四国遍路の旅記録 三巡目 目次

四国遍路の旅記録(3巡目) の目次です。

3巡目 : 平成21年4月から始め、平成23年10月8日、結願しました。
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 その1  その2  その3  その4



 その1   その2   その3   その4   その5



 その1   その2   その3   その4



 その1   その2   その3   その4   
その5



 その1  その2  その3  その4  その5



第6回   その1  その2  その3
第7回   その1  その2  その3  その4  その5



第8回  その1  その2  その3  その4  その5

   

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四国遍路の旅記録  三巡目 第8回 その5

山頭火、花折山、旧遍路道・・そして3度目の結願  (平成23年10月8日)

志度寺門前の宿を発って、左手に住宅地「オレンジタウン」を見ながら玉泉寺へ。
そして87番長尾寺へ。
ここでは余談のみ、記しておきます。(もともと、全部余談だろ!・・ハイ) まずは好きな山頭火から・・
長尾寺にも境内に山頭火の句碑があります。
水ちろちろ柄杓もそえて」 「てふてふひらひらいらかをこえた」 「春風のちよいと茶店ができました
ついでに門前の遍路休憩所「つぼみ荘」に 
こんなにうまい水があふれてゐる」 「うれしいこともかなしいことも草しげる」  「人生則遍路」 他。
同じく門前、古い構えの森屋酒店のウインドウの中に 
酒のうまさとろとろ虫鳴く」 「歩く、飲む、作る、水を飲むやうに酒を飲む」などの句碑。無類の酒好き山頭火に相応しい。その他
雪ふるひとりひとり行く」 。

山頭火の句碑は、四国では香川県と愛媛県に集中していますが、終焉の地愛媛より多く40を越える句碑がこの香川県、それも志度寺から大窪寺の間に集中しているのです。
山頭火は亡くなる前の年、昭和14年に松山から香川、徳島と遍路をしていますが、この地に句碑が集中しているのは不思議。その理由は私には分かりません。


 
長尾寺


長尾寺境内、手前の山頭火句碑

森屋酒店前で、「山頭火にあえる遍路道」

長尾寺から南へ1.2kほど、遍路道沿いに浄土真宗大谷派の宗林寺があります。
その参道と境内に山頭火の句碑。
まったく雲がない笠をぬぎ」 「秋ふかみゆく笈もぴったり身について」 「音はしぐれか
ほうたるほうたるなんでもないよ」  「感謝、感謝!感謝は 誠であり信である
うれしいこともかなしいことも草しげる」  「うどん供えて、母よわたくしもいただきまする
しぐるるやしぐるる山へ歩み入る」  「うしろ姿のしぐれてゆくか」 「歩々到着

ここには山頭火以外の句碑も多数。
境内で休ませていただいていると、ご住職が出てこられて、
「これは、前住職が俳句好きで集めたもので、解説など付けてもっと読み易いようにしたいのだが・・私は本山(東本願寺)から言われてここに来たもので・・」といろいろお話。
私が広島からというと「安芸門徒(浄土真宗)が遍路とは・・」とちょっと非難するような口調。
私にとっては、宗教者からこういうことを言われるのは意外なこと・・「そうでしょうか・・」
ここで、ご住職と議論する気はありません。けれど日頃考えていること、どうでもいいことと言えば、まったくそうですが、余談ついでにここに書いておきましょう。自己流の拘り、笑ってやってください。
この四国遍路の心を支えているのは、空海が始めた真言宗の教えではないでしょう。それは、お大師信仰というものかもしれません。さらに言っちゃえば、遍路とは札所で唱える般若心経の、そして頭の上の笠に書かれた「空」の認識に近づこうとする行為であるとさえ、私には思えるのです。(「空」に対する解釈が種々あることは知っています。後に言うように、それがこの世界の時空間的連鎖のしくみ(縁起)をさしているという、私の勝手な思い込みを前提にしてのことですが・・)
「我れあり、我がものあり」とする我執、我所執を打ち破って、「空ぜられる」ことこそが仏の本願の表現であり、その限りない大悲の行が親鸞上人の願いであると語られたということを、書物で読んだことがあります。(山口益「空の世界」) 真宗の教えの根本がここにあるとも言えるのではないでしょうか。
遍路の心は宗派を越えたもの・・と私は思いたいのですが。
(更に蛇足を重ねれば。最近出版された「四国遍路」(吉川弘文館)のなかで、浅川泰宏氏が「・・札所の寺だけではない、それよりむしろより多くのものを道程の自然と人と生きものの連鎖のしくみのなかに確認したいという、いわば宗教的、霊性的なものを模索する姿・・」(大意)そのことに現代の四国遍路に対する希望を託していることに、大きな同意と賛意を感ずるものです。)

