四国遍路の旅記録  三巡目 第2回 その5

お大師さんのお助けを戴いて   平成21年10月12日

今日は、最御崎寺を出て25番津照寺に参り、その後、昔26番金剛頂寺の奥の院であったという池山神社に行き、戻って金剛頂寺に参る予定。
この三巡目第2回の遍路の旅は、更にあと2日ほど、高知まで行くつもりでありましたが、この日が今回の終りになろうとは、神のみいや、お大師さんのみの知りなさることであったでしょう。

最御崎寺から七曲りの車道を下ります。ここから見ると、緩い弧を画いて伸びる室戸の海岸と、密でもない、それといってそれほど疎でもない街家の並びは、ひとつの感動を誘って迫ってくる風景をつくっているのです。
この日は殊更に美しい海と空でした。
岬を廻る赤い腹の貨物船まで見えるのですから・・。

最御崎寺を下る遍路


最御崎寺を下る道から、(室戸の海岸と街)


最御崎寺を下る道から、(室戸岬の向う)


最御崎寺を下る道から、(室戸岬を廻る船)

津照寺の石段

1時間少々で25番津照寺です。
この港町の一角に押し込められたような、狭い寺の本堂に上る急な石段は、上り下りの参拝者が「ごくろうさん・・」と声を掛け合う場所です。

津照寺から西へ2.6k、元川に架かる橋の手前から、川に沿って北上するのが池山神社への道です。
西川、奥郷(おうごう)という小さな集落を経ます。
車、バイク、あるいは歩いている幾人かの人と会います。
皆、口を合わせたように「西寺(金剛頂寺のこと、地元では西寺と呼ばれます)に行くんかぁー。道間違えちゅうがよ・・」と言われます。
さすがに奥郷近くでは「池山はん行くがかぇ、道荒れちゅうがよ・・」などとなります。

西川、奥郷への道

奥郷の一番奥にある家を過ぎ、少し行って右に橋を渡った所が登山口と聞いています。
私は、橋の方向をそのまま暫く行き、左へ尾根に上るルートが登山道と勘違いをしていました。
空きカンが吊るされた標識らしき所を強引に上ります。藪漕ぎ数十分。道はありません、ついに諦め。
集落の家まで戻り「ごめんくだせー・・」 
暫くしておばあさんが出てきて「橋を渡ってじき左の道を行っと。草が生えてろうけど道はあるがでよ・・」
手前勝手な解釈はいけませんなー・・。1時間のロスです。

池山神社への道

最初の2k弱が山の斜面を斜めに尾根に上る急坂です。
先日の台風の所為か、木の枝が沢山落ちています。足の上がらない年配者にとっては、下るとき、これに足を引っ掛け転倒する危険は大きいのです。できるだけ道下に落として進みます。
急な斜面を強引に斜めに削った道では、その路肩の殆どは流されています。
谷の上方、大石小石の場所は特に危険です。多くの道(または道らしきもの)が交差しており、数箇所ある「池山行」の標示も必ずしも適切な位置とは言えません。とにかく、尾根筋を目指して上ります。
下りの時を考えて振り返り、目印になるものを頭に入れたつもりだったのですが・・。

河内の集落を望む

登山口から2k以後は、緩い上り下りの尾根の道。
樹木が開けて、右下に室津の河内の集落が見られるところが一箇所。
右に河内に下る急坂の道を分けてすぐ、池山池が見えてきます。
感激の瞬間です。
池の水はあるかないかの状態。全面水生植物に覆われていますが、その向こう杉の大木が数本、それに囲まれて石積みの池山神社があるのです。
私は、まるで「もののけ姫」の神の森の一場面でも見るような、神々しさを持って眺めたものです。この池に棲むという白蛇の伝説を確信させます。
神社の祭神、大海命(おおわだのみこと)は、今は山の下の里に降ろされているといいます。しかし、ここが自然が形作った幽玄の地であることに変わりはないように思えました。

(追記)池山大明神について
「南路志」の金剛頂寺の項に次の記述があります。(意訳)
「池山大明神は古来 金剛頂寺の奥院と伝える。北東方へ山行二里余、頂上に池がある。南北二町、東西一町半程で広さ五百余畝、深さ7m程。今は過半が沼となり水草が茂っているが、夏冬ともに水がある。池の中に島がある。元来山王権現、高祖大師、善女龍王を合祭するという。古い記録にある。」


池山池の向こうに

池山神社

池山池(私の金剛杖)

池山池の水

池山神社

ここまでの行程と所要時間を整理しておきます。
国道55号(旧道)の元橋から奥郷の登山口まで3.1k、40分。登山口から池山神社まで3.8k、2時間30分でした。なお、登山口での最初のロス時間は除いています。

神社からの帰り道。おそらく登山口までの3分の2は過ぎた地点、注意したにもかかわらず、道を間違えたようです。
左下がりの小石の道で谷側の置き足を間違えました。づるづると流されます。止まりません。
数十m滑落。前を見ると大岩があり、その先は見えません。「ヤバイ・・・・」  
5mほど宙を舞ったでしょうか。肩から谷に叩きつけられました。
額から血が、腕からも・・。
恐る恐る足と手を動かしてみます。動きます。骨折はないようです。
リュックは背中のままですが、金剛杖と菅笠はづっと下の方に見えます。でも、これこそお大師さんのお助けを戴いたと思いました。
頭のすぐ傍、チョロチョロと音を立てる水を口に含み、傷口を洗い、応急処置。
携帯電話を出して見ますが、不通地域。
この下の川の傍に道があることは地図で確認済みです。その道が、川のこちら側であることを念じながら、谷を這うように下りました。
川の道は奥郷に通じています。集落まで1.5kほどの地点のようでした。

奥郷に着いて時計を見ると、池山神社を出て2時間30分経っていました。
ここから金剛頂寺までは3kほど。十分歩ける距離でしたが、気力は萎えていました。
民家の前で声をかけ、タクシーを呼んでもらいます。
「池山はんに行く人、年に2、3人は見掛けますよ。上った人が下りてくるがを、何とはなし畑でみちゃうがや・・」
大変お世話になりました。
タクシーの運転手。「こがなげに遍路さん乗せたのは、十年に一度くらいぜよ・・。河内の方ならけっこうあるけどねー・・」

金剛頂寺に着いたのは4時40分。
お参りしていると、宍喰の道の駅で会った人。
「どうしたの。えらい汚れとるが・・」
「いやいや、お恥ずかしい次第で・・」

宿坊の奥様からは随分心配していただきました。
「池山神社へは遍路は行かないことになっているのですよ。へんろ地図にも載ってないでしょう・・。でも、まあ、いい修行をされましたなー」と慰めていただきました。
風呂の中では、傷だらけの体で話題集中。夕食のテーブルでも、またそうでしたが、私は全く食欲がない・・。
ビールだけ飲んでおりました。

室戸岬の影を後に

痛む肩をさすりながら、翌日は念のためと近くの病院へ。
室戸岬の影と輝く海をぼんやり眺めながら、不動岩まで国道55号を歩いて、奈半利までバス。そして、御免まで鉄道。

私の三巡目、第2回の遍路の旅。トラブル続きの旅。決定的なトラブルを最後に終りを告げたのでした。

                                       (平成21年10月) 

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四国遍路の旅記録  三巡目 第2回 その4

峠を越えて見た青い海   平成21年10月10日 (つづき)

牟岐駅前で、まだ12時前。
ここから、もう何度も歩いている道ですが、内妻荘の前や鯖大師を経て、国道55号を12.4k、海部へ。
海部駅の近くが今夜の宿ですが、まだ時間があります。愛宕山の遊歩道を歩いてみました。
この遊歩道は、「遊遊NASAふれあいの里」の矢鱈に広い敷地の傍を通ります。
立派な施設、もう浴衣姿で寛いでいる人の姿も見えます。
半島をぐるっと廻って、鞆浦まで1.5kほどですが、上り下りも多く意外に厳しい道。歩き疲れもあり、1時間30分かかりました。
でも、海と海岸の風景は見事です。那佐湾の波の煌めき、大里の浜の緩やかな弓なり、外洋の海の青さ・・。
那佐展望台から愛宕山へ。愛宕山の神社から下る長い石段の両側の小四国八十八石仏。その静かな表情に心うたれます。その殆どに手を合わせて下りました。

