四国遍路の旅記録  平成26年秋  その3

興隆寺、香園寺道を辿って小松へ

世田山山上の栴檀寺にまいったのは、思えばもう1ヶ月も前のこと、まだ暑さの残る日でした。
山下の寺の門前、三差路の間の高台にお得意の句「迷う身を教えて通寸法の道」が刻まれた茂兵衛道標(238度目、明治44年)。そこからが、今年の秋遍路の歩き継ぎです。

楠に入り、御来迎臼井水。
「名所図会」に「臼井水、道の左道安寺門前なり、石臼の井よりわき出る。大師堂井の上にあり、標石井の道ぶちにあり、臼井水ト碑名あり」と記され絵図も添えられています。碑をじっくり眺める人も・・
その臼井水の由来が記されたという碑は(所々、臼井水・・大旱・・貴物上人・・殆ど読めませんが)今も井の左側にあります。
道以外は何も変わらぬ現在の様子が嬉しいですね。井の中には小魚が泳いでいました。

(追記)この石碑には碑文が認められた年、寛政十年(1778)が刻まれています。また、碑文は喜代吉榮徳氏による読み下しがあります。(「徳右衛門丁石の話」その25-3)

        「名所図会」臼井水の絵図

臼井水の向いの墓地の先、半ば山土に埋もれるように徳右衛門標石。劣化が著しく殆ど読めませんが「是より横峯迄四里」と。
しばらく行くと、右手の道より少し入った所に日切大師(日切山弘福寺)。屋根を覆う大木の楠に驚かされます。
ふと、参道の墓の隣の小さな地蔵道標に目が留ります。私には「白玉山五里一丁」と読めます。
その場では見当も付きませんでしたが・・後で調べてみると、その距離からして新居浜の白玉山萩生寺ではないかと。どうしてここに・・あるいは、弘法大師に特に縁の深い寺の繋がりであることかもしれません。

 楠の徳右衛門標石

日切大師と大楠


日切大師前の墓と道標

明神川を渡った橋の袂に天保13年の「こんぴら大門へ二十一里」の金毘羅道標と並んで、清楽寺(60番前札所)、香園寺、一ノ宮、西山、久妙寺、生木地蔵、大峰寺を案内する明治41年の標石。(明治18年から41年までは60番札所は大峰寺の名称。前札所が清楽寺であった。)

 
大明神川右岸の金毘羅道標と明治41年の道標

川を渡った先で道は県道150号と159号の二つの分かれます。
協力会へんろ地図では、途中で西山興隆寺への分岐はありますが、生木地蔵を経て大頭に行く道を遍路道として指定しています。この道筋は昔からの遍路道でもあったようで「生木道」と呼ばれていました。
私もこれまで3回、基本的にこの道筋を辿ってきたように思います。しかし、前記の分岐を直進し県道159号に入り、直接香園寺に向う道筋も古くからの遍路道であったようで「香園寺道」と呼ばれていました。今回はこの道を通ってみようと思います。
ただ、今日は61番香園寺、62番宝寿寺にまいり、小松の宿に泊る予定ですから、時間は十分にありますし、興隆寺はぜひ寄りたい寺です。興隆寺に寄り道してこの辺りまで戻ってくることにします。
県道150号。家々が並ぶ狭い道を行きます。立派な常夜燈を見たりすると、ここがやはり古くからの道であったと思わせられます。刈り込みの終わった田圃が拡がる安用(やすもち)の西山道への分岐には、茂兵衛道標(255度目、大正3年)。


安用、西山分岐の茂兵衛道標

徳能に「五社霊神」という小祠があります。
徳川時代の始め、年々の凶作に耐え兼ねた庄屋渡部権太夫が幕府に直訴。家族4人とともに打首となる。後の庄屋が秘かにその霊を祀ってきたという、その祠。この辺りは、大洲藩、松山藩、天領と領主が頻繁に替わった所のようですが、隣の西条藩の山村でも同様の話が伝わっています。農民の意識が高い地域であったのかもしれません。
西山興隆寺への上り道は、緩やかですが、足と心肺にじっくりと利いてくる感じ。私は4度目ですが回を増すごとにその感を強くします。
墓地の中六角堂が見えてきます。明和3年(1766)の建物で六地蔵を祀る。弧堂であるのが何とも寂しいのですが、簡潔な造りで華麗さも秘めた立派なお堂だと思います。


