四国遍路の旅記録 二巡目 目次

四国遍路の旅記録 2巡目の目次です。平成18年10月から平成21年3月まで6回に分け、88札所の他、
別格20札所やいくつかの番外霊場を含め回りました。全日数は55日です。
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なお、相当日時が経ちました。コメントは削除させていただきました。


 その1  その2  その3  その4 

 
 その1  その2  その3  その4  その5  その6   その7



 その1  その2  その3  その4 



 その1  その2  その3  その4  その5  その6  その7



 その1  その2  その3  その4  その5 



 その1  その2  その3  その4  

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四国遍路の旅記録 一巡目 目次

四国遍路の旅記録 1巡目の目次です。平成17年3月から平成18年5月まで4回に分け、主として88札所を回りました。
全日数は出発、帰還の日を含め51日です。
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(追記)多くのコメントありがとうございました。1巡目から相当時間が経ちましたので、削除させていただきました。(平成24年)



その1 その2 その3 その4 その5


 
その1
  その2  その3  その4  その5  その6   その7   その8   その9  その10    その11   その12 




 その1   その2   その3  




 その1   その2   その3   その4   その5   その6   その7   その8   

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四国遍路の旅記録  三巡目 第1回 その4

逆打ちの山道     (平成21年4月10日)

この日は、22番平等寺、21番大龍寺、20番鶴林寺と打って、別格3番慈眼寺近くの坂本の宿まで行きます。
ここだけの逆打ちですね。順打ちでは2回通った道が大半ですからクダクダ書くのは止めましょう。逆打ち特有のことだけ、いくつか記しておきましょう。

平等寺

大根峠の道、竹林

まず、順打ちのたくさんの遍路さんに会えること。
「ごくろうさーん、もうちょっとですよ・・」などと声を掛け合ってすれちがう道、楽しいものです。
宿の位置の関係で、遍路さんは5人10人と大体かたまってやってきます。
まず平等寺から4kほどの大根峠付近で出会うのは、大龍寺の下の宿の連中。次に、大龍寺の下り(順打ちでは上り)で出会うのは、鶴林寺の向こうの宿の連中。
そして、鶴林寺の上りでは19番立江寺門前宿の連中と出会う、といった按排です。
順打ちと逆打ちどっちが楽か?だって。
うーん、ここに限って言えば、やや逆打ちの方がきついかなー。
特に、大龍寺への上り、殆ど舗装の坂道、それと鶴林寺への延々と続く擬木の階段の上り、かなり応えます。
鶴林寺から下ってきた女性、「この道を上るんでなくてよかったー」と叫んでいました。
あーそうそう、それと逆打ちは遍路標識が見えないので、やっぱり迷います。
大根峠の山道に入るところ、うっかり見過ごして歩いていると、畑の中の人が手で矢印。
それと鶴林寺への上り口。間違った道をかなり上ったところで変だと気付く。軽トラで昼寝してるおじさん起こしちゃって聞く。
「こっちはゆきどまり・・、もどる、もどる・・」
もどって、こんどは親切なおばちゃんに聞いて正規の道へ。

大龍寺山門

大龍寺

大龍寺境内の杉


那賀川(大龍寺と鶴林寺の間)

鶴林寺山門

鶴林寺

大龍寺も鶴林寺もそれは立派なお寺。
納経はしないけれど、かえってじっくりとお参りできました。
鶴林寺からは横瀬に降りる道を通りました。ここも入口探すのに手間取りましたが。
この道、擬木の階段が殆ど無いので、滑るところもありますが、足には優しい道です。
7割ほど下ったところで上ってくる遍路に会いました。もう3時近い、
「今日はどこまで・・」「坂本に泊まって今朝、慈眼寺の穴禅定に行ったが待たされてこんな時間に・・」と、困った顔。
後で坂本の宿の女性に聞いた話だと、荷物を置いて穴禅定に行き昼過ぎには戻って出発した・・、大龍寺の先の宿に予約していた、ということ。
大龍寺に5時までに着くのは厳しかったでしょう。どうされたでしょうか。

横瀬付近、山の桜

坂本の宿は、今晩、地域の人の集会があり、食事は出ない。いや、休みというところ無理にお願いして素泊まりさせてもらったのです。
横瀬のスーパーで夕食を調達。
宿恒例のお迎え車、お願いしたかどうかだって・・。そんなこたー聞かんでおくんなせー。

その晩は、集会のちらし寿司などの差し入れがあり、結局2食分の夕食を前に、うれしくて困った遍路でした。



大川原高原を越えて     (平成21年4月11日)

今日は、別格3番慈眼寺にお参りした後、その道を進み、旭ケ丸の傍、大川原高原を越えて、神山町鬼籠野(おろの)へ、そして寄井の宿まで行く予定。
なぜ、こんな遍路道でもない道を歩く気になったのか。
これも、五来重博士の「四国遍路の寺」の影響があるのです。
博士はこの本の中で、空海が通ったであろう初期の辺路の道を次のように推定しています。
「讃岐から大窪寺を経て阿波に出ると、藤井寺から焼山寺山に登る。それから東に鬼籠野に下がって高鉾山の旭ケ丸(1019m)を越え、慈眼寺の洞窟に出る。ここから鶴林寺山へ、大龍寺山へ、さらに日和佐の海岸に出て室戸岬まで行く・・」
もちろん、空海が通ったであろう古い道が残っているものでもなく、現在通れるのは大半が舗装の林道です。
でも、この道の近くを1200年の時間の彼方、空海が歩いたのではなかろうか・・と思うだけでも何やら胸が騒ぐのを覚えます。

