四国遍路の旅日記  平成26年秋  その4ー2 

四国遍路の旅日記 平成26年秋 その4-1の続きです。(ブログ容量制限のため分割します。)

付録1 江戸時代の西五ヶ山奥地の自然と生活

江戸時代(藩政時代)石鎚山北斜面に源を発する加茂川流域の山村は、東から藤之石山村・千町山村・荒川山村・大保木山村・千足山村の五か村がありました。これらの一つ大保木山村は、前大保木山・黒瀬山・中奥山・西之川山・東之川山の各村よりなり、西五ヶ山と呼ばれました。
西條藩は藩の朱子学者日野暖太郎和煦(にこてる)(1785~1858)に地誌の作成を命じ、天保13年(1842)に「西條誌」を完成します。
日野が命を受けてから7年の間、村々や原野・山岳を自らの足で踏査し聞き取った事実をもとに編集したもので、上からの目線であることは止むを得ないこととは言え、江戸後期の人々の生活の一端を知るものとなっていると思われます。
「西條誌」については日記本文中にも若干引いたものですが、「西條誌稿本」全文がネット上に公開(愛媛大学図書館)されており、それに依って西五ヶ山奥地(中奥山、西之川山、東之川山)の自然と生活を辿ってみたい。それは日記本文中に若干示した事柄についての検証や補強あるいは修正にもなりうると思われます。
以下に上記三ヶ村に関わる「西條誌稿本」の私なりの要約を示します

