四国遍路の旅記録  三巡目 第8回 その4

旧遍路道、今回はパス・・一宮寺へ  (平成23年10月6日)

靴に古新聞をぎっしり詰めておいたので、ほぼ乾いていましたが、見ると底と本体の間がポッカリ口を開けているじゃないですか。可哀そうに老靴・・あと数日、どうにかもってくれよ・・

昨日お参りした国分寺のこと。少し書いておきましょう。
国分寺は言うまでもなく、天平13年、聖武天皇により国毎に開創された寺ですが、四国の四つの国では今もその名を継ぐ寺が残っていて、すべて札所になっています。その中ではこの讃岐の寺が、古の雰囲気を最もよく残しているだろうと言われます。
本堂の拝所の壁に、ご詠歌「くにをわけ のやまをしのぎ寺々に まゐれる人を助けましませ」が掲げられているのが目にとまります。寺名も詠み込まれたこの歌、五来重博士は「幼稚のようだが、なかなか味のある歌だ・・」と言っています。
地元の高齢の方からは「毎年春になると、へんろの鈴の音とご詠歌が、家の軒先を過ぎていったものだ・・」ということを良く聞きます。今は遍路が歌うご詠歌、とんと聞かぬように思いますが・・
納経所で、これから白峯寺の近くの宿まで行くという人に会います。そういえば、寺に来る道、県道33号をすごいスピードで歩いていた人。この日の朝は、70番近くからだという。50kを越えるでしょう。こういう歩きの超人、たまにいる・・

今日は、81番白峯寺、82番根香寺そして83番一宮寺まで行きます。
私にとっては3度目のお参りですので、札所や遍路道について、特に書き残しておくこともありません。例によって、昔の遍路道はどうだったんだろうか・・と思いながら辿ってみることにしましょう。
国分寺から白峯寺に行く昔の道は、現在の遍路道とは異なっています。
澄禅は「・・屏風ヲ立タル様成山坂ノ九折ヲ五六町上ル也。上リ上リテ渓水在、此水由緒在水也。水上ニ地蔵堂有り。夫ヨリ松原ヲ往テ白峰ニ至、是迄五十町也」
と書き、また真念は「・・これより白峰寺迄五十町、此間に坂有、国分坂といふ。十町ほとのぼる、谷川有。」と書いているその道です。
二人の記述に共通しているように、急坂を上った所に川があったようです。五十丁という距離は、今も寺近くに残る丁石と合致しています。
この坂道、今も「旧遍路道」と伝えられ、残っているようで、実は私も通ってみようと思っていましたが、体調、靴調ともに芳しくないので今回は諦めました。ルートは判っています。
神崎池の西側から墓地を経てジグザグの急坂を経て国分台に出る道です。(東海図版の遍路地図には載っています。)
国分台の自衛隊演習場の中に出る道なので、あまり勧められるものではないのですが、道中、何人かの地元の人から情報を得ることができました。
地元のハイカーや熱心な遍路もけっこう通る道のようで
「丁石仏もあるジグザグ道で、草も繁茂しているがちゃんと歩ける・・」
「草が枯れる冬場の方がいいよー・・」
「自衛隊がパンパン実弾撃ってるから、事故あっても知らないよー・・」などなど。


国分台、中央の窪んだ所を上るのが旧へんろ道

一本松からの眺望

自衛隊演習地内の丁石(35丁)

現在の遍路道の坂を上がり、一本松から県道に入ります。
県道に入って1.4k、自衛隊演習地のフェンスの傍を抜けるように遠慮勝ちな遍路道の標示。
演習地の中を0.5kほど歩きます。その道の傍に草に埋もれた35丁の丁石仏があります。この道が旧遍路道から繋がった道だと納得させられます。
その先、演習地のゲートの右に外に出る抜け道が設けられています。旧遍路道を通って白峯寺へ行く場合、覚えておくべきルートだと思われます。

なお、79番高照寺から83番一宮寺までは、札所番号順に行かず79番→81番白峯寺→82番根香寺→80番国分寺→83番と廻るルートがあります。白峯寺の境内にご陵がある崇徳上皇が最初に上陸されたとされる讃岐松山を通る由緒ある道とも思われ、上り坂も少なく、今回の私のように別格香西寺にゆかず、まして神谷神社に寄ったりする場合にはベターなルートであったように思われます。実際、このルートを歩く遍路にもお会いしました。

白峯寺から根香寺への道は、昨日の雨で水が溜まり、歩き難くなっていました。この道では、よくハイカーの団体にお会いします。今日も・・以前は小学生の一行にお会いしたっけ・・。

根香寺山門

一宮寺への道標

根香寺にお参りして、一宮寺に向います。
一宮寺に行く道、昔はどうだったのでしょうか。
澄禅は「・・当寺ヨリ東ノ浜ニ下テカウザイ(香西)ト云所ヨリ南ニ向テ往、大道ヲ横切テ南ノ端迄三里往テ一ノ宮ニ至ル。」とあり、ほぼ現在の香西寺を経由するルートを行ったことが判ります。
真念は「是より一宮迄二里半、しるし石有。○山口村(鬼無町山口)○飯田村、八まんの宮過てかうどう(香東)川。○小山村○成相村(成合町)。」(( )内は、現在の該当地名と思われるもの)とあり、現在の根香寺から一宮寺の遍路道に近いことがわかります。
昔から二つのルートがあったということでしょうか。それとも、澄禅はしばしば辿る独自のルートということでしょうか。
私は、過去2回、香西寺を経る道を歩いていますので、今回は直接一宮に至るルートを歩きます。
根香寺から鬼無に下る道は、五色台からの舗装道にバイパスする遍路道を挟み、溜池の周囲ではへんろ地図(第8版)には無いルートに遍路シールが貼られている箇所もありますが、まあ、問題ないでしょう。
鬼無の先、飯田町には個人が設けた立派な遍路接待所があります。根香寺でお会いした東京のご夫婦は、ここで1時間も足止めされたそうです。お蔭で、一宮寺の納経に間に合わなかったとか。ありがたいような、そうでもないような・・
一宮寺に早々に到着。お参りし近くの温泉でゆっくり休養、宿泊。こういう宿もいいものです。



屋島の坂を越え、八栗、志度へ  (平成23年10月7日)

