今年の彼岸花も終り・・


















     この頃、花を撮ることが少なくなった気がします。でも、彼岸花だけは毎年撮って
     いるし・・、と探しました。この辺り、群生地は意外に少ないのです。
     お彼岸も過ぎた日、三次の吉舎に行ってきました。
     ちょっと遅かったようです。もう白くなった花も目立ちます。不思議なもの、やはり
     彼岸の日の花なのですね。
     仕方ないから、小道具入れたり、ちょっと小細工したり・・。まともに撮っていません。
     でも、でも、この赤い花。子供の時には嫌いだった仏さんの花。歳とともに好きに
     なりました。目に沁む・・赤い色ですね。


「おまけ」 自転車親父さんのご要望により「ツルタイワンホトトギス」と名札のあった花
     貼りますね。親父さん撮られたのと同じと思いますが・・。

 

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砂丘の向こうの青い海



















     鳥取砂丘。以前から一度は行ってみたいと思ってました。
     南北2.4km、東西16kmに広がる日本最大の砂丘だといいます。
     砂丘と言っても、背の低い植物が生えている所や、農作地なども含まれます。
     ほんとに砂だけの場所は意外に小さいのです。通常「鳥取砂丘」というと千代川
     の東545haの浜坂砂丘を言うらしい。
     年間180万人を超える人が訪れるという。でも、私の見る限り、団体のおばさん
     たちは、歩き難い砂丘見物は早々に切り上げて、みやげ物屋に駆け込むのに
     忙しい様子。若者達は、砂丘の山を駆けおりたり、砂に座って砂丘の向こうの
     日本海を眺めたりしていました。
     砂丘の魅力は、やはりあの風紋でしょうね。風が吹いた早朝、人が訪れる前の
     砂丘に行かないと見れませんね。
     不精者の私は状態のよい風紋などに出会えるはずもなく、ただ、ただ砂の上を
     歩いていましたが、砂丘の向こうの海岸の白波、遠くの海の碧さがそれは美しく
     輝いていたことを憶えています。
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三徳山三佛寺奥の院、空中の投入堂
















     三徳山三佛寺は、鳥取県の中央部、東伯郡三朝町三徳にある。
     役の行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)が3枚の蓮の花びらを散らし、「仏教に
     縁のある所に落ちよ」と祈ったところ、その1枚が伯耆の国三徳山に落ちたという
     伝説を持つこの地。8世紀の初め修験道の行場として開かれ、後に天台宗の
     高僧円仁が三如来を安置したのが三佛寺の始まりと伝えられる。
     通称「投入(なげいれ)堂」は、三佛寺の奥の院で標高900mの三徳山の中腹、
     断崖絶壁の岩窟の中にへばり付くような様子で、どうやって建設したものか不思
     議に思われる。名の由来である、役の行者が法力で投げ入れたという伝承も
     納得し兼ねない。お堂は神社建築の様式である流造で、最近の年輪年代測定法
     により平安時代後期(11世紀後半)の木材が使用されていることが確認された
     そうだ。鳥取県唯一の国宝建築物である。
     写真1枚目:投入堂の手前文殊堂からの眺め。2~5枚目:投入堂。(支柱は岩
     に乗っているだけなのだ。)6枚目:投入堂横の不動堂。

     (三佛寺投入堂へのお参りが、国宝建築物探訪の中で最大の難関であるとは、
      聞いてはいた。だが、けっこう高をくくって門前に立った。
      寺本堂より高低差200m、距離700mの行程。それでも、投入堂には近づけな
      い。お堂が見える崖の途中まで。
      「一人では入山できません」と言われて愕然。最近、遭難事故があり単独行は
      認めないという。暫し、一人で来る人を待つ。日頃の行いの良い私、幸運はつい
      てくる。岡山のお寺の若いご住職がお一人。何度も来られているという。下山して
      来たひとから軍手も戴くし・・。
      寺では入山は修行であるとして、入山届に記入した上、輪袈裟を借りて身につけ
      る。全行程、道無き道。むき出しの木の根にしがみついて登る「かずら坂」(写真
      7枚目)、鎖場、尖った岩の上を渡る「馬の背」。森の中の湿った岩は滑る、滑る。
      ご住職は全てのお堂、佛像前で読経される。私は半分同行、半分これ幸いと休憩。
      通常往復1~1.5時間のところ、2時間以上をかける。若者にはどうということも
      ないだろうが、年かさのおっさんには過分の修行であった。
      最後の岩角を回り、突然眼前に投入堂が現れると、さすがに感動を抑えられない。
      夢の中で見るようなお堂の佇まいに暫し佇む。私の中国地方最後の国宝探訪の
      お参りであった。)
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大神山神社奥宮、地蔵の道


















     既に前回の大山寺阿弥陀堂のところでも書いたことであるが、伯耆の国大山
     (だいせん)は古くから霊峰として崇められ、その山麓に神仏習合の山岳信仰の
     中心があった。それが、大智明権現社であった。
     明治初年の政府による神仏分離は、それまでのわが国の宗教の流れを逆流さ
     せるような出来事であり、現在にまで様々な不可思議とも思えるような遺物を
     残すことになった。この権現社もこの時、大神山神社奥宮と改められた。
     この建物自体は江戸時代後期の建設。全国最大級の権現造りで国重文指定。
     神社に至る700mにも及ぶ自然石を敷き詰めた参道。参道の両側には多くの
     石地蔵が並ぶ。神仏習合の証し。だが、地蔵菩薩としての形態を備える像は数
     少ない。山伏を思わせるもの、素朴な地の神を感じさせるもの、人間味を彷彿さ
     せるもの・・。神社への石の道を歩きながら、様々な石の仏に会える。いくらかの
     驚きを感じながらも心の安らぎを得られる道行である。
     (最後の1枚。大神山神社奥宮回廊の床板である。時による木の変身に驚か
      される。)
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大山寺阿弥陀堂、木魂の輝き




















     鳥取県の西端、伯耆大山(だいせん)の麓、大山寺阿弥陀堂がある。
     養老2年(718)、山岳信仰の場として開かれたこの地。その後860年に天台宗
     に改まり、神仏習合の修験の寺として平安時代から江戸時代にかけて、多くの
     堂宇と僧を擁し栄えたという。この阿弥陀堂は、今に残る最も古い建物で、天文
     21年(1552)、山津波で崩壊した旧堂の木材などを利用してこの地に再建された。
     5間四方単層宝形造、柿葺き。和様に若干の禅宗様が採り入れられているよう
     に思える。建物の大きさに比べ太い柱が醸し出す壮大なお堂の印象に圧倒される。
     鬱蒼とした大山山麓の杉の森の中、大気に含まれる芳醇な水が壁や柱の命を
     躍動させるのだろう。ある時は森の緑を映し、またある時は古の朱い壁の名残り
     を浮かびあがらせる。その壁、柱・・。
     500年の年月を経た木魂の輝きに心奪われる。

     (このお堂、以前から是非お参りしたいと思っていた。大山の山頂に通ずる登山
      道を1k余り、杉の大樹に囲まれた輝くお堂が見えてくる。感動の瞬間であった。
      国重文指定。建立の年代が下るため国宝に指定されていないと思われるが、
      最も国宝に近い重文・・私にはそう思えた。)
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