四国遍路の旅記録  平成25年秋  その6

打ち継ぎの言い訳・・

私の四国遍路の旅 平成25年秋編は、10月4日、39番延光寺を前にした宿毛の街で終りました・・と私自身も思っておりました。
ところが、1ケ月少々の間を置いて再開していたのです。くたびれてひっくり返っていたはずなのに、何とまあ・・
一つの理由は、この10月「旧へんろ道[宿毛街道中道]復元整備事業」を立ち上げられた愛南町柏のOさんが「ぜひ、お会いしたい」と言ってこられたこと。
私と「中道」の係わりを訝る筋もおありでしょうが、実は3年半ほど前、この道の一部を藪を掻き分け強行突破したことがあるのです。(もちろん通れなかった所、通らなかった所も多かったのですが、その様子は、当日記「三巡目、第4回 その2(2010.4.7)「旧宿毛街道中道越えに挑む」をご覧ください。)
という訳で、Oさんにお会いする行程を含め、宿毛の前から打ち継いで宇和島まで行こうという算段となった次第。調子に乗って篠山の尾根道越えもと欲張っておりましたが、思わぬ寒波に震えあがって、それは中止。

いつものように寄り道と道草の多いゆっくり歩きですが、今回は通常の遍路行程以外の寄り道場所の多くは、いつもそのブログを愛読させていただいている「楽しく遍路」さんの後追いをさせていただきました。むろん、楽しく遍路さんのように博識でもなく、物事を系統だって探究する心も持ち合わせない私のこと、ただ、ぼーっと眺めてきただけではありますが・・ここに記して、感謝申しあげます。
それから、言い訳をもう一つ。この頃の私の遍路日記は、何となく遍路道の石造物マニア風になってきたなー。(この何百年もの間、四国の道を歩いた人が、それを見守った人々が、残してきた路傍の石、その、もの言わぬものが語ることを感じとりたい・・) 今回もよけいひどくなりそうな気配だけど、お赦しあれ・・


柏坂の上から・・


真念庵、伊豆田神社、成山峠、上長谷の宿へ

この度の打ち継ぎの歩き始めは、どういう訳か、その日の午後、真念庵に近い市野瀬からです。
ドライブイン水車の近くから遍路道に入ります。
道の入口には「足摺遍路道三百四十三丁石が置かれています。いかにも昔の遍路道を思わせる山道。三百四十四丁石・・三百四十七丁石も見ましたし、明和8年(1771)藝州と読める女性の墓、それに比較的新しい福岡の女性の墓が目を惹きます。
真念庵。やはりここは何か特別の雰囲気を持った空間だと思わせられます。
真念庵が建てられた時期については、「土佐国堂記抄録」に「天和二壬戌年。大坂、寺嶋眞念以願建立」とあるところから1682年とされているようですが、「空性法親王四国霊場御巡行記」(1638)(伊予史談会本)に「真念庵」との記述があるのはやや疑わしいとしても、澄禅も、足摺り打ち戻りが通常であったその時代に、その場合「荷俵ヲ一ノ瀬ニ置テ足摺山ヘ行也」と記しているように真念庵建立以前から、この場所に遍路のための宿泊施設があったであろうことが覗えます。
真念は大坂西浜町寺島に住む、高野聖系の一修行者であったと言われますが、土佐出身ともいわれ、その二十余回の遍路の拠点はこの辺りにあったのかもしれません。
「道指南」では、当然「市野瀬村。・・此村に真念庵といふ大師堂、遍路にやどかす。但さゝやまへかけるときハ、此庵に荷物をおき、あしずりよりもどる。月さんへかけるときハ荷物もち行。」と記しています。
中央のお堂の本尊は地蔵菩薩(成川にあった音瀬寺から移したものと言われます。)弘法大師像、薬師如来とともに祀られているため、地蔵大師堂とも呼ばれます。
境内の多くを占めるのは、明治初期の庵主、法印実道が浄財を集めて建立した四国八十八ヶ所本尊石仏。その荒削りな石仏群の独特な表情に魅惑されます。中には少し雰囲気の異なる文化15年の地蔵形式の墓なども混じります。
大師堂の前にある手洗鉢は、地元の六左衛門の寄進で貞享三年(1686)と刻まれています。境内にある最も古い石造物でしょう。建物は変わってもこの手洗鉢は庵の建立当時からここに居座っていたということですね。ついでに堂前にある三百四十九丁石について触れておきましょう。
表には「是より足摺山江三百四十九丁(九の字体が変で後刻では?と言われているらしい・・場所からいってもこれは三百四十八丁石)施主作州勝南郡百々村観音寺」と刻まれますが、裏面には次のようにあるのです。「其時庵住法瑞 弘化二乙巳年九月下旬立之 いざり立 目くらか見たとをしが云 つんぼか聞いたと御四国のさた」ちょっと風変わりな坊さまが住んでいた・・ということでしょうか。

 三百四十七丁石、作州 はが講中の字が読める

真念庵(地蔵大師堂)、右手前が手洗鉢

 手洗鉢(貞享三年銘)


四国八十八ヶ所本尊石仏


四国八十八ヶ所本尊石仏

さて、かなりくどくなってきましたがダメ押しを。 
境内の中心的な石造物はやはり堂の向いにある「真念法師 中開實道」と刻まれた墓形式の石の両側に置かれている二つの地蔵でしょうか。向って右側は「為西庵菩提 享保十五戌年(1730)三月十三日 生母佐(海?)賀茂郡玉川村住人四国行者」 そして向って左側の地蔵 「為大法師眞念追福造営焉 元禄五壬申歳(1693)六月廿三日終」。 これが真念の没年が元禄五年とされる根拠といわれます。

(追記)真念の没年について
上記のように真念庵の地蔵には「元禄五年六月二十三日」とあります。また、現在高松市牟礼洲崎寺にある真念の墓には「元禄六歳 大坂寺嶋住僧 大法師真念霊位 六月廿三日・・」とあります。これらより真念の没年は元禄四年であり、真念庵の地蔵は一周忌に、洲崎寺の墓は三回忌に建立されたとする説が有力のようです。(h29.7)


真念庵に長居しすぎました。趣あふれる石段を下ります。春にはきっと椿の花が、秋には紅葉が数枚散っています。
石段下には「あしずりへ/七リ/此うへ(指差し)あん」(嘉永元(1848))と刻す道標。