石段を下りきったところにある高野山真言宗萬照寺にお参り。
境内で掃除の手を休めておられる老夫婦。
「ようお参りなさいました。石段はどうでしたか・・まあ、お休みなさい・・」
「先の台風の所為でしょうか、木の枝がいっぱいあって歩き難うて・・でも、八十八石仏さんの表情が静かでようございましたよ・・」
「この境内もごらんのように、やっときれいになったところで・・ああ、あの石仏はん、ここにあるお大師はんを彫った先先代が納めたもんで・・大正5年ですよ・・」
ご夫妻、88歳と84歳におなりと聞く。品の良いお顔立ち、奥様は若々しく美しい方。話すうち、この寺のご住職夫妻とわかる。
冷たいお茶とお菓子まで戴き、縁に座って、お寺や教えや様々なお話を伺う。
納札をお納めし辞するとき名刺をいただく。それを見て驚く。
H師、大僧正、前徳島県佛教会会長、元海部町長・・・とぎっしり。とても偉い方にお会いさせていただいたものです。


愛宕山遊歩道から(那佐湾)


愛宕山遊歩道から(大里の浜)

愛宕山遊歩道から

愛宕山から

愛宕山の石仏


愛宕山の石仏

萬照寺

追記) 慶長地震・津波碑
ここから鞆浦の漁港に面した大岩に彫られた慶長地震・津波(慶長9年)の碑を訪ねました。
津波被害に直接言及した四国で最古の碑(寛文4年(1664)建立)であり、資料より写しその刻文を載せておきます。
上部に大きく「南無阿弥陀佛」と刻字。
「敬白右意趣者人王百拾代/御宇慶長九甲辰季拾二月/十六日未亥剋於常月白風/寒疑行歩時分大海三度鳴/人々巨驚拱手處逆浪頻起/其高十丈来七度名大塩也/剰男女沈千尋底百余人/為後代言傳奉興之各ヽ/平等利益者必也」/
(大意)「110代天皇の御代(実際は107代)慶長九甲辰季十二月十六日未亥の刻(1605年2月3日午後10時ごろ)月常より白く風寒く歩くと身が凍るような時間、海が三度鳴り響き人々は大いに驚き、手をこまねいていると逆巻く津波が起り其高十丈(30メートルほど)7度襲来し、これを大潮=大津波と呼んだ、あまつさえ男女千尋の底に沈むもの百余人、後代に言い伝える為碑を興す、必ずや皆の平等の利益となるものである」

また、同じ大岩の右側に100年後の宝永地震・津波(宝永4年)の碑が彫られています。
「宝永四年丁亥冬十 / 月四日未時地大震所海潮 / 湧出丈余蕩々襄陵反覆三次 / 而止然我浦無一人之死者可謂 / 幸矣後之遭大震者予慮海 / 潮之変而避焉則可」
(大意)「宝永四年丁亥冬十月四日未の時(1707年10月28日午後2時ころ)、地、大いに震ふ所、海潮(津波)の湧出すること丈余(3メートルほど)津波が広範囲で陸(おか)にのぼり3度繰り返して止んだ、しかれども我が浦一人の死者なきは幸であった、後に大震に遭う者、あらかじめ海潮の変を慮りて避けるべきである」



古道、旧土佐街道あちこち   平成21年 10月11日

この徳島県の最南端、海陽町には、旧土佐街道と言われる、いくつかの峠越えの古道があります。
今年の春は、そのうち古目峠を通りましたので、それ以外のいくつかの道を。
まず、馬路越(うまじごえ)の道に向います。


母川

海部の宿を出て、海部川の支流、母川の河畔の道を歩きます。
この川はオオウナギの生息地として有名な所。
それらしく、両岸の水生植物の繁茂も著しい美しい川です。鴨の親子も悠々と泳いでいました。
野江の手前で川を渡り南下。馬路越の道です。
「土佐街道、馬路越(遍路道)」の標示。所々にある「道案内の柿山伏にござる」のイラストも楽しく、癒されます。
峠自体が、標高120mほどですから緩やかな上りです。
名の如く、荷駄も楽々越えたことでしょう。一部を除いて幅1m余り、その昔、立派な石積みで造られたことが想像できる広い道です。石畳の跡も見られます。
川を渡ってから30分で峠に。
那佐の海、そして那佐湾の最奥部の入江が、青く美しく見渡せます。
残念ながら、峠の仏はありません。

馬路越の道

馬路越の峠から

峠からやや荒れた道を下り、25分ほどで鉄道橋の下を潜り国道55号に出ます。

次に、国道を1.8kほど南下、板取から北上する居敷越(いしきごえ)の道を探ります。
この辺りの道、左手にいつも見える海の輝きに心惹かれます。ついつい、海辺に佇みます。

那佐の海(海の輝き)

 
那佐の海(海の輝き)

那佐の海



那佐の海(岩)


那佐の海(サーファーの影)

居敷越の入口付近

居敷越の入口標示は見つかりません。
入口と思しき辺り、近くの家の人に聞きます。
「たまに聞かれますよ。・・山の中腹の高圧線の鉄塔が見えるでしょう。その下が道です。そこまでの道がねー・・あそこに車が見えるでしょう。そこを右に上って山に入るとね・・」と歯切れが悪い。
その辺り、強引に上れば道を発見できるかも・・。
少々チャレンジしてみましたが、私は諦めました。
居敷越のこちら側の入口は、宅地造成によって分かり難くなったようです。
居敷越の峠には石仏があり、道も確かなのは、諸報告で明らかですから、中山から南下するルートを辿れば、こちら側の出口を確認することは可能だと思われます。

居敷越の入口と国道を挟んで反対側、「古道旧土佐街道」の標示があります。
赤字で危険個所ありの書込みも。
この標示、今の遍路道である国道を歩いているとすぐ目に付くので、遍路記録などによく出てくる道です。
標示に従って入り道なりに進むと、すぐ海岸の砂浜に出てしまいます。右手に見える岩を越えた方もおられるようですが、潮の状態によってはかなり危険。
海岸に出る前を右折すると、標示と朽ちかけた丸太橋が。これが本来の道。
その先、鉄道の下を潜る個所で道が消えています。
砂が流れる急斜面を強引に越えても、またその先は崖の道。トラロープを伝って下ります。
すぐ、はるる亭の先の国道に合流となるのですが、どっちにしても危険の多い道。止めた方がいいでしょう。

宍喰の道の駅。
ここでゆっくり休憩します。多くの遍路が集まってきて昼食タイム。
ここから室戸岬までの40kを、どのように歩くか。情報交換の場でもあります。
私は、三巡目ダシー、軟弱遍路ダシー。高知県に入った最初の街、甲浦まで歩いて、あとはバスに乗ります。すいませんねー。

(追記) 飛石・はね石について
近年どういう訳か頓に有名になった甲浦の港街を過ぎてすぐ、白浜の街中の小さなお堂に地蔵があります。地蔵は別の標石のようなものの上に乗っています。急ぐ道中、刻文があるのを気にとめながらも去るのが常・・標石には次のように刻まれているらしいのです。
「是より野根浦迄七十五丁 野ね浦より二里半飛石ハ子石・・」「〇化二乙丑」 年号の一部と干支より文化二年(1805)の刻文と知れます。それと近い寛政12年(1800)の日記「四国遍礼名所図会」には「・・藤越坂、是より先ケ浜(佐喜浜)迄四里の間飛石・はね石と云四国第壱難所也。・・」江戸初期の澄禅「四国遍路日記」も同様の書き方。ところが、真念の「四国遍路道指南」では「ふしごえ坂、これより一里よハとびいしとて、なん所、海辺也。」とする。
なお、西寺(金剛頂寺)の先のかりようご浦の先の海辺を「はね石」とするのは「道指南」と「名所図会」に共通します。あるいは西寺の先の「はね浦」という地名に拠るのかもしれません。


甲浦の海(入江)


甲浦の海(浜)

甲浦の海(中央に二子島が見える)

(追記)「甲浦の熊野神社」
古くは熊野三所権現と呼ぶ。9世紀初め甲浦湾先の二子島へ鎮座と伝わる。千光寺を経て(別当とも、現廃寺)元亀3年、現地(甲浦湾頭)の甲の山に移る。清涼の地である。鳥居を有しない神社。


14時に甲浦を出たバスは50分で室戸岬へ。
バスのシートに身を任せ、海岸の道を懸命に歩く遍路の後姿を追って、只管頭を下げるのみです。

室戸岬の岩や波、それを眺める中岡慎太郎など、ゆっくり見てから上った、24番最御崎寺への標高差150mの石段、意外に楽でした。今日はあまり歩いていない所為でしょう。
最御崎寺の境内は、遍路ばかりでなく、観光客も多く、賑わっています。
叩くと金属の音がする鐘石は、相変わらずの人気ですが、本堂や鐘楼堂、多宝塔、その力のこもった堂宇に改めて感じ入ります。

