四国遍路の旅記録 二巡目 第2回 その7

平成19年4月8日     緑のへんろ道を何処までも


行程:
 金剛頂寺から不動岩、中山峠を経て、奈半利駅まで。

歩行距離: 地図上の距離21.2k、歩数:35157歩

膝の具合も良くない。それにちょっと事情もあって、今回の遍路の旅は、鉄道のある奈半利まで歩いて、そこで区切ることにしました。

金剛頂寺を出て

下りの山道へ、神社の左を下る

金剛頂寺を出て、不動岩に下りる道が、本来の遍路道と思われるのですが、へんろマークは、不動岩に寄らず、直接海岸に出る近道を標示しています。宿坊の女性もそちらの道を行くよう指示していました。
私は、不動岩に寄りたかったので旧来の道を選びます。
曲がりや交差が多く標識もないので、へんろ地図だけでは迷うかもしれません。右手奥に神社が見える所の山道を下ります。
下ると不動岩の目の前に出ます。
この不動岩は空海が修行したところと伝えられ、不動堂は行当西寺ともよばれるようです。明治始めまでは西寺(金剛頂寺)は、女人禁制であったため、ここで納経したので、女人堂としても賑わったといいます。
不動岩より東へ1kも行かぬ場所、岬そして集落に今も残る行当という名。不動岩も含め昔はすべて「行道」の字が当てられていたといいます。行道、即ちここは歩く修行の道。東寺(最御崎寺)の洞窟からこの行道岩までの道を幾度も幾度も廻った修行者の姿を想い浮かべるのです。

(追記)行道修行について
古く鎌倉時代の末の「梁塵秘抄」に能登半島の辺路のこととして
われらが修行に出でし時 珠洲の岬をかひさはり うち廻り 振り捨てて 一人越路の旅に出でて 足打せしこそ あはれなりしか」(「かひさはり」とは、海に突き出た断崖、岩を廻るとき、見えない岸壁の向こう側に指を這わせ、手掛かりを探る行動を言う。)
と語り伝えられるように、当時の日本では各地の海、山での修行が行われてきたと言われます。それは辺地における行動(ぎょうどう)と禅定(瞑想)の苦行の限りない繰り返しとも言いうるでしょう。
同書にも「われらが修行せしやうは、仞忍辱袈裟をば肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ常に踏む」と記されます。(忍辱(にんにく)とはどんな苦しみにも耐え忍ぶこと、その袈裟を掛けていたらどんな苦しみに耐え忍ばなくてはならない。ぼろぼろの袈裟を肩に掛け、海風の吹く所、山の中、笈を背負ってみすぼらしい姿で歩いたさま・・)
五来重はその行動の四国における一つの場が西寺(金剛頂寺)と東寺(後に最御崎寺)の間にあったと書いています。西寺の方に今に残る地名「行当岬」は「行動岬」、その先端にある「不動岩」は「行動岩」であり、
西寺の方に今に残る地名「行当岬」は「行動岬」、その先端にある「不動岩」は「行動岩」であったと言っています。
金剛頂寺(西寺)で行動し、室戸岬(奥之院)で座禅をした(平安時代には西寺と東寺は金剛定寺という一つの寺であったという)・・また、空海の説くところでは山を巡ることを金剛界、窟に籠ることを胎蔵界に擬え、両方をまわることを金胎両部の修行と呼びます。四国には多くの行動の場がありますが、西寺、東寺の行動は中行動、中行動が繋がって四国全体の大行動(四国辺路)に発展していったと考えることも可能なのかもしれません。