左、真念追福地蔵 右、西庵祈念地蔵

 真念庵の石段

 真念庵石段下の道標

三原に向う県道46号を200mほど、通称「三原分岐」。
ここには、多くの石造物が集められています。また、引っかかります。
一際背の高いのが、足摺三百五十丁石(弘化二年)。殆ど読み取れませんが「あしずり三百五十丁」の他に「寺山五リ、五社十四リ」などと刻されます。その前方の石がおそらく政吉の手指し。
その横が真念石。これも判読困難ながら「右 てらやまみち五里 左あしずり山みち七里 南無大師遍照金剛、願主真念 為父母六親 土州一野瀬村文助」と刻されます。その右 足摺道 寺山道を指す道標。右端に、丁石成就を刻す石。どういう訳かこの石は比較的読み易い。嘉永五子午三月二十一日の日付。「足摺山迄山川海(路?)遠近難有 いさめんため 奉蹉跎山建石 取捨御断申置候」と刻す。
なお、三原分岐に集められた石造物のうち一番左の標石には、読みとり難いながら「白王山へ かける人ハ三十丁 手まへより右へ登り・・」などと彫られており、赤婆辺りから直接白王山(嘗て38番奥の院であった白皇山)へ行く道を案内していると思われます。(この道については平成25年秋 その4に若干補足)



 三原分岐の石造物

 
三百五十丁石

三原分岐から1.5kほど、県道を外れ右に伊豆田神社へ行く道に入ります。
分岐道の入口には「伊豆田神社 鳴川谷に沿って0.8k高知山を背に鎮座」と刻んだ新しい標石。その左に、手指しの標石もありますが刻字は判読不能。 
この伊豆田神社は「延喜式神名帖(905)に記され、一般に式内社と呼ばれる古社で、幡多三古社の一つでもあります。
1500年以上前、東国伊豆の一族がこの地方に移り、その氏神の神社が勧請されたという説や、この地は昔、湧水が多く それをイデユタ(出湯田)と呼んだのが神社名の語源とする説などがあるそうです。また、この神社は元々伊豆田坂の麓にあったけれど、その地が汚れてきたので「ワシはいやじゃ・・」と宣うて、ひとつ山向こうの高知山の仙境に遷座したとの伝承が残っているそうです。その時期は室町時代以前とか。
参道に入ってすぐ神域、結界があります。その先に鳥居。
鳥居の後ろに石灯籠二基。「奉伊豆田大明神 元文三戌午年九月十九日 光明寺住法印厳覚」とあります。元文三年は1738年。
辺りは鬱蒼とした森林。イケイガシやナギの大樹があり社叢を形成しています。(土佐清水市指定天然記念物)

伊豆田神社の鳥居

伊豆田神社の鳥居

やがて左手、鳴谷川を小さな伊豆田橋で渡り、本殿に上る石段。
この石段は素晴らしい。玉垣も無ければまして手摺など・・ 山の斜面の上にそのまま中央が、やや凹んだ枕石を積んだようなもの。特に下るときは、いささか恐怖を覚えるほどです。
本殿は、比較的近い時に建替えられたもののようで、木の色も鮮やかですが、素朴な古い神社の形式を残しているものと思われます。殿前に狛犬一対。左手に摂社三島神社。 
鳥居から連なる参道、橋、石段、そして周りの森林、すべてを含めて古くからの神の姿を見せてもらった気がします。自然の中に住むことを願った神の意志も感じられるようでした。
神社はこうあるべきかもしれません。

伊豆田神社

上から見下ろすと・・

伊豆田神社の石段

神社への道分岐から直ぐ、カーブミラーのある所から、昔は成川、家路川の集落をバイパスする旧山道があったようです。少し入ってみましたが、今は通り抜けは困難のようです。
集落の家の庭に居られる人に聞きます。「そういう道は知らんぞなー、旧い道は今の県道より南側の川沿いを通っていたけどなー」。山道はもう忘れられた道なのかもしれません。
成山の集落を過ぎると、左手山の斜面に地蔵堂と伊平墓があり、案内板もあります。
阿波の人、伊平さんは明治5年遍路の途上病み、ここで命を落としたそう。里の人々は、温かく供養したとか。 
ここから1.4k、成山峠を越えて狼内、川平郷に至る旧道、山道に入ります。
案内板に「この道は昭和の始めまで三原の百姓が下の加江へ米売りに馬で通った道であり、魚を担うた浜の魚売りが越えた道である。江戸時代の遍路記に「谷間い長く木重なり淋し」とある」と記されています。後段に出てくる遍路記とは「名所図会」と思われ、この記述は同記では上長谷村の後の地蔵越えの道を記述したもの。誤記と思われます。
成山峠は、峠といっても標高差は100m程度。整備も行きとどいた歩き易い道です。峠前の道には、飲用の水道まで設けられています。
峠近くからは曲がりくねる県道46号の姿も見渡せます。若い男女の遍路は山道を通らず、県道を通って行きました。その二人の姿も見えました。

 成山峠の道

峠から県道を見る

 成山峠の出口

 政吉の手指し

山道の出口には、政吉の手指し標石があります。その両手の形の何とも言えぬ素晴らしさ。 
左手の仁井田神社の前から右の道を選び、県道に出る人が多いようですが、神社の前を直進、左手に見える山際の道が旧道のようです。淋しい道ですが、道から少し上がった山際には、遍路のものと思われる墓もいくつか見られます。 
私は、以前にも見たM小学校分校跡に思いがあり、その辺りを目指して県道に戻ります。
分校の校舎はまだ残っています。
その前で地元の人にお会いしました。私よりも少々年長でしょうか。
「あいの子供が5年生のとき廃校になってのー、今その子も45や・・ 建物はまだしっかりしとってなー 手を入れれば使えるかもなー・・」 
こういうものは中に入って見てはいけないのかもしれません。でも、気持ちは抑え難く、その方と一緒に校舎の中を少々見せていただきました。
廃校、30有余年。
そこで学んだ子供達の、そこで教えた先生達の思いが、まだ何処かに宿って潜んでいるようでした。

廃校30余年の思い







廃校30余年の思い

二組の狛犬が鳥居前に並ぶ上長谷の天満宮の前を通り、真念石のある地蔵峠への道の分岐点。 寄り道はしましたが、市野瀬からここまでですから、15k程度しか歩いていないでしょう。でも、晩秋の日は山端に近づき、私はもう宿の近くまで来ました。今日の宿は農家民宿○。
私はブログに宿のことを書くのを好みませんし、若干ルール違反ではないかとさえ思っています。ですから、これまで殆ど書いてこなかったのですが・・
でも、とてもいい宿だったので少々違反して書いておきます。
宿だと聞いて訪ねた所は実は食堂。そこから1k少々離れた自宅の敷地内に小綺麗な家を建て宿としているのです。食事の前後はそこまで車で送り迎え。泊りは一晩一人しか受けません。 
ご主人は建設業を息子に譲り、美人の奥様と二人で、今はどぶろく造りと食堂と民宿経営。すべて奥様主導かな・・ 
奥様、ご主人とサービスのどぶろくを戴きながら、一緒につつく鍋の楽しさ。
民宿経営の厳しさを多く聞く昨今。「民宿は趣味で・・」と言える余裕でしょうか。
何といっても、奥様、御主人の心遣いがうれしい宿でした。推薦宿です。

