四国遍路の旅記録 二巡目 第5回 その2

平成20年10月8日     興隆寺に参り、横峰の麓まで

日の出

朝の遍路道で

今日は、明日の予定に備えてどうしても小松まで行きたいのです。
お参りする札所は別格2箇寺を加えて6箇寺。距離も昨日より長い。
札所以外の番外霊場は門前での遥拝で失礼させていただくことにさせておくんなさい。・・って、こんなこと言うと2、3日前寄ったお寺のお坊様に、こっぴどく叱られそう。許してつかーさい。お参りにゃ30分はかかるんじゃけん、背に腹は変えられんのでがんす。(とたんに広島弁)

お勤め、朝食のあと、仙遊寺を7時30分に発つ。山道を下り6k、59番札所国分寺にお参り。その前に、上の写真の「朝の遍路道で」出会った風景。よく、あるんです。
枯葉が宙を舞っているのか、それとも蜘蛛の糸に架かっているのか・・どちらでしょう。

この先に湯ノ浦温泉がある。同宿のTさんは、今日は休養日、ここに泊まると言っておられた。私のような区切り遍路は、あまり関係ないのですが、通しで回られる方は、疲れが溜まります。たまに休養日取るのもいい方法でしょう。

今治小松自動車道の側道を通り、栴檀寺(世田薬師)、臼井御来迎、日切大師を遥拝。
吉岡小学校の近くに遍路休憩所があります。ここでお会いしたのが、神奈川のYさん。
73歳だが海外工事の現役で、若々しい。あとで健脚と判る。現役だから若いのか、若いから現役でおられるのか・・まあ、どっちでもいいけど。
7、8k先の温泉を予約したがまだ早い時間、これから何処にゆこうか迷っておられる。興隆寺にお誘いする。

興隆寺までは6kほどですが、標高275mの場所。なだらかな坂道がけっこう応えます。最後はYさんが先行することに。これで、私より相当健脚だと判明す。
別格10番札所西山興隆寺。私は3年ぶり、2度目のお参りですが立派な佇まいにやはり感動します。無明から光明への架け橋という朱い御由流宜橋を渡るとなだらかな参道が山門に続きます。杉木立の中の静寂の空間です。立派な本堂も国重文と聞きます。もみじの木立の陰に三重塔や観音さまや不動さんが潜んでいます。
Yさんも、盛んに「いいお寺に連れてきていただいた・・」と繰り返しています。

興龍寺山門

別格10番西山興隆寺

興隆寺の観音菩薩

興隆寺本堂

Yさんと別れ、別格11番札所生木地蔵にお参り。
黄金靡く田圃や、傾いた日に輝く中山川の流れを見ながら、小松に入りました。
そして、61番札所香園寺、62番札所宝寿寺、63番札所吉祥寺とお参りし、小松駅前の宿、ビジネス旅館小松に入ったのは、もう17時に近い頃でした。

別格11番生木地蔵 


 中山川の流れ 

黄金の田園

61番香園寺

63番吉祥寺で

更に遅く宿に入った人がいました。前日宿坊で同宿のAさん。早出してもう横峰寺も打ってきたといっています。
この宿、肉屋さんの経営で、名物の肉鍋(遍路が泊る宿では珍しい)に満足・・。

本日の歩行     65543歩     地図上の距離: 33.2k



平成20年10月9日     登って降りてまた登る、横峰寺、石鎚成就社へ

今日の行程は、小松から60番札所横峰寺に上り、その先モエ坂を下り河口へ。
河口から今宮道を上り、石鎚山成就社まで。高さで言うと、700m上り、500mくだる。また1200m上る、上り下りのきついルートとなります。
横峰寺、成就社への「道しるべ」(青字)をまじえて書きます。

