍路、みんなで食べました。

82番根香寺。山号は青峯山、白峰に対して青峯なのです。ここも智証大師所縁の寺で、天台宗です。
山門から本堂の間の長い石段、鬱蒼とした杉に囲まれ山の中の寺の雰囲気いっぱいです。門前にある、伝説の怪獣牛鬼の像は、まるでバルタン星人で笑ってしまいます。

根香寺山門

82番根香寺

ここから山を下って、別格19番香西寺に向かいます。
杉林に囲まれていた道は、突然ポッカリと開けて、青い海が見えたりします。誰にも会わない、静かな道です。
1巡目の時は迷いに迷った道です。道しるべは以前よりは増えているようです。青い四国の道と書いたシールですけどね。それでも、やっぱり寺近くで別の道を行ってしまいました。
こういう人の多い場所で道に迷うのも悪いことじゃありません。道を聞くのにその地の人と話ができるのですから。

香西寺への道から

青い海

香西寺で

別格19番香西寺

香西寺。ここはボケ封じの観音さんの寺です。
菅笠を取って、頭を撫で撫でお参りしたものです。けっこう真剣ですからね。

お参りを済ませるともう午後3時をまわっています。次の一宮寺までは9k。5時の納経時間までは厳しい状況。
県道177号を通り、鬼無の駅の前を通り、あとは、最短ルートの香東川の河畔の道を急ぎました。
前回は、若いオランダ人の遍路に何度も会った道。人の良さそうな明るい笑顔を思い出します。この日は遍路には誰も会いません。

83番一宮寺。納経時間の5時には、滑り込みアウトでした。残念・・。
まだ、車遍路さんが何人か残っています。この寺の隣には大きな鳥居の田村神社があります。讃岐の国の一の宮です。今は一宮寺はお互い他人さまといった顔してますが、昔は神宮寺、ああ別当だった寺です。
因みに、他の四国の一の宮は、阿波が大麻比古神社、伊予が大三島の大山祇神社、土佐が土佐神社。そのうち88札所に入っているのは、ここと土佐(30番善楽寺)。

もう高松に近い。旅館などはありません。新しく出来た温泉施設があり素泊まりができます。ここに泊まりました。家族連れで賑わう温泉、たまにはこういうところもいいもんだ。

     本日の歩行:     44108歩
     地図上の距離:    30.5k



平成21年3月16日     稀有の釈迦涅槃像に会う


昨日は、時間が過ぎ、できなかった一宮寺での納経を済ませ、田圃の中の道を歩いて3.2k法然寺を訪ねました。

法然寺への道

寺名の如く、法然上人ゆかりの浄土宗の寺で、弘法大師との縁は深くはないにもかかわらず、古くより遍路も多く参拝したと言われています。
その理由、お参りしてみてわかったような気がします。感銘のお寺でした。
寺は仏生山を背にしてあります。正面の仁王門から山頂に向かって、二尊堂、鐘楼門、来迎堂と石段を辿るこの清々しい空間。
二尊堂の阿弥陀如来、釈迦如来に手を合せ過ぎます。鐘楼門には、歌人吉井勇の歌「この鐘のひびこうところ大いなるやはらぎの世の礎となれ」が鋳こまれた平和の鐘がかかるという。帝釈天の凛とした表情に魅かれます。そして山頂に近い来迎堂の雲に乗る金色輝く諸仏の姿にも。
仏生山山頂からは、高松の街、その向こうに特徴のある屋島の姿も見られます。
この寺の最も著名な釈迦涅槃像(通称寝釈迦)を三仏堂に拝観を乞うて参ります。遍路姿のためか、拝観料はお接待いただきました。
隣の本堂から聞こえるご住職のお勤め、南無阿弥陀仏の声を聞かせていただきながら、阿弥陀、釈迦、弥勒の三仏の前、涅槃の釈迦とそれを取り巻く五十二の彫像、私のような者でもこの有難い場に立ち会わせていただいたような、圧倒的な空間でした。その前に膝まづき思わず合掌しました。幾度も、長く、長く。
これほどの釈迦涅槃像に会えることは、稀有のことでしょう。(写真は撮れません)

法然寺鐘楼門

鐘楼門の帝釈天

来迎堂

来迎堂の世界

法然寺三仏堂

高松市街と屋島

興奮醒めやらぬなか、高松の郊外の道を春日川に沿って11kほど歩いて、屋島の麓に着きます。
池に面した小さな公園で昼食のパンを食い、屋島の登り道にかかります。
標高280mまで登る道ですが、これが全長舗装または石敷の道で、足に応えます。若い女性は、ひょいひょいと私を追い越してゆきます。
御加持水、食わずの梨という大師所縁の霊場を通ります。食わずの梨って、そう、修行旅の大師が梨を所望したが農夫が断ったため、それ以後食えない梨になった・・四国各地に品を変え残る伝説の一つですね。ケチはいけませんね。

