四国遍路の旅記録  平成27年夏 


私の遍路はこれまで春か秋に限られていました。それが突然、ある理由により、梅雨の真中、夏の四国を歩くことになったのです。ほんの短い遍路ですが・・
その一部を日記に残しておきましょうか。


かも道、いわや道、平等寺道を歩く

公認先達歩き遍路の会、地元のへんろ道の会などの方々が、阿南市や加茂町などの協力を得て、太龍寺前後の古くからの遍路道、「かも道」 「いわや道」 「平等寺道」の修復を行い通行が可能となりました。その多くのご努力に対し感謝の合掌をして通行させていただきました。
梅雨の最中、湿分100%に近い空気が満ちていました。若干の危険が残る、いわや道や平等寺道の雨中での通行は避けた方がよいでしょう。実際、道中4度、石に滑ってこけました。(内一度は太龍寺本堂前の石段でですが・・) 細心の注意をもって足を運んだためか、事故には至りませんでした。お赦しください。

四国遍路をする人、遍路に係わる人の間では、すでによく知られたことだと思いますが、真念の「四国遍路道指南」の20番鶴林寺の項に
「・・これより大竜寺まで一里半、道ハちかミちなり。大師御行脚のすちハ加茂村、其ほど二里、旧跡も有。・・」と記されています。前段の「ちかミち」は那賀川を渡り若杉谷を上る現在の遍路道でもある太龍寺道。そして後段が「かも道」を指しています。
寛永18年(1641)の阿波国絵図にも加茂村から太龍寺に通ずる赤線(いわゆる赤道)が表記されています。
かも道の登り口は、一宿寺の境内に隣接しています。
一宿寺の場所は空海の修行の地と伝わりますが、嘉保年間(1094)京都東寺の僧長範が太龍寺再興のため宿したことから寺名がついたとされます。また、この地の「加茂」 「醍醐」という地名は京から来た多くの大工等が住んだことに拠るとも。(阿波歴史体感ネットワーク「阿波の遍路道」パンフレットより)
以前の日、鶴林寺表参道、鶴峠付近より見た、かも道尾根の写真を載せておきましょう。


かも道遠望(那賀川に架る橋の先の集落から右の尾根を上る)

一宿寺にお参り。新しい本堂では、ご住職(?)が御婦人方と談話中でした。
寺のある高台より加茂の町を見渡すと、多くの民家は山際の高所に置かれていることが見てとれます。低地の田地の中、加茂谷中学校の鉄筋コンクリート4階建ての白い姿がポツンと。那賀川は普段でも水量の多い大河。台風等の大雨では上流のダムも放流され、冠水の被害が繰り返されたようです。(この7月17日の台風で、水の中に孤立した加茂谷中学校の姿が、全国TVの画面に映し出されましたね。)
千年を越える間、加茂谷の人々は川と戦い、折りあって生活してきたのであろうことを思います。

丁石が県史跡に指定されたことを案内する大きな看板の急坂が、かも道の入口です。
看板の足元にその最初四十一丁石。太龍寺まで14基が並びます。
強い降りではないものの、辺りを包み込むねっとりとした雨。
急坂の道の周囲は見事な竹林。「青の道」と呼ばれるとか。
竹を背に三十五丁石が左手に。その先、三十三丁石、三十二丁石と続きます。この尖頭方柱形式(五輪卒塔婆の簡略形)と呼ばれる丁石は、深く刻まれた丁数表示の以前に刻まれていた別の文字が石の面に残っています。それは丁石の正面または側面。
「貞治四年正月十三日 願主浄繁」(35丁石正面)など。
貞治(じょうじ)は南北朝時代の北朝の年号。貞治4年は1365年に当ります。太龍寺またはこの地方が、当時北朝の影響下にあったことを示すものと言われます。
この形式の丁石はかも道と鶴林寺道にしか見られず、貞治の年号は四国の標石で見られる最も古い年代なのです。
(参考に別日撮った鶴林寺道の丁石の写真も載せておきましょう。)
なお、三十二丁石には丁数の他その右側面に深く「右かも」と彫られています。
また、これらの石材は六甲山系で採られた御影石であることが確認されています。

