四国遍路の旅記録(平成17年)第2回 その6

9月30日     宿毛、延光寺へ

天候:晴れ後曇り一時雨
6:15 宿を出る。
国道321を10kほど歩くと、宿毛の町が見えてくる。
道の駅「すくも」に寄る。道の駅といっても、東京近郊のものとは様子が異なる。立派な建物などはない。広い敷地に数件のしもた屋風の売店がある、といった按配である。この方が周りの情景にはマッチしている。
アイスクリン博士としては、ここでも食わんわけにゃいくまい。3段重ねの「だんご3兄弟アイス」が120円たあ、安い。

松田川大橋を渡り、宿毛に入る。
10:00 今夜泊まる市内の旅館に到着。リュックを置かせてもらい、延光寺に向けて出発。
11:50 39番延光寺着。
境内には、大師の加持により湧き出したという目洗い井戸や赤亀が龍宮より背負ってきたという、銅鐘を由来を伝える亀の像がある。目洗い井戸の水を目に付けようか、と思ったが、おばあさんが後ろに控えていたので、「どうぞ、どうぞ」と譲り、そのまま退場。

 延光寺山門

延光寺

延光寺目洗井戸

雨が降ってきた。門前に大きな民宿が2軒。(3軒あったが1軒は廃業)
38番から打ち戻り、三原村を通ってきた遍路は多くこの門前で宿をとる。

 延光寺参道の地蔵
(実はこの地蔵尊の傍に三片に破断した茂兵衛道標(明治27年)が放置されていたのですが、
その時は気付いていない。)

戻り道のラーメン屋で昼食をとり、宿毛の街を歩く。
明治維新以来の著名人の居宅跡が多く残っている。あの吉田茂の実家がここだったてこと、初めて知りましたよ。
14:40 宿に帰る。
宿:岡本旅館。 宿泊は私ひとり。
夕食はカウンターでおかみさんと話しをしながら戴く。こういうのはエーもんだ。食堂でひとり食事は侘しい。品のいいおかみさん。「中国から引き揚げてきたのは小学校に入った年で・・・」に始まる昔話や政治のはなし、孫のはなし、取り留めない話が続く。

本日の歩行:42610歩     地図上の概算距離:25k

本日お参りした札所

第三十九番 赤亀山   寺山院      延光寺
本尊:薬師如来
宗派:真言宗智山派
開山:行基
延喜十一年に、境内の池に棲む亀が、龍宮から銅鐘を背負って帰ってきたという。山号の由来でもある。この銅鐘は、重要文化財。
日照りで困窮していた人のために、空海が加持して湧かせたと伝える「目洗い井戸」が本堂の横にある。



10月1日     観自在寺で会った遍路

天候:晴れ
7:00 宿を発つ。
今日は、松尾峠を越える遍路道を行く。おかみさんに書いていただいた地図を頼りに、遍路道の入り口に向う。目印は貝塚。

松尾峠遍路道の始まり

 遍路道途中の池

山道を行ったり、田畑の間を行ったり、登り下りして、松尾坂口番所跡に着く。
説明板がある。松尾峠を越える道は、昔、土佐と伊予を結ぶ重要な街道であったため、ここに番所が置かれていたとある。
本格的な登りに入ってすぐ「この右200m地蔵堂」の看板。子安地蔵堂(通夜堂)がある。結構広い。中はきれいに清掃されている。遍路の泊まりも多いであろう。
ノートが置かれている。インターネットのへんろサイトで知っているKさん(女性)の書き込みを発見。3日前に寄り休憩しておられる。Kさんは前回の遍路でも1日違いで同じ道を歩いた人。何とはなくうれしくなる。

子安地蔵地蔵堂

9:25 標高300mの松尾峠に着く。
「大師堂跡」と「大師堂一夜庵」の二つの立札。目の前に、2、3人は寝れそうな結構広いお堂がある。「はて、さて?」。後で地元の人に聞くと、最近、信心深い人がお金を募って、お堂を再建されたとのこと。
ここは、江戸時代には1日200から300人の旅人が通り、茶屋もあったと案内板にある。そういえば、山道ではあるがけっこう広く歩きやすかった。
ここは土佐と伊予の国境い、それを示す石柱が残っている。

松尾峠から宿毛を望む

国境の表示(是より西伊予の国宇和島藩支配地)

松尾峠を下る

峠を下り、伊予の国の南端の町、一本松に入る。
急に遍路のあいさつに答えてくれる人が増えたように感ずる。気のせいか。そうでもない。現に、辺りをキョロキョロしていると、「ハイハイハイ、おへんろさん、なにか?」と寄ってこられる。

むかしは、草深く遠い土佐への道は厳しく、鬼の国として敬遠され、特に女性の遍路は阿波、讃岐、伊予の三国まわりを常としたという。土佐藩が入国者を厳しく取り締まったということもあるかもしれない。土佐の国と遍路の関係は、他の国に較べ薄かったようである。

