四国遍路の旅記録  平成26年秋  その5

石鎚山頂、下って石鎚神社

西之川からの登山道(御塔谷道)で石鎚山頂上社まで行くつもりでおりましたが、朝、目を覚ますと一緒に弱気の虫も起き出していました。
気が変わり、成就社までロープウエイに乗ることにしました。
唯一人の泊り客である私は、朝食後それはそれはゆっくりと過ごしておりました。今晩は何と石鎚山頂の山荘に泊りを予約しているのですから。
宿の窓から見える隣の駐車場には、車がやってきています。多くの人はロープウエイを利用して、石鎚山を日帰りで往復します。私のように余裕のあり過ぎる人はまずいないでしょう。

ロープウエイの山頂成就駅を出て、奥前神寺の前を通り成就社へ。
その途中の道の近くに、第18杖立王子社と第19鳥居坂王子社があります。
ここで、王子社の拵えについて記しておきましょうか。
神仏の姿が彫られた石標。神仏は大日とか不動とかと言われますが、どちらかというと怖い顔が多く不動のように思えるのですが、手は合掌しているようです。それと、石殿と呼ばれる石の小祠。この二つ。この他、地蔵菩薩や他の仏が並ぶ場合もあります。
石造物の両側に「奉納石鎚山三十六王子社、宿願成就、第○番○○王子社」と書かれた白い幟。

 王子社の石標(14番花取王子社

石鎚神社成就社(今は正式には石鎚神社中宮と呼ばれる。)におまいり。
成就社の横に第20番稚子宮鈴之巫王子社があります。
神門をくぐり頂上社への登山道に入ります。
今はこの辺りが紅葉の盛り、しばらく八丁坂を下ります。下り切ったところに第28番八丁坂王子社。

 八丁坂を下る

 青い空

 紅葉の道

厳しい上りの始まりです。
「試しの鎖」、上り48m、下り19m。現在、三の鎖は閉鎖、二の鎖は半分でエスケープとなっていますので、最も厳しい鎖場でしょう。特に下りは恐怖を感じるそうです。
私の見あげる前で、ガイドの指示によって多くの人がチャレンジしていました。私は金剛杖を持っていますし、君子ですから迂回路(巻き道)を行きます。


試しの鎖場、頂上に第29番前社森王子社

試しの鎖(下り)

試しの鎖の岩場の頂上に第29番前社森王子社。下からでも見えます。ここは遥拝です。
第30番大剣王子社、第31番小剣王子社は歩き道から少し外れているのか、私は見落としました。第32番古森王子社、第33番早鷹王子社、第34番夜明峠王子社は道沿い。
夜明峠前後は平な道で、石鎚登山道の中で最も美しい場所かもしれません。
石鎚山の岸壁が見渡せる所です。これより上、今はもう紅葉は終わっています。
石鎚山の岩肌と紅葉のコントラストが見れないのは少々残念です。(せめて6年前の10月10日(2巡目第5回その3)、紅葉に彩られた石鎚の写真を再掲しておきましょう。)

上り

 夜明峠


(2008年10月10日の夜明峠)

夜明峠には、西之川からの御塔谷道が合流しています。(御塔谷道の近くには、第21~第27の7つの王子社があります。)
その先の一の鎖は33m、最も楽な鎖場。鎖に掴まらなくてもどうにか・・と思えるほど。鎖場を試すならここですよ。御老体同志!。
土小屋からの道が合流する所、二の鎖小屋。現在改築工事中です。
急斜面に貼りついた鉄の階段道を行き、右に面河(おもご)道を分けるとすぐに頂上社。
第35番裏行場王子社は頂上社の裏。そして最後の第36番天狗嶽王子社は天狗岳の頂上。
石鎚山山頂からの展望はやはり素晴らしいものです。
西方は、西の冠岳、二ノ森、堂ヶ森と続く山腹の色模様。少し下方は紅葉が見事です。山腹を縫う一本の道、面河(おもご)道。北は遠く明神ヶ森、東三方ヶ森の山塊を中に、右に西条、左に松山の街。(夜にはその明りが、瞬きもせず光っていました。いいカメラを持ってこなかったことを、これほど悔いたことはありません。)
東は、土小屋登山道の向こうに、瓶ヶ森、子持権現山。南方は微かに土佐の海まで見えていそうです。


山頂から望む西ノ冠岳

  天狗岳

 天狗岳


山腹の紅葉


山腹の紅葉

土小屋ルートの尾根

 遠い山並

遠い山並

遠い山並

夕暮れの近づき


夕暮れの天狗

山荘の泊りは、私の他は2組の団体さん。賑やかです。一人の老人は寂しげです。
ここは神社の経営で、午後5時の夕拝、午前6時の朝拝があります。
朝の頂上社の前、気温は7°です。この時期としては暖かい方だといいますが、ありったけの衣料を着こんでも、私には寒い。
朝拝開始の太鼓の響きが山々にこだまし、人の心を解き放つようです。
二人の神主が奏上する大祓詞の見事な二重唱。多くの神々の名とその由来の世界が説かれているようですが、私は、この世界は空と水と岩と土と・・そんなものから出来ているけれど、そのなかに多くの情が宿っているのだ・・と説かれているように聞いていました。
拝礼が終わると、東方、瓶ヶ森のあたりの雲の間から日が輝きました。

石鎚神社頂上社

  日の出

日の出

  赤い地平


赤い地平







岩壁

成就社まで下ります。その先は今宮道を通って河口まで下ります。
以前に歩いた時のこの道の薄暗く展望のない陰気な印象は払拭されるほどでした。
この辺り、カエデ類の黄色の紅葉が山道を照らしているようでした。


17番女人返王子社

 今宮道を下る


15番矢倉王子社

第17番女人返王子社。昔の石鎚は女人禁制の山。女性はここまでしか来れなかったのでしょう。
少し道を外れた岩上に第18番山伏王子社。それから第15番矢倉王子社、第14番花取王子社。
今宮へのジグザグの道を下ります。
第13番から第9番までの5つの王子社は、今宮道沿いではなく、尾根に沿ってあるのです。それは荒れた道筋のようです。
今は廃村となった今宮を思い起こすように見おろす大杉があります。
嘗ては石鎚参りの人々の中継地であり、大正8年には36戸、178人、11軒の宿屋があったという記録があります。小学校の分校もありましたが、昭和47年に閉校されます。
それから村は急激に消えて行きました。立派な石垣や宿屋であったであろう大きな構えの廃屋が数軒みられます。明治や大正の年号を見る墓も荒れ果てたまま、参る人もないのでしょう。

 今宮の大杉

 今宮の廃屋

今宮の石積

 今宮の墓

廃屋の前で一人の遍路にお会いしました。
遍路はもとより、この道で人に会うこと自体稀有のことでしょう。
聞けば大阪の若い人。遍路といっても、同行二人と書かれたさんや袋と杖でそれと判る半遍路姿。
今日は成就社の近くに泊るという。明日は石鎚山から面河道を通り、面河渓の国民宿舎。それから岩屋寺まで行くという。
88ヶ所を2巡した後は、好きな所だけを選んで歩いているといいます。
札所での納経ラリーではない、こういう四国歩きもいいものですね・・

突然、舗装された広い林道に出ます。そこを少し歩いてまた荒れた山道へ。
愛媛県が建てた道路標識が無ければ、山道への入口は見付けられないでしょう。
荒れ果てた三光坊不動堂の横から入り、第7番今宮王子社、第8番黒川王子社を見ると河口はもうすぐです。


7番今宮王子社

 今宮道の入口

河口から、64番の奥の院とされる奥前神寺までの今宮道に、自作のへんろ道札を下げられた、東京のT先達さん。思わぬ所で遍路札に出会い、遍路としては嬉しかったのですが、同時に驚きとちょっとした違和感も否めないように思いました。 遍路道とは何でしょうか。明治の神仏分離以降に残る四国遍路の札所の曖昧さ。遍路と石鎚山信仰との関係・・ 様々な面から考えさせられました。

河口から黒瀬峠の道は往きに歩いた道。ワープします。
今回の区切りの終りに、黒瀬峠の石鎚神社一の鳥居から石鎚神社(口ノ宮)までの道について触れておきましょう。
昔、里宮であった石鎚神社(前神寺が別当)から黒瀬峠までの石鎚山参拝道は、二並山(ふたなやま)の尾根を通る道でした。神社が置かれた場所からみても、このことは十分納得できることに思えます。黒瀬峠の方から探ってみることにしました。
鳥居の前の家に一人居られる93歳のおばあさんに聞きます。
「ワシもそうとうボケてきたけどのー・・そういう道は聞いたことがないのー・・」。
鳥居の傍から東の山へ上る唯一の道を上ります。これは四国電力の鉄塔保安道のようで、立派な道です。
何度も上り下りを繰り返しましたが、2番目の鉄塔から3番目の鉄塔に行く間に尾根に上るような道筋があります。これが二並山に通じている道だと思われますが、草木繁茂です。二並山から下ってみれば確認できるような気がしますが諦めます。

一の鳥居の前

 
二並山への道(おそらくここから左に上る道)

 石鎚神社(口ノ宮)山道の入口


石鎚神社(口ノ宮)

黒瀬峠に戻り、県道142号経由、協力会へんろ道を通って石鎚神社(口ノ宮)にまいります。
広大な境内を持つ実に立派な神社です。長い石段を上って本殿にお参り。
本殿への石段を下りた右側に、龍の口から流れる流水と池、その傍に役行者の像があります。その左側に山に入る道が見えます。
神社会館に寄って尋ねます。
「随分古い道で、この間もうちのものが二並山まではどうにか行ったけど、その先はどうも・・」という返事。
いつの日か、歩いてみたい気もする道ですが・・
神社の門前で南方に深い礼をして、今回、26年秋遍路の区切りとしました。
                                        
                                            (10月29日 30日)

この日と前日の日記の参考に、石鎚山周辺の地図を載せておきます。
石鎚山周辺地図 (国土地理院25000より作成)クリックすると大きくなります。
 

なお、二並山付近の地図は、平成26年秋その3の記事に掲載した「小松付近」に含まれています。



(追記)付録 江戸時代の里前神寺(石鎚神社口ノ宮)の絵図について

江戸時代の札所は石鎚山(奥前神寺、後に常住山)でした。石鎚山には常には参ることができないため、里前神寺を代理の参拝所としたのです。真念「道指南」では石鎚山の前札所と表現しています。(横峰寺「鉄の鳥居」も石鎚山の前札所と呼ばれた。)明治の神仏分離を経て里前神寺は石鎚神社口ノ宮となり、近くの新たな地に64番札所前神寺を置くということになります。
従って江戸時代の里前神寺は現在の石鎚神社口ノ宮の地です。
この里前神寺には三種の絵図が残されています。これらの絵図を見ると、札所社寺の変化・・(とともに)むしろ社寺絵図表記の様々が伺われ興味深いものです。
①「四国遍礼霊場記」 元禄2年(1689)里前神寺
②「四国遍礼名所図会」 寛政12年(1800)里前神寺
③「西條誌」 天保13年(1842)前神寺

   
①「四国遍礼霊場記」里前神寺             ②「四国遍礼名所図会」里前神寺         

 
 ③「西條誌」 前神寺  

①は蔵王権現本社・釣殿・拝殿、寺本堂・護摩堂が簡素に描かれています。現地での写生ではないと思われます。
②は実際の地形が良く表現されていると思われる絵図です。山上に本社蔵王権現、そこより壇を下り右手に石鉄山大権現、その下に大師堂、向かって右手に寺の方丈、寺下に茶堂が見えます。ただし、寺の後方や周囲の道の様子などは雲の中でぼかされています。(「名所図会」の絵図はこのぼかしに特徴があるようです。)
③は格段に詳細な絵図です。左が神社部分。壇上に石鈇蔵王権現神殿、その下に釣鐘堂。本殿右段上に東照神祖旧廟、その横弁天祠、段下に勧化所(今の納経所)、大師堂、護摩堂、その前に芭蕉題句碑。(「花咲て七日鶴見る麓哉」、天保6年に建てられた碑で今もある。)
右は寺部分。本堂、玄関、本堂の裏には多くの建物があります。寺の下外に茶堂。
②の絵図との大きな違いは、蔵王権現と石鈇山権現が合祀されたこと(文政8年の横峰寺との争いに対する公儀の裁断が関係していると思われます。)、東照神祖旧廟ができたこと(天保11年建立)、護摩堂の位置が変わったこと、といった所でしょうか。
なお②で石鈇山大権現があった場所、現在は祖霊殿や役小角像などがあります。昔はここが石鎚山への登山口であった場所です。
                                          (平成30年10月追記)

