四国遍路の旅記録  平成24年秋  その5

雪蹊寺、種間寺、仁淀川清瀧寺まで

朝、種崎を7時50分に発つ県営フェリーに乗って、対岸の御畳瀬(みませ)(長浜渡船場)に渡ります。
このフェリー、人々の足になっていることがよく感じられます。多くの人が自転車やバイクで乗ってきます。
船のおじさんとバイクに跨ったままの若い女性が親しげに話をしています。歩き人は遍路一人。寂しげですね・・
やがて、浦戸大橋が、空の随分高い所に架っているのを眺めます。昨日、桂浜の近くまで行くといってた遍路。橋越えに閉口したことだろう・・
(追記)御畳瀬の旧道について
この種崎から御畳瀬への渡しは、江戸時代は今の長浜ではなく北の御畳瀬浦に着いていました。真念の「道指南」には 「・・是より渡し有、五十丁ほど海中、右にさしまといふ小島あり。〇みませ浦、片原町。なか浜村。」と記されます。ここに記された「さしま」(狭島)は昭和30年代終わりに海上交通の邪魔になると爆破され、島にあった風光明媚な厳島神社は御畳瀬の街の北側海岸に移設されました。旧道は御畳瀬の南の小峠(みませ坂)
を越えて長浜に向かっていました。今は切り開かれた道の南、長浜港近くにある徳右衛門標石(「是より雪蹊寺へ十一丁/文化五辰年」)は元は峠にあったと言われます。今の標石は地蔵堂の中心に祀られています。立派な仏像が彫られているためでしょうか、堂に祀られた徳右衛門標石は他にも見られるものです。
なお、この標石は、江戸期の文書の多くが次の札所を「高福寺」と記しますがここでは正式な寺名「雪蹊寺」が用いられていることの他、
・石の最初は読み「ア」の梵字の種子があてられることが多いが、ここでは「阿」と刻まれる、
・大師像ではなく地蔵菩薩像が刻まれている、
ことにより特異な徳右衛門石と言われます。(平成30年7月追記)


33番札所雪蹊寺。
「どちらかでお会いしましたっけ・・」の夫婦遍路。また、お会いしました。実は、今日行く35番までの全ての札所でお会いすることになるのですが・・
ご主人は無口で、奥様が盛んに話掛けてこられます。ご主人が、ちょっと不機嫌そうな顔をされるので、適当に切り上げさせてもらいました。
桂浜近くに行った遍路にもお会いしました。何もかもひどかったと苦情ばかり。

高知城下と春野を内陸水路で結ぶため、江戸時代初期に開削された「唐音の切抜」(現地名は唐戸)を通り、ここも切り下げられた「こばら坂」へ。
なかなか立派な薬師堂があります。
その先、山裾に沿って標石が多く残る道。まず、「三十四番 へんろ道」と刻まれた大正時代の石。その先に、二つ並んだ明治時代の石。よくは判読できませんが、一つには「橋迄十五丁」の字が見えます。この橋は新川川に架る橋を言うのでしょう。
真念「道指南」や「名所図会」に拠ると、江戸初期は徒渡り、後期には舟渡しとなっています。
T字路に、春には花に包まれていた、秋の初めには彼岸花が溢れていた、あの懐かしい地蔵が四体並ぶ小屋。
小屋の横には「種間寺迄二十丁 へんろみち」の道標も。


諸木の明治期の標石


諸木の地蔵と標石

 新川川を渡る

 種間寺

新川川を渡り山に沿って行き、34番札所種間寺へ。
種間寺の先の柿の実の下、茂兵衛160度目、明治32年の標石。その元に「右邊路道」と刻された石が横たわるのも変わらぬ。その横に小さな地蔵、丸石三段重ね、これは何だろう・・
ここから右の水路沿いの道が旧い道。後から来た夫婦遍路が不審な顔で私の方を見ています。
「まっすぐいってツカーサイ、ワタシはミチクサでがんすけー」と大声で。
お宅の花壇の中に「右へんろ道」安永2年(1773)の自然石の標石。右側面に「為二世安楽」と刻まれます。
その先の地蔵堂には、台座に「辺路道」と刻まれた地蔵があるらしいのですが、ビニールハウスの横の畦道の先で、諦めました。


森山下の茂兵衛標石(160度目)

 安永二年の標石「右へんろ道」

 
新川大師堂(堤防手前、文政6年標石)

新道に戻ったところに茂兵衛256度目、大正3年8月の標石。これは添句付です。
「旅うれし たた一筋に法の道 義教」 
他にも同様の句を刻んだ石がある、茂兵衛さん得意の句ですね。
新川には涼月橋という、明治30年頃建造の立派なめがね橋が異彩を放っています。
そこからすぐ、仁淀川の土手に新川大師堂。お堂の手前に文政6年と明治13年「従是種巻寺へ四十○ 従是清瀧寺へ五十○」の標石など三基。
昔の仁淀川の渡し場については、以前の日記に書いた覚えがありますのでここでは繰り返しません。
仁淀川の土手の道を歩きながら思いました。「この川は何と美しい川なんだろう・・」と。白鷺の姿、岸辺の木陰、白い川砂、薄の河原・・



仁淀川の河原


仁淀川の河原

仁淀川の畔

高岡の街中の道はいつも迷います。
どうにか行き着いた三島神社の前を通るのが、やはり正道でしょうか。門前に天保2年の「右清瀧寺道 大勝長兵衛孫」と刻まれた大きな標石がありますし・・
35番札所清瀧寺への道は、短いけれどけっこうきつい山道です。
立派な山門の天井の龍や本堂の極彩色の方位盤など・・そんな話も以前書いた気がしますので省略。
奥の院に行こうと裏山に入ると、そこには四国写し霊場が。いくつか参拝しましたが、どこが奥の院か分からなくなって戻ってしまいました。
境内のお堂の陰で潜んでいると、夫婦遍路の奥様に見つかって、またお話してしまいました。