前山ダムまでの遍路道沿いには、一心庵、高地蔵、忠左衛門墓碑などがあり、解説板も付いていてありがたいのですが、一つだけ特記しておきましょう。
それはダム手前1.5kほど、大石という所にある徳右衛門標石です。
四国霊場全域に分布する標石としては、真念と中務茂兵衛のものが著名ですが、その200年の中間をちょうど埋めるように設置されたのが徳右衛門標石です。
この大石にあるものは、徳右衛門が丁石建立を発願した寛政6年(1794)のもので、研究者が特に重視するものと言います。
実物を前にすると読みとれないところが殆どですが、
「大窪寺迄二里半 願主 豫州越智郡朝倉村徳右衛門 施主 長尾西村 清水十蔵」と彫ってあるとのことです。
標石から思いは拡がります。
徳右衛門が丁石建立を発願したとされる寛政6年(1794)という年。この度の区切りでも何処かで見た年号・・そう、金毘羅街道の牛屋口に鳥居や石燈籠が建てられた年。街道の道中にも、この年の前後に多くの燈籠が建てられていました。
真念の「四国遍路道指南」が出版されて100年の後、また細田周英の「四国偏礼絵図」から30年の後。遍路の数は、この寛政6年から急激に増加して、それは年間1万5千から2万人、以後暫く、この数を保ったと言われています。江戸時代の中後期、安定した世は、多くの遍路や金毘羅参りの人の賑わいを四国の地に現出させたであろうこと・・その情景を眩しいものでも見るような思いとともに想像させるのです。

 大石の徳右衛門標石


前山ダム湖畔の茂兵衛標石

前山ダム湖畔には、茂兵衛242度目、明治45年の標石があります。
前山おへんろサロンに寄ります。
女性の方に応接していただき、記名し、四国八十八ヶ所の写真を収めたDVDを戴きました。
ここから前回は女体山を越えていますので、今回は以前ここでいただいた地図にある花折山遍路道と旧遍路道を行くことにします。
「多和小学校以降の旧遍路道は歩けますか?」
とお聞きすると、男性に聞きに行き「通れます」という返事。
「靴が年季もの、破れてますねー・・」とお気をつかっていただいて出発。

花折山遍路道2kは、5、6年前地元の方により開拓された道で、急坂の場所も多いのですが、すべて土道で、歩き易いいい道です。急な上りは、右手に金剛杖、左手にその感触を感じながら木の幹を抱きます。このスタイル、私の最も好きなものです。
最高高度310m、上り口との高低差160mです。
2kで旧遍路道の舗装道に出ます。
県道3号に入り1k足らず、再び旧道に入りすぐ左手上に、奥深い森を背にして、国重文の細川家住宅があります。
18世紀初め頃のこの地方の典型的な農家で、屋根は茅葺、大壁造り、内部の柱は栗の曲材を巧みに使ったちょうな仕上げのもの。内部は土間、土座、座敷の三間。土座の中央にいろり。
私はこういうものに目がない方。ゆっくり見学させていただきました。
18世紀、1700年代、また出てきた年代です。多くの遍路も結願近い森の前の道で、この家の茅葺屋根を仰ぎ見たかもしれません。
土座のいろりの傍に座っていると、どこからか微かな風が森の香りを運んできました。その風が止むと、辺りは元の土の香りに満ちみちていました。
座敷からおばあちゃんが、ふっと顔を出して「でっきょんな・・」(この地方では、「こんにちはー」をこう言うと聞きました)と言ったような気がしたものでした。

