四国遍路の旅記録  平成28年秋 その1 

この秋はどうも体調が晴れず、加齢も加わり、私の歩き遍路は終わりとしようか・・などと思い惑うておりましたが、何とも寂しくて、短い区切りの旅に出かけることにしました。
結局、内子からほぼ逆打ち方向で伊予の南端辺りまで歩きました。
拘りの場所を中心に飛び飛びに日記に留めておくことにします。


内子から大洲そして金山出石寺へ

1日目は内子から大洲までの短い行程。
この区間は順打ち方向ですが、4巡目にも歩いています。(平成26年春 その2)できるだけ重複記述は避けましょう。ただ、私の勝手な拘りの「旧道」については、その春の想い出を引きずって一部重複することになるでしょう。お許しください。

立派な町家や屋敷、それに内子座が残る八日市・護国地区はこの日も賑わっていました。これらの街並みは、木蝋の製造が始まった江戸中期以降のことで、それまでの内子(内の子村)の中心はその発祥地でもある廿日市地区にあったといわれます。
目が吊り上がってちょっと怖い感じの地蔵が立つ駄馬池の堤に座って、その廿日市の街を眺めます。
左手に思案堂。そのお堂と周囲の多くの石造物については、以前の日記ですでに記しました。


廿日市の街を眺めて・・

 思案堂と地蔵

 思案堂前の道標

運動公園となっている広場を通って黒内坊へ通じる道は、あまりにも鄙びた様がそれを疑わせるのですが、(大洲街道とも呼ばれる)昔からの主道であり、遍路道でもあります。
春は春で素晴らしく、秋はまた感動を覚えるほどの道傍の風景です。蕎麦の花も乱れていました。黒内坊に近い所で一基の古い地蔵を見ます。

 黒内坊への道




 黒内坊への道

 蕎麦の花

 道傍の地蔵


黒内坊の国道との合流点に徳右衛門標石があります。(この標石についても既に記したことですが、「左へんろちかみち」は設置後、国道が開通した時点で追刻されたものと思われます。)

 
内坊

新谷に向かいます。この街の前後、拘りの旧道について執拗に。
現在の遍路道(協力会指定)は、新谷の手前で国道(56号)から分かれ県道230号に入ります。旧道は別添地図の細赤点線で示す通り。
肱川の支流矢落川を二度渡り、国道南の田圃の中。それから歩行者用の小さな赤い鉄橋を渡り新谷の中心へ。これが「四国遍礼名所図会(1800)」に「高柳橋、町はなれ土ばし也」と記された橋。
この辺り、想い出深い春の写真とともに載せておきましょう。


田圃の中、旧道の名残り


高柳橋を渡る旧道

(平成26年春)

帝京大学第5高校の前の立派な地蔵。台座には「大恩禅寺 発願主 天宙和尚」「維時 寛政十二龍集庚申五月中澣」と後刻とみられる刻字。
地蔵の前コスモスに囲まれて、徳右衛門標石「これより菅生山へ十リ」、自然石の標石「右 遍んろみち」、嘉永銘の手水鉢などがあります。二つの標石はともに以前は高柳橋に袂に置かれていたといいます。


寛政12年地蔵周辺

 徳右衛門標石

新谷の中心街を出た旧道は、現在の稲田橋の南100mほどで川を渡り、最近開通した松山自動車道と矢落川の間を通リ十夜ケ橋に至っていたようです。
川を渡った所に昭和43年設置の中江藤樹の頌徳碑、常夜燈。その右に地蔵、「左 へんろ〇 こんひ〇」刻された道標。

 新谷の街


中江藤樹頌徳碑周辺

 地蔵と道標

国道56号を行けばすぐに十夜ケ橋永徳寺。
橋の下ではお大師さんが二人も寝ておられるのですが、上に二つ重ねの橋、交通の巷。川は鯉と鳩がバチャバチャ、バタバタ・・、おちおち寝てもおられないご様子。
お大師さんのお写真に、これまで日記に載せてこなかった大師堂前の徳右衛門標石「是より菅生山迄拾弐里」も加えておきましょう。