 清瀧寺山門の龍


清瀧寺に上る、上ってこられるのは・・・

清瀧寺本堂

寺を下った所のうどん屋は休業。
コンビニでパンなど食って、また随分早目に高岡市街のビジネスホテルに入ってしまいました。

 種間寺付近の地図 高岡付近の地図を追加しておきます。
                                                (平成24年11月20日)


青龍寺を打ち戻り、区切り

須崎まで行って区切ろうかと思っておりましたが、ちょっと所用ができ今日中に帰宅することにしました。昼ごろのバスで宇佐を発ち、高知からは電車です。
ビジネスホテルですから、まだ暗いうちからこっそり抜け出します。
塚地峠に向う道。
県道39号の東側の山際の道が旧道。遍路はこの道を通るべし・・なのでしょうが、こんな早朝は止めといた方がいいでしょう。旧道沿いの家には大抵犬がいて、怪しげな人が通ると、とてつもない吠え声。まだ寝てる人まで起こしてしまいますから。
塚地峠の上り。
近年の補修とも思える立派な石畳の残る歩き易い道。道傍には多くの遍路墓が残ります。
峠付近には、これまた多くの標石。
峠の中央にある青龍寺を案内する手指しの彫られた石は「手やり石」として説明板までついています。
峠からは宇佐の街、宇佐大橋が霞んで見えます。

 塚地峠

峠を下った萩谷にある大石の磨崖仏。最初に見た時より相当判読し難くなっているように思えます。
初見では、岩面の一部にある稚拙とも見える線彫りの部分に、星座のような絵がいくつか見え、私は勝手に「妙見さんじゃー」などとのたもうたこともあったのですが、これはともかく、現在明確に確認できる像は修行大師像で、あと地蔵菩薩像などが彫られているというのが通説のようです。
さらに下った田畑の道(字「萩谷」)に「南無阿弥陀佛」と大きく書かれた安政地震・津波の碑があります。
「津波は八、九度押し寄せ、多くの人家は流され、残った家は六、七十軒。溺死七十余人。山手に逃げた人は助かったが、船で逃げようとした人は亡くなった。流れてきた衣服等を拾い用いた人は伝染病で死んだ・・」などと、円柱状の石面にぎっしりと彫られています。
これらの教訓は、後に発生した南海地震で生かされ、死者は一名のみであったと伝えられています。

(追記)安政地震津波碑
この安政元年の地震・津波の記念碑(萩谷名号碑)は、その刻文の内容が極めて詳細で貴重なものと思われますので資料より写しここに追記しておきます。
(正面)「南無阿弥陁佛/安政元甲寅歳十一月五日申の刻大地震日入/前より津浪大尓溢れ進退八九度人家漂流/残る家僅六七十軒溺死能男女宇佐福島を/合而七十餘人なりき都て宇佐の地勢ハ前高く/後低く東ハ岩崎西江福島の低ミより汐先迯/路を取巻故昔寶永の変丹も油断の者夥/敷流死能由今度も楚能遺談越信じ取あへ/須山手へ逃登る者皆恙なく衣食等調度し又ハ/狼狽て船尓のりなとせるハ流死の数を免連須/可哀哉其翌日ハ御倉開希て御救米頂戴し/凍餓尓至るものなく誠ニ難有 御仁沢下り希れ/ハ後代の変丹逢ふ人必用意なくとも早く山/の平らなる傍尓岩な幾所を択ひて逃よ可し且流失/能家材衣服等拾ひ得し人暫時内福尓似堂れとも間/もなく流行の悪病ニ染ミ悉皆なくな利しを眼/前見聞し多ると越告残し殊ニ両変溺死の人能/菩提越弔ん為尓登衆議志て此碑を立る/も能と云爾 安政丁巳十一月 卥邨畊助識」


今回の区切り打ちにおいて、徳島県から高知県で多くの安政地震・津波の碑を見てきました。
その恐ろしさの心の痛手が、人々にとっていかに大きなものであったか・・物語るものでしょう。

 萩谷の摩崖仏

 安政地震・津波の碑

 宇佐大橋を渡る


「龍の渡し」付近、対岸は井尻

 井尻の大師堂


龍坂の峠より、萩岬を望む

宇佐大橋を渡ります。
この橋が出来たのは昭和48年のこと。それまでは福島から「龍の渡し」で対岸の井尻に渡っていたのです。
井尻には大師堂があり、その前を通り、山道に入って「龍坂」を越えます。昭和初期、海岸の道が開かれるまでは、この山道が青龍寺へ行く唯一の道であったのです。
この道は一昨年の春にも通り、日記にも、丁石のこと、一本松のこと、天明4年の日向の人の墓のこと・・など書いたように思いますので繰り返しません。ただ、樹木の成長の早さ。坂の途中から見えた宇佐大橋はもう殆ど見えなくなっていました。
36番札所青龍寺にお参り。
なお、昔の遍路記録に八十八ヶ寺の奥の院が登場することは少ないのですが、青龍寺の奥の院、不動堂は特別であるようです。澄禅は、独鈷山山頂にある不動堂について触れ、そこからの眺望を愛でていますが、「名所図会」にも「奥院、浪切不動尊 大師御作、本堂より四丁有、女人結界し、申の刻より人間不通・・」と案内しています。

