四国遍路の旅記録  平成26年秋  その5

石鎚山頂、下って石鎚神社

西之川からの登山道(御塔谷道)で石鎚山頂上社まで行くつもりでおりましたが、朝、目を覚ますと一緒に弱気の虫も起き出していました。
気が変わり、成就社までロープウエイに乗ることにしました。
唯一人の泊り客である私は、朝食後それはそれはゆっくりと過ごしておりました。今晩は何と石鎚山頂の山荘に泊りを予約しているのですから。
宿の窓から見える隣の駐車場には、車がやってきています。多くの人はロープウエイを利用して、石鎚山を日帰りで往復します。私のように余裕のあり過ぎる人はまずいないでしょう。

ロープウエイの山頂成就駅を出て、奥前神寺の前を通り成就社へ。
その途中の道の近くに、第18杖立王子社と第19鳥居坂王子社があります。
ここで、王子社の拵えについて記しておきましょうか。
神仏の姿が彫られた石標。神仏は大日とか不動とかと言われますが、どちらかというと怖い顔が多く不動のように思えるのですが、手は合掌しているようです。それと、石殿と呼ばれる石の小祠。この二つ。この他、地蔵菩薩や他の仏が並ぶ場合もあります。
石造物の両側に「奉納石鎚山三十六王子社、宿願成就、第○番○○王子社」と書かれた白い幟。

 王子社の石標(14番花取王子社

石鎚神社成就社(今は正式には石鎚神社中宮と呼ばれる。)におまいり。
成就社の横に第20番稚子宮鈴之巫王子社があります。
神門をくぐり頂上社への登山道に入ります。
今はこの辺りが紅葉の盛り、しばらく八丁坂を下ります。下り切ったところに第28番八丁坂王子社。

 八丁坂を下る

 青い空

 紅葉の道

厳しい上りの始まりです。
「試しの鎖」、上り48m、下り19m。現在、三の鎖は閉鎖、二の鎖は半分でエスケープとなっていますので、最も厳しい鎖場でしょう。特に下りは恐怖を感じるそうです。
私の見あげる前で、ガイドの指示によって多くの人がチャレンジしていました。私は金剛杖を持っていますし、君子ですから迂回路(巻き道)を行きます。


試しの鎖場、頂上に第29番前社森王子社

試しの鎖(下り)

試しの鎖の岩場の頂上に第29番前社森王子社。下からでも見えます。ここは遥拝です。
第30番大剣王子社、第31番小剣王子社は歩き道から少し外れているのか、私は見落としました。第32番古森王子社、第33番早鷹王子社、第34番夜明峠王子社は道沿い。
夜明峠前後は平な道で、石鎚登山道の中で最も美しい場所かもしれません。
石鎚山の岸壁が見渡せる所です。これより上、今はもう紅葉は終わっています。
石鎚山の岩肌と紅葉のコントラストが見れないのは少々残念です。(せめて6年前の10月10日(2巡目第5回その3)、紅葉に彩られた石鎚の写真を再掲しておきましょう。)

上り

 夜明峠


(2008年10月10日の夜明峠)

夜明峠には、西之川からの御塔谷道が合流しています。(御塔谷道の近くには、第21~第27の7つの王子社があります。)
その先の一の鎖は33m、最も楽な鎖場。鎖に掴まらなくてもどうにか・・と思えるほど。鎖場を試すならここですよ。御老体同志!。
土小屋からの道が合流する所、二の鎖小屋。現在改築工事中です。
急斜面に貼りついた鉄の階段道を行き、右に面河(おもご)道を分けるとすぐに頂上社。
第35番裏行場王子社は頂上社の裏。そして最後の第36番天狗嶽王子社は天狗岳の頂上。
石鎚山山頂からの展望はやはり素晴らしいものです。
西方は、西の冠岳、二ノ森、堂ヶ森と続く山腹の色模様。少し下方は紅葉が見事です。山腹を縫う一本の道、面河(おもご)道。北は遠く明神ヶ森、東三方ヶ森の山塊を中に、右に西条、左に松山の街。(夜にはその明りが、瞬きもせず光っていました。いいカメラを持ってこなかったことを、これほど悔いたことはありません。)
東は、土小屋登山道の向こうに、瓶ヶ森、子持権現山。南方は微かに土佐の海まで見えていそうです。