 

   

 

 

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四国遍路の旅日記  平成26年秋  その4ー2 

四国遍路の旅日記 平成26年秋 その4-1の続きです。(ブログ容量制限のため分割します。)

付録1 江戸時代の西五ヶ山奥地の自然と生活

江戸時代(藩政時代)石鎚山北斜面に源を発する加茂川流域の山村は、東から藤之石山村・千町山村・荒川山村・大保木山村・千足山村の五か村がありました。これらの一つ大保木山村は、前大保木山・黒瀬山・中奥山・西之川山・東之川山の各村よりなり、西五ヶ山と呼ばれました。
西條藩は藩の朱子学者日野暖太郎和煦(にこてる)(1785~1858)に地誌の作成を命じ、天保13年(1842)に「西條誌」を完成します。
日野が命を受けてから7年の間、村々や原野・山岳を自らの足で踏査し聞き取った事実をもとに編集したもので、上からの目線であることは止むを得ないこととは言え、江戸後期の人々の生活の一端を知るものとなっていると思われます。
「西條誌」については日記本文中にも若干引いたものですが、「西條誌稿本」全文がネット上に公開(愛媛大学図書館)されており、それに依って西五ヶ山奥地(中奥山、西之川山、東之川山)の自然と生活を辿ってみたい。それは日記本文中に若干示した事柄についての検証や補強あるいは修正にもなりうると思われます。
以下に上記三ヶ村に関わる「西條誌稿本」の私なりの要約を示します

 西條誌 十二巻

「中奥山」(新居郡・氷見組)
〇無畝高43石6斗 此実納  銀1貫972匁8分7厘(無畝とは実状伐畑(:焼畑)を示す。高はあるが年貢は銀納) 〇家數・168軒 〇人數・凡そ634人 〇鐡炮持・19人
〇枝在所 千野々(家数19軒)前田(35軒)細野(35軒)四手坂(5軒)今宮(20軒)
〇高橋 鴉ノ川(今は一括して加茂川)に架かる橋の紹介。「此橋、長二十二間・・両端大石を積重ね、大木の甚長きを梁とし、段々に組みて指出し大石を以これを押へ、板を張る、其形そりて、太皷橋と云ものゝ如し・・甲州路に聞たる、猿橋の模様に髣髴たり・・」などと記されます。
〇前田坂 千野々と東之川山の間の坂道の紹介。東之川山の項にも記されます。
〇よど 本郷と細野との間にある小名。(今も小字名「淀」として残っています。)その名について編者は「・・考え見るに、もしや古への餘戸なるべきやと疑う」と記す。「餘戸は、古へ二里以上四里までを小郡とす、家数百戸より百五十戸に至る、もし家数百六十に満れば、十戸を割て、別に一里を立て長一人を置く、是則餘戸也、」と解説し「・・此処、旧の餘戸の数減じたるものなるべし、今山人等、淀の字に書けるは、誤りなるかと疑ふ、」としています。
〇細野山に宿した時の状況、生活の様が伺えるものですので長文引用します。 「八月の末、細野山に宿するに、日の暮方より、太鼓を打ち、貝を吹き、或は人声を揚げて叫びよばわり、数十の兵卒攻め来るものの如く、甚だ騒動に聞こゆ。訝り間えば、伐畑(:焼畑のこと)という畠に、畑物、実を結ぶ頃より、凡そ四十余日の間、夜毎あの如くにし、暁に徹して守らざれば、一夜の内に猪喰いあらす。昼は猿より護り、夜は猪をおどす。これ山中の御年貢にて候と答う。その辛苦憐れむべし。」
〇ここより十数項目は土居、細野、今宮を経て常住(:今の成就)至る石鈇山(:石鎚山)参拝道に関わる事象が続きます。「せりわり」「王子の嶽」(細野王子)「一の鎖」「覗」(のぞき)「小口ノ坂」「垢離取川 」「四手坂」「目鼻石」「今宮」「名頭」「常住山」と続きます。遍路人としては大いに興味をそそられる事項ですが、本追記の趣旨には合わないので略します。ただ、今宮の項に描かれる祭日の踊りの様子を引いておきます。「山の風俗、中元(:陰暦の7月15日、日本では盂蘭盆会と習合)の踊りをたのしむ、唯中元のみならず、今度のごとく官吏来れば、其わざをなし、乞て観せしむ、山夫山婦、幾老人幾壮者、児童をまじえ、庭上に婆裟たり、其装ひ、女は紅の絹の細帯を垂れ、白き襪をはく、衣は縞もあり、紋付たるもあり、思ひ思ひに出立、男は菅笠を着なんどし、男女皆革履を鳴し、太皷を打ち歌を謡ひ、一唱一和、声に抑揚あり、手足の拍子甚だ揃ふ、実に山中の楽事、清處の佳興、夜半過る迄悦び見て、城市の雑戯に優れりと賞し、・・」そして唄われる歌の文句は「鎌倉の御所の御庭にうえたる松はからまつ 其まつの一の小枝に御所の御鷹が巣をかけた・・」などというもの。編者は「是等の歌、昔より此山中に傳わると云、此歌の文句に拠って考れば、乱世の武家落など云もの、此深山に潜匿せしか、此山夫山婦の中にも将士の末裔も有るべし、」と記しています。
「常住山」の項には、文化年間、小松領横峰寺並びに千足山村より訴訟があり、文政八年酉十二月の公裁により奥前神寺とは呼ばず常住山と称すべきこと、ただし別当は前神寺のままとする、と定められたことなどが記されます。
〇それに続いて「石仙菩薩のこと」「先達のこと」「撞鐘の由来のこと」「山門明け祭礼のこと」「神殿の建立年代のこと」と石鈇山神社に関する事項が詳細に記されます。
〇山頂前後の道についても細かく記される。「弥山への道程」「御塔への道」「一の阪、表白坂、ぜんじ、剣の禅定」「早鷹 大久保 夜明かし 天狗岳」「三所の鎖」「絶頂(山頂)の様」「水の禅定 来迎谷」「御塔の様」
〇石鈇山に関する過去の文献として以下が引かれています。「四国霊場記(:寂本「四国遍礼霊場記」)」「日本国現報善悪霊異記」「空海師(弘法)著述の三教指帰および聾皷指帰」「諸國採薬記」「伊豫國名所歌の内6首」
〇神祠 大元明神(千野々にあり) 片山権現(同) 籠明神(前田にあり) 天神(同) 河内八幡(中奥にあり) 荒神(同) 岡八幡(同上) 西宮明神(同) 嵳峩権現(同) 曽我明神(細野にあり) 妙見社(四手坂にあり)西宮明神(今宮にあり) その外猶小祠あり略す  以上十二祠神主 十亀若狭
(現在は大元神社(千野々) 古長河内神社(淀)は目につきます。他の神祠については私には?)
〇佛堂 地藏堂(千野々にあり) 地藏堂(四手坂にあり)
〇家に伝わる遺物の調査の内、「千野々の久左衛門の家は先祖の位牌とて、建久9年(640余年前)の年号と工藤丹波守の銘のある物を蔵す。屋敷内には丹波守の墓もある。工藤左衛門尉祐経の後と見ゆ。」(要約)と。
〇同じく、「細野の常兵衛の家は刀、脇差、槍を蔵す。常兵衛より十二代前へ曽我部三郎と云もの、土州より来り、此處に住す。細野三郎と名乗り田地を墾く、地名を細野と云は、これより始るとぞ。」(要約)と。
〇その他の家に伝わる遺物については略します。


「山小屋の図」 代官の領地巡検の場面でもあろうか。人々の生活の様子が垣間見える。

「西之川山」 (新居郡・氷見組)
〇無畝高10石8斗7升5合 此実納  銀638匁9分7厘 〇家數・55軒 〇人數・凡そ244人 〇鐡炮持・9人
〇枝在所 恵美須岳(家数7軒)野地(19軒)下谷(9軒) 名ごせ(10軒)
〇この村の生活について次のように記されます。「此山、村境、中奥山より東之川迄、東西南北一里程の間に水田一區もなし、故に米の乏き事、他の深山に倍せり、故にたまたま官吏来り、或は病人などある時は、三里十町の嶮路を踰いて、米を氷見村より買来る、屋敷五十五軒の内にて、農一色を業とする者、わずかに五六軒のみ也、其餘りは皆杣にて、木を伐り、板をひき、檜綱をなひ、冬は獣を取りなどして、世を渡る者多し、農業の家五六軒、粟・稗・芋・圓豆(:大豆のこと)・空豆の類を常の食とす、杣ハ、右等の雜穀を買ひ、米賤き歳は米をも買ひ、農業専一の者よりは却てよき物を食する也」と。このことは14、5町しか離れていない東之川でも全く同様であると。
〇村の貧しさ、「天保七八の凶荒に御救扶持を給る家、屋数五十五軒の内にて、二十一軒ありしと云う」と。
〇編者はこの村の人の風俗について「野樸」「淳厚」「古雅」「奇」「迂」(:うとい)「魯鈍」と表現します。また、「女も細き帯をしめ、頭包たる躰を見ては、男とも見粉わる、言語の内にも、分らざる事多し」とも記しています。
〇鉄砲持ちが9人いるが、獣を撃ったという話は殆ど聞かない。熊は滅多に出会うものではなく、それも遠所、あるいは松山領、土佐の國との境辺りとか。「渡世の助とも成ものにあらず」と記します。
〇鮎は、今宮の下までは来るがそれより上流には上ってこない。また、痩せ地であり粟の実入りも極めて悪いという。
〇神祠 大元明神(本郷にあり) 大宮明神(同上) 恵美須(恵美須の岳にあり) 以上三祠神主中奥山 十亀若狹 (現在は大元神社がある。)
〇地藏堂(本郷にあり)前大保木山 極樂寺持