 市野瀬.成山付近の地図を追加しておきます。(再掲)
                                                  (11月11日)


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四国遍路の旅記録  平成25年秋  その5

松尾、益野浜を行き、大津まで


部厚い雲が空を覆っていました。
10月も3日目というに、今日は矢鱈と蒸し暑い。こういう日に、この足摺付近の素晴らしい海岸の様を見て歩くのは、ちょっと損のような気もします。でも、遍路はそんな贅沢を言ってはおれません。進みます。
松尾に入り、天然記念物だという樹齢300年のアコウの木を見ます。
このアコウという樹、他の植物に着生して気根を降ろし巨大化するという、何とも不思議な樹なのです。気根が多数の蛇のように絡まり幹状を形成している様は、迫力さえ感じます。

 松尾のアコウ

その先で、国重文の吉福家住宅を見ます。以前にも寄りましたが、私はこういうものに目がないので、また寄ってしまいます。
この住宅、この地の多くの家々と比べ、あまりにも浮いているのではないかとか、なぜ国重文なのだろうか・・とか小うるさい疑問も湧いてくるのですが、それはさて置き、清楚と重厚さを兼ね備えた家の表情に大きな魅力を感じます。見た後、時間を経ると、益々その魅力が蘇る・・そんな家かもしれません。
吉福家住宅の前に「女城神社250m」の標示がありました。迷った末止めましたが、女城(めじ)鼻という岬の上にある神社、行ってみればよかったと今も後悔しています。

吉福家住宅

吉福家住宅

吉福家住宅

松尾から大浜に往く古い道は、現在の県道27号にほぼ沿いますが、臼碆の先端の山を巻くところは、それをバイパスするように山越の道であったようです。今は残っていないでしょう。
今の遍路道は、松尾から臼碆までの山道。(現在工事中の、松尾から払川への長大なトンネルの入口の脇から山に入る道。)
臼碆からは二通りの道。民宿夕日の前を通る道と、唐人駄場へ行く道から分岐して祓川橋へ行く道。今回は、後者祓川橋へ行く道を始めて通りました。
この道、国土地理院25000地形図にも記載されていて、谷を渡る所など石やコンクリートで固められており、かなり古くからの生活道であったことを思わせます。
ただ、最近は通る人も少ないらしく、荒れ気味で雰囲気はあまり・・という道なのです。
最後は祓川橋の手前の地蔵堂の前に出ますが、前記の工事中のトンネル出口と重なり、仮設道となっています。


臼婆の先端の海岸

大浜から中浜へ。
中浜は何といっても、ジョン万次郎ですね。今、街を歩くと、やや寂しい街という感じは拭えないのですが、江戸時代の文献などを垣間見ると、江戸中期から発展した集落であったことが判ります。
逆に、隣の土佐清水は、現在の中心街がある場所は、江戸時代には湾入する海と湿原で、家は山際に点在していたと言われます。昭和30年代の埋立、造成により急激な発展をみて、今の街になったのです。
中浜の街から坂を上った所に地蔵。その台座に「これより月山七里十八丁」の刻字。その近くには安政銘の「浦中安全」と彫られた碑もあります。 
昔の人は、中浜から坂を越え、清水湾の最狭部、今も「渡場」と地名に残る所から戎町へ渡舟で渡っていたといいます。
今の遍路は中浜の県道に架る陸橋の西100mほどの所から入る山道で厚生町に出ます。
この道はなだらかな丘の道です。2k強。所々でも眺望があれば、云う事ないのですが・・

足摺周辺では一際賑やかな清水の街を抜けて暫く行くと、左手、松崎という岬への道にペンション○○の看板。丘の上の小奇麗な家。一度は訪ねてみたい・・誘われますね。 
落窪の海岸に見られる化石漣痕、それは見事なもの。波の影響で水中の堆積物の表面に造られた凹凸が化石となったもの。昭和21年の南海道地震により海岸が隆起したため見られるようになったといいます。そうすると、昔の人は見ることができなかった・・


落窪の化石漣痕

国道321号線は、落窪から海岸を離れ北上、中益野から南下、三崎で再び海岸に出ます。この間の海岸は、50m以上の切り立った崖なのです。
昔の人はこの海岸を歩いたということを聞いています。
航空写真など見ると、崖と海岸の岩場(化石漣痕など)の間に砂浜があるように見えます。
念のため、干潮の時間に当たっていることも確認してあります。通ってみます。
落窪の先、果樹園の中の家で尋ねます。
「ここから海岸には出れないよー もう少し行くと埋立地、そこに新しい道があって、そこを折り返す・・」(埋立地といっても、低湿地に土を盛ってかさ上げしたという意味らしい) 
言われる通り新しい道を進み道を外れると海岸に出れます。
化石漣痕がほんとに間近に見えます。
セメントで固めた道は僅か、その先は丸石の上、砂の上、岩の上・・変化に富んだ道(?)ですが、それほど歩き難いというほどではありません。昔の人が歩いたというのも納得できます。
ただ、この辺の海岸は隆起した所、昔は海の波がもっと崖の近くまで寄せてきていたでしょう。潮が満ちれば危険な道になったかもしれません。
全長2k強でしょうか。500mくらい沖合、尖った岩島(水島という)がいつも頼もしげに見えていました。


益野の浜(間近の化石漣痕)

益野の浜を行く

益野の浜を行く


益野の浜を行く

益野の浜を行く

益野川の河口の橋を渡って国道に復帰。
また、熱中症寸前の状態で道の駅に倒れ込む。
道の駅の若い人は親切。濡れタオル、氷水を戴いて生き還ります。三崎の街に入ります。

澄禅の記録には、阿波で分かれて四国を逆方向にまわった(即ち逆打ち)遍路衆(澄禅は「高野・芳野(吉野か)の遍路衆」としか記していませんが、遍路の少なかったであろうこの時代、まして逆打ち、専業の修行者であったと思われます。)とここ三崎で出会い 「互ニ荷俵ヲ道ノ傍ニ捨置テ、半時斗語居テ泪ヲ流シテ離タリ。」と記しています。
この地は、阿波からの最も隔たった、周回巡礼の半ばに当たる所なのだ・・

今日の宿は、叶崎の前の大津と決めていました。ところが、そこに電話すると竜串の宿の人が出て、車でそこまで迎えに行くから、竜串に泊れという。何だか訳のわからぬ話だが、まーいいや・・ とにかく、それから一所懸命歩いて、叶崎の手前で電話して、竜串に泊りましたとさ。

 下益野付近の地図 を追加しておきます。
                                                     (10月3日)



