吉野川の高地蔵を巡る(その3)

藍商の館とその辺りの地蔵

吉野川の洪水の頻発地域の只中に広大な藍商の館が残されています。田中家(名西郡石井町藍畑高畑)と武知家(名西郡石井町高川原天神)です。
田中家は国重文に指定。案内板にはおよそ次のように記されています。
「田中家は寛永の頃(1624~1643)この地に入植して続いた藍商の家です。「すくも」や藍玉、青藍を製造、販売しました。
屋敷は藩制後期に青石(緑色片岩)と撫養石(砂岩)を使って高い石垣を築き土盛りをし2100㎡の敷地を造成しその上に主屋、藍寝床など11棟を建築した。昭和52年から56年までの四年間にわたり根本的な修理が行われ往時の姿をあらわしました。宅地建物ともに藍作が盛んであった時代の姿をほぼ完全に伝え、そのデザインがすぐれているうえに各建物には棟札があって建築年代が知られることであり、しかも一人の棟梁大工によって三十年かけて建設された点です。高い石垣や主屋の大屋根のよし葺や床を高くしてあるのは、たびたびの吉野川の洪水からまもるためです。
安政6年より明治20年までの各建築物がそろっている点で全体のバランスも考慮した美しさが見事で建築学的にも貴重で藍商の生活を知るうえにも興味深い建物といえましょう。」

現在は建物内部の見学は許可されていません。外部より敷地をぐるっと回って見せていただきます。近所の人の解説では主屋の葦葺の大屋根は洪水時には救命ボートになるようになっているとか・・
水が侵入しないよう隙間なく積まれた石垣の見事さ。大正元年九月の洪水はこの石垣をも越えたそうです。その痕跡も見られます。
緑の草原と点在する黄色の菜の花。その向こうに聳える藍蔵を見ると人の造り得た美しく偉大な造形を感じます。それはよいことも、そうでないこともすべてを包み込んで存在しているように思えました。


藍商の館


藍商の館


藍商の館


藍商の館


藍商の館


藍商の館


藍商の館

藍畑高畑の田中家の近くには二つの地蔵があります。

藍畑高畑西の地蔵(仮称) (建立:寛延3年 1750)
藍畑高畑東の地蔵(仮称) (建立:寛延3年 1750)
厳しくも優しい面差し。300年近くを経たとは思えぬ御身の美しさは、近在の方々の一方ならぬ心を感じさせられます。


藍畑高畑西の地蔵堂

 藍畑高畑西の地蔵


畑高畑西の地蔵

 藍畑高畑東の地蔵

 藍畑高畑東の地蔵

この近く、そして少し遠くまで、さらに高地蔵を巡ります。

加茂野の地蔵(仮称)(建立:寛政4年(1792)) 名西郡石井町高川原加茂野
 基壇、二段の墓石状台石、角柱台座・蓮台上の地蔵半跏像
 台座には「法界萬霊 寛政四壬子天三月二十四日 加茂野村女講中」と刻まれます。この地蔵もきれいです。
こうして多くの地蔵に出合ってみると、覆屋のない高不動の置かれた厳しい環境に思いを致さざるをえません。

 加茂野の地蔵

 地蔵の台座

桜間北の地蔵(建立:安政5年(1858) 大正5年修繕) 名西郡石井町高川原桜間
 基壇、二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上に笠を被った地蔵半跏像。台座高2.19m、全高3.27m。
 台座の銘刻は「三界萬霊」。この地蔵のお顔は確としません。しかし近づいてよくよく拝見すると微笑みを含んだ高貴さに出合えます。
 台石の前に横向きに二体の仏が置かれています。台座に「大正5年成田山」の字が見えるところからすると、大正5年の修繕時に置かれたものと思えます。ある資料によれば「不動明王と毘沙門天を脇侍として祀る地蔵三尊」と書かれていますが、私には「童子のような不動明王」はそうとしても、一方は毘沙門天には見えません。観音型のようです。(あるいは大日さまのようにも)
 供物が絶えることがない地蔵と聞きます。この時もお参りの婦人にお会いしました。基盤の周りは近在の人々の心をかんじるように花に埋め尽くされていました。

