吉野川の高地蔵を巡る(その4)

                                                             

 


高地蔵地図(3)川島・鴨島地域 (クリックすると大きくなります)

川島から古い遍路道を辿って・・

川島の高地蔵から、昔からの遍路道を辿って吉野川流域の南端を行き徳島の国府まで参ります。今回はその前半。

川島の浜の地蔵(建立:天保14年 1843) 吉野川市川島町川島
 二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上に地蔵半跏像。台座高2.67m、全高3.72m。
 台座の銘刻は「三界萬霊」。殿様巡視の際、台座が余りにも高すぎるため一つを外してしまったという伝説が残っています。台座高三位の高地蔵です。
 台座の右斜部に「天保癸卯四月念四日 脩流水灌頂干芳水高 造立導像予北為淹溺亡」と刻まれています。(念は「二十」、淹は「とどまる」の意か、何となく意味は分かりますね。) 地蔵が建てられたのは天保14年(1843)4月、まだ堤防がなかった頃のこと。この辺りは、川が湾曲しているため、水が出る度に被災者の亡骸が流れついたのですね。川遊びをする子供の事故も多く、水没者の供養と、水難除けのため地蔵が建てられました。
 「浜の地蔵」と親しまれて人々の信仰を集めるようになってから、付近の水難事故はなくなったと伝えられています。
 傍らには「川島渡し場跡」の碑。渡し場の出船入船を見守っていたのもこの地蔵です。
 南隣りの小さな公園では、かつて歌や踊りが催される地蔵まつりが行われていました。堤防が築かれた今では、堤防上に屋台が立ち並ぶひときわ賑やかなお祭りとなったそうです。堤防とダムがつくられ、洪水が以前のようには恐ろしいものではなくなった今も、8月の24日にはムシロを敷き、百万遍の数珠を操り、地蔵をお祀りしているといいます。


川島の浜の地蔵

 川島の浜の地蔵

 川島の浜の地蔵

 台座の銘


堤防の下

堤防の道を行きます。すぐあの懐かしい潜水橋(川島橋)が見えてきます。川島橋を渡る今の遍路道と浜の地蔵とは百mほども離れていません。でも、地蔵に参る遍路は少ないようです。
急に過ぎた雨の後、静かな吉野川の流れは少し霞んでいるようです。川の畔の樹木の影、緑の斜面の黄色の菜の花・・こんな美しい場所がこの世にあるだろうか・・と思うほどです。
川を眺める人、散歩する人・・に出合います。遍路の姿を探しますが、出会えません。
粟島の渡し跡。案内板には「遍路に限り無銭渡し」であったとあります。光明庵(別名無銭庵)もここにありました。光明庵は享保年間(1716~1735)の創建で、4、50人の遍路が泊まれることができたという大きなもので、渡しとともに庵の所有田畑の収益金と近隣の人の接待、藍役所の協力などによって維持されますが、大正3年の吉野川の改修工事に伴い姿を消すことになったと言われます。


吉野川


潜水橋(川島橋)


吉野川


粟島の渡し跡

堤防の道をおり、大正13年の道標の傍から市杵島神社(弁天神社)へ。参道に大樹に取り込まれた百度石を見ます。
新田の道には古い道標「(手指し)遍んろ道 切はた寺へ七十二(?)丁 ふじい寺へ九(?)丁」。国道そばには茂兵衛標石 茂兵衛さんとしては珍しい自然石、それも青石。(なお、この辺りで使われる青石と呼ばれる石は鴨島町の山麓で採取される緑色(泥)片岩のこと。)
藤井寺へ向う道、田淵(笠松神社前)の四つ角に集められた道標群、青石の道標、茂兵衛標石、照連標石、舟形地蔵道標。地蔵道標には「是より藤井寺へ六丁 切幡寺へ七十五丁」と刻まれます。
(追記)この地蔵道標は光背部に「〇享二丑三月」と刻まれています。年号の一文字と干支から判断すると、「延享二年乙丑」(1745)と思われます。これが事実だとすると、この地域で残る最も古い部類の道標に入ります。(私の見たどの資料にも記載されていませんが)果たして・・