 西條誌 十二巻

「中奥山」(新居郡・氷見組)
〇無畝高43石6斗 此実納  銀1貫972匁8分7厘(無畝とは実状伐畑(:焼畑)を示す。高はあるが年貢は銀納) 〇家數・168軒 〇人數・凡そ634人 〇鐡炮持・19人
〇枝在所 千野々(家数19軒)前田(35軒)細野(35軒)四手坂(5軒)今宮(20軒)
〇高橋 鴉ノ川(今は一括して加茂川)に架かる橋の紹介。「此橋、長二十二間・・両端大石を積重ね、大木の甚長きを梁とし、段々に組みて指出し大石を以これを押へ、板を張る、其形そりて、太皷橋と云ものゝ如し・・甲州路に聞たる、猿橋の模様に髣髴たり・・」などと記されます。
〇前田坂 千野々と東之川山の間の坂道の紹介。東之川山の項にも記されます。
〇よど 本郷と細野との間にある小名。(今も小字名「淀」として残っています。)その名について編者は「・・考え見るに、もしや古への餘戸なるべきやと疑う」と記す。「餘戸は、古へ二里以上四里までを小郡とす、家数百戸より百五十戸に至る、もし家数百六十に満れば、十戸を割て、別に一里を立て長一人を置く、是則餘戸也、」と解説し「・・此処、旧の餘戸の数減じたるものなるべし、今山人等、淀の字に書けるは、誤りなるかと疑ふ、」としています。
〇細野山に宿した時の状況、生活の様が伺えるものですので長文引用します。 「八月の末、細野山に宿するに、日の暮方より、太鼓を打ち、貝を吹き、或は人声を揚げて叫びよばわり、数十の兵卒攻め来るものの如く、甚だ騒動に聞こゆ。訝り間えば、伐畑(:焼畑のこと)という畠に、畑物、実を結ぶ頃より、凡そ四十余日の間、夜毎あの如くにし、暁に徹して守らざれば、一夜の内に猪喰いあらす。昼は猿より護り、夜は猪をおどす。これ山中の御年貢にて候と答う。その辛苦憐れむべし。」
〇ここより十数項目は土居、細野、今宮を経て常住(:今の成就)至る石鈇山(:石鎚山)参拝道に関わる事象が続きます。「せりわり」「王子の嶽」(細野王子)「一の鎖」「覗」(のぞき)「小口ノ坂」「垢離取川 」「四手坂」「目鼻石」「今宮」「名頭」「常住山」と続きます。遍路人としては大いに興味をそそられる事項ですが、本追記の趣旨には合わないので略します。ただ、今宮の項に描かれる祭日の踊りの様子を引いておきます。「山の風俗、中元(:陰暦の7月15日、日本では盂蘭盆会と習合)の踊りをたのしむ、唯中元のみならず、今度のごとく官吏来れば、其わざをなし、乞て観せしむ、山夫山婦、幾老人幾壮者、児童をまじえ、庭上に婆裟たり、其装ひ、女は紅の絹の細帯を垂れ、白き襪をはく、衣は縞もあり、紋付たるもあり、思ひ思ひに出立、男は菅笠を着なんどし、男女皆革履を鳴し、太皷を打ち歌を謡ひ、一唱一和、声に抑揚あり、手足の拍子甚だ揃ふ、実に山中の楽事、清處の佳興、夜半過る迄悦び見て、城市の雑戯に優れりと賞し、・・」そして唄われる歌の文句は「鎌倉の御所の御庭にうえたる松はからまつ 其まつの一の小枝に御所の御鷹が巣をかけた・・」などというもの。編者は「是等の歌、昔より此山中に傳わると云、此歌の文句に拠って考れば、乱世の武家落など云もの、此深山に潜匿せしか、此山夫山婦の中にも将士の末裔も有るべし、」と記しています。
「常住山」の項には、文化年間、小松領横峰寺並びに千足山村より訴訟があり、文政八年酉十二月の公裁により奥前神寺とは呼ばず常住山と称すべきこと、ただし別当は前神寺のままとする、と定められたことなどが記されます。
〇それに続いて「石仙菩薩のこと」「先達のこと」「撞鐘の由来のこと」「山門明け祭礼のこと」「神殿の建立年代のこと」と石鈇山神社に関する事項が詳細に記されます。
〇山頂前後の道についても細かく記される。「弥山への道程」「御塔への道」「一の阪、表白坂、ぜんじ、剣の禅定」「早鷹 大久保 夜明かし 天狗岳」「三所の鎖」「絶頂(山頂)の様」「水の禅定 来迎谷」「御塔の様」
〇石鈇山に関する過去の文献として以下が引かれています。「四国霊場記(:寂本「四国遍礼霊場記」)」「日本国現報善悪霊異記」「空海師(弘法)著述の三教指帰および聾皷指帰」「諸國採薬記」「伊豫國名所歌の内6首」
〇神祠 大元明神(千野々にあり) 片山権現(同) 籠明神(前田にあり) 天神(同) 河内八幡(中奥にあり) 荒神(同) 岡八幡(同上) 西宮明神(同) 嵳峩権現(同) 曽我明神(細野にあり) 妙見社(四手坂にあり)西宮明神(今宮にあり) その外猶小祠あり略す  以上十二祠神主 十亀若狭
(現在は大元神社(千野々) 古長河内神社(淀)は目につきます。他の神祠については私には?)
〇佛堂 地藏堂(千野々にあり) 地藏堂(四手坂にあり)
〇家に伝わる遺物の調査の内、「千野々の久左衛門の家は先祖の位牌とて、建久9年(640余年前)の年号と工藤丹波守の銘のある物を蔵す。屋敷内には丹波守の墓もある。工藤左衛門尉祐経の後と見ゆ。」(要約)と。
〇同じく、「細野の常兵衛の家は刀、脇差、槍を蔵す。常兵衛より十二代前へ曽我部三郎と云もの、土州より来り、此處に住す。細野三郎と名乗り田地を墾く、地名を細野と云は、これより始るとぞ。」(要約)と。
〇その他の家に伝わる遺物については略します。


