四国遍路の旅記録  三巡目 第5回 その5

六部堂越えに挑戦  (平成22年10月7日)

今日の宿を予約する際、宿の主人に、通れるかどうかわからないが旧遍路道の六部堂越えを探り、うまく行けば樅ノ木か宿の前の道に降りれるかもしれないと伝えておりました。
その時はそんな道は聞いたことがないと言っていましたが、その後地図を調べて、確かに地図には存在して宿の前の道に下りれるかも・・と電話をしてこられた。
私は通れなければ上畑野川あたりまで戻り、タクシーで宿に行くか、あるいは早い時刻であれば、河之内から北に道をとり皿ケ嶺に登り宿のあたりまで下りることまで考えていました。皿ケ嶺の登山道が通れることは多くの登山レポートで確認済みでした。

霧の遍路道で

県道12号から遍路道へ


八丁坂への道

八丁坂上

八丁坂の仏

岩屋寺への道

岩屋寺への道

岩屋寺への道

久万の宿から県道12号を基本に、遍路道は総て通り岩屋寺に参ります。旅行村の前を過ぎ右の山に入る遍路道は、以前通った時より階段が増えよく整備されていました。
八丁坂もそんなにきついとは思いませんでした。むしろ、岩屋寺の近くの下りの道、セリ割禅定の辺りの方が気を遣う道です。でも、八丁坂からそこまでの山道には1丁毎に舟形の石仏丁石が並んだとてもいい道です。石仏の数は数えた訳ではありませんが、二十以上はあったでしょうか。
セリ割禅定を過ぎると仁王門があるものの、すぐ大師堂、本堂(不動堂)となり、参道としてはちょっと不自然な感じも。古岩屋を経て直瀬川沿いに行き下から長い坂を上る参道(多くの車遍路が辿る道)とどちらが正しいのか戸惑います。
昔はどうか・・八丁坂の下に立って真念は「左右に道有、右よし・・」とし、澄禅も右道を行っています。どちらでもいいけれど、八丁坂の道が好まれたようです。

岩壁の仏

セリ割禅定

 岩屋寺

45番岩屋寺。巨大な岩壁を見上げ、その雄大さにも、参道の多くの石仏にも感動する寺です。本堂(不動堂)の上の岩窟には昔、仏像あるいは空也像が祀られていたといいます。この辺りには多くの岩窟があり、それらを繋ぐ道の形跡があるといいます。岩窟を巡って祀られている仏を拝む行動があったのだと五来重博士は言っています。


岩屋寺の千体地蔵


岩屋寺の千体地蔵

岩屋寺の千体地蔵

岩屋寺からは直瀬川沿いの遍路道を通って、古岩屋荘の所に出て、来た道を逆に辿り上畑野川河合の住吉神社の前にでます。そこを右折、六部堂越えの道に向います。
出合う人、車ごとに声を戴きます。始めは例によって「道まちごーとるよー」からですが、六部堂越えと聞くと、通れない7分、ひょっとしたら通れる3分というところ。
明杖の最後の商店の前では、しっかりお接待までいただき、行くしかないという気分に・・
河之内から皿ケ嶺キャンプ場を経て東温市に向う道を右に分け最後の民家の前。ご主人と話をします。
「昔は皆んなこの峠を越えて、東神や三坂へ行ったもんや。何せぐるっと回るよりづっと近いからなー・・昔の遍路道だよ。ちょっと下がった所にへんろ石も残っていると思ったが・・」
「今は峠道に竹が密生しとって通れん。猪の罠を仕掛けに入ったことがあるが、斜面をづっと遠回りすれば行けないこともないが・・」と明らかに通って欲しくないといった表情。
でもまだ林道風の道がかなり続いている気配。行けるとこまで行ってみる覚悟。
「無理なら戻ってきますよ・・」
更に進んだ作業小屋の前で軽トラが追い越して止まります。
降りてきたのは何と今日の宿の主人。「いやいや、どうも、どうも・・」声もしどろもどろ・・
折角車で来ていただいたのだからと行ける所まで進みます。
木材の伐採小屋で林道は終り。途中左に分ける山道がありましたが・・
もう目の前に峠は見えています。3、400mというところでしょうか。
峠には皿ケ嶺の登山道が通じていることは分かっています。そこまで行けば、宿の前の道に下りるのは容易でしょう。ひょっとすると登山道からこの伐採小屋が見えるかも知れません。
いつの日か反対側から挑戦してみたい気持ちに駆られます。
今日はもうこれ以上危険を冒す気にはなれません。後事を宿のご主人に任せ、宿まで車で帰ります。