青龍寺に上る


青龍寺本堂


参道の仏、自然が供えたツワブキの花

宇佐の福島まで打ち戻り、ここで今回の遍路の区切りとする積りでしたが、バスの時刻までまだ余裕があります。
ここから先の「横浪三里」は、最近、昔のように船が運行されるようになり、これを利用する遍路も多いようです。澄禅も「陸路モ三里ナレドモ難所ニテ昔ヨリ舟路ヲ行也。」と記すように昔から難所と言われたようです。
昔は浦ノ内灰方までの海岸の道は無く、灰方坂という峠越えの道でした。この道を通ってみようと思います。
宇佐小学校の後方、少し高い所に20m以上はあろうかという赤い色の津波避難塔が出来ています。その裏の神社の所から山に入ります。(正しい入口は高台の北側のようですが・・)
文化、弘化、安政などの年号を刻んだ江戸後期の墓石が乱立する墓地の中。やがて山道に。
600mほどで峠に。

 灰方峠への道

この道はハイキングコースの一部にもなっているようで、整備の手は入っています。
峠には、以前、天明元年の六十六部廻国供養塔があったようですが、今は見当たりません。
少し荒れた道を灰方の坂本まで下ります。
坂本には、昔の主要道であったことを示すように、石灯籠があったりします。

新しい海岸の道を福島まで戻り、宇佐大橋の袂のバス停で遍路装束を解きました。
浦ノ内湾の水面が傾いた陽に輝いていました。
その様をぼんやり眺めて、高知行きのバスを待ちます。今回の区切り遍路の終りです。

 浦ノ内湾

蛇足
高知までのバスの窓から、これまで歩いたことのない四国の街をぼんやりと眺めながら、こんなことを考えていました。
私が遍路として、この四国の地を歩かせてもらうようになってから、8年近い時が経とうとしていることに気付きます。
最初の頃は、山の道で、川の畔で、心ときめくような、人との出会いが多くあったように思います。年を経るに従って、そのような出会いは随分少なくなったように感じます。
それは、四国が変わったのか、それとも自分が変わったのか・・ 山も山の道も、海も海辺の道も、相変わらず美しいのに・・   東日本大震災以降は、歩いていること自体疚しいという気持ちもありました。
四国遍路を感傷的に捉えた記録やアピールはよく見ます。私は、特に最近、そういった観点には組みすることができなくなりました。少なくとも、まがりなりにも公開された形での日記のなかでは、書きたくないことだと・・ 
しかし、そのことと、これからも四国遍路を続けてゆくための糧とは別のことでしょう。その糧の不確かさ、もどかしさに心惑います。
私の心身は、あとどのくらいそのことに耐えて行けるのでしょうか・・ (あーあ、歳だなーの声も)

塚地峠付近の地図 青龍寺付近の地図を追加しておきます。


                                                (平成24年11月21日)

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四国遍路の旅記録  平成24年秋  その4

大日寺、国分寺、善楽寺、田辺島、竹林寺まで、出来るだけ昔道に拘る

今日の行程は。28番大日寺から32番禅師峰寺の先まで。
徒労の拘りを発揮して、出来るだけ昔の道を辿ってみることにします。

赤岡から大日寺に行くには、国道55号から、鉄道の野市駅の少し手前で県
道22号に分岐するのが今の道ですが、昔の道は更に少し手前、石家から烏川の左岸に沿い切石山の麓を経て、現在も大日寺の手前に残る山道に繋がっていたようなのです。

石家の烏川畔のやや東方に「寶鏡山 吉祥寺道」と記した大きな石標(吉祥寺は今は廃寺)があり、その傍に殆ど土に埋まった標石があります。劣化が著しいものですが、形態から見て、照蓮標石のように思えます。
烏川に沿って行くと山裾の高い所に頌徳碑。その横の墓地を抜けると切石山裾の道。
この道は「のいちウオーキングトレイル」の一部になっているようで、整備されています。
山道の終点辺りに十五丁石と並んで「左へんろ道」と刻まれた標石があります。昔の遍路道に違いありません。それからしばらくは県道を通るしかありませんが、旧い道は前記の大日寺前の山道に繋がっていたと思われます。

 切石山裾に残
る道のへんろ石


 
大日寺


紅葉の鮮やかな大日寺を後にして国分寺に向います。
大日寺石段に「これより国分寺へ壱りはん」の徳右衛門標石。
父養寺の水豊かな農業用水路の傍を過ぎると、物部川の広い河原が見えてきます。今は県道234号の戸板島橋を渡るしかありませんが、昔はその300mほど下流が渡し場。
その土手に上部に枯れ枝が見える大きな杉の木があり、その傍に八王山蓮光院と書かれた小堂。二体の地蔵が祀られています。


物部川。昔の渡河地点の杉が見える。

物部川畔の地蔵堂


小堂の横の小屋には「是邊(路)・為先祖菩代提供養」の文字が見える天明五年(1785)の石碑。
真念は「・・○ぶようじ(父養寺)村、此間に物部川、大水の時ハ大日寺よりの市町へもどり舟わたし有、つねハかちわたり・・」と書いており、江戸時代の初期は舟は無く、徒渉していたようです。
戸板島橋を渡り、戸板島から松本まで、赤い実が鈴なりの柿の木も見える田畑の中の真っ直ぐな農道を行きます。
松本に入ると、道の曲がり角2ヶ所に真念石があります。その中間に「左邊路道」と刻まれた明和六年(1769)の自然石の標石。
そして松本大師堂へ。このお堂は、平成20年、地元の人の努力と「へんろ小屋プロジェクト」の協力により、へんろ小屋と合築する形で再建されたもの。(私は、二巡目の平成19年10月、鉄パイプに支えられて辛うじて立っている大師堂を目にしています。)へんろ小屋としては、私の最も好きなもののひとつです。
昔は遍路の宿泊所もあったと言われる大師堂の周り、大きな甚兵衛桜の傍には、石仏や遍路墓など多くの石造物が見られます。
堂周辺の道は整備されコンクリート部分が増えた印象。車の通行には便利であろう
けれど、この場の雰囲気は失われたよう・・残念と言うべきか。