「山小屋の図」 代官の領地巡検の場面でもあろうか。人々の生活の様子が垣間見える。

「西之川山」 (新居郡・氷見組)
〇無畝高10石8斗7升5合 此実納  銀638匁9分7厘 〇家數・55軒 〇人數・凡そ244人 〇鐡炮持・9人
〇枝在所 恵美須岳(家数7軒)野地(19軒)下谷(9軒) 名ごせ(10軒)
〇この村の生活について次のように記されます。「此山、村境、中奥山より東之川迄、東西南北一里程の間に水田一區もなし、故に米の乏き事、他の深山に倍せり、故にたまたま官吏来り、或は病人などある時は、三里十町の嶮路を踰いて、米を氷見村より買来る、屋敷五十五軒の内にて、農一色を業とする者、わずかに五六軒のみ也、其餘りは皆杣にて、木を伐り、板をひき、檜綱をなひ、冬は獣を取りなどして、世を渡る者多し、農業の家五六軒、粟・稗・芋・圓豆(:大豆のこと)・空豆の類を常の食とす、杣ハ、右等の雜穀を買ひ、米賤き歳は米をも買ひ、農業専一の者よりは却てよき物を食する也」と。このことは14、5町しか離れていない東之川でも全く同様であると。
〇村の貧しさ、「天保七八の凶荒に御救扶持を給る家、屋数五十五軒の内にて、二十一軒ありしと云う」と。
〇編者はこの村の人の風俗について「野樸」「淳厚」「古雅」「奇」「迂」(:うとい)「魯鈍」と表現します。また、「女も細き帯をしめ、頭包たる躰を見ては、男とも見粉わる、言語の内にも、分らざる事多し」とも記しています。
〇鉄砲持ちが9人いるが、獣を撃ったという話は殆ど聞かない。熊は滅多に出会うものではなく、それも遠所、あるいは松山領、土佐の國との境辺りとか。「渡世の助とも成ものにあらず」と記します。
〇鮎は、今宮の下までは来るがそれより上流には上ってこない。また、痩せ地であり粟の実入りも極めて悪いという。
〇神祠 大元明神(本郷にあり) 大宮明神(同上) 恵美須(恵美須の岳にあり) 以上三祠神主中奥山 十亀若狹 (現在は大元神社がある。)
〇地藏堂(本郷にあり)前大保木山 極樂寺持