一本松を過ぎると、札掛というところがある。むかしの遍路は月山神社に参らない場合、延光寺から篠山(ささやま)詣りをするしきたり、それを果たせなかった遍路はこの地に札を掛け、篠山を遥拝して去ったという。
このあたり、遍路地図にはない旧遍路道が多くある。その標示もある。私は迷いそうな予感がしたので、通らない。
僧都川に沿った道を行く。きれいな川で白鷺を多く見る。

一本松町の地蔵

僧都川、サギの群れ

14:05 40番観自在寺に着く。
般若心経を声を上げて読む。「・・・遠離一切顛倒夢想・・(・・オンリイッサイテンドームーソー:よこしまな拘りから解脱して・・)」どうしたことか声が震え、涙が流れてくる。不思議な体験。
納経所で会った白い顎鬚の遍路のこと、コラムに記す。

観自在寺

観自在寺の石仏

15:50 御荘の宿に入る。
宿:民宿磯屋
同宿は、愛知のYさん、宝塚のOさん。かわいい感じのやさしいおかみさんを交え、同年配4人の盛り上がった楽しい夕食となった。
Oさんは、建築士さん。
Yさんは、24番から前半は野宿でまわってきた。お寺で「ようこげちょるなー、日本人には見えん」と言われたという、自称クロコゲ入道の外見には意外な繊細な心の持ち主とお見受け。今日で打ち止め。明日はおかみさんの車で宇和島まで送ってもらい、帰るという。
後日、Yさんから、立派な「遍路記」を送られた。写真、カット、構成とも素人離れした出来栄え。海外のデザイン賞の受賞経験もある、どうもその筋の本職らしい。

追記:
Yさんは、その後自転車で四国遍路を続けておられる。時々、センス溢れるはがきを
いただく。懐かしい・・。必ずこの宿にお泊りのよう。魅力的な女将さんとともに、私に
とっても忘れされない宿となった。

本日の歩行:37697歩     地図上の概算距離:22k

本日お参りした札所

第四十番 平城山   薬師院      観自在寺
本尊:薬師如来
宗派:真言宗大覚寺派
開山:空海
平城天皇の勅願により空海が開基した。本尊脇に観音を安置したので、観自在寺と呼ぶ。

コラム「出会い」  1000日(修)行の遍路

観自在寺の納経所で納経をお願いしていると、隣りに白く長い顎鬚、70ぐらいの遍路さんが座っている。
「あー、足摺の道でお会いしましたよねー」。「足も悪いし、車に乗せてもらったりしながらここまで来たんです。こちらの観音堂で休ませてもらおう思うて。朝からなにも食うとらんのです。」
納経所の女性が「お供えものですが、そちらさんもどうぞ」と梨を出される。一切れいただく。「わたしは、歯がないけー 梨は食えん、おにぎりをもらえんかのー」
本堂前のベンチに移り、しばらくお話をする。
霞ケ関の某官庁で重要な地位を勤め、65歳まで働いた。その後、遍路していると言う。
「もう3年も家に帰っとらんのです。1000日修行を発心しましてな。一銭も金持たずに、皆さんの施し受けて遍路しとります。こんなこともありました。田舎を歩いておると、へんろさーんちゅうておばあさんが手招きする。臨月を迎えた孫娘のためにお経あげてくださらんかと。その頃は緑札でして、差し上げると、みどり子が生まれるちゅうて喜んでもらいました。今は観音経の勉強しとります。」
赤い納札をいただく。どうしたものか、ちょっと躊躇はあったが、「おにぎりでも」と、お金でお接待させていただく。

後に泊まった宿や寺で、この人に会ったという遍路に何人かお会いした。多くの人からは、「あれはちょっと・・」「お接待を強要しとるんじゃ・・」といった否定的な意見。ひょっとしたら、この人、時々噂に聞く「タカリ遍路」であるかもしれない。それはそれでも良いではないか。
それより、修行とはどういうことなのだろうか。何を得ようとしているのであろうか。私には俄かには判断できない。
足を引き摺りながら観音堂に行くこの人の背を何とも言えぬ思いで見送っていた。 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

四国遍路の旅記録(平成17年)第2回 その5

9月28日     足摺の先の道の駅で

天候:曇り、雨、晴れ
6:10宿を発つ。
ここから土佐清水の町の間は、山が海岸に迫り、その間の狭い場所にひしめくように、松尾、大浜、中浜の集落が点在する。それらを縫うように道がある。松尾の家並みをすぎると、遍路道は山道となる。

松尾の街

中浜万次郎記念碑

 大浜の海

中浜はジョン万次郎こと中浜万次郎の生誕地である。小さな街の中央と思しきところ、記念碑がある。
土佐清水は、スーパーなどの大きなビルが並ぶ近代的な町である。ずっと海岸の道や山道を辿ってきた者には、違和感を抱かせる。足を速め抜ける。

