四国遍路の旅記録  平成26年春  その5

松山から今治まで、石手寺、太山寺、円明寺、鎌大師、窓坂、延命寺、南光坊

石手寺から52番太山寺に行く道筋は、へんろ地図に拠れば大きく3つに分かれるようです。
第1は、道後温泉の先から北に進路をとり、祝谷橋から山田池、吉藤池などの溜池の傍を通り、潮見小学校の南から国道を横切り、安城寺町を経て太山寺町に入るルート。
第2は、道後温泉から西に行き護国神社、来迎寺の傍を通って国道196号に当って右折、国道の東の川沿いの道を潮見小学校まで行き、第1の道に合流するルート。
そして、第3は、第2のルートの国道交差を西進して、JRみつはま駅付近を通って県道19号、183号を通り、直接太山寺の一の門に出るルート。
私は、これまでこれらいずれのルートも通りましたが、古くから多くの遍路が通った道、即ち古い道標が多く残る道と言えば、それはもう第2のルートです。今回はこのルートを行きます。

道後温泉のすぐ傍、石手5丁目に1.5mを超える標石。茂兵衛標石としては最大のもの。117度目、明治24年2月。この石には茂兵衛を含め多くの人が施主として刻まれています。
護国神社の鳥居の前に茂兵衛標石、133度目、明治26年12月。
山頭火一草庵には忘れず寄ります。
清水4丁目の交差点には、茂兵衛100度目、明治21年5月。その向いに大正9年の道標。これは厄除け延命地蔵尊不退寺の案内も兼ねたもの。
ここから道を北にとり、来迎寺の境内にあるロシア人兵士の墓地を訪ねます。
ここには、日露戦争時に亡くなった98人のロシア兵士の墓があります。
当時の日本はロシア捕虜を優しくあつかったようで、案内板には「・・その収容所は各地にあったが、松山がもっとも有名であり、戦線にいるロシア兵にもよく知られていて、かれらは投降するということばをマツヤマというまでになり、「マツヤマ、マツヤマ」と連呼して日本軍陣地に走ってきたりした。」と、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の一節が引かれていました。
供えられた白い花が鮮やかでした。

 山頭火一草庵

 ロシア兵士の墓

国道との合流地点の少し手前、南から旧今治街道がのびてきて、小さな橋(御幸橋)を渡った所に、2mほどの笠付で「(手印)へんろみち/南御城下道」と刻す大きな道標があります。
その先は国道に沿って、水路を隔てた東側の道を北上します。
国道と分かれて潮見小学校の角、陸橋下の交通量の多い場所に、茂兵衛標石100度目、明治21年5月。この石には、釈陶庵俊因の作で「世の中に神も佛茂奈き毛の載(を)まれに志んずる人にこそ阿連」と歌が刻まれています。
その横に小堂。花を供え水をやり、熱心にいのる婦人がいます。
傍らの石碑には「お塚さま由来記」として、およそ次のように書かれています。
「いつの頃よりかここに一基の塚があり「無縁亡魂回向塔」と刻まれていた。幕末の時代一人の遍路が行き倒れここで死んだ。土地の者はここに葬り、盛大に祀った。ある時足なえの巡礼がここで祈った処立ちどころに回復した。それより脚を守る仏として尊信を集めている。」

 鴨川町のお塚さま

私は、ここから国道を横断して大川左岸の道(県道40号)を行き、安城寺町の県道184号に右折しました。その角に茂兵衛標石、100度目、明治21年。これは新しい地蔵、青痲三光神社の標石と並んでいます。
県道184号から太山寺町方面への曲りも茂兵衛標石、134度目、明治27年4月が教えてくれます。
しかし、国道を横断してから、もう一つの道があったようです。大川の右岸の土手道を行き左折して安祥寺参道を経る道です。この道には享保大飢饉の供養塔なども残されて、こちらの方が旧い道であるようです。ちょっと残念でした。(二つの茂兵衛標石が示す道を選んだ訳ですが、実は、この後の道でもはたと気付くことがあるのですが、茂兵衛さんはどうも新しい道がお好きなところがおありのようですぞ・・)
いずれの道も、松山北中学校の前を通ると、正面に大将軍神社。私の好きな神社です。
ここで休憩。山麓をまわるように少し上ると、亀が一斉に飛び込む溜池の堤の道。
下ったところの家の塀の角に、嘉永6年の標石「(手印)へんろ道/(手印)逆遍路道」。太山寺の一の門もすぐ。
一の門の左に自然石の道標と並んで茂兵衛標石、100度目、明治21年5月。この石も釈陶庵俊因の歌「阿ハ禮可し今世に迷ふひとひと越堂須具流石尓道志る遍けり」(あわれかし このよにまようひとびとを たすくるいしに みちしるべけり)が付けられています。
52番太山寺。
立派な二王門の横の桜が何とも見事でした。
長い参道を行くと山門。その石段下に、徳右衛門標石「是より圓明寺迄十八丁」。
国宝の本堂。青い空の前に拡がる広い瓦の並びを見ると、心は遠くに行きそうな気持ちです。
ここで、あのベルギーの若者にまた会いました。私の読経中、となりで腰を降ろして、ヨーガでするような独特の印を結んでじっとしていました。

 太山寺二王門

 太山寺本堂

53番円明寺までは2.5k、直ぐです。
円明寺は八脚門や境内の中央に瀟洒な中門が置かれ、独特の雰囲気を持っています。

(追記)「キリシタン灯篭」「キリシタン碑」について
 円明寺の境内にあるキリシタン灯篭と呼ばれる石造物について、私はこれまでの日記のなかで殆ど触れることがありませんでした。しかし、遍路仲間の間でも結構話題になるものですし、それに「隠れキリシタンが礼拝した・・」などとまことしやかに書いた案内書などもありますので、ちょっと追記しておくことにしました。
 「キリシタン灯篭」とされる石造物の隣には解説板が置かれ、そこには慎重に「高さ四十cm 合掌するマリア観音とおぼしき像が刻まれ隠れキリシタンの信仰に使われたとの説もある」と記されています。
 十字架状の笠石、マリア像にも見える像の陽刻。キリスト教に関係した遺物であることは間違いないと言われます。あるいは墓石ではないかと。一方で、この種の石造物は「織部灯篭」とも呼ばれます。茶の湯の異国趣味の延長線上で、笠石の上に灯篭部を載せて庭に置かれていたとも。
この辺りが最も有力な説ではないか・・と思えるのですが。(H28.8)
さて、伊予には隠れキリシタンに係わる遺物とされ、一部で「キリシタン碑」と呼ばれる石造物があります。これは高縄山周辺の北条町、菊間町、玉川町の山間部に限定して残るもので、一石五輪塔の一面に円形に包まれた顔が彫られたもの(Ω型石仏などとも呼ばれる)。石材は安山岩であると言われ石工の手を経ない稚拙な彫り。隠れキリシタンが密かに刻み礼拝したといわれるに相応しいと思われます。江戸時代初期、この地方には相当数のキリスト教信者が存在したとするイエズス会記録もあり、これらが隠れキリシタンの遺物であるとする説の有力な支えとなると思われます。(H29.7)

  
円明寺を出て、大川をへんろ橋で越える道は新しい道の付け替えで、様変わりしています。私は古い地図しか持っていなかったため迷いました。注意が必要です。
馬木町にある「あがた圓明寺(54番延命寺のこと)を案内する文久3年の標石。さらに進んだ堀江町のみやしま出舟所も案内する茂兵衛の最初期の標石。これらについては三巡目の日記で詳しく記したようですから省略しましょう。
ただ、この茂兵衛標石の少し手前、光明寺の前に享保の大飢饉の供養塔と追遠之碑があること、加えておきましょう。
「この堀江村では人口800人余りの半数以上が餓死した。人々に分ける麦ぬかを積んだ船が堀江港に着くと、大勢の人が集まって来たが途中で野垂れ死にする人も多かった・・」などと書かれています。

(余談)

私は、この度の旅でも多くの遍路墓を見てきました。それらの多くは、その地の人によって葬られ、遍路道の畔の草に隠れるように立っていました。
お寺の境内で、そういう墓を見ることはありませんでした。
遍路だけではありません。飢饉などの災害で一家全滅、寄る辺の無くなった死に対しても同じであったかもしれません。
祈りを捧げながら、やっと辿り着いたお寺でも、その最後を受け止めてもらえなかった人たち。
それは社会的常識であったと思う反面、一種の不条理に似た気持ちを抱くのです。
宗教(本来)は、生者のためのもの、それは分かりますけれど、死は生から連続した最後の姿ですから・・
宗教というものが、お寺というものが、その多くが、もっぱら為政者のために役割を分担してきた時間があまりにも長かった・・その不幸を考えさせられます。
・・・・・・・・・


海岸の道に出ました。左に見える海は斉灘(いつきなだ)。
空は晴れ渡ってはいませんが、波はなく水はとてもきれいです。
ベルギー君が追いついてきて、少しの間並んで歩いて、また追いこして行きました。
「海の向こうはヒロシマですね・・」
と言ったようでした。

 斉灘の海


 海の向こうはヒロシマ


 海辺を行く、先はベルギー君

足が相当痛んできましたが、私は、粟井坂の下の大師堂に参り、坂の上の関所跡と河野通清供養塔に行きます。
「無理するな・・」って。いえ、いえ、上り坂でも地道の方がずっと楽なのですよ。
粟井坂のことも、この先の標石のことも三巡目の日記で書いていますので省略します。ただ、書き落としの標石を追記しておきますね。和田のバス停近くに徳右衛門標石。劣化が進んで殆ど読めませんが「是より延命寺迄七里七丁」。鹿峰に同じく徳右衛門標石、「御自作やくよけ大師、遍照院江三里三十二丁」。(延命寺への案内を遍照院に改刻したものといわれる。)