(追記)「室戸崎と空海」
空海と室戸崎の係わりは深い。ここでも「三教指帰」のなかの室戸崎の件について繰り返し記します。(三教指帰の該当文については、より正確を期して「エンサイクロメディア空海」のなかの口語訳を引きます。)
「・・阿波の国の大瀧嶽(たいりゅうのたけ)によじ登り、土佐の国の室戸埼(むろとさき)で一心不乱にこの修行(虚空蔵求聞持の法)に励みました。山中で真言を唱えていると、そのこだまが谷に鳴り響き、岬の洞窟に座って、広がる空と海に対峙し、真言を唱えていると、虚空蔵菩薩の化身とされる夜明けの明星が私の体内に飛び込んできたのです。それが真言一百万回の成就の証であったのです。」
かくの如くで「三教指帰」は若き空海が著した自伝的戯曲の性格を帯びているのです。
これを、江戸時代初め高野山の僧寂本は次のように解しています。(「四国遍礼霊場意記」)
「此地は、むかし大師求聞持勤修あそばしける所なり。大師みづからかかせ給うに、土佐室生門の埼にをいて寝然として心に観ぜしかば、明星口に入、虚空蔵の光明照し来て菩薩の威を顕はし、仏法の無二を現ずと。」
明星が体内に飛び込むという奇蹟を心の内のこととし、また当時のの若き空海には思い寄らぬであろう仏法の世界に至らしめているのです。
ここで思い起こすのは、NHK取材班の記す「空海の風景を旅する」の記事(中公文庫)、室戸の遍路宿の方が話す円海とか名乗る修行者の事(昭和期のこと)。
円海は、いつも汚い身なりで、昼は遍路の世話、夜は「神明窟」に籠り懸命に座禅を続けたという。けれど、空海が取得したような奇蹟も能力も得ることが出来なかったと語ったいう・・
これらのことから、私どもはなにを感じ、なにを得ればよいのでしょうか。空海の得た奇蹟は空海の心の内のことと思うべきなのでしょうか・・思い惑います。



最御崎寺山門


最御崎寺鐘楼堂


最御崎寺本堂


寺の宿坊は、立派なホテルのよう。私としては初めての泊りです。
夕食の食堂では、私の前に77歳の車遍路さん。そして、少し遅れて横に外人さんが座ります。
Mr. John.・・・、62歳、ロンドンから来たという。
主に電車、バスを利用して88札所を廻っているようです。
携帯電話の写真画像で、自宅にあるという神棚の写真を見せられます。かなりの日本通らしい・・。
おまえの職業は?と聞くから、real estateと答えると、ウソだろう、professorだろうという。お世辞もナカナカ・・。
私の英語力では、話の半分も理解できないのは残念至極。
納経帳は持たず、自作の札所境内の絵に朱印だけが押されています。納経所ではOKなのですね・・、外国人向けのサービスなのでしょうかねー。
10番切幡寺は、あの大塔の絵。「このパゴダはワンダフル」という。
この塔については、ワシも一家言あり。なにやらノタモウたが、多分伝わっておらんであろう・・。
ロンドンで入手したという二冊のガイド本を持っています。
一つは歩き遍路の必携本、宮崎建樹(へんろみち保存協力会)のへんろ地図をDavid.C.Moretonが英訳したもの。もう一冊は、室達朗の88札所紹介をやはりMoretonが訳したもの。
こういうガイドブックの存在は知っていたし、著者、訳者の名も聞いたことはありましたが、中身を見るのは初めて。
特にへんろ地図の方は、原本の内容に加えて、四国のみちや主要な歩道などの情報も加えられ、充実したもので、なるほど、これがあれば廻れる・・と納得させられるもの。
サイズもポケット版で携行に便利、逆に日本語訳が望まれるほどのもの。

Johnさん。翌朝、白衣姿で食堂に現れた私を見て「ウオーキング、エライ・・」を連発。自作の日本国旗にサインまでさせられる。
ガッチリ握手して、お互いの健闘を約して、お別れしました。


室戸岬

さて、ここまで徳島県の南端から高知県に入る海の道を辿りながら、その見事な海岸を、昔からいかに多くの遍路が、その見事さ故に・・涙を流しながら歩いたことだろうかと・・そのことを想わずにはおれませんでした。
ちょっと気障かもしれないけれどね・・こんな言葉を頭に描いていました。
書き留めておきます。

              阿波の南の端から土佐に入る所。
          涙を誘う明るさで、海が待ち受けているのです。


          この千年を超える時の間。
          人はその辺路(へじ)に憧れてきました。

          ある時は、半島に囲まれた入江の、

          静かな浜辺で憩い、
          やがて室戸の岬の荒々しい海へと変わる、
          その輝く荒磯のほとりを、

          その白い衣の袖で、
          汗を拭くふりをしながら
          歩き去ってゆくのです。


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四国遍路の旅記録  三巡目 第2回 その3

「暮れがての山路を辿る夏へんろ」   平成21年10月9日

体調不良で出直しを挟んだ、三巡目第2回後半の遍路の旅。
前回で徳島県の南端、古目峠を越えたのですから、高知県から始めても良さそうなものですが、どうした訳か23番薬王寺の手前、由岐(現美波町由岐)からスタートです。
自分でどうした訳か、なんて言っちゃいけません。説明が必要ですね。
理由はいくつかあるのですが、その一つは、由岐のすぐ先木岐にある「木岐夢ギャラリー」に寄ること。
大阪の遍路仲間のKさん(女性、遍路仲間といっても四国で会ったり、一緒に歩いたことありませんけど・・)が、ある遍路サイトの掲示板に、夢ギャラリーでフランス刺繍展が開催されるていることを書き込んでおられました。
今は、夢ギャラリーのお世話もされているNという女の方。以前、この近くの遍路道に面した家に住まわれ、前の道を通りかかった多くの遍路にお世話をされておられたとのこと。Kさんも遍路で歩かれた時、Nさんにお世話になったようで、結願後の感激の再会もあったとか・・。そんな人の繋がりなんですね。


 ねっとり優しい由岐の海

鉄道に沿った道を行く遍路

11時40分、由岐駅に下りたのは私ひとり。
すぐに田井の浜を廻る道。ねっとりとした優しい海が迎えてくれます。
ここより、23番薬王寺まで11.5k。美しい海と岩と、それに豊かな山道まである素晴らしい道。私は、これまで二度歩かせていただいていますが、もう一度歩こうと思った理由は、これも一つ。
今晩は日和佐駅近くに宿をとったのですから、寄り道をして、ゆっくり行かなければなりません。

鉄道線路に沿った道を、ひとりの女性遍路がゆっくり歩いています。
東京の方。以前、広島の学校を出て、市内の大きな病院にも勤めたことがあるとか・・。同郷の人と聞くと、やはり親しみを感ずるものです。
屈託ない笑顔が、人の心を楽しくさせます。
私が先行して、寄り道をしていると、追いついてくるという格好で、薬王寺までに3度お会いします。
薬王寺では一緒のお参り。
「へんろでひとりで歩いていると、とっても人恋しくなるものですね・・。楽しかったです。また、お会いできるといいですね・・」と言っていただきました。
・・でも、会えませんでしたけどね。
(この人、薬王寺の境内におられる観音さんに何処か似ていた・・なんて後で思い返しました。)


夢ギャラリー

話はちょっと戻ります。
木岐駅の近く、探し当てた夢ギャラリーは、それは立派な古民家でした。
聞けば200年は経つという。江戸時代の廻船業の豪邸。
仏間であったろう室には、何代もの旦那さん、奥方さんの肖像画が並んでいたりします。
展示されているフランス刺繍の作品。和風にアレンジしたものも多くあり、グループ「沙羅の会」の楽しい雰囲気が伝わってくるようでした。
受付の品の良い女性。
「へんろのお世話をしていた人、それはNさんですよ。もうすぐここに来られますよ。それとも、お宅に行かれますか・・すぐ近く「ウエルかめ」の幟がある家ですよ・・」
「いえ、いえ、私が直接ご縁をいただいた方ではありませんけー。よろしゅうお伝えを・・」