 桜間北の地蔵


桜間北の地蔵

 桜間北の地蔵

 不動明王 

 花に囲まれて

桜間北の地蔵への道は県道30号から南へ少し入ります。道傍に茅葺の家や古い墓があったりする静かな道です。
桜間という所、7世紀、武内宿祢の末、阿部真人広純が阿波国司として着任、真人の末裔田口氏が9世紀この地にに住み、桜間を名乗って阿波国を統治したと伝わる・・そんな地です。

住宅の敷地ともそうでないともつかぬところに立派な枝垂れ桜がありました。遊ぶ子供を見守る奥さんがいます。「もうちょっとで満開なんですがねー、明日くらいは・・」と。「いやー十分きれい ですよ・・」礼を言って帰る時「毎年見に来ておいでの方・・」と聞かれます。「いやー・・まあ・・」と曖昧にしておきました。



道傍の墓


 枝垂れ桜 



                  

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吉野川の高地蔵を巡る(その2)

                                                    


高地蔵地図(2)吉野川南辺(クリックすると大きくなります)

吉野川の南の高地蔵

吉野川を南へ越え、車の通行が多い堤防の道から外れると畑の畔を広げたような細い道に入ります。
思いがけず「鑓場古戦場跡」の石碑と案内板。
「勝瑞城主細川持隆は家臣三好義賢に討たれる。同じ持隆の家臣久米義弘(芝原城主)は主君の仇はたそうと天文22年(1553)兵をあげ義賢と戦った。これを「鑓場(やりば)の義戦」と呼ぶ。」ちょっとややこしいが言わば城主間の勢力争いといった様相。戦国時代はこの地にも・・

やがて、遠くからでも笠をかぶった特徴あるシルエットが見えてきます。

東黒田の地蔵(建立:文化8年 1811) 徳島市国府町東黒田宮ノ北
 4段の墓石状台石、六角柱台座、蓮台上に石笠を被った地蔵半跏像。台座高2.98m、全高4.19m いずれも吉野川流域の地蔵中第1位。
 台座の銘刻は「法界萬霊」。東黒田村講中と県内屈指の豪農、豪商長篠孫太郎の資力で建立されました。
 おまいりして振り仰げば、そのうつむいた姿勢と微笑みを含んだような清々しい表情に心深く慰められる思いです。
 「東黒田のうつむき地蔵さん」の愛称で地元の人々に親しまれているとともに吉野川流域の高地蔵中最も著名な地蔵と言えるでしょう。
 祀った人の願いは水没者の供養ですが、洪水で分りにくくなった土地境界の目印ともなったといいます。


東黒田の地蔵

 東黒田の地蔵

 東黒田の地蔵

 東黒田の地蔵

 東黒田の地蔵

吉野川の堤防の道に戻り、暫く右手に第十堰(第十は地名)を見ます。
第十堰設置の経緯はおよそ次のようであったと思われます。
「寛文12(1672)藩が実施した別宮川(後の新吉野川の旧名)の開削により、吉野川の水量が減り米が不作となります。それを解決するため、吉野川沿川の農家が主体となって別宮川の流頭第十に堰を建設する。これが第十堰の始まりですが、その後の増築・修築、管理も基本的に農家主体で行われます。藩は用水開発よりは藍作を重視したと言われます。(吉野川は阿波藩という一地方藩が管理するにはあまりの大河であったという評価も。)その後明治以降、「はじめに」でも触れたように洪水対策として、樋門を設置するなどして吉野川の付替えが行われ、第十堰も形と役割を変えて行くことになります。」

見渡すと、堰の前後で大きな水位差を生じており堰が有効に機能したであろうことが見て取れます。それが農民のみの手で為されたことは驚くべきことと言えましょう。


第十堰


第十堰付近(向いの河岸が樋門が設けられた辺り)

第十を過ぎると石井町の藍畑・高原地区、県道34号、県道30号の周囲の道に点在する多くの高地蔵を巡ります。そこはかつて洪水の頻発地域でもあります。

東覚円南の地蔵(建立:文政10年 1827) 名西郡石井町藍畑東覚円
 三段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の地蔵半跏像。台座高1.99m、全高2.81m。
 台座の銘刻は「三界萬霊」。かつて、洪水の常襲地域だった石井町藍畑に建ちます。後に雨除け屋根が設けられたためか長い歳月を経た今も、美しい石肌を保っています。しかし、六角石の下の台座には染みや痛みが目立ち、(そこが水位線であったのか)洪水の記憶を想わせているようです。