「東之川山」 (新居郡・氷見組)
〇無畝高6石5斗 此実納  銀560匁3分8厘 〇家數・67軒 〇人數・凡そ315人 〇鐡炮持・9人
〇枝在所 土居(家数3軒)平(3軒)日浦(14軒)奥(12軒)岩ずし(14軒)新屋(3軒)かげ(同) 内野(同)
「家数67軒の内、農業一種の家一軒もなく、皆杣を兼ぬ」と記す。村の生活、風俗については西之川と同様であると。作物について楮(こうぞ)と茶がある(西之川も)と追記。
〇熊については「二十二三年前壱疋取れ、其後見も致さずと申す」と。
〇「溪流西之川は、源を石鈇山より発し、東之川は、瓶が森山を濫觴とす、西之川にて、二川合流し、小口に落、加茂川に至る」と記されます。編者は渓流の様子について「其景奇絶也」と表現しています。
〇「長さ十八間餘幅二間餘りに見える」「白糸の瀧」がある。源性公(:初代藩主松平頼純)の命名と伝えるが、地元では「御たる」、城市では「二ノ瀧」と呼ぶ。(この辺りでは瀧を「たる」、岳を「たき」と呼ぶ、「二のたき」とは今宮の向かいの山「二の岳」を指すことになると解説。)ちなみに、この瀧、現在は「おたるの滝」と呼ばれています。
〇この地方特有の風習として「西之川山、東之川山の邉にて、男女共に小さき革袋を帯、是は火打道具を入、木を伐るにも、畑を鑿すにも、随處に木葉枯枝等を集め、先ず火を焚て陰氣をはらひ、毒蟲を畏す為也」と記されます。
〇道について 「當所より里へ出るには、前田越へをしてゆく也、前田峰迄十二三町の間、阪也、前田峰より、下り坂二拾町餘あり、この坂を登るを厭いて、城市より観瀑の為に来る人、多くは細野通り、西之川山、東之川山とまわる」と記されます。
〇さらに道について 「當所より、中奥まで一里あり、荒川(:荒川山村)へ行には、菖蒲峠と云を踰(:越えて)、荒川迄は三里にて、菖蒲までは一里也」と記す。
〇瓶が森山への道と頂上の様子については、一段と細かく記されます。「當所より已午に當り(実際は南東)、五拾町餘登る」とある。3里先の土佐へ木を取りに行く道が通じており、頂上までは険路で、桟道(:切り立った山腹に沿って木材で棚のように張り出して設けた道)や楷子(:はしご)を通るところもある。頂上は「豁然として平野の如し、十町四方に近かるべし」と。(今は「氷見五千石原」と呼ばれる)それもただ平というのではなく変化に富んで、編者は「龍堆(:西域の旬奴の地名)もかくやありなん」と表現しています。(山の名の由来と言われる「瓶壺にある甌穴については触れられていません。)、石鈇藏王権現はもともとこの山の頂上に出現したと言われる所で「角力取塲」、「宮とこ」などの小名が残る(「宮とこ」は「宮所」の省略)と。
石鉄山との高さ比べについて面白い表現があるので引きます。「此の頂より望めば、石鈇山、申酉の位に秀づ、仰キ見るべし、瓶が森は、石鈇山より扇だけ低しといふ説あり、伯仲の間なるを言いたる贔屓の言葉也、石鈇の殊に挺然たるは、此頂より見あぐるにて知ルべし」と。
瓶が森への他の道としては、藤野石山の内の川久留巣よりの道があるが、頂上までは通じていない。しかして、最近、中腹で炭焼が始まり、荒川から菖蒲峠を経て山頂に通ずる道が開かれたことが記されています。
〇炭竈 「おたきがまと云所(菖蒲峠の先)に、竈数ケ所あり」と記した後、炭焼の工程について詳細に解説されます。編者の興味ある事項でもありましょうか。前項にも触れられた菖蒲峠を経て頂上に至る道については、桟道も多く含まれ、「竈は、木尽きればこゝを捨てかしこに轉じ、遷徙常なし、桟道は、四五年の内には必ず朽るといへば、数十年の後は、如何を期し難し」と記されます。
〇東之川山と、荒川山との境である菖蒲峯(峠)の位置等が記される。
〇神祠 河内八幡宮(本郷にあり) 天神(瀑の源にあり) 稲荷(同) 以上三祠神主中奥山 十亀若狹  (現在は高智八幡神社がある。稲荷も神社隣へ移る。)
〇観音堂(本郷にあり)  前大保木山 極楽寺持
〇家に伝わる遺物、言い伝えなどの調査。
「庄屋代 勘蔵  百姓 嘉藏  同 平兵衛 以上三人の家、天正年中(:16世紀末)土州より落来る、嘉藏の先祖ハ、土州大森引地の城主大森豊後守の家老にて、伊藤右京助儀春と云う、平兵衛の先祖も、同く豊後守の家老にて、寺川日出之左衛門正近と云う、勘藏の先祖は、伊藤次郎といふ士にて、皆天正年中土州より来りたりと云う、此三軒とも言傳へのみにて、火災に罹り、古記古物、一つも存するものなし」と。


白糸の滝下より見た風景


「おたき窯」炭焼き、「かけはし」が見える

                                                  (h30.9追記)(R2、4図追加)


付録2 「明治以降、石鎚山北麓の山村の状況」

付録1で「西條誌」により藩政時代の西五ヶ山奥地の自然と生活の一端を見てきましたが、石鎚山北麓の山村として東之川(旧大保木村東之川)を中心に、一部小松町石鎚(旧千足山村)を加えて明治以降の生活環境の動向をざっと見ておきましょう。
参考文献(一部引用)は (1)「愛媛の記憶」愛媛県史 地誌Ⅱ(昭和63年) (2)「石鎚山系の自然と人文」(石福保 昭和35年11月)。

(1)西条市東之川を中心に
東之川の戸数は、本文にも記したように天保期が67軒315人で、明治期を通して60~70軒を維持していました。それが昭和26,7年に30軒となり、それ以降急激に減少してゆくのです。(そして平成に入り2軒、やがて0軒と・・)
明治期における集落領域の土地利用の構成をみると、集落をとり囲んでハタケ(常畑)があり、その外側にヤマジ(焼畑)に利用される私有林があり、最外縁が官山となっていました。ハタケは連年耕作される耕地であり、主な栽培作物は冬作の大麦や裸麦、夏作のとうもろこし・大豆・甘藷・野菜などでした。
明治9年の土地の利用の状況をみると民有地17町のうち畑9町、茶畑5町となっています。一軒当たり1~2反程度自作地として耕作するのが通常でした。(注 1町:3000坪 9900㎡   1反:300坪 990㎡)    狭い耕地でこれだけの人口を養うにはヤマジ(焼畑耕作)で補充せざるを得ない状況でした。焼畑は明治初年には天然林が伐採され、そこが焼畑用地となっていましたが、大正年間からは杉の人工造林地の伐採跡が利用されるものが多くなります。杣稼ぎを副業とする者の多かった東之川では、人工造林の歴史は古く、すでに明治20年代から始まります。大正中期には、拡大造林はほぼ終わり、アサギ(天然広葉樹林)が焼畑用地に利用されたのは、大正七年ころが最後であった言われます。
焼畑で栽培する作物は、初年に稗、二年目に小豆、三年目に粟といったように年ごとに変えられました。焼畑の用地は自己所有の山林を対象に行われることもありましたが、山林地主の山を焼畑小作する者も多くありました。明治中期以降の焼畑は杉の造林地となったので、焼畑小作するものは、小作料のかわりに杉を植林することが義務となります。杉苗は通常火入れされた直後の焼畑に植え付けられたので、三年間焼畑耕作することが、杉苗を育成するうえに都合がよかったのです。また杉苗と同時に三椏を植え付ける焼畑も多くありました。三椏が東之川に導入されたのは明治30年頃で、明治末年にはその栽培が最盛期に達します。そして、昭和になって三椏栽培は衰退します。
水田皆無の東之川では、焼畑で栽培した稗・粟は住民の主食として重要でした。稗は麦と混ぜて、ひえ飯として、粟も同じく麦と混ぜて、あわ飯として、主食として消費されました。小豆は主として商品作物として栽培され、氷見方面に出荷され、そこで米と交換されたりしました。
東之川でみられた焼畑経営の方式は、加茂川流域の水田を欠く山間部の集落には、ほぼ共通するものでした。ただ東之川や西之川では、他の焼畑集落と異なり、夏作に稗が多く、とうもろこしがあまり作られていなかったことです。稗はとうもろこしに比して、古くから栽培されていた作物であり、加茂川最奥の東之川や西之川には、古い焼畑の形式が後まで残存していた証しと言われます。


この地はまた、昔より農業外に山作業に依存せざるを得ぬような土地柄の村でした。明治になってからも農閑の木挽稼ぎが盛んで、男は木挽、女は運搬に従事して暮らしをたててゆくものが多くありました。
それとともに、石鎚山系の峠を越えた土佐側への出作(移動耕作)も盛んでした。そこは吉野川の上流渓谷に沿った本川郷で、寺川を初めいくつかの部落が山の中腹にありました。
寺川郷談(宝暦元年(1751))に「凡是より西は予州松山御領西條並御蔵所に隣る四国第一の深山幽谷なり。昔は土佐にもあらず、伊予へもつかず、河水は悉く阿州に流るといえども阿波へも属せず、筒井、和田、伊東、山中、竹崎(大藪ともあり)の五党此郷を各分ちて司るとなく、昔野中氏智略を以て地方免許にして土佐へ付けられしと或人語りき」とあります。(本題とは離れますが、寺川を名乗る氏はありません。伊予に移ってからの名乗りと思われます。)寺川郷談にも記録が残っており、当時より伊予と土佐の人の相互交流は頻繁であったことが伺えます。明治中期には寺川白猪谷銅山が開発され、そこで精錬された粗銅は人肩でシラザ峠越しに西條に運ばれました。往路には鉱山用の飯米を荷って寺川へ、帰路には粗銅を背負って千野々へ向う人々が陸続と続いたといいます。これも伊予と土佐の人の交流を促した一つの要因でしょう。

文献(2)には、昭和30年当時西之川に在住していた寺川伝六翁(明治5年生)の聞き取りが収録されています。貴重なものと思われますので長文となりますが引用させていただきます。(同文献には山狩り装束の伝六翁の写真が掲載されています。「山衣」を着て銃を背に、腰には獲物を運ぶ「おいなわ」をさげた姿から、高齢ながらむしろ凛々しさを感じるもの。)
「翁は14,5の年にはもう一人前に扱われ、山焼きにも出かけるようになった。春から秋にかけて、家中総出で寺川山へ移るのである。寺川白猪谷で40町前後の土地を借り受けて山を開いてきたが、宅地を借り受けると5、60町歩の山林がただでついてきたという時代の話である。そこで年々2町歩近くの焼畑を開いては稗や小豆をつくっていった。作付期間は3、4年で、そのあと20年も休閉させるという、本格的な焼畑経営がここでは普遍的に行われていた。稗が移住地の自給食料となり、小豆は持って帰って金にかえた。東之川から10数戸、西之川からも18戸前後の出作者があって、その頃渓谷から立上る火入れの煙はかすみのように山々のいただきを包んだ。明治20年代は官林の監理もやかましくなかったから所有地の区画も厳密でなく、出作者の生活は林野を自由に駆使して営まれた。別の面からみれば、国有地の中にまで畑をひらかねば食べていけなかったのであるという。東之川や西之川の杉山では、火入れは夜分に行ってもよく焼けなかったのに、土佐では雑木山が多く昼日中から火入れをしたが、山々はよく燃えしきった。「火をつけるぞ。はうものははうてにげよ。とぶものはとんでいけ」そんな唄え言もあったのを翁は覚えている。出作がやんでからもう50年にもなる。良い地所が借り入れ難くなったり、小作料の取立がやかましくなって、人々は次第に引き揚げてゆくようになった。またその頃になると官山の取締も厳しくて、山仕事も自由には出来なくなっていった。翁はその後もニ、三の者を引き連れて山焼きを続けたが、白猪谷銅山が大正末期に休山すると、谷筋一帯を借り受けて新しい村づくりを思い立った。村の有志と語らって、土佐の長沢村当局へそのことを願い出たこともあった。これは四国の山々にもまだフロンティアがあった頃の、山の開拓者の生気あふれる着想である。昔を語る翁の姿には、山に生きる男のスピリットが満ちていて、その話をきく者に深い感銘を与える。」
出作を促した理由は、伊予側山村の耕地の狭少さと人口圧の高さによると言われますが、これは山村が銅山開発をすすめた結果過大な人口を収容したことから、銅山稼業の消長に応じて過剰人口が放出されるようになったとも考えられます。

昭和25年頃から林業がおもな生業になると、焼畑はそれに従属して行われる程度に過ぎなくなってゆきます。東之川の林業は、部落民の所有山林を含む地元山林を対象に、部落民自身の労力を手段として展開した民営林業で、造林、育林すべて彼等自身の手で行われるものでした。川辺までの木材の「中出し」まで部落民の仕事で戦後整備が進んだ索道も活用し繁忙をきわめていました。しかし、川流を利用した「木流し」以降は製材資本に属する「やまさき」に支配されていました。要は、村の林業は製材資本が山林経営を支配する機構のなかで成立しており、村民の主体的生産活動として展開する余地は残されていなかったのです。

交通の整備についてみておきましょう。
昔は東之川から氷見へ出るのに、千野々までは山道を、千野々からは大保木山を経て氷見に通じる駄馬道を利用していました。明治初期に木挽稼業に従事した部落の人々は、この道を利用して木材を氷見まで運んだといいます。川沿いの道が開けたのは昭和にはいってからで、県道西之川西條線が完成したのが昭和2年でした。大保木地区の中央部を加茂川が貫流していますから、橋梁の架設が完成するまでは自動車は入れませんでした。西之川までバスが入るようになったのが昭和27年、中型トラック道が東之川に延長されたのが昭和32年3月でした。そして石鎚山ロープウエイが開設されたのが昭和41年8月のこと。
後段は、人々の生活への係りというより石鎚山参拝や観光の観点より考えられることかもしれません。


加茂川流域集落の世帯数の変化 その1(北部)