白浜の畔を通り、海岸に沿った気持の良い山道に入ります。
道の両側、たくさんの木柱に俳句が書かれています。ふと目にとまった一句。
平成21年度入選作
暮れがての山路を辿る夏へんろ」 
作者の名も記してあります。Nと・・。きっと間違いなくあのNさんの句です。
遍路への優しい心遣いが伝わってくるではありませんか。Nさんに、この山路でお会いできた気がしました。

 俳句の道


山座峠付近からの海


恵比須浜

釣り人、大浜海岸を望む

えびす洞

えびす洞の潮騒

県道に戻り、山座峠から再び山道の下りです。
恵比須浜を廻る道で、続いて2回のお接待。手作りのお賽銭入れ、アメが二つ入っていました。2回目は、5円のお賽銭たくさん、それにゆでタマゴ。おばさんの優しい表情が心に残ります。

やがて、えびす洞。
巨大な岩塊に開いた海洞は迫力満点です。釣り人の姿もちらほら。
岩の狭間で波が騒ぐ様にしばし見とれます。
ウミガメの産卵地として名高い大浜海岸。
浜の手前、楠の大木に囲まれた日和佐八幡神社。明日から祭りです。大勢の人が準備に余念がありません。神輿が海に入るそうです。
浜に面した店でアイスクリン。食べ終わると「へんろさん、お接待です・・」と言われます。納札を置いてお礼を言ってでます。
街の人は皆どこか嬉しそうに、遍路の挨拶に応じて戴けます。
始まったばかりの連続テレビドラマ「ウエルかめ」の舞台となっていることも、街の活気に大いに貢献していると思えます。
もう、23番薬王寺の門前です。

大浜海岸(ウミガメの浜)

祭りの前

薬王寺山門

薬王寺本堂

 薬王寺の観音

日和佐の街


追記 「空海の思想とお大師信仰の関係について。」

薬王寺では厄坂と呼ばれる石段の一段ごとにお賽銭(一円玉)を置きながら厄を落として歩む慣わしがあります。このことについての司馬遼太郎の思い(「空海の風景」中央公論新社)を追記として加えておきましょう。
若き空海が歩んだ室戸への道をタクシーに委ねながら辿った司馬遼太郎は薬王寺について次のように語っています。
老運転手の言葉を「お大師さんのころ、人里はこの日和佐まででしたやろか」と記したのち・・
「・・薬王寺はちょうど縁日であった。石段を登る者は、一段のぼるごとに一枚ずつ一円アルミ硬貨をおとしてゆく。・・なかには壮漢が小さな老女をかるがると背負いどちらも石のように無表情な顔でのぼってゆく。背中にとまっている老女が一枚ずつ軽い硬貨をこぼしていた。そして言う・・
空海という、日本史上もっとも形而上的な思考を持ち、それを一分のくるいもなく論理化する構成力に長けた観念主義者が、その没後千二百年を経てなおこれらの人の群を石段の上へひきあげつづけているのは空海の何がそうさせるのかということになれば、どうにも筆者が感じている空海像が浦の黄土色の砂の上から舞いあがり、乱気流のかなたで激しく変形してゆくような恐れをおさえきれない。・・」
四国遍路を始めたあるいはその途上にある多くの人が感ずるこの矛盾について、司馬遼太郎はこのように語っているのです。





峠を越えて見た青い海   平成21年10月10日

この春には、日和佐から薬王寺の向いに見える日和佐城に上り、千羽海崖に沿った崖上の道を通って白沢まで歩きましたが、その先、峠を越えて南阿波サンライン下の旧道を通って牟岐までの道は断念しました。
その折、山河内の打越寺のご住職から、この山越えで牟岐まで行く道が、昔の遍路道であるとの言葉をいただいていますし・・どうしても通ってみたかったのです。・・執念ですなー。

7時、宿を出て日和佐駅に向います。初めて歩く山道を含む道であり、できるだけ余裕をもって、という気持ちもあり、何度も歩いた、日和佐から1駅先の山河内までは電車を利用する(9分ほど)ことにしたのです。
偶然の仕業とは言え、ちょっと奇跡見たいな出会いがありました。
駅の到着した電車から遍路姿の男が降りてきて手を振って近づいてくるじゃありませんか。
なんと、初巡の遍路で、18番恩山寺から23番薬王寺まで、その道の殆どを同行し、その後、高野山までも案内いただいた大阪のYさんなのです。
「いやー、こんなところで・・」と手を取り肩を抱き合わんばかりの再会。
電車が動くまで数分の間です。
Yさんは、何巡目かの遍路を、電車とバスで廻っているよう。
広い日本で、多くの時間の中で、こんな出会いってあるものなのですね。

 秋の鉄道(山河内駅付近)

白沢の道標

山河内駅で電車を降り、人影の無い打越寺にお参り。
ここより牟岐まで13kの行程です。
白沢(はくさわ)までの道1.4kは、この春通ったばかり。見かける殆ど全てのものが記憶の中にあります。
白沢の「牟岐駅・・」と書かれた四国のみちの道標。この前で、行くか、止めるか・・悩んだこと、思い出します。懐かしい道標です。
家がポツン、ポツンと見える田圃の中の道はすぐに山道へ。
先日の台風の所為でしょう、山道の上は杉の大小の枝いっぱい。歩き難い。
杉の大木が根ごと倒れ、道を塞いでいるところもあります。
その先、谷川に沿う道は消えていました。今は殆ど水の無い谷ですが、台風の雨は、道を流し去ったのでしょう。石や木を越えて、谷の地形に沿って上ると、やがて擬木の階段が現れほっとします。
前方を大型動物のしっかりした足音と黒い影が過ぎります。私は目が悪いので確とはしませんが、おそらく鹿です。
道は急坂となり、空が開ける気配。いよいよ峠は近い。
(峠と言いましたが、四国のみちの道標には、常に「頂上」と記されています。標高449.5mの無名山の頂上直下、標高410mほどの所を通る道ですから、頂上でよいのかもしれません。)
白沢から2k、峠です。
峠には石仏がおられます。ありがたいものです。思わず合掌します。
昔の旅人にとっては、もっともっとありがたいものに映ったに違いありません。
「薬王寺二里、東牟岐七十丁」と刻まれています。
右に大島展望地0.5kの標記。でも、ここからでも木の間越しに海が見えます。
峠を越えると、目の前いっぱいに広がる青い青い海・・。実は、これを一番期待していたのですよ。
少し下った所で、その期待は実現しました。
本当に涙が出るほどの美しさで・・。
青い海には島影も。きっと、大島、津島、出羽島と呼ばれる島々です。

峠への道

峠の石仏

峠を越えて見た海

峠から1.7kで、南阿波サンラインと交差します。
この道は、時々轟音とともに過ぎるオートバイとスポーツカーの道。

ここから牟岐に向う古くからの道。道の左手にはいつも海が・・。美しい海と島があります。
道が海から少し離れても、段々畑や田圃のむこうにはちゃんと海が控えています。基本的に一車線の簡易舗装の道。車は殆ど通りませんから、あまり左に寄って歩かないことです。ガードレールなんかもありませんから・・。
離れてポツン、ポツンと民家があります。畑があります。電気牧柵を廻らした畑も目を引きます。猪の被害が多いのでしょう。
こんもりとした木の下の陰には、小さなお社や地蔵尊。南無地蔵菩薩、南無大師遍照金剛、赤い幟がはためいています。
ひょっとしたら、何十年か昔、日本の何処にでもあったような道を歩いているのではないか・・と思わせられるのです。そんな懐かしいような、楽しい道行きです。
でも、今は遍路の歩く道ではありませんから、たまに道に出ている人にとって、遍路の姿はちょっと戸惑いの対象なのかもしれません。挨拶しても、素知らぬ顔がかえってくることが多いのです。 


牟岐への道から


牟岐への道から


牟岐への道から


牟岐への道から

村の地蔵尊

牟岐近くの海


蔭栗道という所から、四国のみちは南へ、牟岐少年自然の家を経て海岸の道となりますが、私は牟岐への最短ルート、大平間の集落の間を通って行きます。
3kほどで牟岐川を渡ると、牟岐の駅前です。

行程、私の遅足での所要時間を整理しておきます。
山河内~白沢:1.4k、15分。白沢~峠:2k、70分。峠~サンライン交差:1.7k、45分。 サンライン交差~牟岐:7.9k、120分。合計13k、4時間10分でした。
なお、所要時間には休憩等を含んでいます。
山河内から牟岐まで、国道55号を通る現代の遍路の道は9.5k、所要時間は半分程度でしょうけれど、この昔の遍路道、とってもいい道だと思います。
この道、今は「潮風そよぐみち」として宣伝され、人々をハイキングに誘う道でもあるのです。

