感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
四国遍路の旅記録 平成24年春 その1
阿波から土佐への道往還(まえがき)
遍路道を歩いて・・
緑成す川の畔に
(海部町母川)
青い海の浜辺に
(牟岐町水落)
徳島から高知県境に向う現在の遍路道は、22番平等寺から23番薬王寺の間で、大きく二つのルートに分かれています。
由岐を経由する「海沿いの道」と星越峠を越える「山間の道」です。
今よりづっと多くの遍路が歩いたと言われる江戸時代の道はどうだったのでしょうか。
鶴林寺や大龍寺のような山岳の寺は、当然、昔から参拝専用の遍路道に依っていたのでしょうけれど、平等寺から薬王寺さらには土佐の国境に至るまでは、基本的に「土佐街道」が遍路道のメインであったであろうと想像できます。
土佐街道の主道は、小松島から岩脇、桑野、由岐、日和佐、牟岐、宍喰、甲浦のルートであり、多くの遍路もまた、平等寺の先、鉦打あたりでこの街道に入り、前述の海沿いの道にほぼ沿って薬王寺まで歩いたと思われます。
また、上記の山間の道の近くにも、土佐街道と称する道があったようです。この道もまた遍路道として利用された道であったでしょう。
そうだとすると、今も昔も変わらない・・と思われるかもしれませんが、「ほぼ」とか「近くに」とかと慎重に言葉を選んだのには理由があります。新道と旧道は、多くの場所で重なってはいないのです。新しい道の近くで、昔の多くの遍路が歩いた旧い道が潜んでいるらしいのです。私のように、「遍路はその道中にあり」と思い、昔から多くの遍路が通った道を歩きたいと願っている「旧道好き」にとって、これは無視できぬ問題なのです。しんどい話ですけどね・・
興味をそそるその旧道は、海沿いの道では、鉦打、小野の先、貝谷から木岐田井に通じていた旧土佐街道貝谷峠越え、松坂越え、田井から北河内本村に通じていた旧土佐街道小田坂越え、その南、えびす洞北側の尾根を越え日和佐に通じていた道など。山間の道では、星越峠の先、北河内谷川右岸に沿った一ノ坂峠までの旧土佐街道です。
薬王寺(日和佐)から先はどうでしょうか。
牟岐までの今の遍路道は国道55号であり、旧土佐街道の主道も基本的にはこれと重なっているようです。
しかし、その周囲にいくつかの旧い道があります。西河内の丹前から府内に通ずる丹前越の道(この道も土佐街道と呼ばれていたようです)。横川の横子峠越の道(これは主道の内かな・・)。山河内、白沢から峠を越えて水落を経て牟岐に通ずる道。
牟岐からも今は国道55号が主道ですが、八坂八浜とも呼ばれる旧土佐街道の道、整備・復元されていて通る遍路も多いでしょう。そして、海部の先、馬路越の道、居敷越の道。高知県境の古目峠越、元越の道へと・・
今回も私の遍路は矢鱈と変則ですから、あらかじめルートの概要を記しておきましょう。
19番立江寺から始めます。奥の院取星寺を経由して、20番鶴林寺、21番大龍寺、23番平等寺まで。平等寺から鉦打、小野を経て「山間の道」へ。星越峠を越えて旧土佐街道を探り23番薬王寺まで。
薬王寺から丹前峠の旧道を探り、奥の院に寄り、山河内の打越寺へ。そこから白沢の先の峠を越えて水落経由、牟岐まで。
牟岐から、旧土佐街道を重視して通り鯖大師を経て海部まで。高知県境またはそれに近い四つの峠道(馬路越、居敷越、元越、古目峠)を歩いてUターン。還路へ。
牟岐まで鉄道でワープ。(往路で歩いた道はワープする抜け目なさ・・)牟岐から薬王寺まで横子峠経由の道を。薬王寺からは「海沿いの道」。おそらく通れないであろう旧土佐街道の峠道を探り、福井からのワープを含め立江寺にリターン。
ここからは、部分的な逆打ちルート。18番恩山寺、あずり越、地蔵越を経て17番から14番の札所に参り、13番大日寺へ。
今回の最終日は、建治寺に参り、玉ヶ峠越え、逆打ちの区切りを思わせる杖杉庵に。時間によって、12番焼山寺、奥の院まで。
かくして、タイトルに「阿波から土佐への道往還」と銘うった由縁。
このところ、私の巡礼日記、いやいや私の遍路自体がますます捻じくれてきたのではないか・・という反省はあるのです。「遍路とは、どういう手段であれ、ルートであれ札所をまわること・・」というのが正論でしょうから。でも、一方で、私の遍路はこれでいいのだという気持ちもありましてね。我儘をお赦しください。