(参考文献:五来重 「四国遍路の寺」、他)
                                           (令和5年8月改記)
(追記)「金剛頂寺、空海修行の道」
寂本の「四国遍礼霊場記」の金剛頂寺の項には、江戸初期の金剛頂寺の様子とともに、空海の修行について次のような伝承が納められています。(伝承部分は私なりに口語訳風に改めます。)
「本堂の右の社は若一王子即当山の地主神(鎮守)也、左は十八所宮、是は王城(京)の上社十八神を勧請せり。山上清泉あり相そへて弁財天祠を立。大師加持の閼伽井あり、堂を立て覆へり。・・」
(以下口語訳風)「空海が始めてこの地域を訪ねたとき大きな楠があった。木のうつろの中に多くの天狗(魔縁)が集まっていた。空海を見て、羽を叩き嘴を鳴らしとがめ罵った。空海は暫く呪文を唱えて佇んでいた。誦じた呪文は不動明王火界咒であったので、忽ち火焔が放出された。神通力も及ばず天狗たちは退散した。その後、固く結界して寺を建て、自らの像を彫って楠のうつろに置いた。・・」
「当寺もむかしより女人のぼる事を制す。若女人の参詣はふもとに行道所といひ岩屋あり。本尊不動にて楠木に大師作りつけ給い霊尊あり、女人は此にて拝して去。・・」
上記「霊場記」中段の伝承は何を言わんとしているのであろうか・・
前追記に記した如く、空海当時の山林修行とは、まず「窟籠り」、そして「行道」し「禅定(瞑想)」することでありました。空海は室戸岬の近くで寺の適地を見つけ(後の金剛頂寺)修行のベースとします。そして毎日、行当岬の窟、室戸岬の窟を行動して修行していたと思われます。(中行道)
それでは、空海の修行中現れた天狗とは何か・・
空海の行法を妨げようとする様々なものを差してしるように思われます。(それは既存の宗教者であったかも・・また、自らの心の中にあるものであったかも・・)空海は呪語を唱え、唾を吐き出してそれらを撃退したというのです。何とも不可思議な修行の道ではあります。(参考文献:五来重 「四国遍路の寺」、他)


四国経遍礼霊場記 金剛頂寺

追記「南路志に記される金剛頂寺」
「南路志」には金剛頂寺について極めて詳細な記述があります。「霊場記」と重複する部分もありますが、ここに敢えて略意訳しておきます。

龍頭山光明院金剛頂寺、古くは三角山と号したが、後「龍頭山」と改める。開基は弘法大師、大同元年大師唐より帰朝の時、行当崎硯之浦に着岸し、日本最初に開いた寺という。
嵯峨・淳和両帝の勅願所。本堂本尊薬師、秘仏である。脇士日光・月光、十二神将立像(秘仏)、弁財天ともに大師作。大師杖と伝わる鉄杖有。古くより御影堂に於て3月1日より21日迄夜勤行が行われる。この間、佛法僧という鳥が鳴くという。当山の不思議の一つである。
 仁王門は宝永七年に大風で倒れ再建されていない。鐘楼の鐘は忠義公の寄進。 若一王子権現が本堂右脇に有る。その法要の際、天等栱という鳥(𪆐(シュ)とも云う。人の手を持ち不吉な鳥とされる。何となく大師が退治したとされる魔障を思わせる)に関わる不思議有り。
十八所大権現本堂左脇に有り。神道の極意と伝わる、大不思議の社なり。 本堂の下方に八間四方の池がある。池の中嶋があり弁財天像がある。蛙が多く居るが、大師が修法の障りとて加持し鳴くことがない。これもまた不思議の一つなり。
当山三池のうち、容見池のこと、閼伽井堂のこと(略) 
弥勒堂が東坂に有る。女人堂とも云う。結界の限りなり。護摩堂、半鐘、大坊、鎮守法海大権現、大師所縁の名石(硯石)のこと・・(略) 更には行当崎岩崫の不動堂、舟霊観音にまで及ぶ。


 不動岩と不動堂

不動岩の行場

不動岩の前で

海岸の道で前を歩くひとりの遍路に追いつきます。昨夜同宿であった石川の男性のようです。二人で歩いていると、スポーツドリンクとお菓子のお接待。今日はもうお参りする寺はないので、リュックに仕舞った納札を出して受け取っていただく。
南無大師遍照金剛・・。
石川の男性は、今日は27番を打って、麓の宿に泊まる予定という。私と同行するペースじゃちょっと厳しいのじゃないかなー。