松本から鉄道を越えて県道45号に至る農道には、以前は多くの標石が見られたように思います。ここも道の改修とともに、それらの多くが失われたようで寂しい限りです。

 土佐山田付近の地図を追加しておきます。


松本大師堂への道。角に真念石

甚兵衛桜の下


 大師堂傍の石仏、墓石


県道45号に右折した角に茂兵衛160度目(明治31年)の標石。これには、全国の多くの神社仏閣への石の寄進者として知られる名古屋の伊藤萬(蔵)の銘が刻まれています。
茂兵衛標石と道を挟んで向い側に、半ば土中に埋まった古い標石(手印、大日○)があったはず・・見当たりません。住宅の塀を改修した際、撤去されたように思えます。
県道を少し行くと左手に、今や遍路の間でも有名な「へんろ石饅頭」の店。その前に茂兵衛157度目(明治30年)の標石。
水路沿いに西へ20mほど。この辺りの字名「へんろ石」の語源ともなった、天文三戌年十月(1738)の標石。「従是右国分寺遍路道」と刻まれています。
小川に沿って緑に囲まれた細い道が延びているのです。昔の遍路道は、こんなに密やかで美しかった・・羨みを抱かせる情景です。
この道は、先で左折して国分川の渡し場に繋がっていたようです。
川向こう、渡し場の先には、台座に文化七年(1810)と刻まれた地蔵があります。
無論、現在は県道45号を進み国分川に架る橋を渡るのですが、昔はこの橋は無く、大水で渡し船も動けぬことが多かったようです。


天文3年の標石と遍路道

天文3年の標石


国分川畔の地蔵

澄禅は「・・・眠り川ト云川在、此ハ一睡ノ間ニ洪水出ル川ナリ。・・(是非ニ及バズ)近辺ノ田嶋寺ト云寺ニ一宿ス。住持八十余ノ老僧也。此僧ハ前ノ太守長曽我部殿普代相伝に侍也。・・・(翌日)寺ヲ出テ川下ノ橋ヲ渡リ国分寺ニ至る・・・」と記しています。
「眠り川」は国分川の別称、田嶋寺はその後廃寺で、研究者はその地に廿枝(はたえだ)の西島観音堂(西生寺)をあてているようです。また、川下の橋が今の岡豊橋辺りにあったのでしょうか。

29番札所国分寺は私の好きなお寺です。どっしりとした仁王門から正面の金堂に伸びる緑多い石畳の参道。柿葺きの素朴な金堂の佇まいもよいものです。
それに参道の周囲に椅子や腰掛けの石があって、お参りの人と声を掛け合うことができます。

(追記国分寺境内、大師堂左手に自然石の標石があります。近くの遍路道から移されてきたものとおもわれますが、次のように刻まれています。
「これよりみき へんろみち 元禄二年三月二十日」
元禄二年は1689年、年号が刻まれた四国の遍路標石としては極めて古いものと思われますので追記しておきます。

 国分寺付近の地図を追加しておきます。


 国分寺

 旧道に残る
標石


国分寺を出る今の遍路道は、仁王門から南に田圃の中を辿るすばらしい道なのですが、昔の道は国分総社神社の前を通り西に向っていたようです。
田圃の中の道傍に「へんろみち(手印)大阪北堀江上通二丁目、平岡新助健之」と刻まれた道標(明治のものと思われる)が2基あります。
その道は笠ノ川川を橋で渡り、岡豊別宮八幡と岡豊城址の間の低い峠を越えて北山道(土佐北街道)に繋がっていたようです。笠ノ川川には橋脚を支えた石積みが今も残っています。
30番善楽寺への道は、県道384号ですが、昔の道はこれと重なって
はいなかったようです。今の道の南側から北側の道へ・・

奥院、毘沙門堂に分岐する道のある滝本辺り、山裾に沿った昔の道の面影を追うことができます。

 滝本辺りの道

「四国遍礼名所図会」に「滝本坂、小坂。峠より高知城下御城町家見ゆる・・」と書かれた逢坂峠。
今はトラックの往来激しい広い道で、当時の長閑な情景を偲ぶこともできません。
一宮墓地公園の階段を下り住宅地の中へ。旧い道もこの辺りを一の宮に向っていたようです。
元札所、土佐神社にお参りし、30番札所善楽寺へ。
納経所で「竹林寺への道筋を記した古い標石があると聞いてますが・・」と言うと、中年のご婦人が出てこられ、「古い道標と言えばこれしか・・」と境内入口右側の樹陰に案内してくださる。
「これです。これです・・」と、写真を撮って寺を出ようとすると、ご婦人が追ってこられ標石の読みを書いた資料を見せていただきました。ご親切なことです。

 善楽寺境内の標石

文化九申年十月の標石には次のように刻まれています。
「(中央)遍路道 木ちん宿有 右 城下道五代山へ百丁船渡壱(あるいは三)ケ所 左 五代山江五拾丁船渡弐ヶ所有」 
左の城下を通らない道を、出来るだけ古い道に依りながら五台山竹林寺まで行ってみようと思います。
土佐神社の門前を南へ。土佐神社お旅所、お旅所にしては随分立派なお堂・・までは今も昔も同じ道。ここから左折、土佐一宮駅前を通り田圃の中の道を国分川畔に出ます。
川を隔てて田辺(たべ)島隼人神社の小山が見えます。昔は渡船でしょう。(標石の一ヶ所目) 
少し西の錦功橋を渡り田辺島の地蔵堂へ。
隼人神社の近くの家で地蔵堂の所在を聞きます。
若い人が出てきて、「それは、おばあちゃん・・」の声。別棟にいるおばあちゃんの所へ案内されます。
「アシはここに70年住んじゅうが、お堂はあそこんしかなか・・」と隼人神社の西の欅の大木の下の地蔵堂を教えられます。