「道しるべ」 横峰寺への小松ルート

ビジネス旅館小松より松山自動車道石鎚山SA東側を通り南下、横峰寺へ至るルート。
山道に入る直前の道が崩落して以来、最近のへんろ地図からは抹消されています。
旅館で戴ける手書きの地図は、崩落地点直前より右に延びる林道を経由するルート。これは前回通りました。
今回は、崩落地点を直進する昔からのへんろ道を是非通りたい。通れるという噂しきり。事実通られた人も多いようです。
旅館の手書き地図にも簡単なルートメモが付いています。聞くと、仙遊寺の若い女性(あーあの人か・・と思い当る。)が実際に通り記入したという。

それでは、私の通った道の状況を記しておきましょう。所要時間については、こういう類の紹介者自体がそうであることが多いことから、健脚用が一般。私のように弱足用は珍しいかも・・。膝も目も悪い私は特に下りが極端に遅いのです。(上りと下りの所要時間はあまり変らないのです)なお、休憩時間や迷った時間なども含まれています。

旅館を出て点滅信号を左折、150m右折、自動車道の下を通って南下。40分で左に常盤砕石場。ここより砂利道、アスファルト道、砂利道。
65分、右に林道分岐、前方は草の先崩落地点。ここが一番迷い易い箇所。行きつ、戻りつ・・。林道に右折しすぐ左折、草の中を分け入るのが正解。気付けば上の枝に遍路道札。2、3分で道らしくなりやがて丁石仏が現れ安堵させます。
これから登り道。2箇所ある分岐はいずれも右。遍路道札があったり、行ってはならぬ道には材木が置いてあったり、迷うことはまずないでしょう。
宿より2時間で、香園寺奥の院から上がってくる道に合流。横峰寺まで3.6kの地点。ここより下ったり上ったり自動車道に達します。寺まで1.2k。
宿から寺まで3時間40分要しました。

横峰寺遍路道の地蔵

横峰寺遍路道

横峰寺山門

60番横峰寺本堂

横峰寺は、思ったより閑散としていました。本堂の下にあった納経所は仮に本堂内に移されています。
そこでYさんにばったり。湯浪の道を上がってこられたよう。「こんな悪い道は初めてだ・・」とぼやき。香園寺道を下られるよう。
私はまだ先が・・。お別れして、500m先、石鎚山発心の門として有名な鉄の鳥居がある星の森に向います。
鉄の鳥居の向こう、石鎚山は雲の中にありました。

星ノ森、鉄の鳥居

モエ坂を下る

「道しるべ」 成就社へ、モエ坂、今宮道

ここより左下に延びるモエ坂を辿り虎杖(いたずり)、河口(こうぐち)を目指します。
前回は天候が悪く諦めた道。前回には無かった協力会の道しるべがあり、「石鎚山頂 13.1k 8時間」とあります。この場所にいる時刻によって、さてどこまで行けるか・・、目安になるでしょう。
低い草が生えた道を15分ほど下ると、薬師堂が現れます。

薬師堂 

部落跡と六地蔵

この山道の途中にある小さなお堂、ちょっと驚く薬師堂なのです。
本尊薬師如来に弘法大師と不動明王も合祀されています。前面の壁に縁起が記されています。お堂改修の寄付者名簿に地元の他、岡山、名古屋、奈良、堺、愛知の人が名を連ねているのです。思いもよらぬことです・・。
更なる驚きは、お堂の横に古い六地蔵とまだ新しい石柱。石柱には「元千足山村字郷部落跡」とあります。今は人の気配からも遠く隔たったような急斜面の山中。ここにかって部落があったというのでしょうか。そして、今も遠くの人が思いを寄せるお堂が・・。
その昔、日本という国はどんな国だったのでしょうか・・、人々の生活は・・混乱した頭の中で暫し思い惑います。

豊かな照葉樹林の中での採集や焼畑・・、こういった生活から江戸時代を通じて進展した水田を基とした生活への転換。それに伴って、村は変貌し、神の住処もまた聖域としてのアジールも形を変え消えていった・・。
そういうことなのかもしれない、などと妄想したりしたものでした。