 粟井坂へ 

 粟井坂の郡境石

 鹿峰の徳右衛門標石

足を引きずって、カメ歩きで北条の宿に入りました。

 松山市街北部の地図 粟井付近の地図を追加しておきます。


                                            (4月3日)



今治まで、ズルして区切る

北条の街から、港の先におカマを伏せたような形の鹿島が見えます。聞くと、鹿」が棲む島というのが島名の由来だと言いますが、神功皇后が朝鮮出征の際、立ち寄ったという伝説を持ちます。その特異な形に因があるように思えます。気になる島です。
四国の寺とも 因縁の浅からぬ行基菩薩が残したと言われる日本図。それには日本列島を取り囲む龍が描かれています。龍の動き(地震とも)を鎮めるという要石(かなめいし)が島の鹿島神社にもあるそうです。判じものですね・・でも、私は追いません。

残念ながら、足は回復せず、引きずっての出発です。何処まで歩けるか・・

 北条立岩川の朝

鎌大師に寄って鴻之坂を越えます。
この峠の前後には、三つの茂兵衛標石があります。峠の前、鎌大師の上り口に246度目、大正元年9月。峠に242度目、明治45年3月。そして峠を越えた所の下り道に、258度目、大正4年2月。後の2基は三巡目の日記にも書いたように、添句付です。
下り道の標石は、新道との三差路にあり、寺名の刻字が「延命寺」、「延明寺」となっており謎を呼ぶ石です。
私は以前、この石は元々旧道の反対側(右側)に45°ほど回転して設置されていて、いずれの手指しも先方を指すことになり、寺名はいずれも延命寺であったのではないか、そして道の拡張のため場所を変えたため合わなくなり「命」を「明」に彫り変えた・・との珍説を考案したことがありました。
しかし、この石の前の峠の標石は、茂兵衛さんには滅多にない距離付のものですし、この先延命寺までには、徳右衛門標石を改刻した標石も2基あるといいますし、茂兵衛さんは徳右衛門さんに比べて、論理性、厳密性より熱情が勝っている人のように思えてきます。なんでもあり・・あまり気にしない方がよいのかもしれません。

 峠下の茂兵衛標石「延明寺」


 鴻之坂から見る浅海の街

峠から見る浅海の街とその向こうの海の風景は、何度見ても飽きないものです。
浅海の阿弥陀堂の前で休んでいると、高校生か?風来坊か?という感じの若者がやってきて、芸能人では誰が好きか?の大論議。 いやはや・・「ワシはあんまりテレビ見んからのー・・」
原番所跡。地元では「おじのっさん」と呼ばれる地蔵堂があります。その横に、徳右衛門標石「御自作やくよけ大師、遍照院江一里廿二丁」。(この石も、遍照院の部分は改刻と言われます。)

 原番所跡の徳右衛門標石

私は、ここだけはどうしても再訪したいと思っていた窓坂へ。
入口の目印は、小竹の地蔵堂とその傍にある茂兵衛標石、132度目、明治26年10月。
道を入って石垣の所を左の細い道へ。三角形の名石山が正面より右側に見えていないと間違い道。
この辺りは一面のみかん畑。畑のおばちゃんから、採りたての立派なデコポンを2つも戴きました。
やがて、溜池の堤の上に郡境石が見えてきます。「従是南風早郡」。
溜池の左の道を上ると、窓坂峠の標示が草の中。浅海の街の展望。
右へ森の中の道を行き、開けたみかん畑の中の道が、今の峠。その5、6m手前に、草木のなか切り通しの跡が確認できます。これが、昔の街道(今治街道)でもあった窓峠(まどのとう)。
池の傍の郡境石も元はここにあったそうです。
峠を下った所の小堂にある大師像(台座に「右へんろ道」)も懐かしい限りです。


 窓坂手前の郡境石


 窓坂付近から見る浅海の街


窓坂付近から見る瀬戸内海

 窓坂の切り通し跡

 窓坂下の大師堂

 大師像「右へんろ道」

この度は、ゴルフ場の中の「ひろいあげ坂」の道は行かず、田之尻の海岸の道に出ました。
遍照院で長休憩。菊間の街中の茂兵衛標石二つ(いずれも122度目、明治25年2月のもので遍照院を案内する。)を確認して、電車で大西まで移動することにします。ついにズルの決断です。

ここ(空白)

大西の駅から延命寺に向って歩きます。
右手に大池を見て、新国道を右に分けて旧国道を行くと、延喜店(えんぎだな)という所があり、道の左手に「従是延喜観音寶・・/同所醍醐天王陵・・」(下は土に埋まる)の石碑が立っています。
ここから北方0.7kにある延喜観音として知られる乗禅寺を案内しているのです。

 延喜店の標石

醍醐天皇は延喜年間(901~923)に在位した60代天皇で、延喜帝とも呼ばれ、菅原道真との関係でも知られますが、病気平癒祈願の縁で帝の勅願寺となったのが乗禅寺であると伝えられます。石碑の後半の刻文はそれを言っているようです。
乗禅寺へ行く道の先は、今治波止浜港に通じており、古くからの遍路道でもありました。
延喜店から500mほどで左に54番延命寺の参道。
参道を少し入った左山際に、茂兵衛標石、256度目、大正4年3月。この標石にはぎっしりと文字が刻まれ、「旅う連し唯だ一筋に法の国」茂兵衛さん得意の句の他「右 五十五番是迄打もどり大便利」とあります。これは、延命寺に参った後、荷物を置いて55番を打って戻り、ここから56番泰山寺へ行くのが便利と言っているようなのです。
地図を見て「うーん」と唸るのですが、茂兵衛は大正に入ってからは昔からの遍路道ではなく、今の旧国道を通って55番と往来することを勧めている節があり(旧国道上に2つの茂兵衛標石が残っている。)旧国道の「山路」辺りから馬越町を通れば、泰山寺は近いような気もします。
参道の少し奥に、天保12年の標石があり「延命寺」は枠取りの中にあり、彫り直されたとされているものです。元は「圓明寺」と彫られていたと言われているのですが、54番札所がいつの頃から延命寺に変わったのかについては断定ができないようです。
真念の「道指南」や「名所図会」では延命寺となっていますし(「道指南」の初版(1687)は伊予史談会本に拠る)、これまで見た徳右衛門標石でも、そうです。((追記)細田周英「四国遍礼絵図」宝暦13年(1763)、「道指南」の増補大成、明和4年(1767)の原本でも「延命寺」となっている。)一方、この標石のように江戸後期でも「圓明寺」であったとする証しも多くあると言います。


 延命寺参道の標石

延命寺の二の門の左側に徳右衛門標石「是より別宮迄一里」があります。
境内には大変有名な美しい真念石があります。もちろん、元々門前か道中に置かれていたものを、ここに移してきたものでしょう。
この時間、境内は大変静かで、遍路が、ぽつり、ぽつり、やってきて納経所にかける声だけが聞こえていました。

 延命寺の真念石


 延命寺近くの墓群

南光坊への道は、茂兵衛さんは賛成しないかもしれませんが、今の国道の状況を考えると、やはり、大谷霊園を越える古くからの道を選びたいですね。
この古い道の周囲には、多くの道標や舟形地蔵があります。寺を出て直ぐに、多くの墓石が集められている処があります。前に六地蔵。思わず合掌させられる壮観です。
少し行くと、コンクリート擁壁に挟まれるように茂兵衛標石、219度目、明治40年11月。
延命寺が近見山にあった頃、この辺りも近見百坊の一つとして薬師堂あった所といいます。
大谷霊園は桜がきれいでした。兵士の墓が並ぶのを見ると、伊予の国が日本のためにいかに大きな犠牲を払ってきたか、ということを見せつけられる思いがしたものでした。
今回の最後となる札所、55番南光坊。
境内でゆっくりと過ごしました。
以前の日記にも書きましたが、この大師堂は、周防大島の長州大工の一人、門井友祐が彫刻師として参加し建てられたものと言われます。門井は、あの興隆寺の仁王門にも彫刻を残しています。この大師堂でも立派な彫刻がその壁を飾っています。
境内にある静道道標「従是泰山寺十八丁」も見ました。
添えられた句 「暮かけて一里も久禮ず秋の山」

 南光坊大師堂

 大師堂の彫刻

 静道道標

ここで今回の区切りとしました。

 浅海、窓坂付近の地図 菊間付近の地図を追加しておきます。


                                           (4月4日)

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四国遍路の旅記録  平成26年春  その4

槇谷から岩屋寺へ

今日は槇谷からの道を通って45番岩屋寺に参り、千本峠で西明神に出て、時間があれば三坂峠に至る旧土佐街道も探りたいと思います。
久万の街を抜けて、上野尻から県道153号に入ります。
最初の目標は林業技術センター。山際の曲がりくねった道を行きますが、下を見ると新道が伸びて、もう完成している様子。これなら、越ノ峠までは新道を通った方が良さそうです、(新道は旧土佐街道の上を走っています。)
中野村で河合に通じる道を分岐、有江川を昭和橋で渡ります。
馬頭観音や「中ノ年女」の祈願石が置かれた地蔵を見たりします。「左 へんろみち」の自然石の道標もあります。
有江川の支流に沿って山あいに分け入る槇谷への道は、まるで隠れ里への入口のようです。


 槇谷への道の畔

荒れた田圃、藁ボッチの向こうに墓。
6年前の記憶と寸分違わぬ風景は、むしろ驚き。
文政二年と刻まれた地蔵の横の槇谷林道改築記念の道案内碑も懐かしい。
昭和18年竣工中野村から槇谷神社まで延長3.2km、工費参万壹阡圓とあります。
ほんとに、人の生活と神仏とが、今よりづっと近かった時代なのでしょうね。