河之内の集落

木材伐採小屋、ここまで・・

無念な結果の六部堂越え道探索でした。
宿の主人、最近結婚されたと聞いていました。宿には若く可愛い奥さまが、きっと・・でもプライバシー、これ以上は書くことは控えておきますね。

宿のご主人夫妻のお見送り



三坂を下って松山まで (平成22年10月8日)

もう峠にほど近い宿を出て、松山まで続く郊外の寺に参るため三坂峠に向います。宿の裏山に主人が開いた遍路道を上りながら振り返ると手を振る二人の姿がありました。


三坂峠より


もう雨が忍び寄っています。峠からの眺望は茫として霞んでいますが、その昔から久万の厳しい山を越えてきた遍路にとって、此の峠からの眺めがいかに感動的なものであったか・・真念の「道指南」では松山を望む挿絵とともに、珍しく感傷的な記述のある部分です。少々の意訳を加えて記せば・・
「西明神村行きて坂有り、見坂と名ずく。この峠より眺望すれば、千歳寿く松山の城堂々とし、願いは三津の浜に広々たり。青い波立つ遥かな海、間に丹生川、伊予の小富士、駿河の富士のごとし。興居島、島山、山島、数々の出船釣り船。やれやれ、さてまず、たばこ一服。・・・」

山道も深い霧でした。やがて刈り入れの終わった田圃やまだ黄金を残した田圃や・・
土手の斜面にはまだ彼岸花が咲いていましたよ。

 田圃

土手の彼岸花

黄金の田圃

坂本屋の前の道

坂本屋

道は昭和の始めまで休憩、宿泊の場として賑わったという坂本屋の前に。
最近修復されたこの建物は、今は時に接待の場ともなるようですが、今日は閉められたまま。
「旅人のうた のぼりゆく 若葉かな」
旅した子規がこの辺りを詠んだ句碑が近くにあります。句のなかの「うた」は遍路の詠う御詠歌であったとも。
三坂峠から大師の網掛石のあたりまで、江戸時代末の遍路墓が多くあります。中には昭和30年代の遍路墓もあるということですが。
やがて46番浄瑠璃寺。
ここでも門前の子規の句碑「永き日や衛門三郎浄るり寺」に迎えられます。
ここから1~3kごとに47番八坂寺、別格9番文殊院、札始大師堂、48番西林寺と札所、霊場が続きます。雨が激しくなってきました。詳細は略して余談のみ記しておきましょうか。

 お祭り

八坂寺を出て池(土用部池)を回り込むように進み田圃の中の道に右折しますが、その土手下に愛媛県最古の道標があります。「(手印)右遍ん路道、貞享二乙丑三月吉日法房」高さ1m少々のもの。江戸時代初期1685年のものです。
札始大師堂の近くで聞いた話ですが、昔(昭和の初め頃か・・)は大師堂に納められた納札を竹に挟んで田圃に差し豊作を祈願したとか、もらった納札を軒先に張った縄に吊るして魔除けにしたとか・・遍路に対する信心の篤い地であるのです。

 西林寺

浄土寺前のGさん

 浄土寺

西林寺の先で高知のAさんに会います。話していると後ろからアメリカ人女性Gさんが来ます。
Gさんとは三日間連続の出会いです。昨夜は二人とも八坂寺の通夜堂に泊まったとのこと。
Aさんはこれから自宅に帰るとか。
Gさんに「それにしても遅いじゃない・・」と言うと「ここゆっくりね・・さっきまで1ジカンそこの食堂でおばさんと大笑いしてた・・」 
次の49番浄土寺から石手寺まで、私が先行して寺で待つという形でご一緒しました。
「浄土寺の本堂は素晴らしいですよ」と言えば、実物を見て「この屋根のセンがすばらしい・・」というし「境内では左側を歩くのがルール」というと「ありがとう・・」と素直。
足に気を使っているのもさすが。札所ごとに靴下まで脱いで足を乾かしています。
「ワタシぬれるとマメできるたちで・・」「皆んなそうですよ・・」 
広い境内の50番繁多寺を過ぎ、いつも賑わう51番石手寺へ。雨は強い。
「私はここで終り、気をつけて。これで何かうまいものでも」とお接待させていただいてGさんとお別れしました。