 東覚円南の地蔵


東覚円南の地蔵

 東覚円南の地蔵

近くの産神社境内に石井町有形文化財の「印石」があります。これは江戸時代末期に地域で水除け争い(堤を勝手に高くすること)が起こったとき、堤の高さの基準を定めるために建てられたものと言われます。洪水が当時の人々にとって死活問題であったことがうかがえる一事でもあります。

高畑の地蔵(初建:天保14年 1843 平成17年12月に再建) 名西郡石井町藍畑高畑
 石基壇、三段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の地蔵半跏像。台座高2.24m、全高3.09m。
 台座の銘刻は「延命尊」。交通量の多い県道34号沿いに置かれます。
 かつては両手が破損した痛ましい姿であったそうですが、平成17年地元小川家の人の発願と熱心な支援者の協力により再建されたと聞きました。(高畑の小川家はこの地の有力な藍商の一人で、藩政期、藍の品種・製法改良を行ったことで知られます。)
 上記の寸法は初建時のものですが、再建時にも形式等を含め、それを踏襲しているものと思われます。


県道34号に沿って

 高畑の地蔵

東高原南の地蔵(建立:慶応元年 1865) 名西郡石井町高原東高原
道に迷いに迷った末、この地蔵には行き着くことができませんでした。立派な地蔵だと聞いていました。残念です。

しかし、この辺りを動き廻っていての発見や出会いもありました。この石井町高原という田園、北を流れる吉野川(昔の江川)と飯尾川に囲まれた地で、それが洪水の頻発地域であったということが信じ難いほどの美しい地でした。低湿地のなかに微高地が形成されているようです。地名もそれを反映したものかもしれません。特に高原中島の新宮本宮両神社、三宝院の辺り。もし、その機会があり私の足が許してくれればもう一度歩いてみたいと思わせる所です。

(追記)「愛宕地蔵」(石井町藍畑西覚円734付近)について
石井町のこの付近で私が参ることができなかったもう一つの重要な地蔵(建立年代は下りますが)「愛宕地蔵」について追記しておきましょう。
「その1 はじめに (洪水のこと)」でも少々触れたことですが、明治21年7月の洪水により堤防が決壊、26名の死者を出す災害が発生します。それが(国の吉野川治水対策に対する住民の不満として)覚円騒動へと発展します。その後、死者供養のため建てられた高地蔵が「愛宕地蔵」です。
吉野川に架かる高瀬橋の南西200mほど、堤防を背に建つ地蔵。訪ねる機会のあることを切望するものです。(R1.8追記)


迷った末、少し南に道をとり思いもかけず出会ったのがこの地蔵でした。

高原池北の地蔵(仮称)  名西郡石井町高原池北
 二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上に石笠をかぶった地蔵半跏像。
 この地蔵、何度も水を被ったのでしょう。顔の表情も不明瞭なほどに。
 台座正面に彫られた銘文は「二世安楽」でしょうか。側面の建立年月なども読み取ることはできません。
 しかし、鮮やかな供花と台座に置かれた一つの蜜柑が近在の人の心を表すようでした。


高原池北の地蔵

 高原池北の地蔵

南島西の地蔵(建立:天保14年 1843) 名西郡石井町高川原南島
 コンクリート基壇、二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の地蔵半跏像。台座高2.46m、全高4.11m。全高は2番目の高さ。
 台座に「三界萬霊/天下泰平/五穀成就」と刻します。
 二ツ森神社を背に立っています。最下の基盤は、道路改修工事の際に壊れてしまったため、新しく作り直されたものといいます。
 毎年旧9月23日、近くの住職によって般若心経が唱えられます。近くの東禅寺に奉られている不動明王の縁日は28日。地元では、地蔵と不動明王は不仲で、どちらかの縁日には必ず雨が降ると伝えられていると言います。
 二ツ森神社は広い境内、開かれた感じの素晴らしい神社です。桜が二つ三つ・・地蔵の向かいに庚申塔形式の不動明王石像。


