参道の淡雪と紅葉 湖北、鶏足寺
















     滋賀県琵琶湖の北岸に面する湖北地方は、国境の低い山並みを隔てて、若狭
     の国、敦賀とはもう指呼の間である。湖北、木之本の街外れの山中に鶏足寺が
     ある。この一帯、平安時代には山岳信仰の修行道場として栄えた所というが、
     今はいくつかの小さなお堂を残すのみ。その参道はもっぱら紅葉の名所として名
     がある。
     晩秋の一日、鶏足寺を訪ねた。北側の山を越えて日本海の雪は易々とやって
     くるのだけれど、紅葉の時期に雪が積もることは滅多にないという。
     そんな淡雪が残る朝、歩き難い参道の石段の道を辿った。
     血の色のよう・・と形容されるもみじには、数日は早かったようであるが、頭上の
     枝にも、参道の石の上にもふんだんの紅葉があった。
     たっぷりと水を含んだ、赤や黄色の落葉は樹上よりももっと活き活きとした居り場
     を見つけているように思えた。
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森の紅葉、トウカエデとモミジ


















     森林公園の森の中を歩くと、
     トウカエデの葉の赤が、
     目に沁みます。
     春のあのこってりした緑から、
     十分に想像できる、やはり、
     分厚い秋の色ですね。
     もみじも負けてはいません。
     時々、どこからともなく、
     吹いて来る風に、
     薄い葉をさらさらと揺らして・・。
     緑や黄色や赤の衣の、
     多彩さを誇っているようです。
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奥出雲の深い秋、櫻井家住宅


















     島根県奥出雲町。この地に、古く6世紀後半に朝鮮半島から伝えられ、江戸時代
     中期に完成を見たという「たたら製鉄」。(たたら(踏鞴)とは送風装置の
     鞴(ふいご)のこと。)アニメの「もののけ姫」でたたらで鉄を吹く場面が出てきた
     ことを想い出しますね。
     江戸時代、そのたたら製鉄を営んだ、鉄山師頭取、櫻井家住宅が残されています。
     天文3年(1738)に建てられた主屋を中心に、江戸、明治、昭和前期までに建設
     された後屋敷、土蔵(7棟)、物置(3棟)が並ぶ。江戸時代、藩主松平公の度々の
     来訪のため、御成座敷や庭園も整備されたといいます。主要建物は国重文指定。
     製鉄に係るものは見られませんが、ガラスが多用された建具が目を引きます。
     御成座敷を囲む、あの「揺らめきガラス」の向こうに庭園が見えます。山より滝を
     下った水は池に注ぎ、屋敷を取り巻く石垣の下から水路に迸っていました。
     土蔵の前の柿の葉が色付いていました。柿の実は一つ残らず取り込まれて、
     軒の下を飾っていました。奥出雲の静かな、深い秋の日でした。
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谷川のもみじ、微かに紅














     まだ、紅葉には早い時期でした。
     谷川に張り出したもみじの枝は、
     ほとんど緑のままで、
     ほんの一枝か、二枝、
     控えめな赤い葉が混じって
     いるだけでした。
     谷川には、暖かい陽は射さず、
     薄ら寒い気のなかで、
     水の煌きが、もみじに
     早く、赤くなれと
     囃しているようでした。
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四国遍路の旅記録 二巡目 第5回 その5

平成20年10月14日     山村の道の安らぎ、雲辺寺へ (続き)

  (箸蔵寺から歩いて雲辺寺へ着いたところです)

箸蔵寺下を出てから5時間30分、12時30分雲辺寺に着きました。
まず、手水舎の龍の口から出る水をたっぷり戴きます。おいしい山の水です。
境内は、バス遍路、車遍路で賑わっています。
宿の位置の関係で、この時間来る歩き遍路はまずいません。午前中早くか、午後遅くかのどちらかです。
本堂は新築中。残念ながら新しい本堂はコンクリート造りのようです。

雲辺寺山門

66番雲辺寺

雲辺寺の杉

釈迦涅槃像

五百羅漢 

雲辺寺を下る

お参りした後、境内を歩き回ったり、大きな杉の木肌の様子を見たりしてゆっくり過ごします。
釈迦涅槃像や五百羅漢、新しく造られたものですが、これだけの数が揃うと、独特の雰囲気を醸し出しています。