今日は、83番一宮寺の近くの宿を発って、84番屋島寺、85番八栗寺そして86番志度寺まで参ります。
昨日に続き、長い歩きではありません。88番での3度目の結願の時間を調整するため、こういうことになるのです。
でも、高松市街の中心部を通る道は予想以上に疲れるものです。
様々な人から声を掛けていただきましたが、お接待はありません。私はその方がありがたいのですが・・ 
この度は高松駅近くに所用があったので、国道193号、11号を歩きましたが、昔からの遍路道は、真念が書いているように、村名が今も町名として残る、太田、伏石、松縄、夷、春日、潟元・・と、屋島までの最短距離を辿る道。
真念より前の澄禅は、この道を知ってか知らずか、干潮であったので、高松城の近くから、当時は海であった汀を歩いて屋島の麓に至っています。満潮の時は、南を廻るので倍の距離だとも書いています。

屋島寺への道

屋島寺

屋島より五剣山を望む

屋島寺への登り道は、アスファルト舗装や敷き石の立派な道で、近隣のおじさんやおばさんたちが「健康維持のために歩いとるけん・・」などと話しかけてきます。
遍路はもう相当疲れていますし、荷物もしょっていますから、「どうぞ、お先に・・」と譲ってゆっくり上ることにします。
屋島寺は観光客でいっぱい。それに水族館を子供達の団体も。
屋島の下りは、ちょっと考えられないほどの急坂。屋島ドライブウエイを渡る直前が、先の台風で崩壊していましたが、遍路道は応急復旧していて問題ありません。
八栗寺はちょっと変わったお寺です。境内の中央にどっかりと聖天堂が座っていますし、参道にも聖天さんの鳥居があります。
聖天堂に祀っている歓喜天という神様、そのお姿を語るのは、人前ではちょっと憚られるような・・それより、聖天さんは商売繁盛、縁結びといった現世利益の神様ですが、おまつりすると、生涯拝まないと逆に災いがあるというこわい神です。ご注意を・・
五来重博士は「四国遍路の寺」のなかで、八栗寺に聖天さんをまつり始めた以空上人は、元々淡島願人だったのではないかと言っています。淡島願人というのは病気平癒の祈願や死人を弔うため、子供や女性の身につけたものを預って弔い、それを海に流すのだそうです。
そのことを思い出して、淡島願人の恐ろしいような哀しいような後姿を聖天堂の陰に見たように思ったものでした。
八栗寺は、そんなことを思わせる異形の雰囲気を持っている寺のように思えます。
それから、八栗寺ではやはり寺の背後に聳える五剣山の五つの峰です。峰を剣と呼び寺側から見て左から一ノ剣、二ノ剣・・・五ノ剣。五ノ剣は、江戸時代に上部が崩壊して、遠くから見ると4本の剣に見えますが・・
八栗寺の奥の院ということになっていて、蔵王権現、弁財天、天照大神などがその剣先に祀られているそうです。
昔の遍路はお参り・・澄禅もどこまでかは分かりませんがお参りはしているようですが、あまりに危険なため、現在は行者や関係者を除いて入山禁止となっているようです。
寺の本堂の裏の中将坊の上はフェンスで閉じられ、入ることはできませんが、山屋さんたちが、五ノ剣の側から登山した記録をけっこう見掛けます。岩の攀じ登り、垂直で長大な鉄梯子、鎖の世界ですから、一般の人は真似をしてはなりませんぞ・・
私は五ノ剣の麓にあるという異形の神仏を見たく思い、山道を分け行ってみましたが、途中で道を失い断念しました。
八栗寺を下った所、右側の道標に従って右折すると、六万寺に行けます。
澄禅も記録している由緒あるお寺です。前のご住職が立派な方で、今は琴電房前駅前の愛染寺におられるかもしれない、お会いできれば幸い、と誰からか聞いたことがあります。
志度寺への道。県道145号を下ると「さぬきむれ」の駅の所で国道11号に合流するのですが、以前はもっと海岸寄りの道を、家の間を縫うように歩いて「しおや」の駅の所に出た記憶があります。へんろ地図(第8版)では、消えたへんろ道のようです。

志度寺山門

志度寺五重塔


志度寺本堂前、小さな山頭火句碑が見える

志度寺は立派なお寺です。
山門や本堂の古い重々しさ、昭和50年に建てられたという五重塔まで何処か古色を感じさせます。
藤原不比等の子、房前は生母が志度浦の海士であることを聞きこの地を訪れ、行基と共に本堂を再建した・・といったような事が本堂前の立札に書かれています。
この寺の山号が補陀落山であることなど思うと、海士との縁の深さを感じさせます。以前お参りした時、寺の高齢な女性から海亀のアクセサリーを頂戴したことも思い出されます。
境内に種田山頭火の小さな句碑が二つあります。
月の黒鯛ぴんぴんはねるよ」 「ここにおちつき草もゆる
納経所で聞くと、最近造られたものということですが・・
どういう訳か、ここから88番大窪寺にかけて山頭火の句碑が集中して置かれているのです。
明日また多くの句碑に会うことになるでしょう。

門前の宿に入ります。
旅館の食事は量が多く、私には食べきれません。
食事はお断りして、旅館の中にある飲み屋さんで、お酒とさしみ一ついただいて、向いのうどん屋さんでうどんを。うどん屋さんの若い主人、奥さんが楽しい人で・・こういう夕食もいいものですね。


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四国遍路の旅記録  三巡目 第8回 その3

遍路道に復帰、弥谷寺から善通寺まで  (平成23年10月4日)

71番弥谷寺の手前6kほどにある宿を出て、弥谷寺、別格18番海岸寺、72番曼荼羅寺、73番出釈迦寺、74番甲山寺そして75番善通寺まで行きます。
本山寺から弥谷寺への道は、協力会のへんろ地図(但し、私のは第8版)では国道11号となっていますが、実際の道のへんろシールは旧道に貼ってあります。車の少ない、いい道なのですが、宿の女将の話では「距離が長くなるので国道を歩く人の方が多いよう・・」とのこと。

弥谷寺では、すっかり有名になった俳句茶屋の前でも、本堂の前でも多くの遍路にお会いしました。オーストラリアの女性の方にも。
弥谷寺の周囲の岩壁の様子は、他の寺とは異なる独特の幽玄な雰囲気を醸し出しています。
澄禅もその様子を詳細に記述した上で、本堂横の岩壁について
「・・又一段上リテ石面ニ阿弥陀ノ三尊、脇ニ六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉り。九品ノ心持トナリ。・・山中石面ハ一ツモ残サズ仏像ヲ切付玉ヘリ。・・」と。
澄禅の時より360年を経て、風化は進み多くの仏の姿は朧になってきたでしょうが、今も本堂横の阿弥陀三尊の姿は明瞭であるし、その横の岩面の中に多くの仏が隠れておられるのを想像するに難くないのです。