追記「田辺島の福留隼人神社」
田辺川の傍の岩礁にある小さな神社。長宗我部氏の重臣福留氏11代、12代(隼人と呼ばれた)を祀った神社。隼人は天正14年長宗我部元親に従って豊後に出陣、島津氏と戦って戦死したと伝えます。


田辺島の隼人神社の森。右手が地蔵堂のある欅の木

 

田辺島の地蔵堂(実際は阿弥陀石仏が祀られる)                
田辺島の道標(左)(文政3年) 
                                                                                                 右は「ん路道/四十丁」と示す石

お堂の裏の岩の上には、多くの小社が集合されており、古い石仏も残っていますが、この近くにあったという「五台山三十丁」と刻まれた文政3年の標石は見つかりませんでした。(なお
後日、地蔵堂より100mほど東、堤防道より少し入った所に存在を確認しました。「従是五臺山三十丁/右遍路道 文政三年 辰正月吉日」と刻まれます。この道標の右側にある頂部を失った石は、ここより10丁北(おそらく布師田あたり)にあり、ここに移動されたものと思われます。)
地蔵堂より南西に、高須病院の大きな建物を目指して、田畑の中の道を行きます。
道を南に転じ舟入川へ。川向こうは高須。ここが昔の渡船場。(善楽寺の標石にある二ヶ所目)
ここからは、今の遍路道に従い文珠通りを辿ります。
文珠通りの南端、絶海池には昔から橋があったと言われます。今ある橋の袂に、文化九年の照蓮標石があったはず・・以前は確認していますが、この度は見つかりませんでした。橋、道路の整備により移動したのかもしれません。(後日確認したところ、この照蓮標石は100mほど南の遍路道沿いに移動されたようでした。)
1kほどの山道を上り、牧野植物園の中を通って31番札所竹林寺へ。

高知市東部の地図を追加しておきます。

竹林寺

竹林寺の紅葉

 竹林寺の石段

竹林寺の石段

 竹林寺のもみじ

竹林寺のもみじ

竹林寺は紅葉の盛り。石段と赤と緑の混じるもみじの対比は格別のものです。モデルさんが「ニッコリ」する撮影会もあったり、紅葉見物の観光客も多いようでした。
山門を下る荒れた石段の歩き難さもまた格別のもの。その下り口に「峯寺迄一里半」の徳右衛門標石。

(追記)江戸期前中期の五台山について
行基の開基以来藩政期に至るまで興廃を繰り返したといわれる五台山は、藩主山内家の加護を得て整備されます。「四国偏礼霊場記」(元禄2年(1689))と「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800))からその様子を見てみましょう。
霊場記には、開山堂(行基の像を置く)、弁財天祠、鎮守の山王権現、本堂(文殊堂)、大師堂、三重塔、鐘楼、仁王門、奥之院(阿弥陀堂)などが記されます。名所図会ではそれらに加えて、経蔵、雷堂、子安地蔵堂、茶堂、方丈などが記されています。
本堂(文殊堂)は室町時代の建立とされ、大師堂は寛永21年(1644)藩主山内忠義の建立。いずれも現在の配置とは異なり、明治以降移築されたことを示しています。(本堂の旧位置は仁王門に続く参道の石段の手前に東を向いていた。)
三重塔は明治32年に倒壊、その近接地(西側)に昭和55年五重塔が建てられました。現在奥ノ院は船岡堂とされていますが、これは大正10年の創建で昔の奥の院とは異なっています。また、現在の鎮守は当然ながら日吉神社となっています。
霊場記の絵図には寺への道について、「城下吸江道」「禅師峯寺江山中五町」、「林途?八町」と書き込みがあります。前記したように現在善楽寺境内にある文化9年の道標に、城下を通る道(百丁)と直接五台山への道(五十丁)が案内されていますが、「四国遍路道指南」では「・・行て たるミの渡、次に及古寺(吸江寺)・・かたはら町、これより五台へ八町・・」また「名所図会」では「樽見渡し、涼亭、及郷寺(吸江寺)・・」と記されいずれも城下を通る道が採られています。遍路はやはり城下の道を好んだのでしょうか。(「タルミの渡し」とは現在の青柳橋辺りにあった渡し舟と思われます。タルミ(絶海)の地名は五台山の北側に今も残ります。)霊場記絵図の道表記「林途?八丁」は現在牧野植物園に上がる北側からの坂道を示していると思われます。


四国偏礼霊場記 五台山


四国遍礼名所図会 五台山




下田川の畔、この土手を歩く

下田川沿いの道は始め右岸を、へんろ橋を渡って左岸の土手の道を辿ります。

(追記)「五台山から峰寺へ、下田川沿いの道」
「四国遍路道指南」では「これよりぜじぶじへ一里半。ごだいより八丁下江川有、舟わたし。・・」と記されます。
江川は今の下田川、現在の「遍路橋」より少し西、(和泉)の民家の前の道の側溝の上に一つの標石が寝かされています。
「(正面)(梵字)好月妙善信女為菩提 元禄七甲戊天 此はし施主、村上一雲/(裏面)右へん路ミち 舩わたし 是よりせんしふしへ一リ」(読み:小松勝記「へんろ道を辿る」より)と。以前は渡船、元禄7年(1694)橋が架かった、ということでしょうか。約100年後の「四国遍礼名所図会」では「・・川ばた行、江川 船渡し二文宛、又川ばた行・・」とあるところからすると、橋は屡々落ちたということでしょうか。
ともかく、この標石あたりが下田川右岸から左岸への渡河点であったことを示していると思われます。
それにしても17世紀の貴重な標石が道に転がっているのは残念なことに思えてなりません。今はどうなっているのでしょうか。