 かも道の登り口

 青の道へ

 竹林の前の三十五丁石

 三十三丁石

 三十二丁石付近

 三十二丁石

 (参考)鶴林寺道の十丁石

三十八丁石の付近から廿一丁石にかけて、多くの石室が見られます。(崩れたものを含め22基が確認されているそうです。)石室には嘗て西国三十三観音の写し仏が祀られていたと。

 38丁石付近の石室

廿八丁の手前に大師像があります。「文化乙丑十一月廿一日 小延村智海」(文化二年は1805)とあります。右側面に「これより つるへと とびなされし おあと」と大師がここから鶴林寺へ飛んでいったという伝承が刻まれています。

 大師像

道の左の崖下は、近年まで操業していたという大理石の採掘場。
この辺りより道は緩やかな尾根を辿ります。道の上は石灰石が散乱する・・白の道。
青の道から白の道。そして秋には落葉広葉樹が染まる赤の道となるそうです。その美しさが想像できる今は青々とした樹相です。
倒れかかる石を大師が拳で支えたと伝説される「こぶし石」。少しづつ動いて山頂に到達すると、世界は泥海に沈んでしまう・・という壮大な説話を伝える(加茂谷村史)「ねじり石」。


石灰石の道(白の道)

 廿八丁石付近

 こぶし石

 ねじり石

廿六丁石、廿三丁石・・十六丁石まで。この辺りは杉林の道。

 廿六丁石付近

 廿三丁石付近

 十六丁石付近

 七丁石付近

七丁石を過ぎると、若杉谷に沿って上ってくる太龍寺道との合流点。
古い丁石と同形式の石を用いた道標があります。「左くわく里んじ/右たい里うじ/右かも道 富岡道」(富岡道とは、加茂から大野、宝田を経て富岡に至る道筋でしょうか。)
ここから太龍寺の山門前の三丁石まで300mの急坂のコンクリート道。(加茂から太龍寺までの道で最も厳しく感じたのは、実はこの道でした。)


太龍寺道との合流点

 合流点の道標

 太龍寺山門

 太龍寺山門


太龍寺本堂前の紫陽花


太龍寺本堂

雨雲に霞む太龍寺山門。本堂前の紫陽花が美しい。
ここからロープウエイ駅の前を通り「南の舎心」へ。ここもまた実に厳しいコンクリート道の上り。沿道に並ぶ石仏の足元に縋ります。
大師の後姿。岩場を鎖で少し上れば大師像の前に出られます。でも、今日は雨、後ろ姿を眺めるだけにしておきます。

太龍寺の山号にもなっているこの「舎心」という語。少し書いておきましょう。
寂本の「四国遍礼霊場記」には、「・・舎の字は凝(そむ)るの心にて此所絶境なるが故に人心をとどむるにより、かく名づくといへり。遊方記等捨身と書。大師御童稚の時善通寺の捨身と同事に書、非なり。・・」とあります。
ところが、五来重は縁起(阿波国太龍寺縁起)に、空海が捨身(一生の身命を捨て命を仏に捧げる)の修行をしたことが書かれているといいます。そしてその修行の場所は「龍の窟」であると。
戦後、龍の窟は潰されてしまい、捨身山は舎心山(心を休める山)ということになったと、不思議な説明をしています。
現在、寺自身も舎心は捨身の意であると説いています。(霊場会ホームベージ等) 
太龍寺の山号でもあり、南北の霊場でもある「舎心」は、かく様々に解されてきたのですね。その事自体稀なことに思えます。
存在していた頃の龍の窟を含む岩屋(窟)については、澄禅の詳細な記述があり、以前の日記(三巡目 平成24年春その2)にも紹介しましたが、「名所図会」にも次のように記されます。
「此所(南舎心)より三拾丁下り庵、此所より窟禅定手引出ル。是より二丁下り三重霊窟、第三世炊事窟、都面三窟、口壱構にして内にてわかる。・・」

もう一つ、太龍寺には「ふだらく(補陀落)山」と呼ばれる場所があり、古い標石にもよく出てきます。ふだらく山とはどの山なのでしょうか。
太龍寺の本堂の裏山(標高600m)は「弥山」と呼ばれます。その南800mほどにある大竜寺山(標高618m)が、ふだらく山であったと一般には見做されているようです。
実際、大竜寺山の頂上には建物の基盤が残っており、これが観音堂跡だと言われます。
ふだらく山からは海が見えるはず・・ 現在の山頂から海を見ることは困難のようですが。大竜寺山のほぼ真南に薬王寺があり、そこには日和佐の海がある。このことは五来重が指摘することです。しかし、太龍寺のふだらくの海は、もっと近く、東方の椿泊、橘浦の沖の紀伊水道ではないか、とも思えるのです。

