四国遍路の旅記録  平成24年秋  その5

雪蹊寺、種間寺、仁淀川清瀧寺まで

朝、種崎を7時50分に発つ県営フェリーに乗って、対岸の御畳瀬(みませ)(長浜渡船場)に渡ります。
このフェリー、人々の足になっていることがよく感じられます。多くの人が自転車やバイクで乗ってきます。
船のおじさんとバイクに跨ったままの若い女性が親しげに話をしています。歩き人は遍路一人。寂しげですね・・
やがて、浦戸大橋が、空の随分高い所に架っているのを眺めます。昨日、桂浜の近くまで行くといってた遍路。橋越えに閉口したことだろう・・
(追記)御畳瀬の旧道について
この種崎から御畳瀬への渡しは、江戸時代は今の長浜ではなく北の御畳瀬浦に着いていました。真念の「道指南」には 「・・是より渡し有、五十丁ほど海中、右にさしまといふ小島あり。〇みませ浦、片原町。なか浜村。」と記されます。ここに記された「さしま」(狭島)は昭和30年代終わりに海上交通の邪魔になると爆破され、島にあった風光明媚な厳島神社は御畳瀬の街の北側海岸に移設されました。旧道は御畳瀬の南の小峠(みませ坂)
を越えて長浜に向かっていました。今は切り開かれた道の南、長浜港近くにある徳右衛門標石(「是より雪蹊寺へ十一丁/文化五辰年」)は元は峠にあったと言われます。今の標石は地蔵堂の中心に祀られています。立派な仏像が彫られているためでしょうか、堂に祀られた徳右衛門標石は他にも見られるものです。
なお、この標石は、江戸期の文書の多くが次の札所を「高福寺」と記しますがここでは正式な寺名「雪蹊寺」が用いられていることの他、
・石の最初は読み「ア」の梵字の種子があてられることが多いが、ここでは「阿」と刻まれる、
・大師像ではなく地蔵菩薩像が刻まれている、
ことにより特異な徳右衛門石と言われます。(平成30年7月追記)


33番札所雪蹊寺。
「どちらかでお会いしましたっけ・・」の夫婦遍路。また、お会いしました。実は、今日行く35番までの全ての札所でお会いすることになるのですが・・
ご主人は無口で、奥様が盛んに話掛けてこられます。ご主人が、ちょっと不機嫌そうな顔をされるので、適当に切り上げさせてもらいました。
桂浜近くに行った遍路にもお会いしました。何もかもひどかったと苦情ばかり。

高知城下と春野を内陸水路で結ぶため、江戸時代初期に開削された「唐音の切抜」(現地名は唐戸)を通り、ここも切り下げられた「こばら坂」へ。
なかなか立派な薬師堂があります。
その先、山裾に沿って標石が多く残る道。まず、「三十四番 へんろ道」と刻まれた大正時代の石。その先に、二つ並んだ明治時代の石。よくは判読できませんが、一つには「橋迄十五丁」の字が見えます。この橋は新川川に架る橋を言うのでしょう。
真念「道指南」や「名所図会」に拠ると、江戸初期は徒渡り、後期には舟渡しとなっています。
T字路に、春には花に包まれていた、秋の初めには彼岸花が溢れていた、あの懐かしい地蔵が四体並ぶ小屋。
小屋の横には「種間寺迄二十丁 へんろみち」の道標も。


諸木の明治期の標石


諸木の地蔵と標石

 新川川を渡る

 種間寺

新川川を渡り山に沿って行き、34番札所種間寺へ。
種間寺の先の柿の実の下、茂兵衛160度目、明治32年の標石。その元に「右邊路道」と刻された石が横たわるのも変わらぬ。その横に小さな地蔵、丸石三段重ね、これは何だろう・・
ここから右の水路沿いの道が旧い道。後から来た夫婦遍路が不審な顔で私の方を見ています。
「まっすぐいってツカーサイ、ワタシはミチクサでがんすけー」と大声で。
お宅の花壇の中に「右へんろ道」安永2年(1773)の自然石の標石。右側面に「為二世安楽」と刻まれます。
その先の地蔵堂には、台座に「辺路道」と刻まれた地蔵があるらしいのですが、ビニールハウスの横の畦道の先で、諦めました。