 槇谷の田畑

林道改築記念碑

久万町立久万小学校槇谷分校の廃校の校庭で休ませていただきます。
この学校、明治15年七鳥村七霊小学校の分校として開校。幾度か校名は変遷し、平成2年3月廃校となります。(この七鳥(ななとり)という地名は、今も字名として、この辺りに広く残っていて、岩屋寺の所在地の字名でもあるのですが、岩屋山に棲むと伝える七霊鳥(仏法僧、慈悲鳥、鈴鳥、三光鳥、のしこふ鳥、かつぽう鳥、杜鵑(ほととぎす))に由来します。)
こんな美しく、尊い名を持ちながら、今は何と寂しい姿になったことでしょう。


 久万小学校槇谷分校(廃校)


 久万小学校槇谷分校(廃校)


 久万小学校槇谷分校(廃校)

廃校の周りだけではありません。この集落の家の間を歩いていても、人の気配を感じることがありません。やがて、この村も草木の中に埋もれてゆくのでしょうか。(江戸時代、元禄二年の記録では、槇之谷 19軒、128人とあります。)
日本の山村の多くは何処でもそのようです。私が四国の山村を歩いてきて一番感じたこともこのことです。 こういう所には住んでゆけない、日本はそんな国になってしまったのでしょうか・・
公会堂の庭に嘉永四年「いわやへ二十二丁 左へんろみち」の標石があります。
素鵞神社の傍から山道に入ります。
道傍に「へんろみち」と刻まれた地蔵があります。
一番上の家(廃屋)の傍に、岩屋寺までの案内板が置かれています。その家の方の名で「山へんろ道、道険しく足元を十分注意してお参り下さい」と。
神社から上の家は5軒。そのうち4軒が「・・跡」と記されています。
昔から岩屋寺への遍路道に住んできたという誇りと、この地を去らねばならないという複雑な思いと、そんなものを感ぜずにはおれません。
6年前は伐採作業で破壊されていた遍路道は復旧されていました。
水峠(みずのとう)標高770mまでが急坂。峠に地蔵があります。そこからは路肩の薄いトラバースルートで八丁坂(標高730m)に出ます。

(追記) 過疎の果てに・・
遍路道(またはその周辺の道)を歩いて、私の心に突き刺さり離れなかったことは、過疎の果てに招来した・・限界集落、消滅集落の存在でした。昭和30年代、日本の国の急激な変化のなかで、日本国中で生じていることと聞くことが多かったことではありますが、実際にその様を見ることは衝撃の経験でした。
この久万高原町、槙谷での見聞もその一つでしたが、私はこの後、石鎚山北麓の山村のおける、更に大規模な消滅集落を見ることになります。(平成26年秋 その4-1、4-2)
久万高原町においても槙谷の南東、高知県に接する旧美川村、旧柳谷村における過疎集落の諸相について、すでに昭和59年3月の愛媛県史(地誌Ⅱ中予)に提示されています。それを参考に「過疎の果てに・・」の様相のあらましを追ってみたいと思います。
(旧美川村は、明治初頭には、仕出、東川、七鳥日野村、中黒谷、上黒谷、大川、有枝、久主、黒藤川(つづらがわ)、沢渡の11の村よりなっていたが、昭和30年、弘形村、仕七川村、中津村の半分を併せる。昭和34年、七鳥の一部、久万町などを併合して久万町として併合。美川の村名は消滅します。)
美川村の人口の動向は、昭和35年8300人、昭和45年5400人、昭和55年3700人、平成16年の合併時に2500人と減少の一途を辿ります。
地図「猿楽石付近」を見ましょう。旧土佐街道の南側に、旧美川村の長崎、信木、ウツギョウ、ヨラキレの集落が見られます。これらの集落は、明治末から大正にかけて高知県から焼畑耕作のため入植、主にミツマタ、他にとうもろこし、大豆、小豆、ヒエなどを生産していました。ミツマタは昭和になって衰退、その後集落は廃村への道を辿っています。地図上には各集落ともに数軒の家屋が見られますが、長崎の数軒を除き他の集落はすべて廃屋または倒屋と見られます。
同様の集落は、旧美川村丸山(旧美川村の東端、二箆山(ふたつのやま)の北側斜面標高950m前後、昭和21年入植、昭和46年廃村)さらに隣接した旧柳谷村の小黒川、中久保にも見られます。(柳谷村は明治初頭、久主、黒藤川、柳井川、西谷の大字があった。平成16年久万高原町に合併。小黒川は明治26年11戸、昭和55年廃村、小黒川、中久保ともに高知県堺、地芳峠に近い愛媛県最奥の集落。柳谷村は今は地図上に名前さえ見られません。管轄町支所である柳谷は柳井川にあります。私は後に「長州大工の心と技」で訪ねることになる早虎神社は、この近くの地です。)                             (令和4年6月追記)


 遍路道の地蔵

 水峠

 八丁坂上

 岩屋寺への道

八丁坂上には、「南無遍照金剛、延享五年(1748)」と刻まれた3mほどの石碑、明治36年の京都独鈷組の標石、3基の舟形丁石地蔵が並んでいます。
ここから1.9k、細かな上下を繰り返す尾根道を岩屋寺へ。その道は多くの丁石地蔵を見る道です。
下りの道が続くと逼割行場の前。
私は理由は言いませんが、こういう行場は遠慮することにしていますが、進んで(あるいは、好んで)参られる方も多いようです。
名所図会には、詳しい記述があります。今と同じなのでしょうか。
「逼部(せりわり)岩、道ノ左の大岩なり、傍ニ大師堂、鳥井、是より大岩の間を取付上ル、葛禅定、今ハかねのくさりにて取付上る也、二十一梯、葛禅定より上リ是を上る、白山権現社、梯の上に有、此所壱間半四方の地也、小社なり、高祖大権現、梯を下リ西ノ方少し上る、岩ニ取付別山大権現社、くさりを下リ左の方へ岩木ノ根ニ取付上ル也、是よりせり割下る」
(追記:入った方の話によると、今もこの通りだそうです。葛は「かずら」と同意でしょうか。「二十一梯」は開山の法華仙人の歳だとか。)

(追記) 岩屋寺逼部(せりわり)
セリワリ正安元年(1299)の「一遍聖絵」に描かれた寺と逼部(せりわり)を見てみましょう。

絵図の右端に不動堂が見えます。堂内で向かい合っているのは一遍と聖戒(一遍の弟子、息子とも弟あるいは甥とも)と言われます。不動堂の左、三つの岩峰が聳えます。一番右、白山権現社、梯子を登っているのは前が聖戒、後が一遍と見られています。梯子の下で合掌する白装束の集団。その左の岩峰がおそらく高祖権現社。堂前に白装束の行者が見えます。その左がおそらく別山社。赤い花の咲く長閑な風景、絵図からはそんな雰囲気も伺える「せりわり」です。
次に「四国偏礼霊場記」(元禄2年(1689))の海岸山岩屋寺を見ましょう。
岩屋寺図の右図。記文概要「・・本堂不動明王石像、大師の御作、大師堂へ廊をかけて通ぜり。堂の上特起せる岩あり、高さ三丈許、堂の縁より十六のはしごをかけのぼる。・・岩上に仙人堂を立、(法華仙人堂)。・・其上に屏風のやうなる岩ほの押入たる所に率都婆あり。・・」この後、絵図の仙人堂の上の岩窟に「アミダ」と記されたやや不思議な阿弥陀仏像についての説明に移ります。(別記のため省略)図でその左に見える「仙人窟」については記文は触れていません。その他、図中、橋に続く参道に「寺マデ三町上る」の書き込み。大師堂横に高野社他二つの神祠。その上一ノ王子、二ノ王子。山門(後の仁王門の位置)先に「生木ソトバ」など雄弁です。
左図(せりわり)。「最初の岩峰、高さ三十間ほど、その上に三十尺ほどの岩上に白山権現の社鉄にて作れり。其右の岩頭に別山社、次の岩頭に高祖権現社。」 その他、山道に沿って勝手、子守、金峰、大那智などの神祠。


一遍聖絵 岩屋寺



四国偏礼霊場記 岩屋寺


山門から入って直ぐが大師堂。後に聳える岩山にも劣らぬ壮大さに、改めて見入ります。
参道は標高差200m、バスや自家用車の遍路が息せききって上ってくる道です。道傍の奉納地蔵群も荘厳な風情です。
純白の衣の遍路さんが列をつくって上ってきます。
「こんにちは・・ごくろうさん、ごくろうさん・・」

 岩屋寺大師堂

参道の奉納地蔵

 参道の奉納地蔵


 岩屋寺に参る遍路


 岩屋寺に参る遍路

岩屋寺に参る遍路


 本堂横の岩窟

ここで岩屋寺についてこれまで書いてこなかったこと二つを追記しておきましょう。

(追記) 岩窟の阿弥陀像、大師堂
一つは本堂の横、16段の梯子で上がる仙人窟の更に上にある阿弥陀像のことです。

それは垂直に切り立つ岩壁上の巨大な顔の右目の窪みとも見える岩窟の中に置かれています。真下からは見ることはできませんし、かなり離れた所から目の良い人であれば微かにそれと・・
澄禅「四国遍路日記」には「其ノ洞ノ内ニ阿弥陀ノ立像在リ、イ物ノ様に見へタリ・・」と。「名所図会」には「洞の阿弥陀、仙人堂の上にあり洞の中にあみだ尊有り」と紹介。
また、寂本の「四国遍礼霊場記」には「不動堂の上の岩窟をのづから厨子のやうにみゆる所に仏像あり、長四尺あまり、銅像なり、手に征鼔を持、是を阿弥陀といふ。」とあり、その像容から阿弥陀というを「あやしむ人あり」としてそれを是認した書きよう。「いつの比か飛来るがゆえに飛来の仏といふ」とも。
鉦鼓を持つ像といえば、この寺にも縁の深い「踊り念仏」で知られる一遍上人を思い浮かべてしまうのは早計でしょうか・・
しかし、最近の超望遠カメラやバルーンを用いた撮影画像を見ると、像の手は来迎印を結んで鉦鼓は持たぬように見え、全容も阿弥陀に相応しいように思えます。果たして江戸初期に見られた像とは違うものなのでしょうか・・あやしみます。