「東之川山」 (新居郡・氷見組)
〇無畝高6石5斗 此実納  銀560匁3分8厘 〇家數・67軒 〇人數・凡そ315人 〇鐡炮持・9人
〇枝在所 土居(家数3軒)平(3軒)日浦(14軒)奥(12軒)岩ずし(14軒)新屋(3軒)かげ(同) 内野(同)
「家数67軒の内、農業一種の家一軒もなく、皆杣を兼ぬ」と記す。村の生活、風俗については西之川と同様であると。作物について楮(こうぞ)と茶がある(西之川も)と追記。
〇熊については「二十二三年前壱疋取れ、其後見も致さずと申す」と。
〇「溪流西之川は、源を石鈇山より発し、東之川は、瓶が森山を濫觴とす、西之川にて、二川合流し、小口に落、加茂川に至る」と記されます。編者は渓流の様子について「其景奇絶也」と表現しています。
〇「長さ十八間餘幅二間餘りに見える」「白糸の瀧」がある。源性公(:初代藩主松平頼純)の命名と伝えるが、地元では「御たる」、城市では「二ノ瀧」と呼ぶ。(この辺りでは瀧を「たる」、岳を「たき」と呼ぶ、「二のたき」とは今宮の向かいの山「二の岳」を指すことになると解説。)ちなみに、この瀧、現在は「おたるの滝」と呼ばれています。
〇この地方特有の風習として「西之川山、東之川山の邉にて、男女共に小さき革袋を帯、是は火打道具を入、木を伐るにも、畑を鑿すにも、随處に木葉枯枝等を集め、先ず火を焚て陰氣をはらひ、毒蟲を畏す為也」と記されます。
〇道について 「當所より里へ出るには、前田越へをしてゆく也、前田峰迄十二三町の間、阪也、前田峰より、下り坂二拾町餘あり、この坂を登るを厭いて、城市より観瀑の為に来る人、多くは細野通り、西之川山、東之川山とまわる」と記されます。
〇さらに道について 「當所より、中奥まで一里あり、荒川(:荒川山村)へ行には、菖蒲峠と云を踰(:越えて)、荒川迄は三里にて、菖蒲までは一里也」と記す。
〇瓶が森山への道と頂上の様子については、一段と細かく記されます。「當所より已午に當り(実際は南東)、五拾町餘登る」とある。3里先の土佐へ木を取りに行く道が通じており、頂上までは険路で、桟道(:切り立った山腹に沿って木材で棚のように張り出して設けた道)や楷子(:はしご)を通るところもある。頂上は「豁然として平野の如し、十町四方に近かるべし」と。(今は「氷見五千石原」と呼ばれる)それもただ平というのではなく変化に富んで、編者は「龍堆(:西域の旬奴の地名)もかくやありなん」と表現しています。(山の名の由来と言われる「瓶壺にある甌穴については触れられていません。)、石鈇藏王権現はもともとこの山の頂上に出現したと言われる所で「角力取塲」、「宮とこ」などの小名が残る(「宮とこ」は「宮所」の省略)と。
石鉄山との高さ比べについて面白い表現があるので引きます。「此の頂より望めば、石鈇山、申酉の位に秀づ、仰キ見るべし、瓶が森は、石鈇山より扇だけ低しといふ説あり、伯仲の間なるを言いたる贔屓の言葉也、石鈇の殊に挺然たるは、此頂より見あぐるにて知ルべし」と。
瓶が森への他の道としては、藤野石山の内の川久留巣よりの道があるが、頂上までは通じていない。しかして、最近、中腹で炭焼が始まり、荒川から菖蒲峠を経て山頂に通ずる道が開かれたことが記されています。
〇炭竈 「おたきがまと云所(菖蒲峠の先)に、竈数ケ所あり」と記した後、炭焼の工程について詳細に解説されます。編者の興味ある事項でもありましょうか。前項にも触れられた菖蒲峠を経て頂上に至る道については、桟道も多く含まれ、「竈は、木尽きればこゝを捨てかしこに轉じ、遷徙常なし、桟道は、四五年の内には必ず朽るといへば、数十年の後は、如何を期し難し」と記されます。
〇東之川山と、荒川山との境である菖蒲峯(峠)の位置等が記される。
〇神祠 河内八幡宮(本郷にあり) 天神(瀑の源にあり) 稲荷(同) 以上三祠神主中奥山 十亀若狹  (現在は高智八幡神社がある。稲荷も神社隣へ移る。)
〇観音堂(本郷にあり)  前大保木山 極楽寺持
〇家に伝わる遺物、言い伝えなどの調査。
「庄屋代 勘蔵  百姓 嘉藏  同 平兵衛 以上三人の家、天正年中(:16世紀末)土州より落来る、嘉藏の先祖ハ、土州大森引地の城主大森豊後守の家老にて、伊藤右京助儀春と云う、平兵衛の先祖も、同く豊後守の家老にて、寺川日出之左衛門正近と云う、勘藏の先祖は、伊藤次郎といふ士にて、皆天正年中土州より来りたりと云う、此三軒とも言傳へのみにて、火災に罹り、古記古物、一つも存するものなし」と。


白糸の滝下より見た風景


「おたき窯」炭焼き、「かけはし」が見える

                                                  (h30.9追記)(R2、4図追加)


付録2 「明治以降、石鎚山北麓の山村の状況」

付録1で「西條誌」により藩政時代の西五ヶ山奥地の自然と生活の一端を見てきましたが、石鎚山北麓の山村として東之川(旧大保木村東之川)を中心に、一部小松町石鎚(旧千足山村)を加えて明治以降の生活環境の動向をざっと見ておきましょう。
参考文献(一部引用)は (1)「愛媛の記憶」愛媛県史 地誌Ⅱ(昭和63年) (2)「石鎚山系の自然と人文」(石福保 昭和35年11月)。