 吉良川の街

 中山峠道より羽根の街を望む 

中山峠を越えて、緑の遍路道

吉良川の古い街並みを眺めながら歩きました。
その先の中山峠への山道はけっこうな坂道で汗をかきます。峠には籠に吊るしたミニトマトの無人お接待。甘くうまかったこと。

さて、今回の巡礼の旅も終りが近づいてきました。分ったような、生意気なことを、一言書かせていただきましょう。
長い歩きの時間の中で、何かを考えていたとも思うのですが、後から振り返ると、何も考えていなっかたのでは・・ということに気付かされるのです。
自然や風土や、その中で生活する人の姿と言葉を、ひたすら感じていただけというのが、一番近い気持ちなのです。
霊場へのお参りの度に唱える「般若心経」の一節が、ふと口をついて出てきます。
「無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 」(無明もなく、また無明が尽きることもなく、そして老死も無く、また老死の尽きることも無く)
無明から老死という、人の一生の因果や目的を持った事象の繋がりではなく、ただただ、何かとてつもなく大きなものの全体の中の一部を感覚できること。
そういうことがあるとすれば、これこそが、巡礼の旅ではないだろうかと・・
ふと思ったりしたのでした。 

中山峠を越えると、目の前に、どこまでも続くような、緑の遍路道が開けました。
こういう道を、いつまでも、いつまでも歩いていたい。
やがて、奈半利の駅。今回の私の遍路の旅のおわりです。

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四国遍路の旅記録 二巡目 第2回 その6

平成19年4月7日     四十寺への道を断念


行程:
 24番最御崎寺、25番津照寺お参りの後、24番奥の院四十寺にアプローチする。26番金剛頂寺まで。

歩行距離: 地図上の距離21.5k、歩数:37200歩

宿泊: 金剛頂寺宿坊

 青年大師像

御蔵洞

 御蔵洞

宿を出てすぐ右手に、白い大きな青年大師像が見えてきます。高さ21mのセラミック仕上げで、昭和59年に建てられたもの。

御蔵洞、これは、空海が、「三教指帰」のなかで「土佐室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」と書かれた修行の場といわれるところ。洞窟内に愛満五社権現を勧請、愛染明王を祀ったのは空海という。当時の仏教と神との関係が知られます。
洞窟の中から外を見ると、道路を隔てて青い海と空が見えます。

急坂の道0.7kを登り、24番最御崎寺に到着。

 最御崎寺境内

 最御崎寺本堂

最御崎寺の遍路 

最御崎寺を下る

今日は、朝から曇り、今にも雨が降りそうな天候。最御崎寺の先、大きなU字カーブを繰り返す車道を下り、25番への道を歩きながら考えていました。
この辺の海岸、あの日和佐付近の海岸と比べ、美しさが際立つことがない。天候の所為だろうか、それとも、海岸の美しさはその凹凸の変化から生ずるものなのだろうか。きっと、そそり立つ崖の下の岩場に騒ぐ白い波頭や、岬や島影の間の数え切れぬほどの煌きの小片が、何ともやり切れぬ、そして幸せな時を与えてくれているのだと気付かされるのです。

 津照寺門前

津照寺

25番津照寺(当地では津寺と呼ばれる)の門前は狭い。参拝者で大混雑なのです。昨夜同宿のIさん、Cさんの姿も見える。
ここの納経所では、前回聞かされたあの独特の1番札所批判講釈があるかと予想していましが、女性の方お一人、無言でした。

津照寺より県道202号を東に向い、四十寺に向います。
四十寺は、四十寺山の頂上にあります。

道しるべ 「四十寺への道」(未完)