モエ坂(路面崩壊箇所) 

水の流れ

お堂の下より道の所々にコンクリートを流しており、それに苔が生え滑ります。私も転倒1回。さらに路面が崩れた所、水が路面を洗っている所・・、かなり歩き難い道です。
慰めは、いつも沢の水音が道の右方から爽やかに聞こえていること。下り切る前で、その沢を渡ります。多くの小滝をつくって水は見事に流れていました。
虎杖に下ったところ、右横峯寺の石柱と祠があります。
星の森からここまで、薬師堂での長居を含め1時間40分でした。

河口まで更に25分。犬がけたたましく鳴いていますが、人影は見当たりません。廃業して久しいのでしょう、色褪めた旅館の看板に寂しさを感じます。

ここより、標高差1200m、距離5.8kの登山道(今宮道)を登り、石鎚神社成就社に向います。
登山道の入口に通行禁止の看板。自己責任で・・という意味。
この道、今宮の集落の前後で2回林道を横切りますが、その場所の標識に注意すれば、あとは迷うことのない一本道。ただ、最初の林道交差点、先に崖を登る本来の登山道が見えますが、危険と見えチェーンで閉鎖。300m位い、林道を辿り迂回します。
今宮の道沿いで見た家は、無人廃屋。この集落自体住人がいるのかどうか疑いたくなるほどです。
集落の上で杉の伐採作業中。付近に西条市名木50選に選ばれた大杉があります。
この成就社への登山道、浮石が多いものの特に悪い道ではありません。ただ、全行程杉林の中で展望は全くありません。所々に、石鎚山三十六王子社のお社や石柱があり、これに頭を下げる以外ひたすら足を前に繰り出すのみの退屈な道なのです。

今宮道の始まり

今宮道

 辺りがやや薄暗くなる頃、スキー場のリフトが見えてきます。
簡素な建物の奥前神寺に到着。ロープウエイ山頂駅も間近。
広い山道を通ってようやく成就社に辿り着きます。ほんとに、辿り着くという感じそのまま。疲れの極致でした。
河口を出て約4時間。成就社にお参りし、門前の玉屋旅館に入ったのはもう5時を大分回った頃でした。

石鎚神社成就社

逞しい女将さん。対照的におとなしいおばあさんと若い男(息子さんか)、いや失礼、失礼。
行者で法螺貝吹きの名手と聞くご主人は、残念ながらご不在でした。
同宿は大阪の73歳、71歳のご夫婦。ご主人のアクセントで広島出身者とすぐ判明。何となく打ち解けるから不思議です。夫婦で山に登るのが趣味という。明日はここからゆっくり石鎚山に登り、宿に連泊するという。
お二人とも若々しい笑顔、楽しさが溢れておられました。

本日の歩行     40221歩     地図上の距離: 18.1k

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四国遍路の旅記録 二巡目 第5回 その1

第5回の区切り打ちへ

5回目の区切り打ちは、松山の52番太山寺からとなりました。出来れば高松の83番一宮寺まで行きたいと思っていました。でも、体力、気力の劣化は確実に進行しているようです。無理はご法度ですね。果たして、香川県に少し入ったところ、69番観音寺で区切ることになりました。
大きな目標とした、石鎚山に上ること、仙龍寺、箸蔵寺といった遠く離れた別格札所に参ること、の二つともどうにか達成することができました。
この度は、あの心躍るような南国の海にも、心慰むたくさんの花にも会うことはできませんでしたが、石鎚の力漲る岩壁、紅葉の艶やかさ、別格の大寺の長い長い時の間の人の思いを宿した幽玄な佇まいは、特に心に強い印象として残りました。
全てのこと、いつも道中を見守っていただいた、お大師さんのご配慮であったのでしょう。

