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四国遍路の旅記録  平成25年秋  その3

窪川岩本寺、松山廃寺、伊田へ

37番札所岩本寺から足摺の38番札所金剛福寺までの距離は、協力会地図によると80.4km。四国88ヶ所巡礼の札所間の距離としては最長。
でも、民宿のご主人の中には、実際の距離はそれより5kくらいは長い・・と言っている人がいます。実際はどうなのでしょうか。

岩本寺を出て国道56号を行くと、金上野(きんじょうの)という所の外れ、もう峠に近い場所ですが、地蔵の横に徳右衛門標石 「是ヨリ足すり迄廿里」があります。

 
金上野の徳右衛門標石
 

峠を少し下って国道を離れ片坂へんろ道に入ります。そう、最近この入り口にお大師さんの像が移されていますね。
「名所図会」にはちょっとおもしろい言い回しがあります。 「片坂、上り壱丁斗りにして下り十丁余、是ハ昨日とふりし添身見ず坂半里上りしに下り五丁斗りゆへ爰ニてもどし、峠に景よし高岡郡、幡多郡の境標木有り。・・」。
前半、なるほどそうも言えるか・・ 後半、今は景観も無いし標木もないなー・・
下りが殆どで、上りよりは楽なのですが、夜来の雨で石畳は濡れていて滑ります。石畳というのは草鞋(わらじ)に向いた道なのでしょうか。
市野瀬から佐賀の道について「名所図会」には「・・是より佐賀町、四里の間谷合にして家すくなく用心悪し・・」と記しています。
市野瀬から伊与喜までの旧往還道の多くの部分は今の国道に変わっているので、協力会でもこちらを遍路道に充てているのでしょうが、私が3巡目に通った伊与木川右岸の道の方が、若干距離は長くなるものの、車の通行も少ないだけでなく、点々と神社や人家が見られ生活の中で今も生きている道、歩くにはいい道だと思います。
こちらは「四国のみち」。意地を張らず(?)にこちらを遍路の道とすべきでは、と思うのですが・・ 
(いや、失礼。協力会地図10版ではこの道を遍路道に充てたようです。)
今回は国道を行きます。
(追記)市野瀬から橘川に入ると国道の橋の左、旧道に沿って地蔵堂があり文化7年の道標があります。道標には「右遍路道 是ヨリ足摺江十八里半 肥前・・」と刻まれています。

拳ノ川で川の流に沿って、道は大きく左折します。この箇所、昔は辻越坂という峠越えの道で、峠には一里塚があったそうです。ちょっと入ってみました。 
入って少しの所で倒木があり引き返しましたが、道筋はちゃんと残っています。出口側は、一軒の民家がある所で立派な石垣も残る道。道傍には若狭の人の墓があります。(「若州三方郡笹田村・・」と刻まれる。)遍路墓と思われます。

辻越坂の出口。遍路墓も見える。

道は伊与喜から国道を離れ熊井に入り、遍路の間でも人気の高い熊井トンネルを潜ります。その先、民家の植込みの中にあるという徳右衛門標石、予想の通り見落としました。 
佐賀から井の岬に近い灘までの白浜の道は、山が迫った海岸を行きます。昔は台風などで波が高い時は通行できないことが多かったと思われます。
澄禅は佐賀の先 「是ヨリ大坂ヲ上下スル事一里半也」と記しており、海岸を通らず、馬路、黒瀬を経て有井川に至る山中の道を選んだと考えられています。


白浜の海岸(晴れの日の表情)


白浜の海岸(荒れた日の表情)

 灘から国道は井の岬トンネルを通りますが、昔は今のトンネルの北側に山を越える道があったようです。「なだみね坂」とか「松山坂」とか呼ばれていました。
ちょっと入口を探ってみましたが、見つかりません。
灘の街中で尋ねてみます。
「今はそういう道はないのー、ワシら井の岬を回る道をへんろ道と呼んどったけどなー・・」 
井の岬を回る道を遍路が歩いたことがあったとしても、それはそれほど長い期間ではなかったような気がするのですが、まあとにかく歩いてみることにします。
岬を回る道は、その殆どが崖と海との間に貼りつくように造られています。
崖に迫る樹木は「魚寄りつきの森」として保護されているのはよいのですが、産業廃棄物の処理施設がいかにも大仰に見える他、民家は一軒もないという寂しい忘れられたような道なのです。