ついに雨が降ってきました。県道202号の消防署の前を左折、右手に高等学校の広いグランドを見ながら進むと、右手に山に向って伸びる舗装道が見えます。先にゲートが見える。近くの畑にいる人に確認したが、「知らない」という。でも、25000分の1地形図から判断して、きっとこれが登山道でしょう。(へんろ地図にある町田建設の看板はどこにも発見できません。ただ、その位置に大きな家があります。)
舗装道はすぐに山道となります。少し広くなった所で、道が無くなったと思わせるが、倒れた竹の向こうに山道は続いています。しばらく、倒れかかる竹とすごい棘の茨と格闘しながら進む。
急坂となり、足1個分の道が上に続いていると確認できますが、雨も強くなってきたし、下りの危険を予測して、ここで断念することとしました。
おそらく、頂上313mのなかば、200mぐらいの地点でしょう。(道の悪さ、昨日の自転車遍路さんの言と照らして、ひょっとしたら別の道があるのかもしれません。)
もし、機会があれば、天候、体調ともに良いとき、荷物を置いて再挑戦したい。

 四十寺山を望む

四十寺への登山道、倒木(竹)を潜って

 この辺までで断念

今回、初めてカッパを着て歩くことになりました。
室津の街で、おばあさんに声をかけられる。「雨の中、たいへんねー」、
「四十寺、途中であきらめました・・」、「あらー、いまはそんなになってんのー。ワシら子供のときは、遠足でよう行ったもんだがー」。

 室津の蓮華畑

金剛頂寺への山道を登る頃には、雨も止んできました。
あたりの田圃の蓮華がきれいだ。蓮華畑を見ると、いつも小さい頃の記憶に導かれます。あの頃は、家の周り、一面の蓮華でした・・。

26番金剛頂寺、広く立派なお寺です。
遍路バスから降りてこられた先達さんから合掌を受ける。遍路さん達に説明しています。「あの方が、歩きへんろさんで・・」、一躍、皆の注目の的。

 金剛頂寺 、厄坂を登る。

 金剛頂寺山門

 金剛頂寺本堂

新しい、立派な宿坊に入ります。
今日は、たくさんの団体が入っており、宿坊世話役の女性はひとりでテンテコマイ。
しばし、玄関で待つ。風呂と洗濯だけ利用の野宿遍路の若い二人とも話しをする。

4、50人の団体遍路に個人十数人を加えた夕食は、壮大です。
大きな食卓の隣は、神戸の29歳の女性、長崎の76歳の船乗りさんと奥様、いろいろな話が弾む。

御勤めは、翌朝6時から、宿坊内の護摩堂で行われました。あまり広くない堂内は、いっぱいです。御勤めの手順を、ご住職の声に和して唱えますが、団体のみなさんは、殆ど諳んじています。たいしたものです。
ここは、今回の区切りで3箇所目の薬師如来をご本尊とするお寺。特に念入りに、近親者の難病平癒を祈念させていただいた。

(追記)四十寺への道
その後、四十寺への道の情報を収集していたところ、どうも私が行きかけた道は、旧参道で、その先は通行困難であるらしいことがわかりました。へんろ地図にも記された道ですが、番外霊場への道については、信用してはいけないということですね。
現在の道は、消防署を左折する道を北西に更に進み、室津川を渡る稲石橋の手前30mを左折して山に入る作業道、これが、参道に繋がっているようです。その先には標識もあるようです。
次回の区切りで、機会があれば、是非、再挑戦してみたいものです。

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四国遍路の旅記録 二巡目 第2回 その5

平成19年4月5日     40k以上を歩く若い女性遍路


行程: 牟岐から鯖大師に参り、東洋町まで。

歩行距離: 地図上の距離24.6k、歩数:41110歩

宿泊: 民宿みちしお(東洋町生見)

牟岐の宿を出て、国道55号の二つのトンネル、八坂トンネルと内妻トンネルを回避する、山越えの旧へんろ道、大坂峠、松坂峠、古江の浜の道を通ります。
ここは、2年前にも通った道。短いけれど、眺望も良く、雰囲気のある道なのです。ただ、大坂峠の最後の下り、危険な箇所があります。2年前もそうでした。改良されてはいません。

大坂峠からの眺望

古江の浜から

別格4番札所 八坂寺(鯖大師)にお参りします。
今回は、別格専用の納経帳を持参しています。忘れず、納経をお願いする。実は、それに気をとられて、写真を撮るの忘れてた。まーなんと・・。

鯖大師の納経帳(写真撮り忘れた代わりに)