この場所より右折、今の遍路道(県道240)の一筋南側の山際の道が旧遍路道と思われます。
旧遍路道に沿って西麻植の地蔵があります。今の遍路道を進むと。つい見逃してしまう場所です。


百度石

 新田の道標

 茂兵衛標石


街角の標石群

 道標(右端が地蔵道標)

西麻植の地蔵(建立:天明2年 1782) 吉野川市鴨島町西麻植東禅寺
 三段の墓石状台石、角柱台座・蓮台上に地蔵座像。台座高1.99m、全高2.52m。
 台座の銘刻は「三界萬霊」。
 地蔵が建つ道は、国道や県道ができるまでは徳島へ通じる唯一の道であったといいます。道行く人々が旅の途中で出会ったこの地蔵にほっとしながら暫し休んで、お参りして去る情景が浮かんでくるようです。
 この辺りではその昔、子宝を授かるようにと地蔵に参り、女児が生まれると赤いよだれかけをかけるという風習があったと伝えられます。所謂「子宝地蔵」と呼ばれる地蔵ですが、場所がら洪水の防止と犠牲者の慰霊を願う地蔵でもあったと考えられています。


地蔵の前の道

 西麻植の地蔵

ここから藤井寺への道にも多くの道標や庚申塔が残されています。
やがて藤井寺、多くの遍路はここから焼山寺の「へんろころがし」の山道にかかります。昔も今も・・
しかし、この度は東方国府に向かうもう一つの遍路道を辿ります。

細田周英「四国遍礼絵図」(部分)

宝暦13年(1763)細田周英「四国遍礼絵図」はこの道を次のように紹介しています。
(11番藤井寺)より〇イノウチ〇モリトウ〇サンジ△小サカ〇カミウラ〇ウラボウ〇シモウラ〇ゼウノ内〇石井〇シラトリ△小サカ〇ニジ(16番観音寺へ)
この道は阿波五街道の一つ伊予街道(今の国道192号に近い)の南側を併行(一部で重なる)する道で、その部分で飯尾(いのお)街道、下浦街道、森山街道などと呼ばれました。藤井寺からカミウラ(鴨島町上浦)までは森山街道と呼ばれるに相応しい所ですが、遍路道として分かり難い部分でもあります。この道筋についてある文献は次のように解説しています。
「藤井寺から北へ出て、呉郷団地南端から山裾の細道を東へ、梨の峠への登り口から三谷寺の前へ出て、壇の大楠の南へ登り、玉林寺の下を寺谷に沿って下り、向麻山の南から旧伝馬道に沿うルートと、梨の峠の登り口から少し北へ取り、一の坪から一町地の南に沿い、上浦の山裾を東に行く、森山小学校の東へ出て、山路の県道と並行して、向麻山の南で前の道に合流する。」(阿波学会研究紀要30号「鴨島町の遍路道」)
これを地図に落としたものを添付します。 阿波森山1山路付近
実際に歩く場合は、要点に道標などもよく整備されており、迷うことはないと思われます。(地図に●赤、無記は古い石道標を表しています。)
特に注目すべき石道標について記しておきましょう。一つは山路字立石の道標。極めて立派な石柱(高さ238cm)で 「(大師像)(手差し)四国十一番霊場藤井寺へ二十四丁 第十三ばん一の宮へニ里半 是より阿波西国第卅一番玉林寺へ八丁」(裏面に文化八年の銘)と刻まれます。(玉林寺は阿波西国三十三観音(東部)の30番霊場)
もう一つ、そこより西400mほど、森藤字大泉寺地蔵堂横の高さ2mほどもある自然石石標。天保5年(1834)の銘、「奉剣山大権現 右是より十里余 石鈇山大権現 同一里十八丁 (梵字)南無大師遍照金剛 藤井寺へ十九丁 左一の宮へニ里半」などと刻まれます。