森山下の茂兵衛標石(160度目)

 安永二年の標石「右へんろ道」

 
新川大師堂(堤防手前、文政6年標石)

新道に戻ったところに茂兵衛256度目、大正3年8月の標石。これは添句付です。
「旅うれし たた一筋に法の道 義教」 
他にも同様の句を刻んだ石がある、茂兵衛さん得意の句ですね。
新川には涼月橋という、明治30年頃建造の立派なめがね橋が異彩を放っています。
そこからすぐ、仁淀川の土手に新川大師堂。お堂の手前に文政6年と明治13年「従是種巻寺へ四十○ 従是清瀧寺へ五十○」の標石など三基。
昔の仁淀川の渡し場については、以前の日記に書いた覚えがありますのでここでは繰り返しません。
仁淀川の土手の道を歩きながら思いました。「この川は何と美しい川なんだろう・・」と。白鷺の姿、岸辺の木陰、白い川砂、薄の河原・・



仁淀川の河原


仁淀川の河原

仁淀川の畔

高岡の街中の道はいつも迷います。
どうにか行き着いた三島神社の前を通るのが、やはり正道でしょうか。門前に天保2年の「右清瀧寺道 大勝長兵衛孫」と刻まれた大きな標石がありますし・・
35番札所清瀧寺への道は、短いけれどけっこうきつい山道です。
立派な山門の天井の龍や本堂の極彩色の方位盤など・・そんな話も以前書いた気がしますので省略。
奥の院に行こうと裏山に入ると、そこには四国写し霊場が。いくつか参拝しましたが、どこが奥の院か分からなくなって戻ってしまいました。
境内のお堂の陰で潜んでいると、夫婦遍路の奥様に見つかって、またお話してしまいました。

 清瀧寺山門の龍


清瀧寺に上る、上ってこられるのは・・・

清瀧寺本堂

寺を下った所のうどん屋は休業。
コンビニでパンなど食って、また随分早目に高岡市街のビジネスホテルに入ってしまいました。

 種間寺付近の地図 高岡付近の地図を追加しておきます。
                                                (平成24年11月20日)


青龍寺を打ち戻り、区切り

須崎まで行って区切ろうかと思っておりましたが、ちょっと所用ができ今日中に帰宅することにしました。昼ごろのバスで宇佐を発ち、高知からは電車です。
ビジネスホテルですから、まだ暗いうちからこっそり抜け出します。
塚地峠に向う道。
県道39号の東側の山際の道が旧道。遍路はこの道を通るべし・・なのでしょうが、こんな早朝は止めといた方がいいでしょう。旧道沿いの家には大抵犬がいて、怪しげな人が通ると、とてつもない吠え声。まだ寝てる人まで起こしてしまいますから。
塚地峠の上り。
近年の補修とも思える立派な石畳の残る歩き易い道。道傍には多くの遍路墓が残ります。
峠付近には、これまた多くの標石。
峠の中央にある青龍寺を案内する手指しの彫られた石は「手やり石」として説明板までついています。
峠からは宇佐の街、宇佐大橋が霞んで見えます。

 塚地峠

峠を下った萩谷にある大石の磨崖仏。最初に見た時より相当判読し難くなっているように思えます。
初見では、岩面の一部にある稚拙とも見える線彫りの部分に、星座のような絵がいくつか見え、私は勝手に「妙見さんじゃー」などとのたもうたこともあったのですが、これはともかく、現在明確に確認できる像は修行大師像で、あと地蔵菩薩像などが彫られているというのが通説のようです。
さらに下った田畑の道(字「萩谷」)に「南無阿弥陀佛」と大きく書かれた安政地震・津波の碑があります。
「津波は八、九度押し寄せ、多くの人家は流され、残った家は六、七十軒。溺死七十余人。山手に逃げた人は助かったが、船で逃げようとした人は亡くなった。流れてきた衣服等を拾い用いた人は伝染病で死んだ・・」などと、円柱状の石面にぎっしりと彫られています。
これらの教訓は、後に発生した南海地震で生かされ、死者は一名のみであったと伝えられています。

