四国遍路の旅記録 二巡目 第3回 その4

平成19年10月16日   番外の番外、四万十川の畔を歩く

今日は、遍路の道ではありません。江川崎から中村まで約40kの下流域の四万十河畔の道を、歩けるところまで、行ってみようというのです。
ですから、番外の番外、出で立ちも白衣は脱いでシャツ、菅笠はリュックに下げ帽子、でも金剛杖は持っていますから、60%遍路風というところでしょうか。
遍路の道も、もちろん四万十川と交差はします。もう殆ど河口に近い四万十大橋で。
1巡目の一昨年の秋、大橋の上から見た四万十川の、あの青い色は強く心に焼き付いていました。もっと、見てみたいという気持ちを抑えることはできませんでした。

6:28 窪川を発つ鉄道に乗ります。1両、乗客3人。窓の右側に、時には左に、いつも四万十川が見えています。

列車の窓から

途中の駅で、1人2人高校生が乗ってきます。真面目な服装の子、ちょっと短いスカートの子、ズボンをずらした子。精一杯カッコ付けた会話が耳に入ってくる。微笑ましい。四万十高校のある土佐大正駅で、高校生達が降りると、乗客はまた3人。

窓の左、あっ、沈下橋が見える。長生の沈下橋です。
7:20 江川崎着。駅隣の売店はまだ開いていません。そのまま歩き始めます。
自転車の高校生から、必ず「おはようございまーす」の挨拶をいただく。気持のいい朝。3kほど歩いたところ、津大橋の手前にお店があります。朝食のパンを買う。
奥さんから、道筋の情報を聞く。中村へ行くバスが日に3本、その内の一つは、ここを13:30に通るという。これは、ちゃんと頭に入れておくべき情報。

津大橋付近

空を映して

川の青さ

青の水

 岩間沈下橋

岩間沈下橋

岩間沈下橋

歩き始めて1時間30分の地点。この川の青さは何という色なのでしょう、表現できない見事な青さ。
2時間の地点。沈下橋岩間大橋に出会う。昭和41年の架橋、ポスターなどでよく登場する橋だ。
この沈下橋という橋、川が増水すると水の下に沈む、抵抗にならぬよう欄干などはありません。水の流れに無理やり抗うことのない姿勢に、限りない共感を覚えます。
4時間の地点。中半に「学童渡し記念碑」があります。そこには、学童が乗った渡し船の写真とともに、「百二十有余年の歴史を誇る学び舎の休校とともに遂にその姿を消す 平成14年3月」とあります。

学童渡し記念碑


学校に代わって、川の周囲には、カヌー、屋形船の拠点や宿が増えていったのであろうことを想います。
6時間30分の地点。二つ目の沈下橋、口屋内橋が現れます。

その先、久保川の休憩所で、車で来ている地元の人とお話します。
「へんろですか・・」、60%遍路風は、やはりバレバレ。
「札所がない市は中村ぐらいのものですよ・・」と、その理由を説明される。
昔、お大師さんが修行でお回りのとき、この地に寄られ水を所望されたが、村人はそれを断った。それ以降、頻繁に水飢饉が起こるようになった。札所も置かれない・・というお話。
貝であったり、梨であったり、ものは違うが、似たような話、四国各地にある・・と思ったりしました。
バスは新道を通るため、この先の川登で河畔を離れること、それにタクシー屋の電話まで教えていただく。

14時20分頃、後方よりバスが来ます。思わず手を挙げる。(この辺のバスは手を挙げればどこでも止まってくれるのです)バスは楽だ、楽だ!、でも川登までは2k程、アッという間だ。

川の水

カヌーが行く


 川面の輝き 

秋の空を映して

ススキ


また、歩き出します。
7時間30分の地点。日が傾きだし、遠くの川面が輝きだす。秋の雲を映しています。おー、カヌーが行く。
やがて、三里の沈下橋。そして、寂しい崖上の細い道を通って、最後の沈下橋、佐田橋に着きます。歩き始めて、8時間30分。

遍路姿の人が自転車に乗って、橋を渡ってきます。近づいて見ると、何と昨日会ったIさん。
「いやー、何でこんなところに・・」
「昨日、あなたが四万十川を歩くと言っておられたから、私もちょっと見たくなって、中村まで来たのですよ。ちょっと鉄道に乗りましたけどね・・。宿で自転車借りてここまで来たのですよ・・」。
写真を撮り合い、これからの道中の無事を誓いあってお別れしました。
不思議な出会い。

屋形船

三里沈下橋

 三里沈下橋



 佐田沈下橋

私は、タクシーを呼んで、中村駅前のビジネスホテルまで行きます。
番外の番外、四万十川、河畔歩きの終わり。
そして、私のこの度の区切り打ちもここで終わることにしました。

本日の歩行:45200歩(江川崎から佐田橋まで、約32k)