営業を止めた温泉施設の建物の前を右折して、松山廃寺跡に寄ります。
松山寺は空海の開基と伝えられ、江戸時代には大いに栄えたと言われます。
明治の廃仏毀釈により廃寺。紀貫之の「月字の額」が伝承されたことでも知られる。それに因んだ「月字和歌集」なども現在に伝わっていると言われます。(継承寺は伊田の観音寺と思われます。)
「松山寺跡」の石標から山道を200mほど上ると、荒れ果てて墓石の散乱する寺跡。
元の境内と思われる場所に個人の家の新しい墓があったりします。
墓石の半分を鋭い切面で切り取った僧侶の墓が気味悪く、印象に残ります。町の史跡に指定されているとはいえ、この荒れようは・・寂しい限りです。

 松山廃寺への入口 

 松山廃寺跡

今日の宿の有井川のさきまで。

伊田の海岸の朝


拳ノ川付近の地図 佐賀付近の地図 上川口付近の地図を追加しておきます。
                                             (9月30日)



入野の浜の魅惑、そして伊豆田峠へ

上川口から先には、「王迎」とか「王無」とか、曰くありそうな地名が続きます。
これは、元弘の乱(1331)に敗れた後醍醐天皇の第一皇子、尊良親王(たかよししんのう または たかながしんのう)が土佐に遠流となったことによります。
王無の浜には「尊良親王御上陸地」の碑があります。
親王は土佐での2年の後、九州に渡り挙兵、戦乱に明け暮れた27年の生涯を越前で閉じることになります。

 王無浜の碑

 鞭の大師堂

鞭(ぶち)に大師堂。堂前に「足摺山十二里」の明治期の標石があります。
吹上川に架る洒落た形の橋(月見ヶ浜橋)を渡って入野松原へ。
昔の主往還も今の遍路道もメインは段丘上の道ですが、できればもっと浜に近い道を歩きたくなります。
輝く海、波、静かにたゆとう入江、深い松原・・土佐は東方の芸西村に琴ケ浜という素晴らしい浜と松原の道を持っていますが、この入野の浜は、長さこそ吹上川と蛎瀬川の間の3kほどに過ぎないけれど、その美しさにおいて決して引けをとらないと思えます。
浜はサーファーの舞台でもあります。時に外国人のサーファーに出会うこともあります。
沖の波頭を一心に見つめる碧い眼差し。遍路のあいさつに応えることはありませんでしたが・・


入野の浜


入野の浜(吹上川)

入野の浜(吹上川)

入野の浜(松林)


入野の浜


入野の浜(サーファーの影)


蛎瀬川

入野から四万十川を渡り、対岸の津蔵渕に至る道は協力会地図などによれば、凡そ3つが示されています。
一つ目は、入野から蛎瀬を渡り田野浦へ。そこから広域農道などを経由して竹島、四万十大橋を渡るルート。 二つ目は、上記の田野浦から海岸沿いの道をとり双海から下田に至る。そして、最近再開された下田の渡しにより初崎に渡るルート。
そして三つ目は、入野から田の口、国道56号に沿い古津賀まで。古津賀から井沢を経て四万十大橋を渡るルート。 
昔はどうであったのでしょうか。
「道指南」では 「○入野村、かきぜ川引舟有。○たの浦(田野浦)、これより七八町はまを行、標石有。むかふ山はなハ下田道、こなたハ舟わたし。少まわり道、○いでくち村(出口)、此間小川・坂有。○たかしま村(竹島)、大河、舟わたし、さね崎村(実崎)天ま(天満)という所に引舟有。ま崎村(間崎)薬師堂有。、つくらふち村・・」とあります。
現在の道の一つ目、二つ目にほぼ合致するのですが、一つ目のルートとの違いは、「いでくち」からほぼ真っ直ぐに(文中「此間小川・坂有」の部分)渡し場のあった竹島(竹島大師堂)に向っていたと想像できることです。なお、上記引用中、四万十川を渡った後更に「天まという所に引舟有」の部分について、今の地図によると支流、中筋川を渡ったように思ってしまうのですが、この川は上流の坂本で合流していたのを近代に付け替えられたもので、引舟の場所としては深木川が充てられているようです。
一方、三つ目の道に相当するルートは「四国偏禮繪図」に「○イルノ(入野)○タノクチ(田の口)、谷川五ツ○アフサカ(逢坂)、谷川四ツ○コツカ(古津賀)○イサムラ(井沢)○タケシマ(竹島)」と示されています。ただし、古津賀、井沢間は今の田圃の中を行くルートではなく、古津賀大師堂から井沢祠堂を経る山の道だと思われます。
私は、田野浦の分岐で下田の渡しが欠航であることを確認した上で、一つ目のルートを辿りました。出口から竹島へ直進する昔の道を意識しながら、時々脇道へ入っては寄り道をしました。石仏の一つでも出会いはしないかと期待しながら・・ 空しい期待でしたが。

