四国遍路の旅記録  平成25年秋  その2

久礼から大坂を越え岩本寺へ



朝の安和の海

昨日に続いてまた安和の海を眺め、電車で久礼に移動します。安和の海は今朝も静かでした。

久礼から七子峠への遍路の道は、添蚯蚓(そえみみず)道と大坂道が充てられてています。
今回は大坂道を行きます。これで私は、夫々の道を2回づつ歩いたことになります。
この区間、江戸時代の遍路記を見ると殆ど全てが添蚯蚓坂の記録であって大坂が現れることはありません。
古くから土佐往還と呼ばれた主往還は、尾根を通る添蚯蚓道であったということです。しかし、この道は標高差が400mもある厳しい道。それを解決するため、現在国道56号となっている道の近くに、久礼坂という道や、その南の谷の大坂道が開かれたという経緯もあるようです。

追記「久礼坂道について」
中土佐町久礼から七子峠に向う道。最も古い道は中世以来江戸期を通じて主道(往還道)であった添蚯蚓坂。そしてその後に南の谷「奥大坂」集落を経る道を延長した奥大坂道(遍路道)がありました。

明治に入り、添蚯蚓坂の山道の不便さを解消するため建設された道が久礼坂道であったようです。(久礼坂道の開通は明治25年という記録もあります。この時期は他の国道化整備に比べ早期です。このことが明治後期より始まる車道化としての目的を十分達成することができなかった理由になったとも考えられます。)
明治から昭和前期の久礼坂道(旧国道56号)は、久礼から七子峠まで延長9.5km、狭く急カーブの連続で「魔の久礼坂」と呼ばれたといいます。そして、昭和42年、久礼坂の北方にその道に接するように建設に着手されるのが新国道56号であったのです。
明治末期の地図(今昔マップ)を見てみましょう。北から南へ、添蚯蚓坂、久礼坂道(旧国道)、奥大坂道と並ぶ三つの道が、その存在した役割を果たした時を主張しているように思えます。
国道56号が通じた現在、久礼坂道の現状はどうなっているでしょうか・・ 久礼の街から西へ太陽光パネルが広く並ぶ山中を過ぎ、中坂峠辺りまでは生活道です。(奥大坂遍路道の一筋北側の道)それから西は・・ 危険が伴うので勧められることではないでしょうが、廃道マニアも結構おられるようです。その情報によれば、新国道と繋がる標高200m辺りまでは通行可能。それより先は廃道、通行不能のよう。役割を終えた道の行く末を見る寂しさを感じます。


明治末期の地図、添蚯蚓坂、久礼坂、奥大坂道
                                  (令和5年6月追記)


(道草を食う) 古い道を好んで歩いていますと、往還と呼ばれるような主要道は、近くに川に沿った平らな地形があっても、尾根を通る山道が多いということに気付かされます。最短距離を結ぶということもあるでしょうが、出水などの時の道の保全ということを考えてのことなのでしょうか。実際、尾根に残る、今は利用されなくなった古道の堀割を見ることが何度かありました。

さて、この大坂谷川に沿った道は、花と緑と水が織りなす、なかなか見事な人里の風景を堪能できる道・・と私は思います。ただ、奥大坂辺り、天空に架る異様な四国横断自動車道は目を瞑って通りたいですね。
最後の山道、大坂は急坂ですが距離が短いので、添蚯蚓よりづっと楽です。

 大坂への道、彼岸花

 大坂への道、田圃と彼岸花


大坂への道

 七子峠へ

七子峠を下り、山裾を通る緑溢れる古道。今夏の異常な暑さは、既に彼岸花の姿を殆
ど消してしまっていましたが、床鍋青木丸と呼ばれる場所にあるという一里塚跡、そこにある徳右衛門標石を見られることを期待していました。
五社迄三里の場所。標石は五片に破断していますが、文化十一年十月の年号が入っているらしい。それは、徳右衛門が亡くなる二ケ月ほど前、最後の標石と見做されています。
私は以前この辺りを通ったとき、多くの石造物群を見た記憶があります。でもその頃は徳右衛門標石のことは知らなかった・・ 
この度は、道を行ったり戻ったりしながら探しましたが、見付けることはできませんでした。少し行った民家で尋ねてみました。
「一里塚の松はもう随分前に無くなっとるよ・・ああ、石標ね、それももう今は無いよ・・」
と素っ気ない。
探し方が悪いのか? 本当に無くなったのか? 草の中に埋もれたのか?それとも他の場所に移されたのか・・