山頂から望む西ノ冠岳

  天狗岳

 天狗岳


山腹の紅葉


山腹の紅葉

土小屋ルートの尾根

 遠い山並

遠い山並

遠い山並

夕暮れの近づき


夕暮れの天狗

山荘の泊りは、私の他は2組の団体さん。賑やかです。一人の老人は寂しげです。
ここは神社の経営で、午後5時の夕拝、午前6時の朝拝があります。
朝の頂上社の前、気温は7°です。この時期としては暖かい方だといいますが、ありったけの衣料を着こんでも、私には寒い。
朝拝開始の太鼓の響きが山々にこだまし、人の心を解き放つようです。
二人の神主が奏上する大祓詞の見事な二重唱。多くの神々の名とその由来の世界が説かれているようですが、私は、この世界は空と水と岩と土と・・そんなものから出来ているけれど、そのなかに多くの情が宿っているのだ・・と説かれているように聞いていました。
拝礼が終わると、東方、瓶ヶ森のあたりの雲の間から日が輝きました。

石鎚神社頂上社

  日の出

日の出

  赤い地平


赤い地平







岩壁

成就社まで下ります。その先は今宮道を通って河口まで下ります。
以前に歩いた時のこの道の薄暗く展望のない陰気な印象は払拭されるほどでした。
この辺り、カエデ類の黄色の紅葉が山道を照らしているようでした。


17番女人返王子社

 今宮道を下る


15番矢倉王子社

第17番女人返王子社。昔の石鎚は女人禁制の山。女性はここまでしか来れなかったのでしょう。
少し道を外れた岩上に第18番山伏王子社。それから第15番矢倉王子社、第14番花取王子社。
今宮へのジグザグの道を下ります。
第13番から第9番までの5つの王子社は、今宮道沿いではなく、尾根に沿ってあるのです。それは荒れた道筋のようです。
今は廃村となった今宮を思い起こすように見おろす大杉があります。
嘗ては石鎚参りの人々の中継地であり、大正8年には36戸、178人、11軒の宿屋があったという記録があります。小学校の分校もありましたが、昭和47年に閉校されます。
それから村は急激に消えて行きました。立派な石垣や宿屋であったであろう大きな構えの廃屋が数軒みられます。明治や大正の年号を見る墓も荒れ果てたまま、参る人もないのでしょう。

 今宮の大杉

 今宮の廃屋

今宮の石積

 今宮の墓

廃屋の前で一人の遍路にお会いしました。
遍路はもとより、この道で人に会うこと自体稀有のことでしょう。
聞けば大阪の若い人。遍路といっても、同行二人と書かれたさんや袋と杖でそれと判る半遍路姿。
今日は成就社の近くに泊るという。明日は石鎚山から面河道を通り、面河渓の国民宿舎。それから岩屋寺まで行くという。
88ヶ所を2巡した後は、好きな所だけを選んで歩いているといいます。
札所での納経ラリーではない、こういう四国歩きもいいものですね・・

突然、舗装された広い林道に出ます。そこを少し歩いてまた荒れた山道へ。
愛媛県が建てた道路標識が無ければ、山道への入口は見付けられないでしょう。
荒れ果てた三光坊不動堂の横から入り、第7番今宮王子社、第8番黒川王子社を見ると河口はもうすぐです。


7番今宮王子社

 今宮道の入口

河口から、64番の奥の院とされる奥前神寺までの今宮道に、自作のへんろ道札を下げられた、東京のT先達さん。思わぬ所で遍路札に出会い、遍路としては嬉しかったのですが、同時に驚きとちょっとした違和感も否めないように思いました。 遍路道とは何でしょうか。明治の神仏分離以降に残る四国遍路の札所の曖昧さ。遍路と石鎚山信仰との関係・・ 様々な面から考えさせられました。

河口から黒瀬峠の道は往きに歩いた道。ワープします。
今回の区切りの終りに、黒瀬峠の石鎚神社一の鳥居から石鎚神社(口ノ宮)までの道について触れておきましょう。
昔、里宮であった石鎚神社(前神寺が別当)から黒瀬峠までの石鎚山参拝道は、二並山(ふたなやま)の尾根を通る道でした。神社が置かれた場所からみても、このことは十分納得できることに思えます。黒瀬峠の方から探ってみることにしました。
鳥居の前の家に一人居られる93歳のおばあさんに聞きます。
「ワシもそうとうボケてきたけどのー・・そういう道は聞いたことがないのー・・」。
鳥居の傍から東の山へ上る唯一の道を上ります。これは四国電力の鉄塔保安道のようで、立派な道です。
何度も上り下りを繰り返しましたが、2番目の鉄塔から3番目の鉄塔に行く間に尾根に上るような道筋があります。これが二並山に通じている道だと思われますが、草木繁茂です。二並山から下ってみれば確認できるような気がしますが諦めます。

一の鳥居の前

 
二並山への道(おそらくここから左に上る道)

 石鎚神社(口ノ宮)山道の入口


石鎚神社(口ノ宮)

