感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
四国遍路の旅記録 三巡目 第4回 その5
伊豆田の峠を越えて四万十河畔へ (平成22年4月13日)
朝陽の輝き
久百々の海、ほんのり紅
久万地崎に近い高台に、真っ直ぐ東面して建つこの宿は、水平線の上に出る朝日を見るには、絶好の場所なのです。
室に差し込む光に気付き、外に出た時はもう太陽は海上を離れていましたが、その姿は雨と曇りの続いた数日の後だけに、一入輝かしいものでした。
右方の久百々のあの特徴ある岩礁の様も、その向こうの足摺の山も微かな紅に彩られていました。
久万地崎
歩き始めてすぐ出合うのが、下ノ加江川。
四万十川は美しいと言われますが、その河口近くの水と比べると、この下ノ加江川の美しさは際立つものです。
田園の中を悠々と流れる川。四国の最も美しい川の一つではないでしょうか。
下ノ加江川
田圃の作業(下ノ加江)
旧清水往還道、伊豆田越えを目指します。実はこの道、インターネットのある遍路サイトで知ったベテラン遍路Oさんより、その所在をお教えいただいた道なのです。
通行経緯に入る前にちょっと・・。
件の江戸時代の文献ではどう記されているのでしょう。見ておきます。
澄禅「遍路日記」。
澄禅が四国を歩いたのは夏から秋の期間であり、ちょうど台風の後でもあったらしく生々しい・・。
「イツタ坂トテ大坂在リ、石ドモ落重タル上ニ大木倒テ横タワリシ間、下ヲ通上ヲ越テ苦痛シテ峠ニ至ル。是ヨリ坂ヲ下リテ一ノ瀬ト云所ニ至ル。」
また、真念「道指南」。
「・・つくらふち(津蔵淵)村、此間いつた坂。くだりて小川有。・・」とある。
さて、市野瀬のドライブイン水車の前を、新伊豆田トンネルの方へは行かず斜め左折、真念庵の前を通ります。
この道は旧伊豆田トンネルに向っていた道です。左に狼内を経て39番延光寺に向かう遍路道の一つ、県道46を分岐して100mほど、左に山を巻くような簡易舗装の道があります。これは中村林道と呼ばれる道で幸増の先で行きどまり。
軽トラが後ろから来て止ります。
例によって「へんろさーん、道まちごーとるがー・・」
言い訳をし、礼を言ってから、ついでに山越えの道について聞きますが、聞いたこともないという返事。
その先で犬を二匹連れた男性。やはり、中村側へ通ずる道は無いだろうというお話・・。
実は、中村林道に入って右に大きくカーブした直後、右手の山に鋸歯状に上る道らしきものが見えていました。
Oさんのお話からも、この辺に伊豆田越えの入口があると聞いています。おそらくこの道でしょう。しかし、ちょっと上る気を起させないほど危険な道に見えました。
私は、林道分岐から50mほど、右側の谷川に沿った平らで巾のある山道に入ってみることにしました。
100mほどで道は無くなりますが、右側に四国電力の金属の道標が。
右上方に尾根が見えていますから、道はありませんが強引に上ります。
果して、尾根には、少し窪んだ、道であったことを思わせる地形がありました。
尾根に沿って上ります。
伊豆田越え入口(私が入った所)
羊歯を払って
深い羊歯を掻き分けたりして進むうち、道らしき形跡は消えてしまいます。
そのあとは、木杭とプラスチック杭、その上の木に下げられた赤いテープを頼りに尾根を上がります。
尾根の頂上に達し、地図を見て左手に峠があると見当。
果して10mほど下ると竹藪を開いた空間。道標を見た時は嬉しかったですよ。
峠の茶屋跡に間違いありません。
辺りには皿や徳利、陶器の破片が散乱しています。
道標には「足摺え 七里二十町」とあり、作州・・の字も見えますから、昔の遍路が立てたものでしょう。
この空間、目を凝らすと西に向いて左手に竹の間にやや道らしきものが見えます。
これまでの上りルートを振り返ってみます。
中村林道を入ってすぐの鋸歯状の上りが、おそらく旧道の入口。それから尾根を辿る道。
そして、私は見付けられなかったけれど、尾根の途中から峠にトラバースするルート。これが、伊豆田越えの旧遍路道であったのではないか・・と私は勝手に確信しました。正しいかどうか・・。
峠の茶屋跡
峠の道標
峠下の石仏
茶屋跡から中村側への下りはちゃんとした山道です。
峠を下った所には、二体の石仏があります。
石仏には、遍路道中安全を願って奉納されたことが刻まれています。
一体の台座には享和元年(1801年)の年号が読み取れます。