影野から37番札所岩本寺への道は、昔の大道(主往還)に沿ったもので、大略の部分は国道56号です。しかし、江戸時代までの37番札所は通称、仁井田五社(明治以降は高岡神社)であったのですから、その道筋も異なります。
真念の「道指南」では、「○かげの村(影野)・・かい坂村(替坂本)○六たんち゛村(六反地)○かミあり村(神有)○かわゐ村(川井:平串村の別名)」(括弧内は現地名)までは大道。
平串より南西に道をとり、今は高岡神社の鳥居を通ります。
(今ある鳥居は昭和3年の設置。以前、影野から西に道をとり四万十川沿いを高岡神社まで行ったことがあります。この道の西川角には現在ある石の鳥居の以前に木造の「五社一ノ鳥居」があったといわれます。こちらの方が古い参道なのかもしれません。)
「道指南」では続けて 「此間に少山越、うしろ川、引舟あり。これハねゝざき村善六遍路のためにつくりおく。」 ねゝざき(根々崎)は今も残る地名。うしろ川は今の仁井田川。善六が仁井田川を渡るため善意の舟を置いたことを意味しています。
「道指南」に記された「少山越」の場所に今は「計り場の由来」の案内板が立っています。
「ここより西の東川角地区は広大な原野であったが、土佐藩奉行野中兼山の命により仁井田川に堰を設けて導水路を整備する計画に着手。工事は難行するが、その打開策として、土工が掘った岩盤の量によって賃金を払う策を打ち工事を完成させた・・」
(要旨こんなとこ。野中兼山、こういう話には必ず登場する名奉行!) 
今もこの東川角地区は見渡す美田。この時期、それは黄金です。

東川角の旧道は現在「計り場の由来」の案内板が立つ辺りから少し北側の丘陵の上を通っていました。その道に宝暦8年(1758)の道標が立っています。
「左 へんろみち 従是四丁計行 子々崎村有渡舩 邊路為信施渡之/右意趣者先祖為菩提 市川仲右衛門守光自分以後渡守壹人之附置者也/渡領壹ケ年分井損田米一石六斗代二拾石買求備置」
「道指南」が書かれてから70年後、善意の渡し船が続けられていたこと、渡船者への手厚い保護があったことを示しています。「名所図会」(寛政12年(1800))にも「…後川 行ふねあり・・・」と記されます。

仁井田川を渡り、根々崎からは時々河畔の竹林に入り、四万十川の表情を確かめながら進むうち、川向こうに微かに仁井田五社が見えてきます。
この神は良い場所に座っておられる。見晴るかす田畑とそれを潤すように流れる深い川。長い間、人の心に豊かなものを与え続けてきた神にように思えてなりません。

ここで仁井田五社について少々書き加えておきましょう。

追記 仁井田五社
伊予の豪族、越智氏の一族(河野氏とも)がこの地に移り地主神と協力して開墾し、祖神を祀った仁井田明神がこの神社の始まりとされます。現在五の宮が置かれる山上の地は元々墓であったとも云われます。
天平年間(8世紀前期)、行基が来て仁井田七福寺を開創、弘仁年間(9世紀前期)、空海が社を五つに分け夫々に祭神と本地仏を置く神仏習合の神社としたとされます。また神宮寺(別当)
を福円満寺に定めます。後に37番札所となります。 
一の宮(東大宮)大日本根子彦太迩尊=不動明王、
二の宮(今大神宮)磯城細姫命=観世音菩薩、
三の宮(中ノ宮)大山祇命・吉備彦狭嶋命=阿弥陀如来、
四の宮(今宮、西今宮)伊予二名洲小千命=薬師如来、
五の宮(森の宮、聖宮)伊予天狭貫尊=地蔵菩薩。 