さて、いわや道、平等寺道に向います。
少し戻りますが、太龍寺本堂前の石段横に「是より平等寺へ二里 鶴林寺へ一里半」の徳右衛門標石。更にロープウエイ駅を出た所に、寛政9年の「是より平等寺へ二里」の道標があります。これらは、いわや道、龍の窟を経由して平等寺への里程を示していると思われます。
南の舎心を後にして、右にふだらく峠を経て中山の持福寺への道(あるいは、遍路道ではないが、ロープウエイ山麓駅付近の北地へ下る道)を分けると、いわや道に入ります。
すぐに7、8、9丁の丁石地蔵。その先に笠を被った立派な道標。「右ふだらく山 ほんだうへすぐ道」でしょうか。左側面に「元文二丁巴三月吉日 願主・・」(1737) 
この道は尾根の下50~100mの斜面をトラバースする道。尾根に近いためか、道型はよく残されています。所々路肩が流されて痩せた個所、岩を越える段差の大きい個所、ロープを渡したりした対処、道整備者のご苦労が覗えます。
11丁から25丁の丁石地蔵は欠けることなく続いているように思えました。見事です。
雨中、足を滑らせないよう、また滑っても大事ないよう細心の注意で歩きます。


いわや道7丁石付近

12丁付近の道標

 道標

 14丁石付近

 19丁石付近

いわや道から平等寺道が分岐する地点。
いわや道はここから左に下り、龍の窟に向っていました。
分岐には二十六丁、廿六丁の二基の地蔵丁石、地蔵道標「左いわや道 右遍んろ道」、それに角柱の手指し道標「ひだり窟や へんろみち」の四つの石造物が並びます。
左のいわや道は、石灰石の採堀場の崖(そこには29丁地蔵が残されているようです。)まで、行って行けないことはないようですが、杉の伐採木が道を塞ぎ行く気をおこさせません。今日は雨、もちろん行く気はありませんが・・ 
平等寺道に入った直ぐの所に遍路墓があります。文政十三寅年 大坂北久宝町 千田屋○○(現 大阪市中央区)。あるいは、いわや道からここに移されたものかもしれません。

 平等寺道の分岐

 遍路墓

ここから阿瀬比集落の近くの「三十九丁地蔵丁石」(山口村大五良母)まで、平等寺道で石造物は見ることはできませんでした。(この地蔵丁石も比較的新しいものに思えました。)
前記のいわや道26丁の分岐で平等寺道を指す表記は全く見られないことにも思い当たると、この平等寺道はいわや道のような古くからの遍路道ではなかったと思われます。
このことは、道の造り方そのものが明らかに異なることからも頷けることだと思います。特に、北に谷を見る道から、南に谷を見る道に変わり尾根を下る個所は急な坂道が続きます。道整備の方が木の階段を造られた苦労が察っせられる箇所でもあります。
下る方はまだしも、逆打ちでこの道を上ることを考えると弱足の私は怯みます。


平等寺道の急坂部分

 39丁地蔵

阿瀬比の集落に入り薬師堂(専念庵)の前、徳右衛門標石様式の道標「是より平等寺へ一里」を見ます。この道標は平等寺道のものというより、いわや道のものと見做すべきなのだと思えます。(「いわや」から平等寺に向かう古い道は今の県道ではなく、このお堂の前を通っていたと想像します。)
(追記)この標石、HP「空海の里」の松永さんにより徳右衛門標石と確認されていたようです。新たな徳右衛門標石の発見です。
堂の裏には、大日如来(金剛界)を中央に石室、浮き彫りの仏像碑(下部に二猿、二鶏が配されているところから青面金剛と思われ、庚申塔の一形式でしょうか・・)それらの像の立派さに目を見はらされます。

 阿瀬比の専念庵薬師堂

 薬師堂前の道標

 堂裏の仏像群

ここから道の駅「わじき」に寄って休憩した後、平等寺までゆきました。
この道はもう何度も通り、日記にも書きました。余計な記述は省略しましょう。

 平等寺

                                                  
(7月8日)
太龍寺前後の地図を貼っておきます。
鶴林寺付近      
太龍寺付近

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