四国遍路の旅記録   三巡目 第4回 その2

旧宿毛街道、中道越えに挑む     (平成22年4月7日)

今日は、観自在寺から満願寺まで旧宿毛街道中道を歩きます。
後で気付いてみると、この日は殆ど写真を撮っていませんでした。道中、余裕が無かったということもあるでしょうが、峠からの眺望は無く、山道は何処を撮っても同じように写るし・・。
でもそれでは、いつものような写真日記の体をなしません。そこで、ちょっと気が進まないのですが、無理やり地図を載せることにしました。(地図はクリック、クリックで拡大できます。)
道中の様子、ご想像戴ければ幸いですが・・。

 

中道越えの山道は御荘長月(ながつき)の下地という所から始まります。
松尾峠を越えて、中道を目指す昔の遍路は、一本松、札掛けを経て、この辺りから観自在寺にお参りし、再び戻ってきたという場所です。
私は、宿から県道295号を通って、ここまで女将さんに車で送ってもらいました。本当に何から何まで・・。

最初はみかん畑の中の道。歩き始めて1k地点(地図の②)、道は竹藪の中に消えます。
周りの地形を見ながら、強引に上って行きますと、何とか道跡らしい所に。それからは、草木を払い払い、藪漕ぎの連続です。
2k地点(地図の③)、付近は、昔多くの旅人が通ったと言われる街道の面影を偲ばせる、切り通しの道が現れます。相変わらず藪漕ぎは随所。

2k地点、旧道の跡明瞭

3k地点、林道へ

3k地点(地図の④)、草を払って進むと突如目前に林道が現れます。
ここからは暫く林道歩き。樹木の伐採作業中で、地図には無い新たな林道が縦横に。昔からの山道もその中に消えてしまっています。(地図の④~⑤の間)
林道を行きつ戻りつ、方向を確かめながら峠(大岩道)を目指します。
幸い、一つの林道が終わった先で旧い道に出合うことができました。(地図の⑤)
古ぼけた石の道標まであるじゃないですか。こういうものに出合うと、矢鱈に安堵するものです。
でも、大岩道は何処なのか。標石も標示も何もありません。おまけに、樹木に囲まれ展望も無いのです。しばらく尾根道を進んでみて、上りが急になったので引き返します。
やはり、最初に尾根に上った地点が大岩道であったようです。(地図の⑥)
周りを探ると、尾根に上ってきた方向の前方に樹木を開いた急坂が下っており、頭の赤い石杭が点々と見えます。これが僧都へ下る道のようです。
樹に掴まりながら急坂を下ります。前方、林道に出会います。(地図の⑦)
林道を横切って下る道が旧道のようですが、その入口は発見できませんでした。仕方なく林道を下ります。

大岩道を下る

 

愛南町僧都(そうず)、僧都川に沿った静かな村です。
家の前で立話し中のおばさん、おじさんに会います。
「えー、大岩道越えてきたのー・・なんぎやなー、そんな人おりゃせんぜー」
と一入あきれられます。
小岩道への山道(地図の⑧~⑨)の状況を聞きます。
「今は通る人もありゃせんぜ・・道は開いとらんじゃろ・・、車道を真っ直ぐ行きなさい」

風が強い。車道を歩いていると、笠を飛ばされそうになります。こういう風の日は、樹木に囲まれた森の中の道を歩く方がづっと楽なのです。
大僧都の神社の前でパンを食いながら考えました。
まだ、距離としては全行程の4分の1くらい。今12時だし・・、これからはできるだけ山道は避け、舗装道を行かざるを得ないか・・。それでもちょっと厳しい。
その声が聞こえたのか、小岩道に上る車道の途中で天の助け。石工さんの軽トラに乗せてもらいました。
観自在寺には石の杖置きを納めているのだそうだ。
「何ー、大岩道を越えてきたー、そんなら行けるかもしれんが、山道は通らんほーがええ・・今は誰も道に手を入れとらんからなー」
小岩道の上り口の前まで。
納め札を受け取ってもらい、感謝、感謝。
小岩道(地図の⑩)には、アンテナ鉄塔があり、舗装道が交差。古の峠道の雰囲気は何処にもありません。
上槇上組に下る山道(地図⑩~⑪)が昔の中道ですが、私は七曲りの舗装道を行きます。



  津島町下畑地の山道

上槇上組から松柱上までは、林道風の未舗装道。昔の中道はもう少し高い所を通っていたようですが、今はおそらく通行不能でしょう。
松柱上から本俵へ下る山道(地図の⑫~⑬)はその入口を確認しましたが、おそらくここは難なく通れそうです。でも、私はここも車道(県道46号)を下りました。

本俵に着いたのは16時頃。ここより満願寺まで5kほど。その後、岩松の宿までタクシー。18時にどうにか宿に着いたのでした。
宿に着いてほどなく、磯屋の女将さんから電話。心配お掛けしました。感謝です。

観自在寺から岩松までの総距離は、私の概測で35k。私の足による1日の距離としてはやや無理であったということになりましょうか。そして、この中道。現状ではやはり通らない方がいい道ということになるのではないでしょうか。旧道の整備をするにしても幾つかの障害があるように思えました。

ここで旧宿毛街道中道を歩く時使った地図について一言。この旧道は、東海図版の「四国遍路地図2」に記されているのです。
私はこれを25000地形図に落として持参しました。実際に歩いてみて、この東海図版の地図の正確さに感心させられるところが多くありました。
ただ、旧道を正確に記すという目的からか、水が少ない時は飛石伝いに渡ったような、今は通行できない川の上や新道開設のために削られた崖の上などにルートが描かれています。読み取りに注意が必要です。





ハイカー仕様、篠山越え     (平成22年4月8日)

さてさて、昨日は一応順打ち方向でしたが、また逆打ち、岩松から篠山を越えて札掛けの宿まで参ります。
このルート、祓川温泉から山登りの道となり、全行程40k近い。祓川温泉に宿泊できればよいのですが、シュラフなど無いと泊まれません。
今日は荷物も全量だし、弱足の私には到底歩ける距離ではありません。
そこで、祓川温泉近くまでコミュニティバスを利用することにしたのです。
岩松の公民館前8時発、祓川温泉行き。乗客1人。
市職員でしょう、若い運転手と話しながら・・。
日切地蔵というのが御利益確かで、うちの母もそれで治った・・。それ、どの辺?と聞くと、ちょっとルートを外れているよう。
「遍路じゃけー、岩陰大師にお参りしますべー」
運転手さん「岩陰大師・・それは知らんなー、その辺通るから教えてくれ・・」という。で、御内(みうち)辺りで降りて歩くつもりが、岩陰大師の前までバスで。

岩陰大師

祓川温泉

大きな岩の間にお大師像。なるほど岩陰大師。お参りします。
その前でおばーちゃん、おじーちゃんに会いますが、何を言っているのか、さっぱり分かりません。どーしたんだろー。
終点の温泉から引き返してきたバスからブー、ブーと激励の警笛。杖を振って応えます。

祓川温泉の前を通り、岩陰大師から3.5kほどで篠山の登山口。
そのちょっと先に「やけ滝」という相当雄大な滝があります。
そこに、ここまでスクーターに乗ってきた地元のハイカーひとり。
「ここからでも登れるよー」と、滝の横の岩を飛ぶように「ひょい、ひょい」と登って行きます。ワシはそういう訳にはいかん、と正式の登山口に戻ってそこから。