 
養老付近漣痕の化石

養老付近の海岸は不思議な形をした岩が見られる。漣痕の化石だという。
向かいからバイクが走ってきて、私の前で止まる。サングラスのちょっと怖い感じのおじさんなので、はてと思うが、「ちょっと、へんろさん」と声がかかり、蓬餅と蓬パンのお接待。
納札を渡し、お礼をいう。バイクの荷台には、まだいくつかの袋。この人、日に何人通るかわからない遍路をもとめてバイクを走らせているのかもしれない。

この旅を通じてたくさんの心のお接待をいただいた。物やお金、労いの言葉、道案内など。物やお金を戴いたときは、納札を渡し、ご宝号「南無大師遍照金剛」を3回唱えるのが慣わし。しかし、このご宝号3回は、気恥ずかしく、なかなかでてこない。合掌をお返しするのがせいいっぱい。

今回の旅では始めての雨に会う。納屋の軒先を借りて、リュックの奥のポンチョを取り出し着る。
雨については、有名な「キルヤム ヌグフルの法則」というのがある。従って、少しの雨でも躊躇わず雨具をキル。そうすればきっと雨はヤムのだ。
本当に、道の駅「めじかの里土佐清水」に着いて休憩する頃には雨は止んでいた。
道の駅で会った人。遍路にとってはちょっと気になる人。これについてはコラムに記す。

竜串に着く。ここにはたくさんの民宿やホテルがある。
15:00 ホテルオレンジ着。
遍路の泊まりは私ひとり。あとひとりはトラックの運転手さん。

本日の歩行:43384歩     地図上の概算距離:24k

コラム「出会い」    道の駅で出会ったおじさん

道の駅「めじかの里土佐清水」で休憩していると、鬚面の50前後の人が自転車でやってくる。近くのお店の女性達が目配せして、一斉に遠ざかる。(この人の普段の行状、まわりの人にどう思われているか、想像つきますよねー)
「おっ ひさしぶり なごやの人だっけ」、「人違いじゃ、わっしは始めてじゃー」。
いろいろ話かけてくる。「わしはもう4回もまわっとるんじゃー。ところであんた、くまさんしっとるかー」。「会ったことないけど、話にゃ聞いたことありますよ。以前、焼山寺の長戸庵におられた人でしょ」。「ようしっとるやないか。わしとくまさんは兄弟分みたいなもんや、いまは愛媛のどっかにおるちゅうことや。おうたらよろしゅゆーとって、はよーいえにかえれって。」
杖のはなし、十四ケ橋で杖をついて坊さんにどやされたはなし・・・話は尽きない。
「えーもんみせちゃる、さわってもええでー」といって袋から金属製の観音さんを出す。
「わしゃー、いつも観音さんといっしょやー」。私に向かって手を合わせて去ってゆく。
道の駅を出て、しばらく歩いていると後ろから「おー」と声。このおっさんが自転車を降り、酒店に入るのが見えた。
(このおっさんの話に出てきた「くまさん」という人。神戸に実家がありながら、全国を放浪、一時「へんろころがし」の途中の庵に住み着き、遍路の世話をしたり、お接待に預かったり、型破りの生活をしていた。数年前の遍路記にはよく登場する。熊のような風貌らしい。)



9月29日     月と珊瑚、不思議の国へ

天候:晴れ
5:55 宿を発つ。
今日は、待望の月山神社への道だ。この道、山が幾重もの襞のようになって海岸に迫るため、多くのトンネルがある。片粕トンネル、貝の川トンネル、脇ノ川トンネル・・。トンネルが出来るまでの旧道はぐるっと海岸に沿ってまわっている。
その一つに入ってみる。崩れている。通る人車もなく、復旧されないままのようだ。

トンネルが多い(叶崎トンネル)

トンネルを迂回する旧道のひとつ

 貝ノ川付近の海岸

 大津付近の海岸 

 
叶崎

この道の最南端が叶崎、灯台がある。輝く太平洋が拡がっている。心が開かれてゆくような風景である。
月灘というところに、少女が「さんご」を抱えた像、土佐さんご発祥の地記念碑と説明板がある。
江戸時代、土佐藩はその採取と所在を口にすることを厳しく取り締まったという。今に残るというわらべ歌に唄われる。「お月さんももいろ だれんいうた あまんいうた あまのくちひきさけ(だれん=誰が、いうた=言った、あまん=あま)」。地名といい歌といいこれから行く神社といい月との係りが深い。どういう謂れがあるのだろう。
才角の大浦集落から月山神社に向う遍路道に入る。18丁(2k)、古い丁石の一部は今も残されている。道はよく整備されているが、下りの一部に荒れたところがある。また、蜘蛛の巣を払いながら歩く。

月山神社への遍路道の始まり

丁石

不思議の国に分け入る

11:15 月山神社に着く。
予想したよりづっと小さな神社。30坪ぐらいの境内でもあろうか。
古びた社殿の奥、荒れた石段の上にご神体の月石がある。(他に、月の形をした石が、石段の下方と道路際にあるが、これは後に置かれたものらしい。)
納経?をお願いしようと思ったが、社務所には誰もいない。神社の隣に神主であろう「月守さん」(本当は守月さん)という大きな家がある。声をかけたが応答はない。