もう一つは大師堂のこと。
仁王門を過ぎてすぐ大師堂の前に立つとその独特の威容に圧倒される思いがします。
宝形造、銅板葺き、向拝部の角柱を二本組とし柱身に膨らみ(エンタシス)、柱頭部をバラの組紐状の装飾を付けられています。また、内部の円柱頭部の挿肘木を輪で繋ぐ構成など随所に西洋建築の手法を採り入れたものといわれます。大正9年、大蔵省の技手であった河口庄一の設計、2007年国重文に指定されたもの。
写真も追加。

 大師堂

阿弥陀の写真も追加します。普通カメラだからこの程度。トイレの所からです。(h29.10)




久万方面への帰り道は、参道を下り、直瀬川の橋の手前を左折するのが遍路道。
川に沿った崖の道で維持は大変のようです。今も崩壊箇所があるようで、一旦県道に出た所(古岩屋トンネルの入口)以降が通行止となっています。
古岩屋荘の先から左、山道に入ります。この道から見る「古岩屋」も壮大なもの。
八丁坂上り口を経て、なだらかな上下を繰り返す道を行きます。
この道で、60過ぎと思われる女性と会いました。
話をしていると「広島じゃがー・・」
小さな自家用車に車中泊りしながら札所をまわっているとか。当然、山道は歩きとなります。いろいろな形の巡礼があるものです。
一旦、県道に出ますが、その後も狩場まで県道を通らず、畑中の道を行くことができます。丁石もいくつか残っています。
河合の四国のみちの休憩所の傍に、嘉永6年の「是より岩やちへ六十丁、うちもどり/是より志ようるりちへ四里八丁」の標石、栗田修三の八十八度目の石など4基が集められています。

休憩後、千本峠(せんぼとうげ)を上ります。
峠の近く、左に「右へんろ道」の標石。その向いに寛政七卯十二月、右へんろ道と刻した大師像があります。
切り通しの峠を下って50mほどの所、元々の道はここから高野の集落に通じていたようですが、凝灰岩の崩落により道が無くなり、今は下って上り返す道となります。峠下は昔の崩落を思わせる大岩が散乱しています。
この度は峠から0.5kほどの地点、最近、道が崩れたようで、更に下る迂回路が示されています。
以前と違い、四国のみちの道標は確実に増えていますが、この道の維持は大変のようです。
高野の休憩所からの展望はなかなかのもの。
ここからは舗装道と地道を繰り返し菅生の採石工場の傍まで下ります。新旧の道標が豊富ですから、それを見落とさなければ、迷うことはないでしょう。

 千本峠の大師像

 千本峠

 千本峠を下って

ここから、お約束の通り、すぐ近くの高殿神社にお参りし、三坂峠近くの樅ノ木あたりまで旧土佐街道(もちろん、松山方向に進む道は「松山道」と呼ばれていたでしょう。)を探りました。
三坂峠から久万に至る旧土佐街道は、大まかに言えば現在の国道33号に沿っていたのですが、正確には重なった所の方が少ないというほどなのです。昔の遍路は当然ながら旧土佐街道を歩いたわけですから、古道好きとしてはやはり気になります。
古い街道であった証しは、里程石、遍路道標、常夜灯、石仏、遍路墓などの石造物ですが、こういうものを確認し手に触れて歩くのも楽しいものです。

三坂峠を上ってきた旧土佐街道は、国道のやや南を通っていたようですが、東明神野地付近は国道を大きく外れ、久万川の東岸近くを走っていました。この付近、街道の名残りと思われる独特の地形が確認できる所もありますが、六里石は残念ながら見落としました。(後の機会に確認。)
旧街道はその南で国道と交差し、高殿神社の裏を通って久万の街中、旧国道を右左します。
この辺りには、7里石や多くの遍路道標が残されています。
(追記)入野の民宿でんこの細い裏道、旧土佐街道を南へ行くと、ちょっと気になる道標があります。ここに追記しておきましょう。
蒲鉾型で上部に大師像、その下に「是より・・」と刻字、下部欠損。三坂峠南の徳右衛門標石に酷似した道標があります。直前に馬頭観音も。気になる道標です。
その南、県道を越えると民宿一里木の前に土佐街道の案内板とともに七里石。
さて、上記に関連してひとつ考え過ぎ(妄想かも)をやらかしましょう。
久万から八坂寺のかけての道では街道と遍路道が重なっています。この道では、徳右衛門標石の設置位置は土佐街道の里塚石の位置に微妙な配慮がなされている、という気がするのです。(勿論、現在の標石の位置は変化していますから当初の位置を想像しながら・・) 
現在確定されていない久万町街区及び明神の徳右衛門標石と七里石、六里石。三坂の徳右衛門標石と五里石(森松町須我神社に移設されたもの)。 浄瑠璃寺の徳右衛門標石と四里石。 八坂寺門前の徳右衛門標石と三里石(現レプリカ)。夫々徳右衛門標石と街道里塚石は「着かず離れず・・」微妙な位置関係にあると思えます。
この妄想からしても、入野の道標は徳右衛門のものと見たいのは正直なところ・・

 

 土佐街道七里石

それからの旧街道は、この朝通った槇谷への道の途中、越ノ峠から山の中に入り、土佐国境の黒滝峠を越えていたのです。


 土佐街道の名残り(野地付近)


 土佐街道の名残り(宮ノ前付近)

もう夕暮れとなりました。ちょっと疲れました。久万の宿に戻ります。

 久万付近の地図 岩屋寺付近の地図を追加しておきます。

                                           (4月1日)


三坂を下り松山へ、浄瑠璃寺、八坂寺、西林寺、浄土寺、繁多寺

昨日、かなりの部分を歩きましたが、また久万から三坂峠まで国道33号を歩き直しです。
東明神の旧街道との合流地点に自然石の標石「浄るりじ道 三リ四丁半/いわやじ道 三リ/明治三十年」。三坂峠まで1kの地点に徳右衛門標石「是より浄るり寺へ二里」。国道から四国のみちに入った所に、宝永元年の年号のあるものを含み3基の遍路墓があります。

 三坂の徳右衛門標石

 三坂の遍路墓

 松山方面の展望

 雪割一華

三坂を下る道、この旧土佐街道(松山道)でもある道は、江戸初期、久万の山之内彦左衛門光実(晩年仰西と称した)によって拓かれたと伝えます。(この仰西という名前、千本峠を下った道が土佐街道(国道33号)に合する場所に残る土木遺産「仰西渠」によっても知られます。)

峠を下って少々、春霞、茫としていますが松山方面の展望絶佳。

ちょっとワルサに・・「名所図会」に描かれた江戸時代の見坂峠の展望図を載せておきましょう。
「三ツノハマ」や「イヨノフジ」(興居島の小冨士か?)、遠くに藝州、周防、長門の書込み。それより、近くの茶店の賑わい、旅人の楽しげな様子が何とも羨ましいですね。
(追記)「道指南の三坂よりの風景」
真念は「四国辺路道指南」で 「・・此峠より眺望すれバ 千歳寿く松山の城堂々とし、ねがひハ三津浜浩々乎たり。碧浪沙洋、中にによ川と伊予の浜、小富士駿河の山のごとし。ごゝ島、しま島、山島、かずかずの出船つり船、やれやれ扨先たばこ一ぶく。くだり坂半過、桜休場の茶屋。大師堂、是堂ハ此村の長右衛門こんりうして宿をほどこす。・・」と記す。
最後の茶屋、宿は数軒あったと伝えられる。その一つは今に残る「坂本屋」であろうかな・・(令和5年2月追記)



見坂峠(名所図会)

街道の石畳が現れ、鍋割坂の標示。嘗て、行商の金物屋が鍋を石畳に落として割ったことによる命名であるらしい。
道傍に遍路墓を見ます。ふと足元に目をやると、一面の雪割一華。以前にも見ました。この坂は知られた群生地なのかもしれません。
坂道を下ると満開の桜のお出迎え。坂本屋の前を通り下った所も桜という所。
坂本屋では土日に「門前の小僧」さん達がお接待をやっておられるとか。遍路にとってありがたく、尊といことだと思います。今日は水曜日、残念です。
窪野で網掛石を見、土佐街道の四里石を見て、46番浄瑠璃寺へ。

 桜のお迎え

 窪野の古い墓

 土佐街道4里石

石段前の子規の句碑「永き日や衛門三郎浄るり寺」に迎えられます。
本堂正面の「薬師如来」の扁額の上。宝塔を手にした仏さんと、その下に猿のような顔が覗いている。不思議な図柄。M先達さんにお教えいただき初めて気がつきました。
境内には徳右衛門標石「これより八坂寺迄五丁」。徳右衛門標石が境内に置かれるのは珍しいこと。