私の粗雑な記録では、その殆どを記すことができませんでしたが、四国の多くの人の心に触れさせていただき、また、お世話になりました。心からの感謝を。

なお、いつもの通り、記録中「へんろ地図」とあるのは、へんろみち保存協力会編第8版です。また、同協力会を「協力会」と略記したところもあります。
通る遍路が少ないと思われる番外霊場への道などについては、「道しるべ」として字色を変えて道の状況を記しました。初めて通行を計画される方の参考にでもなれば幸いです。






平成20年10月6日     松山港から、二つの奥の院への道

広島と松山はほんとに近い。1時間と少々、高速船に乗れば松山観光港に立つことができるのです。
港で遍路装束に着替え、20mも歩けば、もう遍路道です。今回の区切り打ちの最初の霊場、52番太山寺奥の院のある経ケ森峯山頂への道です。
道の入口で、犬と散歩の奥様。早速のお言葉「足元がじゅるいけー きーつけてなー」
そう、昨夜来の雨はまだ完全にあがってはいません。道は濡れています。
山道を1kほど上り、右に分岐、急坂を200m登り、標高203mの経ケ森峯山頂に着きました。歩き始め、汗の量も尋常ではありません。
山頂には十一面観音が高い台座の上におられます。不動明王を祀る石の祠もあります。最初のお参り。
曇ってはいますが、眼下に松山港、瀬戸内海の島々が一望のもとです。右に目を転ずれば、松山の堀江町、和気町あたりの街並みも見えるのです。

経ケ森峯への道


52番太山寺奥の院、十一面観音

 経ケ森頂上から見る瀬戸の海

 経ケ森頂上から見る堀江付近

山を下り0.5k、太山寺の本堂横に直接出ます。境内は、小学生の写生大会。突如現れた遍路。一斉に「こんにちはー」の声。子供達の目から見ても、札所にはやはり遍路の姿がよく似合うのでしょう。


太山寺から、へんろ地図にある山道を辿って53番円明寺奥の院、海岸山観音堂に行くつもりでした。
太山寺参道のこの辺りと思しき所左折すると、果樹園の倉庫があり、おじさん、おばさんがいます。
「たまにこの道を行く遍路さんがいるけど、大抵迷って引き返してくるよ・・」おばさんの声。それを聞いてあきらめました。
もう少し下がった所、祭りの準備に忙しい若い人の集団がいます。25000地形図を示して聞きます。
「わしは、ここの地元のもんだけど、行って行けないこともないと思うけど・・」といかにも自信が無さそうな答え。
もういい、諦めたよ。もう少し下の車道を回ることにしますよ。
車道を歩いていると、声がかかります。「どこいくのー」「53番奥の院」というと「あー奥の院ならこれでいい・・」うーん、あんまり人が行かないとこに行くのってけっこう骨がおれることだなー。
途中、協力会の道しるべを2箇所で見ました。でも、文字は消えかかり辛うじて判読できる状態。へんろ地図に載っている道でも、通る人が殆ど無ければ、数年で草の中に埋もれてしまうでしょう。道しるべも朽ちて・・。この道も、ことによるとそういう道の一つかもしれません。
太山寺から3.5kくらいでしょうか。大きな岩陰に小さなお堂がありました。海岸山観音堂です。
山号、海岸山ですから、昔は海の入江に面していたのでしょう。今は埋め立てられて、海の気配は片鱗も伺えません。残念なことです。
私は、これまで多くの奥の院にお参りさせていただきましたが、正直、失望を禁じえないところも・・。このお堂もどちらかと言うと残念な方かもしれませんね。
奥の院って、本寺が管理するところは少ないらしいですね。不思議なことですね。

海岸山観音堂

一部来た道を引き返し、53番札所円明寺に向います。2.3kほど。円明寺にお参り。納経所で、奥の院への山道についてお聞きします。
「わしは行ったことないが、通れる」 「ほんとかなー」って呟いた遍路の声、聞かれちゃったかな。