 やけ滝

登山口

この九十九折れの登山道、相当急な上狭く、危険な場所もあります。
頂上までの距離は3kほどですが、殆どが急な上り。
尾根に取りつき少し行ったところに「右本社」の標石があり、やっと一息つけるのです。(この標石の反対側には「左寺道」とあります。本社とは篠山神社、寺とは観世音寺を指します。)
ハイカー仕様の道です。少なくとも弱足遍路仕様ではありません。
普通のハイカーは2時間10分くらいで計画するようですが、私は頻繁に休憩をとり、2時間30分掛けました。
頂上近くはミヤコザサを鹿から守るため、金網が張られゲートが設けられていますが、そこで登山口で出会ったハイカーにお会いします。
「遅いので探しに行こうかと・・」「いやいや、どうも・・」
もう少し経つと、この辺は夢のようなピンク色のアケボノツツジの群生だと言います。

 尾根の標石

丁石

篠山神社

山頂の境界石

 山頂の境界石



四国遍礼霊場記 篠山  (江戸前期の篠山)

篠山神社にお参りします。古びた石段、鳥居。拗ねた可愛い犬のような狛犬。懐かしさを感じる神社です。神社裏の不思議な池。
長年の篠山の山争いの末、明治6年に立てられたという国境の石碑。神社は伊予国の領内です。
石碑には「南伊予国境」、裏に「北土佐国境」(大きな地図では逆のような気がしますが、この山頂ではそうなのです)と刻まれています。
今日は眺望も見事です。北側正面は大黒山でしょうか、その向こうは宇和島周辺の山々でしょうか・・。
神社の下の観世音寺跡。今は礎石が残るだけですが、寺の大きな建物は昭和40年代まで神社の社務所兼宿泊所として使われていたそうです。
前回に見た、敷地の一隅にあった五輪塔の僧侶の墓。どういう訳か見付けることができませんでした。
県道の駐車場に降りる石の多い道。前回より歩き易く感じました。手が入れられたようです。

駐車場から4.4k、尾根道を下ります。長い道ですが、祓川温泉からの道に比べ、何と歩き易い道であることか。
この篠山越えの道、順打ちだと相当楽になる・・と気付かされます。

御在所へ下る道

山道の山つつじ

麓の二の鳥居のある御在所まで、頂上を出て2時間30分でした。初回の時の下りより45分短縮でした。
歓喜光寺にお参り。
真念が「道指南」で「・・まさき(正木)村、この村庄屋代々とざさぬなり。ありがたきいわれ有、たづねらるべし・・」と書いた蕨岡家が寺の門前にあります。
主屋や門は、国の登録有形文化財に指定された立派さですが、その長屋門、今はしっかり閉ざされています。

疲れて足は全く動きません。道傍の家の庭先のおばさんから
「おささにお参りかー、おつかれー、足があがっとらんがー・・」

あの長い長い正式名前を持つ篠山中学校の前で16時30分。ここから広域農道を通って宿まで、まだ6k。18時を回るでしょう。
ついに、広域農道の入口でタクシーを呼びました。

札掛の宿。懐かしい女将さんのお出迎え。話が弾みます。相変わらず至れり尽くせりのお宿。ありがたい寛ぎです。
襖に貼られた泊り客の納め札。随分増えていました。
「ねこちゃんは・・」「そうなの、死んじゃったの・・でも代わりの子猫お願いしてるのよー・・」宿の経営もかなり軌道に乗ってきたのかもしれません。がんばってください・・ね。

(追記)この篠山越えの祓川温泉から篠山に上る道、私は「やけ滝」の近くより上りましたが、もう一つのルートがありますので追記しておきます。
それは、祓川温泉から400mほど、源泉のある湯屋から祓川を渡り上る道。県境の尾根まで上り、尾根を4kほど、「右本社」の標石のすぐ下でやけ滝からの道と合流します。地蔵石仏などもあるそうで、むしろこちらの方が遍路道としてはメインであったのかもしれませんが、最近はハイカーも通らぬようで相当荒れていると思われます。
ついでにさらに追記。私は成行きで岩陰大師までバスで来てしまいましたが、御内の旧遍路道について。順打ち方向で言いますと、祓川温泉から下槇を経て槇川の少林寺へ。昔の遍路は、この寺に札を納めたといいます。裏山の御槇神社を経て御内へ。そして横吹渓谷を経て満願寺への道を辿ったようです。

 

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四国遍路の旅記録  三巡目 第4回 その1

宇和島から四国の南端の海を巡って

三巡目第4回の区切り打ちは、ちょっととんでもない思いつきを実行することになりました。
3月に区切った高知県須崎の先を打ち継ぐのではなく、何と宇和島から逆打ちで、宿毛、月山神社、足摺をまわって、できれば須崎までと・・。結果は、途中で所用が出来、土佐佐賀までしか行けませんでしたけど。

今回の旅には、札所をや霊場を参拝するということの他に、大きく3つの目的がありました。
一つめ。宇和島と40番札所観自在寺の間の、昔からの遍路道を歩くということ。
二つめ。月山神社周辺の海の辺を歩くこと。高知の海の辺の道のなかでも、ここはやはり特別の世界、「不思議の国」なのだと思います。私は1巡目で既に魅了された世界でした。それをもう一度味わいたいものだと・・。
そして、三つめ。ちょっと前、ある遍路サイトでも話題になっていた、旧清水往還道伊豆田越えの道を歩くこと。そう、あの長い伊豆田トンネルの上にあるという旧遍路道です。

さて、目的の一つめ、観自在寺と宇和島の間の旧い遍路道。江戸時代の文献ではどうなっているでしょうか。見てみましょう。
例によって澄禅「遍路日記」と真念「道指南」から。
まず「遍路日記」。
「・・夫ヨリ(観自在寺のこと)二里斗往テ柏ト云所ニ至、夫ヨリ上下二里ノ大坂ヲ越テ、ハタジ(畑地)ト云所ニ至ル、此所ノ民屋ニ一宿ス。・・宿ヲ出テ津島ト云所ニ至、夫ヨリ野井ト云坂ヲ越テ宇和島ニ至ル。・・」
とあり、灘道(現在の遍路道である柏坂)を越えて畑地、津島へ。野井坂を越えて宇和島に入っていることがわかります。
「道指南」ではどうでしょう。
「これ(観自在寺のこと)いなり(現在の41番龍光寺)へ道すじ三有。一すじ、なだ(灘)道、のり十三里。一すじ中道大がんだう(岩道)越、のり十三里。一すじささ山(篠山)越、のり十四里半。三すじともに岩ぶち(淵)満願寺ニ至ル。先灘道・・(略)・・次に中道、つづき、くわんじざいし。〇なが月(長月)〇大かんどう坂二里。〇さうず(僧都)村〇しょうかんどう坂三里。〇ひでまつ村〇岩淵まんぐハんじ。次にささ山越、くハんじざいよりひろみ(広見)村へもどり、〇いたお村〇まさき(正木)村・・(略)・・〇はらい川、垢離してささやまへかくる。篠山観世音寺、本尊十一面立像五尺。〇寺より三町に天狗堂。其上三所権現、此所に札おさむ。・・(略)・・〇まき(槇)川村〇みうち(御内)村〇さんざい(山財)村〇岩淵村、満願寺・・(略)・・〇野井村、くハン音堂有。〇のいのさか〇いわゐのもり(祝森)村、地蔵堂〇ひえ(保)田〇よりまつ(寄松)村、毘沙門。これより宇和島城下迄なミ松、よき道也。・・」
すなわち、宇和島から行くと野井坂越えの道。満願寺から道は三つ。灘道(柏坂越え)、中道(小岩道、大岩道越え)、篠山越えがあるということ。
その後、遍路道としても一般の街道としても、中道(野井坂道を含む)、篠山道が廃れ、もっぱら松尾峠道を含む灘道が利用されるようになった、ということのようです。