(追記)田浦の浜 昔 昔
澄禅は江戸初期の「四国遍路日記」の仁井田五社の後に田浦(田野浦)の塩浜作業の様子を書き留めています。澄禅が人々の生活の様を記すのは珍しいこと・・高級僧侶の感じ方に興味を覚えます。引用しておきましょう。
「田浦ト云浜ニ出タリ。・・爰ニテ塩焼海士ドモノ作業ヲ見ルニ、中々衾成躰ナリ。(嬉々として作業をしている様子をいう) 先男女ノワカチモ慥ナラス(男女の区別もわからない)女ドモガ小キ子ヲ脇ニハサミ来テ、件ノ児ヲ白砂ノ上ニ捨置テ、荷ヒ(担桶?)ト云物ニ潮ヲ汲テ、柄ノ長キ柄杓ニテ平砂ニ汲掛テ砂ヲ染タル有様、誠ニ浮世ヲ渡ル業ハ扱モ品多キ者哉ト弥思ヒシラレタリ。」
                                   (令和5年9月追記)       

竹島、もう四万十川が近い道。8年前、私の最初の遍路の時。納屋のような家から出てきたおばあさん。少し傷んだ梨を戴き、いろんなお話を
伺った終りに「おへんろさん、おひとりで たまりませんなー」と言われた言葉、想い出していました。その道傍、今はもう家もありませんでした。

 四万十川

10月に入ったというのに夏のような日。間崎に「おへんろさん 寄っていってー・・」の看板を掲げた小さな食堂があります。熱中症の始めのような眩暈がしてきていたので「氷水くださーい」と倒れ込みます。
氷水、凍ったイチジク・・これお接待。
「広島には会いたい人がいるんよー・・」 60台半ばには見えない若振りでふくよかな女主人。「ワタシはここにくる前は埼玉のT、その前はT・・」何と、私が住んでいたと同じ時期に同じ場所に。ちょっと奇跡のような符号に話が異常に弾みます。

間崎には、少々人を驚かせる案内板を見ます。
「室町時代、戦乱の京を逃れて土佐国幡多荘(中心は中村)に下向した、前の関白、一条教房が、この地の山を大文字山と称し、京を偲んで毎年大文字焼きを行っていた・・それは今も引き続がれている。」というような。

これから、昔の清水往還の一部であると言われる伊豆田坂を越えるつもりです。
この道が清水往還であったということについては、若干の疑問を感じないわけではありません。元禄の頃の地図には、間崎から海岸沿いで下ノ加江に行く道が往還の道として示されているということですし、ネット公開されている
天保国絵図(国立公文書館)を見ると、入野村で中村へ行く大道と別れた往還道は、田ノ口村、田ノ浦村、出口村、伊屋村(現在は双海と改称)、下田村(渡し)初崎村、(ここまで前記の二つ目のルート)立石村、布村、下野茅村、鍵懸村、久百村と、やはり海岸沿いの道となっています。
また、これは以前のこの日記にも引用したかと思いますが、澄禅が「イツタ坂トテ大坂在り、石ドモ落重タル上ニ大木倒テ横タワリシ間、下ヲ通上ヲ越テ苦痛シテ峠ニ至ル。」と書いています。台風の後の様子らしいとはいえ、相当な悪路であったようです。

