四国遍路の旅記録  二巡目 第6回 その3

平成21年3月15日     樹木の向こう、滝の音する奥の院


無人の国分駅に降りたのは、私一人。駅舎で遍路装束に着替え、9時30分出発。
国分寺の門前で一礼、しだいに勾配を増す坂道を登ります。
途中、手に何かの種を置いて鳥に与えている人に出会いました。
「ほー、よく馴れるものですね・・」毎週、この道をハイキングしているとのこと。白峯寺に行ったり、根香寺に行ったり。鳥の名前も聞きましたが、すぐ忘れました。鮮やかな色の鳥です。


白峰に向かう道から、国分町付近

白峰寺への道

標高380mまで山道を上ると、そこには県道が走っています。
一本松という場所。昔は大きな一本松があったのでしょう。
2kほど県道を通り、再び遍路道に入ります。一昨日から昨日にかけて雨だったためか、道には水が流れています。

81番白峰寺。山の寺だけあって何処となく山岳信仰の雰囲気が漂います。金倉寺同様、智証大師所縁の寺ですが、現在の宗派は真言宗です。同じ境内に崇徳上皇の御陵もあります。

白峰寺の大師像

来た道を戻り根香寺に向かいます。
根香寺まで5k、途中五色台で県道に出る他は、その殆どがアップダウンの激しい山道です。雨で泥濘んだ箇所も多く歩き難い道です。
白峯寺より300mほど行くと、下乗石(摩尼輪塔)があります。元応3年(1321)密教僧金剛仏子宗明の建立。上部の空・風・火輪は五輪塔形式、水・地輪は平板な卒塔形式。全国でも珍しいものだそう。向かって左の下乗石は天保7年(1836)高松藩が建てたもの。摩尼輪塔を保存するため覆屋を造り、建立の趣意を裏面に刻字しています。

その少し先、奉献毘沙門天と書かれた石灯篭があり、そこから足元の悪い石段を50m程下った所が白峯寺奥の院毘沙門窟です。薄暗い小さな岩窟の中に石に浮彫された毘沙門天が祀られています。覆い堂は最近建て替えられたようです。
辺りは鬱蒼とした樹木で近くに滝の水音が聞こえます。昔は行場があったのかもしれません。
こうやって、奥の院に拘ってお参りしたいと思うのは何故か。奥の院は現在の本寺の発祥の地であることが多いと聞くからです。
今より千年を超える昔、中国より伝わった仏教や道教の影響で、山は呪力獲得のための修行の場となる。深い山の洞窟に籠り、修行をして巡った古の行者。そこに小さなお堂ができる、それが今の奥の院の地。やがて人が集まり、寺は少し山を下った広い場所に移る・・。88札所の中にもこうして現在に繋がる寺が数多いであろうことに首肯させられるのです。

 摩尼輪塔(右)と下乗石

奥の院の入口

 奥の院毘沙門天石像


根来寺から白峯寺の間の道には五十の丁石地蔵が置かれていますが、その39丁石の所、国分寺からの道が合流します。
丁石地蔵の隣には栗田修三96度目石(昭和11年)、扇子を持った手差しの道標が並びます。
34丁石の近く、大師が掘ったと伝える閼伽井の水。

坂道を上下して十九丁。丁石とともに寛政9年(1797)の石地蔵、遍路墓など多くの石造物。地蔵の台石には(見ることは困難ですが)「(右面)この方志ろミ祢道、(左面)祢古ろ道 藤和右衛門寶、(裏面)この方古くふ道」と刻まれているということ、道標でもあるのです。


39丁石、標石など

19丁、寛政9年の地蔵
 

五色台の県
道に出たところで、自転車の若者たちに会いました。この山の県道の上がり下がりを楽しんでいるようです。
小さなお店の唯一つのメニュー、おでんを若者たちと遍路、みんなで食べました。

82番根香寺。山号は青峯山、白峰に対して青峯なのです。ここも智証大師所縁の寺で、天台宗です。
山門から本堂の間の長い石段、鬱蒼とした杉に囲まれ山の中の寺の雰囲気いっぱいです。門前にある、伝説の怪獣牛鬼の像は、まるでバルタン星人で笑ってしまいます。

根香寺山門

82番根香寺

ここから山を下って、別格19番香西寺に向かいます。
杉林に囲まれていた道は、突然ポッカリと開けて、青い海が見えたりします。誰にも会わない、静かな道です。
1巡目の時は迷いに迷った道です。道しるべは以前よりは増えているようです。青い四国の道と書いたシールですけどね。それでも、やっぱり寺近くで別の道を行ってしまいました。
こういう人の多い場所で道に迷うのも悪いことじゃありません。道を聞くのにその地の人と話ができるのですから。