灘道については、既に過去二度歩かせていただいていますから、今回は省略。あとの三つの道を歩こうという算段です。
さてさて、どうなりますことやら・・。それでは宇和島を発つことにしましょう。
結果的には、失敗あり成功あり、まあまあ7、8分の出来というところでしょうか。よしとしましょう。
(平成22年4月6日~4月16日)





野井坂越え失敗、野井山越えとなる     (平成22年4月6日)

上に記しましたような次第で、この日は朝、宇和島を発って野井坂を越え、満願寺を経て岩松まで。そこからは、バスで40番観自在寺前まで。観自在寺にお参りした後、御荘の宿に泊まります。

宇和島市街から国道56号に沿って歩きます。
この野井坂越えの旧遍路道は、国土地理院25000地形図に点線の道として記されています。
宇和島から向って、国道56号の右側にあり、松尾トンネルの入口の上を右から左へ渡っています。国道の右側に新たに高速自動車道が出来たため、ここにあった道は無くなっていますので、国道の左側から松尾トンネル上の野井坂越えの道につながる道が出来ているはず・・という先入観。これが、先ず最初の感違い。
先入観に従って、国道の左側にある山男食堂とトンネルの間にある山道二つを上ってみました。果たしていずれも行きどまり。
山男食堂に戻って、ご主人にお聞きします。
「前にも聞かれたことあるけどねー・・この辺から山を越える道は無いよー。みんな行きどまり・・」
お若いご主人、旧遍路道なんぞと言っても通じません。いろいろ話をしているうちに、私は、インターネットの遍路サイトでYさんが「田圃の中の畦道を通って・・」と書かれていた情報を思い出したのです。
「うん、そー言やー、うちの田圃もこの先の高速道の側道の所にあるなー・・」
実はこの「高速道の側道を行く・・」がポイントだったのでした。
ありました、ありました、田圃の中の道が山の中に向っています。これが正解です。

野井坂の入口

山道(最初の所はこんな具合)

最初の所から暫くは掘割状のちゃんとした山道。しかし、200mほども上ると、倒木が転がる谷に道は消えています。
必死で目を凝らし道の痕跡を探しますが見当もつきません。下りならともかく、上りの道跡を探し当てるのは極めて困難です。
もうこうなりゃ樹に掴まって尾根を目指して強引に上るしかありません。どうにか尾根に達します。目印の送電線と送電鉄塔を探しますが、樹木に遮られて見つかりません。
ここから尾根を右に下れば峠、と見当をつけたのですが、これが誤り。
尾根を徘徊しながら、一度樹間から見えた高速自動車道の位置がどうも変だ・・とは思ったのですが。いつまで行っても峠は現れません。
こういう時には決まって石仏や道標の幻覚が現れるのです。目の悪い私にとっては、現実味のある幻覚です。あった・・、近づいて見ると木の切り株だったり、倒木だったり・・その繰り返し。
もう、我慢の限界です。尾根から上ったとは反対側に下れば、県道46号があることは分かっています。急斜面をジグザグに下ります。木の根っこに足を踏ん張り、手は木の幹を抱えます。
やがて、下方に道が。しかし崖です。出来るだけ勾配の緩いところを探し、最後は木にぶら下がって道に降ります。
暫く足が吊って動くことができません。1車線の簡易舗装の道の上に大の字になって七転八倒します。

舗装道(県道46号)へ出た所

県道46号を歩いて行くと、左側の木の枝に「へんろ道」と書いた札と赤いテープ。これが、先行者が付けた上り口(私の場合は、下り口)。
私が下りた所は、ここより2、300m西のようでした。入口マークの地点から東へ300mほど、地形図にある本来の野井坂越えの入口と思われる地点も確認しました。

満願寺に寄り、お参りします。
ご住職は、旧遍路道に詳しいと聞いています。明日の中道の様子を含め、お聞きしたいと思っていたのですが、ご不在でした。
このお寺、もう数度参っていますが、ご住職にお会いできたことは一度もありません。 

岩松川の畔

蓮華畑

長閑な岩松川の南側の道を歩きます。
明日の泊まりを予約している宿に寄って、荷物の半分ほどを置かせてもらうのです。(翌日はきつい山越えが予想されますので、少しでも荷物を減らしたいのですよ・・)

そして、前にも記したようにバスで平城札所前まで。40番札所観自在寺にお参りします。
本堂前のベンチで、よくお参りしているという地元の男性と長い話になりました。
「この本堂は、コンクリート製ですよね」が始まり。
「そうなんです。昔からしばしば火災でねー。一番最近は私が中学生だっと頃かなー、不注意でねー。それで今はコンクリート・・」話は展開・・。
「老人施設で働いてますが、難しくてねー。早く辞めて四国を歩いて回りたくて・・こうやって、歩きの遍路さんにいろいろ聞いているのですよ・・」
「いろいろ大変でしょうが、仕事辞めると寂しいもんですよ。勤められる内は・・」などと実感のお話をしたものです。

このお寺では、山門が好きです。大工さんが造ったと言われる素朴な仁王さんも。それに山門入ったところの十二支守り本尊八体仏。どこか、インドの香りがする仏さん・・私にはそう思えるのです。

観自在寺山門

観自在寺山門の遍路


観自在寺山門の山号額

山門の仁王

十二支守り本尊石仏

観自在寺境内で

寺から1.5k歩きます。
御荘の宿、磯屋さんには、毎回泊めていただいています。とっても気のいい女将さん。歓待していただきました。
4人の客で定員の小さな宿。今日も満員。後から車で来た大阪の常連の釣り客さんは泊まれません。
車の中で寝ることにして、私の室の隣のソファーで、女将さんと3人、文旦など食べながらお話しました。
この辺りは釣りの本場。この宿の屋号もそうですが、釣り客も多いのです。
45年も釣りをして日本全国回っているそうです。いろいろ専門的な話も出ましたが、釣りに興味のない私は全部忘れました。
「ワシは車ばかり・・日に何十キロも歩く人の気が知れんなー・・」はい、はい、強く印象に残った言葉でしたよ・・。

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四国遍路の旅記録  三巡目 第3回 その4

お船遊びの宮での感動     (平成22年3月22日)