興隆寺前の六角堂

「弘法大師の杖と足の跡」と伝える石を見て、舟形丁石の背中を見て、空海の歌という「みほとけの法の御寺の法の水ながれも清く見ゆるぎの橋」と刻まれた碑の向こう真紅の御曲流宣(みゆるぎ)橋。
私はこの山門(仁王門)とその前後の石段が好きです。
三巡目の日記で既に書きましたが、山門の彫刻は愛媛県に、多くの寺社建築を残した長州大工の一人、門井友祐が大正7年に刻んだもの。山門の梁や柱をやや控え目に飾る、躍動する龍や獅子の姿は好ましく素晴らしいものと思えます。
興隆寺は紅葉の名所でもあります。長い参道、あの三重塔の周りのもみじはまだ緑のままでしたが、ここ1、2週間で急激に赤く染まるのでしょうか。


 みゆるぎ橋

 興隆寺門前

 興隆寺山門

 興隆寺山門

さて、ここから大明神川右岸の香園寺道分岐付近まで戻ります。
県道159号を行き、自動車道の下をくぐり右折。すぐ左折して新川を渡り、JR壬生川駅近くの西条市役所東予支所の前を通過。その先のY字路を右折して石田に入ると、俄然旧道の雰囲気を帯びてきます。
地蔵堂を過ぎ広江川の手前を右折。「トンカカはん」と呼ばれる壬生川に伝わる盆踊りが毎年行われるという闇罔(くらみつ)神社の前。少し前の道でこの辺に「へんろ石が二つあるよー・・」と言われていましたが、私は見落としました。

 闇罔(くらみつ)神社

和霊神社の石碑や五輪塔、天台寺の前を通り玉之江。中山川の土手に出ます。
JR予讃線の鉄橋が見えます。昔の香園寺道はこの辺りで川を渡っていたようです。
近くの人は「流れのあるところに板を渡して渡っていたんじゃー・・」といいます。水量が多くないときは、そうと頷ける、そんな川の様です。

  香園寺道


中山川の渡河地点

  中山川

500mほど上流の吉田橋を渡ります。
旧道はJR予讃線の線路に沿って清楽寺の近くを通ります。寺の近くでは、多くの古い墓石を見ます。
鉄道の踏切の近くにいかにも古色の道標が二つ。「左邊ん路道/施主横田屋八郎兵衛/元文四未十一月吉日(1739)」。もう一つ「左へんろみち 願主良覚/南無大師遍照金剛」。年号は読めませんが更に古そう。


清楽寺付近の墓

 清楽寺付近の道標

 清楽寺

清楽寺は、明治18年から41年まで60番前札所を名乗った寺で、境内に横峯遥拝石があります。大きな寺ですが今は訪れる遍路も少ないようで静かな風情です。
ここから三島神社の前を通り、61番香園寺、それから62番宝寿寺にまいります。
この辺り、小松の標石については、三巡目の日記にけっこう記したつもり。見落としを中心に書いておくことにしますが、あるいは重複するかもしれません。
三島神社の灯籠前と、香園寺への道の入口に円柱形の道標があります。これは利平道標と呼ばれるもので、小松に6基、東予に2基、西条に2基あるそうです。建立年は文久4年(1864)と明治14年(1881)に集中、多くは円柱形であるのが特徴。井上(和田屋)利平(1809~1890)は小松藩両替所を営んだ人。

 三島神社前の利平道標

もう一つ加えておきましょうか。
香園寺の駐車場を南に出て東に曲がる小路の先にある茂兵衛道標(193度目、明治36年)。この標石は手印が三つもある賑やかなもので、それぞれ寶寿寺、香圓寺、大峰寺を指しています。大峰寺への道は、今は個人宅の庭の延長のようになっていてちょっと通り難い。元々この道標の前を通る遍路は殆どいないでしょう。忘れられる運命の道標か。
なお、この大峯寺への道の先付近には、もう一つの茂兵衛道標(198度目、明治36)があって更に先の大峯寺(横峰寺)を案内しています。

 新屋敷川原谷の茂兵衛道標

宝寿寺への道の茂兵衛道標
(88度目、明治19年)

宝寿寺の山門入口左に4基の標石が並びます。これはよく目に着くもので以前にも記したような・・
右から「これより吉祥寺7丁」の徳右衛門標石。横峯寺、香園寺、宝寿寺を示す道標。明治14年の利平道標。そして、順吉祥寺/逆香園寺、を示す明治28年の道標。手印の方向や刻字からして、この場所に集められた標石であると思われます。