月山神社

ご神体、月の石(左方奥)

神社の先、遍路地図には載っていない赤泊の浜への遍路道を行く。
樹間から真っ青な海が見える。
荒れた道ではないが、狭く右側崖というところがある。注意して歩く。

遍路道から見える海

赤泊の浜

山道が浜に至ったところ、「浜辺を右に400m」の表示。2、30cmの石ばかりの歩き難い浜を端まで行く。水際では、波に動かされる石がごろごろと音をたてている。
探せど道らしきものはない。焦る。あとで気付けば、右側に見えていた石垣の上が道だったのだ。早く気付けばよかったのだが、地理音痴の悲しさ。
月山神社前の遍路道に入ってから、赤泊の先、媛ノ井の集落に入るまでの2時間、全く人影を見なかった。道はあるのに・・。不思議な国に迷い込んだような気分。
媛ノ井の途中、神社の前で数人のおばさん連が草刈り作業休憩中。その横に座って暫く休憩。ものすごくローカルな話が聞こえる。コッソリ去る。

媛ノ井から国道321号を5kほど歩き、大月の街に入る。予定していた民宿は、朝から何度電話しても留守。別の宿を予約。

大月9号へんろ小屋

16:00 宿に着く。
宿:民宿なかた。
宿泊の遍路は私ひとり。他に旅行客2人のよう。

本日の歩行:46794歩     地図上の概算距離:29k

本日お参りした札所:(札所ではないが特に)

番外 月山神社

寂本の「四国遍礼霊場記」によれば、ご神体の月石は昔媛の井にあったものを移したとある。また、媛の井以外の人は、精進しないで参いるとバチがあたるとある。江戸時代には、寺があった。
境内は寂本の絵図によると、現在より広かったようで、現在道路となっているあたりに寺があったのかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

四国遍路の旅記録(平成17年)第2回 その4

9月26日     四万十川の畔で

天候:晴れ

早朝、大方を行く、涼しい

5:40 宿を発つ。まだ薄暗いが、涼しく気持ちよい。
ここは、広い公園になっている。蠣瀬橋前の休憩所で昨晩買い込んだパンで朝食。
四万十川を渡る下田の渡しには是非乗りたいと思っていた。昨日電話すると、台風の影響で4、5日は欠航とのこと。仕方がない。ルート変更して、田野浦から広域農道を辿る道を歩く。
緑の山と田畑の気持ちの良い道である。

 田野浦付近、海が見える

四万十川の手前、竹島でお会いしたおばあさん。ちょっと印象に残る出会いであったので、これはコラム欄に譲る。

四万十河畔の休憩所で一人の遍路が、肉刺の手当てをしている。何と9月21日、土佐の宿以来のHOさんだ。この人は、健脚で1日40kは歩く。「ちょっと、ペースを落としますよ」と言っている。

四万十大橋

 四万十川

四万十川。「シマント」、この何ともいえぬ語感の響きは、その上流から中流の美しさにより植えつけられたものだろうが、この下流でも水は微妙な青で何とも静かな佇まい。

2k近くある新伊豆田トンネルを過ぎると、市野瀬である。

新伊豆田トンネル

真念庵に寄る。ここは、国道から少し入るため、寄られない遍路さんが多いようだが、古の足摺遍路道を偲ぶことができる雰囲気のあるところ。
ここから足摺の38番金剛福寺まで1丁間隔で350の丁石(道標石)が設けられた。むかしの遍路はこれを頼りに補陀落東門(金剛福寺)までの道を歩いたと言われる。
350丁は約38k、現在の遍路地図での27kの1.4倍に当たる。いかに厳しい遍路道であったかが想像できる。(真念は、遍路ガイド本「四国遍礼道指南」の出版やへんろ石(道標)の設置に努めた江戸時代の僧)

(追記):上で足摺までを350丁38kと書いたが、後に土佐では1里を50丁とした慣行があると聞いた。そうすると350丁は7里となり現在と大差ないということになる。

真念庵への石段


真念庵の石仏(四国八十八箇所本尊石仏)


丁石(足摺まで345丁)

水が透き通るように綺麗な下ノ加江川に沿って、下の加江の街に至る。

下ノ加江川

喫茶店でサンドイッチをたのみ、昼食。涼しくなって、やっと昼食をする気になってきたようだ。
足摺に続く海岸が見える。海の色、波、岩、この見事さ、何に喩えようもない。
 

15:30 民宿久百々に着く。
同宿は、高野山大学出の若いお坊さん、若い女性(35番への道ですれ違った人)、若い男、それに母子連れ。お坊さんは、ずっと若い女性をエスコートしてまわっている。
お坊さんに、ちょっと宗教の話を持ちかけてみる。のらりくらりと要領よくかわす。いい気分はしない。このお坊さん、後に会った若い遍路からも、あまり芳しくない評価を聞く。若い女性とづっと一緒、これがどうも反感のネッコ。お坊さん、心せよ!
民宿のおかみさん、遍路仲間では結構評判の、明るい人。でも今日はちょっと元気なさそう。