淺川の先に、是非寄りたいと楽しみにしていた所があります。
2年前、しゃれた喫茶店の女性に呼び止められ、大変おいしいコーヒーをお接待いただいた。お返しにお接待を置かせていただいたりした。粋な女性のお話も楽しかった。
この辺りと思しきところ、確かにお店はありました。しかし、扉には「勝手ながら本日は休ませていただきます」の張り紙。そりゃー、ねーだろう。返す返すも残念なことでした。

浅川の浜

那佐湾

宍喰の海岸を通り、高知県に入る。
甲浦の橋を渡っている時、眼鏡をかけた若い女性の遍路が追いついてきました。
すごいハイペースの歩き。聞くと、今朝、薬王寺を出たという。もう40k近い。今日は、東洋大師付近まで行くという。何と42kを歩くことになる。
日頃、歩いたり、走ったりしているわけでもないという。遍路さん4、5人追い抜いてきたとサラリという。
明日は24番を経てできれば、26番あたりまでといっている。いやーまいった、まいった。若い女性恐るべし。
ペースを落としていただいたのだろう。一緒に歩かせていただいたお陰で、今日の宿の前まで、瞬く間についてしまいました。
手を振って、お互いの健闘を誓いあってお別れしました。

この辺り、宿が少なく選びに苦労します。2年前に泊まった宿のお女将にもお会いしたかったのだが、農作業で休業とのこと。
そこで、今日の宿は、昨日の牟岐の宿のお女将に、頼んでいただいたのです。まず、見掛けがおしゃれ。サーファー向き、遍路不向き。
サーファーのアイドルといった雰囲気の若い女性が部屋に案内してくれる。ユニットバス。食事も部屋に運んでくれるという。まー、たまにはこういう宿もいいかも。

本日お参りした札所、霊場

番外霊場 別格第4番札所 八坂山 八坂寺
本尊:弘法大師
開基:行基菩薩
宗派:真言宗高野派
別名「鯖大師」の名で知られる。もともと、この地には、行基菩薩が馬追男に鯖を所望したが断ると馬が倒れたといった伝説があり、これが弘法大師の事象として伝えられたらしい。
鯖大師の明善住職は、歩き遍路の支援にご熱心で、自らも頻繁に歩かれている。遍路道の各所に明善さんの黄色の遍路札を見かける。



平成19年4月6日     室戸を目指してひたすら歩く

行程: 室戸岬の24番札所を目指して、ひたすら歩く。東洋町生見より24番3k手前の宿まで。

歩行距離: 地図上の距離32.6k、歩数:50340歩

宿泊: ロッジ室戸岬(室戸市室戸岬町)

生見の浜の朝

東洋大師

宿を出て、少しひんやりとした空気の、生見の浜を去り難く、しばし憩う。
2k歩いて東洋大師、明徳寺にお参りします。
石段を上がったすぐ右に、通夜堂がある。女性は優先的に泊めてもらえると評判のところ。
寺横の小さな滝で、ご住職が滝行されている声が聞こえてきます。2年前と全く同じ情景でした。

野根川の古い橋を渡る。河畔の桜がきれいです。これもまた、2年前と同じ懐かしい風景。橋の袂のお堂の朽ちた扉の木片の形まで、昨日のことのように蘇る不思議。

野根河畔の桜

室戸岬を目指して

これからは、左手の海、右手の山、その間のゴロゴロ石の海岸と、国道、これ以外は殆ど何もない。ひたすら歩くのみ。
12k先、佛海庵に寄る。佛海は江戸時代中期の僧。四国巡礼24回にも及び、多くの地蔵尊彫刻を残し、この地で即身成仏したという。

夫婦岩が見える


 海岸、サーファーの影

佐喜浜の町を通る。ここのスーパーで昼食を買います。2件の民宿の前を通過すると、特徴ある夫婦岩が見えてきます。
夫婦岩では、遍路10回以上と称する自転車遍路と、これが驚きなのだが、30kはあろうと思われる大きな台車を押して歩いている遍路に出会います。道路の状態も悪いところが多かろうに、よくこういうことができるものです。
話てるうちに、明日予定している四十寺の話題に。自転車遍路は「ワシは登ったことがある。そんなにきつい上りではねー、だけんど入口は、へんろ地図じゃまずわかんねー」、地元の人も知ってる人は少ないという。