細川家住宅

細川家住宅


細川家住宅、大壁


細川家住宅、座敷


細川家住宅、土座のいろり

多和小学校の前を通ります。前庭に山頭火の句碑 
里ちかく茶の花のしたしくて
この句は実際にこの地で詠んだと言われるもの。
ここから旧遍路道は、国道377号と絡み合うように進みます。峠に向う道に33丁石があります。旧道の多くは拡張された国道に呑み込まれています。三本松峠。旧道は左手の山の上でしょうが、とても通れそうにはありません。
峠にあった山頭火の句碑 
もりもりもりあがる雲へあゆむ
初巡目の時、草の中で偶然見つけたのですが、今回は見付けられませんでした。
この句、山頭火の辞世の句といわれます。地平から盛り上がる雲の中に融け込んで行くようですね。
ここから大窪寺までにある山頭火句碑についてもここで書いておきましょう。
寺に近い八丁丁石の右辺に極小の句碑
夜が長い谷の瀬音のとほくもちかくも」。これも私は見落としました。
そして、大窪寺阿弥陀堂前 「ここが打留の水が溢れてゐる」 
これは実際にこの結願の寺で詠まれたもの。

三本松峠の山頭火句碑(5年前)


旧遍路道、33丁石


6
丁石辺りの旧遍路道

16丁石と墓

多和相草の相草東峠にある70丁石から始まる大窪寺への丁石(舟型地蔵)は宝暦12~14年(1762~1764)、明和元年(1764)の建立が主体のようです。(60丁石のみは天明2(1782))時に道の工事等で姿が見えないこともありますが、が
その多くは現存するようです。たが、旧来の遍路道と現在の道が異なるためその多くを見逃すことになるのは残念なことです。
(現存する丁石は、70、69、66~63、60、58、57、54~50、45、42、39~33、30、29、27~23、23から3であるようです。)

三本松峠から大窪寺までの旧遍路道は、ほぼ槇川の右岸に沿う道です。
おへんろサロンでは、通れるということでしたが、実際は草木が繁茂していたり、崩れていたり通り抜けるのは容易ではありません。
丁石地蔵を探して、道を行きつ戻りつしました。
特に15、16丁石のある辺り、草の覆われて、息を飲むほどに素晴らしい遍路道が残されているのです。

寺まで1kmという所、前方から立派な装束と赤い錫杖の女性。中先達様。
おへんろサロンでの「歩ける」という言に反して難渋したことについて、つい愚痴を漏らしてしまいたしなめられる破目に・・
後刻、その先達さんは私が知っている方(この人も先達さん)奥様であることが判明。恥かしいのでこの話はここまでで打ち切り・・

88番結願の寺、大窪寺。ゆっくり、ゆっくり、般若心経をを唱えさせていただきました。
境内では放心したようにベンチに座り続ける人、周りの団体遍路に1番寺からの自慢話に雄弁を奮っている若者、「杖と笠をお納めしたら2000円とられた。知っていれば・・」とわめいている人・・人夫々。

大窪寺の遍路墓について
大窪寺は今では四国八十八箇所の結願寺ということになっていますが、古くはさらに阿波の一番札所霊山寺まで歩いてそこで結願を迎えるのが慣わしとなっていました。
しかし、この讃岐の山中での讃岐の結願寺には遍路にある特別の思いを抱かせるのも事実のようです。大窪寺には特別多くの遍路墓が見られます。江戸時代の遍路は国を出るとき宗門改めの一札を持ち、そこには「いずこにあいはて候とも、そのところにて葬りくだされ」と書いて、葬式代を包んでしっかり身につけていたと言います。倒れたところで葬り済ませますが石塔を大窪寺に立てることも多かったと思われます。何処とはなしに安堵と悲しみが溢れた大窪寺です。

私は3度目の結願となりますが、不思議なほど特別の感情はありません。ここからコミュニティバスで帰路につくことにしました。
バスでは、神奈川から来られている夫婦遍路と一緒になりました。ご主人は病気の後遺症で半身が不自由。総て歩きで区切りを続け、7年かけて結願されたそうです。感動します。
お二人にとって四国遍路が人生の大きな励みと重みになったであろうことを感じました。
「奥様のお蔭ですねー・・」と言うと「うん、まあ 今回はねー・・」とご主人。
今夜は高松に泊ってゆっくりして、明日、神奈川に帰られるとのこと。昔の遍路は、大窪寺で結願したその日は国に帰らず、一夜を置いて白衣を生まれ変わりの持ち着物に着替えて、家路についたといわれます。あるいは、そのことに拘られたのかもしれません。
志度の駅でお別れしました。
私にとっても、今回の遍路の終りです。