浦ノ内湾の朝

今日は、この度の遍路の区切り日。
須崎まで歩き、14時過ぎの電車で四国を離れる予定です。
お参りする札所はありませんが、二つの神社に参ります。

横浪三里と言われる浦ノ内湾北岸の道を行きます。

7k歩くと、浦ノ内出見の花山神社(花山院廟)です。神社前には「ひだり へんろみち・・」と刻んだ天保10年の道標もあります。
この神社、本殿と拝殿を持つ正式な様式を備えているのですが、建物の周りは波板鉄板で覆われ、ちょっと哀れな状態なのです。
さて、へんろ道保存協力会編の「四国遍路ひとり歩き同行二人(解説遍)には「南路志」を引いて、花山天皇(10世紀、第65代天皇)の位牌を安置した所で、江戸時代までは寺(春日山阿弥陀寺)で、古くから番外霊場として多くの遍路が参詣した・・とあるのです。(「南路志」原文には、「花山院陵 寺門前ニ有、御室と云。院が土佐に来たという証はない。院の忌事の導師を勤めた僧が回向に為陵様のものをつくったのではないかなどと・・御位牌、花山院太法皇尊仁王六十五代御門・・また、位牌の厨子には元禄4年ある比丘の記入とあり、歌も添えられているとも)
江戸初期の真念「四国遍路道指南」は更に展開。「・・此所をいづミ(出見)といふ事、花山院離宮の御時、天気ただならずして都のそら御なつかしく、いくたびか門のほかへ出御なりしかバいづ見と名づく。・・御製、とさのうミに身ハうき草のゆられきてよるべなき身をあはれとも見よ・・つゐには此所にて崩じ給ふとなん。千光密寺に廟碑有。」
「四国遍礼名所図会」(1800)にもほぼ同様の記述。「・・此間に出見村といふ所に花山院廟陵、此所へ流されさせ給ふ御時、終に此所ニて崩じ給ふとなん、千光寺、此寺の境内ニ有・・」と。
花山天皇は第65代天皇で、在位2年足らずで退位、法皇となったと。「大鏡」では退位に関し藤原兼家父子の陰謀を伝えます。花山法皇は、西国三十三観音巡礼を始たともいわれますが、四国土佐との縁は、歴史的事実として確認されていないようです。
この地には、古くから花山院に関わる伝えがあったのかもしれませんが、あるいは、真念が南路志の記述(伝え)を誤って解釈し「道指南」の記事にした・・とも考えられないことはありません。いや、はや・・。
霊場の由緒というものが、いかにして形成されるのか・・微妙で危うい問題を含んでいるように思えます。
そういう背景のもとで、この花山神社にお参りするのは、ちょっと複雑な気持ち・・
でも、ここには既に多くの霊が宿っていると考えられなくもないのではないでしょうか。この神社を守ってきた人と、多くの参拝者の思いという・・。
                                 (以上「花山神社について」改記)




花山神社

現在の道は、浦ノ内トンネルを通りますが、神社のある春日から立目に通ずる山道の旧道があったと聞いています。
神社の横の道を直進すると、道は山の中に続いている気配。でも、草木に覆われています。

浦ノ内湾に沿って7k行き、湾の最奥、浦ノ内西分へ、宇佐からの横浪スカイラインを逆に歩き3.5kで浦ノ内東分へ、ここから湾岸沿いの道を1k、鳴無(おとなし)神社に参ります。
この神社、以前からどうしても参りたいと念願していました。
スカイラインから神社への道を分岐する所で、遍路に会います。
朝、青龍寺下の三陽荘を出て、スカイラインを歩いて来たといいます。
「逆打ちですか・・」と聞かれるので、「いやいや、この先の神社へ、物好きですから・・」と言い訳。

もう先ほどから、海辺に赤い鳥居が見えていました。
鳥居を潜り、小さな岬を回れば、そこには鳴無神社がありました。
期待に違わぬ清々しさと、目と心に融け込む色と形で・・。
奈良時代の創建とも、土佐一宮土佐神社の元宮とも伝えます。
現在の社殿は1663年の再建。切妻造、杮葺き、本殿、幣殿(へいでん)、拝殿の造り。いづれも国重文指定。
特に本殿の極彩色の紋様には、眺めれば心奪われる思いです。
古くよりこの神社の神事として始まり、浦ノ内湾いっぱいの賑やかな「お船遊び」は全国にも名高いものになったといいます。(このお船遊び、づっと簡略化された形でしょうが、今も8月の終りの夏祭りで再現されています)
平安時代の歌人藤原家隆が京の都より、お船遊びの様を想い浮かべ詠んだ歌が、拝殿横の石碑に刻まれています。

「土佐の海に御船浮べて遊ぶらし、都の空は雪解のどけき」


鳴無神社の鳥居


鳴無神社拝殿


鳴無神社本殿


鳴無神社本殿


鳴無神社本殿

真念「道指南」には、この鳴無神社についても記されています。
しかし、花山神社の項と同様やや疑わしい記述。
一条天皇(第66天皇)がこの地に滞在し詠んだ歌が記されています。
幡多(現在の四万十市)と縁の深い一条関白家との混同があるのかもしれません。

さて、神社でお参りしていると、境内の掃除に来ているらしいおばあさんから、みかんとアメのお接待を戴きました。
「ワシも車で3回も廻わちゅうよ・・高野山にも行っちゅう。ああ、広島から・・うちの孫も広島におったことがあったがやか・・」
遍路道を外れた所で、こんな心の籠ったお接待を受けるとは・・。
合掌してご健康をお祈りさせていただきました。

ここから須崎まで、まだ13、4kはあるでしょう。今日は朝からもう17、8kは歩いています。腰が痛くなって変な格好でゆっくり歩いていたら、50前の遍路が追いついてきて「だいじょうぶですか・・」 その先の須崎のへんろ小屋で休みます。
もう一人遍路が休んでいます。
「おーどこかでお会いしましたね・・」昨日宿から先の道を歩いているとき、道端に座って挨拶を交わした人。
「今日で打ち止め、須崎で乾杯だよ・・。明日富山に帰る・・」
「あー、いいですねー。私も打ち止めだけど、すぐ電車に乗りますよ・・」
須崎の観音寺の前まで、50前遍路さんと同行。
それから駅への道を間違え、巨木の積み込み作業中の埠頭でオロオロ。
間に合うか、ちょっと焦ったけれど、須崎駅には14時15分着(発車13分前)。
連休の最終日で満員の電車に乗り込んだのでした。

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四国遍路の旅記録  三巡目 第3回 その3

昔の霊場、今の霊場      (平成22年3月20日)

竹林寺は昨日お参りを済ませていますので、宿より直接禅師峰寺に向います。
竹林寺から禅師峰寺への道は、へんろ地図では下田川を越えて県道247号を南下する道ですが、昔の道はどうであったのでしょうか。
真念「道指南」によると、「・・川有 舟わたし→下田村→坂→十市村→すこし坂・・」の手順となっています。
県道247号の東側にある、団地を通って十市小学校に向う道がそれに近いように思われます。この道をゆきます。
十市小の前を通過すると、山際に遍路道の標示があります。
ちょっとした山道(標高50mほど)を登ると、へんろ石も残っており、広い墓地の中に出ます。墓地の中を進むと、すぐ禅師峰寺の門前です。
32番札所禅師峰寺。 
地元ではこの寺の名前を言っても「えっ・・」と問い返されます。「峰寺(みねんじ)」なのですね。
それと、禅師というから禅宗のお寺と思いがちですが、禅師というのは昔は辺路修行をする人のことをそう呼んだのだそうですね。

追記「峰寺とその奥院について」
八葉山求聞持院禅師峰寺。開基は行基菩薩、本尊十一面観音、鎌倉時代の立派な二王を有します。院号に示すように弘法大師が虚空蔵求聞持法を修した所と伝わります。