追記):右側石仏はお大師像の様式で、ある書によれば天保5年(1834)大師御遠忌千年に建てられたとあります。左側石仏にも台座にお約束の木履と水差しが彫られていますから、お大師像か・・
旧遍路道でこういった石仏や道標に会うことが如何に嬉しく、力づけられることであることか・・実感させられます。
伊豆田越えの山道の中村側入口は、旧伊豆田トンネルへの道から葛篭山(つづらやま)への林道が分岐した直後の所です。(旧道は、石仏の所から、斜面の等高線に沿うように緩く下っていたようですが、その道は消えてしまっているでしょう。)
入口の目印に竹棒にヤクルトの空瓶が逆さに差してあります。どなたの配慮でしょうか。
旧伊豆田トンネルの入口を見てみました。しっかり閉ざされています。
繁茂した草木の間から覗く「伊豆田隧道」の字が寂しそうです。
(追記)伊豆田峠の道標について
道標の刻文は時を経て一部読み難くなっています。「(梵字)足摺山へ 七里二十丁 作州久米北条郡・・村 水嶋・・/五社へ 十三り半 嘉永四亥三月」までは問題ないでしょう。村名と施主名が不明瞭です。
この後、2018年5月、当時遍路を続けておられ、この道標の施主のご子孫に繋がる方のあるブログへの書き込みがありました。その指摘より施主は「水嶋敏京」であることが判明。また村名は「クワ」の古字が使われており「桑村」であると。(延宝2年(1674)久米北条郡に桑上村と桑下村に分村して桑村が成立したとの記録があります。そこは明治22年、倭文東村を経て現在は津山市の内)
同じ幕末の頃、やはり同じ美作國近隣の出身といわれる修験行者玉林院宗英が発願し、その賛同者と共に真念庵から足摺の道の建てた足摺遍路石。それらの動きとは別に、直前の伊豆田坂に道標を建てた「水嶋敏京」の心意気のようなものを感ぜずにはおれません。(令和3年3月追記)
(追記)峠手前(津蔵渕側)の二つの道標
嘗ては峠越えの谷川に沿った道に置かれたと思われる二つの道標があります。一つは国道トンネル手前の今大師境内に、いま一つは今大師近くの国道脇に置かれています。いずれも明治に設置されたものと思われますが、峠の道標と同じ岡山県(美作、備中)の人の施しであること、江戸期の清へのメインルート(往還道)が、初崎、立石、布村、下の加江であったのに対し、明治を望み伊豆田峠を経る道へと変りつつあったと思われることを踏まえ興味をそそられます。
ほぼ自然石の表面には読み辛い箇所もありますが凡そ次のように刻まれています。(私の誤読があるかも・・)
今大師境内のもの。(梵字)四万十川へ壱リ余 卅丁行一ノセ川ワたり 足摺へ七里卅四丁 作州西西条郡 西富谷 長田乙蔵 當所 常蔵
この道標、峠より十四丁にあったと分かる。「西西條郡」は、明治11年発足、明治33年廃止となった岡山県の郡名。あえて「作州」とした。設置の年代は明治十年代と推定できる。
今大師前国道脇のもの。(梵字)坂 とうけ迄十二丁 足摺へ七リ卅二丁 一ノセ 三十二丁 備中 かるべ 中嶋 別府勘吉 江口市之情
明治10年中島は軽部村と合併。明治11年、岡山県窪屋郡が発足、明治33年廃止。軽部村は同郡に属す。
この道標の設置年も明治十年代と思われる。
道標の語ることばは豊か・・様々な思い。(令和3年12月追記)
四万十の流れ
四万十の流れ、屋形舟
限りなく緩く流れる四万十川と、その上に屋形船がたゆとう姿を見ていると、心安らかになってきます。
河畔の土手で、宿で戴いたおにぎりを食べました。私は昼食は食べないことが多いのですが、醤油をつけて焼いたおにぎり、大層おいしく戴きました。
今日の宿は、四万十川の左岸。
四万十大橋が架る前は、河口の下田か、今の大橋の少し川上の高島(現在高島という地名は無いようです。今の竹島のことでしょうか)に渡し船があったようです。その高島の渡しに近い宿です。
川の流れ
四万十川の畔
宿の女将さんは、若い時から東京に住まわれていたようで、今も大相撲の茶屋をやっておられるとかで、大相撲の開催期間中は休みになるという宿です。
この地の地主さんのお家らしく「歳とって、こっちに帰ってきました・・何もやらんでもいいんだけど・・」と余裕。
東京流の薄味の食事が戴ける宿でもあります。鰹のタタキに飽きた遍路には絶好かも・・。
伊豆田峠を越えてきた、峠の道標や石仏が嬉しかった・・と話すと、我が事のように喜んでいただきました。