(追記) 大窪寺先の丁石道について
長尾寺から大窪寺への丁石については本文に記しましたが、旧白鳥町(現東かがわ市)五名から大窪寺への丁石(舟型地蔵)は八丁坂手前の38丁石から大窪寺門前まで丁数を減らして現存します。(白鳥町史によれば、現存数は38基中33基となっています。)建立は10丁石までが宝暦12、3年(1762~1763)、12から38丁石が明和4年(1767)となっているようです。
旧来の遍路道は基本的に日開谷川の最上流に沿った道で、現在はその一部が「四国のみち」となっています。四国のみちの部分は殆ど手が加えられていない状態の古道が残っています。古道の趣を感じることのできる素晴らしい道行ですが、初歩きであれば丁石をもとめて右往左往するこになるかもしれません。この間、丁石の他、道標、遍路墓、大師像なども点在します。
22丁石に並ぶ地蔵道標「ひだりへんろみち」(寛延2(1749)このあたりで最も古い年代)、すぐ近く「牛頭天王碑」、県道工事で建替えられた「地蔵堂、旧四ツ足堂」(元は四本柱壁なしの辻堂(茶堂))など。
付図に丁石等の概略位置を示しました。

八丁坂手前の38丁石は「分かれの地蔵」とも呼ばれたようで、隣に「右きりはた道 三里半 左白とり道 三里半」明治6年の道標。白鳥神社を経て大坂に向かうか、日開谷川に沿って切幡寺に向うか、まさに「道分かれ」です。
八丁坂の峠には「是より白鳥 三里半 是より大くぼ四十二丁」、境目への下り坂途中に「右へんろ道 白鳥三里 三番へ七里 境目まで一丁」の道標。また、坂を下った境目には、「(大師座像)是より東白鳥/是より北長尾道」明和6年(1769)と中務茂兵衛の最後の道標(279度目、大正10年)があります。


大窪寺東の丁石道(境目まで) (クリックすると拡大します)

                              (令和3年4月記 令和4年7月改記)

追記「江戸期における東讃岐の主要道と寺社」
讃岐の東部(現在の東かがわ市を中心とする地域が当たろうか・・)には四国八十八箇所の札所霊場は存在しない。
多くの遍路は結願寺の大窪寺を打ち終えると故郷への帰途につくようです。少数の遍路は八十八札所の連環の完成を目指して一番霊山寺の道を辿ります。その路は大窪寺の先を東進、八丁坂を越え境目から日開谷を経て10番切幡寺から逆打ちで霊山寺へと向かうことが多いようです。
大窪寺の後、東讃岐の霊場を巡ろうとすれば、その道順から困難を伴い悩ませられます。添付の略地図を見てみましょう。
西教寺(奥之院を含む)へは、境目、五名、日下峠、田面を経て達します。水主神社、與田寺、釈王寺へは、境目、宗心、星越峠を経ます。東照寺(田ノ口薬師:日本三薬師の一つ)、白鳥神社は西山、藤井、白鳥を経ます。引田先の東海寺はもう大坂越の手前です。
これらの道はその終りを海岸に沿って東西する生活の道、讃岐東街道(志度道)に合しますがそれまでは単独に北上するため、東西に連絡する道がなく、言わば行き戻りの道となるのです。このことが社寺の連絡を不便とします。
江戸初中期の最も一般的な遍路道を描いたと思われる、細田周英「四国遍礼絵図」(宝暦13年1763)を見てみましょう。
絵図の中央部を占める弘法大師像と高野山の僧弘範の序文に目が留まります。四国遍路の意義を四重円檀を有する十界偕成の曼荼羅に擬しています。(ここでは絵図に示されたお大師信仰の是非、当否は問題としませんが・・)絵図の左下部東讃岐の地図部分を見てみよう。
北の海に面して「白鳥大明神」が描かれ、その左は広い空白の地が広がっています。空白部の出入り口は第十番切幡寺に向っているかのように伺えます。東讃岐(社寺)は四国遍路全体の円環から外れた地(遍路道外地)として描かれているのです。
境目から与田山天王に至る道に残る江戸期から明治初期の道標には、「へんろ道・・」の表記はなく、「白鳥へ・・」あるいは「白とり道・・」と表記されています。
現在の遍路は何れの場所に遍路道を想定しようと勝手なことでしょう。しかし、この地を遍路するとき、その歴史的な道の姿を一瞥することも肝心なことと私は思います。     (令和6年7月追記)


東讃岐の主要道と寺社


四国遍礼絵図(部分)

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