四国遍路の旅記録  三巡目 第4回 その5

伊豆田の峠を越えて四万十河畔へ     (平成22年4月13日) 

朝陽の輝き


久百々の海、ほんのり紅

久万地崎に近い高台に、真っ直ぐ東面して建つこの宿は、水平線の上に出る朝日を見るには、絶好の場所なのです。
室に差し込む光に気付き、外に出た時はもう太陽は海上を離れていましたが、その姿は雨と曇りの続いた数日の後だけに、一入輝かしいものでした。
右方の久百々のあの特徴ある岩礁の様も、その向こうの足摺の山も微かな紅に彩られていました。 


 久万地崎

歩き始めてすぐ出合うのが、下ノ加江川。
四万十川は美しいと言われますが、その河口近くの水と比べると、この下ノ加江川の美しさは際立つものです。
田園の中を悠々と流れる川。四国の最も美しい川の一つではないでしょうか。


 下ノ加江川


田圃の作業(下ノ加江)

旧清水往還道、伊豆田越えを目指します。実はこの道、インターネットのある遍路サイトで知ったベテラン遍路Oさんより、その所在をお教えいただいた道なのです。
通行経緯に入る前にちょっと・・。
件の江戸時代の文献ではどう記されているのでしょう。見ておきます。
澄禅「遍路日記」。
澄禅が四国を歩いたのは夏から秋の期間であり、ちょうど台風の後でもあったらしく生々しい・・。
「イツタ坂トテ大坂在リ、石ドモ落重タル上ニ大木倒テ横タワリシ間、下ヲ通上ヲ越テ苦痛シテ峠ニ至ル。是ヨリ坂ヲ下リテ一ノ瀬ト云所ニ至ル。」
また、真念「道指南」。 
「・・つくらふち(津蔵淵)村、此間いつた坂。くだりて小川有。・・」とある。

さて、市野瀬のドライブイン水車の前を、新伊豆田トンネルの方へは行かず斜め左折、真念庵の前を通ります。
この道は旧伊豆田トンネルに向っていた道です。左に狼内を経て39番延光寺に向かう遍路道の一つ、県道46を分岐して100mほど、左に山を巻くような簡易舗装の道があります。これは中村林道と呼ばれる道で幸増の先で行きどまり。
軽トラが後ろから来て止ります。
例によって「へんろさーん、道まちごーとるがー・・」
言い訳をし、礼を言ってから、ついでに山越えの道について聞きますが、聞いたこともないという返事。
その先で犬を二匹連れた男性。やはり、中村側へ通ずる道は無いだろうというお話・・。
実は、中村林道に入って右に大きくカーブした直後、右手の山に鋸歯状に上る道らしきものが見えていました。
Oさんのお話からも、この辺に伊豆田越えの入口があると聞いています。おそらくこの道でしょう。しかし、ちょっと上る気を起させないほど危険な道に見えました。
私は、林道分岐から50mほど、右側の谷川に沿った平らで巾のある山道に入ってみることにしました。
100mほどで道は無くなりますが、右側に四国電力の金属の道標が。
右上方に尾根が見えていますから、道はありませんが強引に上ります。
果して、尾根には、少し窪んだ、道であったことを思わせる地形がありました。
尾根に沿って上ります。

伊豆田越え入口(私が入った所)

羊歯を払って

深い羊歯を掻き分けたりして進むうち、道らしき形跡は消えてしまいます。
そのあとは、木杭とプラスチック杭、その上の木に下げられた赤いテープを頼りに尾根を上がります。
尾根の頂上に達し、地図を見て左手に峠があると見当。
果して10mほど下ると竹藪を開いた空間。道標を見た時は嬉しかったですよ。
峠の茶屋跡に間違いありません。
辺りには皿や徳利、陶器の破片が散乱しています。
道標には「足摺え 七里二十町」とあり、作州・・の字も見えますから、昔の遍路が立てたものでしょう。
この空間、目を凝らすと西に向いて左手に竹の間にやや道らしきものが見えます。

これまでの上りルートを振り返ってみます。
中村林道を入ってすぐの鋸歯状の上りが、おそらく旧道の入口。それから尾根を辿る道。
そして、私は見付けられなかったけれど、尾根の途中から峠にトラバースするルート。これが、伊豆田越えの旧遍路道であったのではないか・・と私は勝手に確信しました。正しいかどうか・・。

峠の茶屋跡


峠の道標

峠下の石仏

茶屋跡から中村側への下りはちゃんとした山道です。
峠を下った所には、二体の石仏があります。
石仏には、遍路道中安全を願って奉納されたことが刻まれています。
一体の台座には享和元年(1801年)の年号が読み取れます。
 追記):右側石仏はお大師像の様式で、ある書によれば天保5年(1834)大師御遠忌千年に建てられたとあります。左側石仏にも台座にお約束の木履と水差しが彫られていますから、お大師像か・・