(さらに・・)
 下田川堤の標石

下田川の堤防上にあったとされるこの標石、今はどうなっているでしょう。ズルして申し訳ないことですが、Google streat Viewを拝見。今も私が見たときと同じ場所、すこし家陰に。
この標石の表の刻文「・・此はし施主」の「はし」を「橋」と読めば、別面の「・・舩わたし・・」と矛盾するように思えます。でも、標石の再発見者である小松勝記氏は、「元禄7年に橋が架かった」と読んでいるのです。そして別資料を引いて、この辺りより禅師峯寺の上り口芦ケ谷までの廿丁を舩に乗った人がいたことも紹介しています。
(もう一度考え直してみます)要は、橋が架かった時期も渡しがあった時期も存在し、禅師峯寺まで歩いた遍路も、また舩を利用した遍路もいたということでしょうか・・(標石の両面が異なった時期に彫られたということもありますしね)戸惑いますね・・(令和5年2月追記)


十市に向う芦ヶ谷峠の手前に大師堂。周りには江戸期の墓や石仏などの石造物が多く集められています。峠近くに「右へんろ道」と刻んだ明治33年の標石。
十市の新しい住宅地を過ぎ、十市小学校の横から短い山道を上り、開発中の墓苑の中に。
墓地の中を通り、寺の参道である車道を経て32番札所禅師峰寺(通称峯寺)へ。
山道の入口に明治の標石。上った所にも以前、「三十二番」と京都の地名が刻まれた手指し標石がありましたが、この度は見ませんでした。
多くの丁石地蔵や墓など、寺の参道や境内に移されています。天明4年の地蔵、文化2年の地蔵、文化11年の丁石地蔵、それに「へんろ」「ぎゃく」と刻んだ政吉の手指しなど。


峯寺参道の地蔵(天明四甲辰年四月二日 下総国海上郡銚子荒野村(現銚子市)住人〇〇)他


峰寺付近の地図を追加しておきます。


峯寺より種崎方面を望む

峯寺からは、その一部は埋立により形を変えているものの、阿戸から種崎に繋がる弓型の海岸が見えます。ビニールハウスの列が傾いた陽のなかで輝いていました。
「砂地」という字名も残るように、ここは元々砂の浜であり、「四国遍礼名所図会」では「是より山を下る。此所より種崎迄一里の間海辺砂地なり・・」と書いています。
昔はその砂に足を取られながら歩いたのでしょう。今は種崎の渡しに乗る遍路は、一番北側の街の中の道を歩くことが多いようです。
今日は種崎近くの宿、その近くまで桂浜の近くの宿までという遍路と一緒に歩きました。

さて、この日は20番大日寺前から32番禅師峰寺まで。旧道好きの私としても、ちょっと執拗に・・昔(江戸期から明治期)に多くの遍路が歩いたと思われる道を辿ってみました。
もちろん、当時の「へんろ道」は遍路が歩いたというだけでなく、より多くの住民や旅人が利用した生活の道であったことでしょう。
その道、今はどうなっていたでしょうか・・
今も生活の道として使われている道筋も多くあります。そうでない道の多くは、昔は船で渡った川で阻まれ、消えかかった道となっているのです。
そういう道には、遍路のための「道しるべ」標石がまだ多く残っています。逆に、今も生活の道として使われている所は、道の改修により多くの標石が失われつつあります。
四国の地において、遍路の歴史(文化?)をどう残して行くのか・・考えて行かなくてはならない問題なのでしょう。
                                                (平成24年11月19日)

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四国遍路の旅記録  平成24年秋  その3

山の寺から蔵の街へ、津照寺、四十寺、金剛頂寺、吉良川

薄紅に染まる空(室戸、坂本付近)


薄紅に染まる空(室戸、津呂付近)

どうしてでしょうか、西の水平線の上がほんのり紅く染まっているのです。そんな空を眺めながら、行当岬を追っかけるように歩きます。
やがて津呂の港。早朝、出舟入船の往来が盛んです。津呂の港は、既に江戸時代の始めに整備された古い港で、真念も少し先の室津港とともに「○つろ浦・・よきみなと、石のきりとほし、目をおどろかす。○むろ津浦、ここにも石の切通、右両所のみなと、大きなるけいゑい、筆にもつくされず・・」と記しています。


津呂の港

 津照寺

25番札所、津照寺参拝。
門前に珍しく保存状態の良い徳右衛門標石「是ヨリ西寺迄一里」があり、目を惹きます。
これから5年ぶりに四十寺に参ることにします。
県道202号を行き、室津川の橋の先を左折。山道に入るところは以前とは変わっています。
要所(3ヶ所か・・)には新しい石標が設置されており、道を間違えるはずはないのですが、私は最後の石標を見落とし、みかん畑のなかで草刈り機のエンジン音を響かせている主に聞いて数百m戻りました。
標石のところから新しい山道が出来ており、300mほどで従来の道と合流します。道もよく整備されており、協力会の遍路札も見ました。
ある宿の主人の話によると、室戸で観光開発を行っている室戸ジオパーク推進協議会の尽力が大きいとか・・ 
1kほどで頂上へ。本堂はプレファブ風でやや寂しいのですが、左手に大師像、本堂裏の山頂には室戸山大権現が祀られており、幽玄な空間を造っています。
本堂石段前の展望所からの眺望は素晴らしいもの。右手に室津の港、左手に電波鉄塔などが並ぶ室戸岬の山が望まれます。
大師の修行場跡と言われる「にしり岩」。室津方面から直登する旧参道の途中にあるようですが、草が繁茂して道筋が掴めず諦めました。