四度目、あるいは五度目となる札所やそこに至る道の記述は殆ど省略し、新たに通った道を主体に記しておきます。それから、遍路日記には付き物の宿や食物屋の情報(これが遍路旅の重要な情報であることは否定しませんが・・)は極力載せません。面白味のない日記になりますが、これは私の「拘り」です。
おーそうそう、昨年春の伊予の国以降、ちょっと凝っています旧い道標については、経路沿い見たものについてメモとして出来るだけ記録しておきます。
このことを含め、蛇足に更に足が生えたような日記ですから・・どんどん読み飛ばしていただきますよう。ではスタートへ。
余計なこと: 旧道の復元や整備に努められておられる方に。 私のような旧道好きのものにとっては、この上なく、ありがたいことです。旧道の多くは今でも公道でしょうから(中には私有地となったところも・・)勝手に手を付けることはできないのは当然でしょうが、昔の道の姿をよく調査された上で、出来るだけ忠実な復元・整備を図られますよう・・心より願っています。
(以上 「前口上」でがんす・・)
立江寺から阿千田越で取星寺へ
19番札所立江寺。
寺から北へ1.5kほど、旧赤石港があります。明治以降整備された港で、その時代には近畿地方からここに上陸して立江寺から打ち始める遍路も多かったと言われます。「阿波の関所寺」とも呼ばれます。
境内は満開を少し過ぎた感じの桜が溢れていました。
立江寺
この度は初めて奥の院取星寺(しゅしょうじ)にお参りします。
立江寺を出て南へ行くと、道角に「右あせん田古○」の古い標石。直進すると尾上神社の先「←古道 阿千田越え」の標示。ここが旧土佐街道の一部、阿千田越えの始まりです。
水田の傍を通る道は、やがて山の道へと。歩くにありがたい土の道です。立派に保存されています。
この道、現在の遍路道には指定されていません。(協力会の地図) 私には、不思議で残念なことに思えます。
峠には多くの石仏。上に車道が通っているのは、ちょっと残念ですが・・
峠を下ると自然石の道標。「右志ん四こくへ二丁 左ひハサ七リ つのミね六十丁 立江寺へ二十一丁」
左は土佐街道。つのミね(現在の阿南市津乃峰)を経て日和佐に通じます。
私は右、新四国に向います。新四国の入口の傍の家の前でおばあさんにお会いします。
いっぱいの笑顔で「すぐほこを左へ行ってくれるでのー。こっちが88番で寺が1番でのー・・むかしはまけまけのひとがお参りなっとったが、近ごらあだれっちゃこられませんなー」
うーん、遍路地図の所為もあるのかなーなんて私は考えていました。
立江寺の近く、阿千田越の道標
阿千田越の道、水田の傍
阿千田越の道、山道
阿千田越の道、峠近く
土佐街道の道標
取星寺の新四国
取星寺の新四国(大師像)
取星寺の新四国
この新四国は岩の間を上る道の角々に置かれた大層立派なもので、お大師一千年御遠忌の天保五年(1834)に発願、二十五年の歳月を経て完成されたものといいます。
取星寺は神社(明現神社)と混合したような境内、やっと探した岩窟前の大師堂にお参りしました。
(追記) 古毛の大岩
取星寺を下り那賀川の河畔の道を行くと川の中に大岩があり、ちょっと驚かされます。これは「古毛の大岩」と呼ばれるものであることを後に知りました。これは慶応3年(1867)、増水時の万代堤(那賀川北岸の堤)の決壊を防ぐため覗石山から巨岩を落とし「水はね岩」としたというもの。近世の土木遺産として貴重なものと言われます。追記しておきます。(平成28年12月)
古毛の大岩
那賀川の河畔から県道22、16を行き、星の岩屋に向います。
この立江寺から鶴林寺下の生名に向う道には、多くの古い遍路標石があります。萱原の三差路から立江方向に少し戻れば、櫛渕町に二つの真念石があったのですが、そこはパス。私が実見したもので4基の茂兵衛道標を確認しました。沼江大師付近、177度目、明治33年。勝浦川土堤三差路にも177度目、明治33年。沼江柳原の184度目、明治34年。勝浦中角の星の岩屋分岐の明治37年(巡拝回数刻字なし)。以上4基です。
3番目の柳原のものは添句付のもので、刻字は比較的明瞭なものの、研究者の間でもその読みとりが確定していない唯一のものではないかと思われます。(茂兵衛の添句付道標は36基と言われます。)
