長州大工の心と技 その4 山吹御前神社 炷森三島神社

                                         
                                                  
山吹御前神社

松山と大洲を繋ぐ旧大洲街道は概ね現在の国道56号に沿っているのですが、伊予市大平から犬寄峠を越えた辺りから東方へ外れ、山間の道を採ります。犬寄(いぬよせ)の大師堂を過ぎ杉林の中の急坂を下ると谷に沿う集落に源氏、山吹、日浦という字名を聞きます。この山吹の地に山吹御前神社があります。
旧大洲街道はここを過ぎると再び現在の国道56号に寄り中山へと向かうのです。

山吹御前神社に祀られる山吹御前とはどういう人だったのでしょうか。
源頼朝の平家追討に呼応して木曽義仲が信濃の木曽谷に挙兵したのは治承4年(1180)のこと。京に入った義仲の様子を平家物語は次のように記します。
「木曽は信濃を出しより巴、山吹とて二人の美女を具せられたり、山吹はいたわりあって都に止まりぬ・・」
頼朝に追われる立場になった義仲は巴のみを連れて追討軍に立ち向かい寿永3年(1184)近江、粟津が原に敗死します。京に残った山吹については、大津で亡くなったとされる他、各地に様々な伝承が遺されており定かではありません。この伊予の地、佐礼谷(されたに)で亡くなったとする伝えもその一つです。
神社の前に立つ「神社の由来」の案内はその様子を次のように紹介しています。長くなりますが、その一部を抜き書きさせていただきます。
「・・京に止まった山吹は生前伊予守であった義仲のゆかりもあってか、少数の供と共に伊予を目指して落ちて行ったと思われる。しかし、その伊予の国も文治二年(1186)頼朝の所領となったことで頼れる先も失われ、一行に対する風は冷たかった。ある日、一艘の舟が伊予の灘浦(伊予市双海町上灘)に着いた。ひそかに上陸した僅かな人影に囲まれて病んだ山吹御前の姿があった。一行は隠れ里を求め上灘川の流れに沿って真東に見える山方に向かって進んだ。そして現在の伊予市双海町大栄、翠小学校の所より坂道にかかる。一行は竹を切って笹舟とし、これに次第に衰えを見せる山吹御前を乗せ右手の山肌を斜行しながら遂に山頂まで引き上げた。この時より人々はこの山坂を曳き坂と呼び、辿り着いた山頂で山吹御前を真中にして楯を立て従者がこれを囲んで一夜を明かした地を築楯という。またその辺りの集落を高見と呼ぶのは遥か伊予灘の彼方を望見して追手を警戒すると共に沈む夕日に漂泊の思いを深くしたと思われる。一行は更に、現在の国道五六号を東に向かって横切り山に分け入って伊予市中山町佐礼谷平野(ひらの)に出て川の流れに逆らって日浦に至ったが、もうその間に山吹御前は波乱と薄幸の生涯を終えたと思われ衣裳替え地と呼ばれる小祠の所で死装束に改められた。
素朴で心優しい日浦の人々は、この美しい貴人がこの地を永遠の隠れ里としたことに感激し従者と共に地を選んで鄭重に葬ると共にその上に五輪塔を建てた。更に時は過ぎ旧大洲街道の傍に山吹御前を神とする社を造営した。何れも山吹御前の故里に対して東向きとし此の地を山吹(小字)と呼ぶ。山吹御前のこと、囲む人々の優しい心を蛍の里日浦のゲンジホタルの青い光と共に末長く伝えてゆきたい。」

村の人々の願いであった神社が建てられたのは明治27年のこと。「大工棟梁 山口県大島郡西方村 門井友祐」と社記に記録され、その銘は拝殿の獅子の彫刻の裏にも残されているといいます。
山吹御前の五輪塔墓の所在を聞いても、村のやや若い人は「いやーわしは知らんので・・」。でも狭い山吹の地、少し歩けば容易に見つかります。立札などないのが好ましい・・。
山吹御前の伝えと日浦、山吹の人の熱意が長州大工門井友祐の心を大いに揺るがしたであろうことは容易に想像できます。この「長州大工の心と技」の旅を終わってみて私は改めて思ったものです。門井友祐はこの山吹御前神社で最も素晴らしい仕事をしたのではなかったかと。それは確信に近いものでした。
杉林から清い水が流れていました。昔の大洲街道はきっとこんな道、と思う山吹の集落の中の道をできるだけ歩き、街道を導く道標も見て中山に向かいました。

鳥居


山吹姫御前幟


拝殿、本来の拝殿の前拝部のみが残る。現在の拝殿は集会所を兼ね昭和34年に建てられたもの。


拝殿水引虹梁上の彫刻(素戔嗚尊か)


拝殿木鼻の獅子(右)