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四国遍路の旅記録 二巡目 第3回 その3

平成19年10月13日   青龍寺の境内でちょっと真面目に考えた

この日は、35番清滝寺にお参りした後、36番青龍寺を打って、打ち戻り、浦ノ内湾奥の宿まで、約34kを歩く予定でしたが、予定した宿は今年中休業、その手前の宿も休みということで、急遽予定変更、36番下の宿まで、20k以下の行程となりました。

35番札所清滝寺は、山の中腹、150mにあります。今回の区切りも5日目、初日あれほど苦しかった登りもこれくらいなら、どーてことなくなる。不思議なもの。
清滝寺は雰囲気のある立派なお寺。境内から見る土佐の街並みが朝の光の中、輝いていました。

(追記)「清瀧寺について」
南路志には、医王山清瀧寺の項に次のような記述がある。

「寛文8年(1668)の火災で縁起を焼失。本尊薬師、行基作、日光・月光・十二神、運慶作と伝える。 真如親王石塔、鎮守山王権現、大師堂等が有る。」

清滝寺山門

清滝寺 

 滝寺本堂

山を降り、再び宿の前を通り、36番に向います。
塚地峠越え、山道ですが、標高190m、それほどきつい登りではありません。
それでも、この遍路道に並行してトンネルで抜ける県道があり、多くの歩き遍路はそちらを通るようです。

塚地峠への道

 塚地峠より宇佐の街を望む

峠からの下りの山道が、長い。
突然、上の方から地響きが。なんだ、なんだ、猪でも・・と思って山の斜面にへばり付いて、構えると、何とマウンテンバイク2台が眼前を駆け抜けます。メチャをする若者もいるもんだ。一人は女性のようでした。肝を冷やす。

宇佐の街に入る。長い宇佐大橋を渡って、36番札所青龍寺に着きます。長い石段を上り、本堂、大師堂にお参り。

青龍寺の石段

青龍寺本堂

この青龍寺は、空海、後の弘法大師にとっては、やはり特別の寺でしょう。
31歳の空海が遣唐使船に乗って入唐し、様々な苦労の末、長安の青龍寺の恵果阿闍梨から密教の総てを伝授された・・、その同じ名前の寺ですから。
天才的な頭脳の持ち主であったとはいえ、外国から来た1青年を自らの後継者に選んだ恵果和尚の心はどこにあったのでしょうか。
中国では、その後、密教は廃れ、わが国では空海の真言密教として栄えた。

私は、四国遍路を始めた頃、空海の真言密教の教えと、現世利益の要素の多い、お大師信仰とのギャップに戸惑ったことがありました。
今はこのように考えています。遍路の宗教的なしきたりや作法は、それはそれで尊重すべきものです。しかし、四国を歩いて何を得るかは、自らの心の中にあるのでは。般若心経に言う「空」の実態のように、自らを白くして歩いている間に接する総てのものを受け入れることによって何かが得られるのではないかと。

青龍寺本堂の左から、奥の院に行く道があります。
以前よりは、かなり整備されてはいますが、けっこう荒れた道です。スカイラインとその枝道を1回づつ越えて、さらに参道は続き、やがて多くの鳥居の先に不動堂が見えてきます。青龍寺から1500歩、0.6k。
不動明王を祀るお堂の前の石畳は、靴を脱いで裸足で進み、お参りします。

奥の院の鳥居

奥の院不動堂

青龍寺の石段の下、納経所に戻ると、Eさんがいます。
ちょっとバツが悪そうに「これから奥の院に行こうと・・」。
見れば傍らに、若い女性遍路。おーそうか、そうか、「どうぞ、どうぞ・・・」。

まだ時間が早すぎ。寺前の休憩所で時間を過ごし、14:30宿「酔竜」に入りました。

本日の歩行: 35470歩 地図上の距離:19.4k



平成19年10月14日   仏坂不動尊の霊気

今日は、宇佐まで打戻り、浦ノ内湾の北岸の道を行き、仏坂不動尊を経て須崎の別格5番札所大善寺に参ります。そしてその先、安和に宿。

朝食を戴いていると、もう発つ人がいる。60代後半とお見受けのHさん。この人はかなり足が遅い。後出の私でも、宇佐大橋の手前で追いつく。「先に行ってくれ・・」というので先行します。

宇佐大橋

浦ノ内湾、随所に渡船場や釣り筏がある、波静かな入江。以前、南側のスカイラインから眺めた風景よりの想像は、残念ながら裏切られました。
浦ノ内湾から離れて、標高140mの仏坂峠を越える県道314号に入ります。
この314号という道、へんろ地図では、やたらと太く書いてあるので、少なくとも片側1車線の道だと誤解しちゃいますが、アスファルト舗装ではあるが、峠付近は車1台がやっとの山道。
おまけに、ヘアピンカーブをカットする短い遍路道まであります。
仏坂不動尊(岩不動)へ下る遍路道は不動尊直前が急で、雨の日は相当危険だと思わせられます。