月山神社、小筑紫、宿毛まで


ちょっとズルして、叶崎まで車で送ってもらいました。そこから歩きます。

貝ノ川の海岸の朝

以前の日記にもきっと書いたことと思いますが、竜串の先、下川口浦から月山神社への道は、現在は多くのトンネル(片粕トンネル、歯朶(しだ)ノ浦トンネル、貝ノ川トンネル、脇ノ川トンネル)を経る国道の道ですが、明治以降に開削された旧国道では、このトンネル部分は海岸の断崖に張り付いた道であったのです。
そして、更にそれ以前、江戸時代には、人家のある浦々(東より片粕、歯朶ノ浦、貝ノ川浦、大津、小才角、大浦)を繋ぐ道は、片粕坂、道の上坂、脇の川坂などと呼ばれる山越の道でした。
従って、この海岸随一の景観と言われる叶崎も、江戸期には知られることはなく、後に歌人の吉井勇等が紹介し、広く知られるようになったと言われているのです。
江戸時代の紀行文には 「此道客少ク、食物、宿所等萬事難シ。道猶難シ・・」と書かれるように土佐でも辺境であったこの地は住民の多くは生活も困難で、「接待」など思いもよらぬことであったであろうと推察できます。
真念が「道指南」において、足摺打戻りを推奨しているのも、この辺の事情、旅の困難さを配慮してのことではないかとの説を唱える人もいます。真念の意図と性格を察しても、説得力のある説に思えます。
同根の理由かと思われますが、竜串から小筑紫に至る道筋には、江戸時代以前の標石や丁石を見ることは極めて稀であるといいます。
そうしてみると、江戸時代初期に、敢えて月山まわりの道を選択した澄禅は、上位の僧侶であるとはいえ、その覚悟と周到な用意があったことを思わずにはおれません。

叶崎には、上記した吉井勇の歌碑があります。「土佐ぶみに まづしるすらく この日われ うれしきかもよ 叶崎見つ」(ちょっと分かり難い歌ですが、「土佐ぶみ」とは土佐からの手紙ということでしょうか。) 隣には野口雨情の歌碑もあります。「叶崎で波の音聞いた 波が磐(いし)打つ音聞いた」(こちらは直接的で、その時の気持ちがすっと入ってきます。)

叶崎(かなえざき


叶崎

叶崎

脇ノ川の浜

脇ノ川の浜

私は、江戸時代の遍路が通ったであろう山道のうち、現在でも最も通行できる可能性が高いと思われる大津、小才角の道(昔、脇ノ川坂と呼ばれた)を通ってみようと思っていました。しかし、この度の遍路での私の体力の消耗は大きく、諦めました。せめてもと、その出入口を確認し、少し山道を辿ってみたものでした。

大津~小才角の山道の出口(脇ノ川)

小才角の海辺にある「さんご採取発祥地祈念像」。
サンゴを抱えた少女の像と伝える童唄。
「お月さん ももいろ だれんいうた あまんいうた あまのくちひきさけ」 }
土佐藩のサンゴ採取を秘匿する政策、それ故に生じた悲しい物語・・
づっと後、昭和48年に出版された松谷みよ子の童謡絵本「お月さん ももいろ」・・
これらのことはこの祈念像をロマンの香りに彩ったようです。
少女の逞しい像からは、どこからとなく、昔のこの地の生活との隔たりのようなものを感じます。それ故に、この場所にこの像を立て、唄を刻んだ人々の意図を感ぜぬにはおれない気がするのです。私の好きな像です。

巖と波

巖と波


さんご採取発祥地祈念像

 
さんご採取発祥地祈念像

大浦からは、大月へんろみち保存会が管理されている遍路道を通り、大月神社に行きます。
大浦から月山神社への遍路道に入った所に明治17年と命した丁石「従是 月山神社十八丁半 香美郡山南村中澤章次・・」があります。(丁石にはこの後、歌のようなものが刻まれていますが、読み取ることはできませんでした・・)
遍路道の最高所よりやや下った所、十文字と呼ばれる場所に(稀といわれる)江戸期のものと考えられている標石があります。「梵字「パク」左邊路」。
なお、この道にあといくつか残る丁石は、自然石に〇丁と刻んだ簡素なもので、明治以降のものと言われています。

大浦の街

小才角の岬


大浦の岬(この上を月山への遍路道が通る)

月山遍路道、十文字の標石

 月山遍路道、七丁石

月山神社の社務所で何やら音がします。神主さんがおられるようです。 
「私はこちらに3度目のお詣りですが、始めてお目にかかれました・・」
ふくよかなお顔の神主さん(守月さんだと・・)はニッコリ。御朱印をいただきました。

大師堂は江戸時代守月山月光院南照寺と称していた頃の本堂で、安政5年(1858)頃の建立と推定されています。内部の格天井の弘瀬友竹(絵金)他の天井絵が有名ですが、外部も宝形造り、象頭木鼻、蟇股や向拝部の虹梁にも彫刻が施された、凝った造りであること。思わず見とれるほどです。

 月山神社大師堂

月山神社大師堂の天井絵

月山神社については三巡目の日記でやや詳細に触れたのでここでは省略しましょう。
神社の先を少し行くと、森を背に石垣の上「文学士 従七位 守月晃墓」がポツンと。神主さんのご一族でしょうか。何故か心惹かれます。

舗装道から山道へ。
眼下100mほどの崖下では、波が騒いでいます。坂を下り赤泊りの浜へ。
この大石、中石の浜は歩き難い。三度は転ろぶ。
大きな波がくる度に、波の下の石がゴロゴロと鳴るのです。この浜は3度目ですが、私は美しいと感じたことはありません。何処か恐ろしく、寂しい浜でした。
浜の石の上に座って(立つことができなかっただけですが・・)波が立ちあがった、その腹の様と波の下の石の音を、長いこと見聞しておりました。

赤泊の浜

浜の波

月山以降の道筋について、澄禅は「御月ヲ出テ西伯(泊?)ト云浦ニ出ヅ。又坂ヲ越テ大道ヲ往テ、コヅクシト云所ニ出。爰ニ七日島ト云小島在リ。潮相満相引ノ所ナリ、由緒在リ。夫ヨリイヨ野滝(瀧?)巖寺ト云真言寺ニ一宿ス。御月山ヨリ是迄四里ナリ。・・寺ヲ出てミクレ坂ト云坂ヲ越テ宿毛ニ致ル・・」と記します。
西泊を経由しており、この後、姫ノ井に向ったのか、あるいは浜伝いに樫ノ浦、周防形を経て大道に入ったのか、不明です。(天保国絵図(国立公文書館)によると、西泊村、樫浦村、周防方村、頭集村、ほこつち村(鉾土)、弘見村が往還のルートとして示されています。)

(追記)「馬路坂」について
現在の国道(321号)の傍には多くの旧道が残されていますが、ここでその一つを追記しておきましょう。
 今の大月町弘見から小筑紫町へ向う国道の西側に小さな峠越えの馬路坂があります。(場所は遍路地図を参照)この道には江戸期の石畳と石垣が積まれた切通しが残されていると言います。通ってみたい道の一つです。(令和2年2月追記)