加茂川流域集落の世帯数の変化 その2(南部)

(2)小松町石鎚
この地域は昭和26年以前は千足山村と呼ばれた所で、湯浪から横峰寺に上り、下って虎杖(いたどり)から黒川谷にそって常住に上る山岳地帯と、虎杖から分岐して加茂川に沿って高瀑渓谷に通ずる谷に散在する集落が含まれます。石鎚山参拝道という点から見れば、横峰寺を経由する道筋に当ります。今は地図上にも名を残さぬものを含め、昭和40年頃までは17の部落が存在していました。(北より、湯浪、途中ノ川、古坊、郷(横峰寺辺り)、槌ノ川、石貝、虎杖、黒河、有永、土居、谷ケ内中村、折掛、老ノ川、正路藪、大平、成藪そして戸石)



千足山村の集落(北部)


千足山村の集落(南部)

村全体の戸数は、明治21年219戸、1307人、昭和33年179戸、977人、現在は北側を除き限りなく0に近づきつつあります。
明治41年に戸数251に対し畑地567町、(1戸当たり2.7町)の記録がありますが、村落が置かれた地形からみても常畑ではなくその殆ど伐替畑即ち焼畑耕作地であったと考えられます。状況は先に見た東之川より更に厳しい部落も多かったと思われます。焼畑では、東之川と同様に稗、明治30年頃より三椏にとって変わられます。林野経営も東之川と同様、その主体的な展開は困難な状況でした。



ここで特筆すべき事項は、住友林業による大森山中腹の大森銅山に精錬用薪炭原木供給の経営でした。
明治38年頃から大正8年頃まで立木の伐採と炭焼がおこなわれました。30名近い製炭夫が鉱山会社直属の「親方」に率いられ稼人として働いたといわれます。大正8年頃には、高瀑渓谷沿いに製炭業者の集落種川が形成され、石鎚山山頂手前の八丁坂には木炭輸送の中継地も設けられます。伐採後の植林も明治42年より実施され、40~50人の植林夫を抱える大規模なもので大正9年まで続けられます。
銅山用製炭が止んでからは、住友保有林野は地元の製炭業者に提供され、昭和30年頃は老ノ川を中心に活況を呈したといわれます。
石鎚山北斜面の大樹林地帯は自然に形成されたように見えても、人々の生活の舞台として役立てられ、またその成果として守られたきたという歴史に気付かされずにはおれません。

この地方では林野の農業的利用にしか生きる道はないと思われ、昭和30年代より多角的な農林経営の試みが為されてきました。例えば、林野経営の多角化としての羊、山羊の飼育、こんにゃく栽培、あるいはりんご栽培、共同購入組合の設置、自家発電所の設置、営農資材や収穫物運搬のための共同施設としての索道や木馬道の設置などでした。これらの動きの悩みは、小さなそれぞれの部落での動きが孤立していたということでした。これが一つの地域の中で結ばれることにより、地域全体の発展を齎すことが期待されていました。それは行政の力に委ねられることもまた多いと思われます。
昭和40年代以降の地方行政はその方向を示すことはなかったのでしょうか・・ 今やこの地方の多くの部落は消えてしまいました。この事実と歴史を我々はどう受け止めればよいのでしょうか。

(付録2のあとがきに代えて)
私は四国遍路の旅で遍路道とその近くの道を歩きながら、心躍るような感動とともに幾つかの山峡で心痛める状景を見てきました。「限界集落」、「消滅集落」のことです。
昭和30年代後半より始まった高度成長政策とその延長はこの国に何を齎したのでしょうか。それはよいこともそうでないことも・・あるいはそれは必然であったのか・・
その時代我々年代の多くの者が懸命に働きそれに加担してきた、そのことに後ろめたさを感じながら思い返しています。
これからの日本をどんな国にしてゆくのか・・考えてみなくてはならないことだと思います。


                          (令和2年4月 改追記)

付録3 「宮本常一の山村文化振興への提言」について

宮本常一の「山村の地域文化保存について」と題する論考があります。これは昭和50・51年度山村文化振興査の結言とされるもの。
過疎に臨んだ山村の問題を解決するに、極めて有効で示唆に富んだ提言と思われますので紹介させていただきます。

まず「山村文化振興の根本問題は、そこの生活のたて方のほとんどが肉体労働になっている現状の中へ、どのように知識労働をとり入れてゆくか、また知識労働者の定住する余地を作っていくかという対策につきるといっても過言でないと思う。」と緒言される。
既に、当ブログ記事(付録2、付録3)でもみてきたように、山間に住む人々は、古くより農耕だけで生活をたてることは困難であり、農耕以外の職業を持ってきた。狩猟、杣、炭焼、荷物運搬、木地師、信仰のための登山支援、神楽や踊りなどなど地域によって多様である。
宮本らが調査を行った時点、それは日本全体が高度成長へと舵をきってからすでに十年余、上記の伝統文化の継承は困難となってきていた。それより更に4、50年、現在は新しい文化要素の付加が必須である地も多いと思われるが、細々であっても繋がれてきた地域性に根ざした伝統文化があればこの上ないこと。
先ず、宮本が指摘する山村文化振興への課題と期待について耳を傾けてみよう。(例によって私の早とちりや誤解が顔を覗かせると思うが・・)
「資源」(例えば、木地師における森林資源の枯渇といったこと・・) 「後継者」(高校へ通うため村を出た若者の内、その後村へ戻る者は殆どいない・・) 「女性の重要性」(家事労働の軽減による労働力は、企業の下請工場に吸収されるのが通例。女性たちがその住む土地にどのような夢を持たせるかを考えることがない山村は救われることはない・・とまで。それは子供たちをその土地に繋ぎとめる最大の力とも・・)「経済基盤」(戦後の農地改革は古くからの芸能文化を維持するための経済基盤を失わせた・・ 「需要と外部との繋がり」(神楽や信仰のための登山など外部の人頼りの需要は減少した。いかにして来訪者をつくるか・・観光バスを連ねてくる物見遊山の人ではなく、民宿を渡り歩くような熱心な来訪者。文化と呼びうるような内容・・ 「流通機構」(木地物や和紙など内容が立派でも流通機構の採算性が欠如していることが多い・・)
このように、山村文化振興の課題は、それぞれの山村で共通のものもあるが、異なるものも多い。息の長い地道な活動でなくてはならない。
そして、宮本は課題を解決に近づける方法と手段の例示として次のように語る。 ①そこにある自然をどのように教育とレクリエーションの場としていくかということ。 ②地区内外の人々との交流の場と設備をつくること。 ③山村生活の意味を考え、反省する機会と設備をつくること。 ④民俗芸能や民具の保持対策、伝統技術の生かされる場をつくること。 ⑤前2項を含め、山村民の教養機関をふやすこと。図書館、郷土館を始め婦人のための教養娯楽施設をつくること。 これらを総合して新しい山村の生き方を見いだしていくこと。・・・
過疎を含む、というより人口減少を前提とした山村の問題は、国や地方公共団体の政策、支援(投資支援を含む)問題として捉えて行くのが常套手段であろうが、よくよく考えてみれば、宮本が40年前に示した山村文化振興への提言が、あらゆる対策の前提として今も生きている問題であることを感ぜぬにはおれないのです。

更に注目すべきことを一つ加えておきたい。交通手段が比較的豊かな大都市近郊の山村を中心として、その地に移り住み、宮本が説くような山村文化振興の観点より活動し、ネットを活用して情報発信する人(中年女性が多いよう・・)を見るようになってきたこと。敬意を持って見守ってゆきたい。

(宮本常一の論考「昭和51、52年度 山村の地域文化保存について」 は「山と日本人」2013に収録)

                                (令和4年11月追記)

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四国遍路の旅記録  平成26年秋  その4ー1

小松、吉祥寺、前神寺、西条へ

この日は小松の宿を発って、63番吉祥寺、64番前神寺におまいりし、旧讃岐街道を辿り西条まで、そして一部バスを利用して石鎚山の麓、西之川まで行く予定です。
後半の行程については後にして、まず前半の行程の御託から。

この辺りの遍路道は基本的には旧讃岐街道に拠っています。しかし、前神寺の先から西条を越えた飯岡までは、旧讃岐街道に拠らず、武丈公園や地蔵原を通る山裾のルートが歩くにはとてもよい道筋であり、これを通る遍路が多いようです。
協力会のへんろ地図も、この道(のみ)を遍路道として採っています。
私はヘソ曲がりですから、4度目にして初めて旧讃岐街道を辿って西条まで行ってみることにします。

63番吉祥寺。境内には成就石やくぐり吉祥天女などの仕掛けがあり、多くの遍路が試します。
門外に茂兵衛道標(197度目、明治36年)、北口に「これより前神寺へ廿丁」の徳右衛門標石。東口に安永9年の「これより一丁かち水あり」と芝之井を案内する標石。南口に明治14年の円柱と角の二つの利平道標、など。

 吉祥寺で

 吉祥寺南口の利平道標

前神寺への道。
西泉の阿弥陀堂の隣に「のだふじ」の樹。その一角に「こんぴら大門より十九里」の金毘羅道標。
その先、久万笠松城主であった丹民部守越智清光の墓と神社。(丹氏は河野氏の出。天正13年豊臣秀吉の四国侵略で討死。)
石鎚神社(口ノ宮)の大鳥居を見て参道を横切り64番前神寺へ。(石鎚神社へは明後日まいる予定。)
前神寺は、江戸時代までは石鎚神社の境内にあった寺。澄禅は石鎚山の「里坊」、真念は「前札所」と表現しています。
「名所図会」の前神寺の絵図を見ると、まさに今の石鎚神社の配置であることが確認できます。高台に蔵王権現、その下に大師堂、その右が寺であると想像できます。


「名所図会」前神寺絵図

今の前神寺は阿弥陀如来を祀る。鬱蒼とした森に囲まれた本堂はそれは立派な佇まいであり、元札所とも言える石鎚神社に負けまいとする気迫が感じられるようです。大師像も他の寺では見られない独特の姿を見せます。

 前神寺本堂

前神寺の大師像

西参道にある昭和8年の、次の札所三角寺に近い三島までの汽車利用を勧める標石、東参道の「是より三角寺十里」の徳右衛門標石、奥の院仙龍寺への参詣を勧める長文が刻まれた茂兵衛道標(202度目、明治37年)。これらの多くは以前の日記でも紹介したように思います。
もちろん、徳右衛門標石は、旧地石鎚神社前から移設されたものでしょう。


前神寺東参道の茂兵衛道標(202度目、明治37年)

 前神寺東参道の茂兵衛道標(部分)

 前神寺東参道の徳右衛門標石

前神寺から1kほどで、武丈公園に向う新しい遍路道を分け、旧讃岐街道は国道11号を斜めに渡って直進します。道筋に自然石の常夜燈や地蔵堂などが残りますが、新しい家が多く旧街道の風情を感じるという道ではありません。
やがて加茂川の土手に。土手の下には地蔵堂、上には明治4年の大きな常夜燈。
昔は、水の多い時には渡し舟、普段は流れに板をわたして渡っていたとか。今もそんな流れの川です。ここに木橋が架けられたのは明治44年のこと。

 加茂川左岸の常夜燈


加茂川、旧街道の渡河地点付近

今は少し上流の国道に架る加茂川橋を渡ります。
大常夜燈の対岸の場所から旧街道は続きます。土手に地蔵堂。
街に入ったお堂の前に「へんろ道、前神寺へ二十丁、三角寺奥の院へ十三里半、駅へ七町半、次ノ四辻ヨリ左へ曲ル」と丁寧な道標。

 旧街道と川原町の道標


西条市川原町の寿し駒の道標

その先ホームセンター前に徳右衛門風の道標。これは明治44年の「寿し駒」日野駒吉のもの。
その先の旧街道沿いには、「三角寺迄九里」の下部の埋まった徳右衛門標石。更に1kほど先に同文の刻まれた標石。そこはもう新遍路道との合流点近くです。

JR西条駅に戻り、バスで黒瀬峠まで移動。石鎚山の麓、西之川を目指します。
さて、本日後半の御託その1を述べましょう。
前日の日記で石鎚山と横峰寺の関係と参拝ルートについて書きましたが、ここで石鎚神社(里社、今の口ノ宮)と前神寺の関係ともう一つの参拝ルートについて書いておかなくてはなりません。おっと、その前に石鎚山霊場の変遷について触れておかなくてはなりませんね・・