県道314号線

仏坂不動尊

不動堂の中に、正に岩の不動が鎮座します。誠に幽玄な雰囲気をもつ霊場です。
親蝋燭が立ててあったり、説教場などもあるようですが、常時は無人。ちょっと下ったところに、本寺光明峰寺があります。

須崎の街に入り、道がやたらと複雑に。大善寺へ行く道を何度も聞く。

別格第5番大善寺

別格第5番札所大善寺。
道路の傍に大師堂があり、女性の先達さんを先頭に10人ぐらいが読経中。終わるのを待って、「本堂はどちらでしょう・・」と聞くと、知らないという風に手を振る。こちらの御一行、どうも本堂参拝は省略したらしい。
大師堂の左側に鳥居があり、急坂の階段が丘の上に続いている。そこを上がってみると、果たして本堂がありました。
見れば丘の下から4人乗りのケーブルカーがあります。1人150円だそうだ。

(追記)「大善寺について」
南路志には「八幡山明星院大善寺」の項に次ぎのような記述がある。
「開基は弘法と伝える。本尊阿弥陀、恵信作(当時より不明)。元々古市町に有ったが、宝永4年(1707)の大地震津波により流失、古城山(山上)に移る。
寺の故地に近い今在家には、白鳳13年(684)の大津波に移ったと伝える地蔵の他、地蔵堂、大師堂、虚空蔵堂、弁財天社等が集合する。」(略意訳)
この近くでは最近(2022年)大師所縁の「二ツ石」が発掘されたことでも知られる。


須崎の街を過ぎると、眼前に海が広がる。心が開かれるようです。海の傍まで達する山襞、その間を鉄道が1本どこまでも伸びています。

安和の海 

安和の海 

安和の鉄道

15時、民宿、安和の里に着きます。
若い女将が、抹茶とお菓子を出してくださる。珍しい宿。
17時頃、同宿客到着。何とHさん。

本日の歩行: 48020歩 地図上の距離:30.6k



平成19年10月15日   仁井田五社の清らかな風

今日は、どうしても37番岩本寺まで行きたい。二つの峠越えもありちょっと厳しい行程。
朝食は7時頃というのでお断り、まだ薄暗い6時前に宿を出て、コンビニで食事。でも、宿を出るとき、「お気をつけて・・」と、女将さんから、バナナもらっちゃいました。

焼坂峠(標高228m)を登ります。この道の登りは非常にきつい。遍路ころがし、焼山寺遍路道の一山分は十分にある手答え。蜘蛛の巣を払いつつ、大汗をかいて、1.5時間近くを要す。

中土佐町からは、大坂遍路道で七子峠(標高287m)を越える。このルートには、大坂の他もう一つ、そえみみず遍路道というすばらしい道があり、前回は通行しましたが、今は四国横断自動車道建設のため、来年末まで通行できません。
再開になっても、一部ルートの変更や、石畳化や階段化が施されるようです。素朴な土の道を望む遍路にとっては残念なことです。

 すすきの川

七子峠への道

 七子峠より

大坂遍路道のルートも自動車道の予定ルートと交差しています。至るところで工事、山を切り崩しています。
七子峠に上がる最後の登りは、標高差200m近くですが、足元が土の道で案外楽なのです。約40分。
休憩所で、60歳前後とお見受け、Iさんにお会いする。初めての遍路で、通し打ちの予定。2ヶ月間歩きの訓練を積んできたこと、病気のこと・・すっかり話し込んでしまいました。私が2巡目と知ると、この後の宿やルートについて、いろいろ聞いてこられる。

七子峠からの下りは、快適な土の道、スピードアップ。影野からは、国道56号を行く。
私は、元の37番札所、高岡神社(仁井田五社)に行くため、Iさんと別れ、国道の右側に神社の鳥居がある所を右折します。

コスモスの道

四万十川

四万十川



 四万十川の流れ、向こうが高岡神社の地

高岡神社(今宮)

この高岡神社に行く道、田圃や畑の中を通り、辺りにはコスモスが咲いていたりする、雰囲気の良さ。やがて、四万十川も見えてきます。
四万十川の橋を渡ると正面に神社(中ノ宮)の鳥居が見えます。中ノ宮を中心に右に今大神宮、東大宮、左に今宮、森ノ宮と五つの神社が並ぶ。
五つの社を拝す。森の宮のみは、長い石段を上がった丘の上です。
夫々の神社の建物自体、そう旧いものでも、また豪華でもないが、五つがこの地に場所を占めるとき、何とも言えぬ壮麗さと、清らかさを醸しだしているのです。
遍路サイトのどくだみさんであったか、前に大河、後方に山を背負ったこの三角地帯の素晴らしさを語っておられたが、実見すると納得できます。