二巡目の日記(二巡目 第3回その2)に記したように、寺では奥院は介良の岩屋観音堂であると言われます。しかし「南路志」には「・・当山の西、石土の神社の側に福蛇毒蛇の二穴有、往古、毒蛇の穴より火災出て一山是が為に焼失す。・・」とあり他に奥院の記述はありません。
寂本の「霊場記」にも同様の記述があります。(寺の五町ばかり西に石土山(今は丸山とも云う)、石土神社があり、丸山という地名も残る。)
五来重は、石土神社傍の龍穴が奥院であると判断しているようです。(「四国遍路の寺」)



禅師峰寺

禅師峰寺より種崎の渡船場までは6k。
へんろ地図にフェリーの時刻表は載っていたのですが、ついつい見落とし、渡船場に着いたのは9時30分。次の発船は10時10分。
仕方なく待っていると、ちょうど良い時間に、昨日も出合った大阪のAさんがやってきて「やあー、やあー」。さすが。
次の雪蹊寺までかけ連れとなりました。Aさんは山登りが趣味、34番くらいまで歩いて区切り、高知に戻り高速バスで帰宅するとのこと。

33番札所雪蹊寺。こここそ臨済宗のお寺。88ケ所霊場の中では2ケ寺の内の一つです。
失明に近い眼病ながら17回の遍路をし、何回目かに目が開いたと言われる名僧、山本玄峰住職は特に有名です。山門の左に胸像があります。
次の種間寺までの道は、特に山際の道を歩くとき、見事な桜に出合ったり、古いへんろ石があったり趣のある道です。
ああ、懐かしいお地蔵さん。秋にはこの周り彼岸花がいっぱいだった・・。


山の桜





懐かしいお地蔵さん

34番札所種間寺。
今は平地にある寺ですが、寂本「霊場記」の絵図を見ると、本堂は山上にあります。山号の本尾山の山頂ということ。
この本尾山というのは、現在の種間寺と海岸との間にある山です。寺は東向き、参道の前に川、これが新川川、そして山の下の朱雀院の位置が今に残る本尾山奥の院に当てはまるのではないか・・と想像されます。
さてさて、当たっているでしょうか。そうだとすると現在の種間寺より3kほども南東にあったということになるのですが・・。

種間寺門前名物のアイスクリン屋さん。今回はお会いできませんでした。ちょっと気温が低いから、まだお休みかも。

新川のめがね橋


仁淀川を渡る


仁淀川

春野町新川のめがね橋を見て、仁淀川大橋を渡り土佐の市街に。
今夜の宿ビジネスホテルに荷を置いて清滝寺にお参りします。
仁淀川を越えて清滝寺に参るルートについて、真念「道指南」にちょっとおもしろい記述がありますので書いておきます。
「・・二淀川といふ大河有。舟わたし、わたしば川上に有時ハ、荷物をかけきよたきへ行。わたしば大道筋川しもに有時ハ、荷物を高おか町にをき、札所へゆきてよし。」 なるほど、親切な案内書であることよ・・。

35番札所清滝寺への登りは短いけれど、けっこうきつい道です。
辿りついた仁王門の天井の龍の絵、今回初めて気がつきました。
境内は桜も咲き始め、本堂裏の山つつじも一際美しく感じられます。
お参りは全部車の方のよう。歩き遍路には会いません。
本堂向拝の下、不思議なものに気がつきました。方位盤でしょうか。
天候は急激に下り坂。寺から土佐の街の眺望は全く望めません。

清滝寺山門の龍


清滝寺本堂


清滝寺境内

山道を下ったところで青い作務衣を着た遍路に会います。
前山へんろサロンのバッジを二つも付けている・・ベテランらしい。
「種崎の渡し、何時に乗りましたー、歩きへんろいましたー・・」「あーそー、私より一便前ですなー、歩きへんろに全く合わないので不思議に思いましてねー・・」
私も同感、歩き遍路は例年に比べづっと少ないという印象ですね。



青龍寺に上る山道で     (平成22年3月21日)


黄砂の朝

すざましい声をあげていた夜来の風は、まだ止む気配もありません。
それに、天気は良さそうなのに、窓の外は何やら霧のようなものが覆っていて変な様子。
昨夜、今晩の宿を予約したのですが、26k先の宿は電話不通、18k先の宿は満員、仕方なく15k先の宿になってしまったのです。前回もここはこんな具合だったような。この辺は宿探しの鬼門かもしれませんな。

外に出て見てニュースを思い出しました。これは中国からの黄砂です。太陽もまるで朧月です。
風も相変わらずだし、陰気な雰囲気。
4kほど歩くと、塚地峠の入口。休憩所があります。
屋根の下にテントを張った人、ベンチで野宿した人、休憩所は荷物でいっぱい、座る所もありません。
仕方なく休憩なしで、そのまま山道へ。
塚地峠は標高190m、それほど急坂でもなく気持ちの良い山道です。ただ峠からの眺望は今日に限ってダメです。

塚地峠への道

塚地峠

峠を下り宇佐湾沿いの県道に出れば、宇佐大橋は目の前です。
さて、また寄り道を・・。土佐市街から宇佐までのこの道、昔からの遍路道なのでしょうか。
真念「道指南」では「・・井せき村(井関)、此間小川有(波介川)、つかち村(塚地)、宇佐村・・」とありますから、ほぼ現在の塚地峠越えの道でしょう。
しかし、それより30年前、澄禅「遍路日記」では、清滝に参ったあと、渡しのある仁淀川の河畔まで戻って、新村という所から「浦伝ニ一里往テ福島ト云所ニ至ル・・」とありますから、海岸伝いで宇佐に行ったようです。

笠を必死で抑えて、強風の宇佐大橋を渡ります。
この先の青龍寺への道は、インターネットのサイトでTさんが紹介されていた旧遍路道を通ります。
澄禅「遍路日記」、「寺ヘ上ル事廿五町也。先七八町上テ少シ平カナル所ヲ往テ、又谷エ下ル事七八町、谷ハ平地ニテ田畠在リ、人家モ有。夫ヨリ奥ニ寺在リ。前二方二町ノ蓮池在。是ハ大師御作ノ池ト云。」と大変詳しい。
寺前の池とは今の蟹ケ池のことでしょうか。
また、真念「道指南」では、「いのしり村(井尻)、此所に荷物を置札所へ行。此間りう坂(竜)、りう村(竜)」とあります。
この旧遍路道、真新しい道標も出来ていて迷うことはありません。宇佐大橋を渡った所から右へ450mが峠の入口。標高100mの峠で520m上り、680m下ります。多少荒れた所もありますが、全般に歩き易い道です。
峠には、竜の一本松跡(松の巨木で中学生が両手で六人分あったと書いてある)があり、樹木の間から宇佐湾を越えて萩岬辺りが見えます。幸い黄砂は少し薄らいできたようです。
地元のおじさんにお会いします。
「ワシは毎日歩いちゅうから、腹も引っ込んできたよ・・」と腹を撫ぜます。
峠のすぐ下に一つの墓がありました。
日向国那珂郡小内海村 代右衛門 天明4年5月・・とあります。
あとでちょっと調べてみました。宮崎市の南、日南市との境に小内海という所があります。ここの代右衛門さんは遍路に来てここで亡くなったのでしょうか。