 宝寿寺


宝寿寺山門横の道標

今夜は、小松のあの肉の宿。
                                                   (10月26日)

 日切大師、臼井水付近の地図は「平成26年秋その1」に掲載しました。

 




横峰寺往還の道 

今日は小松の宿から岡村経由の道(というより採石場の道と言った方が分かりよいかも)で横峰寺に上り、湯浪に下る予定です。 
JR小松駅前の道をまっ直ぐ南下し、右にカーブ、茂兵衛道標(187度目、明治35年)を右折するのが本来の遍路道(この道は、昨日の日記で記した、香園寺を出て二つ目の茂兵衛道標が指す道です。)ですが、宿で戴く地図は、もっと東側にある広い車道をガイドします。
この道は景色がよいのです。天気の良い朝で、東の二並山辺りの山際が金色に輝くのが見えましたし、天神池を前景に望まれる小松の街の展望も見事でした。


二並山辺りの山際の輝き


天神池からの小松の街

採石場の少し手前、左手に標石。「奉納 横峰寺へ六十丁、昭和七年、西條町大師蓮花講員及地方信者一同、世話人西條寿し駒事日野駒吉」。
「寿し駒」本名日野駒吉(1873~1951)は西條吉原ですし屋を営む傍ら大師信仰に生活を懸け、横峰寺の登り道の舟形地蔵丁石の殆どを建てたと言われます。(横峰寺への道ほど地蔵丁石が揃って残されている道は他にはないでしょう。)

 「寿し駒」の道標

道は地道にかわり、林道を右に分け山道に入ります。
急坂の厳しさですが、階段が切られていない道で、この点は歩き易い。いい道です。
やがて「おこや」と呼ばれる峠。寺まで3.6kの地点。少々の平地があって、昭和20年代には茶屋があったといいます。
ここに新しそうな(昭和か?)道標「(指差し)香圓寺道 奥之院ヲ経テ一里十六丁/(指差し)香圓寺へ一里二十七丁」
少し行き28丁地蔵の向いに下部が埋まった道標。
「横峯寺及千足山村に○○/小松町及香園寺に○○/大保木青年小團/平野大保木ヲ経テ縣○○/御大典記念」。平野は黒瀬湖畔から上ってくる車道(平野林道)の途中にある山村。
ここから平野へ行く道があったのでしょう。この道標、生活道標でもあるところが興味を惹きます。「縣」の下には高知県境までの距離が刻まれているのでは、と想像します。
上り下りを繰り返し、寺より1.1kの地点、少しの区間車道に合流します。


おこやへの道

  おこや


28丁地蔵付近の道標

車で上ってきた大勢の遍路で寺は大混雑。
曇ってきたので石鎚山は見えそうにありません。星が森は諦め、湯浪への道を下ることにします。

 横峰寺へ参る

 納経所前の石柱

寺の納経所の前に「石鈇山別當横峯寺」と刻まれた石柱があります。それを見ながら関連した余談へと・・
横峰寺と石鎚山(石鈇山)との関係、江戸時代の案内書にはどのように書かれているのでしょうか。
例えば「名所図会」の六拾番仏光山福智院横峰寺の項。「・・・石鈇山遥拝所、門より壱丁下り印木より左へ三丁余上りあり、石鈇山ハ六月朔日より三日までにのぼる。此所より三里行奥前神寺(今の成就社)、是より峰まで三里八丁、かねのくさりにて取あがる所三所也。蔵王権現示現の地、役行者練修の地なり、大峰と同じ霊験の山也、鉄鳥井、大師堂・・・」と書かれる。
正に石鈇山別当横峯寺なのです。
明治初年の神仏分離に関連して修験道は廃止、別当としての横峯寺もまた廃寺とされます。横峰寺は四国八十八ヶ所遍路の60番札所としてすぐ復活します(当初は大峰寺として)が、石鎚山(石鎚神社)との関係は一応無くなったということになります。ところが今も行われている石鎚信仰における夏期大祭(7月1日~10日)では、横峰寺は重要な位置を占めています。
石鎚参拝のルートは一つ。小松→岡村→おこや→横峰寺→黒川→成就→石鎚山。一つ。大頭→湯浪→横峰寺→黒川(今宮)→成就→石鎚山。
何だかすっきりしないですね。それでいいのかもしれませんが・・
石鎚参拝ルートとしては、もう一つ石鎚神社(口ノ宮)、前神寺を発つルートがあります。明日の日記でもう一度考えてみます。