                                     (10月10日 つづく)
(追記) 山頭火の句碑について
牟岐の街への取りつき、昔、関集落と呼ばれた所に種田山頭火の句碑があります。かつてここに「長尾屋」という宿屋があって、昭和14年山頭火が泊まっています。
実は最近、NPO藤田賀子さんのもとで遍路道を歩いた藤井さゆりさんの日記に句碑のことが書かれているのを見て、私もこの句碑に出合ったことを想いだしていました。
藤井さんの素晴らしい日記に出会い、私もそこに刻まれた句と、句に付された山頭火の牟岐についての日記の一部をここに写しておきたいと思いました。

しぐれてぬれて まっかな柿もろた
「途中、すこし行乞、いそいだけれど牟岐へ辿り着いたのは夕方だった、よい宿がみつかってうれしかった、おち゛いさんは好々爺、おばあさんはしんせつで、夜具も賄いもよかった。風呂に入れて三日ぶりのつかれを流すことが出来た。御飯前、数町も遠い酒店まで出かけた、酒好き酒飲みでないと、たうてい解るまい。」
                                      (令和2年2月追記)

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四国遍路の旅記録  三巡目 第2回 その2

焼山寺道逆打ちでの出会い  (平成21年9月27日) (つづき)



遍路道からの眺め(柳水庵先)

遍路道の道標(明治時代のもの)

長戸庵

長戸庵の地蔵

丁石(山より百一丁)

14時15分長戸庵に着く。
改めて見るこの庵の姿。なかなか美しい。いいお堂だと思います。
愛嬌ある庵横の地蔵の表情にも心暖まります。
ここまでは、十分な休憩もとり、まずまず順調に歩いてきたと思っておったのですが、この先で油断大敵のトラブルに・・。
藤井寺に向かう急な下り道。小石に足をとられて転倒。膝を打ち、手の平を擦り剥く。けっこうな出血。
平らな場所に移動して手当て。ちょうど通りかかったハイキングの団体20人ほど。数人から「バンドエイド・・、手袋・・」と声がかかる。
「ありがとうござんす。みんな持っておるだけは持っておるのでござんす」と訳のわからないこと言う旅の遍路。
手はともかく、膝は元々悪い、いやーな予感。実際、翌日の午後あたりから痛み出す始末。

15時30分、藤井寺に着く。
焼山寺を出てから6時間少々。途中での長い休憩2回、その時間1時間強を考えると、私としてはまずまずのペースというところでしょうか。
この道に限っては、順打ちより逆打ちの方上り道が少なく楽であるというのは確かのようです。

藤井寺近くの宿「吉野」に入ります。新しく清潔な宿。
女将さんも親切で優しそう。昨日、この宿に泊まって、この朝、焼山寺に向けて発った人の話を聞き、遍路道で出会った人々の顔とを重ね合わせ・・楽しいひと時ではありました。


(追記)「藤井寺の本尊と寺の変遷について」
順打ちで霊山寺を発った遍路は、「十里十ケ所」を歩き終え、次に厳しい焼山寺への山道を控えた独特の雰囲気を持つ寺、それが藤井寺だと思えます。ある時、寺で出会った年配遍路から聞いた話、「寺を「じ」と呼ばず「てら」というのは八十八札所でここだけ・・」ということはともかく、本尊のこと、境内の延命地蔵尊のこと・・など、書き置きたいことがあります。追記しておきましょう。
藤井寺の本尊は薬師如来と言われ、榧(かや)の一木造り、像高86.7cm。像内の墨書きに「仏師経尋 尺迦仏 久安4年(1148)などとあり元々釈迦如来像として造立されたと思われます。また、別の墨書きに天文18年(1549)補修の際、薬師如来としての形式を整えたとあります。秘仏で本堂に入れたとしても拝見できませんが、御前立像からもその立派さが想像できます。造立銘がある仏像としては、四国霊場最古(重文指定)。
寺は天正年間(1573~92)の土佐、長曾我部軍による兵火により全焼。延宝2年(1674)臨済宗の禅師が再建にかかる。当時の様子は、澄禅「四国遍路記」(1653)に「・・二王門モ朽ウセテ鋸ノミ残リ。寺楼ノ跡、本堂の鋸モ残テ所々ニ見タリ。・・庭ノ傍ニ容膝斗ノ小庵在、其内ヨリ法師形ノ者一人出テ仏像修理ノ勧進ヲ云、・・」 また「四国偏礼霊場記」(1689)には「今は禅者棲息セリ、これに依て今の堂其宗の風に作れり・・」とある。
境内、延命地蔵尊の台石の刻文について。

それは、天正年間に行った兵火について、長曾我部軍の子孫が昭和50年代に「寺院城砦焼討指揮謝罪」文を刻んだもの。ちょっと驚くべきことですが、当時より400年を経た現在の世情を考えれば、その目的に戸惑いを感じざるを得ないものではあります。

 四国偏礼霊場記の藤井寺図(現在の状況からみると仁王門がやや離れて建っていたよう・・)



                                    (令和4年9月 追記)




潜水橋のある道の感動   (平成21年9月28日)

藤井寺近くの宿吉野を出ます。
同宿者16人の内、私以外は全員焼山寺に向かいます。女将さんとともに、私も皆さんを送る側。「気をつけてねー。がんばってねー」
私は10番切幡寺に向かいます。
切幡寺に至る中程、吉野川の広い川中島(善入寺中州といいます)を挟んで渡る二つの潜水橋、川島橋、大野島橋を経る道は阿波の遍路道の中でも格別素晴らしいものの一つでしょう。
今日は曇っています。吉野川の水の色、晴れた日のように透き通った緑と青ではないけれど、沈んだ濃い青色。悲しいような静かな色です。川の向こうには、焼山寺の山なみの上の白い雲。
潜水橋は、けっこう車の往来が頻繁です。1車線ですから、車が来ると橋の隅に身を細めます。「ごくろーさまー・・」車の窓の子供の手からお菓子のお接待を戴きました。
大野島橋を渡ったところの道傍に「お・遍・路・さ・ん・お・元・気・で」と一文字ごとの大きな看板。地元の子供会などが設置したもの。
「ありがとーさーん」思わず大きな声を出して応えます。


川島橋

川島橋

吉野川


吉野川

大野島橋


 吉野川(日を映して)

「お遍路さんお元気で」

10番切幡寺。
山門の先、本堂に至るまで333段の石段。最初お参りした時は、随分大変と思わせられたものですが、3度目ともなると、これがどーということもなくなるのです。不思議なものですなー。
実はこの寺、お参りの他、どうしても見ておきたいものがあったのです。大塔です。
この塔、江戸時代の初め、大阪住吉神社神宮寺に建てられたものを、明治の神仏分離により明治6年から10年を要してこの地に移したものといいます。通常、二層の仏塔は、初層が方形、二層が円形の多宝塔という形式なのですが、この塔のように初層、二層ともに方形の二重塔形式は、わが国唯一の遺構だといいます。(国重要文化財指定)
切幡寺大塔は、本堂よりさらに数十段の石段を上った所にあり、拝観する人は殆どいないのです。
私も3回目で初めて本堂へのお参りの後、大塔への石段を上りました。
初層5間四方、二層3間四方の正に大塔。最近、大改修も行われたようで、その輝くような木組みの美しさ、壮大さに圧倒されます。素晴らしい二重塔です。
本堂の前で60代とお見受けする地元の男性とお話します。毎日、333段の石段を上り下りして散歩されているという。
「本堂の裏もお参りされましたか・・」あっ・・と気付く。
本堂には南向きの本尊、千手観音の他に北向きに、この寺の縁起に由来する秘仏、女人即身成仏の観音菩薩がおられるのでした。
「ああ、忘れておりやした。後ほど・・」 「左からですよ・・」と細かいご注意まで。
大塔の話になります。
「あそこまでお参りする方は滅多おりません。ワシは土建の仕事やっとったからわかりますが、使こうとる木が普通のお堂とは違うとります。中もそりゃ素晴らしい・・」と話しは尽きません。

納経所は無人。ブザーを押して暫く待つと、一人の老女。
先ほど、本堂を裏からお参りしたとき、掃除をしている女性から言葉を戴いた、その人でした。
「大塔にもお参りさせていただきました。素晴らしい塔で・・」と言うと、「中を見ていただける日もあるんですが・・また、お参りください・・」と満面の笑顔でお応えいただいたのです。