旧遍路道の標式


峠前の道から見える宇佐大橋


峠からの眺め

峠の墓

峠を下った所は、もう青龍寺の参道近く、六地蔵や四国88ケ所本尊石仏が並ぶ道です。
峠越えの所要時間は、ゆっくりで35分でした。
余談ながら・・。この日の夜、宿でこの道のことを話しましたら、同宿の修験系のお坊様に、どうせ大した道じゃない・・とバカにされました。健脚の専門家は得てしてそうです。困ったものです。


青龍寺参道の石仏


青龍寺本堂

奥の院不動堂

36番札所青龍寺。
長い石段を上ってお参りします。本堂の横から少々山道を上り、スカイラインを越えて奥の院不動堂へも。ここ靴を脱いでのお参りです。
不動堂の後は崖で樹の間から覗くと遥か下、波が騒ぐのが見えます。

(追記)独鈷山青龍寺について
「四国遍礼霊場記」には「・・大師もろこしにて投ふ独股杵此山に留りあるが故に、独股山といふなん・・堂より四町許西に奥院といふあり。九尺四方の石龕あり、不動の石像長六尺大師の御作なり。」とあります。
この辺り三つの山があり、今は独鈷山に奥の院、如意山に寺(青龍寺)、摩尼山に庫裡、客殿があります。元々は独鈷山の不動堂が札所であり、摩尼山の麓に本坊があったといわれます。
奥之院の南の断崖の下に青龍窟があり、ここは昔からの修行の場。やがて如意山中腹、そこにあった薬師堂(光明法寺)、鎮守の白山権現を横に移して不動明王を祀る本堂が移ってきます。大師堂もまたここに建立され(江戸時代以降)今に見る青龍寺の形態になったといわれます。それは修行の場所から詣でる場所への変化を物語っているのかもしれません。
また、青龍寺より次の札所への行道は、江戸期の案内書、日記に共通して、井ノ尻までもどり横波への間、舟で行くのが常であったことが伺えます。澄禅も「・・是ヨリ三里入江ノ川ノ様ナル所ヲ船ニテ往也。陸路モ三里ナレドモ難所ニテ昔ヨリ舟路ヲ行也。・・」と記します。(参考文献:五来重 「四国遍路の寺」、他)


 四国遍礼霊場記 青龍寺
                              (令和5年9月追記)


宇佐への打ちもどりは、海岸の道を通ります。
またまた、強風に笠を飛ばされないよう抑えるのが精一杯。
その夜、宿で件のお坊様にこの話をしたら、「私らの網代笠はしっかり出来ていて・・」と、またバカにされ申した・・。

宇佐町福島の宿の前に着いたのは、午後1時よりも前。
ひとまず荷物を置かせていただいて、ちょっと目的もあって、先の道を歩こうと思っておりました。
女将が出てきて、昼飯がまだなら近くの食堂まで主人に案内させると言って聞かない。私は昼食はどっちでもよかったのですが、ご主人の軽トラで食堂まで。
食事を済ませて歩きます。
実は浦ノ内灰方の奥の土居山から浦ノ内塩間の高祖へ通じる山道の旧道があると聞いていたもので、それを探りに・・。
3、4k歩いて、土居山の畑で働いておられる、おばちゃんの邪魔をして道の様子を聞きます。
「うーん、確かに昔は道があったちゅうけど、今はだーれも通りゃーせん。最近は猪がでて道を荒らしちゅうし・・通れんと思いますよ・・」
目の前に峠が見えていて、高さも100mくらい、行って行けないこともないように見えますが、まあ、カマでも持ってないと無理かなー、と諦めたのでした。

宿に戻る道、ケイタイが鳴ります。宿の女将で、また主人にお迎えに行かせるという。いやいや、ご親切なことです。勝手に歩いてるというのに・・ね。

その夜のことは、ちょっと理由があって書きたくありません。えっ、もういくらか書いてるって・・。


浦ノ内湾夕暮れ

追記「江戸期土佐の大道、灘道について」

江戸期各藩において道の呼び名は統一されたものは無かったようですが、土佐藩いおいては「大道」と呼ばれた主要道と「山道」あるいは「小道」とよばれる山間の道があったと思われます。
また、大道の山側あるいは海側にある小道を「灘道」と呼んでいたようです。「南路志」ではこれらの道が記されていますが、そのうち東から西へつななる「大道」と「灘道」についてここにまとめて示しておくことにします。
道には渡る川や橋が示されており、その所在を測れます。なお(カッコ)内の記述は現代の呼び名です。
大道
・甲浦より野根迄 弐里半 此道阿州宍喰江出る半道有、白濱橋、河内川
・野根より奈半利川迄七里、皆坂也。 野根川 水出ニハ一両日モ渡なし
・奈半利より安喜(安芸)迄四里、奈半利川水出ニハ船渡り 安田川、名村川、伊尾木川、安喜川(安芸川)
・安喜より岸本(加賀美町岸本)迄四里
・岸本より高智(高知)迄五里 赤岡川(赤野川)、物部川水出ニハ渡なし、金丸川(香宗川)小橋あり、布師田橋、此嶋橋、山田橋
・高智山田橋より蓮池(土佐市蓮池)迄四里 鴈切川(鏡川)水出ニハ船渡し、海老が橋、二淀川水出ニハ渡なし
・蓮池より須崎迄五里、分切(フンキり)橋、戸波東渡水出渡あり、市野々渡水出渡有、土崎川水出渡有
・須崎より窪川迄七里、須崎川水出舟渡、久礼川無渡、日柄だ川無渡、平越枝川水出渡なし、かと屋坂廿七町、やけ坂拾七丁、そへみみず坂壱里、よふ坂五丁
・窪川より井田(伊田)迄六里、小黒川水出舟渡、佐賀川水出舟渡、片坂六丁、たかみこ坂壱里十丁
・井田より中村迄四里、川口川水出舟渡、入野川、佐岡枝川水出舟渡、入野大坂三十丁
・中村より宿毛迄六里、中村川水出舟渡、有岡枝川水出船渡、宿毛川水出船渡
・宿毛より大深浦境目迄壱里半、豫洲領小山村江出ル、
〆て 五拾六里
灘道
・甲浦より野根迄 弐里半、 白濱川、河内川、(元越の道か?)
・野根より崎濱(佐喜浜)迄四里、牛馬不通、野根川、崎濱川(山越の道か?)
・崎濱より奈半利迄拾壱里、牛馬不通、窪津川、吉良川(東ノ川)、吉良川西渡(西ノ川)、羽根川、須川
・奈半利より安喜(安芸)迄四里、奈半利川、安田川、安喜川、名村川、伊尾木川
・安喜より岸本(加賀美町岸本)迄四里、窪内川、赤野川、和食川、夜須川
・岸本より新居(土佐市新居)迄八里、古川、物部川、浦戸湊口、甲殿川、新居川口(仁淀川河口)(海岸の道)
・新居より須崎へ六里、土崎川
・須崎より上加江(四万十町上ノ加江)迄五里、須崎川、久礼川
・上加江より与津(四万十町与津地)へ五里、牛馬不通
・与津より入野へ七里、佐賀野川、川口、入野川
・入野より下田へ三里、
・下田より下茅(下ノ加江)へ四里、下田川(四万十川)舟渡し
・下茅より足摺へ六里、三原川 (遍路道)
・足摺より清水へ三里、清水渡舟渡し(遍路道)
・清水より頭集(大月町頭集)へ七里、三崎川、川口(往還道)
・頭集より宿毛へ六里、福良川、湊浦川口、宿毛川口 (遍路道)
・宿毛より藻津(宿毛市藻津)へ三里、 豫洲北山(小山?)村へ出る。
〆て 八拾七里半