53番円明寺

優しく静かな瀬戸の海を左手に、国道196号、県道179号を歩きます。
浜に打ち寄せる波頭が何と穏やかなこと・・。


 瀬戸の浜辺

北条の街。ここは早坂曉の自伝的テレビドラマ「花へんろ」の舞台でもあります。どことなく潜んだ華やかさを感じます。ふと、遍路道に蹲る女人の姿が浮かんだりします。感傷ですね。ことによると煩悩ですね・・。
養護院に参る。本堂を改築中。真新しい縁に上がるのを躊躇っていると「よう、お参り。どうぞそのまま・・」の声。

北条の街

国道を離れ、鎌大師に参ります。
私も心ばかりの協力をさせていただいた遍路休憩所、立派に出来ていました。
堂守明応さんとは3年ぶり、懐かしくお話しさせていただきました。
この方、書かれると途端に厳しい内容となるのですが、こうやってお話しさせていただくと、気さくで心暖かさを感じます。不思議な方。(明応さんが読まれないことを期待して、失礼を・・)
近くのお年寄りが、取り留めないお話しにお堂に寄られていました。ここは、近隣の人の気のおけぬ憩いの場になっている・・、そんな気がしました。

鎌大師

腰折の峠から見る浅海の風景は好きです。家並の間はまだ黄金の田圃、向こうは島多き瀬戸の海。

浅海の街を望む

峠を下ったところ、今夜の宿コスタブランカに入りました。

本日の歩行     42308歩     地図上の距離:22.8k



平成20年10月7日     静かな瀬戸を左に見て、今治の街へ 

かもめ

今治の市街までは、左に瀬戸内海を眺め、国道196号を行きます。旧道がある所は、それを丹念に辿りますけれど。
お参りするところも札所5箇寺、番外霊場1箇寺と多い。
宿から5k、菊間の遍照院に参ります。
菊間は全国的に知られる瓦の町。本堂の屋根の装飾瓦、門前に置かれた鬼瓦が目を引きます。おばあさんが居られて、お菓子のお接待をいただきました。この夜、同宿の方からも同じ話を聞きました。早朝からここに座って、ぽつぽつと参る遍路に接待されているのでしょう。
ああ、おばあさんと言えば・・。狭い旧道の寂しい四つ角などには、きまって何人かのおばあさんが椅子にかけているのです。通る遍路に、「ごくろうさんねー、これ真っ直ぐねー」とか「右の道行った方が近いよー」などと、交通整理をやっているのです。おもしろい風景かも・・。

遍照院本堂の屋根

次の札所までは長距離。14k、海岸の道を離れ田園の中、54番札所延命寺に着きます。

54番延命寺

55番南光坊大師堂

南光坊の遍路

小高い丘にある、広い大谷霊園の中を通り、今治の市街に。55番札所南光坊に参る。隣の元札所別宮大山祇神社にも寄る。
ここから、ほぼ3k毎に3つの札所が続きます。56番札所泰山寺、57番札所栄福寺そして58番札所仙遊寺です。
泰山寺の先、遍路道は頭を垂れた黄金の田圃の中を通ります。昔の遍路は、多くこういう道を歩いたのだろうかとふと思います。その道の先に昔の遍路の無縁墓があるのです。ですから、この道は、昔からの遍路道に違いありません。2、30m横、並行してもっと歩き易い道があるのですが、こういう道を歩かせていただけるのは、多分、協力会辺りの温情ある仕業に違いありません。
3年前と寸分変らぬ様子。無縁墓では、コスモスと菊が風に揺れていました。

泰山寺先の遍路道

無縁遍路の墓

蒼社川の土手に道標があり、「渇水時に川の中を歩いた遍路道」とへんろ地図に解説された場所があります。最近、歩かれた人がいるという話を聞いたことがあるのですが、眺めた限り、草は鬱蒼としているし、水量もかなりあります。簡単には渡れないでしょう。これも、先ほどのその筋の温情溢れる仕業の続きなのかも・・。