石鎚山霊場の様相の変遷
石鎚山霊場の変遷について概況しましょう。
中世までの石鈇霊場(明治に至るまで「石鎚」の名を用いることはない。)の開山に関して、それをそのまま今の石鎚山に当てはめることはできず、笹ヶ峰、瓶が森、石鈇の三つの山の鼎立状態にあったと解釈すべきであると思われます。
中世期が進むに連れ役小角の伝説が広まり、蔵王権現を祀る修験者の活動が見られるようになります。神仏習合の流れのなかで、この地域に開かれたとされる霊山と別当寺の組み合わせを縁起などの諸文献に見られるものを拾い上げ、年代の古い順に挙げると次のようになると言われます。
    笹ヶ峰・・・正法寺(新居浜市)
    瓶が森(石土山)、子持権現山・・・・天河寺(てんがじ)(極楽寺の向いの大保木に存在した、室町時代に焼失、     現廃寺。中腹に石土山常住(坂中廃寺)を有す。)
    石鈇・・・・前神寺、(常住(成就)を有す。)、横峯寺

即ち、中世末期から江戸初期に笹ヶ峰が衰微し、続いて瓶が森が衰微し、江戸時代においては前神寺と横峯寺の競合が続くという様相を呈するのです。
さて江戸時代以降の様子を見てみましょう。
上記の如く江戸時代に入るまでは石鎚(石鈇)の社は常住の地(今の成就)にあり、別当としての前神寺もそこにありました。江戸時代に入り四国遍路が盛んとなると、常住まで上ることの困難さから、横峰寺は星ヶ森に遥拝所を、一方前神寺は遥か離れた平地に蔵王権現を祀り、里前神寺を設け納経所を置きます。(常住の地の寺は奥前神寺と呼ばれます。)
真念の「道指南」(1687)は、六十番横峰寺の項「・・よこミねより二町のぼりいしづち山の前札所、鉄のとりゐ有。」六十四番里前神寺の項「蔵王権現のやしろ、これすなわち石鎚山の前札所なり。」と記します。
江戸時代中期の石鎚山(石鈇山)別当職をめぐる前神寺と横峰寺の争い(どちらが石鎚山(石鈇山)の山号を名乗るか)は京都御所に持ち込まれ、明和6年(1769)「(両寺)論条御裁断之事」により「「石鈇山社別当」は前神寺が専称し、「仏光山石鈇山社別当」は横峰寺が称するとする、曖昧な裁決となります。
「名所図会」(1800)では、六拾番仏光山福智院横峰寺の項「石鈇山遥拝所門より壱丁下り印木より左へ三丁余上りあり、石鈇山へハ常に参る事を得ず、此所にて拝す、」と、六拾四番里前神寺の項「此寺ハ、石鈇山へ人常に参る事を得ず、此所にて拝す。」とあります。
その後、江戸後期文化年間に常住の地が属する千足山村と横峰寺(小松藩)より前神寺(西條藩)に訴訟があり、文政8年(1825)の公裁により「常住の寺は奥前神寺とは呼ばず常住山と称すべきこと、ただし別当は前神寺のままとする」となります。(「西條誌」)
明治の神仏分離により、里社としての石鎚神社と前神寺の分離と前神寺の一時的廃寺、横峰寺もまた一時的廃寺という事態を経て、それぞれの神社、寺が不明確で微妙な立場を保ちつつ石鎚山信仰を支えているというのが現状と言えましょうか。
こうして石鎚山霊場の変遷を見てくると、それは様々な紆余曲折を孕みつつ進み、特に明治の神仏分離政策が信仰する者の心とは離れ、経緯と真実を歪めてきたという印象を拭うことができないのです。
                             (令和5年12月改記)


石鎚山頂上社に達する参拝ルートとして、前日の日記で横峰寺を経る二つについて記しましたが、現状では、それよりやや鮮明な色合いを呈するように思えるルートとして、前神寺→石鎚神社(里社、今は口ノ宮と称する)→(二並山(ふたなやま))→黒瀬峠→大保木→中奥→河口→今宮付近→成就社(中宮)→頂上社、が確定しています。(二並山のルートについては後でふれます。)
これは、このルート上に石鎚参拝道標としての石鎚三十六王子社が置かれていることからも確認できると思われます。
因みに、「名所図会」の横峰寺の項の前段に「・・おうごう村(大郷)・・深方村(現不明、あるいは「ふるぼうむら」のことか)・・是より甚だ山坂けわしく拾七丁程上り一ノ皇子社、石鈇山三拾六王子の内也、左手にあり・・」と記されるように、現在黒瀬湖近くにある第一王子社は江戸時代中期には大郷から上る道筋(おそらく古坊あたり)にあったと思われます。石鎚参拝道の主導権争いの熾烈な様相を感じないではおれません。

さて、こういう御託の成行きで、石鎚神社の一の鳥居がある黒瀬峠から石鎚山頂上社まで、王子社を辿りながら往復しようという計画です。
まず、河口までの参拝道を辿ります。河口から県道12号で西之川へ、ここで一泊。翌日、西之川登山道(正しくは御塔谷道というらしい)を上り(この西之川道、あるいはその近くに7つの王子社が置かれているのです。)石鎚山頂上社へ。頂上山荘に一泊。翌日、頂上社から成就社へ下り、今宮道を通って河口へ。そして、往路で残された黒瀬峠から石鎚神社(口ノ宮)への道を探ろうというものです。
ただ、計画と実行とは異なります。私の場合、大抵、実行は易きに流れます。今回もそうでした。それは兎も角・・ 
それに参拝道は基本的には修行道です。詳細な地図や案内書を持たない私は行きつけない王子社も多いでしょうし、ルートは分かっていても体力的に無理なところもあるでしょう。遥拝も含めて、その近くを通るというだけでも満足することにします。
西之川へ行くということは、その奥にある東之川に行きたいという、もう一つの目的もあるのです。これについては、西之川に着いたときに書くことにしましょう。勿体つけて・・

一ノ鳥居をくぐり黒瀬峠から南、大保木に向かいます。この古くからの道は、加茂川に沿う現在の県道(17号)に依るのではなく西の山麓を伝うルートをとります。
横峰寺への車道(平野林道)の出発点でもある旅館のすぐ傍にあるのが、第一福王子社。覆堂の中に地蔵と小さな石殿。次の王子社は大保木に入ってから出会う第二檜王子社。番号付で呼ばれます。しかし、江戸後期の「西條誌稿本」(天保13年 1842 詳細は後記)には、黒瀬山の項に「・・石鈇の道にある三十六王子の如きものにて有たるならん・・」、また、前大保木山の項に檜の王子としながらも「三十六王子内にてハなし・・」と、やや曖昧な書き様。これは前にも少々触れたように、江戸後期の石鈇参拝道の勢力が横峯寺を経るルートに偏っていたためでしょうか。
第一福王子社から緩やかな道を1k足らず、尾根に達すると道外れに古い鳥居。ここが「七曲り坂」の始まり。谷まで標高100m下り50m上る。昭和初期の地図には記されるが現在は廃道。山屋も苦労するようです・・「西條誌稿本」には「・・七曲りといひ来りたれ共實実ハ八曲りあり、・・」と紹介される。(昭和初期の大保木地図参照)
大保木に入ると、第二檜王子社。第一王子社と同様の設え。その先には、私が何度も訪れたことのある大保木小学校廃校跡。懐かしい・・子供たちの声も甦るようです。
それからほど近くに九品山極楽寺。石鎚山真言宗総本山(むかしは古義真言宗、京都仁和寺末、檀家五百余軒を数えたという。これから訪ねる観音堂や地蔵堂の総元締めの立場にもあります。向かいに聳える屏風のような山の頂き。(昔は龍王山と呼ばれた。その山中にあった天河(ガイ)寺が極楽寺の前身であったと伝える。)寺から県道に下る330段の石段が見おろせます。
この道は、河口、西之川を経て瓶ケ森へ、県境を越えて土佐寺川そして阿波へ繋がる道です。 (令和5年2月 改追記)


昭和初期の大保木地図                           

 

大保木小学校跡

 極楽寺本堂

 
極楽寺山門(後方は高森)

極楽寺から続く山道を千野々近くの県道に下りたところの崖上に第三大保木王子社があります。そこより10mほど下ったところに三十六王子社最初の「覗きの行場」。山道を行き県道に降りる手前に第四鞘掛王子社。しばらく県道を行き、淀の集落の先、右上に上る狭い舗装道で細野へ。
細野には数軒の家と畑もみられますが人の気配は殆ど感じられませんが下ってくる若者を乗せた軽自動車に出会いました。あるいは何軒かには人が住んでおられるのかも。
王子社の案内標識があり、そこから山道に入ります。廃屋の横を抜け、足元は一応自然石の石段になっていますが、雑草の繁茂が著しく進めなくなります。


第5、第6王子社への道

 森の中の軍人の墓

彷徨するうち森のなかで、あの先の尖った独特の墓石の軍人の墓に出会います。
「居士ハ大正六年○月○日父○○ノ三男ニ生れ資性温良昭和十二年六月一日志願兵トシテ佐世保海兵団ニ入団同十五年十月横須賀機関学校ヲ卒業累進シテ機関兵曹長ニ任ゼラレ第二次世界大戦下波濤萬里ヲ馳駆シテ各所ニ転戦中昭和十九年○月○日比島沖海戦ニ於テ戦死セリ・・昭和二十二年○月○日」 
この村から出て行った若者は還らなかったのですね。こういった墓銘、遠い遠い昔の日にも何処かで、私は見たことがあることを想いだしていました。
結局、この日は第五以降の王子社には達することができませんだした。日を改めて到達し得た王子道(参拝道)についてここに記しておきましょう。

大嶽

細野の集落の中の車道から山道に入り暫く行くと迫割禅定(跡?)、そこから100mほどで第五細野王子社。この辺り、岩山(大嶽)が聳え立っているのが見えます。ここより下る急坂に昔は鎖があったといいます。江戸時代後期の「西條誌」には「今の弥山の下より第一の鎖、昔は此処に懸り有りしと云、此坂嶮きゆえ也、後世道を作り、少し歩み易く成りたれば、其鎖リを弥山へ移す」と記されています。その先数分で第六子安場王子社。ここに二つ目の「覗の行場」があります。
正面に河口の三碧橋、今宮登山口も見えています。素堀りのトンネルをくぐり河口、今宮登山道にかかります。道が左に大きくカーブする先、荒れ果てた三光坊不動堂の横から入り第七今宮王子社、その奥10mほどで第八黒川王子社。覗の行場があります。黒川谷を見下ろす恐怖の急崖。今宮道から旧王子道に入り、廃屋跡、その奥に地蔵堂。このお堂、昔は権現堂であって女人禁制であったとも言われます。少し上ると第九四手坂王子社。その先は急坂の四手坂。「西條誌」に「川を渡れバ此坂あり、坂の間、十町也、王子あり、覗あり、前の覗に比すれバ浅し、四手坂、家数わずかに四五軒」とあります。坂を登れば加茂川を隔てて東側の稜線の岩山が見えます。(昔は人の顔に見え「目鼻岩」と言われた。少し下にある写真「今宮道の入口付近から二ノ岳(だき)を望む」の二ノ岳の岩山が昔は目鼻に見えたのだと思われます。)
第九より40分ほどで第10二之王子社、さらに第11小豆禅定王子社、第12今王子社、第13雨乞王子社と続き、その先で今宮登山道に合流し成就までは整備された道となります。
なお、第10から第13の王子社の道は厳しく林道にも惑わされ辿ることは容易ではありません。山道に慣れた人以外は遠慮した方がよいでしょう。私もその途中で道を失い今宮まで戻りました。


三光坊不動堂

今宮は嘗ては石鎚山参詣の人々の中継地であり、大正8年には36戸、178人、11軒の宿屋があったという記録があります。小学校の分校もありましたが、昭和47年に閉校されます。それから村は急激に消えて行きました。立派な石垣や宿屋であったであろう大きな構えの廃屋が数軒みられます。明治や大正の年号を見る墓も荒れ果てたまま、参る人もないのでしょう。勇み立った男の声が響く今宮を思い起こすように見おろす大杉がありました。
(今宮の項は「平成26年秋その5」の記事と重複。付近の王子社などの写真も同記事をご覧下さい。)