切幡寺大塔

切幡寺大塔

切幡寺大塔

切幡寺大塔

 切幡寺大塔

切幡寺大塔

(追記)切幡寺の古伝について
 この切幡寺から一番霊山寺までの10ケ寺は古くより「十里十ケ所」と呼ばれ、十ケ寺を巡る遍路も行われてきたと言われます。
その十番目の寺切幡寺は何か仏教以前からの古い伝えと行事を蔵しているようです。二つの資料から探ってみましょう。
民俗学者武田明は「巡礼と遍路」の中で「切幡寺のこと」と題して次のように記しています。
「第十番の札所である切幡寺も、よく注意してみると死霊の行く山である。春の彼岸の中日には新仏のあった家では必ずこの山に登って戒名を書いた経木に水をかけてくるといい、また山道の入口には葬頭河(そうずか)の婆さま(あの世へ行く途中の三途(さんず)の川の傍にいて、亡者の衣をはぎとるという婆)の小堂もあるので、大体が死霊のこもる山であると考えられる。それにもまして、切幡寺が興味深いのは、キリハタは焼畑のことであって、いうなれば水田経営ではなくて、麦や稗・そば・粟などの畑作中心であることを意味することである。弘法大師が麦の種子を唐から盗んで麦作を広めたという説話は各地にあって、現に第一番霊山寺の番外札所の麦蒔大師(むぎまきたいし)にも大師が麦作を広めたという縁起話が残っている。となれば、切幡寺は弘法大師以前の信仰、すなわち諸国を巡遊する貴い身分の神の子が麦畑の耕作を教えた、という信仰が残っている寺であるのかもしれない。そういう点でもこの寺は大切な信仰の霊地であった。
そこで第一番の霊山寺から第十番の切幡寺までを歩く十里十ケ所という習慣が古くから生れて、近在の人々は彼岸がくると十里十ケ所の霊地を歩いているのである。それは麦作の信仰もあるであろうが、やはりなんといっても切幡寺にこもる死霊への信仰のためであった。」
また、五来重は「四国遍路の寺」で次のように述べています。
「札所には仏教以前の信仰も残っています。・・死者供養するといった信仰です。切幡寺には流水灌頂会(りゅうすいかんちょうえ)があります。龍王信仰のある加持水の湧く経木場(きょうぎば)で、経木をあげて亡くなった人の供養をするわけです。・・」
                                        (平成30年11月追記)

9番法輪寺へ。
予報と違い上天気に変わってきました。蒸し暑い。
門前のお店を覗く。うどんなどもあるようだが食欲はゼロ。カキ氷をいただく。
ふと見ると遍路姿の人の写真。
「あー、これ今の副総理ですよ・・もう5年も前になるかなー。誰かが言いふらしたもんだけー大騒ぎになってのー、ありゃいけませんなー・・」と店のおばちゃん。
「今は53番まで歩かれとるようで・・でも続きは当分無理でしょうな・・」 この話一しきり。

8番熊谷寺への道。いつまで経ってもあの仁王門が現れないのです。
また、道を間違えたようです。徳島自動車道に沿った道をあるいて、やっと遠く仁王門の影を発見。
古い寺社建築には目のない私、やはりこの門は見落とせません。
寺から離れてポツンと立つ姿は、ちょっと寂しいものですが、立派な門です。初回の参りは春。桜に囲まれた艶姿を思い出します。
熊谷寺の駐車場には大型バスが3台。団体の遍路で溢れていました。スピーカからご詠歌が流れています。そう広くはないけれど、しっとり落ち着いたお寺です。

法輪寺山門

法輪寺

熊谷寺仁王門

熊谷寺仁王門

熊谷寺

昨日、山道で転倒、打った膝の具合がどうもよくありません。軟弱遍路は無理をしません。この先は朧の中へ・・。
でも、タクシーとバスをふんだんに、3番金泉寺まで、そして帰る列車が止まる板野駅まで行くことは行きましたよ。

体調不良で不本意続きの3巡目、第2回の遍路旅。これで終わりにはしない積り。日を改めて続けますよ・・とここは強気。

実は・・黙っておりましたが、徳島駅前のホテルに泊まった9月26日、朝広島を発って岡山で所用。それが随分早く終わったものですから、徳島に行く途中、板野駅で降りて、これまで通ったことのない道を経由して、別格1番大山寺に参ったのです。
そのこと、ここに書いておきます。

板野駅から3番金泉寺、4番大日寺に向かいます。
印象的な金泉寺の真っ赤な山門を後にして歩く大日寺への道。黄金の田圃の畦道、鄙びた愛染院の門前、ちょっとした山越えの道。
1番霊山寺を発ったへんろが最初に味あう昔からの遍路道の風情にきっと違いありません。3度目ですから、こんなに短かったかと思わせられるのですが、また懐かしさも一入です。
金泉寺から1時間ほどで、赤い鐘楼門の待つ大日寺です。
山に囲まれた静かなお寺。青い空。暑い。
納経所で水の所在を聞きます。「清めの水は水道です・・」とのこと。空いたペットボトルにいっぱい詰めて、「四国の道」を経由して大山寺に向かいます。
大日寺から500mほど戻った右側にある山神社。ここが山道の始まりです。

大日寺

さて、どうしてこの道を?
・・この四国の道経由大山寺への道は、最近出版された東海図版の遍路地図に紹介されたもので、上坂SA付近の徳島自動車道の下を潜って上る昔からの参道(遍路道)が、必ずしも良い道ではないこともあり、距離は相当長いにもかかわらず、歩いてみようか・・という気を起こさせたのです。

山道に入ってすぐ「この先には札所はありません・・」という意味の看板。むむ、なんじゃ・・と思わせますが、後で考えてみると深い意味があったのかも・・。
四国の道の標示もあることだし、とにかく行ってみよう。
かなりの急坂を上り、山神社から1.8kで標高303mの尾根に。ここが第1展望地。残念ながら木に囲まれ展望はありません。
尾根道を0.5kほど行くと右に一本松越の道を分けます。その先すぐ無標示の分岐。おそらく右は大山越の道。左折します。
この辺から道は荒れてきます。四国の道特有の擬木の階段の名残りはありますが殆ど崩れています。荒れ道を下ったり上ったり、0.5kほどで第2展望地。
唯一展望がある場所です。上坂町あたりの家々、田圃、その向こうに吉野川。
その先も道は荒れ、路肩が崩れトラロープが張ってある所も。
谷川を渡りますが、水一滴ない寂しさです。
登山口より4.8kほどで車道に出ます。ここから大山寺まで0.7kほどの舗装道。最後は寺への長い石段が待ち受けています。
山神社から全長5.5k。私の遅足に体調不良を加え、3時間以上を要しました。
はっきり言って、よほどの山道好きのお方以外は通らない方がいい・・という道ですな。マイナスポイントを一つ追加。蜘蛛の巣です。
山道に入ってからもう殆どづっと払い続けなければなりません。顔のベタッとかかった蜘蛛の巣は歩行意欲を殺いでしまいますよね。

一本松越道の分岐


第2展望地からの眺め(吉野川も見える)

第2展望地先の道

寺からの下りは、以前にも通った正規?の道を通りました。
寺の直後から始まる山道の入口も以前より多くの遍路札が掛っていて、分かりやすくなっています。山道も以前より整備が進んで歩き易くなっていました。
唯、山道の最後、飛地蔵の標石直前の果樹園の中の道は消えかかっています。20mほどですが舗装道を迂回します。

山道の上りで体力を消耗、すっかり疲れてしまいました。神宅までトボトボ歩き、あとはバスで板野へ、電車で徳島へ。

 

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四国遍路の旅記録  三巡目 第2回 その1

あっちこっちの後始末

前回、今年の春遍路は、札所の番順に依らず阿波の国をあっちこっち、自在過ぎる旅になってしまいました。おわりは、別格3番慈眼寺から、遍路はまず通らない(いやいや、地元の人も滅多に通らないですよ・・)大川原高原を越えて、12番焼山寺近くの寄居まで来てしまいました。
あとの始末をどうつけるか・・今回の打ち継ぎは悩ましいところですが、ままよ!と徳島駅から始めて、前回お参りしていない16番観音寺を最初に、逆打ちで3番金泉寺まで行くことにしましたですよ。
これが基本線でしてね、例によって、飛ばし、道草、寄り道が頻発するでしょうけど・・ね。
そしてその後は、前回歩き残した牟岐、海陽付近の山道を歩き(これは執念ですなー)、電車、バスも利用して室戸岬へ、高知へ・・と考えておったのです。
・・が、(日記なのに先に結果書いちゃまずいですけど)体調不良で、リタイア。
ということで、この三巡目、第2回は、中断を挟んでの展開となったのでございますよ。(平成21年9月~10月)