女将さんの祖母が7歳の娘(女将さんの母)を連れて遍路した時の納経帳を見せていただきました。
聞いてはいましたが、筆書きではなく版木の納経もけっこうあります。一番近くの霊場、真念庵から始まる納経帳、たくさんの思いが詰まった宝物のようでした。
翌朝は、爽やかな四万十川の流れを見てから、国道56号を歩いて入野へ。
天気も良く、波も静か。入野の浜、それからづっと歩いて白浜や佐賀公園へと。
あの叶崎付近の荒々しい表情の海とは違った、穏やかな海をしっかり目に納め、土佐佐賀の駅で区切りました。
本来は前回区切った須崎まで行く予定でしたが、ちょっと所用ができました。ここまでで家に帰ることにします。
入野の浜
白浜の海岸
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シダが凄いですね 普通に歩けるようにするには簡単ではなさそうですね。
そうですね。何とも言えません。私は逆打ちでもあり、シダの藪漕ぎから峠までの道は発見できず、
尾根を強引に上りました。
掬水談話室の、きのっぷ様、極楽トンボ様の通行報告(いづれも中村側からの順打ち)によると、峠から右方向に下ると道があるらしい。(それほど悪路ではなさそう)
また、現在、大野正義様が調査を実施中の模様。そのうち報告があるでしょう。
でこうゆう事を言うのは、基本的にしないのですが、練成会仲間のよしみでお許し下さい。
誤字を見つけてしまいましたので、修正可能なら
訂正をお願い致します。
お遍路の経験者ならどっちでも、分かりますが、
枯雑草様のブログには、ファンの方、お遍路さんだけではないと思われますので、投稿いたしました。
”九百々の海、ほんのり紅 ”
↑
”久百々の海、ほんのり紅 ”
ご無礼、お許し下さい。
また、いつの日か、お会いできるよう願っております。
ご無沙汰しております。
お見苦しい私のブログ、見ていただいて
恐縮です。
誤字、発見ありがとうございます。
駄文、誤字の宝庫という私のブログです
からまだ、まーだあると思います。
大目に見てやってください。
また、どこかでお会いできる日を楽しみ
にさせていただきます。
こう書いてると凄い所を歩いているように
見えるかもしれませんが、高度も距離も
ありませんから、それほどのことはありません。
ただ、上りですから、道跡の発見は非常に
難しいのです。遍路歩きのお手本にはなりませんね。
わたしのお見苦しい遍路日記が、お目に止まり
恐縮です。「イヤダニマイリ」そこでも書きましたが、
私の母(今年91歳)は、発見者の学者さんの奥さん
の姉にあたります。学者の方とは冠婚葬祭で1、2度
お目にかかったくらいで、お話したこともありませんでした。
円通寺・・玉島ですねー。子供の頃は、港の傍の母の実家に
よく行きました。これ以上は、ご迷惑でしょうから、
止めておきます。不思議なご縁を感じます。
今後ともよろしくお願いいたします。失礼します。
おっしゃる通りですね。
遍路道の場合は、江戸時代以来の旧道の多くは、
明治、大正、昭和の初めくらいまでは、使われて
いたのですね。この峠越えの道も旧トンネルが
できるまでは使われていたのですから・・。
近くに住む人も、近頃は山に入ることもないから
道があったということも知らないのですね。
通らない道は数年で山に飲まれてしまいますね。
真念庵の大塚様も此の道は知らないそうで?こまっていたのですが、なんとか行けそうですね!参考になりました有難うございます。私 今回3巡目で 澄禅さんの足跡を検証しています。宜しくお願いします。
ブログネイムは
「勝手気ままなおっさんの一人歩き」です。URLが
今分からないのですみません。 博泉 拝
ご無沙汰しております。
旧伊豆田越えの道、私は上記のように道なき道を強引に行ったのですが、その後「めぐめぐさん」たちが
道を整備され、標識もいっぱい付けられたようですから、
迷いようが無くなったようです。状況はめぐめぐさんのHPに紹介されています。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~nannkatu88/sikokuhennro/izutakoe1.html
掬水談話室が閉鎖され、不便してますが、めぐめぐさんが「四国遍路掲示板」を開設されています。
私のブログのリンクにもありますので、これも利用されてはいかがかと思います。
どうぞ、よろしくお願いします。