今宮道の入口付近から二ノ岳(だき)を望む


河口付近の加茂川の流れ

石鎚山系南端の集落へ

これまで加茂川に沿って石鎚に迫ったいくつかの
集落にも既にその色彩は強く表れていましたが、これより行く西之川、東之川は意識的な「限界集落」「消滅集落」への辿りということができるかもしれません。

(追記)限界集落、消滅集落について
限界集落という語が語られはじめてからもう大分長い時が経ちましたが、今やその限界を通り越して消滅集落(住人0(ゼロ))となった多くの山村集落があります。これらの集落は日本全国に散在すると思われます。最近、そういった消滅集落を訪ねネットなどで語る人もけっこう現れたように思えます。
私は四国遍路の途上、平成20年から27年にかけてそれら限界集落や消滅集落の道を歩くことができました。ほんの一部だけですけれどね・・
愛媛県中東部では、南に石鎚山を望む山懐、西条市の大保木、西之川、東之川そして小松町石鎚(旧千足山村)の一部です。
藩政時代や明治には多くの人の生活が営まれた舞台は今は消えてしまったのです。日本はそんな国になってしまったのでしょうか・・その衝撃・・

 行者帰還(西之川登山口)

さて、今宮から西之川に向かいます。
西之川の登山口から、多くの行者姿の人が下りてくるところでした。ここから夜明峠、成就社をまわる修行の行事のようでした。
私は西之川から更に2kほど入った愛媛県最奥の集落、東之川へ行くつもりです。
その御託を書かなければなりませんね。この日の後半の御託その2です。

民族学者宮本常一は「山と人間」(民族学研究32卷4号、昭和43年)の中で、天保末年編の「西条誌」を引いて、西条藩で水田を全く持たない山村を挙げています。それは私が今日歩いて来た地と重なっています。
前大保木山村、148軒、590人、鉄砲持ち9人、畑34石8斗。中奥山村、168軒、634人、鉄砲持ち19人、畑43石6斗。西之川山村、55軒、244人、鉄砲持ち9人、畑10石8斗。東之川山村67軒315人、鉄砲持ち9人、畑6石5斗。
畑の石高はその人口を養うにはあまりにも少ない。宮本はこれらの村では焼畑や杣仕事に依存していたと見ています。山を渡り狩猟採取生活をしていた山の民が山の上から谷に下り、焼畑や定畑で食を得る生活に移ったと想定しているのです。鉄砲持ちが多いのもその一つの証であると。
畑では粟、稗、芋、円豆(大豆)、空豆、後には茶が作られる。
例えば、平家の落人(源平合戦において平家方に与し、落ちのびた人をいう。必ずしも平氏一族ではない。)のように水田耕作の経験を持つ民が山中に移った場合、大抵、水のあるところを見付けて水田を開いているということも指摘しています。
東之川は愛媛県最奥の山村。越えれば高知県の寺川。
宮本常一は、昭和16年の暮れ、伊予小松から、おそらく私が今日辿ってきた道を通って東之川を経て寺川まで行っています。
「忘れられた日本人」にも収められた「土佐寺川夜話」のなかで、寺川への途中の山道でカッタイの老婆に出会ったことを記しています。東之川から瓶ヶ森、子持権現山を越えると、シライ(白猪)という谷を通って吉野川の源流、そして寺川です。シライとは彼岸花のこと。元々救荒植物として田の畔に植えられたものです。伊予から来た人達はシライを掘り、川の水で晒して毒を抜いてシライ餅と呼ばれる餅にして食したといいます。これも宮本が記したこと・・

以上が東之川行きの御託です。私がそこに何を見ようと思ったのか・・(巡礼の道と生活の道との補完性は、私にとって確信です。)何となく分かっていただけたでしょうか。
東之川への道の入口に行って驚きました。
右手の山が崩壊して大小の石が道を埋めてしまっています。砂防ダムが造られ、谷に橋を架け、東之川への導入道路の建設工事の最中なのです。(この崩壊は2012年9月4日に発生。幅100m、長さ150m、斜面勾配35°の大規模なもの。上流の1戸2人が孤立。今は西条市内に転居しているとか・・これは後にわかったこと。)

 東之川へ

 崩壊現場

飯場小屋の前まで行き、断られるのは覚悟の上で「東之川へ行きたいのですが・・」と声をかけます。意外にも監督員は親切。ダンプカーや重機の動きの合い間を縫って案内していただきました。遍路姿が幸いしたのかもしれません。
2年間、車の通ることのない道は荒れたところもありましたが、危険ということはありません。

 東之川への道

最初の家の姿を樹間に見て墓地。
墓石には、伊藤家、工藤家、寺川家の銘を見ます。寺川家の新しい宝筐印塔の立派な墓も。石面にはあの折敷に揺れ三文字の家紋が。 
墓地の横に40代くらいの女性が座っています。横には山のものを採取したであろうポリ袋。
「西条から来ました・・もう返るところで・・」
誰かを待っている気配でもありますが、話は滞ります。
当然でしょう。誰もいないと思った所で余所者の遍路姿ですから・・
川に架かる赤い橋の向こうに高智八幡神社、稲荷神社も。 
その先に観音堂、「敬禮救世観自在尊」の石塔。由緒を刻んだと思われる碑。
少し行くと「寺川代吉翁頌徳碑」があり、東之川の中心部でもありましょうか、数軒の家姿が集まっています。
西条市名水名木50選「おたるの滝」の石標。消えかかった石鎚登山案内地図」。「瓶ヶ森山頂まで5.8k」の標識。山道への入口の扉は閉じられています。西条警察署の登山連絡箱は色褪せて寂しそう。背の伸びた草の向こうに「寺川山荘」 「ふみおの山小屋」の看板も。
そう、ここは瓶ヶ森への登山口でもあるのです。登山観光で生きようとしていた姿も見え隠れします。
ちょっと驚くことですが、住友共電㈱の水力発電所もあります。斜面に面した家の敷地は立派な石垣が築かれています。

 墓地

  観音堂

  家

  山荘の跡

登山道入口

 登山連絡箱


発電所建屋

地蔵と石標

おたるの滝標石

草木に埋まる

戻る道、先ほど出会った女性と連れだった年長の男性にお会いします。女性の父親か舅といった感じ。
「西条の家は小いそうてのー、まだここの家の方がましや・・こうやってようさんぽにくるんや。あんたは昔ここに来られたんかのー、○太郎さんに会われたんじゃろー、そこの家じゃ・・」。

2年前、道が閉じたとき住んでいた1戸2人とは、この人たちだったのかもしれません。後でそう思いました。

 東之川で会った人

その晩、西之川の宿に泊って、女将から聞いた話、それにネット検索で集めた若干の情報を寄せ集め、東之川の歴史を辿ってみましょう。ランダムですが。

東之川には、伊藤家、工藤家が多く他に寺川家、曽我家があった。工藤家、伊藤家は源氏に追われて瓶ヶ森を越えて逃げてきた平家の落人だと言い伝えられている。(宮本常一の予測とは異なりますが・・) 観音さんの近くに元の氏神が祀られている。
頌徳碑のある寺川代吉氏は長年村会議長を務めた人。寺川は土佐にあるとはいえ、生活圏は伊予側にあったので、寺川を名乗る家がここに移ってきたのは不思議ではないと思えます。
嘗て、東之川の左右の山には鉱山があり、昭和の初期にはかなり栄えて、映画館や日用品を売る店があり、後(昭和30年代)にはバスも通っていたようです。
明治期、東之川には既に小学校があったようですが、昭和10年、高宮、東之川、西之川尋常小学校が統合、西の川に高宮小学校が開かれます。多い時は30名の生徒が通っていましたが、昭和55年に閉校。高等科は大保木にあって、東之川からは北の前田峠(東之川とは標高差200mの峠)を越えて千野々に出て通学していたようです。
天保期に67軒、315人だった人口はその後もほぼそれを保っていたようです。昭和26,7年頃より町への移住が始まり、30軒ほどとなり、平成10年には2軒、そして平成24年は前記のように1軒2人となりました。
西之川では「東之川はもう住む人もいなくなるのに、大金をかけて道路を造ってどうするの・・」という声も聞きました。
ほんとに、東之川、この村はこれからどうなってゆくのでしょうか。ただ消えてゆくだけなのでしょうか・・


東の川地図

                                              (10月28日)(令和2年4月一部改)
                                  
4-2へ続く 

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四国遍路の旅記録  平成26年秋  その3

興隆寺、香園寺道を辿って小松へ

世田山山上の栴檀寺にまいったのは、思えばもう1ヶ月も前のこと、まだ暑さの残る日でした。
山下の寺の門前、三差路の間の高台にお得意の句「迷う身を教えて通寸法の道」が刻まれた茂兵衛道標(238度目、明治44年)。そこからが、今年の秋遍路の歩き継ぎです。

楠に入り、御来迎臼井水。
「名所図会」に「臼井水、道の左道安寺門前なり、石臼の井よりわき出る。大師堂井の上にあり、標石井の道ぶちにあり、臼井水ト碑名あり」と記され絵図も添えられています。碑をじっくり眺める人も・・
その臼井水の由来が記されたという碑は(所々、臼井水・・大旱・・貴物上人・・殆ど読めませんが)今も井の左側にあります。
道以外は何も変わらぬ現在の様子が嬉しいですね。井の中には小魚が泳いでいました。

(追記)この石碑には碑文が認められた年、寛政十年(1778)が刻まれています。また、碑文は喜代吉榮徳氏による読み下しがあります。(「徳右衛門丁石の話」その25-3)

        「名所図会」臼井水の絵図

臼井水の向いの墓地の先、半ば山土に埋もれるように徳右衛門標石。劣化が著しく殆ど読めませんが「是より横峯迄四里」と。
しばらく行くと、右手の道より少し入った所に日切大師(日切山弘福寺)。屋根を覆う大木の楠に驚かされます。
ふと、参道の墓の隣の小さな地蔵道標に目が留ります。私には「白玉山五里一丁」と読めます。
その場では見当も付きませんでしたが・・後で調べてみると、その距離からして新居浜の白玉山萩生寺ではないかと。どうしてここに・・あるいは、弘法大師に特に縁の深い寺の繋がりであることかもしれません。

 楠の徳右衛門標石

日切大師と大楠


日切大師前の墓と道標

明神川を渡った橋の袂に天保13年の「こんぴら大門へ二十一里」の金毘羅道標と並んで、清楽寺(60番前札所)、香園寺、一ノ宮、西山、久妙寺、生木地蔵、大峰寺を案内する明治41年の標石。(明治18年から41年までは60番札所は大峰寺の名称。前札所が清楽寺であった。)

 
大明神川右岸の金毘羅道標と明治41年の道標

川を渡った先で道は県道150号と159号の二つの分かれます。
協力会へんろ地図では、途中で西山興隆寺への分岐はありますが、生木地蔵を経て大頭に行く道を遍路道として指定しています。この道筋は昔からの遍路道でもあったようで「生木道」と呼ばれていました。
私もこれまで3回、基本的にこの道筋を辿ってきたように思います。しかし、前記の分岐を直進し県道159号に入り、直接香園寺に向う道筋も古くからの遍路道であったようで「香園寺道」と呼ばれていました。今回はこの道を通ってみようと思います。
ただ、今日は61番香園寺、62番宝寿寺にまいり、小松の宿に泊る予定ですから、時間は十分にありますし、興隆寺はぜひ寄りたい寺です。興隆寺に寄り道してこの辺りまで戻ってくることにします。
県道150号。家々が並ぶ狭い道を行きます。立派な常夜燈を見たりすると、ここがやはり古くからの道であったと思わせられます。刈り込みの終わった田圃が拡がる安用(やすもち)の西山道への分岐には、茂兵衛道標(255度目、大正3年)。