 繁多寺

 石手寺

三巡目第5回の区切り打ちの終わりです。
雨の中、バスを待って松山観光港へ。船で広島へ帰ります。



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四国遍路の旅記録  三巡目 第5回 その4

ほうじが峠を越えて  (平成22年10月5日)

内子から久万の44番大宝寺または45番岩屋寺に行く昔の遍路道は三筋あったそうです。
一つは最も北側、下坂場峠、鴇田峠越えの道です。昔から現在まできっと最も多くの遍路が辿った道でしょう。
二つ目はその南側、小田町突合(現内子町)から分かれる真弓峠、農祖峠越えの道。
真念「道指南」では「・・○川のぼり(川登)村、阿ミだ堂有、○梅津村(現突合の近く)薬師堂○下たど村○地蔵堂○なかたど(中田渡)村。八幡宮。(新田八幡)○上たど(上田渡)村、過て三島明神宮。○うすぎ村、大師堂。○二明(二名)村、爰にかつらき(葛城)明神、行てはしわたり大師堂。過てひわた(鴇田)坂此峠より久万の町、すがう山見ゆ。・・」とあり、一つ目の道です。
また澄禅「遍路日記」も同様の記述がありますが、ただ下田戸(下田渡、現在の突合と思われる)で「・・爰ニテ川ヲ渡リテ東北ノ地ヲイキ、是辺路道也。西ノ地ヲ直ニ往ケバカマカラト云山道ニ往也。・・」とあります。カマカラへの道は西方に山に入って行く道と思われますが、要は真念も澄禅も現在国道380号を通る、二つ目の道については触れていません。当時は道は通じていなかったのでしょうか。
さて、内子から久万への三つ目の遍路道は、二つ目の真弓峠への道を小田町船戸で右折し上川のクボノを経てほうじが峠を越え久万の河口、そして槇谷を上がり45番岩屋寺に至る道です。このほうじが峠越えの遍路道が今に残っているとは思えません。通る遍路も皆無と言っていいでしょう。
ただ、インターネットの遍路サイトでお馴染みのGTさんが地元の人の話を聞きながら、その一部を通られたと聞いています。とにかく、その遍路道だった辺りを歩いてみたいと思い立ったのです。
確実に峠までは行けるルートとして、逆打ち、即ち久万から小田町へ向う道を選ぶことにします。

内子から電車で松山へ。ビジネスホテルに泊り、早朝のバスで久万町へ。ほうじが峠に向う県道211号は久万川に沿った梨の下(なしのさがり)から始まります。
この道、峠までは狭い所もありますが舗装道。一部に県道をバイパスする山道もありますが、県道のルートが昔からの遍路道をほぼ踏襲しているようです。
久万川の支流大川に沿った集落は静かな佇まい。
ふと見ると森陰に五輪塔の墓が並んでいます。墓石が普及したのは、江戸時代の初期、寛永年間と言われますが、その初期に多かったのがこの五輪塔形式の墓であったそうです。
中年の人たちは畑に山に出ていて、道で出会うのは老人ばかり。どの村も多くそうですけれど、この村も長い長い時間、多くの人の思いを刻んできたのだということ気付かされます。

 五輪塔の墓

大川上組の集落

県道をバイパスする山道

ほうじが峠

4kほどで最奥の上組の部落を過ぎ、林間の道を右に左に梨の下から9.5kで至ったほうじが峠。峠は高原風ですが展望はありません。峠標式もなくただ、内子町と書かれた道路標識のみ。
ここより左へ行く舗装道は県道340号となり、国道440号を経て、あの高知県最奥の梼原(ゆすはら)に繋がっています。あの・・ってなんじゃ。そう宮本常一の「忘れられた日本人」の中で特に名高い伝承、「土佐源氏」のふるさとですよ・・ 
脱線ついでにちょっと書いておきますと、「土佐源氏」は昭和16年宮本が梼原のある橋の下で盲目の元馬喰から聞いた話ということなのですね。この橋は竜王橋といって、国道440号が通る梼原の中心部の一つ西側の谷を四万川川に沿って上った本も谷という所にあり、通称竜王宮と呼ばれる海津見(わたつみ)神社の参道にもなっているのです。この神社には、宮本の故郷、周防大島の出身者が多かったという長州大工が刻んだ見事な彫刻が今も残ると言われます。何やら因縁を感じさせる話ですね・・いつの日か訪ねてみたい地です。
更に継ぎ足せば、本も谷のもう一つ西側の谷を上がると、坂本龍馬も通ったという韮ケ峠を経て内子に通ずる脱藩の道なのです・・