江戸時代、寂本の「四国遍礼霊場記」には、「・・広々と開けた土地で、神社の前は尋常でない雰囲気が漂う。前に仁井田川という大河が流れている。・・」と記してあります。仁井田川は、今の四万十川です。
神社の間に民家など無かったであろう当時の一層幽玄なたたずまいが想像されます。今は、中ノ宮の境内に寺跡の標柱だけが残る、神宮寺であった福円満寺が昔の37番札所、その後、中ノ宮が札所であった時期もあったが、最終的には別当寺であった岩本寺に移り現在に至っているという。
訪れる遍路は少ないようですが、是非お参りして、その清らかな風に触れたい場所です。

「福圓満寺について」
「南路志」には福円満寺について次のように記されている。
古代、弘法大師が五社神宮を霊場と定めるとき、福円満寺を建立したと伝わる。長宗我部元親の時、寺は破壊され(弘治年間1555~58という)、昔あった寺の名のみが残る状態となっていた。
江戸末期までには岩本寺が神宮寺となった。


岩本寺山門

岩本寺本堂

本堂の天井絵、全国から募集したものという

ここより、窪川の市街を通り、第37番札所岩本寺まで3.5k。
お参りして、さすがに疲れ、境内のベンチに座っていると、落葉を1枚1枚掃き清めている僧衣の老女から「お疲れのようね・・宿は決まっているの、早くお休みなさい・・」と労わりの言葉。
16:15窪川駅前の宿、末広旅館に入りました。

本日の歩行: 50270歩 地図上の距離:36.6k

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四国遍路の旅記録 二巡目 第3回 その2

平成19年10月11日   朽ちた小さな大師堂の前で考える


高知県の中央部、香南市、南国市、高知市の4つの札所にお参りします。
行程距離は、それほど無いが、札所が多いこと、高知市内の道を通る結構厳しいルート。
早目の6:00朝食、6:20出発。7:10第28番札所大日寺到着。

各札所の本堂と大師堂で、読経するが、私は勝手に般若心経、光明真言、ご宝号(南無大師遍照金剛)三辺、回向文で省略させていただいています。それでも30分はかかります。

大日寺山門

大日寺本堂

大日寺先の遍路道

土佐山田松本の大師堂

28番から29番の間は、民家の軒先や、畑の中の道など、遍路道は変化に富んでいます。
土佐山田町松本というところに大師堂があります。ちゃんとお花があり、お供えがあり、地元の人の心を感じるのだが、お堂は朽ちて今にも倒れそう。四方から鉄パイプで辛うじて支えられているのです。
傍らには、お堂補修のための寄付を呼びかける張り紙を目にします。
88ヶ所の札所の寺は、どこも立派であり、新たにお堂を増設したりしているのを目にすることも多い。小さな番外霊場やここに見るお堂のように、地元の人に委ねられた霊場との状況の格差は極めて大きい。
遍路道を世界遺産に、の運動も進められているといいます。札所のみが遍路道でもないでしょう。地元の多くの人が納得する遍路文化とは何でしょう。考えても仕方ないこと、と言えばそれまでですけれど・・、心が痛みます。
宗教と商業主義の狭間で悩む姿が垣間見えるようです。

9:45 第29番札所国分寺到着。ここは、また極めて立派なお寺です。

国分寺山門


国分寺

国分寺大師堂

名残りの彼岸花

すっかり、刈り取られた田圃の畦に、また遠くの墓地の周りに、名残りの色褪せた彼岸花を見ます。
国分川を橋を疲れた足取りで歩き、渡ったところで、今回の区切り打ちで初めてのお接待。買い物帰りの奥様でしょうか、軽自動車が止まる。
「道はおわかりですか。・・これは、飲み物代で・・」と300円。恐縮する。

逢坂峠を越えて高知市に入ります。
12:00 第30番札所善楽寺に到着。この寺は山門もなく、土佐一宮土佐神社の隣地にあります。まさに、神宮寺の形を色濃く残した寺と言えるのではないでしょうか。
お参りをして、境内を出ようとすると、昨日お会いしたあの歩きの団体が到着するところ。私を見て、笑顔をくださる人もいます。意外に足取りは軽いのです。
今日はここで打ち止め、泊まるという。大日寺からだから、やはり15kほど歩いています。

善楽寺本堂

善楽寺本堂

ここからは、高知市街の道。
自宅の庭のおじさんが「もうすぐテレビ塔が2本ある山が見える。それが五台山・・。それを目指して進みなされ・・」と声を掛けていただく。
1巡目の時は、ここから迷いに迷ったところ。今回は、道標もくどいほど増えているように思えます。最もこの遍路道標というものは曲者。例えば、不注意で一つの右折標示を見落とし、直進したとすると、もう二度と道標は現れません。そういうものです。要は、注意して一つも見落とさないということ。