弥谷寺参道


仁王門

 参道の観音菩薩(金剛挙菩薩)


弥谷寺本堂横の岩壁、多くの隠れた仏・・


弥谷寺本堂横の岩壁、阿弥陀三尊


(追記) 弥谷寺の大師堂、獅子之岩屋について

現在、弥谷寺大師堂の奥にある獅子之岩屋と呼ばれる場所は、大師との所縁の深さで江戸時代を通じて(あるいは、もっと以前から・・)寺の信仰の中心となっていたように思えます。しかし、江戸期から現在まで寺の伽藍、岩屋、仏像、石造物などの変化とともに、参拝者に伝えられる信仰意識の変遷が見られるように感じられます。江戸期の記録よりその概要を追ってみたいと思います。
まず澄禅「四国遍路日記」(承応2年(1653))の弥谷寺の項。直に岩屋の記述に入る。
「寺ハ南向、持仏堂ハ西向ニ厳ニ指カゝリタル所ヲ、広サ二間半奥ヘハ九尺、高サ人ノ頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固ニ切入テ、仏壇ハ一間奥ヘ四尺ニ是モ切入テ左右ニ五如来ヲ切玉ヘリ。中尊ハ大師ノ御影木像、左右ニ藤新太夫夫婦ヲ石像ニ切玉フ。・・・東南ノ二方ニシキイ・鴨居ヲ入テ戸ヲ立ル様ニシタリ。扨、寺ノ広サ庭ヨリ一段上リテ鐘楼在、又一段上リテ護摩堂在、是モ広サ九尺斗二間ニ岩切テ口ニハ戸ヲ仕合タリ。・・・又一段上リテ石面ニ阿弥陀ノ三尊、脇ニ六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉ヘリ、九品ノ心持トナリ。又一段上リテ本堂在、・・・本尊千手観音也。・・・」
次に寂本「四国偏礼霊場記」(元禄2年(1689))剣五山弥谷(やこく)寺千手院の項。
「本堂千手観音大師の御作、不動 毘沙門を脇士とせり、」と記した後「護摩の岩屋二間四方」、「高野道範阿闍梨の像」を記す。その後「聞持窟は九尺に二間余内のまはり岩面には五仏・虚空蔵・地蔵等切付られたり。又大師の御両親に擬らへ玉ふとて、弥陀・弥勒、石像に作り給いけるあり。今の人直に大師の御両親とぞ拝みけり。又大師の御影もあり、いにしえは木像にてありけるを石にて改め作り奉る。・・・本堂の左の磐石に弥陀三尊、六字の名号九くだり大師の御筆にあそばしたり。・・・」
寛政12年(1800)の「四国遍礼名所図会」。
本堂等の記述に続き「・・・護摩の窟、大師護摩御修行のごまだんあり、権現社、窟の上にあり・・・十王堂、ごまの窟より下り、観音堂、十王堂に隣る、本尊三十三の観音、奥院大師堂、茶堂の側より上る、求問持の窟、大師堂の後にあり、大師御父母の像あり・・・」また、仁王門より大師堂方面に至る道傍には、仁王門、祖谷坊、穴薬師堂、灌頂川、法雲橋、船石名号が図示・記述されています。
終わりに絵図として見事な金毘羅参詣名所図会(弘化4年(1847))の弥谷寺図を掲げておきます。この図では仁王門の後に二天門、丈六金仏などが加えられています。また、「求聞持厳窟」の解説として「四国偏礼霊場記」の記述がそのまま用いられています。


金毘羅参詣名所図会 弥谷寺(下部)


金毘羅参詣名所図会 弥谷寺(上部)
                                     (令和2年12月追記)

(追記) 天保15年弥谷寺絵図について

江戸時代およびそれ以降現在に至る弥谷寺の宗教スタンスの変化を見てきましたが、特にこの寺は古くより多様な要素を有しており、その変化は一挙に成った訳ではありません。江戸時代末の寺の姿は、上記の「金毘羅参詣名所図会」に示されています。奥の院(大師堂)以北本堂に至る様相は、これ以降現在を含め大きな変化は無いと見られますが、問題は山門から大師堂に至る箇所です。実はこの部分、上記の絵図には若干の誤り(あるいは脚色)があると思われます。そこで、新たに天保15年(1844)の中川法眼馬嶺画の弥谷寺全図(香川県立図書館デジタルライブラリー)をもとに大師堂までの寺域の様子を追ってみたいと思います。
絵図の寺参道に「是ヨリ本堂ヘ八丁」の書き込みがあり、その右側に「大門跡」の立札、左側に堂(今の八丁目大師堂の位置)が絵描かれます。現在もこの辺り「大門」、その南に「寺地」という小字が残ります。昔は寺域がここまで拡がっていたこと、そしてこの位置に大門(仁王門)があったと思われます。(大門は寛永年間に大破したという記録も残されているようです。)
その後に中門(元々多聞天、持国天を安置する二天門)が再建され、仁王像が安置されるようになって「仁王門」と呼ばれるようになったと思われます。(現在の仁王門) 
大門跡と仁王門との間には、遍照院、安養院、和光院、青木院、巧徳院、龍花院、右方の分岐道(曼荼羅寺への道と思われる。)の先に大師七才作穴薬師、薬師院と多くのお堂が見られます。これらのお堂は、修験者、高野聖、念仏僧の拠点であり、主に念仏信仰の広まりに貢献したと見られています。(現在は「俳句茶屋」が見られるのみ・・)
分岐道の先には初地菩薩。(曼荼羅寺道を経て弥谷寺へ人を導くため、そのスタートであり、現在の碑殿上池畔の大地蔵がこれに当り、終点(十地)が寺内の金剛挙菩薩である・・との説もある。因みに絵図の初地菩薩の横に「東入口初地菩薩 石像御長一丈六尺」とある。)
仁王門の先に船ハカ(船石名号)。法雲橋を越えて二天門、そして丈六金仏(金剛挙菩薩)。(このあと大師堂までの部分、今は赤く塗られた長い鉄階段となっています。)
以上、寺内大師堂までの諸元、あらましとします。


天保15年(1844)の中川法眼馬嶺画 弥谷寺全図  (クリックで拡大)

                                (令和4年6月追記)  
                            