さて脱線はこれまで・・私の行く道は右、未舗装の林道。左手の森の中を下る道跡に注意します。峠から大きく左カーブして20mほどに下って行く道らしい地形。笹と草木に覆われていて、入って行く気にはなりませんけど、きっとこれがクボノから峠に上ってくる昔の遍路道の名残りでしょう。他の場所は急坂で崖のような地形ですが、さらに200mほど先、ジグザグに下りてゆく道らしい地形があります。
1k足らずで左に下る林道の分岐に出会います。少し下った所に土木会社の飯場小屋。ここに居た若い人に一応道を聞きます。こういう若い社員は、大抵他地方の人で、自分が通ってきた道以外は全く知らないのが常。この人もそうでした。
ヘアピンカーブを繰り返す林道を下ります。途中左に新しい林道面谷線が開設工事中です。ここも1kほど入って、左手峠の方へ上る道の痕跡を探しましたが無駄でした。
結局、クボノの隣、中畦の集落まで林道を下りました。
ほうじが峠とその下の斜面が見渡せる場所があります。(写真)中央の白い岩は林道面谷線開設で崩した跡、この辺りから左上のほうじが峠に至る谷筋が直登の旧へんろ道ルートではないかと想像します。クボノの集落は白岩の右下です。

ほうじが峠と谷筋

へんろ石と石仏

久保成の集落

ここから小田川に沿って、上川、中川の点々と続く集落中を通って小田の町まで。
上川の久保成に入る所にへんろ石と舟形石仏が数体集められている場所があります。へんろ石には「岩屋寺 三里」と。遍路道であった証しです。
上川の道を歩いていると車体に「内子町」と書いた車が止まります。
「お四国さーん。道間違っとるんじゃー・・」 久万からほうじが峠を越えてきたと言うと、よく通れたものだと驚かれます。「いやいや、林道を下りてきましたから・・」
その先で今度は小型パトカーが止まります。恰幅のいい巡査が降りてきて 「ごくろうさん・・何、ほうじが峠を越えて林道を下りてきたって・・」「クボノの一番上の家には寄ってきたか・・」その家の近くにはへんろ石や石仏が残っているそうだ。久保成にもあったけど知っていれば寄ってきたのに・・とちょっと残念。
いろいろ話をする。「遍路道を復旧しようとする動きもあるんだけれど、いろいろ難しいこともあってなー・・おーそうそう、去年だったかなー、大阪の方の遍路が来てクボノの○○さんの案内でほうじが峠を越えたことがあってなー・・」 
あっGTさんのことだ気付いたけれど黙って聞いていましたよ。この道を通る遍路はほんとに少ないから、知らぬうちに村中の評判になっていることってありそうなことなのだ・・。
逆方向に去ったパトカーは、小田に近づいた所で、私を追い抜いて行きました。
運転席から手を振って・・杖を上げて応えます。

小田川の河畔

 三島神社

中川に県指定の天然記念物「乳出の大いちょう」のある三島神社があります。
三島神社と言えば、下坂場峠の前にも、真弓峠の前にもありますね。内子から久万に至る三つの遍路道、そのいずれにも峠越えの前にこの神社があるのです。興味深いことです。
それから小田川沿いの県道211号を更にあるいて小田の旅館に着いたのでした。


真弓峠を探る  (平成22年10月6日)

小田の宿の同宿は、東京と埼玉の二人連れ(60代、50代男性)、大坂のTさん(70代)。相前後して宿を発ち国道380号を進みます。

国道380を行く

彼岸花の咲く道

日野川のバス停

三島神社の横から上る遍路道でアメリカ人女性(仮にGさん)に会います。学生時代、京都に1年居たとかで日本語もけっこううまい。大きな荷物。通夜堂や善根宿を主体に回っているという。大したものだ・・
大きなフィルムカメラを持っていて写真を撮らしてくれという。その後も油断しているとこっそり狙われた。日本の老遍路は恰好な写材なのかも・・
これから畑峠を越えて下坂場峠、鴇田峠のルートで久万に行くという。
私は真弓トンネルの上の峠道を探ります。新旧二つのトンネルが開通するまで、昔の遍路は当然に通った道ですから・・25000地形図にもその道筋は記されています。わりに最近までは通れた道なのです。
内子側の入口は、トンネル入口を右に戻る道をもう一度カーブした所。少し高いところに作業小屋のようなものがあり、おそらくここが入口。しかし、草木繁茂でとても通行できそうにはありません。
トンネルを通り久万側へ。こちらはトンネル出口を左に戻るように上る林道があり、その途中を右に入った所が峠への入口。こちらの方が道跡らしい状態ですがやはり草木繁茂。峠までの高低差は130m、鎌でもあれば通れないこともない気もするのですが・・
残念ながら峠越えの道は廃道状態と判断しました。