 室津・四十寺付近の地図を追加しておきます。

 新しい四十寺への上り口

 四十寺


山頂より室津港を望む


室戸岬の山を望む

26番札所、金剛頂寺に向います。
岩戸に年号が入るものでは、四国最古という石碑があります。元は旧国道沿いにあったそうですが、今は新旧国道の間に移されています。
高さ2mもある大きなもので「従是西寺八町女人結界、右寺道 左なだ道、貞享二乙丑天二月吉日建之」と刻まれています。貞享二年は1685年。
昔は東寺と同様、西寺も女人禁制。女性は、なだ道即ち海岸の道を通って行当岬から不動岩の不動堂(女人堂)に参り札を納めていたのだそうです。
さらに、敷衍して申せば、五来重博士が言われたように、行当は修行形態としての「行道」です。弘法大師より古くからあったとされる宗教的場である行道が当時(江戸時代か・・)女人の道であったというのも、不思議な巡り合わせなのかもしれません・・
金剛頂寺門前で、徳右衛門標石「是ヨリ神峯迄六里」を見ます。
土佐に入ってこれまで、徳右衛門標石は7基あるはずなのですが、私が見たのは2基目。時間に追われ歩くなかで確認することの難しさを実感します。
東寺に続いてここでも例の夫婦にお会いしました。「どちらかでお会いしましたっけ・・」が挨拶代わりになりつつあります。
境内にある走り出しているような独特のスタイルの大師像。このお大師さん、最近一部の遍路の間で「けんちゃん88大師」と呼ばれているとか・・不幸にして私はその理由を知りません。

 女人結界の石碑


 金剛頂寺

 下り道の遍路墓

26番から国道に下りる道は二つ。不動岩に下りる道と平尾の道の駅の所に下りる道。前者の方が古い道だと思われますが、今回は後者の道を下りました。この道も丁石仏のある緑に覆われたいい道です。
その道の途中で二つ並んだ遍路墓(と思われる・・)を見ました。

「播州加西郡綱引村 ○○墓 文政四巳丑八月廿八日」もう一つの墓も同地、同年で、日付だけが九月五日となっています。数日を経て亡くなった二人の遍路。この道は女人禁制の道だったのですから、考えられないことなのでしょうが、私にはこれは夫婦の遍路墓のように思えてならないのです。
様々な哀しく美しい想像を逞しくします。

金剛頂寺付近の地図を追加しておきます。

 吉良川の街

吉良川の蔵

 吉良川の街

 いしぐら

 吉良川の蔵

 吉良川の蔵

 吉良川の蔵

 吉良川の蔵

東ノ川を渡って吉良川の街に入ります。
吉良川は近世には木材の産地として栄えていましたが、明治以降、木炭の生産、特に大正期には良質な備長炭の開発により、独自の繁栄を迎えたと言われます。
重要伝統的建築物群保存地区にも指定され、明治・大正期の立派な蔵が並ぶ街なのです。
蔵の壁は独特の土佐漆喰で塗られ、この地方の強い雨風から壁を守るための水切り瓦を備えています。また、台風などの強風から家を守るため、「いしぐら」と呼ばれる石垣塀が見られるのも特徴の一つでしょうか。
これらのどっしりとした佇まいには、圧倒されるような迫力さえ感じられます。
今日の宿もそんな立派な蔵があるお宅です。豪勢な日本家屋の、次の間付きの広い座敷に通されます。いささか緊張を感じるほどです。
宿の主は、いかにも大店のご主人と奥様といった風情の美男、美女。遍路のことは勉強中の様子、独特の語りの話もおもしろうございました。
                                                (平成24年11月16日)


雨中、神峯寺へ


沈んだ色の海と空を(羽根付近)

今日は雨。風雨ともに次第に強くなる見込みとの予報。
昨日までとうって変わって、沈んだ色の海と空を左手に見ながら歩きます。
途中、バスにも乗ってズルもしました。強雨のなか、雨宿りに寄った田野の駅では、ニュージーランドから来て、北海道を始め日本全国を廻っている自転車の夫婦にもお会いしました。
「ハチジュウハチカショヘンロ・・ネ」向こうから話かけてこられます。半分もわからないながら、すっかり時間を費やしたもので・・の、そこから電車にも乗ることにしました。
唐浜で降りて、27番札所神峰寺への上り道。
4kの道に1時間15分かかりました。ポンチョを着て、ですからまあまあのペースです。

 雨の神峰寺

寺ではまた例の夫婦にお会いしました。変・・敵も相当バス、電車、それともタクシーかな・・
この天気では、展望台に行っても何も見えませんから、今回は神峯神社を含め、行きません。
下りも上りとほぼ同じ時間掛けて、早めに麓の宿に入ります。今日は休養日となりました。
宿の女将おばちゃんは話好きの人で、「ここは、元々結婚式場での、そんでこんな造りになっちょる・・とか、私の父は、今の遍路道がある土地の大部分を所有する大地主であっての、寺の境内にも銅像が立ってる・・とか、N大師講の先達Yさんにはご贔屓いただいてる・・とか、バス遍路がタクシーに乗り換える所にある店のオネイサンはああ見えても孫がいるんだ・・とか、なかなかおもしろい話で退屈させないのですよ。