(1)西条市東之川を中心に
東之川の戸数は、本文にも記したように天保期が67軒315人で、明治期を通して60~70軒を維持していました。それが昭和26,7年に30軒となり、それ以降急激に減少してゆくのです。(そして平成に入り2軒、やがて0軒と・・)
明治期における集落領域の土地利用の構成をみると、集落をとり囲んでハタケ(常畑)があり、その外側にヤマジ(焼畑)に利用される私有林があり、最外縁が官山となっていました。ハタケは連年耕作される耕地であり、主な栽培作物は冬作の大麦や裸麦、夏作のとうもろこし・大豆・甘藷・野菜などでした。
明治9年の土地の利用の状況をみると民有地17町のうち畑9町、茶畑5町となっています。一軒当たり1~2反程度自作地として耕作するのが通常でした。(注 1町:3000坪 9900㎡   1反:300坪 990㎡)    狭い耕地でこれだけの人口を養うにはヤマジ(焼畑耕作)で補充せざるを得ない状況でした。焼畑は明治初年には天然林が伐採され、そこが焼畑用地となっていましたが、大正年間からは杉の人工造林地の伐採跡が利用されるものが多くなります。杣稼ぎを副業とする者の多かった東之川では、人工造林の歴史は古く、すでに明治20年代から始まります。大正中期には、拡大造林はほぼ終わり、アサギ(天然広葉樹林)が焼畑用地に利用されたのは、大正七年ころが最後であった言われます。
焼畑で栽培する作物は、初年に稗、二年目に小豆、三年目に粟といったように年ごとに変えられました。焼畑の用地は自己所有の山林を対象に行われることもありましたが、山林地主の山を焼畑小作する者も多くありました。明治中期以降の焼畑は杉の造林地となったので、焼畑小作するものは、小作料のかわりに杉を植林することが義務となります。杉苗は通常火入れされた直後の焼畑に植え付けられたので、三年間焼畑耕作することが、杉苗を育成するうえに都合がよかったのです。また杉苗と同時に三椏を植え付ける焼畑も多くありました。三椏が東之川に導入されたのは明治30年頃で、明治末年にはその栽培が最盛期に達します。そして、昭和になって三椏栽培は衰退します。
水田皆無の東之川では、焼畑で栽培した稗・粟は住民の主食として重要でした。稗は麦と混ぜて、ひえ飯として、粟も同じく麦と混ぜて、あわ飯として、主食として消費されました。小豆は主として商品作物として栽培され、氷見方面に出荷され、そこで米と交換されたりしました。
東之川でみられた焼畑経営の方式は、加茂川流域の水田を欠く山間部の集落には、ほぼ共通するものでした。ただ東之川や西之川では、他の焼畑集落と異なり、夏作に稗が多く、とうもろこしがあまり作られていなかったことです。稗はとうもろこしに比して、古くから栽培されていた作物であり、加茂川最奥の東之川や西之川には、古い焼畑の形式が後まで残存していた証しと言われます。


この地はまた、昔より農業外に山作業に依存せざるを得ぬような土地柄の村でした。明治になってからも農閑の木挽稼ぎが盛んで、男は木挽、女は運搬に従事して暮らしをたててゆくものが多くありました。
それとともに、石鎚山系の峠を越えた土佐側への出作(移動耕作)も盛んでした。そこは吉野川の上流渓谷に沿った本川郷で、寺川を初めいくつかの部落が山の中腹にありました。
寺川郷談(宝暦元年(1751))に「凡是より西は予州松山御領西條並御蔵所に隣る四国第一の深山幽谷なり。昔は土佐にもあらず、伊予へもつかず、河水は悉く阿州に流るといえども阿波へも属せず、筒井、和田、伊東、山中、竹崎(大藪ともあり)の五党此郷を各分ちて司るとなく、昔野中氏智略を以て地方免許にして土佐へ付けられしと或人語りき」とあります。(本題とは離れますが、寺川を名乗る氏はありません。伊予に移ってからの名乗りと思われます。)寺川郷談にも記録が残っており、当時より伊予と土佐の人の相互交流は頻繁であったことが伺えます。明治中期には寺川白猪谷銅山が開発され、そこで精錬された粗銅は人肩でシラザ峠越しに西條に運ばれました。往路には鉱山用の飯米を荷って寺川へ、帰路には粗銅を背負って千野々へ向う人々が陸続と続いたといいます。これも伊予と土佐の人の交流を促した一つの要因でしょう。