16世紀、福円満寺が火災により廃寺、窪川の岩本坊が岩本寺として仁井田五社の別当となります。
岩本寺に伝わる伝承として、「空海の七不思議」があります。これは「三度栗」「桜貝」「口なし蛭」「子安桜」「筆草」「尻なし貝」「戸たてずの庄屋」というもので、これらのなかには四国各地にある同様の伝承も含まれています。また各地の伝承と同様に空海に託けられるものも多いと思われます。これらはもともと仁井田五社に伝わるものですが、注目すべきは「桜貝」と「筆草」は、この地より東南へ行くこと10kほどの海辺「小室ノ浜」の伝承であることです。このことは仁井田五社の大社としての影響力の及ぶ地域の大きさを表すとともに、江戸時代の四国遍路の活動の前、平安後期から鎌倉期に存在した海辺の難所を回遊する辺地修行、それに続く観音を主尊とする補陀落信仰が受容された場所を示していると言われます。
四国の外海に面した辺地修行と補陀落信仰の場所としては、大きく見れば室戸と足摺といいうるでしょう。この室戸の範囲は八浜八坂の辺りから室戸岬、(その昔は室津から室戸付近も「足摺」と呼ばれていました。)行当岬、羽根岬、大山岬までが含まれます。また、足摺の範囲には竜串や月山、篠山までも含まれると言われます。これらの地域の間にある修行地としては青龍寺奥の院不動堂裏の絶壁、そして上記、仁井田五社南の小室の浜と三崎山が当たるとされています。江戸時代以降の遍路道とは遠く離れた小室の浜周辺にも、その昔の辺地修行地が存在したということに気付かされるのです。
                                       (平成30年12月追記)


四国遍礼霊場記 仁井田五社

 平串の高岡神社の鳥居

 東川角の水路

黄金の稲田

仁井田川

仁井田川


四万十川の畔


四万十川の畔

四万十川の畔

四万十川の畔

四万十川の畔

「道指南」には、先の引用に続いて 「・・大河洪水の時は手まえの山に札おさめどころあり、水なき時は五社へ詣。」とあります。

ちょっと脱線。
江戸時代前期の澄禅や真念の記録を見ると「札を納む」という表現はあっても、今のように「納経帳に印」という慣わしは無かったのではないかとも思われます。
もちろん、写経を納めるということはそれ以前から為されていたことでしょうが。(それもやはり寺に限られることでしょう。)
四国遍路においては元々「納札」が慣わしであったけれども、江戸時代の中期以降、寺々の整備とも併行して「納経」や「納経帳」が加えられるようになってきた・・ということなのでしょうか。
この疑問に答えるべく、ここに、四国遍路における納経と納経の歴史について、研究者により明らかにされた最近の知見の一端を追記しておきましょう。

(追記) 納札、納経について
上にも引いた澄禅の日記、例えば「新田ノ五社」の項に「札ヲ納、読経念仏シテ、・・」とあるように各札所で札を納めて巡っている様子が伺えます。また、真念の「道指南」では納める札(紙札)の仕様、うち様を細かく記したのち「・・男女ともに光明真言、大師の宝号にて回向し、其札所の歌三遍よむなり。」とあります。いずれも納経については一切触れられていません。
ここで、澄禅は札所によっては「南無阿弥陀仏」の六字名号を唱えていたこと、真念においてはそれが「光明真言」に変わったことは注目されることで、四国遍路の弘法大師一尊化への動きと見られているようです。
その動きはともかく、江戸時代初期までは四国遍路において納経とその行為への何らかの請け取り状を渡すという習わしは無かったと見られています。
一方、日本全国の社寺参詣に伴う経典の奉納は古くから行われ、納経請取状(後のいわゆる納経帳)の古例は南北朝時代にまで遡れるといわれますが、江戸時代の初期までの間のそれは専ら六十六部の廻国(そのなかに四国遍路の札所が含まれることはあっても)
においてであったようです。
四国遍路のみを行う者が納経を行い納経帳を作成するようになるのは宝暦年間前後(18世紀中期)と言われ、それは廻国行者との交流が契機であったと見られています。
奉納された経典についての実態は不明(大部の経典が頻繁に奉納されたとは考え難い)ながら納経帳への記入に依れば、六十六部廻国については「普門品」(法華経の一部観音経)から「大乗妙典」(法華経(大部経典))に移行、初期の四国遍路もこれを踏襲しますが、後には経名が記入されなくなります。また、江戸時代を通じ、遍路の増加に伴って納経帳の版木押しも増加したといわれます。(h29.7)
なるほど・・これで大体わかった・・