本日の歩行:44324歩     地図上の概算距離:27k

コラム「出会い」  曼珠沙華咲く道の傍で

大方から四万十大橋を目指して歩く広域農道。緑の山と田畑の気持ちのよい道。
大橋の近く竹島に入ったところ、石垣に沿って曼珠沙華が咲く道があった。
そこに座って休んでいると、後の家から品の良いおばあさん。
「あらー おへんろさん」。家に入って、少し痛みのはいったなしを二つ手にまた出てくる。
「すこしいたんどるけどあじはだいじょうぶ。あがってくださーい」。
お礼を言っていろいろ話をする。
「この花、みごとですねー」「ああこれはマンジュシャゲいいましてなー、いまどこにでもありますがなー」
「むかしはようとれたもんですが、このごらー 草がらしのためにーえびもかにもとれんようになりましてなー」遠い目をしてあたりを見回して、
「わしもみんなでおへんろしましたー。」そして、なんどもなんども「おへんろさん、おひとりで  たまりませんなー」という。
この「たまりませんなー」ということば、この辺の言い方かもしれないが、何となく意はわかる。自分の境遇を言っているのかもしれない。でも、歩きだして、この言葉を反芻すると妙にしみじみとした気分になったりした。


9月27日     足摺岬へ

天候:晴れ
6:15 宿を発つ。


大岐浜を歩く



大岐浜

ほどなく大岐に至る。ここには、1k以上砂浜を歩く「はまみち」という遍路道がある。最後のところは、「川有脱靴」の表示の通り、川があり靴を脱いで渡る。(私は足が濡れるのいやだったので川を見て、国道に戻っちゃいましたけど。)
足を痛めるので通らない方がいいと注意された遍路さんもいるようだが、やはり通ってみたいところ。実際歩いてみると、それほど歩き難くはなく、雰囲気満点である。波の音が心地よく聞こえる。

大岐浜への「はまみち」道標

その先、以布利遍路道に入る。かなり荒れている。海岸に降りて行き、道がないと思わせるところがある。ここも海岸の浪打際を渡る。これが遍路の中では知られている「渚のへんろ道」である。

以布利付近の海

窪津付近の石ぼとけ


窪津手前の道を歩いていると、後から走ってきた車が止まって、写真を撮らせてくれという。気乗りはしないが、お断りする理由もない。「そこからこちらに歩いて。ちょっと顔を上げて・・」の注文。まるでモデルだ。ワシの遍路姿がいかにキマッテいるかの証拠デアル。(これは冗談。実は、「疲れ果てて歩く老へんろ、あわれ」がテーマであろう。)
窪津漁港は、水揚げした魚の箱詰めの最中、活気に満ちている。
作業中のおばさんに「この魚なに?」と聞く。「○×△◎」。聞いたこともない魚の名。直ちに忘れる。

津呂の遍路小屋

足摺まであと5k、津呂には、寝具、流し、洗濯機、コンロなどが整ったへんろ小屋がある。近所の人が管理しており、200円で宿泊できる。壁一面に遍路の納札が貼ってある。
おそらく38番にお参りして戻ってくる遍路のものであろう、寝床の上にリュックが二つ置かれている。
足摺に至る道の周囲には、遍路地図に出ている以外にも多くの遍路道がある。ここは38番からの打ち戻りの道であり、すれ違う遍路さんに結構お会いする。その一人から「海岸に下りる遍路道の方が、山側に上る道より荒れていてきついですよ」と聞いた。
私は、殆どパス。
13:50 38番金剛福寺着。

 金剛福寺

次々とやってくるバスや車の遍路さんで境内は盛況。
宿に入るには早すぎる。足摺岬、灯台、白山洞門、田宮虎彦記念碑などを見学する。
灯台の前で、高知から車で観光に来ている夫婦とお話をする。「わたしらも足がよけりゃへんろしたいですよ」とおっしゃる。

 足摺岬、灯台

宿の玄関は開いているが、声をかけても応答なし。そう言えば予約の時、「近所でお葬式があり、3時までには戻る」と言っていた。
向かいのジョン万ハウスで、アイスコーヒーを注文。他に客はいない。売店の女性は「まだ、戻らないよ。ここで休んでいって」と引き止める。

15:20 民宿足摺八扇に入る。
民宿の案内に「元漁師のおんちゃんと畑好きのおばちゃんがやりよります」とある。おんちゃんには会えなかったが、気さくなおばちゃん。
夕食は魚づくしの大変なご馳走。これじゃ、またビール飲まにゃいかんじゃないか。遍路の泊まりは私ひとり。