84番屋島寺。寺の縁起では、唐の鑑真和尚(わじょう)が奈良に渡る途中この地に立ち寄り開いたということになっているそうです。
でも、和尚が立ち寄ったのは山の上ではなく、瀬戸内海に着き出た先端部分だったと考えられています。今は、屋島特有の平らな山の上の広い敷地にある立派な寺です。本堂は重要文化財でもあります。
精緻な彫り物と赤や黄色の鮮やかな彩色はどこか中国の寺を思わせるものがあります。鑑真和尚の縁でしょうか。
納経所では、労いの言葉とお菓子のお接待をいただきました。

「鑑真和尚と屋島寺」について
澄禅の「四国遍路日記」には次のように記されます。
「先ず当寺の開基、鑑真和尚也。和尚来朝の時此沖を通り玉ふが、此南に異気在とて此島に船を着け見玉て、何様寺院を建立可霊地とて当島北の峰に寺を立て、則南面山と号し玉ふ。是本朝律寺の最初也。其の後南都に赴き玉て参内也。扨、当寺に鑑真和尚所持の衣鉢を留め玉ふ。此鉢空に昇て沖を漕行船共に飛下て斎料を請う、舟人驚きて米穀を入時本山え飛還る。
此如する事度々なる故に真俗此山を崇敬する間、次第に繁昌して四十二坊迄在けるに、或時此鉢漁師の舟に飛び下る、舟人周章して魚類を此鉢に入る、其時此鉢微塵に破て舟ともに海底に沈む、今に此海を舞崎と云う。此山衰微して退転したり。其時の本堂の本尊釈迦の像今に在り。其後大師当山を再興し玉ふ時、北の峰は余り人里遠して還て化益成難とて、南の峰に引玉て嵯峨の天皇の勅願寺とし玉ふ。山号は元の如く南面山屋島寺千光院と号す。・・・」
訳のわからぬような不思議な話ではある。・・


84番屋島寺

屋島寺本堂

屋島寺本堂

屋島から八栗寺への山下りの遍路道は、距離は短いながら有数の難所です。
驚くほどの急坂なのです。体の小さい人は両手まで使って大きな段差をクリアしなくてはならない所があります。
1巡目のとき、この道をゴム草履でマシラの如く駆け抜けたオーストラリア人の遍路に会ったことを思い出しました。果たしてあれは人間だったのか・・。

屋島を降りたところは壇の浦、佐藤継信の墓、安徳天皇社、洲崎寺など源平屋島の戦いに因んだ旧跡が多くあります。洲崎寺には、あの道指南の真念のお墓も。
道は再び登り、標高230m五剣山の中腹、八栗寺に向かいます。
85番八栗寺の背後には、太古の溶岩塔でしょう、剣のような岩山が聳えています。剣は元々5本でしたが、江戸時代、地震で1本崩れて今は4本。
岩山は行場となっていて、昔は遍路もある程度入れたようですが、危険なので今は入山禁止です。仰ぎ見ると、剣の間に小さなお社のようなものが見えます。今でも行者さんはこっそり(?)登っているのでしょう。
25000地形図には剣の直近に山道が記してあります。納経所で尋ねて見ましたが、今は通れないでしょう、という返事。
この寺は入口に、歓喜天の鳥居があり、本堂(観音堂)より聖天堂の方にお参りが多いということです。聖天さんは、商売繁盛と縁結びの神さま。ご利益、ごりやく。

85番八栗寺

八栗寺を下る遍路

讃岐牟礼まで山を下り、本日の最後の寺、志度寺に向かいます。
6.5kの道です。牟礼付近のシールが示す道はへんろ地図にあるルートとは、大幅に違っています。国道11号をできるだけ避けるよう変更されたようです。注意です。
この道で20代と思われる若い遍路と同行しました。昨日まで徳島県を歩いていたという変な遍路。
この時期どっと多くの遍路が出発するためどの宿もいっぱいでした・・と言っています。それがひと月半くらい経つとこちらにやってくるのですね。
二人で話しながら歩くと足が進みます。あと3k弱と思われる地点で道を聞き、5時までは無理だろうと言われましたが、寺に着いたのは4時30分前でした。

86番志度寺。立派な山門に迎えられます。本堂とともに古いもので重要文化財です。古いものではありませんが、傾いた陽を背に影を落とす五重塔も印象に残りました。
お寺の老女から「あんた、あんた・・」と呼びとめられ、五円玉に光る糸を巻いた亀をいただきました。この寺の山号は補陀落山、海に面したお寺なのです。

86番志度寺山門

志度寺本堂

志度寺五重塔

志度の街は、古い家並を残しています。そんな見世蔵の一つが今日の宿でした。親切な女将さん。泊りは私一人でした。

     本日の歩行:     44610歩
     地図上の距離:    30.6k

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