真弓トンネル
真弓峠への道跡(久万側)

父野川の辺りで高知のAさん(50代か)に会います。この人は通夜堂や野宿主体。
今夜は宿に泊ろうか・・と言っているので古岩屋荘の電話をお教えしました。(後で聞くと結局古岩屋荘前の休憩所で野宿したとか。寒かった・・そう)
(追記茶堂について
真弓トンネルからここまで道沿いに立派な茶堂を二つも見ています。Aさんは「地蔵堂に泊まった・・」と言っていますが、私は茶堂だな・・と勝手に思っています。

一間四方の方形のお堂で、三方を吹き抜けとし正面奥の一面に石仏(地蔵、大師、庚申など)を祀る。旧暦の7月、地域の人々が茶を沸かし通行人を接待したことから「茶堂」と呼ばれる。この呼び名は昭和50年代以降のことで、元々「辻堂」とか単に「お堂」とか呼ばれ、江戸時代中期以降地域のコミュニティセンターとしての役割も担ってきたものと言われます。
茶堂は日本各地の山間地に残りますが、愛媛県では遍路道とは外れますが、歯長峠の東方、西予市城川町が特に有名です。

父二峰の三差路で大坂のTさん、高知のAさん、後から東京、埼玉の二人連れもやってきます。軽トラのおじさんが降りてきて、皆にみかんのお接待。

農祖峠の道

三人は農祖峠に向けて出発。
この区切り打ちも8日目ともなれば、足も慣れてきて私はこの3人の中では山道最速です。峠で二人を待ちます。
峠を下って久万高原町の街へ。今日は大宝寺に参り、それから近くの宿に入るのみです。
峠の前の何個所かで見た張り紙のこと、あとで触れます。

菅生山大宝寺のこと

44番大宝寺。樹木に囲まれ山深い、これまた幽玄な雰囲気の寺です。
特にその堂々とした山門には圧倒されます。
四国札所の寺の縁起は、元禄元年(1688)寂本が纏めた「四国偏礼霊場記」に拠っている所が多いと言われますが、それには大宝寺について
「大宝年間、猟師が山中に入り菅草の中に光り輝く十一面観音を見付け草庵を結んで尊像を祀った」のが寺の最初であるとあります。さらにこの像は、百済から来朝した聖僧が携えてきたものとも伝えます。
さらに、大宝寺とその近くにある高殿(こうどの)神社には、様々な不思議な説話が伝わると言われます。
この猟師は高殿神社に祀られていた高殿明神即ち鉱山師明神右京のことであるとも・・さらに空海を高野山に導いたのもこの鉱山師明神右京であったとも・・ (空海と朱(水銀)と高野山、四国各地の朱(水銀)産地と関わりは半ば自明のこと)
霊場記の絵図には本堂を中心に、赤山権現、天神社、三島大明神、耳戸明神、阿弥陀堂、文殊堂、百々尾権現社などが並びまさに神仏習合の様です。

明治7年の大火により多くの堂塔を失い、その後再建され今の姿になったものといいます。(令和5年8月 追改記)


四国遍礼霊場記 菅生山大宝寺図


お参りして納経所の前を見ると、曲がれるだけ曲がった自然木の杖を持った超ベテラン風遍路が、Gさんと話をしています。さっき本堂の前で立派なお経を唱えていた人だ・・Gさんが手を上げる。私も話に入る。大阪の人、「先達さんで・・」「いや、ワシは群れるのが嫌いでのー・・」話してみるとなかなか柔軟なお考えの方。
門前のお店でお茶の接待。「お遍路さんいい笠をしとられる・・」「これはねー29番門前の・・・」と自慢をひとくさり・・