文献(2)には、昭和30年当時西之川に在住していた寺川伝六翁(明治5年生)の聞き取りが収録されています。貴重なものと思われますので長文となりますが引用させていただきます。(同文献には山狩り装束の伝六翁の写真が掲載されています。「山衣」を着て銃を背に、腰には獲物を運ぶ「おいなわ」をさげた姿から、高齢ながらむしろ凛々しさを感じるもの。)
「翁は14,5の年にはもう一人前に扱われ、山焼きにも出かけるようになった。春から秋にかけて、家中総出で寺川山へ移るのである。寺川白猪谷で40町前後の土地を借り受けて山を開いてきたが、宅地を借り受けると5、60町歩の山林がただでついてきたという時代の話である。そこで年々2町歩近くの焼畑を開いては稗や小豆をつくっていった。作付期間は3、4年で、そのあと20年も休閉させるという、本格的な焼畑経営がここでは普遍的に行われていた。稗が移住地の自給食料となり、小豆は持って帰って金にかえた。東之川から10数戸、西之川からも18戸前後の出作者があって、その頃渓谷から立上る火入れの煙はかすみのように山々のいただきを包んだ。明治20年代は官林の監理もやかましくなかったから所有地の区画も厳密でなく、出作者の生活は林野を自由に駆使して営まれた。別の面からみれば、国有地の中にまで畑をひらかねば食べていけなかったのであるという。東之川や西之川の杉山では、火入れは夜分に行ってもよく焼けなかったのに、土佐では雑木山が多く昼日中から火入れをしたが、山々はよく燃えしきった。「火をつけるぞ。はうものははうてにげよ。とぶものはとんでいけ」そんな唄え言もあったのを翁は覚えている。出作がやんでからもう50年にもなる。良い地所が借り入れ難くなったり、小作料の取立がやかましくなって、人々は次第に引き揚げてゆくようになった。またその頃になると官山の取締も厳しくて、山仕事も自由には出来なくなっていった。翁はその後もニ、三の者を引き連れて山焼きを続けたが、白猪谷銅山が大正末期に休山すると、谷筋一帯を借り受けて新しい村づくりを思い立った。村の有志と語らって、土佐の長沢村当局へそのことを願い出たこともあった。これは四国の山々にもまだフロンティアがあった頃の、山の開拓者の生気あふれる着想である。昔を語る翁の姿には、山に生きる男のスピリットが満ちていて、その話をきく者に深い感銘を与える。」
出作を促した理由は、伊予側山村の耕地の狭少さと人口圧の高さによると言われますが、これは山村が銅山開発をすすめた結果過大な人口を収容したことから、銅山稼業の消長に応じて過剰人口が放出されるようになったとも考えられます。

昭和25年頃から林業がおもな生業になると、焼畑はそれに従属して行われる程度に過ぎなくなってゆきます。東之川の林業は、部落民の所有山林を含む地元山林を対象に、部落民自身の労力を手段として展開した民営林業で、造林、育林すべて彼等自身の手で行われるものでした。川辺までの木材の「中出し」まで部落民の仕事で戦後整備が進んだ索道も活用し繁忙をきわめていました。しかし、川流を利用した「木流し」以降は製材資本に属する「やまさき」に支配されていました。要は、村の林業は製材資本が山林経営を支配する機構のなかで成立しており、村民の主体的生産活動として展開する余地は残されていなかったのです。

交通の整備についてみておきましょう。
昔は東之川から氷見へ出るのに、千野々までは山道を、千野々からは大保木山を経て氷見に通じる駄馬道を利用していました。明治初期に木挽稼業に従事した部落の人々は、この道を利用して木材を氷見まで運んだといいます。川沿いの道が開けたのは昭和にはいってからで、県道西之川西條線が完成したのが昭和2年でした。大保木地区の中央部を加茂川が貫流していますから、橋梁の架設が完成するまでは自動車は入れませんでした。西之川までバスが入るようになったのが昭和27年、中型トラック道が東之川に延長されたのが昭和32年3月でした。そして石鎚山ロープウエイが開設されたのが昭和41年8月のこと。
後段は、人々の生活への係りというより石鎚山参拝や観光の観点より考えられることかもしれません。