追記 : 上記の沼江柳原の添句付き茂兵衛道標。その後、松永氏のHP「空海の里」で句が追記されていることを知りました。私の写真でも確認しました。なるほど・・と納得。ここに書かせていただきます。 「勝浦川眺めも清く法の船」
沼江柳原の茂兵衛道標(184度目、明治34添句付)
道標と睨めっこしている所で一人の遍路にお会いしました。
後で、突然錦札を渡され、巡拝回数100回以上の大先達であることが判るのですが、その時は、これが遍路標石ですかー・・と驚かれた様子。道すがら、真念ってお大師さんと同時代の人・・とか、七福神って仏さんの位でいうと何処・・とか、冗談とも本気とも付かぬ風におっしゃる。愉快な人なのだ。
きつい上りの旧道を通って、星の岩屋にお参り。同じ道を戻って勝浦川を渡って生名の宿に入る頃は、もう辺り一面に夕暮れが迫っていました。
星の岩屋への道
星の岩屋への道
勝浦川夕暮れ
(平成24年4月12日)
立江寺・取星寺付近の地図を載せておきます。
(追記) 立江寺から鶴林寺への古道について
19番立江寺から鶴林寺へ向かう今の遍路道(県道28号・22号)の傍には、照蓮標石や茂兵衛標石など多くの石道標が残されています。特に気になる石道標は県道を少し外れた所に残る3つの真念石です。古い標石は道路改修などで移動されることが多いものですが、この真念石については大きな移動があったとは考えられない場所にあります。
「古道標の傍に古道あり」(このことは善通寺市のMさんのサイト「空海の里」の「道標による遍路道」から教えられた気がします。)
私は、この真念石付近の道の一部を歩く機会がありました。私が想定した古道の道筋を上記の添付地図に加えておくことにします。
最近、地元の民宿「鮒の里」のご主人を中心にこの古道を遍路道として復活させる活動があり新聞にも掲載されたことを知りました(2019年1月29日付け徳島新聞。某ブログにも紹介。)ここに掲載した道筋について、誤り、不都合などあれば(コメントで)連絡いただければありがたく思います。
(平成31年4月)
(さらに追記)
「那賀郡櫛淵村総図絵」(徳島大学付属図書館所蔵)があります。作成年代は不明ですが、おそらく江戸後期に作成されたものと思われます。
現在の櫛渕町に重なる地域であり、東の立江村西の沼江村との境界付近はやや曖昧ですが、地形と道路、築溜(溜池のこと)、神社などが詳細に描かれています。 (築溜、神社の名前は大字で重ね書きしました。)この図絵の道路上に前記の古道を橙色点線で落としてみました。
櫛目状の丘と谷(東より西へ、東谷、大谷、湯谷、喰味谷、宮ノ内)を繰り返すこの地独特の地形、その丘の麓を縫うように走る古道の在り場所が明確に表されるように思います。
なお、この絵図の宮ノ内の先に「二反田築溜」の名が見えます。この二反田という地名は江戸期の澄禅の日記や真念の案内書などに現れることはありませんが、唯一細田周英「四国偏礼絵図」の立江寺から鶴林寺への道に 〇クシブチ△ニタンダサカ〇ヌエ〇ナカツノ、と記され、沼江への峠道が「二反田坂」と呼ばれたことが知れます。
道沿いの神社について少々加えておきましょう。東より大谷の先に天神森、(天満神社として現存)、喰味谷の先に諏訪社(諏訪神社として現存)。その南に連なる5つの丸い丘はこの地の中央で霊地の中心でもありましょうか。先端より五山第1八幡宮(現、櫛渕八幡神社)、五山第2杉尾明神、五山第3諏訪明神、五山第4天満宮、五山第5額明神。五山第2の地は現在工場がありますが、16世紀後半秋元和泉守盛貞が城を築いた所といいます。(櫛淵城または秋元城)城の鎮守が杉尾明神、その神宮寺が法泉寺でした。法泉寺はその後(1720年頃)800mほど西の山口に移っています。(法泉寺の住職は杉生氏、現在の遍路道に沿っていて善根宿もあります。)
那賀郡櫛淵村総図絵 (クリックすると拡大します)
地蔵堂から二反田池への道
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写真も、いつもながら楽しませてくれます。
この「まえがき」の後、どんな展開があるのでしょう。
その2が待たれます。
ありがとうございます。
どうもカメラの調子が悪くて・・撮れていた
のだけでどうにか凌いでいます。
今回はまえがきで概要書いちゃったので
あまり進展はありません・・