(追記)安政地震津波碑
この安政元年の地震・津波の記念碑(萩谷名号碑)は、その刻文の内容が極めて詳細で貴重なものと思われますので資料より写しここに追記しておきます。
(正面)「南無阿弥陁佛/安政元甲寅歳十一月五日申の刻大地震日入/前より津浪大尓溢れ進退八九度人家漂流/残る家僅六七十軒溺死能男女宇佐福島を/合而七十餘人なりき都て宇佐の地勢ハ前高く/後低く東ハ岩崎西江福島の低ミより汐先迯/路を取巻故昔寶永の変丹も油断の者夥/敷流死能由今度も楚能遺談越信じ取あへ/須山手へ逃登る者皆恙なく衣食等調度し又ハ/狼狽て船尓のりなとせるハ流死の数を免連須/可哀哉其翌日ハ御倉開希て御救米頂戴し/凍餓尓至るものなく誠ニ難有 御仁沢下り希れ/ハ後代の変丹逢ふ人必用意なくとも早く山/の平らなる傍尓岩な幾所を択ひて逃よ可し且流失/能家材衣服等拾ひ得し人暫時内福尓似堂れとも間/もなく流行の悪病ニ染ミ悉皆なくな利しを眼/前見聞し多ると越告残し殊ニ両変溺死の人能/菩提越弔ん為尓登衆議志て此碑を立る/も能と云爾 安政丁巳十一月 卥邨畊助識」


今回の区切り打ちにおいて、徳島県から高知県で多くの安政地震・津波の碑を見てきました。
その恐ろしさの心の痛手が、人々にとっていかに大きなものであったか・・物語るものでしょう。

 萩谷の摩崖仏

 安政地震・津波の碑

 宇佐大橋を渡る


「龍の渡し」付近、対岸は井尻

 井尻の大師堂


龍坂の峠より、萩岬を望む

宇佐大橋を渡ります。
この橋が出来たのは昭和48年のこと。それまでは福島から「龍の渡し」で対岸の井尻に渡っていたのです。
井尻には大師堂があり、その前を通り、山道に入って「龍坂」を越えます。昭和初期、海岸の道が開かれるまでは、この山道が青龍寺へ行く唯一の道であったのです。
この道は一昨年の春にも通り、日記にも、丁石のこと、一本松のこと、天明4年の日向の人の墓のこと・・など書いたように思いますので繰り返しません。ただ、樹木の成長の早さ。坂の途中から見えた宇佐大橋はもう殆ど見えなくなっていました。
36番札所青龍寺にお参り。
なお、昔の遍路記録に八十八ヶ寺の奥の院が登場することは少ないのですが、青龍寺の奥の院、不動堂は特別であるようです。澄禅は、独鈷山山頂にある不動堂について触れ、そこからの眺望を愛でていますが、「名所図会」にも「奥院、浪切不動尊 大師御作、本堂より四丁有、女人結界し、申の刻より人間不通・・」と案内しています。

青龍寺に上る


青龍寺本堂


参道の仏、自然が供えたツワブキの花

宇佐の福島まで打ち戻り、ここで今回の遍路の区切りとする積りでしたが、バスの時刻までまだ余裕があります。
ここから先の「横浪三里」は、最近、昔のように船が運行されるようになり、これを利用する遍路も多いようです。澄禅も「陸路モ三里ナレドモ難所ニテ昔ヨリ舟路ヲ行也。」と記すように昔から難所と言われたようです。
昔は浦ノ内灰方までの海岸の道は無く、灰方坂という峠越えの道でした。この道を通ってみようと思います。
宇佐小学校の後方、少し高い所に20m以上はあろうかという赤い色の津波避難塔が出来ています。その裏の神社の所から山に入ります。(正しい入口は高台の北側のようですが・・)
文化、弘化、安政などの年号を刻んだ江戸後期の墓石が乱立する墓地の中。やがて山道に。
600mほどで峠に。

 灰方峠への道

この道はハイキングコースの一部にもなっているようで、整備の手は入っています。
峠には、以前、天明元年の六十六部廻国供養塔があったようですが、今は見当たりません。
少し荒れた道を灰方の坂本まで下ります。
坂本には、昔の主要道であったことを示すように、石灯籠があったりします。