 神峰寺付近の地図を追加しておきます。
                                                (平成24年11月17日)


琴ヶ浜、浜の道の感動、赤岡へ

 
唐浜の松林

一日の雨で晴れは戻ってきました。
水平線近くの空は、やはり薄い紅に染まり、海には穏やかな波が寄せていました。
松林の傍の道を行きます。


唐浜の浜辺


 釣人(大山岬付近)

大山観音や地蔵堂のある大山岬の道とは別に、昔は山越えで河野に出る道が主往還であったようです。ある地図によると、その道は名村川から山に入ったようになっています。その入口だけ、ちょっと見ておきたくなりました。
名村川に沿った道を400mほど行くと、左岸に小さな水力発電所があります。その対岸は急な山で、ここに道があったとはちょっと考え難いのですが、どうなのでしょうか・・
昔の道は徒歩道ですから、急な山でもジグザグに上って最短ルートが選ばれることが多いように思えますから、入口はここではない・・とは言いきれませんが。
主往還は河野の小さな神社付近で海岸の道に下りていたようです。
安芸までの現遍路道は防波堤の歩道です。道とは言えない道かもしれませんが、ジョギングや散歩する人にも出会え、いつも左手に海を見る気持ちの良いルートです。
安芸の市街を抜けると、今の遍路道は自転車専用道路となります。昔はどうだったのでしょうか。
真念は「○あき浦町過、しんぜう(新城)浜壱リ、すなふかし。やながれ(八流)のふもとにちゃ屋有。○やながれ山下りて小川。○わじき(和食)村、手井(手結)山ふもとに茶屋あり。・・」と書いています。
新城付近の海浜の砂道に難儀したであろうこと、そして八流辺りは今の国道より一段高い段丘上の道を通っていたことが覗えます。この道は地元では「殿様道」と呼ばれていたようです。
旧道は寸断されながらも残っているようで、ちょっと寄り道をしてみました。
どの道がその旧道であるのか、確認するのは難しいのですが、段丘上の畑と家の向こうに青い海が輝いていたのが印象的な道でした。


八流の旧道から見た海


浜と鉄道(赤野付近)


琴ヶ浜を望む

赤野の栗山英子さんの休憩所。今回も寄ってコーヒーを戴きました。ほっとする空間。ありがたいものです。
ここから続く琴ヶ浜の松林と海岸の様は、土佐の遍路道周囲の風景のなかでも、特にすばらしいものです。
海水健康プールの周囲には多くの車が止まり、静かな賑わいが感じられます。
その傍に、坂本龍馬の妻、お龍と海援隊士菅野覚兵衛の妻、君江の姉妹の胴像があります。
姉妹は京都の生まれですが、管野はここに近い芸西村和食の出身で、お龍は龍馬の死後、妹の嫁ぎ先に身を寄せたことがあり、その縁を頼りに、平成5年芸西村民の気持ちが姉妹の像として実ったということ。
遠い無限のような西の海に向って手を振る姉妹の姿は、様々な想いと感動を呼ぶものでした。


琴ケ浜


琴ケ浜

サイクリングロード

 琴ケ浜

お龍と君江の像

さよーなら

先に示した真念の記述にもあるように、手結山の峠を越える旧道には茶屋があったようです。
この辺り、新しい道が縦横に出来ており、昔の峠道は探し兼ねましたが、国道の手結山トンネルの出口に「天保八年創業、お茶屋餅」として、その名をとどめています。
この辺りの道から手結港が見えます。
澄禅が「・・小坂ヲ一越テテ井(手結)ト云所至ル。爰ハニギヤカ成舟津也。」と記しているように、江戸時代初期には既に立派な港であったことが覗えます。
道の駅夜須で昼食。
北側にこんもりとした山が見えます。これが観音山で、安政地震の際、この山に避難した住民は津波を逃れ助かったことから「命山」と呼ばれ、その時の様子を刻した石碑もあります。
赤岡の街は昔からの繁栄を思わせる風情のあるところです。
街中の飛鳥神社の境内にも安政地震の碑が残されています。「・・潮が引いて干上がった手結港で鰻を沢山採った。翌日大地震で家も塀も崩れ、人々は何日も徳王子の山で暮らした・・」等と刻まれています。
幕末の浮世絵師、弘瀬金蔵の絵を収納した絵金蔵(えきんくら)は特に注目。毎年7月、八幡宮の宵宮、そして「絵金祭り」に商家の軒先を飾る金蔵の屏風絵。私は2年前に来ました。蝋燭の明かりのなかの絵金の妖しい世界を思い出します。
(追記) 「絵金祭りの宵に・・」(枯雑草の写真日記2 2010.8.7)

赤岡の街中の道を、国道に曲がらずそのまま北上し橋を渡った高見地区に二つの標石が並んでいます。右側の道標石には「従是大日寺四十丁 寛政八年橋本重吉建之」と記してあります。
左側の石は下部が土中に埋まっていますが、おそらく文化7年の照蓮標石でしょう。(因みに、この近くには文化12年の照蓮標石がもう一つあります。国道55号沿いの馬袋、一里松跡碑と並んでいます。)

 高見の遍路石

この標石がこの地区の通称の小字となったと言われます。それは「ヘンド石」というもの。その名付け、土佐の地故でしょうか・・
現在の遍路道の指定は国道。この標石に寄ると少々遠回りになるからですが、残念なことです。
その角を右折して国道に出れば今日の宿はすぐです。

 夜須付近の地図 赤岡付近の地図を追加しておきます。 
                                                (平成24年11月18日)

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