さて、仁井田五社(五社大明神)には、8世紀、行基が開いた福円満寺という神宮寺があったが、16世紀廃れた後、岩本寺が別当になったということのようです。(今は中ノ宮の境内に、福円満寺跡の標示が立てられています。今も、高岡神社で朱印を戴くと、そこには「元三十七番札所藤井山五徳智院福圓満寺ノ裔」と印されています。不可思議なことです。) 
江戸時代後期の記録である「四国遍礼名所図会」には、三十七番仁井田五社の項に「納経所ハ 十八丁をへて久保川町ニ有。」と書かれています。

大分寄り道(この日記の上で)をしてきましたが・・四万十川を前に高岡神社対岸の地。二つの標石があります。
政吉の手指し標石、一つは「(手印)三十七ばん五社 三丁」、もう一つは「(手印)大しどう」と刻します。
標石の元の場所は、一つは五社への渡船の渡し場、一つは岩本寺への小峠(宮向越)の分岐に置かれていたということです。「大しどう」とは岩本寺のことを指しているのでしょう。

追記 政吉の手指し道標について(ここに記すのは適当な場所ではないが・・)
ここで、他の日の記事と重複することを覚悟の上で、四国の遍路道で見られる政吉の手指し道標について纏めて記しておくことにします。
川の屋政吉は五島の福江の行者(と思われる)で、江戸時代末期に四国中の遍路道に素朴な開いた手形の自然石標石を残した人として知られます。
手形以外の刻字は少なく、その手形はまるで自らの手を見ながら刻んだように生き生きとした表情を見せ魅せられます。選んだ石質の所為か、保存状態の良いものが多いのも特徴でしょうか。
五島の福江(島)といえば、江戸時代中期、長崎大村藩外海(そとめ)(現長崎市)の多くのキリシタンが開拓のため、信徒であることを隠し移住してきた・・そんな所、そんな時代でした。その地に生をうけ、この独特な手指しを石に刻んで四国中を歩いた川の屋政吉が、何を祈り、何を考えたのか・・大いなる関心をそそられる事です。

四国の遍路道中には多くの政吉の手指し道標が残されている(あるいは存在した)と思われますが、私が確認した(政吉のものではないかと感じた)ものを以下に記しておきます。

・8番9番の間。阿波市土成町土成。「八ばん 九ばん」と刻した両手指しの道標。なお、この先9番法輪寺境内にも「八ばん 十八丁」、両手差しの標石があるといいます。(私は未見)
・9番10番の間。阿波市土成町水田。「南無阿弥陀佛 手指し 九ばんへ八丁 手指し 十ばんへ十七丁 當所弥右衛門 五嶋政吉」と刻す。当所の人と共に捧げた道標と思われます。
・10番、11番の間、阿波市市場町大野島、地蔵堂前。「十一ばん」とのみ刻まれます。

・12番焼山寺への山道、長戸庵の先。  「五嶋政吉」と刻まれます。
・12番、13番の間建治寺近くの道。  手指し以外は無刻。政吉のものとの確信はない。
・21番、22番の間、阿瀬比の手差し「右へんろ道」。

・27番、28番の間、田野町旧地名芝の商店街入口。  珍しく多くの刻字のある標石。「肥前五嶋 福江 川のや 政吉 此手四国中へ何百有 ミなへんろ道」と刻まれます。
・28番大日寺への道、香南市夜須町手結千切。刻字なし(判読不明)。
・28番大日寺の先、野市市母代寺。手指しは政吉のものと見られている。手指しの下「右遍路道 二十八番 大日寺 天明5年(1785)」刻まれており、その年代からみて手指しが後刻と思える。
・32番禅師峰寺境内、夫々手指しに「へんろ」「ぎゃく」と刻します。