 十夜ケ橋の下

 永徳寺大師堂

 永徳寺前の徳右衛門標石

大洲の町中の遍路道は、協力会へんろ地図に依れば、国道56号とされていますが、東大洲で一度鉄道を越えて旧道に入り、若宮下の子安観音堂を訪ねます。
お堂の傍には菅生山、明石山を案内する茂兵衛標石もあります。(この標石の刻字、明石山という札所は存在しない、右側面には三角寺奥の院の刻字が浅く残っていたり・・あるいは再利用の未完成標石かもと思わせる不思議なもの)


子安観音堂と茂兵衛標石

向かいのお宅の方にお願いして鍵を開けて戴き拝します。
左は地蔵菩薩と思われます。やや様式化した簡潔な像容で、左手与願印右手には何かを持っていたようにも。
右の像が子安観音と呼ばれる。この像は堂上部にある絵画とともに一部で「かくれキリシタン」に係わりがあるといわれる。
江戸後期以降、子供を抱いた観音像が日本各地に生まれます。立像も見られますが、この像のように如意輪観音像と同様に右足を立膝して座る半跏座の姿勢で右手をほおに置き、左手に子を抱く像容は他にも見られます。
この像が後にマリア観音と呼ばれるように、キリシタンに密かに礼拝されてきた時があったのか・・私には判断できる訳もありませんが、立派なお堂の中で地蔵菩薩と並ぶと、それは尊い男女の像のようにも思われ、何処からか清楚で高貴な雰囲気を醸しだしているように感じられるのでした。
お堂上部に掲げられた絵画は、中央下に子供を抱く鉢巻を着けた女性、その上に雲に乗り後光を放つ(菩薩というより)僧形。後部の襖には漢詩、虞美人草の一部が描かれている・・キリシタンとの係わりを感じとることはできませんが、丹念に描かれた絵のように見受けました。
仏像といい絵画といい大事に守り来られたものとの貴重な出会いでした。

 地蔵菩薩と子安観音

 堂内の絵画


2日目は金山出石寺への往復です。
この寺は8年ぶりのお参りとなります。以前は瀬田道を辿りましたが、今回は地蔵道で。それにはちょっと理由があります。地蔵道の途中、梶ヤ(屋)谷にあるというキリシタン所縁の地を見ておきたいということ。
私はこの地について以前から大いに関心を持っておりましたが、今年の春「楽しく遍路」さんが再訪され、9月、詳細な報告をされたことに後押しされたこと。楽しく遍路さんの後追いをさせていただきます。

大洲より県道234号で平野町平地に向かいます。
平地の道分岐に大きな標石があります。「平地大安寺、乳薬師佛」を案内するもの、大正5年春の建立。(この標石には、大安寺への距離八丁の他、多くのことが刻まれていますが、これは前記の楽しく遍路さんのブログに詳しい。刻字の詳細は「遍路道標・愛媛」大洲市平野町平地の標石をご覧ください。)
標石の道向かいは、宇和島藩平地番所跡です。

平地の分岐と乳薬師の標石

大元神社とその参道の素晴らしい情景を左に見ると、右手上に乳薬師大安寺への上り坂が現れます。
その先が地蔵道遍路道の分岐ですが、この度は500mほど先、土居集会所の所から直接梶ヤ谷に上る道を採りました。昭和8年3月に開通した林道梶屋谷線です。舗装された急坂、上ると数軒の家があるようで、人の姿も1人、2人。