拝殿木鼻の獅子(左)


拝殿根肘木の獏


本殿


本殿木鼻の龍


本殿木鼻の龍


本殿


本殿


本殿


本殿


本殿


本殿腰板の彫刻


本殿腰板の彫刻


本殿脇障子の彫刻


本殿脇障子の彫刻


山吹御前の五輪塔墓


神社横の道、昔の大洲街道はきっとこんな道


山吹の集落


旧大洲街道の道標、(手印)なかやま(手印)みやもと 大正五年六月



(追記)大洲街道(大洲道)について
本項は長州大工が愛媛に残したもの、その足跡を追うものです。山吹御前神社、永田三島神社、川崎神社は通称「大洲街道」と呼ばれた道に沿って置かれています。(もっとも、伊予では藩政期、藩直轄の道は存在せず、松山から郡中(現在の伊予市中心部)、市場、犬寄峠、中山・佐礼谷を経て内子、大洲に至る道は「大洲道」と呼ぶ方が正しいのかもしれません。)
この道はいわゆる「遍路道」ではありません。この道のこと、この日記のどこに書き留めておくのか戸惑うところです。
佐礼谷から中山への道を辿る本文、ここで大洲街道について追記しておくことにしましょう。

地図「伊予市付近」、地図「向井原付近」、地図「伊予大平付近」、地図「日浦付近」、地図「伊予中山付近」、地図「伊予中野付近」、地図「伊予立川付近」、地図「六日市付近

明治期における大洲街道の最終の道筋については、松山在住の谷向夫妻が現地を実際に踏査して記した貴重な記録(WEB「四国の古道・里山を歩く「大洲街道」)があります。(このブログは長らく姿を消していましたが最近アーカイブとして復活しました。ありがたいことです。)私の作成した大洲街道の地図についても、このWEBに拠るところが大きいもの。私が実際に歩いたのは街道の極く一部であるに過ぎないのですから・・
藩政時代以前の街道(大洲道)には多くの枝道が存在したようです。(脇往還)その一部を大洲道古道として地図に加えました。
藩政期以前の道の多くは1~2m程度の土道であり、近代の交通事情に合わず、廃道として姿を消していった道も多いと思われます。残された道標や仏堂、茶堂などからその道筋を想像するしかない状況でしょう。藤の郷川沿いに北西に進む古道(地図上には大洲古道1と表記)が東の山道に入る所、永木には藤縄之森三島神社と茶堂(永木新四国の中心、天保3年(1832)三島神社地より薬師如来像を現地に移転、「森の御堂」と呼ばれる
)があります。三島神社の鳥居には、応永9年(1402)、元禄16年の銘がある古社。
郡中以南に残る金毘羅道標を示すと次のとおり。
・伊予市市場(南組)「左金毘羅道 右谷上山道」 ・伊予市市場(南組)「金毘羅大門ヨリ三十二リ」 ・伊予市佐礼谷(日浦)「右金毘羅大門ヨリ三十四リ」弘化2年 ・伊予市佐礼谷榎峠「右金毘羅大門ヨリ三十四リ半/施主檜尾 榎峠/左なだ道/天保5年
また、郡中以南に今に残る大師堂を数えれば次のとおり。
・伊予市中山町佐礼谷丙(犬寄) ・伊予市佐礼谷(藤ノ瀬) 明和2年(1765)の地蔵を祀るが地元では大師堂と呼ばれる。
・伊予市中山町出渕(櫓谷) 元文2年(1739)の地蔵を祀るが「南無大師遍照金剛」と刻む。・伊予市中山町(中山) ・喜多郡内子町立川(茶谷)
以上より、大洲街道(大洲道)は金毘羅街道であったこと。そして、遍路道としての補助的役割も担っていたことが認められるのではないでしょうか・・
永木小学校(平成17年閉校)の正門横には古い道標があります。「右 かみなだ二リ十二丁 うしのみね一リ三丁/左 いしだゝたみ」。ここより北西に牛ノ峯を経て(双海町)上灘へ、西方(内子町)石畳へ行く壮大な山道を案内していると思われます。街道や往還道によることなく、山間の厳しい道を往来した当時の人々の苦労と健気さを思わされます。


元永木小学校横の道標


永木の茶堂(森の御堂と呼ばれる)

大洲街道を歩きながら思ったものでした。
この道は交通路としての役割を国道56号に譲り、山村の過疎化とともに、草に埋もれ沿道の文化とともに消えて行く運命にあるのかも知れないと・・          (令和4年6月追記)(令和5年1月改追記)