 

 

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四国遍路の旅記録  三巡目 第3回 その2

絵金蔵での驚き     (平成22年3月18日)


下山付近の海

今日は風も収まり、海も随分静かです。
安芸市域に入った所、下山の地蔵堂横、ちょっと怖い顔をしたお大師さんに手を合わせ、浜千鳥公園。
そこに安芸市出身の作曲家弘田龍太郎の浜千鳥の歌碑があります。
休憩させていただいたし、この風景にあまりに相応しいので書いておきましょう。

「青い月夜の浜辺には 親をさがして鳴く鳥が 波の国から生まれ出る ぬれた翼の銀のいろ」(鹿島鳴秋詩)


浜千鳥公園から


大山付近の海

まだ開いていない道の駅大山を過ぎると、3kほど防波堤の上を歩きます。
通りには人気がなく、何処となくよそよそしい安芸の市街を抜けると、国道と浜の間に延々と続くサイクリングロードに入ります。

八流(やながれ)山極楽寺。
簡素な不動堂がひとつ。隣棟はご住職の住まいでしょう、普通の住宅があります。
大師修行の所縁の地に大正13年、一人の僧が寺を開いたといいます。
四国36不動第15番霊場ですが、お寺としては大変つつましい。
でも、私はここが好きです。
この地は海岸から切り立った崖の上。境内の樹間から見下ろせば、岩場に波が打ち寄せるのが見えます。
犬の声が止めば、聞こえるのは波の音だけ。
住職夫妻は庭の畑の手入れに余念がありません。ベンチもありませんから、石の上に座って波の音を聞きながらそれを眺めていました。


八流山から

赤野の栗山英子さんの接待所。今回も寄せていただきます。
心癒される場所です。
接待所の裏、ご自宅の庭から声がします。「お世話になります・・」と声をかけます。

英子さんの接待所

琴が浜の浜辺

その先の道で遍路姿の娘さんと父親にお会いしました。徳島の方。
娘さんの20歳の記念に、土佐の遍路道の中で一番景色がよく、歩き易いこの浜の道だけ一緒に歩くのだそうです。
昔、瀬戸内海の島では、成人前の娘が三、四人連れだって、四国廻りをすることが習わしのようになっていたと聞きます。(この話、宮本常一の「忘れられた日本人」にも出てきますね。)成人への一つの通過儀礼ですね。
お若い父親、そういうことをご存じかどうか知りませんが、ちょっと過保護のような気もします。
「それは、いいことですね・・」
いろいろご事情もおありでしょう。それ以上は何も申しませんでしたがね・・。

香南市の赤岡に入ります。
ここの絵金蔵(えきんぐら)にはぜひ寄りたいと思っておりました。
「絵金蔵」とは・・?絵師金蔵、略して絵金。もと、土佐藩の御用絵師でしたが、贋作事件に巻き込まれて城下追放となりこの赤岡に定住して、多くの屏風絵を描いたといいます。
この絵金蔵には、そのうち町内に残された23枚の絵を保存しているのです。
場所は遍路道のすぐ傍。町も観光の拠点として力を入れているらしく、案内板もあちこち、町の人に聞いてもすぐわかります。
荷を置いて、絵金蔵の中を拝見します。
六尺豊かな大男であったという金蔵。展示された絵や模写から金蔵の執念のようなものが迸り圧倒されます。倒錯と修羅の世界でもありましょう。
ただ、私が想像し期待した、錦織りなすような光輝く世界、その時代の情感と分厚い色は、十分には覗えなかったようにも思いました。私の過度の期待でしょうか。
しかし、毎年7月の第3週の土日に開催されるという絵金祭り。
その夏の宵、商店街の軒先に姿を現すという屏風絵。
賑わう人々の歓声とともに見れば、思いもよらぬ情感の世界が醸し出されるのでなないか・・と夢想させられます。祭りの日、一度は来てみたいものです。

絵金蔵

雨が降り出しそうな空模様。大日寺への道を急ぎます。
28番札所大日寺。
行基が開いたとされる古刹で、この寺も明治の神仏分離で廃寺、明治17年に再興されたといいます。
本堂より200mほど、大師が楠の立木に爪で薬師如来を彫ったと伝える霊木を祀った奥の院、爪彫薬師堂にもお参りしました。

(追記)「爪彫薬師」について
爪彫薬師堂について「南路志」には次のような記述がある。(意訳)

「楠一本、薬師の像、生木に大師が彫刻したと伝わる。今は枯れて像も見えないが、巡礼等は薬師と唱え礼拝している。」


 大日寺

地蔵堂でのお勤め

奥の院、爪彫薬師堂



松本大師堂・へんろ小屋前の甚兵衛桜     (3月19日)

物部川

大日寺の門前の宿を出て、少し肌寒い朝の空気の中。
物部川の橋を渡り狭い田圃の中の道を1kも行けば、松本大師堂の前です。
私は3年前の10月、同じ道を歩いて、四方から鉄パイプで支えられて辛うじて立っている朽ちた大師堂を見ています。(四国遍路の旅記録、2巡目第3回その2、H19.10.11) 
札所寺の立派な建物とのあまりの格差。遍路道を含む四国霊場とは何だろうか・・。多くの矛盾に悩まされたことを思い出します。
その後、地元の有志の方々の発案、「四国八十八ケ所ヘンロ小屋プロジェクト」の皆様の協力で、大師堂とへんろ小屋を兼ねた形で復興されたと聞いていました。
ほんの少しの高さの丘の上に木の色も鮮やかなお堂が見えてきます。
それは、実に見事に再建されていました。
大師堂の前に小さな集会場のようなへんろ小屋が付けられています。まるで、お大師さんの前に集まって、お声を聞き皆で話し合う・・そんな空間のように。
感動を持って合掌し、ご宝号を唱え休ませていただきました。
お堂の傍の甚兵衛桜はもう少しで開花しそうだし、並んだ石仏さんのお顔も見られるこの小さな広場もまた、限りない懐かしさを呼ぶ、素晴らしいものでした。

松本大師堂・へんろ小屋

大師堂前の石仏

甚兵衛桜のもと

国分寺への道は、溜池の傍だったり、田圃の中の道だったり、街の中だったり変化に富んでいます。
名物といえば、まあ、へんろ石饅頭が第一というところでしょうかね・・。

 田圃

 溜池

 田圃の中の道

国分寺山門

 国分寺

 
国分寺
29番札所国分寺は、杉苔の美しいしっとりとした境内。
何といっても杮葺きの屋根の本堂(金堂、国重文)の佇まいが素晴らしい。
本堂前に、宿で一緒だった青年がいます。
「あれー、どこで追い越されたたっけ・・」 青年は28番大日寺にお参りした後、野市から御免まで電車に乗ったとのこと。これから約40k、35番清滝寺の下まで歩くと言っています。気持ちの良い笑顔です。