小さな寂しい寺、栄福寺の先は、久しぶりの山道です。犬塚池という池の畔を通ります。何故って、池の手前に犬塚があるからです。
昔、仙遊寺と栄福寺の間の連絡を手伝う犬がいたといいます。寺の鐘の音を合図に往復していました。ある時、二つの寺の鐘が同時に鳴り、迷った犬は池に落ちて死んだんだそうです。・・という話。

犬塚

仙遊寺への道

仙遊寺の山門(この門には仙遊寺の山号、作礼山ではなく、補陀落山と書かれています。その理由は後でわかります。)から上る石の道はきついのです。
途中にあるお大師のお加持水で喉を潤すようになっています。
最後の石段を上ると、どうしてだか、お大師さんの後姿が見えます。仙遊寺です。

仙遊寺山門


仙遊寺山門

仙遊寺へ

仙遊寺大師堂

仙遊寺から見る今治の街並み

立派な宿坊。同宿は名古屋のTさん、車遍路の方、それに翌朝の御勤め前に出発された神奈川のAさん、私を入れて4人。

仙遊寺での朝の御勤め(当然、実際は8日のことですがここに留めます)

朝6時、本堂では、ご住職はじめお寺の方十名余り、それに宿坊泊りの年寄り3名、通夜堂泊りの若者1名が加わり御勤め。
お寺の方が、読経唱和。おそらく観音経(妙法蓮華経 観世音菩薩 普門品偈)でしょう。(この寺のご本尊は十一面観音菩薩。ちょっと不思議ですが、山門には山号作礼山ではなく、観音の住まう地として、補陀落山と掲額されているのです。)
ご住職の読経に和す女の方の声が、朝のしじまの中で夢のように響き渡ります。感動させられます。
全員で般若心経を唱えた後、ご住職の講話。
独特のお話しで知らています。この宿坊に泊めていただいた目的のひとつは、この講話をお聞きすることでもありました。
出身地の名古屋でのこと、最近、東欧の国を訪ねられたときのお話と続きます。
「かの国の寺院は異教との戦いの歴史を陳列する場所。宗教は死んでしまっています・・」
わが国での宗教の役割。どう生きて行くか心の持ち方を導くこと、生きることの癒しを与えること・・。心に響くお話しでありました。
生活も楽しまれておられるよう。宿坊に空手の道場を持ち、彫刻もやられる。廊下にあった裸婦像。モデルは奥様だそう・・。おっとっと。
終りに、3人の年寄りに向って「そろそろあの世にゆく準備を・・」のお言葉。
宗教者としては当然でしょうけれど、煩悩の抜けぬ我が身。後で、もう一人の年寄りと「死というもの、準備して迎えるものでしょうかねー・・」などと語り合ったものでありました。
(なお、ご講話の内容については、私の感じたまま。不正確であろうこと、お許しください。)

本日の歩行     50869歩     地図上の距離: 30.8k     

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杉林の中の静寂、明通寺(2)三重塔


















     福井県小浜市門前にある棡山明通寺。前回に続き、三重塔を見る。本堂の奥、
     杉の緑に一層包まれるように佇む塔。本堂よりやや後、文永7年(1270)の再建。
     組物は定石の三手先。和様を基調とするが細部に大仏様が取り入れられている
     という。(例えば、6枚目の写真の三手先組物の最上部拳鼻(こぶしばな))
     総高22.1m、大きい塔ではない。勾配の緩やかな反りの少ない桧皮葺の屋根
     は素朴な印象を与えているように思われる。わが国に残る三重塔では7番目に
     古いもの。奈良、京都以外では以前に紹介した兵庫県加西市の一乗寺三重塔
     に次ぐ。本堂とともに国宝である。