距離は、坂本→慈眼寺:3.3k、慈眼寺→鬼籠野:14.5k、鬼籠野→寄井:6k、全体で約24kとなります。

慈眼寺への遍路道は、里の道あり、山道あり、変化に富んだいい道です。
丁石の保存や水場の確保も図られ、地元の方々の遍路道保全への努力が偲ばれます。坂本や黄檗の山村の風景にも心癒されます。

黄檗の風景

慈眼寺への遍路道で

慈眼寺にお参りします。
穴禅定は、時間の関係で、はなから諦めています。
慈眼寺前の道(林道元山規地線)を大川原高原に向かいます。
道は1.5車線幅の舗装道。前方には、高鉾山、旭ケ丸といった1000m級の山ががっちり居座っています。
なるべく路肩の土の部分や道端の落ち葉が溜まった上を選んで歩きます。
道の傍の森は若葉で生き生きとしています。その中に、所々桜や山吹が顔を出しているのです。

若葉

山の桜

不動岩

狛犬岩

大川原高原の風車

大川原高原

不思議な格好の岩があちこち。枯雑草命名「不動岩」、「狛犬」などです。
突然、巨大で異様なものが姿を現します。けっこうな数の発電用風車です。
最近、海岸や山の上、至る所で見かけるようになったので、それほど驚かなくなりましたが・・。それに何と言っても自然エネルギー活用の尖兵ですからね。

五来博士が本に書いている、焼山寺山と大龍寺山と鶴林寺山が見通せる場所は、もう少し旭ケ丸に登ったところでしょう。
ここからは、大龍寺山、鶴林寺山は、見えますが、多くの山波の中の小さな突起としか見えないのです。
風車の周囲だけは、やたらに道路が立派で、公園の風情もします。風車の設置とともに最近整備されたのでしょう。
ここが峠。ここからは鬼籠野を目指して下ります。

鬼籠野への道

山の桜


鬼籠野付近を望む

峠からこちら側の林道は非舗装部分が混じる細い道です。
周囲の森も何となく精気がありません。新芽の吹き方が遅いためかもしれません。
そんな道で、作業に向かうと思われる軽トラの夫婦からお接待をいただきました。
「ここで、遍路さんに会えるとは思わなんだよ・・この道いい道でしょう・・」
合掌をいただいた上、労いの言葉とお金のお接待。

小原の集落の間を通り、やがて鬼籠野へ。
ここまでの所要時間を整理しておきましょう。坂本~慈眼寺:1時間30分、慈眼寺から鬼籠野:4時間40分。いずれも、お参り、休憩の時間を含みます。

鬼籠野からは、車の往来が多い国道438号で、道の駅「湯の里神山」に寄り、寄井の宿まで。
同宿は、大阪の車遍路のご夫婦と72歳の北海道からの歩きさん。
この北海道の方が役柄上の笠智衆を思わす雰囲気で愉快でした。今、どの辺かなー。お元気かな。

明日は12番焼山寺にお参りして逆打ちで、11番藤井寺、さらに10番以降もと考えておりましたが、ちょっと用事が発生したよう・・。
中途半端で変な阿波1国打ちとなってしまいました。
ここで今回の遍路を終わることにしました。
 


追記 「澄禅も歩いた・・佐那河内村の道について」

大川原高原を越えて鬼籠野まで来た所、ここで、その後実際に歩いた道順とは異なりますが、江戸初期、澄禅も歩いたという佐那河内村を通る道について追記しておくことにしましょう。
澄禅「四国遍路日記」には次のように記されます。
「・・多分ハ一宮ニ荷俵ヲ置テ、藤井・焼山ノ札ヲ納テ、焼山寺ヨリ一宮エ舨リテ田野ノ恩山寺エ往也。予ハ元来シ道ヘハ無益也ト、順道コソ修行ナレト思テ此谷道ヲ通也。此道ノ躰、細谷川ノ一筋流タルニ付テ往道ナレバ、此三里ノ間ニハ二三十度モワタラント覚タリ。・・」
ここで二三十度も渡ったとされる川は、現在の「鬼籠野谷川」「園瀬川」「嵯峨川」「仕出川」が該当すると思われます。
地図「府能付近」、「佐那河内村付近」を御覧ください。澄禅が歩いた道筋については、柴谷宗叔氏が現在の主要道(国道、県道)を主体に想定されたルートに倣い、地図上にも「澄禅道」と記入させていただきました。
さて、現在の佐那河内村は、その70%を山地が占め、主要道は主として園瀬川に沿った狭い谷の道を通り、徳島市八多町を経て小松島に通じています。しかし、近世の道の多くは川筋より尾根や峠を経ることが多いこと、また、残されて来た地蔵尊などの石造物の所在が人の多く通う道のバロメータともされることなどを考え併せ別の道を探ってみます。
地図には佐那河内村の主な峠と峠の石造物を記してみました。特に尾尻(おじり)峠に残されている墓(宝暦7年 1757)が六部などの宗教者のものではなく、淡路の人形師である点で貴重なものに思えます。(人形師は正月儀礼として毎年おこなわれる「三番叟(さんばそう)」などの箱回しを演ずる芸人。)
佐那河内村の古くからの生活道が園瀬川に沿った道とともに、「府能峠」→「蝮塚(はめずか)峠」→「野田のたお」→「馬越峠」→「地蔵のたお」→「尾尻峠」→八多、のルートに潜んでいたという期待を拭うことができないのです。他国者が通り過ぎる道から、文化が留まる道へと・・

 現在の「地蔵のたお」

                                   (令和4年11月追記)


 

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