国分寺から6kほど、その奥の院毘沙門堂に参ることにしました。今回が初めてです。
県道384号から1kほどしか入りませんが、周りは結構山深い感じ。
緑の水を湛えた池(残念ながら池畔にあるホテルの敷地のようですが・・)があり、その奥に真っ赤な毘沙門堂がああります。お堂の左横に落差30m、二段の立派な滝、毘沙門滝があります。
29番から30番への道すがら、大きな寄り道にはなりませんから、これはお勧めです。池の近くには、運勢を変える縁切り寺と喧伝する龍王院宗圓寺があります。こちらはお好み次第・・。

奥の院毘沙門堂

毘沙門滝

なお、29番から30番への道は、へんろ地図によると2ルートありますが、真念「道指南」によると、今回通った県道384に沿った道が古くからの遍路道であったことがわかります。
ついでながら、当時の30番札所は一の宮、高鴨大明神社神宮寺となっています。現在土佐神社と呼ばれる神社です。
明治以降の30番札所をめぐる混乱はよく知られるところですが、平成6年から善楽寺が30番札所になっているのですね。
善楽寺にお参りし、次の竹林寺へは高知市街の道。三度目ですが、またまた迷いましたよ。
まあ、へんろ地図にはない新しい道が出来ているということもあるのですが、地理音痴はどうしようもありませんなー。
コンクリートの道を迷った末の、五台山への登りは久しぶりの山道。いいものです。近所の40~50代の逞しいお姐さんが、ひょいひょいと軽々登る後姿を見上げながら上るのですね。
ただ、へんろ地図にある登り口の目安、土居酒店よりちょっと手前にももう一つ入口があります。要注意です。
登りきると牧野植物園の中。桜も咲いていて、カメラマンたちの格好な被写体として駆り出されたりします。


竹林寺参道の石仏

31番札所竹林寺。
お参りする度に、この寺の立派さに新たな驚きさえ感じるほどです。
まず、石段が壮大で美しいこと。それにこの季節には桜の花びらが・・。本尊の文殊菩薩を祀る文殊堂(本堂、国重文)、杮葺きの屋根の傷みが少々目立ちますが、それがかえって鄙びた雰囲気を醸し出していますし、昭和55年の再建ながら立派な五重塔には、暫しの仰ぎ見を禁じえません。
お参りの遍路の数も随分多いように感じます。ここに来て遍路が急に増えるということもないでしょうに・・。

竹林寺の石段

竹林寺の石段

五重塔

竹林寺の遍路

竹林寺の遍路

お参りを済ませ山を降りる道で、上ってくる一人遍路に会いました。
「どっかでお会いしましたねー」
そう、28番大日寺の近くですれ違った大阪の人。暫し立ち話。
この人とは縁があって、明日もお会いすることになります。

今夜の宿は、ホテル土佐路たかす。高知市街の遍路道沿いには宿が少ないため、利用される遍路も多いでしょう。
交通量の多い国道32号に面しているため、騒音対策として窓を二重サッシにするなど、気配りに優れた宿だと思います。
竹林寺にお参りしてから宿に行くには、登ってきた山道を下り、目印土居酒店前の道を右折、左手に橋が見える道に左折、そのまま直進すればホテル直近に出ます。

追記「江戸初期の土佐の札所寺社」
四国遍路が修行者の修行の場から一般民衆の巡礼の場へと移行しようとしていた江戸時代の初期、その時代の札所寺社の状況に目を向けることは、その後の四国遍路の変遷にとって重要なことと思われる。ここでは、土佐の札所寺社の江戸初期における状況を、澄禅の「四国遍路日記」(承応2年 1653)より拾ってみることとする。
(なお、他日の日記に記す各寺社の霊場の記述とは重複する所があります。乞御免。)

東寺 山下の海辺にある岩屋、愛満・室満権現(鎮守)、大師修行の求聞持堂、如意輪観音を祀る岩屋など、東寺の霊場の中心となる場の記述の後、山上へ登事八町の地に
「本堂ハ九間四面ニ南向也。本尊虚空蔵菩薩、左右ニ二天ノ像在。堂ノ左ニ宝塔有、何モ近年太守ノ修造セラレテ美麗ヲ尽セリ。堂ヨリ西ノ方ニ寺在、室戸山最御崎寺明星院ト云。寺ハ南向、護摩堂ハ西向也。・・」とある。
津寺 「本堂西向、本尊地蔵菩薩。是モ太守ヨリ再興シテ結構ナリ。」
西寺 「本堂南向、本尊薬師如来。堂塔伽藍・寺領以下東寺ニ同ジ。」
神峰 「本堂三間四面、本尊十一面観音也。・・」
大日寺 「本堂南向、本尊金剛界大日如来。是モ太守ヨリ近キ此修造有、・・」
国分寺 「本堂東向五間四面、本尊千手観音也。・・寺領三百石、寺家六坊有リ。近年堂塔破損シタルヲ太守ヨリ修理シ玉フ。」
一宮 「・・宮殿。楼門・鳥居マデ高大広博ナル大社也。前太守長宗我部殿修造セラルタル儘也。当守護侍従殿時々修理ヲ加ラルト云。・・」
五台山 「本堂南向、本尊文殊。・・本堂ハ太守ヨリ修造セラレテ美麗ヲ尽セリ。塔ハ当主宥厳上人ノ造工ナリ。鐘楼・御影堂・二王門・山王権現社、何モ太守ノ願ナリ。・・」
禅師峰寺 「本堂南向、本尊十一面観音、二王門在リ・・」
高福寺 「本尊薬師如来。玄関ノ方丈ノカカリ禅宗ノ寺立テ也。・・」
種間寺 「本堂東向、本尊薬師。是モ再興在テ新キ堂ナリ。
清瀧寺 「本堂南向、本尊薬師如来。是再興有テ結構也、・・寺中六坊在リ。・・」
青龍寺 「本堂東向、本尊明王也。・・寺ノ後ニ堂ヨリ丑寅方ニ独鈷岳トテ在、・・頂上ニ不動堂在リシガ先年野火ノ余焔ニ焼失シタリ。然ヲ本堂再興ノ時、太守ヨリ仰付ラレ、不動ノ石像、同石堂ヲ立テ其内ニ安置セリ。」
新田ノ五社 「南向横ニ双ビテ四社立玉フ。一社ハ少高キ所ニ山ノ上ニ立、何モ去年太守ヨリ造営セラレテ結構也。・・」
足摺山 「・・今ハ十二坊在リ、寺領百石也。・・本堂南向、本尊千手観音也。・・鎮守熊野権現社在リ、西ニハ薬師堂、役ノ行者堂・宝蔵在リ、東ニ塔在リ。鐘楼・二王門ノ掛リ中々大伽藍也。」
月山 「・・山頭ニ半月形ノ七尺斗ノ石有、是仏像ナリ、御前ニ二間ニ三間ノ拝殿在リ。下ニ寺有、・・」
寺山 「本堂東向、本尊薬師、二王門、鐘楼・御影堂・鎮守ノ社、何モ此太守ヨリ再興在テ結構ナリ。」

以上の如し。阿波と伊予の札所寺社の江戸初期における荒廃が著しいことに比べ、それは見事に維持されていたことが伺えます。これは、土佐においてはそれまで長曾我部氏の領地として他国の侵略を受けることが無かったこと、二代藩主山内忠義が野中兼山の起用による藩政の改革・殖産を行うとともに、社寺の修築、造営を推進したことが大きく影響したと考えられています。




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