加茂川流域集落の世帯数の変化 その1(北部)


加茂川流域集落の世帯数の変化 その2(南部)

(2)小松町石鎚
この地域は昭和26年以前は千足山村と呼ばれた所で、湯浪から横峰寺に上り、下って虎杖(いたどり)から黒川谷にそって常住に上る山岳地帯と、虎杖から分岐して加茂川に沿って高瀑渓谷に通ずる谷に散在する集落が含まれます。石鎚山参拝道という点から見れば、横峰寺を経由する道筋に当ります。今は地図上にも名を残さぬものを含め、昭和40年頃までは17の部落が存在していました。(北より、湯浪、途中ノ川、古坊、郷(横峰寺辺り)、槌ノ川、石貝、虎杖、黒河、有永、土居、谷ケ内中村、折掛、老ノ川、正路藪、大平、成藪そして戸石)



千足山村の集落(北部)


千足山村の集落(南部)

村全体の戸数は、明治21年219戸、1307人、昭和33年179戸、977人、現在は北側を除き限りなく0に近づきつつあります。
明治41年に戸数251に対し畑地567町、(1戸当たり2.7町)の記録がありますが、村落が置かれた地形からみても常畑ではなくその殆ど伐替畑即ち焼畑耕作地であったと考えられます。状況は先に見た東之川より更に厳しい部落も多かったと思われます。焼畑では、東之川と同様に稗、明治30年頃より三椏にとって変わられます。林野経営も東之川と同様、その主体的な展開は困難な状況でした。



ここで特筆すべき事項は、住友林業による大森山中腹の大森銅山に精錬用薪炭原木供給の経営でした。
明治38年頃から大正8年頃まで立木の伐採と炭焼がおこなわれました。30名近い製炭夫が鉱山会社直属の「親方」に率いられ稼人として働いたといわれます。大正8年頃には、高瀑渓谷沿いに製炭業者の集落種川が形成され、石鎚山山頂手前の八丁坂には木炭輸送の中継地も設けられます。伐採後の植林も明治42年より実施され、40~50人の植林夫を抱える大規模なもので大正9年まで続けられます。
銅山用製炭が止んでからは、住友保有林野は地元の製炭業者に提供され、昭和30年頃は老ノ川を中心に活況を呈したといわれます。
石鎚山北斜面の大樹林地帯は自然に形成されたように見えても、人々の生活の舞台として役立てられ、またその成果として守られたきたという歴史に気付かされずにはおれません。

この地方では林野の農業的利用にしか生きる道はないと思われ、昭和30年代より多角的な農林経営の試みが為されてきました。例えば、林野経営の多角化としての羊、山羊の飼育、こんにゃく栽培、あるいはりんご栽培、共同購入組合の設置、自家発電所の設置、営農資材や収穫物運搬のための共同施設としての索道や木馬道の設置などでした。これらの動きの悩みは、小さなそれぞれの部落での動きが孤立していたということでした。これが一つの地域の中で結ばれることにより、地域全体の発展を齎すことが期待されていました。それは行政の力に委ねられることもまた多いと思われます。
昭和40年代以降の地方行政はその方向を示すことはなかったのでしょうか・・ 今やこの地方の多くの部落は消えてしまいました。この事実と歴史を我々はどう受け止めればよいのでしょうか。

(付録2のあとがきに代えて)
私は四国遍路の旅で遍路道とその近くの道を歩きながら、心躍るような感動とともに幾つかの山峡で心痛める状景を見てきました。「限界集落」、「消滅集落」のことです。
昭和30年代後半より始まった高度成長政策とその延長はこの国に何を齎したのでしょうか。それはよいこともそうでないことも・・あるいはそれは必然であったのか・・
その時代我々年代の多くの者が懸命に働きそれに加担してきた、そのことに後ろめたさを感じながら思い返しています。
これからの日本をどんな国にしてゆくのか・・考えてみなくてはならないことだと思います。