本日の歩行:36527歩     地図上の概算距離:20k

本日お参りした札所

第三十八番蹉蛇山   補陀落院    金剛福寺
本尊:三面千手観音菩薩
宗派:真言宗豊山派
開山:空海
四国最南端の足摺岬。嵯峨天皇から、補陀落東門の勅額を与えられ空海により建立。空海が唐で投げた五鈷金剛杵が落ちた場所なので、金剛福寺と呼ぶという。


追記:
この日より1年以上を経た、平成18年の10月、一枚の大きな写真が届いた。今治のTさんという方から。「自分としては満足できる写真とならなかった、遅くなり迷ったが、本人にとっては記念になると思い、送る。」と記された手紙が添えられてあった。
写真には、疲れた表情の髭面があった。背後には、窪津付近の海岸、岩と白い波があった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

四国遍路の旅記録(平成17年)第2回 その3

9月24日     そえみみず遍路道

天候:晴れ
6:50 宿を発つ。
今日は、是非通りたいと思っていた、そえみみず遍路道を歩く。Tさん、Yさんは大坂遍路道を行くという。
そえみみず遍路道は、永らく高速道工事のため、通行止めとなっていた。通行再開となったばかりだ。
国道56号から分岐するところがわかり難い。別の道を1k以上も進んで、軽トラで追いかけてきた人から注意いただく。「この道、へんろさん歩かない道だから気になって・・」。
コンビニとコインランドリーのところ右折が正解。

そえみみず遍路道の始まり(右の坂を登る)


そえみみず遍路道



そえみみず遍路道より国道56号を望む


七子峠より(久礼の双名島あたりか)

 七子峠近く、マンジュシャゲのお迎え

遍路道に入る。入ったすぐに、草刈り奉仕団に参加された人の名前を書いたボードがいくつも並んでいる。へんろ道保存協力会の宮崎さんの名前も見える。ありがたいことだ。
道は、よく整備されていて歩き難いところはない。ただ、だらだらとした登りが3kも続く。予想したより、眺望はなく、林間が多い。
11:10 七子峠の茶屋に到着。Tさん達は、少し前に着いたようだ。1、2k先を歩いていると電話連絡。
森影の気持ちのよい遍路道から国道56号に入ったところの休憩所で、Tさんが休んでいる。自転車遍路の人もいる。Tさんは、すぐ先の椿食堂で昼飯を食い、鉄道で窪川まで行くと言っている。
私は先行し、影野駅から鉄道の時刻をTさんに連絡、もう少し先まで歩く。
一度タブーを犯すと、二度目は罪の意識も相当薄れる。仁井田駅からTさんの乗っている電車に乗り、窪川まで行く。(この間約5k)
14:50 駅前の宿に着く。リュックを置き、37番に向かう。
15:15 37番岩本寺着。

岩本寺

岩本寺本堂天井の絵

ここのお寺の本堂の天井の絵は有名。子供の絵から人気のマリリンモンローまである。
何だかお寺には不釣り合いにも思える現代絵なのである。
眺めていると楽しい。これもまた良しか。
Yさんが来る。我々を見て「早すぎる」と不審な顔をしている。「実は・・・」と言いかけたが、Tさんが目配せするのでやめといた。Yさんは「ここでは、ご真言、五つ唱えにゃならんのですよ・・」と言っている。
私は、ずっとご真言は略させてもらい、般若心経とご宝号三辺でお許しいただいている。
Yさんはここで打ち止め、夕方の電車で帰京するという。
ここから北西3.5kにある元の37番札所、高岡神社(仁井田五社)にもお参りしたかったが、やめにした。
Tさんは、明日からは、バスと鉄道をフルに使ってまわるという。お別れに梨を二つ買い、一つをご接待とした。
二日後電話があった。「いまどこですかー」「まだ足摺の前ですよ」「ぼくは42番先の歯長峠ですよー」「早いなー、がんばって・・」

16:30 宿に戻る。宿:民宿村の家。
同宿は、遍路ひとり居られたようだが、夕食時間も異なり顔を会わせない。

本日の歩行:31990歩     地図上の概算距離:25k(電車区間5kを含む)

本日お参りした札所

第三十七番 藤井山   五智院      岩本寺
本尊:不動明王(一の宮)、観音菩薩(二の宮)、阿弥陀如来 (中の宮)、 薬師如来(四の宮)、地蔵菩薩(森の宮)
宗派:真言宗智山派
開山:行基
昔は、北東3kにある高岡神社(仁井田五社)が、37番札所であった。 江戸時代、寂本の「四国遍礼霊場記」には、37番仁井田五社とある。 岩本寺での読経ではご本尊真言を五つ唱える。


9月25日     白浜海岸でアイスクリン

天候:晴れ。この日から気温が下がる。時折涼しい風も吹き歩き易くなる。

朝の陽光

6:10 宿を発つ。今日からはひとり歩きである。
国道56号に沿って歩き、四国電力資材置場の横から遍路道に入る。窪川町環境美化センター(ごみ焼却場)のフェンスを開けて入る。「お遍路さんへ、右のトビラを開けてお通りください」の看板。