往還であったかどうかは兎も角、江戸時代の殆どの遍路記に登場しますから、最短距離を選ぶ遍路が通った道であることは間違いありません。 
今は閉鎖されている国道の旧トンネルが出来たのが、昭和34年。それまでは、昭和32年、痛ましい転落事故が起きたことでも知られる峠越えのバスが、細い曲がり曲がりを重ねた道を走っていました。(バス道のルートは今の25000地形図でも確認することができます。) 
昔からの伊豆田坂は、少なくともこの半世紀の間、忘れられた道であったのでしょう。

私は、2010年4月、逆打ち方向で強引に尾根を登り、峠の茶屋跡に達しています。(3巡目第4回その5の日記参照) 
その数ケ月後、東京のMさんをリーダとする4人の方が(3人の方は私も存じあげている方です。)草や竹を切り、標示を整備され、迷わず通れる道となりました。
伊豆田峠に通じる旧国道を行くと「この道、通ったことあるん・・えらいのー」軽トラのおばさんから声。 
無線鉄塔のある葛篭山(つづらやま)への1車線車道から右の山道に入ります。
荒れた急坂。枯竹、浮石で歩き難い。やがて2基の大師像。その先すぐが峠の茶屋跡。
「四国遍礼名所図会」には「いつた坂大坂也 甚だけハしく、峠ニて休足、右手に金剛水右手ニ有、人皆是をのみ悦ぶ、加持水也、坂九合ニ有、坂下る・・」とあります。
表記は曖昧な所もありますが、大師像の場所に水が湧いていたようです。 
二つの大師像、以前にも書きましたが、向って右が天保5年(1834)大師御遠忌一千年に立てられたものといいます。また、左の像は台座に享和元年(1801)の銘があります。2011年の暮以降、首が無くなっています。残念至極です。
峠には作州の人の名で「足摺え 七里二十町」刻まれた標石。茶屋の礎石と思われる石や陶器の欠片が散乱。
茶屋につては「名所図会」にも何らの記載が無いことから、明治以降の比較的後のある期間、開かれていたのではないかという気がします。
峠から尾根道に下る道筋は、前記のMさん達は随分左右に振って設定しています。私は、もう少し直登に近いルートが旧道であったような気がするのですが・・ 
尾根道も浮石、路肩の崩れなど歩き易い道とは言えません。
最後、尾根から右折して舗装道に下りるところだけは、十分な手が入り整備されています。舗装道からこの道を見れば、前回の私のように川に沿って直進することはなかったでしょう。(あっ、誰かに怒られそうなので・・、枯竹、浮石、いくらかは片ずけたこと、追記しときます。)

伊豆田峠の大師像(左側の大師像の首があった頃)

 峠の標石


峠からの下り道

 舗装道への出口

旧国道を下った所は、三原への道の始まり、「三原分岐」と呼ばれる場所。
右へ行けば三原を経て延光寺への道。真念庵もすぐ傍ですが、ちょっと理由があって今日は寄りません。
少し時間を消費し過ぎました。下ノ加江の今日の宿に急ぎます。
宿の主人は、けっこう独特で評判の分かれる方。「伊豆田峠、あの道は地元じゃ整備しとらん。あんな道を通るもんじゃない・・」と叱責。私のような山道好きには厳しい言葉ですが、遍路道とその整備のあり方について、考えさせられる言葉であると受け取らせていただきましたよ・・

入野付近の地図 田野浦付近の地図 実崎付近の地図 津蔵渕付近の地図
 市野瀬付近の地図を追加しておきます。

                                                (10月1日)



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コメント
 
 
 
拳ノ川から伊与喜へ (やすし)
2013-11-07 21:52:54
佐賀温泉から右折し荷稲駅の近くを通って土佐くろしお鉄道の線路沿いの道は最初の巡拝から使用しています。車に全く出会わないこともあり非常に気に入っている道です。国道に戻る道を間違えて行きすぎたことがあり、かなり遠回りすることになりました。国道を歩いたことがありません。

先日45年ぶりに広島市内と宮島に行ってきました。
 
 
 
やすしさん (枯雑草)
2013-11-08 08:58:21
こんにちは。
ありがとうございます。
そうですよね。右岸の道の方が絶対いいですよ。でも、国道を通る人が多いらしい。
広島へ来られた・・お知らせ戴ければよかったのに。
話違いますが、宿毛街道中道の依頼があり、体調悪いのにこの際、いっそ、ついでに篠山尾根道も・・どうすんべーと悩んでいます。
 
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