14:00 五台山の登り口に到着。コンクリートの上を歩いてきた足には、ありがたい土の山道なのです。
登りきったところは、あの有名な牧野富太郎博士を記念した植物園の中。現在、園内整備工事中で、遍路はとんでもなく大回りをさせられる。
14:30 第31番札所竹林寺に到着。私はここは3度目。何度見ても見事な石段です。本堂や五重塔も美しい。
ひっきりなしに、団体の観光客がやってきます。ガイドのねーさんが、太った男に「お客さーん、無理して石段あがってきてよかったでしょー、こんやのお酒おいしいワヨー」などと言っています。フザケルんじゃねー。

竹林寺山門

竹林寺本堂 

竹林寺の石段

竹林寺の石段

ここより来た道をまた下り、今夜の宿、「ホテル土佐路たかす」に着きました。

本日の歩行: 47100歩 地図上の距離:27.5k



平成19年10月12日   奥の院って何だろう


今日は、32番札所、33番札所、34番札所、それに2つの奥の院を加えて、35番札所下の土佐市の宿まで行きます。
おそらく今回の区切り打ちでは、最も長い距離を歩くことになるでしょう(結果としては2番目)、ということで、まだ薄暗い5:50宿を抜け出し、朝食は近くのコンビニで。

まず、32番禅師峰寺奥の院を目指します。これは、介良(けら)の岩屋寺と呼ばれているらしいのですが、遍路地図には、全く記載がありません。ルートについては、別欄「道しるべ」に概記します。
県道248号を岩屋山薬師寺の標示に従って、北から来た場合は、左折すれば、山の中腹にもう薬師寺が見えてきます。急な石段を上ると寺に。寺の横から古い石段がさらに上がっており、これを辿ると尾根筋にある岩屋観音堂に至ります。
私は、どちらが32番奥の院であるのか、分らなかったのですが、後で禅師峰寺の納経所で、十一面観音を祀る観音堂が奥の院であることを確認しました。
いずれも史跡めぐりのハイキングコースのルート上にあります。
薬師寺下の畑で、朝早くから作業しているおばさんと話す。「うちは竹林寺ですから・・よう分りませんが、この薬師寺さんの毎年2月のお祭りには、峰寺:ミネンジ(禅師峰寺を地元ではこう呼ぶ)さんのご住職がみえられますよー。関係深いんじゃないですかー・・」

薬師寺から

禅師峰寺

ここより32番は、県道247号に出て約5kです。
7:50禅師峰寺に着く。この寺の本尊、十一面観音は、江戸時代藩主が浦戸出帆に際し、海路へ平安を祈ったことから、船魂観音とも呼ばれます。

種崎の渡し(フェリー)まで6kの道、野宿で回っている若者Dさん、京都の40代Eさんに会い、同行。
10:10発の渡し船、自転車やバイクでの買物奥さん、我々を含め10人くらいの乗客があり、この地の貴重な足となっています。県の運営、無料。
船から、空に高く架かる浦戸大橋の弓型が見える。2年前、この橋を上りながら、渡し船を羨んだことを思い出します。
対岸の長浜の渡船場から、第33番札所雪蹊寺まではすぐ。

雪蹊寺

雪蹊寺では、小学生の写生大会の真最中。「見て、見て・・」とスケッチブックを差し出す子供たち、必死で背中に隠す子も、様々。
Dさんは、札所には寄るけれど、お参りも納経もしない。「お先に・・」といって早々に出てゆく。

私は、ここでEさんと別れ、34番奥の院に行く。この奥の院は、へんろ地図にちゃんと載っています。ただ、その字の大きさと実態との乖離に少々驚くのですが・・まあそれはいい。
ルートも本来迷うようなものではないが、方向音痴の私は迷った、・・で、別欄「道しるべ」に一応書いときますね。
奥の院近くのお店のおかみさんに道を聞く。
「あそこに黒い三角が見えるでしょ、あれは岩、その向いが奥の院・・」。
民家の間の細い道を行くと、7、8mもあるでしょうか、大きな岩があります。その先20mくらい、山側に簡素(ほんとにこれ以上ないほどの簡素さ)な鳥居があり、本尾山奥の院に着きます。
大岩を抱きかかえるように波形建材の、これまた簡素な覆い堂があり、その中に瑠璃光佛がおられるはずですが、扉に鍵がかかっており拝めません。
少々落胆し、覆い堂に合掌し、奥の院を去る。

本尾山奥の院近くの大岩

本尾山奥の院

ここより4k、第34番札所種間寺に着きます。
Eさんが門前を出てゆくところ、「おっ、がんばりますねー」。「いやー、意外に迷った・・」。
門前には、アイスクリン屋の美人おばちゃんがいます。おー、2年前と全く同じ。
「・・暑い日でねー、そんときもこうやってアイス食ったよ・・おねーさん、相変わらず美人だねー・・」。おばちゃんは大勢の遍路さん相手、おぼえているわけないが、愛嬌のある笑顔、思わず話込むのです。