香西寺への道から

青い海

香西寺で

別格19番香西寺

香西寺。ここはボケ封じの観音さんの寺です。
菅笠を取って、頭を撫で撫でお参りしたものです。けっこう真剣ですからね。

お参りを済ませるともう午後3時をまわっています。次の一宮寺までは9k。5時の納経時間までは厳しい状況。
県道177号を通り、鬼無の駅の前を通り、あとは、最短ルートの香東川の河畔の道を急ぎました。
前回は、若いオランダ人の遍路に何度も会った道。人の良さそうな明るい笑顔を思い出します。この日は遍路には誰も会いません。

83番一宮寺。納経時間の5時には、滑り込みアウトでした。残念・・。
まだ、車遍路さんが何人か残っています。この寺の隣には大きな鳥居の田村神社があります。讃岐の国の一の宮です。今は一宮寺はお互い他人さまといった顔してますが、昔は神宮寺、ああ別当だった寺です。
因みに、他の四国の一の宮は、阿波が大麻比古神社、伊予が大三島の大山祇神社、土佐が土佐神社。そのうち88札所に入っているのは、ここと土佐(30番善楽寺)。

もう高松に近い。旅館などはありません。新しく出来た温泉施設があり素泊まりができます。ここに泊まりました。家族連れで賑わう温泉、たまにはこういうところもいいもんだ。

     本日の歩行:     44108歩
     地図上の距離:    30.5k



平成21年3月16日     稀有の釈迦涅槃像に会う


昨日は、時間が過ぎ、できなかった一宮寺での納経を済ませ、田圃の中の道を歩いて3.2k法然寺を訪ねました。

法然寺への道

寺名の如く、法然上人ゆかりの浄土宗の寺で、弘法大師との縁は深くはないにもかかわらず、古くより遍路も多く参拝したと言われています。
その理由、お参りしてみてわかったような気がします。感銘のお寺でした。
寺は仏生山を背にしてあります。正面の仁王門から山頂に向かって、二尊堂、鐘楼門、来迎堂と石段を辿るこの清々しい空間。
二尊堂の阿弥陀如来、釈迦如来に手を合せ過ぎます。鐘楼門には、歌人吉井勇の歌「この鐘のひびこうところ大いなるやはらぎの世の礎となれ」が鋳こまれた平和の鐘がかかるという。帝釈天の凛とした表情に魅かれます。そして山頂に近い来迎堂の雲に乗る金色輝く諸仏の姿にも。
仏生山山頂からは、高松の街、その向こうに特徴のある屋島の姿も見られます。
この寺の最も著名な釈迦涅槃像(通称寝釈迦)を三仏堂に拝観を乞うて参ります。遍路姿のためか、拝観料はお接待いただきました。
隣の本堂から聞こえるご住職のお勤め、南無阿弥陀仏の声を聞かせていただきながら、阿弥陀、釈迦、弥勒の三仏の前、涅槃の釈迦とそれを取り巻く五十二の彫像、私のような者でもこの有難い場に立ち会わせていただいたような、圧倒的な空間でした。その前に膝まづき思わず合掌しました。幾度も、長く、長く。
これほどの釈迦涅槃像に会えることは、稀有のことでしょう。(写真は撮れません)

法然寺鐘楼門

鐘楼門の帝釈天

来迎堂

来迎堂の世界

法然寺三仏堂

高松市街と屋島

興奮醒めやらぬなか、高松の郊外の道を春日川に沿って11kほど歩いて、屋島の麓に着きます。
池に面した小さな公園で昼食のパンを食い、屋島の登り道にかかります。
標高280mまで登る道ですが、これが全長舗装または石敷の道で、足に応えます。若い女性は、ひょいひょいと私を追い越してゆきます。
御加持水、食わずの梨という大師所縁の霊場を通ります。食わずの梨って、そう、修行旅の大師が梨を所望したが農夫が断ったため、それ以後食えない梨になった・・四国各地に品を変え残る伝説の一つですね。ケチはいけませんね。