 浄瑠璃寺


浄瑠璃寺本堂

(追記)浄瑠璃寺の縁起は不明
この寺は、江戸期の日記等でその由緒、状況について語られることが極端に少ない。興廃した寺という様であろうか。
四国遍礼霊場記では「当寺本尊薬師如来、日・月光、十二神が囲っている。・・」と極めて簡単に記したあと「門さきに川横たわる。水は昼も夜も変わらず流れている。されば水は常に入れ替わっているのだ。世の中もまた絶えず動いており人も変わっている。昔のことは消え去り伝わらない所以である。 此寺の興廃についても分からない。惜しむべきことだ。」(口語訳風に改めた)と書かれている。
言い訳のように川水の道理が持ち出される・・何か理由があるのであろうか。江戸前記には札所の根拠は失われていたとも・・
四国遍路の札所がほぼ確定するのは、江戸初期と言われているが、実質的にはさらに遡るのではないかとも思わせられる。
                                (令和5年10月追記)

47番八坂寺までは1k足らず、すぐ着きます。
八坂寺の門前に徳右衛門標石「これより西林寺迄三十五丁」。



八坂寺の山門(正面は本堂)               「四国遍礼霊場記」の八坂寺図

(追記)「八坂寺の変遷」
熊野山妙見院八坂寺。寺伝によると役行者の開基、本尊阿弥陀如来、恵心僧都の作と伝えます。その後、熊野権現を勧進し十二社権現ととに祀り修験道の根本道場として栄えたと。
「四国遍礼霊場記」の絵図には、現在参道正面にある本堂の位置に「鎮守」十二社熊野社が描かれています。同図には「本堂」「本坊」「浄瑠璃寺道」「西林寺道」さらには長閑な田園を想像させる「田家」の表示もあり興味深いもの。
霊場記には「今大師の遺裂きこゆることなし」(大師の事績は残っていない)とも記されます。江戸時代初期、寺は荒廃して何も残されていないという状態であったのかもしれません。
江戸中期以降、修験の寺から四国巡礼の寺(弘法大師と衛門三郎を祀る寺として・・後に衛門三郎の本拠は石手寺に移る)に変わって行きますが、堂宇は江戸後期に本堂の位置に大師堂が建てられた以外大きな変化は無かったと言われます。昭和も後期になり、鎮守の位置に大規模な本堂が建てられ寺容の大きな変化が見られ、現在に至っているようです。
なお、現在はここよりかなり離れた砥部町高尾田にある真念石は、喜代吉榮徳氏により八坂寺参道にあったと特定されたもの。その標石には「正めんちん志/右へん路/左ふ多志よ」と彫られる。(ちん志:鎮守、ふ多志よ:札所) まさに絵図のとおりの状況が再現されています。
また、寺の後ろの山にある「鉢久保」について「四国遍礼名所図会」に「衛門三郎大師の御鉢を砕きし所」との説明があります。
                                (令和5年11月改追記)

   

八坂寺を出て、えばら湖(土用部池)の土手下に、年号が記されているものでは、伊予最古と道標があります。「(手印)右遍ん路道 貞享二乙丑三月吉日 法房」。貞享二年は1685年。
ここから北へ田圃の中の道を進み文殊院へ。
途中、旧土佐街道が分岐し、三里石のレプリカがあるのですが、これは後ほど・・

 伊予最古の道標

 八坂寺門前の徳右衛門標石

私は、荏原城址の前を通って東、渡部家住宅(国重文)に向います。
荏原城は戦国時代の城、東西130m、南北120m、四周に濠をめぐらせ、なかなか立派な城構えを想像させます。河野氏の家臣、平間氏の居城であった時、豊臣秀吉の四国征伐により落城・・桜咲く、夢の跡でした。
松山市東方町の渡部家住宅。
この建物は渡部家の三男が、藩主の命により入り庄屋としてこの地に入り、万延元年(1860)に着工、慶応2年(1866)に上棟した住宅。二階建表門(長屋門)、東に白壁造りの倉、西に座敷庭を配し周囲を土塁で囲っています。主屋は本瓦葺ですが、主屋根の一部に茅葺の越屋根を配して、農家であることを示したと言われます。主屋内は、北側を内向き部屋とする典型的な農家の配置を踏襲していますが、随所に武家屋敷としての仕掛けと造りが取り込まれています。土間部分から見上げる大梁の材の大きさは大庄屋の力をものと言われます。
質実剛健といった印象を持たされる気持ちの良い住宅でした。
この住宅、本来は土、日にしか公開されていないのですが、たまたまボランティアの方々が清掃に入っておられました。教授風の方もおられ、解説付で見学させていただくことができました。
老遍路姿の余禄でしょうか。ありがとうございました。

見学させてただいた時は知らなかったことですが、渡部家住宅を建てた大工について後に知ることがあったので追記しておきます。

(追記) 渡部家住宅の大工
渡部家住宅の主屋に関する棟札が二枚あり、その一枚に「棟梁 村 徳次郎 同脇 大三島 宗次郎・・八代 安右衛門、多七、平五郎、市太郎、宮太郎・・」とあるということです。八代は八代嶋のこと(屋代島とも書かれる)、今の周防大島。江戸後期から大正に至る時代、伊予・愛媛、土佐奥地の社寺建築で活動した「長州大工」がこの住宅建築にも参加していたのですね。興味をそそられることですのでここに記しておきます。



 渡部家住宅長屋門


 渡部家住宅主屋


 渡部家住宅主屋


渡部家住宅座敷

さて、ここからまた恵原町の主遍路道に戻ります。上野町にある茂兵衛、88度目、明治19年3月「(手印)道後 西林寺/左八坂寺/左松山道」。この標石はいわば「へんろ分れ」。「左松山道」は松山から見れば土佐街道。

松山札の辻から始まる旧土佐街道は、ここまで遍路道とは別のルートで進んできていました。この「へんろ分れ」からは、遍路道が八坂寺に寄る区間を除いて、旧土佐街道と遍路道は重なります。旧街道は文殊院近くの三里石、窪野町榎の四里石を経て三坂を上るのです。
さて、大分余談が続きました。(えっ、元々余談だろうって・・まあ、まあ)
「へんろ分れ」の茂兵衛標石の先を右折して札始大師堂へ。
県道40号に合流する所に茂兵衛標石、133度目、明治26年。
重信川に架る久谷大橋を渡ります。
重信川に橋が出来たのは、太平洋戦争後であったようで、それまでは川の水に浸かって渡河していたのでしょう。(旧土佐街道の渡河地点は、ここから西に約2k、そこに橋が出来たのは明治37年といいます。いずれにしても明治の中程まで、重信川は徒河が常識であったようです。)
昭和の始め頃は、川の両側には遍路宿や接待所もあり、また河原では多くの遍路が野宿して煮炊きをしていたと言います。
橋を渡って西へ20mほど、昔の渡河地点に続く道の両側には、茂兵衛標石、121度目、明治24年7月(手印は西林寺方向を示していますが、刻文は「是レヨリ金刀比羅ヘ二十九里余」)と「へんろ道 西林寺 三丁/金毘羅大門江廿九里」と刻した明治27年標石があります。
そのすぐ先、民家の塀の陰に遍路墓が5基。その先にも20基ほどの遍路墓。ここは最近建てられたと思われる供養塔と地蔵が並んでいます。
これらの標石や墓は、県道を行く遍路は見ることはないでしょうが。

 
重信川の渡河地点、橋の横20mほど

 重信川畔の遍路墓


この夥しい墓の集合

更にその少し先、夥しい数の古い墓石の集合に驚かされます。
これは遍路墓ではないと思われます。この墓の由来はすぐに明かされることになります。・・もちろん私なりにですが。
県道を越えて西林寺に続く道に茂兵衛標石、133度目、年号なし。その先、右側に「當郷餓死萬霊塔」を見ます。
「享保17年(1732)は西日本一帯が大凶作で大飢饉となった。中でも松山藩は餓死者が最も多く5705人に及び、牛馬も三千頭が死んだと伝えられる。この高井村は約半数の人々が餓死したとも伝えられる・・」とあります。
そうか・・ここから県道を隔ててあった夥しい墓石の集合の理由がわかったような気がしました。
それと同時に、この慰霊塔がここから近い寺に置かれていないことに、何か割り切れなく情けない気持ちを持ったものでした。
今回の旅ではもう一度、松山市の堀江地区で享保の大飢饉の供養塔と追遠之碑を見ることになります。

48番西林寺の門前に徳右衛門標石「これより浄土寺迄廿五丁」。
西林寺から51番石手寺まで、その道中特に記すことはありません。余談のみを一括させていただきます。
西林寺から浄土寺、繁多寺、石手寺の間は夫々2~3kで、バス遍路と歩きの時間差は殆ど無いようです。各札所で同じ団体の人と顔を合わせます。
「早いなー・・」「いえ、いえ、ワシは遅い方で・・」。
浄土寺の本堂は、何度見ても、地味だけど素晴らしい建物だと思わせられます。ただ、いつも輪違い(あれ、この時は折敷に波三文字)の寺紋を染めた幔幕に覆われているように思えます。
美しいお姿なのですから、たまには幔幕を脱いだお姿を見たいものです。
門前民家の塀沿いに、徳右衛門標石「是より者んだ寺迄十八丁」。
52番繁多寺は桜が美しい。
門前のアイスクリン屋さん、懐かしい・・今度も買ってしまいます。
51番石手寺参道口に徳右衛門標石「是より太山寺迄弐里」。その横に衛門三郎が居て、拝むひとがけっこういます。