納経所で、「奥の院お参りしたけど、ご本尊拝めませんでした・・」と言うと、「あっ、あそこは地元の町の管理で・・」と、素っ気無い。奥の院って何だろう。

種間寺

種間寺先の中務茂兵衛のへんろ石

お茶どうぞ

種間寺を出て暫く行くと、160回目中務茂兵衛のへんろ石があります。明治の中頃のものでしょう。隣の柿の実がもうじき赤くなる。
民家の前に椅子を設け、「お遍路さんお茶どうぞ」の看板。ポットの中の冷たいお茶をいただく。無言のお接待が心に沁みる。

早くも傾きかけた秋の日を映す、大河仁淀川に架かる橋を渡り、16:20土佐市の宿、白石屋に着きます。
同宿は、定年間近というFさん。この人は一昨日以来、何度か札所で見かけた。事情あってか、あまり話をしない。あと、30代後半と思われるGさん。
食事は別室なので顔を合わせなかったが、廊下でひょっこり、神峰寺下の宿以来のA夫妻。懐かしく思わず立ち話し。
夫妻は、時々電車、バスを利用して回っておられる。昨日は高知市内で奥様のお華の教え子と会われたとのこと。
「・・明日は、山道と県道のトンネルの道、どちらがいいでしょう・・」と聞かれます。「あっ、塚地峠ですね。それほどきつい峠ではないですから、お疲れでなければ、峠道を・・」とお勧めしました。

本日の歩行: 50170歩 地図上の距離:34.7k


道しるべ 「32番奥の院、34番奥の院への道」

32番奥の院への道。私は、31番竹林寺にお参りした後、北側、高須に宿をとったため、翌朝、県道343号、248号を行きました。
二つの県道が交差する地点に、新四国曼荼羅霊場59番岩屋山薬師寺の大看板があります。その指示に従って248号を行くと、薬師寺の標示と岩屋十一面観世音菩薩参道入口の石柱があります。
そこを左折、石段を登り、薬師寺、さらに旧い石段を20分ほど登ると、尾根筋に至り、奥の院岩屋観音堂に着きます。
迷うことは無いと思いますが、248号に入ってすぐ地図には無いが247号につながると思われる新道があります。これを行かず、左手に見える山に沿った道(248号)を行くことです。
31番竹林寺から行く場合は、へんろ地図34-1で、下田川の北岸の道をそのまま進めば、248号の分岐点に至ります。そこを左折すれば、すぐ前記の標示と石柱です。

34番奥の院への道。へんろ地図35-1にちゃんと標示されているので、迷うこともない道のはずですが、方向音痴の私は迷いました。よって、念のため書いておきます。
へんろ地図の諸木郵便局西の道は、けっこう込みいっています。
最も分り易いのは、新川川を渡ってすぐ、へんろ地図の4.2kの表示のところに、「種間寺奥の院2.1k」の標識があります。ここから、右手の山を巻くように水路沿いの道を行けばよい。近くまで行けば、本文で記した大岩が見えてきます。

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四国遍路の旅記録 二巡目 第3回 その1

二巡目、第3回の区切り打ちへ

昨年秋に始めた、2巡目の四国遍路の区切り打ちの旅は、今回で3回目に入ります。
1、2回目は、略1週間の行程でした。今回は、もう少し長く・・という気持ちもあったのですが、結果的にはやはり、ほぼ1週間の旅となりました。
前回、道を発見できず断念した、室戸の四十寺を加え、第27番札所神峰寺から行けるところまで。

1順目の際、その最下流四万十大橋より臨んだ、あの青い青い四万十川の水。遍路のルートからは、外れるけれど、その川の畔も歩いてみたい、これはその時からの願いでした。

人影もない森の中の道を行き、車が風と埃を残して通り去る国道の道を行き、膝の痛さ、登り坂での胸の苦しさ、目が霞む・・、それらは、歩き始めて4日目ともなれば、少し和らいでくるのだけれど、年ごとに、確実に体力の衰えもまた感じさせられるのですよ。
でも、旅を終わってみれば、何もかも懐かしく、有難い思いとして残るのです。それが、不思議な四国遍路の旅なのです。

私は、常々、遍路とは自然と風土と人との出会いだ・・などと分ったようなことを、ホザいてます。海や山や川や、そこに棲む花や蝶や・・、そんなものに出会えることは、私にとって、大きな旅の喜びです。
美しい川との出会いは別格として、1巡目の秋に心慰めされた彼岸花は、もう殆ど枯れていたのは残念だけれど、珠に道端のコスモスに、山のススキに会うことができました。
この度は、四国の人との心触れ合うような出会いは少なかったかなー。次には、そんな出会いが、待ちうけているかもしれない・・。このことへの期待が、きっと私を限りない遍路の旅に誘う最大の力なのだと思うのです。




平成19年10月9日   誰もいない四十寺山の上から

昨夜 泊まった津照寺門前の宿の女将、私の母に近い年代だと思われるのですが、
「四十寺山はねー、昔は小学校の遠足なんかで登ったりしてたけど、今は年1回のお祭りに、地元の人が上るだけ・・、道も荒れてると思うよ。地元の村の人に道を良く聞いてから行くのよー。決して慌てない・・。迷ったら出てこれなくなるよー・・。」
と何度も何度も念を押されたのです。