大宝寺山門

大宝寺山門

大宝寺

大宝寺の観音菩薩

ちょっと余談。(この記事全体が余談かもしれんが、まー堅いこと云わず・・)
実は翌日は槇谷の道を通って45番岩屋寺に行くつもりでした。ところが真弓トンネルから久万への道の途中に、槇谷の道は通行不能であるとの張り紙を二ヶ所で見ました。それで八丁坂を通る道に変更したのですが、後で地元の人から飛んでも無い話を聞きました。
内子町のある宿の主人(女将かも)が、国道380号を経て農祖峠、槇谷を経由、岩屋寺への道を通行させず、自らの宿に遍路を泊らせるために仕組んだ細工だというのです。槇谷は実際には通行できると・・。これが本当だとするとちょっと驚くべきことです。
最近のへんろ地図(9版)では、通行可能な千本峠の道も遍路道から消えてしまったとか・・遍路の周囲にも何やら商売のキナくささが匂ってきますね。いやなことです。



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四国遍路の旅記録  三巡目 第5回 その3

雨の中、古き卯之町へ  (平成22年10月3日)

夜は雨音が相当強かった。朝になってもまだ降り続いています。予報は一日雨と・・
宇和島から41番、42番、43番の札所を経て卯之町(宇和町)まで行くつもり。歯長峠からは、高森山、法華津峠を通って宇和に降りることも考えていますが、どうなりますことやら。
宇和島の別格6番龍光院にお参りして石段を下りますとそこに中務茂兵衛の道標があります。
それには「(手印)奥の院和霊社/右いなり」とあります。
昔は和霊神社やその少し先にあるイブキの大木で有名な八幡神社に参る遍路が多かったようです。寛政12年(1801)の「四国遍礼名所図会」には41番稲荷の前に和霊大明神社に参ったことが記され、立派な神社の絵が記されています。
遍路道沿いの泉町にある明治26年の道標には「左遍路道/奈良等妙寺」とあります。この等妙寺という寺は聞いたことがありません。ちょっと調べてみました。
宇和島から10kも離れた鬼北町芝にある奈良山等妙寺のこと。元弘1年(1331)後醍醐天皇の勅願寺となり、遠国の四ケ戒場の一つともなったという由緒ある寺です。1588年焼失、1590年元地より3k離れた現在の地に再興されたといいます。今の遍路は88の札所を限りにお参りすることが多いのですが、昔の遍路はこういう寺や神社にも足をはこんでいたのだということに気付かされるのです。
龍光寺に向う遍路道の途中、中組の先の少し高い所に清水大師があります。この近くの常に枯れることのない湧水地を地元では大師水と呼び大切に守り祀っているといいます。
三間の平野に入る前の窓峠(まどのとう)の左手上に「七度栗」の伝説とともに大師堂があります。このような古くからの謂れを掘り起こしてその地を訪ねる楽しみは尽きせぬものです。(この辺りまで雨が強く写真はありません。)

三間の平野

41番龍光寺

龍光寺から三間の街を

41番龍光寺は明治の神仏分離以前は稲荷神社でした。明治以前の道標はすべて「いなり」となっている所以です。
龍光寺の高みから三間盆地の家並とその間に拡がる、三間米として知られる稲田を眺めると「稲荷」の神が如何に相応しいか、納得させられます。
龍光寺の石段の途中から墓地の間を上がり仏木寺に向います。2,6kほど。

42番仏木寺

42番仏木寺では珍しい茅葺の鐘楼にちょっと驚きますが、何といっても家畜堂があるところが独特です、ミニチュアの牛や馬を奉納し家畜の安全を祈願する寺。ご詠歌も「草も木も仏になれる仏木寺 なお頼もしき鬼畜人天」というもの。
寺の山門を入った途端、すごい勢いで雨が降ってきました。法事の準備らしく、忙しそうな人から「雨だー、たいへんだねー・・」と飴をもらったりして、暫くねばっておりましたが、雨の勢いは弱まりそうにありません。出発です。
でも、予定していた高森山、法華津峠の道どころか歯長峠も諦めて車道とトンネルを通ることにします。楽ですけど何と長いこと・・歩く距離は倍以上にはなっていたでしょう。
下川(これは「しとうがわ」と読むらしい)に下る頃には雨は止んでいました。車道の斜面はゴミの投棄場となっています。嫌な匂いもします。
ここから明石寺への道はかなり複雑。高速自動車道の下を2、3度潜ります。
山の裾にとり付いた細道を行くと、奥の院白王権現の標石があり石と小さな社があります。この石を明石(あげいし)と呼びます。何やら、観音の仏力を持った若い女性が大石を抱えて歩いて行って石を捨てた所が「しらおう」という所だったとか・・
真念の道指南には 「此間明石という大石、これを白王権現といふ、此石には色々しさいあり・・」と勿体つけてありますが。
43番札所は一般には「めいせきじ」と呼びますが、地元では「あげいしさん」「あげしさん」などと呼ぶのはこの由来によっているのでしょう。