七日島は今は陸続きとなっています。また、小筑紫町伊予野の寺は竜巖寺として現存します。

(追記)「小筑紫」について
小筑紫村について、「南路志」に次の記述があります。
「・・里人伝云、往昔延喜元年菅相承筑紫へ赴かせ玉いし時、御船此内海に入りけるに、爰も筑紫なるかと仰有しより、此浦を小筑紫と名付ける。・・此所に七日御滞座有しより七日嶋と云。・・」

ミクレ坂は、三倉坂あるいは御鞍坂とも書かれる峠で、小筑紫町田ノ浦から北東に入り、北の山の鞍部を越えて松田川沿いの坂ノ下に下る道です。
当時は、現在国道321号が走り、道の駅もある海岸沿いは山が迫り、道は無かったと思われます。
田ノ浦から入る道を歩いてみました。入口には、小さな祠。石仏のような石片が集められています。
細い舗装道を1k強行くと、左側に山に入る道があります。
車もやっと通れるほどの広い山道ですが、尾根が直上に見える所で左に折れ、尾根筋のミカン畑の中で行きどまり。おそらく左に折れる所を直登する道がミクレ坂と思われますが、草木繁茂。
尾根から坂の下への下りは更に急坂なので、おそらく道は残っていないでしょう。

山道を戻って、鹿崎の道の駅の草の上にひっくりかえっておりました。
「このクラゲ、うちゃあ ほしいんよー・・」何やら聞いたような言葉が耳に入ります。
こちらの言葉じゃない・・広島弁ですよ。ガイドさんに聞くと、呉からの団体バスだそうです。
私も広島からだと言うと、何人かの人から声をいただきました。
疲れました。宇和島まで行く予定でしたが、今夜は宿毛のホテルに泊って、今回の遍路はここで一旦打ち止めにしよう・・そう思いました。

 小才角付近の地図 月山付近の地図 姫ノ井付近の地図 弘見付近の地図 小筑紫付近の地図 坂ノ下付近の地図を追加しておきます。
                                                     (10月4日)


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四国遍路の旅記録  平成25年秋  その4

大岐の浜、足摺岬、金剛福寺



久百々の浜


久百々の浜


久百々の浜

久百々の海岸の巌と波、そして道の先に浮かぶ足摺の山影。
この風景を、酔うような気持ちで眺め何度歩いたことでしょう。今度もまた写真に収めました。
やがて、大岐の浜が見えてきます。浜全体が見渡せる高所から、無限のように幾重にも寄せてくる波頭をづっと眺めていました。
この浜は遍路が歩く道でもあります。
私は、四国の遍路道の中で最も素晴らしいと思う道の一つであり、今回の遍路で最も希求した、その道です。
浜には、昔から多くの命が波に乗って、あるいは空を渡ってやってきているように思えます。浜の砂をゆっくり歩き、渚で祈りました。
浜に渡る危うい木橋の上を逆打ち遍路が通っていました。その黒い影は瞬く間に消えてゆきました。どの時空に行ったのか・・疑います。


大岐の浜


大岐の浜

大岐の浜


大岐の浜


大岐の浜


大岐の浜


大岐の浜

大岐の浜の海岸線は、昭和に入ってからでもかなり後退していると、地元のお年寄りから聞きました。昔の砂浜はもっと豊かで遠浅に沖に張り出していたのでしょう。
「名所図会」には 「くもゝ村山路也、大木村此所ニテ支度、小谷川水出の時ハ川上よし、浜辺砂道廿丁斗リ 山路此間二一丁四方芝原有、景吉・・」とあります。
水出のない時や潮の引いた時は松林の中の浜辺砂道を通ったようです。
浜の風景は白砂青松と言われるのでしょうが、ここの松は若木が多いようです。件の野中兼山の命により植えられた松が昭和30年代のマツクイムシのために枯れ、今見る松はその後に植えられたものといいます。
浜の最後、「靴を脱いで小川を渡る・・」のが常でしたが、この度は小川はすっかり姿を消していました。


以布利港の近く、民宿旅路。ここには何度お世話になったことか・・お父さんとお母さんがおられました。お父さんは以布利の漁協の組合長もやられていたとか。
お父さんからもお母さんからも、たくさんいいお話をいただきました。照葉樹林は命を育むという話や、海の資源と人の生活水の循環の係わりの話を熱く語られたことを思いだします。それらは自らの生活の中から得られたものである故に特に強く心に残っているのです。
最近、お父さんは亡くなられたと聞きました。民宿の看板も外された家の前で、合掌させていただきました。
以布利の港を抜け浜を通って以布利遍路道へ。
山道の入口の岩に立つ仏海の地蔵菩薩。その限りなく穏やかな表情に見入ります。この地蔵「道しるべ地蔵」とも呼ばれるように道標でもあります。光背の左側上部に「あしすりへ三リ五丁」と刻まれているようです。


以布利の浜の仏海の地蔵

 「あしすりへ三リ五丁」

 足摺の遍路道

 足摺の遍路道

細い県道27号をショートカットするように、いくつもの山道があります。昔からの足摺の遍路道を思わせるような豊かな道です。
それらの道の所々に足摺遍路道特有の自然石の丁石を見ることがあります。真念庵の近くの「三原分岐」の350丁石から始まって、38番金剛福寺まで一つづつ数を減らして、350の丁石があったと言われます。
三原分岐の案内板には、「55基が今に残る」と記されていますが、さて今は・・ 
しかし、考えてみるとこの丁石の丁数はちょっと不思議。
足摺七里と言われますから、1里を36丁とすると252となり350と合いません。これは、土佐においては1里を50丁とする慣行があり、これに拠ったとされています。
そして、丁石の多くは美作国(岡山北部)の行者、玉林院宗英が建立を呼び掛け、弘化2年(1845)から嘉永5年(1852)までの間に設置されたものと言われます。
足摺の丁石というと、何となく真念の時代との関連を想うのですが、ずっと後、幕末のものなのですね。
(丁石の写真も撮りましたが、ごきげんの悪いコンデジでは手に負えない。ごきげんでも刻字を表すのは難しいかも・・とにかく載せません。)

