厳島神社大鳥居
















     厳島神社、拝殿より百八間の海上に建てられている大鳥居。
     高さ16.8m、重量60t 樹齢500~600年の楠の自然木。
     この鳥居、1168年平清盛の造営の記録があり、これより、略百年に一度立替
     られ、現存のものは、明治8年の再建による8代目という。昭和26年水浸部分
     を新楠に取替えている。根元は、海底に埋められているものではなく、強化され
     た地盤の上に、自重(島木の中に7tの石が詰められている)で立っている。
     主柱の前後に袖柱を建ててつなぐ、両部鳥居の形式。
     額には、沖側に「厳島神社」、神社側に「伊都岐島神社」と書かれている。

     (この壮大な鳥居。海の中に浮かんだように見える姿で、お馴染みでしょう。
      でも、潮が引くと、鳥居の下まで、歩いて行くことができるのです。
      沖側の額に、書かれている字は、知っていましたが、神社側の額にも何やら
      書いてあります。それを確認すること、それに、島木の両側に何か絵が彫って
      あるらしいのです。それは、見事な、日と月でした。
      そして、この時は、鳥居に相応しく烏が、一羽泊まっていたのです。
      青空に、赤の色が染むような、大鳥居の表情でした。)
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長門長府、功山寺仏殿


















     山口県、長府(下関市)にある曹洞宗、金山功山寺。
     元々、臨済宗、長福寺と呼ばれていたが、長府毛利氏の菩提寺となり、
     戦国時代、武将として名を残した初代藩主毛利秀元の歿後、戒名より採り、
     功山寺と改称した。
     仏殿は、1320年の建立という。曲線の美しい桧皮葺き、入母屋造りの屋根。
     二重屋根の上層は扇垂木、尾垂木、下層は配付垂木による木組み、花頭窓、
     波形欄間など、以前に紹介した、東京正福寺観音堂、広島安国寺不動院金堂、
     あるいは、鎌倉の円覚寺舎利殿(常時は非公開)と同様、色濃い禅宗様の特徴
     を持つ優美な建物である。それらの中ではこのお堂は最も古い。国宝である。

     (長府の街の一角、長府毛利氏の城下町の風情が、見事に保存されている、
      土塀が続く石畳の道(・・前回紹介した。 )を辿ると、功山寺門前に導かれる。
      山門をくぐり、鬱蒼とした樹木に囲まれた中門の石段を上ると、反りの美しい
      仏殿の屋根が望まれる。広くはない境内で、いきなり仏殿の圧倒的な存在感が、
      身に迫ってくる感じなのだ。
      ここは、幕末の尊皇攘夷の拠点であった処という。都から逃れた公家(世にいう
      七卿落ち)が、逗留した処でもある。また、高杉晋作が奇兵隊を挙兵したところと
      もいう。境内には、多くの団体の人の姿と、そういった幕末の動乱時の様々な、
      華やかな出来事を説明するガイドの声が高く響いていた。)
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長府、土塀の印象














     下関市街地から東へ10k、今は下関に属する長府の町。戦国時代の末、その
     武勇、器量を謳われた毛利秀元が、関ヶ原の敗戦の後この地に入り、毛利藩の
     支藩、長府五万石を置いたその場所。幕末には、維新発祥の中心ともなり、
     高杉晋作、挙兵の地でもある。
     町の一画に、土塀に囲まれた、当時の街並みが残されている。しかし、所々に
     長屋門はあるが、土塀の中の主屋、武家屋敷は残されていないのだ。町屋も
     見られない。それは、この街が、生活の場として現在も住まわれているというこ
       とによるらしい。使い難い家は、取り壊され、近代的な住宅に替わったということ。
       ちょっと変わった風情の土塀の街なのである。

     (西に傾きかけた日差しが、土塀の間の石畳に影を落とす午後、この街の一画を
       歩いた。土塀は、立派で高く、その中の家の様子を伺うことはできないのです。
      電動車椅子のご婦人が、軽く頭を下げて通り過ぎて行きます。
      本来、住宅の境界を形作るべき土塀は、ここでは、あまりに雄弁なのです。
      歴史の重みを秘めた、不思議な長府の街でした。)
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尾道、天寧寺三重塔
















     尾道の古寺めぐりは、尾道駅の近くから始まり、東へ24の寺を巡るが、そのほぼ
     中央にあるのが天寧寺。24の寺のうち、塔婆を有するのは、この寺のほか、
     三重塔が西国寺に、そして以前紹介した多宝塔が浄土寺に、計3箇寺なのである。
     天寧寺は1367年開山の曹洞宗の大寺で、五重塔が建立されたのが、1388年。
     その後1692年、傷みが激しく大破した塔の上二層を撤去し、今に見る三重塔と
     して改修されたものという。臨機応変と言おうか、その決断には、驚きを禁じえない。
     そう言えば、三重塔にしては、厳つく重い感じは拭えない。様式は和様を基調に、
     扇垂木など禅宗様を濃厚に採り入れたもので、軒下から見上げると、その木組み
     の見事さに圧倒される。

     (暫く中断していた、古建築、国宝・重文シリーズ。また、ぼちぼち始めます。
      撮った時期は、ちょっと前のも混じりますけど・・。
      尾道の古寺めぐりのコースは、この寺の下を通っています。従って、コースを辿って
      いる限り、この塔を仰ぐだけで、塔の全体を見ることはない。ロープウエイに拠らず、
      歩いて千光寺への道を登り降りして、初めて、水道と尾道の街並みをバックにした、
      この独特の三重塔の姿に出会えるのです。
      この道で、ロープウエイの山頂駅から、下ってくるスケッチハイキングのあばさん達
      一行にお会いした。引率の先生は、「ここスケッチポイント、40分休憩・・」と号令。
      おばさん達の賑やかなこと。狭く急な道のあちこちに座って、スケッチが始まる。
      楽しそうな、尾道古寺めぐりのひとコマですね・・。)
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