南島西の地蔵

 南島西の地蔵


南島西の地蔵


二ツ森神社

高川原の地蔵(建立:万延元年 1860)コンクリート造鞘堂  名西郡石井町高川原南島
 新設の石基壇、二段の墓石状台石、角柱台座・蓮台の上の地蔵半跏像。台座高2.43m、全高3.26m。
 この地蔵は飯尾川に架かる南島橋の北のたもとにあります。川船による輸送と主要道にも近いこの地は水陸交通の拠点でしたが、洪水の常襲地帯でもありました。安政4年(1857)7月29日、「八朔水」と呼ばれた大洪水がこの地を襲い、飯尾川の氾濫によって 田畑は冠水子供は溺れ死ぬという大惨事、その3年後万延元年にこの地蔵が建立されます。その後も洪水は続きますが、この地蔵が建てられてから犠牲者を見ることは無くなったと言い伝えられています。
 平成5年に行われた飯尾川の改修によって増水の危険も減少し、橋の新設によって露座だった地蔵もコンクリート鞘堂に安置されました。旧暦正月24日と夏の7月24日の縁日には、講中の人々によって熱心に祀られるといいます。

 高川原の地蔵

 高川原の地蔵



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吉野川の高地蔵を巡る(その1)

                                          

はじめに

(洪水のこと)
 江戸時代(藩制期)、万治2年(1659)から慶応2年(1866)の二百年の間、吉野川流域の阿波国内で約100回もの洪水が発生したと言われます。
江戸中後期までの大洪水として記録に見られるのは享保7年(1722)と享和元年(1801)です。享保年間の記録には「農民の家屋は殆どが掘立小屋で地盤に石を敷いた家は僅かしかない。大きさも二間四方あるいは二間×三間であった。厳しい年貢の取り立てと水害によって借家住いや流浪人になり下がる者が出た・・」などと記されます。
幕末になっても洪水は続き、天保14年(1843)7月の「七夕水」、嘉永2年(1849)の「酉の水」(阿呆水とも)、安政元年(1854)の大地震、安政4年(1857)の「八朔水」、慶応2年(1866)の「寅の水」などが記録に残ります。
これら洪水の原因は、阿波地域の集中豪雨によるもの、吉野川上流の土佐の豪雨が加わったもの(「土佐水」とか「阿房(呆)水」とかと呼ばれた)、地震による「液状化現象」など様々です。「酉の水」では「板東村では百間が破提、水位七尺・・」、「徳島川内町で破提33箇所、海水の侵入・・」「山川町で死者250名・・」、「八朔水」では「川内町で350戸が倒壊・・」などが記録の上。また中喜来の春日神社の敬諭碑には洪水時の生々しい記録が石上に残ります。
明治以降も洪水は頻発、3年、6年、9年、17年8月石井町で破提、79戸流失、18年、20年、21年西覚円で破提。21年には国、県による改修工事の失敗によるものとして住民が土木事務所を襲撃する事件が発生。明治44年「土佐水」と言われる洪水、死者21名、不明6、住宅全壊164戸など記録に見えます。大正元年の大洪水、「板野郡誌」は「水嵩田の面上一丈(3m)、湖水の浸水5尺(1.5m)、三日三晩屋根の上で水の引くのを待った・・」などと記します。
このように、拾ってきた吉野川洪水の記録は悲惨を極めるものですが、当然ながら藩、県、国による洪水対策も行われてきました。
しかし、藩制期においては各所に部分的で小規模な堤防が築かれただけで、極めて不十分なものであったと言われます。(それは、後にも触れますが、洪水によって運ばれてくる土が藍作に適したものであったということにも因があったとされています。)
明治に入り、オランダの技師デ・レーケの指導などもあり本格的な改修工事が開始されるのは明治40年にまで待つことになります。その工事の概要は①藩制期に造られた第十堰に樋門を設置することによる旧吉野川の付替え、②別宮川を改修して吉野川本流とする、③市場と川島に跨る善入寺を全島買収し遊水地化する、④江川の締め切り、というものでした。この第1期改修工事が完成するのは昭和2年。その後は、支川や派川流域や遊水地帯での内水被害として形を変えた水害と向き合うこととなり、その対策との競合が続いていると言われます。