窪川町環境美化センターの遍路道

その先、片坂遍路道、市野瀬遍路橋に至る。遍路橋というから、吊橋でもあるのかしらんと思ったけれど、実は谷をぐるっとまわる道をショートカットして、谷に降り登る道をいうらしい。(確かに、谷の一番底、川を渡る小さな鉄橋がある。)とり残されたような、荒れた道であった。
ひたすら国道56号を辿る。国道沿いには、レストラン、食堂、喫茶店など結構ある。しかし、その多くは、休業、閉店。借主募集の張り紙も多く見る。これは、今回の旅を通じて目に付いたことである。都市部を除いて、店を維持することは大変なんだろうなと思ったりした。
伊与喜の先から短区間ではあるが、田舎の道に入る。その途中に熊井トンネルがある。
このトンネル、明治38年、建設されたもので、「長さ90m。トンネルというものは入り口は大きいが出口は小さいものじゃのうと言った人があるという。昭和14年まで県道として利用された」などと案内板にある。当時はメイン道路であったのであろう。今は通る人も稀で、忘れられたように寂しい。

与喜の熊井トンネル

再び国道を歩く。鹿島が浦、白浜など美しい海岸に沿った道となる。
やっと見つけた喫茶店で、アイスクリンとカキ氷を食う。このところづっと昼食はアイスクリンか氷。まともな食事は体が受け付けない。「なに かけるの」とマスター。「おまかせ」と言うと、黒密がタップリ。この辺では、カキ氷には黒蜜が常識なのだそうだ。
海岸に面した休憩所で、10代と思われる若い遍路と話をする。野宿主体でまわっている。寝不足なのであろう。次に見かけた時は、ベンチの上で寝ていた。この若い遍路とは、じつに12日後、10月7日、45番への道ですれ違い、ことばを交わすことになる。

鹿島が浦


土佐白浜付近の海岸


国道歩きに相当ウンザリしてきたが、ガマン、ガマン。じつは、こういうときは何も考えていないのだ。頭はカラッポ。
「鯨の見える町」大方に入る。
17:15 宿に着く。

宿:ネストウエストガーデン。遍路の泊まりは私ひとり。

本日の歩行:49841歩     地図上の概算距離:34k

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

四国遍路の旅記録(平成17年)第2回 その2

9月22日     横浪の民宿で・・


天候:晴れ
6:50 宿にリュックを置かせてもらい、おかみからもらった手書きの地図を頼りに、35番を目指す。Tさんと同行。
途中、若い女性の遍路さんと言葉をかけて行き違う。この人とは後日、顔を合わせることになる。
35番に上る坂道が始まるところ、「平城天皇第三皇子真如法親王御遺蹟地」の石柱がある。平城天皇の皇子であった親王は、空海に弟子入りし、入唐しさらに天竺に行く途上客死したという。古の壮大な宗教的情熱に思いを派す地でもある。

 
清滝寺より土佐の街を望む

 清滝寺

7:50 35番清滝寺着。
清滝寺は150mほどの高地にあり、ここから土佐の街を一望することができる。
宿に戻り、リュックを背負って、9:40 36番目指して出発する。

塚地峠のへんろ道


塚地峠より

県道39号を進むと、塚地峠の遍路道の分岐点に来る。私は峠道を行く。Tさんは県道を進みトンネルを通るという。
峠まで1k、下り2kの道である。それほど厳しい道ではないが、蜘蛛の巣だらけ。ちょっと気が咎めるが杖ではらいながら進むしかない。 

青龍寺参道の地蔵

今日も暑い。30度を超えている。白衣からズボンまで汗でびっしょりになりながら、下ったところで氷の旗を見付け飛び込む。赤いシロップのかかったいちご氷、何年ぶりだろう。
人心地ついて店を出ようとすると、スポーツドリンクのご接待。「うちのばあさんがへんろさんには親切にせいといつもいっとりましたから」。感謝、合掌。

宇佐大橋を渡って、36番参道に着く。参道にはミニ88ヶ所の石仏が点々とある。これは36番を越えて奥の院の方まで続いているようだ。

 青龍寺山門の遍路さん

 青龍寺本堂、大師堂

13:40 36番青龍寺着。
ここは長い石段のある大きなお寺である。バスの団体遍路さんでいっぱい。石段前の納経所で先に納経し、登った本堂、大師堂でお参り。(実はルール違反)Tさんと待ち合わせる。

今日の宿は、横浪スカイラインの途中にある民宿。スカイラインへは、この本堂の横から山道を越えて行くのだ。
奥の院の標識を頼りに進み、途中、右へ分岐。道が崩れて小さな谷を渡るところ2箇所、ちょっと心配になるが1kでスカイラインに出られる。
ここからは、上がったり下がったりの舗装道を6kほど歩くことになる。歩く人はいない。時々車がすごいスピードで通り過ぎる。店はおろか自販機もない。
しかし、遥か下に見る外海のさま、内海(浦ノ内湾)のさま、これは素晴らしい。退屈な歩きを慰めて余りある。