安用、西山分岐の茂兵衛道標

徳能に「五社霊神」という小祠があります。
徳川時代の始め、年々の凶作に耐え兼ねた庄屋渡部権太夫が幕府に直訴。家族4人とともに打首となる。後の庄屋が秘かにその霊を祀ってきたという、その祠。この辺りは、大洲藩、松山藩、天領と領主が頻繁に替わった所のようですが、隣の西条藩の山村でも同様の話が伝わっています。農民の意識が高い地域であったのかもしれません。
西山興隆寺への上り道は、緩やかですが、足と心肺にじっくりと利いてくる感じ。私は4度目ですが回を増すごとにその感を強くします。
墓地の中六角堂が見えてきます。明和3年(1766)の建物で六地蔵を祀る。弧堂であるのが何とも寂しいのですが、簡潔な造りで華麗さも秘めた立派なお堂だと思います。


興隆寺前の六角堂

「弘法大師の杖と足の跡」と伝える石を見て、舟形丁石の背中を見て、空海の歌という「みほとけの法の御寺の法の水ながれも清く見ゆるぎの橋」と刻まれた碑の向こう真紅の御曲流宣(みゆるぎ)橋。
私はこの山門(仁王門)とその前後の石段が好きです。
三巡目の日記で既に書きましたが、山門の彫刻は愛媛県に、多くの寺社建築を残した長州大工の一人、門井友祐が大正7年に刻んだもの。山門の梁や柱をやや控え目に飾る、躍動する龍や獅子の姿は好ましく素晴らしいものと思えます。
興隆寺は紅葉の名所でもあります。長い参道、あの三重塔の周りのもみじはまだ緑のままでしたが、ここ1、2週間で急激に赤く染まるのでしょうか。


 みゆるぎ橋

 興隆寺門前

 興隆寺山門

 興隆寺山門

さて、ここから大明神川右岸の香園寺道分岐付近まで戻ります。
県道159号を行き、自動車道の下をくぐり右折。すぐ左折して新川を渡り、JR壬生川駅近くの西条市役所東予支所の前を通過。その先のY字路を右折して石田に入ると、俄然旧道の雰囲気を帯びてきます。
地蔵堂を過ぎ広江川の手前を右折。「トンカカはん」と呼ばれる壬生川に伝わる盆踊りが毎年行われるという闇罔(くらみつ)神社の前。少し前の道でこの辺に「へんろ石が二つあるよー・・」と言われていましたが、私は見落としました。

 闇罔(くらみつ)神社

和霊神社の石碑や五輪塔、天台寺の前を通り玉之江。中山川の土手に出ます。
JR予讃線の鉄橋が見えます。昔の香園寺道はこの辺りで川を渡っていたようです。
近くの人は「流れのあるところに板を渡して渡っていたんじゃー・・」といいます。水量が多くないときは、そうと頷ける、そんな川の様です。

  香園寺道


中山川の渡河地点

  中山川

500mほど上流の吉田橋を渡ります。
旧道はJR予讃線の線路に沿って清楽寺の近くを通ります。寺の近くでは、多くの古い墓石を見ます。
鉄道の踏切の近くにいかにも古色の道標が二つ。「左邊ん路道/施主横田屋八郎兵衛/元文四未十一月吉日(1739)」。もう一つ「左へんろみち 願主良覚/南無大師遍照金剛」。年号は読めませんが更に古そう。


清楽寺付近の墓

 清楽寺付近の道標

 清楽寺

清楽寺は、明治18年から41年まで60番前札所を名乗った寺で、境内に横峯遥拝石があります。大きな寺ですが今は訪れる遍路も少ないようで静かな風情です。
ここから三島神社の前を通り、61番香園寺、それから62番宝寿寺にまいります。
この辺り、小松の標石については、三巡目の日記にけっこう記したつもり。見落としを中心に書いておくことにしますが、あるいは重複するかもしれません。
三島神社の灯籠前と、香園寺への道の入口に円柱形の道標があります。これは利平道標と呼ばれるもので、小松に6基、東予に2基、西条に2基あるそうです。建立年は文久4年(1864)と明治14年(1881)に集中、多くは円柱形であるのが特徴。井上(和田屋)利平(1809~1890)は小松藩両替所を営んだ人。

 三島神社前の利平道標

もう一つ加えておきましょうか。
香園寺の駐車場を南に出て東に曲がる小路の先にある茂兵衛道標(193度目、明治36年)。この標石は手印が三つもある賑やかなもので、それぞれ寶寿寺、香圓寺、大峰寺を指しています。大峰寺への道は、今は個人宅の庭の延長のようになっていてちょっと通り難い。元々この道標の前を通る遍路は殆どいないでしょう。忘れられる運命の道標か。
なお、この大峯寺への道の先付近には、もう一つの茂兵衛道標(198度目、明治36)があって更に先の大峯寺(横峰寺)を案内しています。

 新屋敷川原谷の茂兵衛道標

宝寿寺への道の茂兵衛道標
(88度目、明治19年)

宝寿寺の山門入口左に4基の標石が並びます。これはよく目に着くもので以前にも記したような・・
右から「これより吉祥寺7丁」の徳右衛門標石。横峯寺、香園寺、宝寿寺を示す道標。明治14年の利平道標。そして、順吉祥寺/逆香園寺、を示す明治28年の道標。手印の方向や刻字からして、この場所に集められた標石であると思われます。

 宝寿寺


宝寿寺山門横の道標

今夜は、小松のあの肉の宿。
                                                   (10月26日)

 日切大師、臼井水付近の地図は「平成26年秋その1」に掲載しました。

 




横峰寺往還の道 

今日は小松の宿から岡村経由の道(というより採石場の道と言った方が分かりよいかも)で横峰寺に上り、湯浪に下る予定です。 
JR小松駅前の道をまっ直ぐ南下し、右にカーブ、茂兵衛道標(187度目、明治35年)を右折するのが本来の遍路道(この道は、昨日の日記で記した、香園寺を出て二つ目の茂兵衛道標が指す道です。)ですが、宿で戴く地図は、もっと東側にある広い車道をガイドします。
この道は景色がよいのです。天気の良い朝で、東の二並山辺りの山際が金色に輝くのが見えましたし、天神池を前景に望まれる小松の街の展望も見事でした。


二並山辺りの山際の輝き


天神池からの小松の街

採石場の少し手前、左手に標石。「奉納 横峰寺へ六十丁、昭和七年、西條町大師蓮花講員及地方信者一同、世話人西條寿し駒事日野駒吉」。
「寿し駒」本名日野駒吉(1873~1951)は西條吉原ですし屋を営む傍ら大師信仰に生活を懸け、横峰寺の登り道の舟形地蔵丁石の殆どを建てたと言われます。(横峰寺への道ほど地蔵丁石が揃って残されている道は他にはないでしょう。)

 「寿し駒」の道標

道は地道にかわり、林道を右に分け山道に入ります。
急坂の厳しさですが、階段が切られていない道で、この点は歩き易い。いい道です。
やがて「おこや」と呼ばれる峠。寺まで3.6kの地点。少々の平地があって、昭和20年代には茶屋があったといいます。
ここに新しそうな(昭和か?)道標「(指差し)香圓寺道 奥之院ヲ経テ一里十六丁/(指差し)香圓寺へ一里二十七丁」
少し行き28丁地蔵の向いに下部が埋まった道標。
「横峯寺及千足山村に○○/小松町及香園寺に○○/大保木青年小團/平野大保木ヲ経テ縣○○/御大典記念」。平野は黒瀬湖畔から上ってくる車道(平野林道)の途中にある山村。
ここから平野へ行く道があったのでしょう。この道標、生活道標でもあるところが興味を惹きます。「縣」の下には高知県境までの距離が刻まれているのでは、と想像します。
上り下りを繰り返し、寺より1.1kの地点、少しの区間車道に合流します。


おこやへの道

  おこや


28丁地蔵付近の道標

車で上ってきた大勢の遍路で寺は大混雑。
曇ってきたので石鎚山は見えそうにありません。星が森は諦め、湯浪への道を下ることにします。

 横峰寺へ参る

 納経所前の石柱

寺の納経所の前に「石鈇山別當横峯寺」と刻まれた石柱があります。それを見ながら関連した余談へと・・
横峰寺と石鎚山(石鈇山)との関係、江戸時代の案内書にはどのように書かれているのでしょうか。
例えば「名所図会」の六拾番仏光山福智院横峰寺の項。「・・・石鈇山遥拝所、門より壱丁下り印木より左へ三丁余上りあり、石鈇山ハ六月朔日より三日までにのぼる。此所より三里行奥前神寺(今の成就社)、是より峰まで三里八丁、かねのくさりにて取あがる所三所也。蔵王権現示現の地、役行者練修の地なり、大峰と同じ霊験の山也、鉄鳥井、大師堂・・・」と書かれる。
正に石鈇山別当横峯寺なのです。
明治初年の神仏分離に関連して修験道は廃止、別当としての横峯寺もまた廃寺とされます。横峰寺は四国八十八ヶ所遍路の60番札所としてすぐ復活します(当初は大峰寺として)が、石鎚山(石鎚神社)との関係は一応無くなったということになります。ところが今も行われている石鎚信仰における夏期大祭(7月1日~10日)では、横峰寺は重要な位置を占めています。
石鎚参拝のルートは一つ。小松→岡村→おこや→横峰寺→黒川→成就→石鎚山。一つ。大頭→湯浪→横峰寺→黒川(今宮)→成就→石鎚山。
何だかすっきりしないですね。それでいいのかもしれませんが・・
石鎚参拝ルートとしては、もう一つ石鎚神社(口ノ宮)、前神寺を発つルートがあります。明日の日記でもう一度考えてみます。

「横峰寺の縁起」について
仏光山福智院横峰寺。
「四国遍礼霊場記」では、横峯寺の縁起は弥山(石鈇山)、前神寺と同一のものを用いていると言っています。他書にも記されるように、寺は石鈇山の遥拝所とも言うべき所で、二町ほど登った「鉄の鳥居」が寺の中心であると言えます。
しかし、「霊場記」には横峯寺はその開基は石仙(他書には寂仙あるいは上仙と呼ぶ)菩薩であると記されている。(石仙は空海と同世代の人)
「霊場記」の書き様には若干の矛盾と高野山の僧としての配慮が感じられるものとなっているように思えます。


横峰寺山門(h20,10.9)

 横峰寺山門

さて、湯浪への道を下るところでした。山門より0.5k下った所に7基の遍路墓があります。正徳4(1714)、天保、嘉永、慶応などの年号、阿州や芸州などの地名を見ます。この後の山道でも文化、文政の年号の三つの墓を見ました。
そのすぐ先が古坊(ふるぼう)。観音堂があり、堂前には六地蔵。
ここには昭和25年、7世帯、28人住んでいたという記録があります。それが昭和62年に1世帯、1人、その後0に。嘗てはここから平野林道辺りに通じていた生活道も、今や草木のなかに埋もれた様子。


下り4丁付近の墓

 古坊の観音堂

 五丁の地蔵

「従峯十丁」の丁石の前「享保十六年十二月廿一日(1731) 千足山村とち之川市左ヱ門」と台座に刻まれた大師像があります。
谷に沿う道は荒れてきます。流倒木も目に付きますし、流れの上に無理やり架けたような橋も。昨夜の雨で濡れた石に乗って2度転倒しました。でも、薄いブルーに透ける水と流れは美しい。
20丁の地蔵を見ると山道の終り、四国のみちの休憩所。
道はここから大きく左にカーブして県道となります。県道の突き当たりに聳える高さの砂防ダム。見事な水のカーテン。


下り10丁付近の大師像

 荒れた道

谷川の水の流れ

15丁の地蔵

16丁の地蔵

 ブルーの水


砂防ダム、水のカーテン

舗装道となっても、丁石地蔵はづっと続いています。
左側の擁壁の中に「御来迎所文化十四年」 「横峰寺御来光出現、昭和48年」と刻まれた二つの石碑と地蔵(大師像か)。