・37番五社手前。2基(上記本文中に示す)1基 「三十七番五社三丁」 1基 「大しどう」と刻します。
・38番金剛福寺への道、土佐清水市市野瀬、三原分岐。真念石の隣り。手指し以外は無刻。
・39番延光寺への道、幡多郡三原村成山峠出口。両手指し以外無刻。政吉の手指し中、両手の表情が最も見事に表現されたものと私には思えます。(遍路日記「平成25年秋その6」の写真でご確認ください。)
・40番観自在寺への道、愛南町豊田。徳右衛門石の隣り。「へんろ ひぜん五嶋政吉」と刻みます。
・54番先、今治市阿方引地の手差しのみの自然石。確信は持てないが・・

・56番泰山寺手前、今治市小泉2丁目。道路縁石の傍。小さな石で手指し以外無刻。政吉のものとの確信はない。
・67番大興寺前、観音寺市粟井町、土仏観音。殆ど見えませんが「是より 小松尾行道」そして政吉のものとしては唯一年号、天保2年(1831)が刻まれている。
(以上18基、遍路道地図上にも示しています。)         (R2.8追記 R4.7改)

私が勝手に確認した政吉の手指し道標は以上のとおりですが、見落としている道標も相当数あると想像できます。
ここに記していない道標のうち、特に気になっているものがあります。ここに追記しておきます。
一つは白鳥温泉の近く入野山黒川の高さ105cmほど、三角形の自然石道標。劣化が進行し読み難いところも多いのですが、
・(左手指し)「 白鳥へ百十丁 大くぼじ九十丁 兼八」
この石、政吉の特徴を十分備えているように思えます。
もう一つは焼山寺下杖杉庵前(近くから移動されたと思われる)の標石。くずし字が巧みで私ごときには読むこと不可能なのですが、えいや・・と思い切って。
・自然石 「右ろ(道)? 三丁 古跡  為父母 五嶋 政吉」
古跡が杖杉庵の衛門三郎の墓(大杉)を指すものかどうか・・手差しは前面からはみることはできませんが、何しろあの独特の書体で「五嶋 政吉」と記されていますから。ご存じの方どうぞお教えください。


杖杉庵前の政吉?石


                                                                                                   (R4.9 R5.5追)



政吉の手指し標石(1)


政吉の手指し標石(2)

 高岡神社(東大宮)

高岡神社前の徳右衛門標

昔の遍路のように、高岡神社にお詣りし、岩本寺へ納経に向います。
おっと、中ノ宮の前に徳右衛門標石「是ヨリ足すり迄廿一里」がありました。これは忘れず書き留めておきましょう。

この時季としては矢鱈と蒸し暑い日。窪川の街外れで珍しく「氷」の旗を見付け、カキ氷をいただきました。
どうしたことか、今日の日記にはまだ余談が続きます。四巡目ともなれば書くことも尽きた・・と言ってはそれまでですが、この日記自体が余談のようなものですから・・お赦しください。

追記「岩本寺への古道」
明治以降の37番札所は、それまで別当寺であった岩本寺に移ります。当然ながら遍路道もまた平串を直進し(現在の国道56号(旧道)またはその周辺の道筋)岩本寺へ向かうことになります。
国道が窪川の街に入る最後の小峠を今は呼坂トンネル(昭和5年開通)で抜けますが、以前は呼坂峠と呼ばれる山越えの道でした。この道は江戸時代には高知から幡多地方への大道(往還道)の一部でもありました。呼坂峠の道筋は今はもう消えつつあると思われますが、嘗ては多くの旅人が辿った道でもあり、峠には地蔵堂が残り、幕末期には岩本寺を案内する遍路道
道標もあったと言われます。(窪川の街の入口、北琴平町にある道標は呼坂峠に在ったと伝えられている・・)
呼坂峠の道(想定を含む)を遍路道地図の「窪川付近」に示しておきます。