この四十寺(第24番札所最御崎寺奥の院)への道、この春は、へんろ地図(へんろみち保存協力会編第8版)と25000分の1地形図を頼りに上りましたが、天候も悪く途中で断念。その後、登山愛好者のサイトで、詳細な登山ルート図を発見、私が辿った道は、旧参道で現在は廃道であることが判明。
宿の女将が、あまりに親身になって、心配いただくものだから、地図を持ってることなど、ついに口に出せなかったのでありますよ。

さて、室戸の市街から四十寺への道の詳細は、別欄「道しるべ」に譲ることにしますが、7:20宿を出、8:00登山口到着。歩き始めの日でもあり、苦しい登り坂、1箇所で迷い、急坂で座り込み、頂上の四十寺に9:30到着。
短い石段を上がると、本尊の十一面観音を奉る簡素なお堂と方丈があります。
唐から帰還した空海が、嵯峨天皇の勅命により、最初に寺を創建したのはこの四十寺山山頂であり、その後、現在の24番最御崎寺の地、室戸岬に移されたという。寺運は傾き、現在は訪れる遍路も殆ど無く、地元信仰の寺となっています。最御崎寺の奥の院にもかかわらず、管理は近くの津照寺に任されています。
標高313mの頂上のすぐ下、展望所からは、室戸の街並みが望めます。南東の方、室戸岬は霞んでボーとしていました。
半年越しで、ついに四十寺にお参りできた感激に酔っている時間はありません。バスの時間もある。15分間のお参りの後、下山に移りました。

(追記)四十寺について
上記本文中に少し記したところですが、四十寺について、「南路志」(江戸期の土佐の歴史書)の東寺の項には次のような書き込みがあるのです。(意訳)
「往古東寺は今の寺地より子丑の方(北北東)に凡そ壱里計り奥、四十寺山と言う高山に有ったが、中古今の所に移ったと伝わっている。四十寺山頂に昔の寺の床の跡があると言う。しかし、当所に移ったという記録は無く、その時期も不明である。・・」 
おそらくこの辺りが真実に近い所かと思われます。



四十寺山を望む

四十寺に到着

四十寺のお堂と方丈

室戸の街を望む



今年の春に、第26番札所金剛頂寺を経て、奈半利の街まで歩いています。従って、律儀な歩き遍路は、四十寺山を下った室戸の街から奈半利までは、バスに乗って移動するのです。
途中、金剛頂寺を下った地点の国道で、3人の遍路がバスに乗ってきます。恰幅の良い夫婦遍路(A夫妻)と、いかにもベテラン遍路といった風貌の痩身の老遍路(Bさん)である。3人とも第27番神峰寺の下の宿近くまでバスで行くという。私も宿に荷物を置いて神峰寺に登るつもりなので、大いに心が揺れたが、クソ真面目振りを発揮して、奈半利の先でバスを降ります。

今日は、二つ目の山登りであり、標高430mまで登る神峰寺への道は、一際苦しいものとなりました。2時間近く要したでしょうか。
駐車場下の展望台でひっくり返っていると、京都から来た50代のCさん、それにA夫妻が追いついてくるではないか。A夫妻は、私より先に宿について、荷物を置いて出たはず・・、変だ、この道は車道と遍路道が並行している所が何箇所かある。そこで私が追い越したのかもしれない。
4人は、駐車場上の売店でジュースとアイスをガブ飲みした後、16時前、第27番札所神峰寺に到着。
Bさんがお参りを終わって、出てくるところに会います。7巡目、77歳、27番往復2時間と言っていただけあって、さすがに早い。

神峰寺山門

神峰寺本堂

神峰寺下り道より

雨がパラついてくる中、下りはトコトコ歩き、1時間で本日の宿、浜吉屋に帰着。

その夜は、名物女将ばっちゃんのテキパキ指示のもと、フロ、メシ、ビールと進行するのでした。

本日の歩行: 36160歩  地図上の距離: 21.4k 
(四十寺篇) 14250歩          約7.4k
(神峰寺篇) 21910歩         約14k