 西林寺

 浄土寺

 浄土寺

 繁多寺


 石手寺参道口の徳右衛門標石、右奥に衛門三郎像


 石手寺

久万の道で声を掛けたベルギーの若者に再会しました。
随分真面目な人で、88ヶ所をまわった後は、ヒロシマに慰霊に行くと言っています。
「私はヒロシマで・・」と言うととても驚いていました。
ヒロシマのことも少し話しましたが・・何しろ私は英語がダメだし、ベルギー人の英語も分かり難いし・・話は殆ど進みません。
浄瑠璃寺で見掛けた女子高校生にも会いました。
「写真部で、遍路の写真を撮っていて・・」 「歩くの早いねー・・」 「自転車ですから・・」 
「あっそうか・・」。

今日は、道後温泉近くの宿です。

道後温泉


東明神付近の地図 三坂峠付近の地図 八坂寺付近の地図 西林寺付近の地図を追加しておきます。 
なお、この辺りの地図には遍路道とは別に旧街道(土佐街道、讃岐街道など)をピンク点線で示しています。お間違いのないようご注意ください。


                                       (4月2日)


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四国遍路の旅記録  平成26年春  その3

内子から小田へ

今日も半日歩き・・(半日分って、昼頃から歩くことです。) 
松山で所用を済ませて電車で内子に戻り歩き継ぎます。今日も15、6kくらいの歩きでしょうか。
まず、内子の街から水戸森峠(みともりとう)を目指します。

内子からの遍路道について
福岡大師堂からこの峠の道沿いには、元禄二年、十一年の古い道標があったということです。(元禄二年の石は、現在内子町の歴史民俗資料館に保管されており元位置は水戸森峠前と言われます。また、元禄11年の石は現在福岡大師堂前にあります。)
この峠道は、古くからの道であり、遍路道でもあったと思われるのですが「水戸森」という地名は道指南にも名所図会にも出てきません。
道指南では「○内のこ村、町、左ハ大道、右ハ辺路道、過て川わたり千セ坂、○むらさき村、此間中戸坂・・」とあります。また名所図会では「・・内の子町、土橋はなれにあり、知勢坂、峠より右へ行、左ハ松山道也。紫村、坂、大師堂、五百木村・・」とあります。ここで「大道」または「松山道」は後に「大洲街道」と呼ばれる道。現在は「知勢坂」は「知清」、「中戸坂」は「中土」、「紫村」は「村前」として小田川の南に残っています。水戸森峠を越える道が小田川の北側であるのに対し、これらの村が小田川の南であることに戸惑いを感じます。水戸森峠道より南に、別の古い道(遍路道としても使われた)があったのかもしれません。(「大洲藩領絵図」(1800頃)には、内ノ子より小田川左岸を行き、右岸に渡る道が示されています。また、昭和初期の国土地理院地図には、知清で小田川を渡り、峠、中土、(峠)、下和田で川の右岸に渡り現在の遍路道に重なる道が示されています。この道の原型が「水戸森峠より古い道(遍路道)」あるいは「水戸森峠を通らない遍路道」の存在を示唆しているように思えてならないのです・・)
その道を進めば、その高所には忘れられたように大師堂が潜んでいるようです。(日野地大師) そしてこの道からは小田川の深い谷を越して、澄禅が「・・西ノ地ヲ直ニ往ケバ カマカラト云山道ニ往也。・・」(カマカラはおそらく鎌倉山)と記した山も見えたことでしょう。


大洲藩領絵図、(内ノ子より上(北)に行けば城廻、五百木、右(東)に行けば知清、村前、川を渡って大瀬と
山越えの道が示される)


昭和初期の国土地理院地図 (水戸森峠ははっきり示される。それとは別に、知清、中土、長前、
和田と山越えの道が示される。)   (今昔マップより作成)

保存地区の街並みを過ぎ、岡町の高昌寺への分岐に常夜灯と凝った小さな道標「こんひら へんろみち」、ここが旧大洲街道との分岐。ここから、福岡大師堂の前を通り東北方向に進み、国道56号を横断して中山川を渡ると、水戸森大師堂。急坂の舗装道を上がり松山自動車道の下を潜ると、前方に内子PAが見えてきます。
右手の擬木の手摺のある道を上ると、地道に変わりすぐ水戸森峠です。
峠の手前には猪除けの柵。下の農家から声が聞こえます。
「そこ、あけてとおってくださーい・・」。 
峠は桜も満開、緑とのコントラストも見事です。


 水戸森峠付近から・・

 水戸森峠の桜

 水戸森峠を下る

峠の道標を見て、急坂を直線的に下った所が冨浦。
すぐに石浦の大師堂(西光寺大師堂)が見えてきます。この大師堂を初めて見た時の驚きを思い起こします。
日本建築の合理的構造という面より、やや装飾性が勝っていると感じる箇所もあるのですが、何といっても、お堂への力の注ぎ方が尋常ではない・・と感じます。(扁額が不釣り合いであることを除いて)すばらしい大師堂だと思います。
嘗ては、遍路の休息や接待の場として賑わったばかりでなく、近在の力士を集めて相撲も行われるなど、村人の寄りあいの場ともなっていたと言われます。
お堂の前には、光明真言百萬遍供養塔と並んで徳右衛門標石「是より菅生山迄八里」があります。手水鉢には、天保十年三月の銘。
近年は水戸森峠を通らず、国道379号を行く遍路が多いと聞きます。少しの寄り道を厭わずお参りして欲しいものです。

 石浦の大師堂

 石浦の大師堂

 石浦の大師堂

 大師堂前の徳右衛門標石

昔の道は小田川沿いではなく、今の長岡山トンネルの手前から山に入り、2kほど先の和田トンネルの出口まで山中の道であったといいます。
今も長岡山トンネルの手前、果樹園の倉庫がある所の前から山に入る舗装林道が見られます。この林道を通れば、下和田辺りまでは行けそうな気がしますが、その先はどうでしょうか・・
こういった林道の開設は、昔からの道を消してしまうケースが多いように思えます。
道は山中の道から小田川沿いの道へと。そして、長岡トンネルの開通が昭和63年3月、和田トンネルの開通が昭和60年12月、トンネルを通る道へと推移してきたのです。それから現在は、新国道の開設が急ピッチです。
雨後の濁った水の流れる小田川を横目に、長岡山トンネルを潜らず、川沿いの道を歩いてみました。
民家は一軒もありません。左手の崖の岩陰に、苔に覆われ忘れられたような地蔵や道標が潜んでいました。

 小田川の流

 小田川の流

 岩陰の地蔵

大瀬本町(成留屋、最近の地名は「成屋」と表記か)の大瀬大橋の袂に徳右衛門標石「是より菅生山七里」。土盛に小さな祠、その下の岩堂には新四国仏と見事な馬頭観音が祀られています。
この場所は、「一丁目ポケットパーク」と名付けられ、茶堂があり休憩所にもなっています。
そこに居た、いかにも長老風の人と長話。「そこにある祠は、炷森(とぼしがもり)三島神社のお旅所での、神社はあっち・・江戸の前に大三島の大山祇神社を勧請したということになっとるが、本当に祀られとんは三島明神じゃ・・とここまではいいのですが、話は飛んで大江健三郎にまで及んで止めどがない。
「いや、いや、先を急ぎますので・・」と暇乞い。勢いで、神社には寄らず歩き始めました。
その三島神社は、私が少々凝っている長州大工の仕事で、彫刻を凝らした立派な建築であることを、思いだしたのは、もう2kほども行ったところでした。残念至極。

大瀬小学校の桜が満開でした。大瀬東(石積)の、道より一段高い畑の中に徳右衛門標石「是より菅生山迄六里」が立ちます。
千人宿大師堂、楽水大師堂を過ぎやがて突合。
新国道の建設が急ピッチで、旧国道沿いの家々(あの古くからの旅館を含めて)は取り残されたような感じ、気の毒にさえ感じられます。新道が立派過ぎるのです。新と旧のアンバランス。


成留屋の三島神社お旅所、岩堂、その前の徳右衛門標石

 成留屋、岩堂の馬頭観音


 小田川の畔

 大瀬東の集落


 楽水大師の道の桜

私はここから国道380号で小田に向います。
水元にはコンクリートが流された崖に10基の地蔵が集められています。印象的な光景です。
その中には240丁から245丁の6基の舟形地蔵丁石が含まれています。
道指南も名所図会も、今の国道379号から「ひわだ坂」を越える道しか紹介していませんが、この小田を通る道も古くからの遍路道であったことの証なのでしょう。


 水元の丁石と地蔵

今日は昼頃からの歩き。少し夕闇が降りかかる小田の宿に入ります。

 内子付近の地図 大瀬付近の地図  小田付近の地図を追加しておきます。

                                             (3月30日)



鴇田峠を越えて大宝寺へ

今日の予定ルートはちょっと変則。
小田の宿を出て国道380号を真弓トンネル前まで行き、そこから畑峠を経て国道379号を本成まで。そして下坂場峠、鴇田峠を越えて久万の大宝寺まで行きます。

 杉山の朝

 渓流の桜

同宿のママチャリ遍路さん、殆ど同時に出発しましたが、真弓トンネルの前で私が追い越しました。こういう上り道でのママチャリ遍路の大変さを実感します。
「いやーごくろーさんでーす・・」 
大平の三島神社の先から、車道はトンネルに入る高度を稼ぐため、折り返しを繰り返しますが、遍路道は直登の道。
これが急な上に相当狭い。路肩が崩れ危険な所もあります。(3年前もそうでした。直してもすぐ崩れるのでしょう。)雨の日は車道を通る方がよいでしょう。
それから一つ注意事項。へんろ地図では通れるように見えますが、旧真弓トンネルは大分以前から閉鎖されています。 