(高地蔵のこと)
吉野川の下流域には多くの高地蔵が建てられています。(特に定めはありませんが、台座高1m以上または全高1.5m以上の地蔵を高地蔵と呼ぶことが多いようです。)その数は200基ほどと言われます。
高地蔵が建てられた時期は、寛保から明和に至る江戸中期(1740~1770)、享和から天保に至る江戸後期(1800~1840)、安政から慶応に至る幕末期(1850~1870)に集中しています。
洪水の頻発地域と高地蔵分布は正確に重なっています。それは、脆弱な堤防で防げない洪水から逃れたいという願い、洪水被害者の慰霊、そしてそれを叶える地蔵が洪水につかることがないという願い、と言えましょう。また、それは今後も起こるかもしれない水害に対する警鐘にもなりましょう。


旧吉野川

(阿波藍のこと)
かように吉野川は周辺の人々に対し多くの災害を引き起こしてきましたが、当然のことながらまた多くの恵みを齎してきました。むしろ、阿波北部は「吉野川の賜物」というほどの地でしょう。その恵みの一つとして、高地蔵を巡る旅の中できっと出会うであろう「阿波藍にかかわる様々なもの」があるでしょう。阿波藍について簡単に触れておきましょう。
タデ科の植物である藍の乾燥葉を発酵させて作られる天然藍染料が「すくも」と呼ばれます。その製造には1年近い時間を要します。藍は吉野川流域で栽培されてきました。稲刈り前の台風の時期に大洪水を起こすことの多い流域は稲作に適さず、台風の前に刈り取りが終わる藍作はこの地に適したものでした。そして洪水は肥沃な土を流入させ、藍の連作を可能にしたのです。(前にもちょっと触れたように、藩の洪水対策としての堤防構築が不十分なものとなった原因の一つはこのことにあり、事を複雑化しかつ悲劇的にしているのです。)
  (追記)この地の高地蔵を巡って気づくことですが、高地蔵の建立において藍商の貢献は大きなものがあるのです。やはり、事は単純ではなさそうです。

阿波藍の製造はすでに室町時代には行われていたと言われますが、その品質の良さに藩の保護政策も加わり、藩政期から明治にかけて飛躍的に増加し、1700年代には全国市場を支配するようになります。(宝暦13年(1763)細田周英「四国遍礼絵図」には下流で分岐した吉野川に挟まれた地に「アワノ中嶋縦三リヨコ一リ 玉アイ名物ナリ」と書き込まれています。(「玉アイ」とは当時の製法である「藍玉」のことか))
その繁栄は1800年代の終わりまで続きます。その後は合成藍の輸入により、阿波藍の生産量激減、現在は「その色の良さ」を貴ぶ「藍師」や関係者の努力により、その伝統が受け継がれているという状況と言われます。
また、藍繁栄時の藍商人の全国的な展開は阿波に様々なものを齎すことになったと言われます。そんなことの一つ、阿波踊りの改良に全国の踊りの要素が取り入れられたことは最近のNHKTV「ブラタモリ」でも紹介されたことですね。

(小さな旅)
私は吉野川流域に多くの高地蔵があることは以前から知ってはいましたが、八十八か所遍路の道すがら寄ることはありませんでした。高地蔵に出合える、一番霊山寺付近から直接徳島に行く道(遍路日記、平成28年春その1の追記参照)あるいは11番藤井寺から16番観音寺に向かう吉野川の南の道は古くから遍路道と呼ばれてはいましたが多くの遍路が通る主道となることはありませんでした。それはこの地が洪水の頻発地域と重なっていることと関係しているのかもしれません。高地蔵はそういう地に集中しています。
高地蔵を巡りたい。それを建てた人の心に近づきたい。と思い立ちました。
私はもう長い距離を歩くことはできなくなりました。移動の足の多くは車に頼らざるを得ませんでした。それは仕方ないか・・さあ、行ってきましょう。
(参考資料 「高地蔵探訪ガイドブック」(徳島県)他。)



高地蔵地図(1)旧吉野川周辺 (クリックすると大きくなります)