県道27号から348号が南へ分岐する所の直後から始まる山道は、足摺まででは最も長く残っている旧道。3k近くはありましょうか。
民宿旅路のお父さんの話を思いだしました。
「ワシが子供の頃、この道の途中に家があってなー そこへ新聞配達に通ったもんや・・この道だけは通らん方がええ、きつい道じゃ・・」 
でも、今回は通ってみます。
他の旧道には付けられている「足摺遍路道」の標示は、どういう訳か外されていました。(この標示には確か「県道30分、山道60分)」と書かれていたはず。)
代わりに蜘蛛の巣の出迎えです。
この道には丁石が特に多く残っているようでした。10基近くはあったか・・ 
入って暫く、平な場所に石垣。家の跡。
後半は谷を橋で渡り、尾根に上るのを繰り返す。数えた人がおられて、木橋5、石橋1だそうです。
山道の出口は墓地を通り、窪津の街を見おろす海蔵院の前に。
多くの石仏がありますが、特に注目されるのは、石段の降り口に置かれた文化9年(1812)、捕鯨を生業としていた津呂組が寄進した地蔵石仏。
補修の跡が目立つ石仏ですが、台座には「(手印)へんろみち 文化九壬申 津呂組 為鯨供養也 施主鯨方当本 奥宮正敬立之」と刻まれています。

(追記)海蔵院について
窪津の海蔵院については「南路志」に次のような記述がある。(意訳)
「本尊十一面観音、寺記に云う、宝永4年(1707宝永地震)に流失して今の所に移る。以前はホノキ山の際と中段にあったが、寺地が大きく流失した。阿弥陀堂がある。」
今は寺地も細い坂道を上った高所にあり、本尊も変わっている。(大日如来)

 海蔵院と鯨供養地蔵

(追記)江戸期の捕鯨について
海蔵院の鯨供養地蔵を見たところ、土佐の捕鯨について少々触れておきましょう。
土佐で捕鯨が盛んとなるのは17世紀後半、紀州の網取捕鯨を習い取り入れたことに始まるとされています。津呂組、浮津組の二つのグループが、室戸の津呂港、足摺の窪津浦を拠点に活動してしていたようです。
津呂という地名は室戸と足摺にあること、室戸の津呂港は土佐藩家老野中兼山の命により整備されたことなども知ります。
捕鯨の様子は宝暦4年(1754)日本山海名物図会にも示されています。


日本山海名物図会「鯨置網」


さて、この山道(旧道)を通るべきか、はたまた県道を通るべきか? 
山道からは海は殆ど見えないし、私のような山道好きでもちょっと考えますね。

時間に余裕がないときは通らない方がよいでしょうね。

窪津から足摺岬までは只管県道歩き。
途中の赤碆には、昔38番の奥の院があった白皇山に行く道があった所で、首の無い地蔵の台座に古い標示も残っています。「右へんろみち 左白王山みち」 寶歴丁丑(=7年(1757))。山道も伸びていますが、白皇山まで行けるかどうか・・

余談ながら、昭和18年の漫画家宮尾重男「四国遍路」には首のある立派な地蔵の姿と白王山に向かうリュック、帽子、ゲートル姿の本人?が描かれています。当時、ここより白王山へは打ち戻りの道を辿ったと思われます。

足摺岬に近ずくと、右側に上る山道が多く見られます。昔の遍路道でしょうか。その辺りで見た11丁石、最も若い数の足摺遍路道丁石か・・。
 

38番札所金剛福寺。境内は改装が終り、新しく出来た池が鏡の様。
この寺の山門にかかる扁額には、補陀洛東門と書かれています。昔、多くの人がこの地から補陀洛渡海を目指したという、その永遠の水のおもてを表しているように思えました。(金剛福寺の寺の推移と足摺の地名起源については、三巡目の日記に記しました。省略します。)

納経所で「きれいになりましたねー・・」というと「お蔭さまで・・」四つ目の重ね印を見て「これ全部歩きで?・・ああ、たまには電車、バス・・そりゃ仕方ないですよ・・」と年長者には労り。

門前には寺名を彫った石の他に二つの標石が立っています。
左側は徳右衛門標石「是ヨリ寺山迠十二里」。これは、打ち戻りでの延光寺までの距離
を示しています。
右側、蘇鉄の葉に隠れるような古い標石。(読み辛いですが)「従是寺山江打抜十三里 (小さく)月山へ九里」。月山まわりで十三里はおかしい・・これも、1里を五十丁で表示した里程だと言われています。(1里を36丁で計算すると18里となる。)そして、下に小さく彫られた「月山へ九リ」は1里、36丁での追刻だということのようです。

 金剛福寺前の標石

足摺岬

本日の宿はまだ5kほど先。歩いたか・・? それを聞かねーでください。まだ、足摺り岬も見学せにゃいかんのですから・・

 大岐浜付近の地図 土佐清水付近の地図 津呂付近の地図 足摺岬付近の地図を追加しておきます。

                                                     (10月2日)


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四国遍路の旅記録  平成25年秋  その3

窪川岩本寺、松山廃寺、伊田へ

37番札所岩本寺から足摺の38番札所金剛福寺までの距離は、協力会地図によると80.4km。四国88ヶ所巡礼の札所間の距離としては最長。
でも、民宿のご主人の中には、実際の距離はそれより5kくらいは長い・・と言っている人がいます。実際はどうなのでしょうか。

岩本寺を出て国道56号を行くと、金上野(きんじょうの)という所の外れ、もう峠に近い場所ですが、地蔵の横に徳右衛門標石 「是ヨリ足すり迄廿里」があります。

 
金上野の徳右衛門標石
 

峠を少し下って国道を離れ片坂へんろ道に入ります。そう、最近この入り口にお大師さんの像が移されていますね。
「名所図会」にはちょっとおもしろい言い回しがあります。 「片坂、上り壱丁斗りにして下り十丁余、是ハ昨日とふりし添身見ず坂半里上りしに下り五丁斗りゆへ爰ニてもどし、峠に景よし高岡郡、幡多郡の境標木有り。・・」。
前半、なるほどそうも言えるか・・ 後半、今は景観も無いし標木もないなー・・
下りが殆どで、上りよりは楽なのですが、夜来の雨で石畳は濡れていて滑ります。石畳というのは草鞋(わらじ)に向いた道なのでしょうか。
市野瀬から佐賀の道について「名所図会」には「・・是より佐賀町、四里の間谷合にして家すくなく用心悪し・・」と記しています。
市野瀬から伊与喜までの旧往還道の多くの部分は今の国道に変わっているので、協力会でもこちらを遍路道に充てているのでしょうが、私が3巡目に通った伊与木川右岸の道の方が、若干距離は長くなるものの、車の通行も少ないだけでなく、点々と神社や人家が見られ生活の中で今も生きている道、歩くにはいい道だと思います。
こちらは「四国のみち」。意地を張らず(?)にこちらを遍路の道とすべきでは、と思うのですが・・ 
(いや、失礼。協力会地図10版ではこの道を遍路道に充てたようです。)
今回は国道を行きます。
(追記)市野瀬から橘川に入ると国道の橋の左、旧道に沿って地蔵堂があり文化7年の道標があります。道標には「右遍路道 是ヨリ足摺江十八里半 肥前・・」と刻まれています。