さて岩本寺です。

本文上記でも少しふれましたように37番札所仁井田五社の大師堂および納経所は岩本寺にありました。
山門を入った裏側に文化13年(1816)の道標が残されています。
「卅七番大師堂」/並 五社納経所」、「(指差し)ぎやく邊路みち/是ゟ五社へ 十八丁/卅六番へ 十三里」、「(指差し)じゆん邊路道/是ゟ卅八番迠 廿壹里/四万十川まで 十壹里」と刻まれます。

添蚯蚓坂の途中にあった海月庵。そこに、あの高田屋嘉兵衛が建てたとされる、願主聖心の標石が岩本寺境内に移されていると聞いています。
高田屋嘉兵衛は、江戸時代中後期の神戸の海商。蝦夷地経営に活躍、ロシア船に捕えられカムチャッカに連行されるなど・・というより、司馬遼太郎の「菜の花の沖」で知られる人でしょうか。
納経所で尋ねてみます。ベテランのご婦人が「あー、時々お参りにくる団体もいる・・あの鐘楼前にある石でしょう・・」。 調べてみても該当する名は見当たりません。(因みに、この墓形式の石は巡礼途中に客死した越後の阿部定珍の供養塔であるらしい。)
ふとその右、手指し、大師像のある徳右衛門形式の標石が目に入ります。聖心の標石ですから(聖心は徳右衛門に影響を受けたとい
われる照蓮のグループの人と言われます。)きっとこれです。
劣化が進み刻字は殆ど読み取れませんが、正面に微かに、高田屋嘉平・・の文字が。文献に依ると、文化11年十月一四日、施主勝浦屋留之助、正面に「當庵施主 攝州兵庫 高田屋嘉兵衛 願主聖心」彫ってあるようです。(奇しくも、今日床鍋で見れなかった徳右衛門石と同年同月・・それより、この文面に拠ると海月庵自体、嘉兵衛が建てたもののよう・・) 
文化11年(1814)といえば、嘉兵衛がカムチャッカを解放され、帰国した翌年に当たり、それ以前、妻おふさが嘉兵衛の無事を祈って四国巡礼をした、との言い伝えもあるとか・・(「菜の花の沖」はこれを採っていましたね。)

施主高田屋嘉平の標石

今日の宿は岩本寺の宿坊。団体が入っていないので食事は出ません。

 七子峠付近の地図
 影野付近の地図 仁井田付近の地図 窪川付近の地図を追加しておきます。
                                                (9月29日)


コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )
« 四国遍路の旅... 四国遍路の旅... »
 
コメント
 
 
 
政吉標石について (標石さがし)
2022-08-13 19:15:41
こんにちは。
趣味で標石や丁石を探して記録しています。
政吉標石は手印が特徴的でシンプルなものが多いですね。そこが面白く感じています。
件の『白鳥え百十丁』の標石は手印の型からして政吉標石に限りなく近いでしょうね。実は、この標石の前後にも政吉の標石と思われるものが2基ありまして、1つは『(右手印)大く本゛じ』、もう1つは『(左手印)大く本゛じ』で両方とも手印が政吉のものと似ています。
9番札所の政吉標石はまだ見たことが無いので機会があれば探しに行こうと思います。
 
 
 
標石さがしさん (枯雑草)
2022-08-27 21:20:51
こんにちは。コメントありがとうございます。
コロナと体調不良で歩けないのが残念です。
政吉の道標は私の好きな石です。手差しの表情が特に素晴らしいのは、成山峠出口のものです。
白鳥温泉近くの石は、やはり政吉のものとしてよいでしょうかね。「百十丁」の少し前、四国のみち標の傍に「右手差し」があるのは知っていましたが、「左手差しのものもあるのは知りませんでした。
政吉石、ここに挙げたもの以外でまだまだ多くあると思います。また、ご指導ください。
 
 
 
Unknown (標石さがし)
2022-09-01 13:45:11
こんにちは。成山の政吉標石、手印が2つあって良いですね。「ヘンロ道を辿る」という文献を見ながら探し当てましたよ。現地で見つけたときは大喜びしたのを覚えてます。

「政吉標石」で検索すると一覧のinstagramに標石の写真がけっこう見つかるので御覧になってみてください。instagramのアカウントがあれば見ることができます。少しでも楽しみになっていただけたら幸いです。
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。