1週間ほどあとに徳島から高知まで歩いてきました。今回は実際にどのくらいの距離が歩けるのかを試すことも目的でしたので新しい道の探索はありませんでした。星の岩屋から仏陀石だけは久しぶりに歩きました。いつかどこかでお目にかかりたいと思っていますが、なかなかスケジュールが合わないですね。こちらの様子はまだまだ先になりますがHPで公開する予定です。
GW前に歩かれていたのですね。耐久試験ですか・・
すごいですね。私はもう爺ですから、長くは歩け
ませんが、性懲りなく旧道に踏み込んでいます。
どこかで、お目にかかれる時をこころ待ちにして
います。では、よろしく。
如意輪寺への道、仰るとおり中津峰は戻ろうとは思いません
居敷越えを歩かれたのは一月たって居なかったのですね、最後の出口は何ヶ月も人が通ったことがないように見えました
色々な道をご紹介いただけるのを楽しみにしています
私自身、25000の地形図に道を
落として、それを持ち歩いています
ので、一般の地図では何処を歩いて
いるのか、ちょっとわからないと思います。
元になっている地図は、東海図版という
ところが出している「四国遍路地図」です。
こんにちは。
ブログ拝見、19番立江寺から星取寺の道、
旧土佐街道、阿千田越がありました。
私の友人が近くに住んでおり、歩き遍路に出会うと
言うことです。
ブログ boianuf に阿千田越を紹介してみました。
間違っているところあれば御指摘ください。
boianuf
ブログ拝見しました。どちらの方か存じませんが、
よく調査された立派な案内になっていますね。
峠から新道を通って取星寺に行っておられるよう
ですが、私は、峠の旧道を下り、新四国を逆打ちで
寺まで参りました。
奈良県生駒市に在住者です(日本人)。
来春歩き遍路で四国88箇所を順打ちで廻る計画です
毎日リュックを背負いアップダウンの有る道を
ICレコーダーでお経を聞きながら歩いております。
へんろみち保存協力会の地図とにらめっこですが
東海図版の地図も参考にしてみます。
阿千田越、峠の旧道を下り取星寺へお参りとの事
旧道紹介ブログで楽しみしております。
有難うございました。
歩き遍路だったのですね。
こうしてゆっくり歩いたら写真も撮れるし
いいものでしょうね。
私の場合ツアーで1年と半位掛けて結願して高野山
に行き
善光寺さんは一人で行きました。
88という沢山のお寺は記憶にないのもありますが
またまわってみたくなりました。
またゆっくり拝見しますね。
枯雑草は、元々お遍路さんなのです・・
遍路日記まで見ていただいて恐縮です。
あまりおもしろくありませんから、
適当に読んでください・・
僕は美波町田井の浜の出身で、今は大阪で住んでいます。
素晴らしいへんろ道の写真の数々に魅入ってしまいます!
僕もずいぶん以前ですが、10日間ほど歩きました。途中で大風邪をひき挫折した経験が‥‥。
ところで、最近故郷の海を発想源にオリジナル曲を制作しまして、WEBで聴いて頂いているのですが、YouTubeでも美しい故郷をスライド写真で紹介しながら歌おうと想い、美波町のホームページなどに協力をお願いしています。
枯雑草さんのような個人のブログなどにも素敵な写真が多いので、使わせて頂ければと想っています。
もちろん決して商業的なものではありません。
美波町や田井の浜関連の枯雑草さんの写真を、少しスライド写真の中で使わせて頂けますでしょうか。
YouTubeの中でリンクを張らせて頂くこと位しかお返しできませんが‥‥。ご了承どうかよろしくお願いします。
オリジナル曲『潮騒の街』はSoundCloudでお聴き頂けます。
https://soundcloud.com/isaokobata/cvsmungeyhix
音楽活動、ご活躍のようですね。素晴らしい歌も
拝聴させていただきました。
私の遍路の写真は、もともと才能が無いうえ、歩き遍路ですから、荷物を軽くするため最小のコンデジしか携帯していないため、満足できるものはありません。
でも、何かお役に立つことがあればうれしい限りです。
どうぞ、ご自由にお使いください。
なを、姉妹ブログ(リンクしている)「枯雑草の写真日記」のカテゴリ「遍路の道」にも若干大きな写真を再掲しています。ご活用いただければ幸いです。
オリジナル曲『潮騒の街』をYouTubeにアップしました。
素敵な写真をご提供頂き、本当に有り難うございます!
ご一聴どうぞよろしくお願い致します。