旧吉野川周辺の高地蔵

この吉野川の高地蔵を巡る旅の最初は遍路と同じように、第1番札所霊山寺からです。懐かしい境内、本堂前のベンチに暫く座っていました。門前一番の店は閑散。
「今年の遍路はちょっと出足が遅いようですねー・・」と女将さん。
霊山寺の参道とも見える2番札所への旧道を行きます。
右折すると地蔵堂横に光明真言塔などとともに真念石が置かれています。そこには不明瞭ながら「右いど寺のみち、左里やうぜん寺の○○」と。
真念石自体当初の位置から移動していると思えますから方向指示には従えませんが、とにかく霊山寺と反対方向の井戸寺への道を目指します。それは板東谷川に沿った雰囲気の良い道で、神社や寺が多くあることからひょっとしたら井戸寺への旧い道筋であるかもしれません。
旧吉野川を「ひのきばし」で渡ります。川は深い青。道角に地蔵堂が見えてきます。


1番霊山寺


霊山寺参道

 真念石


板東谷川


旧吉野川

乙瀬出来島の地蔵(建立:宝暦6年 1756)
大変美麗な地蔵で大切に扱かわれていることが感じられます。台座に念佛講中と。堂前の常夜灯は寛政12年(1800) 乙瀬村東講中と刻まれています。


出来島の地蔵堂

 出来島の地蔵

そこからおそらく井戸寺への道を外れ、細い道を東進。目指す最初の高地蔵です。

乙瀬中田の地蔵(建立:慶応4 1868) 板野郡藍住町乙瀬中田
 二段の墓石状台石、角柱台座・蓮台上の地蔵座像。台座高1.99m、全高3.04m
 台座の銘刻は「爲溺死亡霊菩提」。水没者の霊を慰めるために作られたことが記されています。
旧吉野川河畔に立つ地蔵。改修前は川幅が20mほどしかなく、ひとたび大雨が降れば止めどなく水が溢れ出し、たくさんの水没者を出したと言われます。
水深も今よりずっと深く、普段から水難事故が絶えなかった所であったとも。今は川幅が広げられ静かな川となっています。
この地蔵は、蓮台前部は破損、両手首も失った悲惨な姿です。何度となく水を潜ったであろうことを想います。


乙瀬中田の地蔵

 乙瀬中田の地蔵

ここから旧讃岐街道にある二つの高地蔵をたずねます。

東中富龍池の地蔵(建立:安政3 1856) 板野郡藍住町東中富龍池傍示
 石基壇、三段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の地蔵座像。台座高2.89m、全高3.82m、これは吉野川流域の地蔵中で 台座高2位 全高3位。台座の銘刻は「悲願金剛」
この地は旧吉野川・今切川河畔に近く昔「カクジの浜」と呼ばれ生産した藍玉の出荷や藍の栽培に欠かせない肥料の搬入を行う港として多いに賑わっていたところ。この地蔵は出入りする舟の標識として建てられたと言われます。
地蔵像としても実に立派なもので、板野十六地蔵の十六番札所ともなっています。(1番札所は吉野町西条 西光院)

 東中富龍池の地蔵

 東中富龍池の地蔵


東中富龍池の地蔵


東中富龍池の地蔵

東中富龍池から旧讃岐街道(現県道1号)を南へ500mほど。

東中富東の地蔵(仮称)(建立:宝暦7 1757)板野郡藍住町東中富東傍示
 石基壇、三段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の笠付き地蔵坐像。基壇高0.47m、全高2.83m。
 台座正面に「(梵字)奉造立地蔵尊」同斜前左面に「板野郡東中留邑念佛講中」と刻む。また同斜前右面に「從是 讃州金毘羅迄 十八里/從是 當國城下徳嶋迄 二里」と刻む讃岐街道の道標地蔵でもあるのです。
 隣に庚申塔があり、「奉建立庚申石像牛馬守護〇/宝暦七丁丑年七月七日 板野郡東中留邑講中」と刻まれます。
 交通量の多い県道1号線(ここは徳島自動車道、藍住ICの入り口でもあるのです)の傍で、そのひっきりない車の波に地蔵も庚申塔もとまどっているようでした。

 東中富東の地蔵
(突然、獲物を捕らえた烏が頭上を過ぎます・・)

 東中富東の地蔵


東中富東の地蔵

 台座の道しるべ

(以下 次回)

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