「横峰寺の縁起」について
仏光山福智院横峰寺。
「四国遍礼霊場記」では、横峯寺の縁起は弥山(石鈇山)、前神寺と同一のものを用いていると言っています。他書にも記されるように、寺は石鈇山の遥拝所とも言うべき所で、二町ほど登った「鉄の鳥居」が寺の中心であると言えます。
しかし、「霊場記」には横峯寺はその開基は石仙(他書には寂仙あるいは上仙と呼ぶ)菩薩であると記されている。(石仙は空海と同世代の人)
「霊場記」の書き様には若干の矛盾と高野山の僧としての配慮が感じられるものとなっているように思えます。


横峰寺山門(h20,10.9)

 横峰寺山門

さて、湯浪への道を下るところでした。山門より0.5k下った所に7基の遍路墓があります。正徳4(1714)、天保、嘉永、慶応などの年号、阿州や芸州などの地名を見ます。この後の山道でも文化、文政の年号の三つの墓を見ました。
そのすぐ先が古坊(ふるぼう)。観音堂があり、堂前には六地蔵。
ここには昭和25年、7世帯、28人住んでいたという記録があります。それが昭和62年に1世帯、1人、その後0に。嘗てはここから平野林道辺りに通じていた生活道も、今や草木のなかに埋もれた様子。


下り4丁付近の墓

 古坊の観音堂

 五丁の地蔵

「従峯十丁」の丁石の前「享保十六年十二月廿一日(1731) 千足山村とち之川市左ヱ門」と台座に刻まれた大師像があります。
谷に沿う道は荒れてきます。流倒木も目に付きますし、流れの上に無理やり架けたような橋も。昨夜の雨で濡れた石に乗って2度転倒しました。でも、薄いブルーに透ける水と流れは美しい。
20丁の地蔵を見ると山道の終り、四国のみちの休憩所。
道はここから大きく左にカーブして県道となります。県道の突き当たりに聳える高さの砂防ダム。見事な水のカーテン。


下り10丁付近の大師像

 荒れた道

谷川の水の流れ

15丁の地蔵

16丁の地蔵

 ブルーの水


砂防ダム、水のカーテン

舗装道となっても、丁石地蔵はづっと続いています。
左側の擁壁の中に「御来迎所文化十四年」 「横峰寺御来光出現、昭和48年」と刻まれた二つの石碑と地蔵(大師像か)。

 御来迎所

 尾崎八幡神社

湯浪の尾崎八幡神社の前を行き、県道が大きく右にカーブする手前に右の山に入る道。
おそらく、これが昭和20年代まで生活道としても使われていたという旧道の入口でしょう。旧道には丁石地蔵や徳右衛門標石も残るといいます。
以前から是非歩きたいと思っていた道でしたが、道はシキミ(樒、花柴とも)畑の中に消えていました。強引に行けば突破できたかもしれませんが、止めておきます。
その道は、馬返の大師堂の所まで続いていたと思われます。
大頭の石上神社と妙雲寺。前記の石鎚山参拝道の起点の一つとなっている所。
「名所図会」には「明雲寺石燈炉より少し入あり、不自由仁峰へ登らざる人ハ爰にて札を納む、然共大方登る」とあります。
門前には「六十番前札」の石標。「是ヨリ横峰寺迄百丁/是よりかうおん寺迄二十五丁」の徳右衛門標石。
横峰寺への上り下り、なかなか厳しいものでした。これより小松の宿に戻ります。
                                                (10月27日)

 大頭付近の地図 小松付近の地図 横峰寺付近の地図を追加しておきます。


 

 

 

 

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
感想 (野うさぎ)
2014-11-22 15:44:19
今回も写真が良いですね。
特に横峰寺往還の最初の風景写真2枚。
どんな日に歩くとあのような景色と出会えるのでしょうか?アップ・引きとも、場面場面で見事です。
 
 
 
野うさぎさん (枯雑草)
2014-11-23 09:45:45
こんにちは。
コメントありがとうございます。
本文にも書きましたように、この道は昔からの遍路道
ではありません。少し高い所を通っているので景色が
よいのです。どうしたら・・天気のよい日、朝早く通る
・・くらいでしょうか。
また、yろしくお願いします。
 
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