弥谷寺から山道を通って、白方の海岸寺に参ります。
後ろから一人、私についてくる人がいます。見ると先ほど会ったオーストラリアの女性です。
「コレハマンダラジへユク道デハナイノデスカ・・」
曼荼羅寺へは一番下の石段を弥谷寺とは反対に行くのだと説明すると、
「オーザンネン・・」と戻って行きます。
この白方へのルートは、澄禅は「・・峠ヨリ真下ニ岩クミノ谷ノ間ヲ下ル・・」と書き、真念も「・・白方へかけぬれバ山越に行道有。・・」と書いているように昔からの道なのです。
先日の台風で荒れているのでは・・と心配しましたが、それほどのことはなく、比較的楽に下れます。ただ、元々谷に沿った道ですから雨の日は止めた方がいいでしょう。
峠の三十三番から始まる西国三十三観音仏を辿りながらの下りです。余談ながら、この石仏とても見事な彫りだと思わせられます。
途中、1箇所、倒木が道を塞いでいますが、ここは山側を迂回するのが安全です。
十五番仏の場所に天霧八王山奥の院があります。
やがて砂防ダム。ダム堤の上(ほんとは上がってはいけませんが・・)から見る白方の街、多度津の港、その向こうの瀬戸の海、粟島・・見事な風景です。

白方へ下る道、峠

砂防ダムからの展望

海岸寺奥の院二重塔が見える

ここから下る道がない・・と慌てないこと。ダムの右手、草に覆われてはいますが、階段があります。階段が見えるよう少々草刈りをしておきました。
海岸寺奥の院の二重塔(多宝塔ではない、珍しい二重塔なのです)が遠くからよく見えます。
別格18番札所の海岸寺と奥の院は少し離れた所にあり、大師堂が奥の院にあるという変わった形式。それと奥の院の方がお堂が立派で広い境内を持っています。
どちらでも、「まあ、上にあがってお参りを・・」言われますが、私はこの度は別格霊場では納経はしないこにしているので「こちらで結構です・・」と遠慮します。
大師の母、玉依御前の屋敷跡と言われる仏母院にもお参りします。
正式名は八幡山三角寺仏母院。玉依御前がこの地の産土神、熊手八幡宮(今も仏母院の北、300mほどにあります。昔は白方八幡宮と呼ばれたとか)に祈り空海を出産したといわれます。山号はその由来。
京都、東寺の鎮守に八幡宮が存在するのもこれに係わるとか。まさに大師のルーツの地なのです。
県道217号を南にとり、曼荼羅寺に向います。72番曼荼羅寺にお参りし、73番出釈迦寺に。
おーそうそう、今年の春遍路以来、ちょっと凝っている標石のこと。今回は出釈迦寺から76番金倉寺にかけて、中務茂兵衛の添句標石について下調べしてきました。
でも、その目的なら別ですが、目も悪いことも手伝って、時間に追われる遍路の途中で標石を探すことの難しさを実感。見つかったものも、そうでなかったものもあります。結果だけは逐次書いておきましょう。
曼荼羅寺から出釈迦寺へ向う道、五差路の角にある標石はすぐ見つかります。これは、明治29年、151度目のもの。
探していたのはもう一つ、旧坂口屋の前にあるという、明治28年、140度目。これには「鶴多ちし あとへ往天徒(ゆきてつ)む若菜可那 吉備・津太嶋」の添句があるといいます。
茂兵衛標石には珍しい内容の句。自分の句ではなく、吉備・津太嶋が作者ということでしょうか。
坂口屋が改装工事を経たためか見付けることができませんでした。
出釈迦寺の納経所で、ついこの標石のことを聞くと、どうしてだか、若いお坊さん?は途端に不機嫌。
「寺の参道には標石は一切ありません・・」
実は奥の院捨身ヶ嶽禅定に参るため、荷物を預かってもらおうとしていたのですが、それを言いだす機会を失いました。
捨身ヶ嶽禅定は諦め、その代りといっては変ですが、東へ1kほどにある西行庵を見ておくことにしました。なかなか立派な庵でした。当然、当時のものが残っている訳はないのですが、地元の人の西行に対する親しみと尊敬を感じさせるものです。(主として歌の評価でしょうけれど・・)
西行庵といえば、奈良県吉野山の奥にもあった・・見に行ったことがあります。そこの庵よりづっと立派なものです。


出釈迦寺奥の院を望む

西行庵

西行庵辺りから見た弥谷山、天霧山、吉原大池

74番甲山寺に向います。
ここでまた茂兵衛標石。曼荼羅寺から甲山寺への遍路道は二つあり、県道48号を通らないと、この標石には出会えません。
ちょっと探しました。T字路の角、M自転車店の前です。明治44年、241度目。
添句「まよふ身を 教えて 通寿(す)法の道」。茂兵衛さんが最も好きであった句のようで、同句標石は他に4基あるといいます。
75番善通寺。本堂境内はがらんとしています。三度目のお参りになりますが、境内にお店が一軒もないのは初めてのこと。
五重塔に対面した佐伯祖廟や寺領の元の氏神という五社明神、大楠などもゆっくりと拝観してから宿坊に入りました。
宿坊では嬉しい出会いもありましたが、遍路の方ではないので、これは秘密、省略しておきましょう。

善通寺

善通寺


善通寺


 善通寺五重塔

善通寺本堂の屋根



雨の中、寄り道までして・・善通寺から国分寺へ  (平成23年10月5日)

善通寺、御影堂での朝のお勤め。以前に参加させてもらった時は、読経の声の背後で鳥の声が随分聞こえたように記憶していましたが、今朝は殆ど・・
そうなんだ、雨なんだ。御講話も「自然を恐れず、付き合っていこう・・」といった平易ないいお話でした。
カッパを着て、76番金倉寺に向います。
寺の門前、見ておきたい茂兵衛標石があります。
明治24年、121度目。「真如乃月 かゝや久や 法の道 冷善」の添句。
茂兵衛さんらしい句に思えますが、冷善というのは作者なのでしょうか。
もう一つ、明治35年、192度目。「煩悩の暗を破りて 介(け)ふ能月」とこれも月が出てくる標石があるということですが、見付けられませんでした。
(:追記: 私は、添句付きの茂兵衛標石について、ある研究者の方の資料に依って事前調べを行ったのですが、この明治35年、192度目の標石については、別の方から3番札所、金泉寺にあると指摘をうけました。調査資料の誤記(誤植か?)であったようです。)

その代りという訳ではありませんが、境内の大師堂横に、明治21年、100度目の標石がありました。この標石にも句のようなものが彫ってあるようですが判読できません。(下調べをせず、現地で古い標石の字を判読することは困難なことです。)
茂兵衛標石に添句が多くなるのは100度目以降ですから、もしこれもそうであれば初期のものということになります。
(:また追記です: この茂兵衛100度目の標石、ある人の調査によれば 「花の香やいと奥婦可支(おくふかき)法の道」の添句があるそうです。)
昨日、曼荼羅寺の境内では見たような記憶がありますが、寺の境内にある標石というのは、極めて少ないという気がします。中務茂兵衛は明治10年(この年までにすでに30回の遍路を行っていたと言われます。)この金倉寺で得度をしているのです。茂兵衛さんにとって特別の寺なのですね。