84番屋島寺。寺の縁起では、唐の鑑真和尚(わじょう)が奈良に渡る途中この地に立ち寄り開いたということになっているそうです。
でも、和尚が立ち寄ったのは山の上ではなく、瀬戸内海に着き出た先端部分だったと考えられています。今は、屋島特有の平らな山の上の広い敷地にある立派な寺です。本堂は重要文化財でもあります。
精緻な彫り物と赤や黄色の鮮やかな彩色はどこか中国の寺を思わせるものがあります。鑑真和尚の縁でしょうか。
納経所では、労いの言葉とお菓子のお接待をいただきました。

「鑑真和尚と屋島寺」について
澄禅の「四国遍路日記」には次のように記されます。
「先ず当寺の開基、鑑真和尚也。和尚来朝の時此沖を通り玉ふが、此南に異気在とて此島に船を着け見玉て、何様寺院を建立可霊地とて当島北の峰に寺を立て、則南面山と号し玉ふ。是本朝律寺の最初也。其の後南都に赴き玉て参内也。扨、当寺に鑑真和尚所持の衣鉢を留め玉ふ。此鉢空に昇て沖を漕行船共に飛下て斎料を請う、舟人驚きて米穀を入時本山え飛還る。
此如する事度々なる故に真俗此山を崇敬する間、次第に繁昌して四十二坊迄在けるに、或時此鉢漁師の舟に飛び下る、舟人周章して魚類を此鉢に入る、其時此鉢微塵に破て舟ともに海底に沈む、今に此海を舞崎と云う。此山衰微して退転したり。其時の本堂の本尊釈迦の像今に在り。其後大師当山を再興し玉ふ時、北の峰は余り人里遠して還て化益成難とて、南の峰に引玉て嵯峨の天皇の勅願寺とし玉ふ。山号は元の如く南面山屋島寺千光院と号す。・・・」
訳のわからぬような不思議な話ではある。・・


84番屋島寺

屋島寺本堂

屋島寺本堂

屋島から八栗寺への山下りの遍路道は、距離は短いながら有数の難所です。
驚くほどの急坂なのです。体の小さい人は両手まで使って大きな段差をクリアしなくてはならない所があります。
1巡目のとき、この道をゴム草履でマシラの如く駆け抜けたオーストラリア人の遍路に会ったことを思い出しました。果たしてあれは人間だったのか・・。

屋島を降りたところは壇の浦、佐藤継信の墓、安徳天皇社、洲崎寺など源平屋島の戦いに因んだ旧跡が多くあります。洲崎寺には、あの道指南の真念のお墓も。
道は再び登り、標高230m五剣山の中腹、八栗寺に向かいます。
85番八栗寺の背後には、太古の溶岩塔でしょう、剣のような岩山が聳えています。剣は元々5本でしたが、江戸時代、地震で1本崩れて今は4本。
岩山は行場となっていて、昔は遍路もある程度入れたようですが、危険なので今は入山禁止です。仰ぎ見ると、剣の間に小さなお社のようなものが見えます。今でも行者さんはこっそり(?)登っているのでしょう。
25000地形図には剣の直近に山道が記してあります。納経所で尋ねて見ましたが、今は通れないでしょう、という返事。
この寺は入口に、歓喜天の鳥居があり、本堂(観音堂)より聖天堂の方にお参りが多いということです。聖天さんは、商売繁盛と縁結びの神さま。ご利益、ごりやく。

85番八栗寺

八栗寺を下る遍路

讃岐牟礼まで山を下り、本日の最後の寺、志度寺に向かいます。
6.5kの道です。牟礼付近のシールが示す道はへんろ地図にあるルートとは、大幅に違っています。国道11号をできるだけ避けるよう変更されたようです。注意です。
この道で20代と思われる若い遍路と同行しました。昨日まで徳島県を歩いていたという変な遍路。
この時期どっと多くの遍路が出発するためどの宿もいっぱいでした・・と言っています。それがひと月半くらい経つとこちらにやってくるのですね。
二人で話しながら歩くと足が進みます。あと3k弱と思われる地点で道を聞き、5時までは無理だろうと言われましたが、寺に着いたのは4時30分前でした。

86番志度寺。立派な山門に迎えられます。本堂とともに古いもので重要文化財です。古いものではありませんが、傾いた陽を背に影を落とす五重塔も印象に残りました。
お寺の老女から「あんた、あんた・・」と呼びとめられ、五円玉に光る糸を巻いた亀をいただきました。この寺の山号は補陀落山、海に面したお寺なのです。

86番志度寺山門

志度寺本堂

志度寺五重塔

志度の街は、古い家並を残しています。そんな見世蔵の一つが今日の宿でした。親切な女将さん。泊りは私一人でした。

     本日の歩行:     44610歩
     地図上の距離:    30.6k

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