黒瀬峠に戻り、県道142号経由、協力会へんろ道を通って石鎚神社(口ノ宮)にまいります。
広大な境内を持つ実に立派な神社です。長い石段を上って本殿にお参り。
本殿への石段を下りた右側に、龍の口から流れる流水と池、その傍に役行者の像があります。その左側に山に入る道が見えます。
神社会館に寄って尋ねます。
「随分古い道で、この間もうちのものが二並山まではどうにか行ったけど、その先はどうも・・」という返事。
いつの日か、歩いてみたい気もする道ですが・・
神社の門前で南方に深い礼をして、今回、26年秋遍路の区切りとしました。
                                        
                                            (10月29日 30日)

この日と前日の日記の参考に、石鎚山周辺の地図を載せておきます。
石鎚山周辺地図 (国土地理院25000より作成)クリックすると大きくなります。
 

なお、二並山付近の地図は、平成26年秋その3の記事に掲載した「小松付近」に含まれています。



(追記)付録 江戸時代の里前神寺(石鎚神社口ノ宮)の絵図について

江戸時代の札所は石鎚山(奥前神寺、後に常住山)でした。石鎚山には常には参ることができないため、里前神寺を代理の参拝所としたのです。真念「道指南」では石鎚山の前札所と表現しています。(横峰寺「鉄の鳥居」も石鎚山の前札所と呼ばれた。)明治の神仏分離を経て里前神寺は石鎚神社口ノ宮となり、近くの新たな地に64番札所前神寺を置くということになります。
従って江戸時代の里前神寺は現在の石鎚神社口ノ宮の地です。
この里前神寺には三種の絵図が残されています。これらの絵図を見ると、札所社寺の変化・・(とともに)むしろ社寺絵図表記の様々が伺われ興味深いものです。
①「四国遍礼霊場記」 元禄2年(1689)里前神寺
②「四国遍礼名所図会」 寛政12年(1800)里前神寺
③「西條誌」 天保13年(1842)前神寺

   
①「四国遍礼霊場記」里前神寺             ②「四国遍礼名所図会」里前神寺         

 
 ③「西條誌」 前神寺  

①は蔵王権現本社・釣殿・拝殿、寺本堂・護摩堂が簡素に描かれています。現地での写生ではないと思われます。
②は実際の地形が良く表現されていると思われる絵図です。山上に本社蔵王権現、そこより壇を下り右手に石鉄山大権現、その下に大師堂、向かって右手に寺の方丈、寺下に茶堂が見えます。ただし、寺の後方や周囲の道の様子などは雲の中でぼかされています。(「名所図会」の絵図はこのぼかしに特徴があるようです。)
③は格段に詳細な絵図です。左が神社部分。壇上に石鈇蔵王権現神殿、その下に釣鐘堂。本殿右段上に東照神祖旧廟、その横弁天祠、段下に勧化所(今の納経所)、大師堂、護摩堂、その前に芭蕉題句碑。(「花咲て七日鶴見る麓哉」、天保6年に建てられた碑で今もある。)
右は寺部分。本堂、玄関、本堂の裏には多くの建物があります。寺の下外に茶堂。
②の絵図との大きな違いは、蔵王権現と石鈇山権現が合祀されたこと(文政8年の横峰寺との争いに対する公儀の裁断が関係していると思われます。)、東照神祖旧廟ができたこと(天保11年建立)、護摩堂の位置が変わったこと、といった所でしょうか。
なお②で石鈇山大権現があった場所、現在は祖霊殿や役小角像などがあります。昔はここが石鎚山への登山口であった場所です。
                                          (平成30年10月追記)

 

   

 

 

コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
Unknown (T)
2014-12-18 10:31:57
ご無沙汰しています
ご指摘の通り へんろ道 では違和感ありです
付け始めてすぐに思いました
一応奥前神寺までと書き加えましたが

○に石
が良かったと
次回差し替えるつもりです。
 
 
 
Tさん (枯雑草)
2014-12-18 19:32:56
こんにちは。ご無沙汰しています。
思ったまま書き込んですいません。見つかってしまったようです。
先達になられてからの活躍、すごいですね。
もうすっかり有名人ですね。
石鎚山へのへんろ札、お悩みになったであろうと想像しました。
○石の方がぴったりかもしれませんが、そうすると、今宮登山道に付けるか、王子社の道に付けるか・・
これも迷うのでは・・
 
 
 
謹賀新年 (桃 ぶどう)
2015-01-03 00:04:27
明けましておめでとうございます。

どこかで~もぅお遍路も終盤・・・とありましたが、そんな寂しい事はおっしゃらず、まだまだ四国入りしてくださいね。
今年もよろしくお願いします。
 
 
 
桃 ぶどうさん (枯雑草)
2015-01-04 08:54:11
あけましておめでとうございます。
桃さんにとって今年がよりよい年で
ありますようお祈りします。
今年もよろしくお願いします。
桃さんは歩かれるのですか・・
私は、もう少しくらい歩けるかな・・
 
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