     (小浜の市内から小さな松永川の流れに沿って田圃の中の道を辿れば、杉林
      の山麓に至る。明通寺の立派な山門に迎えられる。杉の大樹の中でこそ得られ
      るこの静寂と何とも言えぬ緊張感は貴重であると思わせられる。
      小浜は福井県に属するけれど、北陸圏というより、京都、大坂との繋がりが強い
      ようだ。昔は、日本海を隔てて、大陸と奈良、京都の間の文物の交流の接点の
      役割を果たした地であろう。今は静かな日本海に面した港。大陸の人で賑わった
      であろう古を想像する術はない。)
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杉林の中の静寂、明通寺(1)本堂


















     若狭湾に面した福井県小浜市は、「海のある奈良」とも呼ばれる。古くは、海を
     介して大陸との接点であり、この地には今もなお多くの寺が犇いている。
     奈良東大寺のお水取り、そのお水送りの寺として有名な神宮寺がある。この地と
     東大寺とは地下水脈で繋がっているという壮大な想定、思い。その神宮寺に近く、
     杉林の山麓に棡山明通寺(ゆずりさんみょうつうじ)(真言宗御室派)がある。
     大同元年(806)坂上田村麻呂の建立と伝える。今に残る本堂は、正嘉2年
     (1258)の再建。入母屋造、桧皮葺。和様を基調とし、正面側は見事な蔀戸で
     覆われる。柱間の上部に蟇股を置く。内部は、中世寺院特有の内陣と外陣を
     明確に区分する様式。内陣には、薬師如来、あまり見ることのない降三世明王、
     深沙大将などの像(いずれも棡木の大木の一木造と言われる)を配する。
     隣の三重塔とともに福井県唯一の国宝建築物である。
     写真1:山門、2:本堂と三重塔、4:本堂正面蔀戸、6:外陣から

     (有名な寺だけあって訪れる人は多い。本堂の外陣の畳に座って、寺の由来、
      仏像などについての説明を受ける。説明の合間、ふと目を転ずると適度に開けら
      た戸の間から差し込む光とともに杉の緑や木肌が見える。そう、ここは山麓の
      杉林のなかの寺なのだ。改めて、本堂の縁に座って、周りの緑のなかに身をおく
      と、その静けさは一入である。)
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山懐の朱き・・、光明寺二王門


















     (四国から帰って参りました。また、よろしくお願いします。
      体力、気力の劣化も相当進行しているようで、痛く疲れました。それでも石鎚山
      や番外の立派な寺にも行くことができました。気が進まないのですが、遍路日記
      もまとめなくちゃならんですなー。
      とりあえず、四国の前に行った京都、福井の「国宝を訪ねて」シリーズで繋ぎます。
      お赦しのほどを・・)


     京都府の北部、綾部の君尾山(582m)に光明寺(真言宗醍醐派)を訪ねる。
     寺は、推古7年(599)聖徳太子の開基と伝える。
     目指す国宝の二王門は、本堂から200mほど山道を下った所にある。
     昭和の改修の際、発見された墨書と棟札により宝治2年(1248)の建立と判明。
     三間二層、入母屋造り。三手先の組物、二軒繁垂木。全体に和様で、一部に
     大仏様の影響が見られるという。屋根は珍しく、栗の板で葺いた「とち葺き」。
     門の呼び名、一言講釈。二王門は一階および二階それぞれに屋根を持つ二重
     楼門の別名。仁王門とは、仁王(金剛力士)を安置する門のこと。従って、この門
     は二王門であり仁王門でもある。

     (本堂にお参りして、二王門を探すが見当たらない。近くに寺の住職のお宅と思し
      き一軒家。そこで、山道を下った所と聞く。門の前に立つ。第一印象は芳しくない。
      屋根、軒先の傷みも目立つ。しかし、正面にまわって仰ぎ見るとその印象は一変
      する。木組みと垂木の線の見事さに圧倒される。塗り替えられて50年経過した朱
      も、緑の樹木の中、安堵の色を保っているように思えた。訪ねる人も少ないであ
      ろう。山中に佇む朱き孤門である。)
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