「雲辺寺への道」
雲辺寺は行政的には阿波に属しています。それは昔より寺の近くの大きな町は阿波池田であり、その白地(はくち)という所から登ったためと云われています。しかし霊場としては讃岐の霊場に数えられます。
主要な登り口も寺の四方にあります。白地(阿波池田)、大野原(讃岐観音寺)、佐野(阿波池田)、七田(伊予境目)。ところが、江戸期の遍路記(澄禅、四国遍路日記)、(真念、四国遍路道指南)、四国遍礼名所図会のいずれも佐野よりの登山道を紹介しています。これは四国八十八箇所霊場の廻り順(その順路の近さ、便利さ)に拠るものでしょうか。
寂本の「四国遍礼霊場記」には次のような記述があります。
「山は険しく、道は奥深く巡る。五十丁登って寺に至る。堂が雲に包まれて雲辺寺の名をもっともと感じさせる。山の根は伊予、讃岐、阿波、土佐の四つの国に跨り、昔は四国坊と呼ばれる四つの寺があった。今は雲辺寺のみが残る。阿波の国主が造営したが昔から讃岐霊場の一つに数えられる・・ 
本尊は千手観音、脇士は不動、毘沙門天、いずれも空海の作。・・猟師が鹿を射て菩提心を発する・・という説話を伝えるが、縁起は一部失われて未完である・・」

 


今日の宿は、ここから4.5k先。雲辺寺からの下り道は、段差が大きく膝にくる道。ゆっくり下るつもりですが、それでも宿に早く着き過ぎ。100mか200mおきにあるベンチの殆どに腰掛て下りました。下る道の先、観音寺へと通ずる溜池の多い平野が見えてきます。何とはなく人の濃い気配を感じます。

観音寺に通ずる平野

15時40分、民宿青空に着きました。
この宿、遍路仲間では大変評判が良いのです。素晴らしい環境、申し分ない施設。それにも増して、ご主人、若い女将さんの気配りが素晴らしい。恐縮するほどでした。
同宿は4人。埼玉の60代車遍路、埼玉の50代、北海道の若いスーパーマン。スーパーマンは、走り、歩きのスペシャリスト。時速7kは下らないといいます。埼玉50代は、雲辺寺の上りまでで時間を食い、ケーブルカーで下りてきたという。明日ケーブルカーで上り歩き直しで下りてくるという。歩き遍路の拘りですね。
いろんな話題、ずれたり、噛みあったりおおいに盛り上がる夜。

本日の歩行     44903歩     地図上の距離: 24.5k



平成20年10月15日     青い海を見て、観音寺で区切る 


朝の田


朝の田畦

本日を今回の区切り打ちの最終日とすることにしました。
高松まで行けたらと企んでいたのですが、少々体調が・・それにちょっと気になる用件もあって・・。これもお大師さんのご指示と解することに異存はありません。

宿は、雲辺寺に向って緩やかに上がる高原の裾にあります。朝のしっとりした空気のなかで、田圃の畦が輝いていました。
そんななかを宿から雲辺寺へのケーブルカー駅の前を通って、別格16番萩原寺へ向います。
地元では地蔵院とだけ呼ばれます。立派なお寺です。寺名の由来でもある名物の萩の花は、残念ながらもう終わりで、名残りの花が幾つか残っているだけでしたけれど・・。


 別格16番萩原寺山門


県道241号を通って、67番札所大興寺へ向います。
「おつかれ・・どっからきたん・・」声がかかります。
こういった何でもない立ち話。遍路の道では、とてつもなく有難いことに思えるのです。
軽トラに乗った車お接待のお年寄りにも会いました。緑や赤の混じった、たくさんの納め札を手に持ちながら・・。
「えらいのー。ことわるへんろさんも多いけんど・・さきおとといは善通寺まで案内しましたがー・・」
遍路を案内することが自慢で、老後の楽しみになっているようです。

それから、溜池の多くある平野の道を右左して、68番札所神恵院、69番札所観音寺へ。

丁石仏

67番大興寺山門

大興寺本堂

コスモス畑を見て

68番神恵院、69番観音寺山門

山門の仁王

神恵院の遍路

観音寺から裏山の道を少々上れば、あの砂で造られた銭形が見えます。
これは遍路とは関係ない江戸時代の遺蹟なのですが、遍路を題材としたあるテレビドラマで効果的に扱われていたこともあって、何やら思わせぶりなのですね。
天気もよく、瀬戸内海の海の色が殊更きれいでした。向いは広島県尾道あたりだといいます。
蛸焼きとアイスクリンを売るおじさんが1人。他には誰もいません。
「さあ、帰ろう・・」ここで、遍路装束を解くことにしました。

 銭形と瀬戸の海

本日の歩行     39488歩     地図上の距離: 21.6k

                          (二巡目第5回 遍路の旅日記 おわり)

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