43番明石寺

明石寺山門

明石寺は88ヶ所札所の中では珍しい天台宗寺門派の寺。昔は熊野修験の道場として栄えたといいます。森に囲まれた立派な堂宇があり、幽玄な雰囲気を持っています。
寺のお参りの後は、宇和在住のHさんが推奨される松葉城跡の遊歩道を歩いてみようと思っていました。納経所で聞いても全く要領を得ません。仕方なく見当付けて入って行きますが、道は縦横で迷います。結局元に戻って通常の遍路道を宇和の街へ下ることになってしまいました。
卯之町の中町通りの古い街並。何やら着物を着たご婦人連が数人・・
通り一の古い立派な建物末光家住宅の月一度の公開日とかでイベントもある様子。
ベテラン遍路風には下にも置かぬもてなし、是非寄って行けと。当家のご主人と思しき人から丁寧な案内をいただく。江戸中期(1770)の建物だが、その後に相当手は入っている様子。でも外面は、当地では「ひじ」と呼ばれる軒下の持送りや格子戸の蔀など特徴ある造作がよく残っています。昔、酒造業だったという家の内部もなかなかの風格・・よいものを見せていただいた。
近くの開明学校も見学。明治15年に建てられた四国最古の小学校で国重文指定。分厚い白大壁に西洋風のアーチ形窓、それに唐破風の玄関といった和洋折衷の建物。この宇和島の地にいち早く文明開化の風を送り込んだと言われます。
内部は当時の教室や教材が展示されています。司馬遼太郎の「花神」でお馴染み、卯之町ゆかりの二宮敬作に医術を学んだシーボルトの娘おイネさんの展示も興味深いもの。
この卯之町、江戸時代の中頃には既に相当栄えていたと思われます。澄禅の日記には特に記述はありませんが、真念は「・・うの町。調物よし。大師堂有。・・」と書き添えています。

(追記)「卯之町中町通り」
江戸後期の「四国遍礼名所圖会」は「鵜の町よき町なり、・・此所にて支度・・」と記します。
昭和の終りに卯之町中町を訪れた司馬遼太郎は 「百年、二百年といった町家が文字どおり櫛比(しっぴ)して、二百メートルほどの道路の両側にならんでいる。こういう街並は日本にないのではないか。・・拙作「花神」に出てくるおイネさんが蘭学を学ぶために卯之町の二宮敬作のもとにやってくるのは安政元年ですから、おイネさんが見た卯之町といまのこの街並とはさほど変わらないのではないでしょうか・・」と記しています。(司馬遼太郎「街道をゆく」より)

卯之町中町通り

軒下の「ひじ」

末光家住宅

末光家住宅

卯之町夕暮れ

開明学校の通り

開明学校

開明学校

開明学校

その夜は、古い街の並びの由緒ある宿に泊ります。
品のよい女将。同宿は長崎からの車遍路の夫婦、それに何と岩本寺宿坊で一緒だった神戸の自転車さん。「よーお・・」 「どっかでお会いしましたなー・・先輩・・」 
岩本寺からは3日目。自転車としては早くはないけれど、歩きではちょっと早過ぎ、不審な顔。
「いやー、途中汽車に乗ってますから・・」 
乾燥器が混んでいて宿の若い女性が入れて取り込んでくれるという。取り込まれて室に置かれた洗濯もの、そのたたみ方が尋常ではない・・そんなものに痛く感動した宿でもありました。



大洲、内子の街へ  (平成22年10月4日)

久しぶりに晴れた朝。今日は内子の辺りまで行く予定。
宇和町の中心部を出て北へ7kほど、東多田に西園寺公高の墓という標示があります。西園寺家は戦国時代の大名で公高は東多田にあった飛鳥城に来襲した宇都宮氏と戦って19歳で戦死したといいます。この地では、その若い死を悼み命日の供養が長く行われてきたそうです。
この近くは、宇和島藩の東多田番所があった場所で、旧道の三差路に道標があります。「菅生山へ十八里二十丁、明石寺へ二里十丁/大洲町四里 宇和町二里 山田薬師二里 八幡神社二丁、大くぼ観音半里 左八幡浜へ三里 きん高公七丁」などの表示。交通の要衝であった証しです。
なお、昔はここよりやや宇和町に寄った下松葉や大江から笠置峠や鳥越峠を越え八幡浜近くを経由して金山出石寺に参る遍路も多かったといいます。