台車を押して回る遍路と自転車遍路

岬は近い

もう室戸岬の先端の山が身近だ。海洋深層水研究所と書かれた大きな施設があったりします。

15:30宿に到着。
同宿は、東京のIさん64歳、同じく東京のCさん59歳。二人は、これまでも同宿が多いよう。Iさんは、私が以前住んでいた所沢の近くの人で、懐かしいローカルな話が出たりする。



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四国遍路の旅記録 二巡目 第2回 その4

平成19年4月4日     由岐・日和佐の海岸の輝き


行程: 由岐より、23番薬王寺、23番奥の院玉厨子山泰仙寺に参る。打ち戻って、国道55号を牟岐まで歩き宿泊。

歩行距離: 地図上の距離33.9k、歩数:54840歩

宿泊: あづま(牟岐)

県道25号を薬王寺目指して歩く。
2箇所、湾曲した県道をバイパスする遍路道があります。
私は2年前も同じ道を歩いています。昨日の海岸風景に引き続き、木岐あたりの海岸、海、島影、見事です。日和佐湾に入るとこれに加えて、砂浜の美しさです。しばらく同宿のSさんと同行します。

 木岐付近、列車が通る。


 由岐の海岸、島

由岐の浜辺、波打ち際


 由岐の海岸、海の輝き 


 木岐の海岸


 日和佐の浜

 日和佐の浜

9:20 23番薬王寺に到着。ここも薬師如来をご本尊とするお寺。特に念入りにお参りします。境内の桜が美しい。

 薬王寺山門

 薬王寺、桜

納経所で奥の院泰仙寺への地図をいただく。県道36号を行くより、国道55号を行き、山河内で分岐する方が若干近いという。

薬王寺を発ち、国道を歩いていると、軽の車がとまり、女性が手を振っています。私は目が良くないし、女性にゃあまり縁がねー。きょとんとしておると、「ゆき荘のおかみでーす・・がんばって・・」と声がかかる。独りで歩いていると、こういった励ましは、何ともうれしいものです。

山河内の分岐から1.5kで左折、落合橋を渡る。その手前の道で、子供を遊ばせている若い奥さんにお会いする。
「どちらー、薬王寺さん?」、「いえ、泰仙寺さんですよ」、「けっこうきついですよー。でも車道ができて随分楽になりましたよ。登り25から30分かなー」。

道しるべ 「泰仙寺への道」

落合橋より1.5kで泰仙寺の登り口に着く。寺まで735mの標示。標高差100m?を登る。確かにかなりきつい坂道です。
前半は、旧来の歩道と新設の車道が並行しており、途中から車道に吸収された格好になっています。車道といっても、急勾配の砂利道。手馴れた四駆でないと通行は無理。一般車は入らぬようロープで閉鎖されています。
登りは車道、下りは歩道を歩いた方が楽かもしれません。
私の膝は連日の山道ですでにガタガタ。砂利で滑る車道の下りは、カニ+カメです。あるベテラン遍路さんの推奨する、両手杖(左:金剛杖、右:木の枝)は大いにその効果を発揮しました。
登りは、若奥様の予想通り、25分、下りはその3割増ぐらい。
寺は、無論無人であるが、お堂とかなり広い方丈があり、境内も結構な広さがあります。
江戸時代末の年号を刻んだ石灯籠があったりします。賑やかに栄えた時もあったのでしょう


泰仙寺参道の始まり、左:新道、右:旧道

 山道、右:新道、左:旧道

 泰仙寺のお堂

泰仙寺境内 (左手に見えるのが私の両手杖)

じつは、この泰仙寺、その参道を含め、国土地理院の25000分の1地形図には、影も形もないのです。不思議なこともあるものです。航空写真をもとに地図を作成すると、樹木に隠れて見えないのかもしれませんね。