金倉寺山門

 門前の茂兵衛標石、「真如乃月・・」

大師堂横の茂兵衛標石

葛原正八幡の彼岸花

道隆寺山門

77番道隆寺への道。葛原正八幡神社の森陰の彼岸花、印象に残ります。
遍路道と併行して西に1k余り、金毘羅街道の一つ、多度津街道が走っています。実は雨でなければ通る積りでしたが、少しでも歩く距離を短縮するため止めにしました。でも、道隆寺にお参りした後、多度津街道の出発点、多度津の街だけは見ておきたく寄りました。
(多度津の町には親戚の家があります。日頃付き合いはないのですが、突然顔を出すのも・・。その首尾はここでは書かないことにします。)
古い街並が残ると聞く「本通り」を歩きます。確かに格子を顔にした土蔵造りの古い家が残っていますが、それらの間には新しい家が建っていて、街並としての統一性を欠いています。
街並保存地区にはならなかったよう・・旧いものを見に来る観光客や金毘羅街道の昔を追う人にとっては残念なことです。
「この辺が旧い街並が残っている所ですか・・」道を歩く人に聞きます。
「はい、そうやわ。この辺がそういう所やわ・・」 とちょっと済まなさそうに言います。
街に残る石燈籠には金毘羅と明和6年(1769)、天保9年(1838)の文字を見ましたが、鳥居のあるお社は金刀比羅宮でした。
私の母は、岡山県玉島(現倉敷市)の生まれですが、昭和の始め、子供の頃、玉島の港から船で多度津港に渡り、金毘羅参りをしたものだ・・とよく聞かされたものでした。
もうその頃は、多度津の街と金毘羅街道の賑わいは去っていたのでしょうが、そのいくらかかの余韻は残っていたのではないか・・ 想いを巡らすのみです。

(追記) 多度津街道の石造物
本文では素っ気なく書いちゃいましたが、多度津の街中を歩いたついでに、町内の金毘羅多度津街道に関わる主要な石造物について纏めて記しておきましょう。これは備忘のためでもあります。
港から桜川に沿って南下、対岸に須賀金毘羅神社を見て本通の旧い街並みに入ります。さらに南下、再び桜川に出合い、越して50mほど。右に金刀比羅宮に小社。その前に明和6年(1769)(写真)と天保9年(1838)の金毘羅灯籠が並びます。前者はこの辺りで見る最も古い年代。
桜川まで戻り川沿いの道を西へ150mほど。鶴橋の手前に嘉永元年(1848)の道標「右いやたに道/左古んひら道/右ふな八」(「ふな八」は船着場のこと)。橋を渡ったところに文化12年(1815)の金毘羅灯籠(周防岩国の人の寄進)。多度津街道を南下、200mほど。ここは金毘羅一の鳥居(寛政6年(1794)出雲松江の人の寄進)と天保11年(1828)の金毘羅灯籠一対(芸州広島の人の寄進)があった所(道路面に表記)。今は桃陵公園に移設されています。
街道をさらに南下、2kほど。三井に廿二丁と二十八丁の丁石が残されています。(いずれも周防岩国人寄進、個人宅保管)(三井は古代には南海道が通過していたところと言われます。)
街道を少し外れたところでは、仲ノ町、摩尼院西交差点に明治14年5月の道標「すく 金刀ひら道/右はしくら道/すく ふな八」があります。(「金刀ひら」の表記に注意)
こんなところです。

多度津の旧い街並

多度津の旧い街

多度津の旧い街

多度津の旧い街

明和6年の金毘羅燈籠


雨は降り止みません。丸亀の街を通り、78番郷照寺へ。そして坂出の街を通り79番高照院へ。ひたすら我慢の歩きです。
高照院の先から遍路道は綾川の畔を通りますが、私は国道11号で直進して、白峰の麓にある神谷神社に寄ります。
神谷(かんだに)神社は延喜式内の古社で、現存する本殿は鎌倉時代初期のもので、三間社流れ造りの古流を伝える日本最古の建築として国宝に指定されているのです。
以前から一度は見ておきたいと思っていたもの。
神谷の小さな集落の奥、森に入ったところに神社はありました。
実際に拝観すると、小さな何処にでもあるといった神社で、やや期待外れの感は拭えないし、雨が強く、まともな写真も撮れなかったのですが、人の気配もない白峰の森の中に潜む古社の雰囲気に浸ったものでした。

神谷神社

 神谷神社

 神谷神社、本殿


神谷神社、本殿


神谷神社

県道150号、国道11号で80番国分寺へ。寺の近くの宿に泊まります。
一日中雨の降り止まぬ日でした。


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四国遍路の旅記録  三巡目 第8回 その2

金毘羅街道(伊予・土佐街道)を行く  (平成23年10月2日)

「金毘羅さん」金毘羅大権現への信仰は、平安時代にまで遡ると言われますが、その拠点は江戸や大坂にも点在しており、この讃岐の金毘羅社が全国的な支配権を得るのは、江戸時代中期の宝暦3年(1753)、朝廷より「日本一社」の綸旨(ろんじ)を受けたことに始まるとされています。
これによって全国から参詣者が金毘羅を目指す、いわゆる「金毘羅参り」が始まるのです。
金毘羅参りに利用された主な道は、「高松街道」、「丸亀街道」、「多度津街道」、「阿波街道」、「伊予・土佐街道」の五つで、金毘羅五街道と通称されています。
私が歩いてみようと思い立ったのは、「伊予・土佐街道」の内、讃岐に入る国境の余木崎から金毘羅まで、35kmくらいでしょうか。できるだけ忠実に旧道(金毘羅街道)を辿るつもり。
昔の金毘羅街道の名残りである石燈籠、丁石、道標も多く残っているといいます。どれだけ見ることができるでしょうか。
街道の名前について一言。これまで書いてきたように、同じ道が「金毘羅街道」と「伊予・土佐街道」というように二つの名前を持っていますね。実際に歩いてみて道標を見ると、はたと判ることになるのですが、同じ道でも金毘羅に向う方を「金毘羅道」、逆方向を「いよ道」などと呼ぶ・・なかなか合理的な呼び方ですよね。