                          (令和2年4月 改追記)

付録3 「宮本常一の山村文化振興への提言」について

宮本常一の「山村の地域文化保存について」と題する論考があります。これは昭和50・51年度山村文化振興査の結言とされるもの。
過疎に臨んだ山村の問題を解決するに、極めて有効で示唆に富んだ提言と思われますので紹介させていただきます。

まず「山村文化振興の根本問題は、そこの生活のたて方のほとんどが肉体労働になっている現状の中へ、どのように知識労働をとり入れてゆくか、また知識労働者の定住する余地を作っていくかという対策につきるといっても過言でないと思う。」と緒言される。
既に、当ブログ記事(付録2、付録3)でもみてきたように、山間に住む人々は、古くより農耕だけで生活をたてることは困難であり、農耕以外の職業を持ってきた。狩猟、杣、炭焼、荷物運搬、木地師、信仰のための登山支援、神楽や踊りなどなど地域によって多様である。
宮本らが調査を行った時点、それは日本全体が高度成長へと舵をきってからすでに十年余、上記の伝統文化の継承は困難となってきていた。それより更に4、50年、現在は新しい文化要素の付加が必須である地も多いと思われるが、細々であっても繋がれてきた地域性に根ざした伝統文化があればこの上ないこと。
先ず、宮本が指摘する山村文化振興への課題と期待について耳を傾けてみよう。(例によって私の早とちりや誤解が顔を覗かせると思うが・・)
「資源」(例えば、木地師における森林資源の枯渇といったこと・・) 「後継者」(高校へ通うため村を出た若者の内、その後村へ戻る者は殆どいない・・) 「女性の重要性」(家事労働の軽減による労働力は、企業の下請工場に吸収されるのが通例。女性たちがその住む土地にどのような夢を持たせるかを考えることがない山村は救われることはない・・とまで。それは子供たちをその土地に繋ぎとめる最大の力とも・・)「経済基盤」(戦後の農地改革は古くからの芸能文化を維持するための経済基盤を失わせた・・ 「需要と外部との繋がり」(神楽や信仰のための登山など外部の人頼りの需要は減少した。いかにして来訪者をつくるか・・観光バスを連ねてくる物見遊山の人ではなく、民宿を渡り歩くような熱心な来訪者。文化と呼びうるような内容・・ 「流通機構」(木地物や和紙など内容が立派でも流通機構の採算性が欠如していることが多い・・)
このように、山村文化振興の課題は、それぞれの山村で共通のものもあるが、異なるものも多い。息の長い地道な活動でなくてはならない。
そして、宮本は課題を解決に近づける方法と手段の例示として次のように語る。 ①そこにある自然をどのように教育とレクリエーションの場としていくかということ。 ②地区内外の人々との交流の場と設備をつくること。 ③山村生活の意味を考え、反省する機会と設備をつくること。 ④民俗芸能や民具の保持対策、伝統技術の生かされる場をつくること。 ⑤前2項を含め、山村民の教養機関をふやすこと。図書館、郷土館を始め婦人のための教養娯楽施設をつくること。 これらを総合して新しい山村の生き方を見いだしていくこと。・・・
過疎を含む、というより人口減少を前提とした山村の問題は、国や地方公共団体の政策、支援(投資支援を含む)問題として捉えて行くのが常套手段であろうが、よくよく考えてみれば、宮本が40年前に示した山村文化振興への提言が、あらゆる対策の前提として今も生きている問題であることを感ぜぬにはおれないのです。

更に注目すべきことを一つ加えておきたい。交通手段が比較的豊かな大都市近郊の山村を中心として、その地に移り住み、宮本が説くような山村文化振興の観点より活動し、ネットを活用して情報発信する人(中年女性が多いよう・・)を見るようになってきたこと。敬意を持って見守ってゆきたい。

(宮本常一の論考「昭和51、52年度 山村の地域文化保存について」 は「山と日本人」2013に収録)

                                (令和4年11月追記)

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