 畑峠の始まり

畑峠(はたがとう)の道に入ります。
最初は林道風の広い道。それから山道。高低差は少なく歩くに楽ですが、雰囲気の良い道とはちょっと言いいかねますね。
山道から林道に出る所は、私が2巡目で通った6年前と同様「崩壊危険個所」の標示。ロープを張ったエスケープルートが造られています。
本成側から入った場合は、林道から山道への入口の発見は困難と思われます。
この畑峠越えは、平成18年7月、協力会によって復元されたという道なのですが、地蔵一基も見ませんし昔からの遍路道であったということに、やや疑問が残るというのが正直な感じです。
本成側の林道の舗装化が先の方で進行しており、やがて消えて行く道なのかもしれません。

林道を歩いて2kほど、本成の三島神社です。
その先の道の左側、一段高い石垣の上に延命山厄除大師と書かれた立派な大師堂があります。
菜の花の道を畦々(うねうね)まで来ると、椿香る地蔵とその前に大師像。その先に徳右衛門標石「菅生山ヨリ臼杵村此所江二里、寛政九巳年三月」があります。この標石は二つに折れ上部は後方に置かれています。

 菜の花の道(臼杵)

 厄除大師(臼杵)

地蔵と大師像(畦々)

 畦々の徳右衛門標石

下坂場峠への山道の入口には「鴇田峠遍路道」と書かれた平成へんろ石があって、間違い易いとの指摘があったようで、板を張って「鴇田越下坂場近道」と直されています。
下坂場峠で車道と合流、宮成へ下ります。
広い車道があるのに、葛城神社の石垣と民家の間の狭い道を通る乙な遍路道がありますが、その入口に「智證妙果大姉/左へんろ道」と刻まれた高さ2mを超える大きな標石があります。
他面に彫られた文面からすると、備前国の人が天保15年に亡くなった娘の供養を兼ねて4年後の嘉永元年に建てたもののようです。
鴇田峠にかかる坂道の入口に森田大師堂があります。堂前には天明から明治に置かれた三基の道標があります。
鴇田峠への道は緩やかな上りです。
舗装道から地道に変わり、嘗ては農場があったと思われるような開けた場所に来ると左手に小さな大師像と並んで徳右衛門標石「菅生山ヨリ二名村此所江一里、寛政九巳年二月」が立ちます。この石は山中にあるにもかかわらず、大変美しいもので驚かされます。また、この前の畦々にあった徳右衛門標石と全く同じ形式(他の徳右衛門標石とは文の形式が異なる)のもので同時に制作され設置されたものと思われ、興味深いものです。


 下坂場峠道の始まり

 宮成の遍路道


 鴇田峠前の大師像と徳右衛門標石

峠の手前、だんじり岩と呼ばれる大岩の横に大師堂。
その前に3基の願ほどきの碑があります。(このこと以前の日記にも書きましたね・・また書いちゃいました。)
「寅之年之男 ヒフ病ニテ此処ノオ大師様ニオタノモシタラオカゲデナオリマシタオ願ホドキニコレオタテマス 昭和三年建之」
その他の碑「諸願成就 胃癌 酉歳女」 「胃腸病平癒 五十三才男」
懸命に祈った人の姿が浮かんでくるような不思議な場所です。
峠には「嘉永四年奉納四国四十度大願成就・・/是より菅生山江三十三丁」の標石。その石に立てかけてあるのは青面金剛でしょうか。

 鴇田峠

 鴇田峠の地蔵

 鴇田峠の地蔵

峠を下る道は真っ直ぐ久万の街へ。
街中に嘉永五年の大きな道標「左へんろみち 岩谷寺江九十丁/右きゃくへんろみち」。左折すれば、大宝寺の参道はすぐです。
参道の店に話好きのおばちゃんがいて、今回も寄ってしまいます。
お茶のお接待。見本と称して出されるものもあれこれ戴きます。
今日と明日は久万の街に連泊。余裕です。
苔を纏って聳える杉の大樹を見上げ、「朝まゐりはわたくし一人の銀杏ちりしく」山頭火の句碑を見、私の好きな本堂横の十一面観音さまにも手を合わせ、ゆっくりとお参りさせていただきました。

寂本の「四国遍礼霊場記」によれば「・・猟師山中に入しに、岩樹撃動して紫雲峰渓に満一所より光明閃射せり、其所を認るに、忽ち一仏像あり、即十一面観音也、生ぜる菅を班(しき)まします、其所ニ就て堂やうの事をいとなみ、菅を掩安置し奉る、其猟師といえるもの、白日に天にのぼれり、是を高殿明神と齋祀す、菅を班(しき)ましますが故に菅生山と号し・・」とあります。(大宝寺に関する様々な言い伝えについては既に記しました。(三巡目第5回その4)ここでは省略。)
そう、三坂峠に行くときは、途中にある高殿神社にもお参りしなくてはならぬようですぞ・・

 大宝寺


 大宝寺の十一面観音

 大宝寺の杉

 臼杵、畑峠付近の地図 宮成付近の地図を追加しておきます。


                                               
(3月31日)


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四国遍路の旅記録  平成26年春  その2

笠置街道、峠での思い

今日は朝から寄り道です。八幡浜への古い道、笠置(かさぎ)街道を歩いてみようと思っているのです。


 霧の道を行く(宇和町清沢付近)

宿を出たその朝は霧が深く、道を間違え、宇和町清沢辺りと思われる田圃の中の道を彷徨していたのですが、笠置峠への本来の分岐は、下松葉にある明治40年の道標の辺りと思われます。
「(手印)遍ん路みち、八幡浜新道/左 八幡浜旧道 津布理道」と刻まれ、この「左 八幡浜旧道」がこれに当ると思われます。(「津布理道」は三瓶町津布理への道) 
ここから、ほぼ今のJR予讃線に沿ったルートに旧道があったのではないでしょうか。
宇和町小原の山際の集落の中の道がそれに続きます。
右手に端山禅寺を見てその道を行き、宇和町岩木の溜池の北側をまわると、笠置峠への道の始まりです。
上り口の左手に三瓶(みかめ)神社の鳥居。この神社はここより西方の港町、三瓶町の三瓶宮より勧請されたと伝えられます。
神社の高みから南方を見渡すと、広大な田園が拡がっています。ここは昔、沼地で明治中期以降開墾された地といいます。
享保17年(1732)の大飢饉(これから今治まで歩く途中数ヶ所でその惨状の記憶をみることになる・・)のため、この地方の人の大方は死に、その後に九州から菊池姓を名乗る一族が移り住んだと伝えます。その祖は、河内院様と崇められ、今も年に一度の菊池祭りが伝承されているとか。


 宇和町岩木の田園地帯

安養寺大師堂

少し坂を上った右手が安養寺。
臨済宗の寺ですが、古色の大師堂があり、その前に六地蔵。堂内には、遍路の納め札が多数貼られていたといいます。
ちょっとおもしろい話を聞きましたので余談ながら・・ 
安養寺の山号は「霊岩山」といいます。寺の裏山にある数基の古墳の石棺に使われていた緑泥片岩が寺の石段として使われているそうです。そしてその緑泥片岩は八幡浜、西宇和地方から笠置峠を越えて運ばれてきたと想像されているのです。

笠置峠の古墳遠望

笠置越えの旧道 の始まりです。
今は峠まで林道も開通していますが、林道をショートカットするように昔からの道も保存されています。ありがたいことです。
やがて、清水が流れる傍に清水地蔵。寛政8年の銘があります。その隣には小さな馬頭観音。
峠近くには、多くの遍路墓が集められています。自然石の墓石に混じる石塔には九州、松山、遠く金沢、佐渡の地名を見ます。

 笠置越えの道の始まり


 清水地蔵

 石畳の道

 遍路墓

峠には立派な地蔵があります。
嘗ては、峠一帯は笠置松と呼ばれる名物松の並木もありました。今はその根の残骸を見るのみです。
地蔵は、八幡浜側に下った所、釜倉の和気吉蔵が寛政6年(1794)に祀ったものと伝えます。
地蔵の台座には「是より北いつし江五リ」 「やわたはま江二リ」 「これより南あけいし江二リ十丁」と刻まれています。(「いづし」は金山出石寺) 
台座の両側には二基の頭の無い欠けた地蔵があります。今見る地蔵は三代目ということなのでしょうか。
今の地蔵も目、鼻が欠けた顔なし地蔵です。それは、皮膚病引いては梅毒の治癒祈願のため削がれたものといわれます。
今は休憩所が建てられている辺りでしょうか、昭和二十年代まで、茶屋があったそうです。
峠の茶屋に嫁ぎ、やがて誰も通ることの無くなった峠を去って数十年の後、卯之町の孫の家で終りを迎えた
立花イシさんは、「ワシの体の半分下は笠置で、半分上は釜倉じゃ」と何度も呟いたと言われます。

笠置峠の地蔵

地蔵台座

それほどに、人の心に思いを残す峠道とは・・
九州地方から八幡浜に上陸した多くの人が、この笠置峠を越えたことでしょう。
それらの人のなかから、小説に描かれたシーボルトの娘、お稲さんの姿を追ってみましょう。(「ふぉん・しいほるとの娘」吉村 昭(講談社文庫)より)

天保十一年(1840)3月7日、長崎を出て、卯之町の二宮敬作を訪ねるお稲の旅。
八幡浜から敬作の雇人、太吉に付き添われて笠置峠を越えているのです。八幡浜から徳雲坊、川舞、若山を過ぎ、その間、遍路姿の男女とすれ違ったと作者は記しています。
「・・山はけわしく、しばらく進むと渓流が左右にわかれて谷間に消えた。その付近から路の傾斜は一層激しくなり、釜の倉という地をすぎると笠置峠への急坂にかかった。・・お稲は胸が息苦しく、しばしば足をとめて息をととのえた。・・杖にすがるようにして山路をのぼった。・・ようやく峠の頂きに近づいた。茶屋が見えた。お稲は茶屋の前に一人の男が立っているのに気づいた。男は二、三歩こちらに歩きかけたが、足をとめると、お稲に眼を向けたまま身じらぎもしない。・・」
それが二宮敬作との再会でした。
茶屋で休み、昼食をとって、急坂を下り、池の水の輝きを見て、石崎、永長、下松葉を経て卯之町についているのです。
作者、吉村 昭の調査は周到です。ただ、笠置峠には、置かれて50年を経ない地蔵や、お稲を驚かせたであろう大松の記述がないのは残念ですが・・