 余木崎を振り返る

さて、余木崎を出発です。
現在の鉄道は、県境の小さなトンネルをくぐりますが、歩き道は小さな切り通し。ほどなく箕浦(みのうら)の港に。
港近くの空き地で、中高年のおじさん、おばさんが掃除の最中。そうか、今日は日曜日の朝であったか・・石燈籠と丁石の在りかについて聞いてみます。(下調べでは、この辺りに七里丁石があると・・

「うーん、丁石は前には見たが、道拡げてこないなしんなったのー。燈籠はあっちの石垣の上にあるけど、ありゃーあたらしいものやろー・・」
港の石垣の上にやっと見付けた石燈籠、弘化四年(1847)、金毘羅大権現の文字も。目指す金毘羅燈籠です。

箕浦の港と金毘羅燈籠(弘化4年)

 豊浜町関谷の街

 関谷の石燈籠(明治12年)

古い家も残る関谷の街を抜けて、七福神社の境内。ここもお掃除大会。
「こんぴら燈籠?ワシは60年も住んどるけど、しらんなー・・おー○○ちゃんよーあんたの家にあるのはありゃなんじゃ・・」と埒があかない。
境内を探すと、自然石の石燈籠(慶応2年、1866)、札納(長方形の立石の中央に金毘羅さんのお札を納めたもの、明治38年)がありました。
その先の道、常夜燈、東組と彫られた彫られた石燈籠(明治12年)、金毘羅夜燈と彫られた寛政10年(1798)の石燈籠。


豊浜町和田浜の海岸

 道標(安政6年)と六里丁石

 姫浜の石燈籠(文政10年)

豊浜町の中心街に近い和田浜に「右こんぴら道・左琴弾山かはくち」の道標(安政6年、1859)。 ここは観音寺へ行く道の分岐点です。
この道標と並んで「こんぴら大門より六里」の丁石。「予州松山浮穴郡東方大内屋伊太郎」と施主の名もあります。予想通り伊予の人です。
姫浜には「金毘羅大権現・正八幡宮・いよ道・くわんおんじ道」と彫られた石燈籠(文政10年、1828)。並んで「右あハ道・左古んひら道」の道標。
豊浜の街を離れると、道は北から北東に進路を変え、ほぼ現在の国道377号に沿った道になります。(もちろん、国道377号の方が金毘羅街道を短絡して造られた道なのでしょうが・・)
鉄道を越えた所で一筋道を間違えました。
暫く行くと「うんへんじ道」の道標。軽トラのおじさんに聞きます。「雲辺寺行くなら、この道でいいんだ・・」、金毘羅街道に戻る道を教えてもらいます。

中姫の石燈籠(寛政8年)、札納、五里丁石


中姫の街路と道標(天保4年)

中姫の廃屋

 柏原の石燈籠(寛政元年)と札納

 柏原の石燈籠(寛政8年)と札納

大野原町大鞘に正八幡宮の石燈籠(寛政12年)と札納が並びます。そのすぐ先の中姫にも石燈籠(寛政8年、1796)、札納、それに「こんぴら大門より五里」の丁石の三つが並んでいます。丁石には「予州松山浮穴郡南方村有志」の文字。
中姫から柏原の住宅地内の細い道にも多くの道標(天保4年、1833など)石燈籠(明治17年、寛政元年、1789)、札納がみられます。
柏原の家の前の石燈籠に見る寛政元年の年号は私が見た中では最も古いもの。諸文献の示すところでも、おそらくこの街道最古の年号と思われます。こういうものは、金毘羅・伊予街道の成立を推定する有力な物証となるということです。
柏原には、さらにもう一組、石燈籠と札納のセットが並んでいます。これは寛政8年(1796)のもの。

 粟井の道標(安政4年)

観音寺市新田、教善寺前庭の四里丁石

山本町辻の石燈籠(明治41年)、札納(大正14年)

粟井には、道標「直こんぴら道・うんぺんじみち・まるがめみち」(安政4年、1857)があります。
そして観音寺市に入り新田の教善寺(真宗興正派、浄土真宗の一派ですが讃岐に多い派といいます)の前庭に「こんぴら大門より四里 いよ松山南方村・・」の丁石。
この辺り、67番大興寺から観音寺への遍路道が交錯する場所。中務茂兵衛の標石や遍路シールなども見られ妙に懐かしく感じられたりするのです。不思議なものです。ワシはやっぱり、どっちかと言うと遍路かのー。なお、茂兵衛の標石は、遍路道だけでなく「左いよ道」と金毘羅道まで標示しているのには、ちょっと驚き。
山本町辻には、石燈籠(文久3年、1863)、「かんおんじ道・いよみち・こんぴら・はしくら道」の道標(元治元年、1864)、自然石の石燈籠(明治41年)と丸箸と丸金のマークのある札納(大正14年)などがあります。丸箸は当然、箸蔵寺。この時代の丸金には金毘羅大権現はおられないはず・・ちょっと不可解な札納に思えます。

 遠くの神輿

 財田川畔の道標

ここから財田川を渡るまで、金毘羅道は今の国道377号とはかなり離れたところを通ります。
家々の間の曲がりくねった道。今が秋祭りの季節であることを想い起こさせます。遠くから近くから神輿(讃岐では「ちょうさ」と呼ぶらしいですね)の掛け声や太鼓やお囃子の音が響いてくるのです。
財田川の畔の静かな道で、おばあさんがにっこりと「ごくろうさまです・・きをつけてなー・・」
この道、遍路姿が通ること、殆どないでしょうに・・
今は長瀬橋が架っている所、昔は渡しがあったそうです。石に覆われて、水量の少ない今の川姿からはちょっと想像できませんが。
渡し場跡の近くに石燈籠、「左こんひら道 右はしく(ら?)道」とあります。ここより財田川に沿えば、砥石観音を経て箸蔵街道に繋がる道でもあります。
橋を渡ると家々もぐっと少なくなり、石燈籠なども見掛けなくなってきます。
山本町砂古に寛政11年(1799)の石燈籠一つ。


稲田と彼岸花、白い煙

稲田と彼岸花

川畔の金毘羅街道

伊与見峠の一里丁石

国道377号の傍を右に左に渡っていた金毘羅街道も、三ノ宮神社を過ぎる頃から次第に怪しくなってきます。辺りは黄金の稲田、彼岸花が深紅に混じります。田圃で焼く白い煙。
小川の畔の金毘羅街道。畑にいる人に聞きます。
「この先、草で埋まっとるんで、通らん方がええで・・」
やがて伊予見峠。
峠の頂上に「こんぴら大門より一里」の丁石(弘化4年、1847)。予州松山浮穴郡上埜村○○の字とともに、反面に松山城下湊町二丁目云々・・と現代的な町名も見えます。丁石自体、新しいものに見えます。あるいは復刻版か・・
峠を下って仲南町佐文の小さな道標「左いよみち・右○○」を過ぎると、金毘羅の入口「牛屋口」は直です。