来た道を戻る。若い奥さんに再会します。「ごくろうさまー、きつかったでしょう・・」。労わりをいただく。
この辺り、路傍に趣のある石仏があったり、スクールバスの待合小屋があったり、何とものどかな田園なのです。

 路傍の仏

 スクールバス待合所

山河内から牟岐まで、食堂もお店もありません。
5.5k先にコインスナック「おにがいわや」で、インスタントヌードルにありつく。
そうだ2年前もここに寄ったなー。あの時も箸がなく、木の枝で食ったなー、なんて思い出します。

16:45牟岐の宿、あづまに到着。
「案外早かったねー」と、しっかりものといった感じのお女将さん。
同宿は、東京の77歳の男性、大阪の66歳の男性です。77歳氏は、さすがにゆっくり回っており、今日で区切ると言っています。

本日お参りした札所、霊場

番外霊場 玉厨子山 泰仙寺(23番奥の院)
本尊:如意輪観音菩薩
標高440mの玉厨子山の中腹にある。
その昔、薬王寺が焼失したとき、本尊の薬師如来が飛び出して
この地で輝いたという伝説をもつ。

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四国遍路の旅記録 二巡目 第2回 その3

平成19年4月3日   阿部御水大師でのお接待


行程:
 平等寺門前を出て、山道を経て、阿部御水大師に参る。県道26号で由岐に宿泊。

歩行距離:地図上の距離24.5k、歩数:40062歩

宿泊:民宿ゆき荘(美波町西由岐)

手を振る女将さんに送られて、ご主人に平等寺門前まで、車でお送りいただく。
大坂のKさんは、薬王寺を経て牟岐までということで、1番出発。福岡のKさんは、ゆっくり薬王寺までで、3番出発。私は、番外霊場行きで、2番出。
夫々のペースで、すぐバラバラになるところがおもしろい。
3kで、月夜御水庵に寄る。大坂のKさんが上の道を行くのが見えます。この人は、札所以外の霊場には寄られない主義のようです。
すぐに国道55号に出ます。多くの遍路は、ここを右折して、薬王寺に向いますが、私は左折します。

道しるべ 「阿部御水大師への道」

国道55号から右折する所、迷うところですが、鉄道線路の先、阿波福井駅のプラットホームが望見できる場所、四国の道の標識「明神山」に従って入ります。
なお、この道、へんろマークは御水大師近くの1箇所のみ、まず皆無といってよい。
ここより二つの山道と短い県道を通り、御水大師に至る。
最初の山道は、緩やかな上りの2.2k、道いっぱい草に覆われていたり、美しい竹林の傍であったり、楽しい道です。出会う人もいない。道を独占する気分なのです。
私が気付いたのは1箇所のみでしたが、古い道標もありました。1番目の山道の出口近く、愛宕山への道が分岐する所。(「船頭ケ峠」と呼ばれるらしい。)「施主大峯山先達」と彫られた金毘羅道標だったのですが、中央に地蔵立像が彫られているのでそうとは思いませんでした。地蔵が彫られた金毘羅道標は珍しいのではないでしょうか。
やがて県道200号に出ます。立派な地蔵石仏もあります。周りはのどかな田園。0.7k行って右折、2番目の山道に入ります。この場所も頼りは、四国の道標識「明神山」なのです。
この山道は3.4k、標高270mの峠越えでやや急な所もあります。
明神山への登山道を左に分け、下りに。県道26号に入る最後の所で、このルート唯一(と思われる)のへんろマークを発見。思わず「懐かしいなー」と声を発します。
国道55号からここまで、2時間40分でした。
阿部御水大師は県道を1k行ったところ。

阿部御水大師への道

草に覆われた道を行く

竹林の道

道標、私は金流庵への道しるべと読みました
(追記)7年後、Tさんに教えていただきました。これは金比羅道標であると。お地蔵さんと思った。
だから間違えてしまいました。