新しい海岸の道を福島まで戻り、宇佐大橋の袂のバス停で遍路装束を解きました。
浦ノ内湾の水面が傾いた陽に輝いていました。
その様をぼんやり眺めて、高知行きのバスを待ちます。今回の区切り遍路の終りです。

 浦ノ内湾

蛇足
高知までのバスの窓から、これまで歩いたことのない四国の街をぼんやりと眺めながら、こんなことを考えていました。
私が遍路として、この四国の地を歩かせてもらうようになってから、8年近い時が経とうとしていることに気付きます。
最初の頃は、山の道で、川の畔で、心ときめくような、人との出会いが多くあったように思います。年を経るに従って、そのような出会いは随分少なくなったように感じます。
それは、四国が変わったのか、それとも自分が変わったのか・・ 山も山の道も、海も海辺の道も、相変わらず美しいのに・・   東日本大震災以降は、歩いていること自体疚しいという気持ちもありました。
四国遍路を感傷的に捉えた記録やアピールはよく見ます。私は、特に最近、そういった観点には組みすることができなくなりました。少なくとも、まがりなりにも公開された形での日記のなかでは、書きたくないことだと・・ 
しかし、そのことと、これからも四国遍路を続けてゆくための糧とは別のことでしょう。その糧の不確かさ、もどかしさに心惑います。
私の心身は、あとどのくらいそのことに耐えて行けるのでしょうか・・ (あーあ、歳だなーの声も)

塚地峠付近の地図 青龍寺付近の地図を追加しておきます。


                                                (平成24年11月21日)

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コメント
 
 
 
ルート地図希望 (湖山町民)
2012-12-10 10:32:25
先日はお疲れ様でした。
ご存じの通り私はさんざんでした><

その2からその5まで全部いただけないでしょうか^^

いつかお四国でお会いしたいものですね。
 
 
 
私も~ (嵐丸)
2012-12-10 19:03:15
湖山さんやだぼさんと同じく…
お手数おかけしますが、よろしくお願いします。
鍵付きコメントの仕方が分からないです~
どうしよ~
私のアドレスご存知無かったでしょうか?
 
 
 
湖山町民さん (枯雑草)
2012-12-10 21:50:34
こんにちは。
先日の89番さんでは大活躍、ごくろうさまでがんした。
メールにてお送りします。よろしく。
 
 
 
だぼさん。 (枯雑草)
2012-12-10 21:52:47
こんにちは。
先日の89番さんでは、ごくろうさまでした。
いい忘れたことも含め、メールでお送りします
よろしく。
 
 
 
嵐丸さん (枯雑草)
2012-12-10 21:55:46
こんにちは。
89番ではお世話さまでした。
ご無礼の数々お許しください。
嵐丸さんへは注釈付でお送り
します。よろしく。
 
 
 
同じ時に高知を (やすし)
2012-12-11 20:50:09
枯雑草さん
同じ時に高知を歩いていたようです。後半ははき慣れたメーカーの靴にしましたので快調でした。私のホームページに日程だけアップしました。詳細はもうしばらくかかります。本当にどこかでお会いできればうれしいです。
 
 
 
やすしさん (枯雑草)
2012-12-12 08:41:16
こんにちは。
そうですね。殆ど同じ頃、少し先を
歩いておられたようですね。
来春、歩けるかとうかわかりませんが、
篠山から御内の道歩きたいと思って
います。また、よろしくお願いします。
 
 
 
篠山 (やすし)
2012-12-12 22:17:53
私も来春は篠山ー祓川温泉ー御内ー満願寺ー野井坂の道を歩く予定です。そのため今回は札掛から観自在寺に行き、札掛まで打ち戻ったところで区切りとしました。だぼさんの報告にもありますが篠山から祓川温泉への道がわかりにくいようですので躊躇しています。枯雑草さんとスケジュールが合わせられると心強いですが。
 
 
 
やすしさん (枯雑草)
2012-12-13 09:10:48
こんにちは。
私は年寄りですから、来春行けるかどうかが一番の問題ですが、行けるとしても、尾根道は自信がありませんし、札掛→満願寺、33kの間の宿なしも・・
(私はバスを考えてますが)近くになりましたら、相談にのってください。よろしくお願いします。
 
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