「娘巡礼記」の高群逸枝は、大正8年(1919)、大分から八幡浜に上陸、四十三番明石山に行くに 大分で知り合った「お爺さん」を道連れに、大窪越えをしたと記しています。
「・・意気地なくも七十三のお爺さんに助けられて道々山百合を折ってもらったりしながらやっとの事で頂に達した・・」(「娘巡礼記」岩波文庫より)
大窪越えは、八幡浜若山から宇和町伊延へ通ずる山越えの道(鳥越峠の北)であったようです。(地図参照)
当時は笠置峠に茶屋もあったと伝えます。なぜ笠置峠を通らず、この厳しい山越えの道を選んだのか、不思議でなりません。

峠からの急坂を釜倉に下ります。
途中、所々に石畳を見ます。下り切った釜倉出店には、多くの地蔵、遍路墓、道標が残されています。

 釜倉

ここから宇和町の大洲に向う今の遍路道に復帰するため、鳥越峠の道を行きます。
宇和町大江に165度目、明治31年11月の茂兵衛標石がありますが、そこには「左 八幡浜」と刻まれています。釜倉から鳥越峠を経て、大江に至る道も古くからの道なのです。
釜倉から峠を越える現在の道(2車線の車道)は、谷底から100mも上った斜面につくられています。
旧道は、川の反対側にある、もっと谷底に近い道だと思われますが、通る人もいない今、通じていない恐れもあります。釜倉から急斜面の道を車道まで上って、その道を行きました。
鳥越峠には、「大窪山不動尊、観世音4km」の標示があります。高群逸枝たちが越えた峠の近くでしょうか。
宇和町伊延の道で「おへんろさーん・・」の声。奥様が小走りで来て、手造りのお饅頭のお接待。
「わたしらーも来月へんろに行くんよー・・」
この道、遍路姿を見ることは殆どないでしょう。奥様の心の躍動が伝わってきます。

宇和町信里の徳右衛門標石

領界石「従是南宇和嶋領」


 鳥坂峠付近から見た宇和の平野

宇和町東多田で、今の遍路道に復帰。鳥坂峠を越えて大洲まで行きます。
これまで3度歩いた道。とりたてて記すこともありません。例によって遍路標石の覚えでも記しておきましょうか。
宇和町信里に徳右衛門標石「是より菅生山迠十八里」。その先の墓地前に「従是南宇和嶋領」の領界石。これは元々、少し手前、東多田番所跡に立てられていたといいます。
鳥坂峠は、木材の伐採搬出のためでしょうか、作業道が強引につくられていて、道を間違えぬよう注意が必要です。
峠を過ぎ、日天社前の地蔵台座に「是よりアゲイシサン三里 スガワサン十七里」と刻まれます。
三本松に徳右衛門標石「是より菅生山迠拾七里、こんや作兵衛、天明四年甲辰年」が二つの舟形地蔵、一基の墓と並びます。地蔵は天明四年銘とともに「是より十丁下り常せったい所」と刻まれています。その「せったい所」は今もレストランやラーメン屋さんがかたまって建っているところですね。

 大洲城

 おはなはん通り

レトロな看板

ポコペン通り

赤レンガ館

大洲に入り、袖木に徳右衛門標石によく似た形式で(大師像)「是より す川山十六里」と刻む石があります。ちょっと気になる石です。
大洲の街は、のんびりとして楽しさが溢れるような町です。
お城の桜も見事。おはなはん通りや、ポコペン通り、赤レンガ館などゆっくり見て歩くのも楽しいものです。

   笠置峠付近の地図 東多田付近の地図 鳥坂峠付近の地図 大洲付近の地図を追加しておきます。


                                              (3月28日)


大洲から内子まで

今日は半日歩き・・(半日分って、午前中しか歩かないってことです。)
大洲の街を出て、暫く国道56号を行き、遍路シールに従って県道に入り川を渡ると、新谷の街が
見えてきます。
おっとその前に、十夜ヶ橋永徳寺と橋の下で、ちょっと部厚すぎるふとんでお休みのお大師さんにお参りしたことを書いておかなくてはなりませんね。それから、若宮下の観音堂前の茂兵衛標石、217度目、明治40年9月、永徳寺境内の徳右衛門標石「是より菅生山迄拾弐里」も記しておきましょう。
ちょっとおもしろいのは、「名所図会」に載せられた十夜橋の絵図。粗末な橋、大師堂の前に尻付けをして荷行李を背負った旅の人(阿波の人らしい)。草原の向こうは大洲の城が見える。車が引っ切り無しの今の状況と比べると、隔世の感を深くしますね。

   「名所図会」十夜嬌、大師堂の図

(追記)遍路笠の文字について
「四国遍礼名所図会」の十夜橋、大師堂の図に描かれた遍路の笠に「阿州(旧字体)」と書かれています。気になります。真念の「四国遍路道指南」には笠の文字については触れられておらず、これは江戸期の四国出身の遍路特有の慣わしであったかと思われます。遍路笠の文字について、佐藤久光「巡拝記による四国遍路」(2014)、アルフレート・ボーナー(1931昭和6)佐藤久光、米田俊秀・共訳、を参考に追記しておきましょう。
佐藤によると、昭和11年、愛媛県新居浜から遍路にでた女性の笠に○に「予」と書いたといいます。他県は「阿」、「土」、「讃」と。ボーナーは、○に「よ」、「あ」、「と」、「さ」と書くと紹介されています。(この書は訳本ですから、「よ」:「予」、「あ」:「阿」、「と」:「土」、「さ」:「讃」の意であるのかもしれません。)かな書きの図例としては、阿波、田井の浜での「田井婦人の会の接待風景」に見られます。(この絵図の作成年代は不明ですが、雰囲気からすると明治以降であるような・・ちょっと「?」と思わせる絵図かも)江戸時代から続く慣習が昭和の代になっても踏襲されていたことに、興味を覚えます。 

 
田井婦人の会の接待風景


母と娘たちの遍路装束             北海道から来た男性遍路の写真

また、ボ-ナーの本には昭和初期当時の写真が掲載されています。特に「母と娘たちの遍路装束」、「北海道から来た男性遍路の写真」には、何事とも言い難い感動を覚えます。(思わずここにコピーしました。不都合であれば削除します。)
これらの遍路が被る菅笠には、「迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北」あるいは「同行二人」と書かれているように思えます。(「迷故三界城・・・」以下の文言は禅宗の「小叢林清規(しょうそうりんしんぎ)」や真言宗の教えにも見られるもの。一般に葬式で導師が棺や骨壺に書くものとされる。)遍路の着る白衣とともに、昭和になってから次第に普及し、現在の遍路に通ずる慣習と思われます。
                         (令和5年6月改追記)


 新谷の街

 新谷の地蔵

 徳右衛門標石

さて、新谷の街。江戸時代は加藤氏の城があった所で、「道指南」には「○にゐやの町、調物よし、はたご屋も有。」とあります。(よく出てくるこの「調物」という言葉、物の調達即ち買物というほどの意味でしょうか。)
今は新しい家も混在する街並ですが、往時の面影を残してはいます。
帝京大学第5高校
の前に立派な地蔵。台座には寛政12年の文字が見えます。その前に徳右衛門標石「これより菅生山へ十リ」。美しい標石です。
旧道は高校の校庭を斜めに横切り南東に、矢落川を渡っていたといいます。
ちょっと探ってみました。
名所図会に「高柳橋、町はなれ土ばし也」と記された橋、今は歩行者用の小さな鉄橋として残っています。地蔵前の徳右衛門標石も元々はこの橋の袂にあったそうです。
この春の盛り、菜の花の咲く美しい道として現れていました。(追加した地図に細赤点線で示した道です。)


 新谷の旧道と高柳橋

五十崎町黒内坊の三差路に徳右衛門標石「是より菅生山迄九里。(正面左側に彫られた「左へんろちかみち」は後刻のようです。)
左の道は、棚田や雑木林が続くすばらしい山村の道です。
ここで同行した遍路さんは、私に草花の名を語りながら、熱心に写真を撮っていました。


 五十崎のへんろ道


 五十崎のへんろ道

 思案堂と地蔵

運動公園を過ぎ、駄馬池の傍に思案堂と呼ばれる大師堂。その周りには、六地蔵や馬頭観音、遍路標石、金毘羅道標などを見ます。この地で金比羅道標を見るのも珍しいこと。
向かいの池の土手にも多くの地蔵があります。

実は、ちょっと所用が出来て、今日は電車で松山まで行って泊ります。
今日の歩きは15kくらいでしょうか。
それにしてもまだ時間が余りますから、内子の街をゆっくり見てまわります。
内子座、商いと暮らし博物館、上芳我邸などを見ます。何といっても、街並と建物の立派な維持、保全、そして、様々な見せるための工夫には感心させられます。
見学のため置かせていただいた私の柿渋笠を見て、受付の女性は「きれい・・」と言います。
老遍路には何処でも親切です。楽しく、いい時間でした。

 内子の街

 内子座

 内子の店

 上芳我邸

 上芳我邸

 上芳我邸

 五十崎付近の地図を追加しておきます。

                                               
(3月29日)


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