鴨島町山路立石の道標

上記のように、この道に残されている古い道標の多くは「藤井寺〇丁、一ノ宮〇里」のように観音寺や国分寺の表記はなく、直接「一ノ宮」へ行く道が存在するかのようにも思われ、その道筋の判断を迷わせます。直後述のように澄禅が一ノ宮から入田月ノ宮の北の峠を直接越えたという(柴谷宗叔氏の説)道は、低い峠ではあっても多くの一般の人が通る道としてはやや無理があるように思えます。遍路道としての一ノ宮への主道筋は、おそらく細田周英が示す(観音寺)、国分寺、常楽寺を経由する道筋であったであろうと思われます。
では、鴨島にある道標で、一ノ宮と藤井寺の距離の表記を見てみます。設置年、一ノ宮との距離、藤井寺との距離の順。
  文化8の石 二里半、24丁
  文政10の石 80丁、40丁
  天保5の石 二里半、19丁
江戸時代の一里は全国的には36丁と定められていますが、阿波、土佐では一里、50丁前後で運用されていたようです。(阿波48、51丁、土佐50,51丁)・・これを聞くと行うことの意味を疑ってしまうのですが・・まあいいや・・この換算を適用して藤井寺と一ノ宮の距離をもとめてみると、120~150丁となります。
一方現在の道程で藤井寺から観音寺を経て大日寺に至る距離を地図上で測ってみると170丁程度となります。この差は結構大きい。道標の示す道筋は地蔵越など峠越えの近道であると考えた方が素直なのかもしれません。

澄禅は江戸時代の始め一ノ宮から山を越え石井町城ノ内辺りからこの道を逆に辿り藤井寺に至っています。「四国遍路日記」には次のように記します。
「・・峠ニ至テ・・休息シ・・坂ヲ下リテ村里ノ中道ヲ経テ大道ニ出タリ。一里斗往テ日暮ケレバ、サンチ村ト云所ノ民屋ニ一宿ス。・・早天ニ宿ヲ出、山田ヲ伝テ藤井寺ニ至ル、・・」(サンチ村は今の鴨島町山路でしょう)

澄禅が越えたと思われる峠は、現在は地蔵越と呼ばれるもので、明和6年(1769)の「峯の地蔵」や「水かけ地蔵」が残る古道です。尾根道を辿れば童学寺越を経て童学寺に至ることもできます。

追記)ここから石井町に至る道は、現在は吉野川が北方に遠退いた山際の道です。しかし、昔は粟島(善入寺島)の南、西麻植で吉野川から分岐する江川、さらにその南の新宮川(:神宮入江川、その一部は現在の飯尾川に重なる)が吉野川の主水流の一つを形成していたと言われます。この地はやはり吉野川の賜物、この道はやはり吉野川南辺の道であったのです。
 天保11年(1840)の吉野川絵図(徳嶋県立図書館)では江川や新宮川が明確に表示され、昔の吉野川水流の様を想像することができます。
この絵図からは、当時の渡しの位置や様々な水系の事象が見られ興味が尽きません。(クリックすると村名などを補記した図に変わります。)一つをあげれば、本文「その1」にも記した善入寺島(昔:粟島)の遊水地化により大正4年に姿を消した「宮島八幡宮」(吉野川が氾濫した際には社叢が川の上に浮いたように見えたことから「浮島八幡宮」と呼ばれたと言われます。またこの社は「忌部大社」に比定されるとも。川島町の川島神社に移遷。)や藤大夫塚や児島塚など人々の彩豊かな生活の跡が記されています。(R1.9追記)


吉野川絵図(天保11年)


現在の吉野川

 

 

(続きは次回「その5」へ)

 

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