 横浪スカイラインより外海の眺め

 浦ノ内湾の眺め

途中「右、明徳義塾」の看板。あの有名な学校、こんな人里離れた場所にあるのだ。出身の横綱朝青龍、青龍寺の名前をいただいたことにも納得。
宿まであと2kとおぼしきところ、アイスクリンの旗を発見。地獄に仏である。
おばあさんが一人、野良猫数匹。アイスクリンを貪り、ジュースをガブ飲み。おばあさんは、今夜、泊まる民宿のある漁港から車で送ってもらい、ここに店を開いているという。
1日何人の客があるのだろう。

17:40 みっちゃん民宿着。漁港の小さな町にある。同宿Tさん。

本日の歩行:42021歩     地図上の概算距離:25k

本日お参りした札所
第三十五番 医王山   鏡池院      清瀧寺
本尊:厄除薬師如来
宗派:真言宗豊山派
開山:行基
空海が七日間の修法満願時に金剛杖で地面を突くと水が湧き出て池となった。 これが現在の寺号となったと伝える。

第三十六番 独鈷山   伊舎那院    青龍寺
本尊:浪切不動明王
宗派:真言宗豊山派
開山:空海
空海が唐から帰るときに投げた独鈷杵が落ちた場所という。 空海が在唐中、恵果に学んだ長安の青龍寺と地形が似ていたため これを寺号にしたという。

コラム「出会い」  みっちゃん民宿のおかみ

みっちゃん民宿のおかみ、奥野三津子さんについては、辰濃和男「四国遍路」(岩波新書)に詳しく紹介されている。私は、この本を読み、みっちゃんに会ってみたいという気持ちから、このやや不便な場所に宿をとろうと決めていた。
三津子さんのご主人は、三人の小さな子供を残して、漁に出たまま帰らなかった。それから民宿を始めた三津子さんの奮闘が始まった。
この辺のことを、夕食後、少し目に涙を滲ませて話された。私は辰濃さんのように人の過去を聞きとる立場にはない。でも、苦労の末に掴まれた今の安堵感のようなものに、何か清清しさを感じたものである。
辰濃さんは5年程前に、おばあちゃんと書かれている。でも愛嬌のある大きな目、まだまだ若い。私と同年配。(もっとも世間的には私もじじいの領域なのだろうけど)
辰濃さんと一緒の写真、「もってってもいいよ」と言われたが、それは遠慮。浅草から持ってきた手ぬぐいを一本差し上げて、宿の前でいやがる写真に納まってもらいお別れした。




9月23日     横浪の海の色

天候:晴れ
7:30宿を発つ。スカイラインまでは上り道で1k近くある。おかみさんの車で送っていただく。

スカイラインよりの眺め


  スカイラインよりの眺め

スカイラインから見下ろす太平洋、海岸のさまは、それはそれは見事である。立ち止まってしばし眺める。
8kほどで県道23号との合流点に来る。この道は、36番から打ち戻った遍路が必ず通る。振り返り遍路さんの姿をもとめたが、見当たらない。
道の傍らに座って休んでいると、軽の乗用車が通り過ぎて止まる。小さな女の子が急ぎ足で近ずく。手には大きな梨1個。黙って差し出す。「いただけるのー、ありがとう・・」。納札を渡し、車に向かっても頭を下げる。
Tさんはまだ来ない。今日は、中土佐町まで30k近く歩く予定。おまけに一つ峠を越える。5時までの宿到着に間に合いそうにない。ついに歩き遍路のタブー、近代兵器の活用を決意。Tさんには携帯電話で、大間の駅で待つことを連絡。
遍路姿で電車に乗っているのは、何ともバツが悪い。しかし、何とラクチンなことだろう。
須崎まで2k分の歩きを短縮、再び歩き出す。暑さの盛りだ。

 坂峠遍路道入り口

峠より安和の街を望む


焼坂遍路道に入る。この峠(標高228m)を越える道、地図ではたいしたこと無いように見えるが、登りがきつい。
体調がおかしい。須崎の駅でうっかり飲んだ牛乳が、ウンのつきだったようだ。Tさんに先行してもらう。「野のトイレ」(何というそぐわない上品な言い方!)のお世話にならざるをえない。私は、若い頃オフロードバイクで山道を走ることが多かったため、こいう作業には結構馴れている。敷地選定、穴掘り、後処理。
峠からは安和の街が望まれる。緩やかな山道を下る。

坂遍路道を下る

17:00 中土佐町の宿に着く。

宿:大谷旅館
同宿は、何と土佐市以来のYさん、HAさん、それとTさん。Yさん、HAさんは再会にびっくり。HAさんは、足を痛めここで打ち止めし帰るという。

本日の歩行:39582歩     地図上の概算距離:29k(電車区間2kを含む)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