道しるべ 「四十寺への道」
室戸の市街から県道202号に沿って2k程行き、消防署の前を左折する。
室戸高校の横を通り道なりに1.2k程行くと、下里から河内に通じる車道に出る手前に、小さな橋「稲石橋」が見えてくる。その30mほど手前、右手に折り返すように作業道が上がっている。ここが、何の標示もないが、登山口なのだ。
この作業道を、右に分岐する道に構わず、軽四輪の轍に沿って20分ほど進むと、果樹園が見えてきて、「四十寺登り口」の看板が現れる。
看板の矢印が、右上方を指しているようにも見えるので、ここが唯一の迷い易い地点。私も当然、右手の果樹園の中の広い道を上り、しばらく行き、山頂とは方向が逆・・に気付き引き返す。
看板の左手をよく探すと葉っぱの陰に協力会の道しるべ札がある。(葉っぱを除けてよく見えるようにしておきましたけど・・)
左手の竹林の中の狭い平道を進む。道は急坂となるが、あとは迷うところはない。
ありがたいことに、2箇所ほどの分岐には、道しるべ札が下がっている。
私はこの辺では、もう相当喘いでおる。蜘蛛の巣を杖で払ってきたが、この辺では顔に蜘蛛が這うに任せる。
右手に展望が開ける。室戸の街と海が・・。一息つき、左手の奥、古色蒼然とした石段が見えてくる。四十寺に到着である。

私は、登山口から、迷いや休憩を入れて1時間30分要したけれど、順調なら60分というところ。下りは45分で登山口に着く。

実はこの四十寺への道、この春、道を知る地元の人に出会えず、へんろ地図と25000地形図にある道(実は廃道)を辿り、リタイアしたルート。へんろみち保存協力会編のへんろ地図、番外の寺については、他にも誤りがあるとの指摘も多いが、行く人も少ないルート、へんろ地図の絶大な価値を大きく損なうものではないが、道しるべ札も下げていただいていることだし、早急な改定をお願いしておきたい。

四十寺山登山口 四十寺登り口の看板



平成19年10月10日   岩場に踊る海の音、砂浜に寄せる波の音

今日は、お参りする札所はありません。第28番大日寺の手前、香南市野市までの約30kをひたすら歩きます。
天気があまり良くなく残念ですが、多くは砂浜の広がる海岸沿いの道です。

宿を出て5k、道の駅大山に着く。開店前の店の前でシートを拡げあぐらをかいている野宿遍路と話をします。雨が降ってきて、出発し兼ねているようです。

雨の防波堤道


安芸市の海岸


安芸市の海岸


ポンチョを着て、防波堤の上を歩きます。
安芸の街を抜け、再び海岸の道、雨は止んできました。
やがて、番外霊場八流山極楽寺に着きます。
この寺は、空海が修行したと伝える霊蹟の地に、大正13年、僧侶が不動明王を刻んで安置したのが、始まりという。四国36不動第15番霊場でもあります。
不動堂の隣には普通の住宅、境内はかなり荒れています。犬の吠える声がけたたましい。しかし、断崖の上にあるこの地は、私にとっては、何やら霊気を感じさせてくれる・・、1巡目の時から好きな場所なのです。
吠え疲れた犬の声が収まると、崖下の岩場に踊る海の音、砂浜に寄せる波の音が聞こえてくるのです。

極楽寺不動堂

極楽寺下の岩場

波の音

赤野の休憩所では、清掃をしている人、県職員でもあろうか、「この先に、無人の遍路休憩所があります。お茶でも飲んでいってください・・」と声がかかります。
弓なりの砂浜と松林、松の枝に鳴る風を琴の音に譬えたといわれる、この美しい琴ケ浜が始まる処、その無人の遍路休憩所は2年前と寸分違わぬ姿で、遍路を迎えてくれました。
冷蔵庫に入った自家製の柚子のジューズが甘く、殊更うまかった。置かれたノートには、感謝の言葉に混じって、遍路の様々な思いが綴られています。ほっと、熱くなったりします。
姿見えぬ管理者、英子さんに合掌して感謝します。

琴ケ浜の遍路道は、サイクリングロードである。時には、浜に出て、波の様を見、弛まぬ繰り返しに耳を傾けたりできます。 

琴ケ浜

遍路道と遍路休憩所

遍路休憩所

香南市に入り、道は街中となります。
そこで、20人くらいの歩き遍路の団体に遭遇しました。先頭は、若く元気の良さそうな先達さん。メンバーの年齢は、比較的若い人からお年寄りまでかなり幅があります。大型バスが随伴しており、背負っている荷物は軽い。
列の最後尾は、旅行会社の社員でしょうか、平服の若者が「くるま、きまーす」と声をかけています。狭い道では、後から来る車に注意しなければならないのです。
メンバーの皆さんの、ちょっと気の毒そうな、半ば 羨ましそうな視線を感じながら、何となく声を掛け合い、先達さんと話をします。
大阪から来ている団体で、通しで全部歩く計画であるという。1日15k以内の行程のようで・・、とすると3ヶ月は掛かることになります。長期間になるため、途中でのメンバーの出入りは、認めざるを得ないようです。
今日は、琴ケ浜の宿を出て、私と同宿。ただし28番札所は、今日中に打つと言っています。

香南の街を行く団体遍路

やがて、今日の宿、野市の「かとり」に到着。
団体さん達は、宿の人から大歓迎を受けています。
一服した後、28番大日寺まで5kを歩き、バスで戻ってくるようです。

本日の歩行: 48370歩 地図上の距離:29.5k

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