拳ノ川で川の流に沿って、道は大きく左折します。この箇所、昔は辻越坂という峠越えの道で、峠には一里塚があったそうです。ちょっと入ってみました。 
入って少しの所で倒木があり引き返しましたが、道筋はちゃんと残っています。出口側は、一軒の民家がある所で立派な石垣も残る道。道傍には若狭の人の墓があります。(「若州三方郡笹田村・・」と刻まれる。)遍路墓と思われます。

辻越坂の出口。遍路墓も見える。

道は伊与喜から国道を離れ熊井に入り、遍路の間でも人気の高い熊井トンネルを潜ります。その先、民家の植込みの中にあるという徳右衛門標石、予想の通り見落としました。 
佐賀から井の岬に近い灘までの白浜の道は、山が迫った海岸を行きます。昔は台風などで波が高い時は通行できないことが多かったと思われます。
澄禅は佐賀の先 「是ヨリ大坂ヲ上下スル事一里半也」と記しており、海岸を通らず、馬路、黒瀬を経て有井川に至る山中の道を選んだと考えられています。


白浜の海岸(晴れの日の表情)


白浜の海岸(荒れた日の表情)

 灘から国道は井の岬トンネルを通りますが、昔は今のトンネルの北側に山を越える道があったようです。「なだみね坂」とか「松山坂」とか呼ばれていました。
ちょっと入口を探ってみましたが、見つかりません。
灘の街中で尋ねてみます。
「今はそういう道はないのー、ワシら井の岬を回る道をへんろ道と呼んどったけどなー・・」 
井の岬を回る道を遍路が歩いたことがあったとしても、それはそれほど長い期間ではなかったような気がするのですが、まあとにかく歩いてみることにします。
岬を回る道は、その殆どが崖と海との間に貼りつくように造られています。
崖に迫る樹木は「魚寄りつきの森」として保護されているのはよいのですが、産業廃棄物の処理施設がいかにも大仰に見える他、民家は一軒もないという寂しい忘れられたような道なのです。

営業を止めた温泉施設の建物の前を右折して、松山廃寺跡に寄ります。
松山寺は空海の開基と伝えられ、江戸時代には大いに栄えたと言われます。
明治の廃仏毀釈により廃寺。紀貫之の「月字の額」が伝承されたことでも知られる。それに因んだ「月字和歌集」なども現在に伝わっていると言われます。(継承寺は伊田の観音寺と思われます。)
「松山寺跡」の石標から山道を200mほど上ると、荒れ果てて墓石の散乱する寺跡。
元の境内と思われる場所に個人の家の新しい墓があったりします。
墓石の半分を鋭い切面で切り取った僧侶の墓が気味悪く、印象に残ります。町の史跡に指定されているとはいえ、この荒れようは・・寂しい限りです。

 松山廃寺への入口 

 松山廃寺跡

今日の宿の有井川のさきまで。

伊田の海岸の朝


拳ノ川付近の地図 佐賀付近の地図 上川口付近の地図を追加しておきます。
                                             (9月30日)



入野の浜の魅惑、そして伊豆田峠へ

上川口から先には、「王迎」とか「王無」とか、曰くありそうな地名が続きます。
これは、元弘の乱(1331)に敗れた後醍醐天皇の第一皇子、尊良親王(たかよししんのう または たかながしんのう)が土佐に遠流となったことによります。
王無の浜には「尊良親王御上陸地」の碑があります。
親王は土佐での2年の後、九州に渡り挙兵、戦乱に明け暮れた27年の生涯を越前で閉じることになります。

 王無浜の碑

 鞭の大師堂

鞭(ぶち)に大師堂。堂前に「足摺山十二里」の明治期の標石があります。
吹上川に架る洒落た形の橋(月見ヶ浜橋)を渡って入野松原へ。
昔の主往還も今の遍路道もメインは段丘上の道ですが、できればもっと浜に近い道を歩きたくなります。
輝く海、波、静かにたゆとう入江、深い松原・・土佐は東方の芸西村に琴ケ浜という素晴らしい浜と松原の道を持っていますが、この入野の浜は、長さこそ吹上川と蛎瀬川の間の3kほどに過ぎないけれど、その美しさにおいて決して引けをとらないと思えます。
浜はサーファーの舞台でもあります。時に外国人のサーファーに出会うこともあります。
沖の波頭を一心に見つめる碧い眼差し。遍路のあいさつに応えることはありませんでしたが・・


入野の浜


入野の浜(吹上川)

入野の浜(吹上川)

入野の浜(松林)


入野の浜


入野の浜(サーファーの影)


蛎瀬川

入野から四万十川を渡り、対岸の津蔵渕に至る道は協力会地図などによれば、凡そ3つが示されています。
一つ目は、入野から蛎瀬を渡り田野浦へ。そこから広域農道などを経由して竹島、四万十大橋を渡るルート。 二つ目は、上記の田野浦から海岸沿いの道をとり双海から下田に至る。そして、最近再開された下田の渡しにより初崎に渡るルート。
そして三つ目は、入野から田の口、国道56号に沿い古津賀まで。古津賀から井沢を経て四万十大橋を渡るルート。 
昔はどうであったのでしょうか。
「道指南」では 「○入野村、かきぜ川引舟有。○たの浦(田野浦)、これより七八町はまを行、標石有。むかふ山はなハ下田道、こなたハ舟わたし。少まわり道、○いでくち村(出口)、此間小川・坂有。○たかしま村(竹島)、大河、舟わたし、さね崎村(実崎)天ま(天満)という所に引舟有。ま崎村(間崎)薬師堂有。、つくらふち村・・」とあります。
現在の道の一つ目、二つ目にほぼ合致するのですが、一つ目のルートとの違いは、「いでくち」からほぼ真っ直ぐに(文中「此間小川・坂有」の部分)渡し場のあった竹島(竹島大師堂)に向っていたと想像できることです。なお、上記引用中、四万十川を渡った後更に「天まという所に引舟有」の部分について、今の地図によると支流、中筋川を渡ったように思ってしまうのですが、この川は上流の坂本で合流していたのを近代に付け替えられたもので、引舟の場所としては深木川が充てられているようです。
一方、三つ目の道に相当するルートは「四国偏禮繪図」に「○イルノ(入野)○タノクチ(田の口)、谷川五ツ○アフサカ(逢坂)、谷川四ツ○コツカ(古津賀)○イサムラ(井沢)○タケシマ(竹島)」と示されています。ただし、古津賀、井沢間は今の田圃の中を行くルートではなく、古津賀大師堂から井沢祠堂を経る山の道だと思われます。
私は、田野浦の分岐で下田の渡しが欠航であることを確認した上で、一つ目のルートを辿りました。出口から竹島へ直進する昔の道を意識しながら、時々脇道へ入っては寄り道をしました。石仏の一つでも出会いはしないかと期待しながら・・ 空しい期待でしたが。