建治寺の行場にうろたえる  (平成21年9月26日)

徳島駅から16番観音寺までは街中の道。軟弱遍路の仲間では、こういうところはバスに乗る決まりになっております。
バスを待っていると、ベンチの隣に若い女性。派手目の半ズボン姿。金剛杖と飾りのような小さな菅笠を持っていなければ、ちょっと遍路には見えないでしょうね。
昨日は徳島市内に泊まったようですが、その前は何処かの善根宿。そしてこれから20番鶴林寺登山口までバスに乗ると言っています。どうもどういうルートで歩き、泊まっているのか理解できないのです。
話してみると、素直な性格の娘さんのようなのですが、おじさん(おじーさんかな)は、ついつい
「できるだけ女性の連れを見付けて一緒に歩く方がいいよ。善根宿も注意しないとねー・・」
などと教訓を垂れてしまうのです。とっても心配になるのですよ。
・・手を振ってバスに乗って行っちゃいました。

私の乗ったバスは、徳島の街中を過ぎ瞬く間に観音寺近くのバス停に。
ここから1~3kの間隔で4つの札所が続きます。観音寺、15番国分寺、14番常楽寺、13番大日寺です。
16番観音寺。
立派な山門です。3度目ですからよく覚えています。本堂に向かって右側、赤子を抱いた新しい石像があります。水子地蔵です。とても気になりました。
お寺の境内や路傍の何処にでもある石仏であってもその中のひとつにどういう訳か心惹かれることってありますよね。遍路として歩いているとき特有のことなのでしょうか。
新しくできた広い道を通って国分寺に向かいます。

観音寺山門

観音寺の水子地蔵

15番国分寺、14番常楽寺。
低い山の裾に沿った人家の中の道。道で立ち話中の奥様方に会えます。そういうときは、見当は付いていても必ず道を聞きます。
葦に囲まれた溜め池、そういうところにはきっとアオサギがいます。
鮎喰川を一の宮橋で渡り、大日寺の近く。あー、あの分かれ道のお地蔵さん。野の花と水のお供え。以前通ったときから忘れられぬ道の仏です。

国分寺本堂

溜池とアオサギ

分かれ道の地蔵

13番大日寺。
納経所の女の方。優しい言葉をかけていただく。寺を出て道を歩きながら、「あっ、あの方がこの7月に住職になられた韓国出身の舞踊家・・」と気付く。
鮎喰川の畔を歩きます。この川、その広い川幅の殆どが白い石で埋められているのですが、歩く人に大らかさと安らぎを感じさせてくれる、そんな風な川に思えます。

大日寺本堂

鮎喰川

入田から建治寺への道、2.4kに入ります。
この道は、建治の瀧を経て寺に至る古くからの参道であるようですが、建治寺に参る順打ちの多くの遍路は、その後大日寺に向かうのですから、寺から下る道として歩くことになるでしょう。
しかし、上り道として辿れば、四国88ケ所石仏を1番から拝して、境内の88番に続く素晴らしい参道なのです。心打つ仏の表情に思わず合掌させられます。
途中までは、1車線ぎりぎりながら車も通れる道。車道を右に分けて、山道を1.2k、素朴な鳥居を潜ると建治の瀧の行場に至ります。
瀧の水は涸れていますが、辺りの岩から水が滴る幽玄な雰囲気です。
不動さんのお堂の脇、崖に接して15mはあろうかという梯子が見えます。私はこういうのが特に苦手。これを上るのかー・・と思った途端、心が萎えてしまいましたよ。
冷静なら、その横に寺に至る鎖場が発見できたはずですが・・。
エスケープルートを探して廃道のような山道を行ったり来たり。悪戦苦闘の末、車道に出ました。ここからやっと建治寺にお参りです。

建治寺参道の石仏

建治寺参道の石仏

建治寺行場の入口

建治寺から12番焼山寺下の鍋岩の宿まで、広野、玉ケ峠経由で15kの道を歩く予定でした。建治寺上りでの時間ロス、それに体調もどうも良くありません。広野までの5kの道を下った後、ついに寄居までのバスに乗ってしまいました。
玉ケ峠の手前には、新しいヘンロ小屋(36号)も出来たという情報も得ています。それも見ることはできませんでした。残念なことです。



焼山寺道逆打ちでの出会い  (平成21年9月27日)

今日は、焼山寺山登り口近くの鍋岩の宿から、12番焼山寺に参り、「へんろころがし」の厳しい山道を越えて11番藤井寺へ。そして寺近くの宿まで16.8kの道。
さらに、焼山寺から焼山寺山頂(930m)にある奥の院まで(往復2.8k)参りたいと思っていたのですが、昨日来の体調を慮り中止に。そのため時間的には余裕ができました。「さーて、ゆっくり参ろうか・・」

私の焼山寺から藤井寺への行程は、遍路の巡りとしてはやはり逆打ち。多くの順打ち遍路とすれ違うことになると思われるのです。結果を先に言っちゃうと、遍路11人、途中にある柳水庵を整備する地元の人、それに山道を飛ぶように往復する少年2人。ああ、同方向に進行したハイキングの男女20人ほど、これは別にしても多くの人と会うことができたのです。
その多くは、二言三言言葉を交わすすれ違いでしたが、3人の方とは20分から30分以上いろいろなお話をすることができましたよ。
多くの人との出会いは、ひょっとしたら逆打ちのもっとも大きな功徳、いや楽しみであるのではないかと感じているのです。

鍋岩の宿を7時に発って、最初にお参りするのは杖杉庵。
四国遍路の始めとも伝説される伊予の衛門三郎が長い巡礼の後、ここで大師と出合い息を引きとったと言われる地。衛門三郎の墓標となった杖が芽をふき大杉になったという庵の名の由来。
目の前の大師と衛門三郎の像は、私にとって三度目の出合いですけれど、衛門三郎の心が素直に表れたその表情に打たれます。とても真摯でシリアスな像のように私には思えるのです。
杖杉庵から車道とそれを短絡する急な山道を登ります。道の両側の杉林の中には、所々朝の光が差し込んで、いくつかの墓を浮かびあがらせていました。
一人の女性遍路が道を下ってきます。「えー、どちらから・・」 昨夜は柳水庵の小屋に泊まって朝4時半に出てきたという。まだ薄暗い山道であったろう。驚きです。こういう人を修行遍路の鑑というのかなと思いながら、後ろ姿を見送りましたよ。

大師と衛門三郎

焼山寺参道

焼山寺

8時30分、焼山寺に着きます。
朝早くから車遍路でけっこうな賑わい。何度来ても、その度に杉の巨木に圧倒される境内ではあります。
9時過ぎ、焼山寺を出て急坂を下る直前、一人の男性遍路に出会います。
5時に藤井寺を発ったとのこと。
「4時間はちょっと切れなかったなー・・」「いやいや、十分に早いですよ・・」