牛屋口、寛政6年の鳥居


牛屋口の古家、ここで夢を・・


牛屋口の石燈籠、「土州」の字が見える

牛屋口には、土佐や伊与の人の寄進による鳥居や石燈籠が並んでいます。それらの多くに寛政6、7年の年号を見ます。
20年ほど前に建てられたという坂本龍馬像は、ここには何とも不釣り合いな感じですがね・・
昔は魚市や飲食店、宿屋まであったそうです。大正の終わり頃までは、石燈籠にも火が入っていたとか・・その名残りでしょうか、一角に茅葺屋根の古屋が残っています。
今は、この道を通って金毘羅に参る人は殆どいませんから、当然と言えばそうですが寂しさだけが居座っている。そんな牛屋口です。
ふと、金毘羅街道の途中、財田川の畔で声を掛けていただいたおばあさんのことを思い出していました。そうか、おばあさんは私を遍路じゃなくて、金毘羅参りの人と見ていただいたのかもしれない・・今夜はここでうまい魚と酒でもいただく夢を見て、明日は金毘羅さんにお参りすることにしましょう。
ここから樹林に囲まれた道を下れば、金刀比羅宮の参道100段のところに出ます。今夜は琴平の街に泊まります。


(追記)付録「江戸時代における讃岐の主要道の状況」

他の三つの国(県)とは異なり、讃岐国(香川県)の主要道はやや複雑な状況を呈しているように思えます。ここで整理しておきましょう。
藩政時代の主要な交通路の呼び方として、街道、往還道、大道、〇〇道、〇〇越などが用いられていたようですが、これらは必ずしも厳密な定義のもとでなされたものではなく、またその時代によっても異なり、慣用的な名付けが為されてきたものもあったようです。特に四国においては、幕末期以前に「街道」の名称で呼ばれた道は無かったとも言われます。
代表的な主要道を図に示します。
東の大坂越から西の箕浦を貫く背骨の如く、「中筋大道」とも呼ばれる讃岐国往還道が讃岐の基幹道となっています。この道は古代の南海道をベースとしたもので、東の阿波国でもまた西の伊予国でも「讃岐街道」と呼ばれる道に繋がっています。それに政治、商業の中心としての高松から東に伸びる長尾道、志度道、西に伸びる丸亀街道、南へ伸びる仏生山街道。
そして宗教的要としての金毘羅宮を中心とした5つの金毘羅街道(高松道、宇多津道、丸亀道、多度津道、伊予土佐街道、阿波街道、ただし宇多津道は途中で高松道に合流するため5道には含めない)。 これらの道が絡み合い讃岐の主要道を形成しているのです。
讃岐の四国八十八霊場はその多くが山中に存します。上記の主要道から分かれこれら山の寺への参詣道として遍路道が存在しています。


讃岐の主要道(クリックすると拡大します                 

                                (令和4年12月追記)

 



金毘羅から四国の道を通って本山寺へ  (平成23年10月3日)

朝、金毘羅さんにお参りして、昨日通った牛屋口から「四国の道」を辿って70番本山寺の先まで行きます。3日目にしてやっと本来の遍路道に戻ることになります。けっこう長い寄り道でした。

池の面の秋の空


朝日山、傾山を見て下る道

彼岸花の道

 讃岐二宮、大水上神社

牛屋口の先の「四国の道」は、山の中の道と集落の中の道が混在したような・・そう、四国の何処にでもあるような道で、村の生活中を歩かせていただいているような感覚を覚えます。いい道です。
やはり溜池が多い。池の面に映る秋の空には、時に溜息がもれるほどです。所々の彼岸花の紅にも・・
上麻を下る山の道からは、お椀を伏せたような二つの山、朝日山、傾山が見られます。
ほぼ1時間歩いた毎に神社があるのも嬉しいものです。高瀬町上麻の梅之神社、同じく上麻の麻部神社、高瀬町羽方の長峰神社、そして中間点の同じく羽方、大水上神社です。ただし、梅之神社だけはその参道の坂道がきつい、パスした方がよかったかも。
三豊市西森で一旦街に出て、学校の傍を通ります。ここから大水上神社までは、なだらかな山の道。この四国の道は「茶摘みのみち」というニックネームを持っているように、この辺りで茶畑を多く見た気もします。
大水上神社は、讃岐二宮、延喜式内社。鬱蒼とした常緑樹林に囲まれた立派な神社です。

瀬丸池への道


黄金の稲田

 溜池

 宮川の畔

大水上神社から本山寺までは、財田川の支流宮川に沿った部分の多い、どちらかというと街の道です。
宮川は蛍の棲息地だといいますが、川の砂の中に捨てられた空き缶が目立つのが難。
宮川の注ぐ瀬丸池畔は、著名な横帯紋銅鐸、銅剣の出土地で、説明板もあります。ただ、出土地は今ゴルフ場の中になっているんだって・・
高都神社の前の溜池をまわって、高松自動車道の下をくぐり、瀬丸池から流れ出た宮川の土手を歩けば、本山寺も直ぐ。遠くからでも五重塔の上層が見えます。


本山寺本堂、屋根が美しい

本山寺は広々とした境内の心落ち着く、いいお寺ですね。私の好きなお寺の一つです。
本堂も・・特にその屋根の形が・・八脚門の仁王門も立派で風格がありますね。
本山寺から歩いて5.5k、今日の宿に入ります。



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四国遍路の旅記録  三巡目 第8回 その1

三度目の結願を目指して


お堂と墓と彼岸花の畔(金毘羅街道で)