大元神社の参道

大安寺の上り口

 地蔵道の分岐

 梶屋谷林道の入口

 梶ヤ谷

 遍路道へ

地道に入り、地蔵堂からの遍路道を合流、梶ヤ谷の最奥の高みに「キリシタン大名一条兼定仮寓の地」と書かれた案内板。
集落を見下ろす小さな平地に、明治初期建立の「南無妙法蓮華経」の題目塔、ヤマモモの大樹、菊池氏の墓地跡と伝わる場所に江戸中後期の年号を見る多くの墓石、妙見菩薩を祀るお堂、そして平地の東方の石板の覆屋の中の小祠・・
妙見菩薩堂は昭和30年の再建で、破風の部分に二つの矢筈十字の透かし彫。近付けば堂の中より大きな音がする。思い余って扉を開けさせていただく。堂はヤモリの巣。
内部には石造の妙見菩薩像、台座に赤く塗られた矢筈十字が彫られています。
(妙見菩薩は北極星(北辰)を神格化して祀るもので、菩薩の名を有するが仏教的には天部に属する神(仏))矢筈十字紋は大阪府能勢町の日蓮宗能勢妙見山の寺紋(能勢は戦国時代、キリスト教との係わりが深い地とされる。)
この妙見菩薩は、左手の人差し指と中指を伸ばし、右手に剣を持つ(剣は失われている)像容で、正に能勢形像と呼ばれるもの。
石板の覆屋の中のセメント製の小祠は、その屋根の一部にドーム形の形象と十字架の基部を思わせる飾りを有する。
ある書によれば、ここは往昔「切支丹畑」と呼ばれた場所で、昭和に妙見堂が再建された場所は昔の教会址であるとの伝えがあるといいます。
前記の案内板(この記述内容には誤りが多いと指摘されるものですが)にある一条兼定の大まかな履歴を辿ってみましょう。
土佐一条家の四代、事実上最後の当主となる兼定は、1574年(31才)内紛により豊後臼杵に追放される。翌年、キリスト教に入信。大友氏の支援により土佐に進撃するが長宗我部氏に四万十川の戦いで大敗。土佐一条氏は滅亡する。その10年後、隠棲先の宇和海戸島で卒去・・と伝わる悲劇の多い人。
おそらく、キリスト教に入信、土佐の四万十川で大敗した後、この梶ヤ谷の地に仮寓した事実があったと思われます。そのことがこの地にキリスト教に係わる伝えを残すことになったと思われるのです。
何やら、悲しみと安らぎが入り混じって沁み込んでいるような、そんな梶ヤ谷の地に思えてくるのです。

(追記)「平地梶屋谷出土と伝わるキリスト像」
この地(平地 梶屋谷)とキリスト教との関わりの証しとなるより有力な遺物が伝わっています。それは宇和島藩を経て藩医であった谷家に伝わる青銅製の精巧な十字架上のキリスト像です。その箱書きには「安政年中宇和嶋領保内郷平地村通称切支丹畑ヨリ里人掘出セル物也 此ノ畑ハ当時教会堂如キ物ノ有シ所也シナラン 明治十年十月東京伊達家邸中ニ於テ割愛ヲ受ク 谷世範」とある。(この像は宣教師が招来したものと見られ、茨城県水戸の徳川ミュージアムにも全く同型のものが伝わる。)

 日蓮宗の題目塔

ヤマモモの大木

 妙見菩薩堂

 妙見菩薩

 覆屋の中の小祠

・・長居をしました。金山出石寺を目指します。
草繁茂の道を少し行くと43丁地蔵に出会えます。光背に「是ヨリ四十三丁」「梶屋谷若連中」と彫られます。
作業道を越えると、添付の地図ではほぼ直線ですが、実際は分岐の多い道。道標示、へんろ札とNHKケーブル埋設標示柱が頼りです。
道標示は、ときわ旅館の主人のもの、へんろ札は協力会、M氏、D氏のものが混在しています。
舗装林道に出ます。35丁地蔵、32丁地蔵を見て舗装車道高山道に上がります。梶ヤ谷からここまで2.2kほどでしょう。

 遍路道へ

 43丁地蔵

 林道を越えて

 35丁地蔵

 32丁地蔵

 高山道にあがる

高山道を700mほど行くと、上須戒と日土を結ぶ県道248号と交差。ここより寺まで2.5kの地道。
地道に入った所に廿二丁地蔵。15丁、5丁などの地蔵、「右をゝづ 左かみすがい」の道標も集められています。
左下から瀬田道が上がってきます。(帰路は入り込まぬよう注意が必要)7丁、6丁、3丁と多くの地蔵に出会います。
新四国仏の28番、29番を見て、奉納地蔵の列が視界を圧倒してお大師さんの大きな後姿が現れれば、出石寺です。