 御来迎所

 尾崎八幡神社

湯浪の尾崎八幡神社の前を行き、県道が大きく右にカーブする手前に右の山に入る道。
おそらく、これが昭和20年代まで生活道としても使われていたという旧道の入口でしょう。旧道には丁石地蔵や徳右衛門標石も残るといいます。
以前から是非歩きたいと思っていた道でしたが、道はシキミ(樒、花柴とも)畑の中に消えていました。強引に行けば突破できたかもしれませんが、止めておきます。
その道は、馬返の大師堂の所まで続いていたと思われます。
大頭の石上神社と妙雲寺。前記の石鎚山参拝道の起点の一つとなっている所。
「名所図会」には「明雲寺石燈炉より少し入あり、不自由仁峰へ登らざる人ハ爰にて札を納む、然共大方登る」とあります。
門前には「六十番前札」の石標。「是ヨリ横峰寺迄百丁/是よりかうおん寺迄二十五丁」の徳右衛門標石。
横峰寺への上り下り、なかなか厳しいものでした。これより小松の宿に戻ります。
                                                (10月27日)

 大頭付近の地図 小松付近の地図 横峰寺付近の地図を追加しておきます。


 

 

 

 

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四国遍路の旅記録  平成26年秋  その2

高縄寺に上る、下りは暗転

前回、今年4月の区切り打ちの後半、足が動かなくなり諦めた高縄寺行き、実行することにしました。
以前、鎌大師におられた明応さんにお会いすることも目的の一つです。

高縄山の山頂近くにある高縄寺に上るルートは4つばかりでしょうか。
車道は松山市北条の善応寺から曲がり曲がりを重ねて石ケ峠を経る道。歩き道は菅沢町から「四国のみち」を経てやはり石ケ峠に達する道。それに院内から上る「院内道」と猿川から上る「猿川道」です。北条あたりからアプローチする歩道は後の二つのルートとなります。
私は猿川道を上り、院内道を下る予定でした。
高縄寺自体、伊予の豪族であった河野氏所縁の寺ですが、院内に下りてから河野氏の菩提寺であった善応寺や高縄神社にまいるつもりでした。

(追記)「仏海、木食庵について」
高縄寺への上り口、猿川は仏海の生誕地です。仏海、そして木食庵については遍路日記の中では触れておかねばならぬことに思えます。追記しておきましょう。
仏海は、宝永7年(1710)伊予風早郡猿川村(現松山市猿川)に生まれます。13才で家を出、18才高野山の籠り、24才より全国廻國修行に取り組み、25才で木食行に入る・・39才で廻國修行を成就。40才で故郷に帰った仏海は、遍照庵(水長寺阿弥陀堂、木食庵)の復興、日本廻國供養の宝篋印塔を建立、北条町内に「滝本村来光寺(奥之院:高縄寺)を1番として風早三十三所観音霊場を開設します。(現在猿川の木食庵が第1番となっている)そして、「日盛ンニシテ万人招カザルニ群レヲ成シ好縁ヲ結ブ。」(仏海叟伝)の状態であったと言われます。
その間、四国遍路21回(あるいは24回とも)を成し遂げる。44才の頃、遍路が最も難渋した地(土佐入木)に接待庵(仏海庵)を設置する。そして、その地で60歳にして土中入定をなし、即身仏となったと伝えられる。
今は遍照庵の地に木食庵、宝篋印塔、石仏等が残されています。(仏海については、鶴村松一、喜代吉栄徳氏の研究が知られる。当研究に依り、土佐入木の仏海庵については、「平成24年秋その2」に記しました。)
                                      (令和5年4月追記)


木食庵                    木食庵の宝篋印塔

さらにその先、山道の入口である猿川本村の三島神社にもおまいりします、天保12年銘の鳥居、格天井の立派な拝殿には驚きさえ感じます。

 猿川本村の三島神社

 三島神社拝殿

 高縄寺への道

道は標高920mの寺まで緩やかな上り。
途中、下ってくるオートバイ(トレール車)の若者に出会いました。階段や大きな段差が無いためオートバイで上ることができるのです。
十四丁あたりから丁石地蔵が見られ勇気付けられます。
山頂の電波塔が見えると道は平坦になり、弘法大師見返りの杉を過ぎ、千手杉の前。
この杉は多数の大枝が直立状に上に伸びる樹形。高縄寺の本尊である十一面千手観音を写した形の不思議。杉の下には大きな本堂の屋根。
高縄寺は天智天皇の時代、越智(小千)守興が山下に開いたと伝えます。その後、高縄山山頂に近いこの地に移り、河野家累世の祈願所になったといいます。
寺名、河野山高縄寺は弘法大師の命名と。境内は弘法大師の影も色濃く残っています。
昨日の日記でも少し触れましたが、東方に隣接する楢原山を始め高縄山系の山々は古くから修験の地であったいわれますが、この寺はその関わりは無かったようです。
越智氏は今治を中心とした国づくりから、新しい「河野」姓でこの北条の地での繁栄を願ったとする説は有力であると思えます。
越智玉興がこの地の水を愛で、「この水の可なること、予が里よりす」と言ったことから「水」「可」「予」「里」を組み合わせたのが「河野」姓の起こりと伝わります。今もこの高縄山に源とする水は河野川としてその郷を流れています。

 千手杉

 高縄寺本堂

 高縄寺本堂


高縄寺本堂、折敷に三文字が見える

ご住職の明応さんも相変わらずお元気そうでした。
醍醐寺ご出身の方。この寺の4月の縁日(桜まつり)や年末、年始には、野外における護摩法要(柴燈護摩)を積極的に採り入れられているようです。若い人や女性の参加者も多いと話されます。自然との関わり、参加実践型、女性重視といった修験道の底流が受け入れられているのでしょう・・これは私の思い。
本堂の屋根頂部や扉には、あの「折敷(おしき)に揺れ三文字(あるいは波三文字とも)があります。この寺紋は、大山積神を祀る大山祇神社(大三島神社)、三島神社に共通する神紋でもあり、また河野家(伊予越智家もまた)の家紋でもあります。河野家は鎌倉時代に幕府より「折敷に角三文字」紋を賜ったともいわれます。

ここから院内道を下るつもりでした。 
暗転! 下り道を間違え遭難。何故道を間違えたか・・それは言わないことにしましょう。
とにかく、尾根から尾根へ、尾根から谷へ。数度5mくらい滑落したでしょうか。道を間違えたら戻る・・が鉄則ですが、上り返すことは不可能でした。
幸い携帯電話は通じました。警察の車に収容されたのは猪木という集落の最奥の留守家の前。もう真っ暗な時間でした。
後で調べると、何と猿川から山一つ隔てた谷でした。
警察、消防には多大な迷惑をかけました。それに私の精神的、肉体的ダメージは相当大きなものがありました。

その日、まいる予定であった善応寺、高縄神社はダメージがやや薄らいできた後日、以前から気になっていた北条港沖の鹿島、それに大三島の大山祇神社を加えて訪ねることができました。ここに載せておきます。
                                                   (9月29日)

善応寺。
寺の前には「河野氏発祥之地」の碑があります。風早郡河野郷土居(現松山市北条善応寺)は中世伊予を代表する豪族、武士、河野氏の発祥地とされます。
系図によれば、初代河野玉澄(越智守興の落胤とされる)より始まり、23代が源平の戦いで勇名を馳せた通信、27代通盛が1335年一族の氏寺として、好成山善応寺(臨済宗東福寺派)を創営したと伝えます。盛時は七堂、十三塔頭を有し、面積も60町歩に及ぶ大寺であったといいますが、河野氏没落後荒廃、江戸中期に至って塔頭の一つ明智庵の跡に現在の善応寺が再建されます。
現在の仏殿には、創建当時の釈迦如来、脇侍の文殊・普賢菩薩が座ります。やや硬い表情ですが、鎌倉仏の特徴をよく表していると言われます。
境内左手に通盛の墓。河野氏没落後の再建ということからか、墓地の先祖慰霊塔以外には、あの折敷に三文字も見られず、河野氏の影は薄く、もう時の彼方に遠ざかった感じでした。

 河野氏発祥の地

 善応寺


善応寺からほど近い宮内に高縄神社があります。
神社の由緒書きにはおよそ次のようにあります。
「小千(越智)益躬が599年高縄山頂天神ケ森に三島大明神(大山積神)を祀る。これが当神社の創建。河野親清が1136年現在の地に移す。河野三島宮、河野新宮とも呼ばれた。河野氏没落とともに衰退し、江戸中期より復興、明治3年に社号を「高縄神社」と改め、河野一族の鎮守としての地位を占める・・」
ここもまた越智・河野氏に関わりの深い神社であったのです。少なくとも由緒書きにはそのように・・
ここでは「折敷に揺れ三文字」が溢れています。その神紋は河野氏家紋に拠るのではなく三島大明神に拠るものでしょうが。
参道鳥居から神社を見ると、その後方に高縄山が見えます。高縄山と神社の関係を表しているようです。
鳥居は平成21年の新しいものですが、狛犬には天保9年の銘を見ます。
その参道で、近くの幼稚園の園児達が神社にまいるのに出会いました。
「こんにちは・・こんにちは・・」 今や、神社は寺よりもづっと周りの人々に寄り添ったものになっているのかもしれない・・と思ったのでした。


高縄神社の鳥居、後方左鉄塔が高縄山

 高縄神社

 絵馬殿

神社におまいり・・


北条の街に戻ります。
今年の春の遍路で北条に泊った時にもちょっと書きました。そのお釜を伏せたような形からもづっと気になっていた島、鹿島です。

 鹿島

島に渡る船には、魚釣りの人が3人。
鹿島とは鹿の島と思っていたら、まんざらそうでもないようです。鹿島には、茨城県の鹿島神宮を勧請した鹿島神社があり、神社の横に要石があります。この要石は神社の勧請と同時だとも、またそれ以前だとも言われています。
行基の作とされる日本図に示される日本列島は、龍体に囲まれています。龍は神々が日本の国土を守っていることを象徴する姿とも、また天変地異を引き起こすことを象徴する姿とも言われます。
日本の国土を大地の奥底に繋ぎとめるものが各地の聖地に存在する。それは龍の動きを抑えるものであったとされる。(近世、龍の一部は大鯰に変身する。)鹿島神宮の要石や琵琶湖の竹生島はその重要なもの。
この鹿島の要石は、鹿島神宮の要石に導かれたものか、あるいは竹生島との地形の類似性から導かれたものか・・様々な謎の不思議を思い描かせます。
神功皇后が朝鮮出陣の際立ち寄り、戦勝と道中安全を祈願したとの伝説を持ちます。中世には河野水軍の重要な拠点であったといわれます。

 鹿島の要石

私は鹿島の山頂(114m)に上り、また周囲1.5kの島回りの海辺の道を歩きました。
海の水は驚くほどの緑色でしたし、波の動きも瀬戸内とは思えない勢いを感じさせるものでした。


鹿島の上から見た北条

 鹿島の浜

 鹿島の浜


さて終りに大三島の大山祇神社も加えておきましょう。
ご承知のように現在の55番札所は今治の南光坊ですが、明治の神仏分離以前は、隣にある「別宮」あるいは「三島ノ宮」と呼ばれる神社でした。(今は別宮大山祇神社と呼ばれる。) 
しかし、澄禅も三島ノ宮の項に「爰に札ヲ納ルハ略儀ナリ」と、真念も「是ハミしまの宮のまへ札所也」と記しています。大三島の本社が本当の札所であると言っているのです。
大三島宮浦港の神社一の鳥居の横に「是より別宮迄七里」の徳右衛門標石があります。本社に参る遍路も多かったであろうことは、この標石からも想像されます。
大三島の大山祇神社は全国の大山祇神社、また四国を中心に拡がる三島神社の総本社とされます。祭神の大山積神(天照大神の兄神とされる。三島大明神とも称す。)は、山の神、海の神、戦いの神とされます。
神社の縁起は諸説あって定まらないようですが、大山積神の子孫と称する小千命(越智氏の祖とされる)が百済から摂津三島江に勧請し、それが当地に移ったとする説が有力のようです。(594年頃) いずれにしてもわが国屈指の古社、大社であることは間違いないようです。
私は何度目かのおまいりですが、その風格ある社殿、特に楠の森に囲まれた白砂の境内には感動を覚えるほどでした。
その昔、今治の波止浜から船に乗って詣でた遍路はきっと寛いだ時間を持ったであろうことを想います。
そのとき、楠の御神木の周りを少女達がいつまでも走っていました。豊かな神の空間を感じます。

 大山祇神社

  総門

 白砂の境内


神木の周りを走る少女

 神門

 拝殿

 神の楠

 

 

 

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