(追記)焼山寺の変遷について
江戸期初期の焼山寺については、澄禅の「四国遍路日記」に次のように記されます。

「本堂五間四面東向、本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔シ立也。古ハ瓦ニテフキケルガ緣ノ下ニ古キ瓦在。棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知。堂ノ右ノ傍ニ御影堂在。鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ、先師法印慶安三年ニ再興セラレタル由鐘ノ銘ニ見ヘタリ。当院主ハ廿二三成僧ナリ。扨、当山ニ奥ノ院禅定トテ山上ニ秘所在リ。・・・寺ヨリ山上エハ十八町、先半フクニ大師御作ノ三面六脾ノ大黒ノ像在リ。毒蛇ヲ封ジ籠玉フ
岩屋在。求聞持ヲ御修行ナサレタル所モ在。前ニ赤井トテ清水在リ。山頭ニハ蔵王権現立玉ヘリ。護摩ヲ修玉ヒシ檀場在リ。如此秘所皆巡礼シテ下ルニ、又昔毒蛇ノ住シ池トテ恐シキ池在リ。夫ヨリ下リ下リテ寺ニ帰ル也。・・」
と奥の院を含め極めて詳細な記述。また、中世の寺の様子を知る要素も漏れなく含まれているようです。
近くの鶴林寺や大龍寺と同様、寺の前身は山岳信仰を奉ずる古代山岳寺院であったと云われます。その後、蔵王権現を祀る修験道の寺、弘法大師が虚空蔵求聞持を修し、虚空蔵菩薩を祀る寺となります。これらの要素は上記の澄禅の言葉の如く、奥ノ院を含む焼山寺の各所に残されているという訳です。
鎌倉期から室町期にかけて、焼山寺南の鮎喰川に沿った神領地域の上一宮大栗神社、神宮寺、長福寺を中心に阿野・鬼籠野地区の諸坊に来た熊野信仰を奉じた熊野行者が焼山寺に大きな影響を及ぼしたと云われます。(澄禅が「鎮守は熊野権現也」と記すのもこのこと)神領(大栗山)、鮎喰川、吉野川、紀伊水道を通じて紀伊に至る道程は熊野信仰の道となっていたようです。
焼山寺の近く、同様に古代山岳寺院にその始原を持つち云われる鶴林寺、大龍寺についてここで少々触れておきましょう。
鶴林寺、大龍寺の縁起には多くの説話が語られ、寺の歴史の真実を想像するには困難があるようです。しかし、その地理的条件からして、熊野行者あるいは熊野水軍との関わり、室戸へと続く空海修行の道としての弘法大師との関わりの深さにおいて、両寺は焼山寺と同様の変遷を辿ったものと思われます。(特に禅定として大龍寺の南の舎心、北の舎心、大龍の岩屋は重要なものと云われます。これらと弘法大師との触れ合いについては別の日の日記で触れることもありましょう。)
それでは、澄禅の日記にも明白に見られるように、焼山寺の衰退と鶴林寺、大龍寺の繁栄・・その差を生じた原因はどこにあるのでしょうか。それに対して、寺周囲の森林資源の差異と那賀川を通じて行う紀伊との海上交易路の差を挙げる研究者もあると言います。
                              (令和5年8月追記)



この先、左右内(そうち)の集落まで標高差300mを下る2.5kの道は、順打ちでは「へんろころがし」中最大の難所と言われます。急坂であるだけでなく大石、小石の多い道で大変歩き難いのです。
下り坂の私にとっては大いに助かるのですが、膝にとっては重い負担であったかもしれません。
春には桃源郷であった懐かしい左右内の農家の屋根が点々。
ここより1.6k、標高差350mを上り返す道。逆打ちでは、特にこの道の前半が最大の上り急坂でしょう。
7分目上った辺りで、下りてくる女性遍路に会います。元気そうな若い女性。この人が藤井寺近くの宿を7時に揃って発った数人の遍路の最速者であることが後で判明することに。

浄蓮庵(一本杉庵)。
巨大な杉とその前の大師像。今回は大師の背中への接近でしたが、順打ちで上りの最後の石段の上のこの像を拝するとき、やはり感慨を覚えるものです。
近づいてその力強い足の表情を見ると、大師の心の強靭さを感ぜずにはおれません。
二組の外国人夫婦にお会いします。英語でオランダから来たことを聞き出すのがやっと。あとは何を聞いても「ワカリマシェーン」英語が不得意なのか・・いやいや、ワシのは自分じゃそのつもりジャガ、実は英語じゃないケーノー。
この辺にあるもの、何事も興味の的のよう。壊れかけたトイレの中から小便器が覗いているのを、何だ、かんだと言い合ってカメラに。

一本杉庵の大師

大師の足

一本杉庵を後に

浄蓮庵からの急坂の下りで、荷物も持たずヒョコヒョコと登ってくる老人。
87歳だという。それにしては大変な元気。唯恐れ入るばかり。
「ところで、あなたはおいくつで・・」と顔を覗き込まれる。 私も近い年齢と思われたのでは・・まさか。
そのすぐ下の道傍に腰掛けて、悠々とタバコを吸っている50歳前後と思われる男性。
「ワタシは早く歩くことを競うへんろはきらいでねー・・」 「ワシもそーでがんす・・」と合点した手前、30分近くも話をすることになってしまう。
この人、独特の遍路観を持っており、おもしろい話も・・。差し支えないところだけ。
「遍路道を歩かせてもらうだけじゃなく、遍路道のために何か貢献せにゃー・・」 「高野槇、この辺じゃみないでしょう。いい木ですよ。これを植えていこうかと思っとりましてなー・・」
高野槇の遍路道。いいもんでしょうなー。心の中で「サンセイ、サンセイ、大サンセイ」と叫んでおりましたですよ・・。

林道のような広い道を通って柳水庵へ。12時30分頃。
豊かな水が溢れています。たっぷりと喉を潤します。焼山寺から藤井寺への道の水場は3ヶ所と言われています。焼山寺を出たすぐの所、ここ柳水庵、そして長戸庵先の道傍。でも柳水庵を除いて水量は僅かです。
4年前に建てられた休憩小屋。小屋の壁には、泊まった遍路が貼ったへんろ札がいっぱい。焼山寺と藤井寺のちょうど中間に当るこの地は野宿遍路にとって貴重な宿泊地となっているのです。
小屋より坂を上って50mほど。柳水庵のお堂。雨戸が開けられ、電灯も灯され、きれいな内装の室内が覗えます。
庵前のベンチで、おにぎりと缶ビールを広げて昼食中の作業服姿の人、隣の60代と思われる遍路姿の男性と話しをしています。私も話に割り込みます。
「この庵はまた泊めていただけるようになるんですか・・」 作業服姿の男。「いえ、そういうことではないんですがの・・」
周りの木を切り、崩れた道を直して、傷んだ建物も普請してきたと言う。
「すぐ下の休憩小屋もわたしが建てましてのー」
この庵、7年ほど前まで、1日数人の遍路に宿を提供してきた老庵主夫妻が住んでおられた。奥様の優しい眼差し、夫妻の暖かい言葉に心の安らぎを得た遍路も多くあったと聞く。今は老健施設に入られてお過ごしの様子。
聞いた話ですが・・とそんな話を少しすると、
「ああ、ご存知ですか。私は老庵主夫妻の親戚の者で・・」とうれしそう。
何ともありがたい、頭の下がる行動。ただただ「ありがたいことです。これからもよろしく・・」と繰り返すほか言葉を持ちません。
先ほどから話を続けていた真黒に日焼けした60代遍路。
「退職しましてのー。野宿でゆっくり、ゆっくり回っとるんですよ。60日かけて1周するつもりで・・。女房からもゆっくり行っといでと許しもろうて・・。」といかにも幸せそうな表情。
これから神山温泉に行ってテント張るつもりという。
「焼山寺まで3時間、そこから神山温泉まで2時間。ちょっと急がないと暗くなりますよ・・お気をつけて」
それが、長い話の潮時。30~40分経ったろうか。庵の整備をしてきた男性に、再度の礼を言って歩き始めたのです。
そこから暫くは緩やかな上りと下りの尾根道。
13時30分頃、向かいから一人の遍路。これから焼山寺まで行くという。5時までの納経時間には、ちょっと無理なペース。いろいろなケースについてアドバイスさせていただきました。

(追記)柳の水について
真念の「四国遍礼功徳紀」(1690)には、柳の水(柳水庵)の謂れとして次のような話が載せられています。(「道指南」にも同様の記述あり。)
「阿州藤井寺より焼山寺まで三里の坂路山中にて水を見ず。夏の此一人の遍礼人二里ほどのぼりてつかれしかども、口をうるほすべきやうもなく打ふしゐけるに、一僧来りて楊枝にて加持し玉ふと見えしが、忽かたハらより清水わき出、ふせる人にそゝぎたすかれり、大師様とおがミ奉りける。その楊枝を其所にさし玉へバ木となれり、其根より水湧て、長く往還の人利を得、是を柳の水といひ、楊枝の水ともいふ。しるしの石あり。」
おわりに記される「しるしの石」は今も庵前にある標石であるとされます。「(梵字)柳水 為ニ親立之 早渕屋弥一兵衛寄進 延宝八龍集 庚申七月廿八日」(1680)
その年代からみて、この標石の建立に真念も関わっていたと思われています。その当時は庵は無くただ水呑み場のみがあったようです。始めて庵が建ち人が住み着いたのは安永8年(1779)没の良清法師と言われます。
それからは・・この厳しい山の遍路道の途中で、遍路を扶けるために何人もの庵主が住まわれたことか。ときには、あの平成の「クマさん」のような変わり者とともに。


柳水庵前の標石(延宝8)と丁石地蔵(山より六十丁)         江戸後期の柳の水(四国遍礼名所図会)

                                        (令和5年9月追記)

                                        (9月27日 つづく)

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