阿部御水大師

阿部御水大師の周囲は、桜の盛り。
おじいさんと嫁、孫二人でござの上でお花見の最中。
どこが、本堂でありましょうか、と聞くと、右手の大きな方の建物を指す。
お参りして戻ると、おじいさん(といっても私より若そう)が、ここは普段は無人だが、年1回多くの人が集まる催しがあること、近くにある水場は、わりに最近出来たもので、古くからの御水ではないことなど、お話いただく。
「まあ、飲んでいけや・・」と、缶ビールを差し出されます。
「いやー、飲みたいのはやまやまでござんすが、これからまだ由岐まで歩かにゃならんので・・」と心に反してお断りし、お礼申しておいとまする遍路。

ここより、由岐に至る県道26号沿いには、桜が植えられていて、今盛り。それにも増して、入り組んだ海岸や島影の美しさ。もっとも、こういう風景を美しいと思うかどうか、個人差は大きい。以前、他の場所の海岸風景、美しいといったら反論されたこともありました。私が美しいと思ってるだけのことです。どうも、どうも・・。

由岐の海岸、桜


 由岐の海岸、島影

由岐の海岸、入江

由岐に近い、志和岐の街を歩いていると、集会場のようなところで、二、三十人の人が集まって、宴会をやっています。見付かっちゃった。
「おーい、おへんろさん、いっぱい飲んでいきなせー」。
「いやー、飲みたいのはやまやまでござんすが、これからまだ由岐まで歩かにゃならんので・・」とまたまた心に反してお断りするまじめ遍路。
どうも今日は、酒の勧誘に取りつかれた日であることよ。

(追記)志和岐 安政地震・津波碑

 志和岐の公民館の前に安政南海地震・津波の碑(文久2年(1862)建立)があります。阿波、土佐に多く残る地震・津波碑の一つですが、刻文を資料から引いて追記しておきます。
(正面)「去ル嘉永七寅年霜月初四日朝五ツ時/大地震不時ニ汐高滿有此時浦中家財/を寺或ハ高き人家へ持運ひ翌五日七ツ時/亦ヽ大地震忽ち津浪押來リ舩網納屋」、鳳写之」
(左面)「不残沖中へ流れ失浦人漸寺又ハ山抔へ遁/登り夫々無難ニ一命助りし事全氏神諸/佛の御加護也依之又ヽ幾後年ニ及大地」、
(裏面)「震之節汐高滿有之時ハ必定津なみ押/来ルへし其期ニ及少も為無油断荒々此/石ニ彫記長く子孫へ知せ置度而巳/法印隆
(訳文)「去る嘉永七(一八五四)年十一月四日の朝、午前八時頃に大地震があり、不意に潮が高く満ちた。この時、浦中の家財を寺あるいは高い人家へ持ち運んだ。翌五日の午後四時頃、またまた大地震があった。たちまち津波が押し寄せ、船や網、納屋が残らず沖中へ流れ失せた。浦人が、なんとか寺または山などへ逃げ登り、それぞれ難なく一命が助かった事は、全ての氏神や諸仏の御加護である。これにより、またまた幾年か後に大地震が起き、潮が高く満ちた時は、必ず津波が押し寄せるだろう。その期に及んで少しも油断が無いよう、あらましをこの石に彫記し、長く子孫に知らせておきたい。法印隆鳳これを写す。」



長い志和岐トンネルを抜けて、由岐の街に入ります。このトンネル、車も人も通らない。気味悪さ。ちょっと突厥ですが、黒澤明の「夢」に出てくるトンネルを思いだしました。

16:20由岐港の先端にある、民宿ゆき荘に到着。
同宿は、四国のJRを退職されたばかりのSさん。あと、東京からの女性。
真面目なSさん、人生論好きの女性、若々しい女将さん、単にグダ巻くジジイ。楽しい夕食でした。

本日お参りした札所、霊場

番外霊場 金龍庵 阿部御水大師
空海42歳のとき、衆生の災難救済のためこの地を訪れ、仏像を刻み
満願の日、山は突然金竜の形を現し、さらに祈念すると金竜の岩間から、
淨水が湧き出した。後に大師の偉徳を称えてお水大師と呼ばれるように
なったと伝える。

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