今年の春の区切りで70番本山寺まで歩いておりました。
ですから、今回は71番に向けて歩き始めれば「まとも」なのですが、そこは、また私の中の寄り道の虫が騒ぎだしておりました。
遍路道以外の「四国のみち」、それに加えて今回は金毘羅街道を歩いてみようと思い立ったのです。それは次の3つの道です。
1. 讃岐財田から「四国のみち」を通って、別格17番札所神野寺(満濃池)へ。そして金毘羅へ。
2. 愛媛県川之江から県境を越えて金毘羅街道(伊予・土佐街道)で金毘羅へ。
3. 金比羅から「四国のみち」を通って70番札所本山寺ヘ。
1.2.はいずれも終点が金毘羅ですから、一文字書きルートには成りえません。悩んで考えるほどの頭も持ち合わせませんから、えい面倒だ・・とこの順序で歩き、間は鉄道で移動することにしました。
そして3.のルートで本山寺に行ってからは、ほぼ通常の遍路道で88番札所大窪寺まで行き3度目の結願を果たす積りです。
実はその後、番外高越寺に参って、1番札所まで帰る計画も立てていたのですが、結果を先に言ってしまえば、体調が慢性的に優れない(単なる歳の所為かも・・)、途中で靴本体と靴底の間が裂けてしまい大きな穴が開いたこと、カメラの充電器を忘れて来たため写真が撮れなくなったこと・・など後ろ向きの条件が揃い踏みで、結局88番までとすることにしたのです。(同理由で後半日の写真枚数が激減しています。残念です。)

結願した後どうするか・・歩きの4巡目を始めるか、始められるか・・、それとも電車や車を主体にして所々歩くか、日記を纏めている今、自分の体と相談しながら考えているところです。さて、どうなりますことやら・・
                                            (平成23年10月1日~8日)



「四国の道」を通って満濃池へ  (平成23年10月1日)

讃岐財田駅(地名は「さいた」ですが駅名は「さいだ」と読むようです)。
今年の春は、この駅から67番大興寺、70番本山寺、68番神恵院、69番観音寺まで歩いたものです。小さな無人の駅ですがきれいに清掃されています。駅舎の横にあるタブの巨木も懐かしい・・
駅に着いたのは10時前。今日はここから満濃池(別格17番神野寺)を経て金比羅さん(琴平)まで歩きます。20k弱でしょうか。
満濃池までは「四国のみち」を辿ります。「四国のみち」はニックネームを持っていますが、それでは「満濃池とカリンのみち」。(カリンの道は満濃池を過ぎた所なので通りませんが・・)



財田川、この辺りは草に満ちています

まんのう町山脇辺り」の道


鷲尾神社

高原の道しるべ

高原の道

崩落した道

黄金の稲田

財田駅を出たところ、眼前に拡がる田園風景には、春の時感激したものですが、この秋もまたいいものです。
「四国のみち」は、舗装道から畦道のような細い道に入ったり、山道に入ったり・・その思いもよらぬ変化にあると思うのですが、この道もまたその通り。駅から家の軒の傍の細い道を抜けて、樹林の間の林道を上がり下がり、そして財田川を渡ります。
正面には常緑樹林とモミの大木もある鷲尾神社。そこからは高原の農場の道に。
牛と飼料と肥料と土の匂いが強烈に風に乗ってやってきます。
畑と草原の緑は日に輝いています。四国にはちょっと珍しいかもしれない、芳しい高原の道です。そういう中にある「四国の道」の道標は、いかにも頼もしく旅人を引率してくれます。
突然、先の道は崩落していました。先の台風の所為でしょう。
軽トラに乗った地元の人が「通れない、通れない・・」という風に手を振っています。でも、人一人くらいその端っこを通れば楽に渡れます。
黄金の稲田と彼岸花を見て、しおいりの駅に近い通りです。
「コンコンチキチ、コンチキチ・・」秋祭りの鐘太鼓の音が聞こえてきます。獅子舞いなのですね。黒装束の鐘太鼓隊、美しく着飾ったお囃子の子供達とともに軽トラに乗って、大きな家々をまわります。
しおいりからはすぐに満濃池。その前の満濃池自然公園への道も、最後の所で先の台風によって崩れていました。飛べば向こう岸に着きそうな感じも
したのですが、ここは自重・・


満濃池の入江、池は熊手の形、多くの入江があります。

満濃池の大師

満濃池、その堤防の上から・・

神野寺、そして池を見おろすお大師さんには2年半ぶりのお参り。
池の傍の堤防の上の神野神社御旅所の前にアイスクリン屋さんがいます。久しぶりに四国のアイスクリンをいただきましたよ。司馬遼太郎の「空海の風景」を旅する、としたNHKの取材番組。その中でもここのアイスクリン屋が出てきます。取材班は「アイスキャンディー屋」と言っていますが、きっと誤り。その頃から6、7年は経っていようが、同じアイスクリン屋さんかもしれません。つい、聞きそびれましたが・・
満濃池は湖ほどに広いのです。ここからは堤防が池に向かって膨らんでいる、その形を実感できます。821年、この池を修復した空海のこと。その技術のポイントは「アーチ型の堤防」と「余水吐き」にあるといいます。そして、その溜池修築の真の目的が、非農耕民を農耕化させて田畑に定着させるという、その時代の政治の正義を実現することにあったという、司馬の洞察。
この池の堤防の草の上に座ると、そんなことを思い浮かべてしまうのです。

追記「空海と満濃池のこと」
我々は、9世紀、都より派遣された空海が指揮し、善通寺周辺の水田拡張のため満濃池を修築した・・と信じてきたのではないでしょうか。しかし、近年の研究は、それとは若干異なるニュアンスを持った真実を明らかにしてきたようです。
そもそも、満濃池とその工事について空海の名が史誌に登場するのは、日本記略の弘仁12年(821)の項と云われます。この日本記略は11~12世紀の成立とされるもので、その信憑性について、現在の研究者は疑問を持っているといわれるもの。
池が出来ても、それを水田拡張に繋げるためには、水を前面平野に配る灌漑技術と治水技術が必要となるのは当然のことです。空海は本当に灌漑用水のための満濃池構築を指示したのでしょうか・・疑問が湧くと研究者は言うのです。この地方で条里制整備が開始されたのは7世紀末であったとされるものの、その進行の速度は緩やかで、治水対策が施された灌漑用水網が整備されるのは、空海の時代(9世紀)の800年の後江戸時代に入ってからと云われます。それに、地震や水害による池堤の大決壊が12世紀と江戸末の二度にわたって見まいます。(12世紀の決壊は江戸初期に修復されるまで放置されたと云われます。)さらに十年に一度という普請工事。これらは近在の住人に多大な負担を強いることになったのです。
(それは、空海と満濃池との繋がりを信じた真言宗信徒の心中に強いることになったとする指摘を生むことのにもなるのです。)
                                (令和5年8月追記)


神野寺から琴平への道は新しい遍路道。車の多い県道を辿る味気ない道ですが、金倉川沿いを歩くと、河畔の彼岸花が鮮やかでした。
琴平の街は、金毘羅さんではなく町の祭りの日で、神輿が出て賑わっていました。
ここから鉄道で木之江に移動、宿に入ります。

金倉川の畔、彼岸花

琴平の神輿



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