(追記)田浦の浜 昔 昔
澄禅は江戸初期の「四国遍路日記」の仁井田五社の後に田浦(田野浦)の塩浜作業の様子を書き留めています。澄禅が人々の生活の様を記すのは珍しいこと・・高級僧侶の感じ方に興味を覚えます。引用しておきましょう。
「田浦ト云浜ニ出タリ。・・爰ニテ塩焼海士ドモノ作業ヲ見ルニ、中々衾成躰ナリ。(嬉々として作業をしている様子をいう) 先男女ノワカチモ慥ナラス(男女の区別もわからない)女ドモガ小キ子ヲ脇ニハサミ来テ、件ノ児ヲ白砂ノ上ニ捨置テ、荷ヒ(担桶?)ト云物ニ潮ヲ汲テ、柄ノ長キ柄杓ニテ平砂ニ汲掛テ砂ヲ染タル有様、誠ニ浮世ヲ渡ル業ハ扱モ品多キ者哉ト弥思ヒシラレタリ。」
                                   (令和5年9月追記)       

竹島、もう四万十川が近い道。8年前、私の最初の遍路の時。納屋のような家から出てきたおばあさん。少し傷んだ梨を戴き、いろんなお話を
伺った終りに「おへんろさん、おひとりで たまりませんなー」と言われた言葉、想い出していました。その道傍、今はもう家もありませんでした。

 四万十川

10月に入ったというのに夏のような日。間崎に「おへんろさん 寄っていってー・・」の看板を掲げた小さな食堂があります。熱中症の始めのような眩暈がしてきていたので「氷水くださーい」と倒れ込みます。
氷水、凍ったイチジク・・これお接待。
「広島には会いたい人がいるんよー・・」 60台半ばには見えない若振りでふくよかな女主人。「ワタシはここにくる前は埼玉のT、その前はT・・」何と、私が住んでいたと同じ時期に同じ場所に。ちょっと奇跡のような符号に話が異常に弾みます。

間崎には、少々人を驚かせる案内板を見ます。
「室町時代、戦乱の京を逃れて土佐国幡多荘(中心は中村)に下向した、前の関白、一条教房が、この地の山を大文字山と称し、京を偲んで毎年大文字焼きを行っていた・・それは今も引き続がれている。」というような。

これから、昔の清水往還の一部であると言われる伊豆田坂を越えるつもりです。
この道が清水往還であったということについては、若干の疑問を感じないわけではありません。元禄の頃の地図には、間崎から海岸沿いで下ノ加江に行く道が往還の道として示されているということですし、ネット公開されている
天保国絵図(国立公文書館)を見ると、入野村で中村へ行く大道と別れた往還道は、田ノ口村、田ノ浦村、出口村、伊屋村(現在は双海と改称)、下田村(渡し)初崎村、(ここまで前記の二つ目のルート)立石村、布村、下野茅村、鍵懸村、久百村と、やはり海岸沿いの道となっています。
また、これは以前のこの日記にも引用したかと思いますが、澄禅が「イツタ坂トテ大坂在り、石ドモ落重タル上ニ大木倒テ横タワリシ間、下ヲ通上ヲ越テ苦痛シテ峠ニ至ル。」と書いています。台風の後の様子らしいとはいえ、相当な悪路であったようです。

往還であったかどうかは兎も角、江戸時代の殆どの遍路記に登場しますから、最短距離を選ぶ遍路が通った道であることは間違いありません。 
今は閉鎖されている国道の旧トンネルが出来たのが、昭和34年。それまでは、昭和32年、痛ましい転落事故が起きたことでも知られる峠越えのバスが、細い曲がり曲がりを重ねた道を走っていました。(バス道のルートは今の25000地形図でも確認することができます。) 
昔からの伊豆田坂は、少なくともこの半世紀の間、忘れられた道であったのでしょう。

私は、2010年4月、逆打ち方向で強引に尾根を登り、峠の茶屋跡に達しています。(3巡目第4回その5の日記参照) 
その数ケ月後、東京のMさんをリーダとする4人の方が(3人の方は私も存じあげている方です。)草や竹を切り、標示を整備され、迷わず通れる道となりました。
伊豆田峠に通じる旧国道を行くと「この道、通ったことあるん・・えらいのー」軽トラのおばさんから声。 
無線鉄塔のある葛篭山(つづらやま)への1車線車道から右の山道に入ります。
荒れた急坂。枯竹、浮石で歩き難い。やがて2基の大師像。その先すぐが峠の茶屋跡。
「四国遍礼名所図会」には「いつた坂大坂也 甚だけハしく、峠ニて休足、右手に金剛水右手ニ有、人皆是をのみ悦ぶ、加持水也、坂九合ニ有、坂下る・・」とあります。
表記は曖昧な所もありますが、大師像の場所に水が湧いていたようです。 
二つの大師像、以前にも書きましたが、向って右が天保5年(1834)大師御遠忌一千年に立てられたものといいます。また、左の像は台座に享和元年(1801)の銘があります。2011年の暮以降、首が無くなっています。残念至極です。
峠には作州の人の名で「足摺え 七里二十町」刻まれた標石。茶屋の礎石と思われる石や陶器の欠片が散乱。
茶屋につては「名所図会」にも何らの記載が無いことから、明治以降の比較的後のある期間、開かれていたのではないかという気がします。
峠から尾根道に下る道筋は、前記のMさん達は随分左右に振って設定しています。私は、もう少し直登に近いルートが旧道であったような気がするのですが・・ 
尾根道も浮石、路肩の崩れなど歩き易い道とは言えません。
最後、尾根から右折して舗装道に下りるところだけは、十分な手が入り整備されています。舗装道からこの道を見れば、前回の私のように川に沿って直進することはなかったでしょう。(あっ、誰かに怒られそうなので・・、枯竹、浮石、いくらかは片ずけたこと、追記しときます。)

伊豆田峠の大師像(左側の大師像の首があった頃)

 峠の標石


峠からの下り道

 舗装道への出口

旧国道を下った所は、三原への道の始まり、「三原分岐」と呼ばれる場所。
右へ行けば三原を経て延光寺への道。真念庵もすぐ傍ですが、ちょっと理由があって今日は寄りません。
少し時間を消費し過ぎました。下ノ加江の今日の宿に急ぎます。
宿の主人は、けっこう独特で評判の分かれる方。「伊豆田峠、あの道は地元じゃ整備しとらん。あんな道を通るもんじゃない・・」と叱責。私のような山道好きには厳しい言葉ですが、遍路道とその整備のあり方について、考えさせられる言葉であると受け取らせていただきましたよ・・

入野付近の地図 田野浦付近の地図 実崎付近の地図 津蔵渕付近の地図
 市野瀬付近の地図を追加しておきます。

                                                (10月1日)



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