 県道を越えて

廿二丁地蔵、道標

 猪のヌタ場

 7丁地蔵

 新四国29番

 一願地蔵

 大師の後姿

 金山出石寺

江戸時代の初め、片目の中興十世秀厳和尚の供養仏一眼地蔵は、人々の心の中で一つの願いごとを叶える一願地蔵となり、願掛けの奉納地蔵が参道を埋めるようになったと伝わります。
金山出石寺は団体のバス遍路で賑わっていました。歩き遍路は高山道で出会った2人(一人は昨日十夜ケ橋で会った人)だけでした。

帰りは高山道を下りました。(ここでは勝手に高山道と呼びましたが、高山を経由して阿蔵の深井または八幡神社の前に下る道で一般には「大洲ルート」または「阿蔵ルート」と呼ばれるようです。)
退屈な舗装道歩きの道。杉、檜の針葉樹林が圧倒する中で1ケ所、目の覚めるように美しい照葉樹林がありました。そこで休憩です。
高山道の丁石は地蔵ではなく、天女のような観音さまであるようです。
高山から大洲の街が見えてきて、阿蔵に下ります。八幡神社の下へ下る地道は竹林が繁茂して歩行は困難のようです。

 照葉樹林

 天女の丁石

 大洲の街

(追記) 大洲から出石寺への参拝道については、添付の地図にも示しましたが(札掛(札掛大師堂)から野佐来、黒木を経て平野に至るルートもこれに含めてよいでしょう。)他の参拝道についてもちょっと触れておきましょう。
一つは八幡浜口から上る道、いま一つは長浜口から上る道。八幡浜ルートは、八幡浜から名坂峠を越え喜木川、野地川沿いに進み、山神坊(さじぼう)、防泰野を経て寺に至る道と思われます。また長浜ルートは、下須戒から柿の久保、鼻欠山の中腹を通り刈屋峠、豊茂、尻高峰を経て寺に至る道と思われます。
出石寺詣では海の人々の出石寺の灯の航路安全へのお礼参りに始まったとも言われますが、大正、昭和の時代には、周防大島(屋代島)や忠海など広島県沿海部より講を組織して、海路で長浜に入り多くの人が参拝したと言われます。もちろん四国内や九州東部の講も数多くあって、九州からの参拝者の多くは八幡浜口を利用したことでしょう。


遍路道地図「新谷付近」
遍路道地図「十夜ケ橋付近」
遍路道地図「金山出石寺付近」
遍路道地図「大洲付近」                                                (10月19日、20日)

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コメント
 
 
 
Unknown (楽しく遍路)
2016-11-21 17:32:36
枯雑草さん こんにちは
コメント、早く書こうと思いながら、リタイアーした身には珍しく忙しい日々がつづき、遅くなりました。
写真も文章も、特に今回は同じ箇所が多かったので、とても参考になりました。ありがとうございます。

私はこの秋も大洲を歩いたのですが、子安観音堂の写真に写ったコスモスの花、枯雑草さんの写真の方が、多く咲いているようです。私は順歩きでしたから、数週間違いで交差したようです。
いつか、とは言っても長いスパンでは考えられないのですが、「遭遇」できれば楽しいだろうな、と思っています。

次回は春でしょうか。ブログ更新を楽しみにしています。
 
 
 
楽しく遍路さん (枯雑草)
2016-11-22 09:09:00
こんにちは。
コメントありがとうございます。
またまた楽しく遍路さんの後追いをさせていただきました。
そうですか・・同じ頃、同じ場所を歩いておられたのですね。どこかで「遭遇」を期待したいですね。
「中道」(正確にはその近く)については、この道が整備される前に歩いた(H22.4)こともあり、Oさんともその縁でW.W.にも参加させていただきました。でも、遍路旅はやはり「同行二人」で行くもの。勝手ながら私の想う中道はありませんでした。日記にも残しません。
コバタイサオさんとは前作「潮騒の街へ」で小さなご縁をいただきました。楽しく遍路さんの紹介、きっとお喜びのことでしょう。
では、また。
 
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