左八幡浜」大江にある中務茂兵衛の道標(明治31年

西園寺公高卿墓所の標石

鳥坂峠への道

鳥坂峠

峠の石仏

やがて国道を左折し、大洲藩の鳥坂(とさか)番所跡に至ります。
鳥坂峠への道は、静かないい山道です。番所跡から中間に林道を横断して約1k。
峠には3体の石仏があります。中央の石仏には「天下泰平国土安全 普賢延命地蔵」と刻まれています。峠に残された石仏は遍路にとって殊の外ありがたいものです。
峠を下ると林の中に粗末な拝殿があり、石と木の小さな社に日天月天が祀られています。陽も届かぬような杉林の中、不思議な幽玄な空間ではあります。
右に三本松への道を分けてすぐ、道の右側に一本の石柱道標と二体の舟形石仏があります。いずれも天明四年(1785)に立てられたもので「是より菅生まで拾七里」、石仏には不明瞭ながら「是ヨリ十丁下り常せったい所」と読めます。この先、札掛大師堂の先あたり(現在食堂や店がある広場あたりでしょうか)に接待所があったようです。
昔の遍路道は右側、尾根の上を通っていたようですが、今は通れるかどうか・・

三本松分岐直後の道標と石仏 

札掛大師堂の屋根が見える

札掛大師堂は四国遍礼名所図会にも大師加持水の場所とともに札掛庵として記述のある由緒ある寺ですが、近年人が住みついたという報もあるものの現在は無住の様子。堂内はゴミの山です。このお堂の管理は金山出石寺と聞いており、問い合わせてみると、そうとも言えないと曖昧な返事。一体どうなっているのでしょうか。
山門には立派な鐘があります。その鐘がどうかなったって・・さてさてここで起こったハプニング、今の時点ではここに書くことはできません。お許しください。

大洲の街に入ります。この街も卯之町と同様、古くからよい街であったようです。真念の「道指南」にも「・・○大ず城下。諸事調物よき所なり。町はづれに大川有、舟わたし・・」とあります。昔の遍路はここでいろいろな物資を調達したり泊ったりしたようです。
大正2年に肱川を渡る肱川橋が完成するまでは渡し舟や、明治なってから川舟を横に並べて浮き橋として渡ったりしていたそうです。大洲藩時代の街の中心は肱川を渡った北側にあったと思われます。
これは遍路とは全く関係ないことですが、肱川の南側、現在遍路道に指定されている街路で昭和41年テレビドラマ「おはなはん」のロケが行われたことから「おはなはん通り」として親しまれるようになり、近くの明治の赤煉瓦館、ポコペン横丁などとともにノスタルジックな楽しい空間ができあがっています。私は遍路以外でも以前に一度訪れたことがあります。

大洲の赤煉瓦館

大洲の赤煉瓦館

大洲のポコペン横丁

大洲のポコペン横丁

車の往来の頻繁な国道56号に沿って十夜ケ橋へ、そして五十崎(いかざき)からは私の好きなタイムスリップしたような山村の道を通って内子に入ります。
内子での大師の足跡は、街中よりもその前後に集中しているように思われます。山村の道から運動公園を過ぎると駄馬池という池があり、その前に大師が泊るかどうか思案したと伝える思案橋があります。その前には金比羅道標や「右へんろ道」の道標。近くには遍路の供養塔や古い墓なども残っています。
内子の街は、大正5年に建てられた芝居小屋、内子座、本町通りや八日市護国の見事に整備された古い街並に驚かされます。町が保存と整備に並々ならぬ力を注いでいることの証しでしょう。
真念の道指南では、「○内の子村、町・・」と記すのみで卯之町や大洲のような注釈は何もありません。それはこの内子の街の繁栄は江戸時代末期から明治にかけての木蝋や生糸の生産に負うものであるからです。
商いと暮らしの博物館(大正期の薬屋の展示)、大村家住宅、本芳我家住宅、上芳我邸(現在改修工事中)など、じっくり見学して回りました。

内子の街

内子の薬屋

本芳我家住宅

大村家住宅

内子の街並

今回の遍路は、どうも観光に傾き勝ちですなー。お許しいただけるでしょうか・・
ここで思いたって、内子から松山に電車移動。とんでもない道草の始まりです。

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