(追記) 本村(市場)以北の大洲道枝道
本村(市場)以北の枝道についてもふれておきましょう。
市場で本道から分岐した道は、巨大な伊予稲荷神社の鳥居を見て、稲荷、上吾川、下三谷、上三谷、旗屋、横田、以降現在の砥部伊予松山道周辺、嘗ての広大な条里制が残る道、永田、恵久美、岡田などを経て重信川畔の出合、余土で本道に合流していたと思われます。
特に、上三谷までは金毘羅道標や金毘羅常夜灯が多く見られ、金毘羅道の様相を呈しています。
なお、上三谷より松山へ北上する道については、明確な道筋は無かったように思えます。上三谷の正圓寺門前には文久2年の道標「右さぬき道」があり、やや不明確ですが、重信川を越えて北岸のさぬき道延長上に出る(讃岐道の範囲については、松山市森松町の道標に示されている。)
には、出合の渡しの東に「大間の渡し」、「中川原の渡し」があり、これらの渡しに至る道筋も利用されたことと思われます。
地図については「松前付近」、「伊予市付近」、「向井原付近」を、また道標などについては「四国遍路道の石道標」を参照してください。
                               (令和5年11月)
(追記) 石畳から上灘、下灘、中山そして内子へ


石畳周辺の主要路略図(藩政期~明治期)     (クリックで拡大)

伊予市永木の元小学校の傍の道標に導かれて、もう少し足を延ばしてみましょう。
永木の西石畳(昔は伊予郡下灘村に属し、現在は内子町に所属する。)、基本的には麓川に沿った山麓に点在する、東、岡の成(おかのなる)、小狭(こはぎ)、麓(ふもと)、中、竹乃成の六つの集落(組)より成ります。
大正の頃までは組ごとに集まって、「数珠繰り」や松明を掲げた「虫送り」などが行われていたようです。村全体としては、特に上灘・下灘方面との関係が緊密で牛ノ峯を越えて上灘へ、仏峠を越えて下灘へ、鳥越峠を越えて豊田へと・・ 主な交易品は材木(木挽き)で、後に炭が加わる

牛ノ峯地蔵堂(みねじぞう)の春と夏の縁日には特に賑わったと伝えられます。
村東端の東組から永木を経て中山へ行くよう
になったのは大正時代以降のこと。内子まで出るには麓川に多く設けられた堰の飛び石を渡る必要があり、通行は少なかったと言われます。麓川沿いや中山を経て内子への通行が盛んとなるのは、道路が整備される昭和30年代を待たざるを得なかった・・この「昭和30年代」、日本の国全体が急激に変化した時代(それは良いことも、そうでないことも含めて)。
このことを私の年代の者は実感を持って感じるのです。              (令和4年6月追記)



    

炷森三島神社

炷森(とぼしがもり)三島神社は内子から四国霊場44番札所大宝寺を目指す遍路道(国道379号の旧道)に沿ってあります。
私は平成26年3月の遍路の際寄る予定でしたが、神社の近くのお旅所の傍の茶堂で地元のお年寄りと話し込みそのまま通過してしまったことを思い出します。
この神社は永禄11年(1569)曽根城主曽根宣高が大山積神を大三島より勧請して神殿を建立したと伝えます。
現在の拝殿、幣殿、本殿は明治33年に上棟したもので、拝殿には「炷森三島宮改築工事録表」というものが掲げられています。それによれば、棟梁は地元の大本新五郎でその他地元大瀬をはじめ五十崎や松山などの多くの大工が参加しているのです。長州大工として参加しているのは本殿の彫刻師としての門井友祐のみです。拝殿の木鼻の龍は当地天神村の城崎豊、前拝の彫り物には松山の大可賀、武智武八等の銘がみられるといいます。いずれも門井のものとは趣を異にしますが、立派で華麗な彫りであると感じさせられます。唐破風の中の豪壮な斗拱は、この拝殿の最大の特徴でもあると思われますが、泉吉太郎等の作といわれます。
本殿の門井友祐の彫刻の内、脇障子の彫刻、腰板の中国の神話を題材にした彫刻は特に貴重なものと思われますが、保存のためにガラスがはめられ、見難く撮影も困難であるのは残念なことです。辛うじて撮れた、「王子喬」「瓢箪から駒」の2枚を載せておきます。
拝殿は壁のない開放的な空間で、ここで毎年の秋まつりに行われる獅子舞は独特で貴重なものです。Youtubeでもその映像が公開されています。太鼓の音頭に合わせて踊るその所作と筋書きのおもしろさは繰り返し楽しみたくなるものです。
台風の齎す雨は弱まったり強まったり・・写真を撮る状況にはありませんでした。できうれば別の機会に撮り直ししたいものです。

石段を上る


拝殿が見える


拝殿


拝殿木鼻の龍


拝殿木鼻の龍


拝殿舞台


本殿


本殿


本殿腰板の彫刻


本殿腰板の彫刻





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