旧遍路道でこういった石仏や道標に会うことが如何に嬉しく、力づけられることであることか・・実感させられます。
伊豆田越えの山道の中村側入口は、旧伊豆田トンネルへの道から葛篭山(つづらやま)への林道が分岐した直後の所です。(旧道は、石仏の所から、斜面の等高線に沿うように緩く下っていたようですが、その道は消えてしまっているでしょう。)
入口の目印に竹棒にヤクルトの空瓶が逆さに差してあります。どなたの配慮でしょうか。
旧伊豆田トンネルの入口を見てみました。しっかり閉ざされています。
繁茂した草木の間から覗く「伊豆田隧道」の字が寂しそうです。

(追記)伊豆田峠の道標について
道標の刻文は時を経て一部読み難くなっています。「(梵字)足摺山へ 七里二十丁 作州久米北条郡・・村 水嶋・・/五社へ 十三り半 嘉永四亥三月」までは問題ないでしょう。村名と施主名が不明瞭です。
この後、2018年5月、当時遍路を続けておられ、この道標の施主のご子孫に繋がる方のあるブログへの書き込みがありました。その指摘より施主は「水嶋敏京」であることが判明。また村名は「クワ」の古字が使われており「桑村」であると。(延宝2年(1674)久米北条郡に桑上村と桑下村に分村して桑村が成立したとの記録があります。そこは明治22年、倭文東村を経て現在は津山市の内)
同じ幕末の頃、やはり同じ美作國近隣の出身といわれる修験行者玉林院宗英が発願し、その賛同者と共に真念庵から足摺の道の建てた足摺遍路石。それらの動きとは別に、直前の伊豆田坂に道標を建てた「水嶋敏京」の心意気のようなものを感ぜずにはおれません。(令和3年3月追記)

(追記)峠手前(津蔵渕側)の二つの道標
嘗ては峠越えの谷川に沿った道に置かれたと思われる二つの道標があります。一つは国道トンネル手前の今大師境内に、いま一つは今大師近くの国道脇に置かれています。いずれも明治に設置されたものと思われますが、峠の道標と同じ岡山県(美作、備中)の人の施しであること、江戸期の清へのメインルート(往還道)が、初崎、立石、布村、下の加江であったのに対し、明治を望み伊豆田峠を経る道へと変りつつあったと思われることを踏まえ興味をそそられます。
ほぼ自然石の表面には読み辛い箇所もありますが凡そ次のように刻まれています。(私の誤読があるかも・・)
今大師境内のもの。(梵字)四万十川へ壱リ余 卅丁行一ノセ川ワたり 足摺へ七里卅四丁 作州西西条郡 西富谷 長田乙蔵 當所 常蔵
この道標、峠より十四丁にあったと分かる。「西西條郡」は、明治11年発足、明治33年廃止となった岡山県の郡名。あえて「作州」とした。設置の年代は明治十年代と推定できる。
今大師前国道脇のもの。(梵字)坂 とうけ迄十二丁 足摺へ七リ卅二丁 一ノセ 三十二丁 備中 かるべ 中嶋 別府勘吉 江口市之情
明治10年中島は軽部村と合併。明治11年、岡山県窪屋郡が発足、明治33年廃止。軽部村は同郡に属す。

この道標の設置年も明治十年代と思われる。

道標の語ることばは豊か・・様々な思い。(令和3年12月追記)

 四万十の流れ

四万十の流れ、屋形舟

限りなく緩く流れる四万十川と、その上に屋形船がたゆとう姿を見ていると、心安らかになってきます。
河畔の土手で、宿で戴いたおにぎりを食べました。私は昼食は食べないことが多いのですが、醤油をつけて焼いたおにぎり、大層おいしく戴きました。

今日の宿は、四万十川の左岸。
四万十大橋が架る前は、河口の下田か、今の大橋の少し川上の高島(現在高島という地名は無いようです。今の竹島のことでしょうか)に渡し船があったようです。その高島の渡しに近い宿です。


川の流れ 


 四万十川の畔


宿の女将さんは、若い時から東京に住まわれていたようで、今も大相撲の茶屋をやっておられるとかで、大相撲の開催期間中は休みになるという宿です。
この地の地主さんのお家らしく「歳とって、こっちに帰ってきました・・何もやらんでもいいんだけど・・」と余裕。
東京流の薄味の食事が戴ける宿でもあります。鰹のタタキに飽きた遍路には絶好かも・・。
伊豆田峠を越えてきた、峠の道標や石仏が嬉しかった・・と話すと、我が事のように喜んでいただきました。
女将さんの祖母が7歳の娘(女将さんの母)を連れて遍路した時の納経帳を見せていただきました。
聞いてはいましたが、筆書きではなく版木の納経もけっこうあります。一番近くの霊場、真念庵から始まる納経帳、たくさんの思いが詰まった宝物のようでした。

翌朝は、爽やかな四万十川の流れを見てから、国道56号を歩いて入野へ。
天気も良く、波も静か。入野の浜、それからづっと歩いて白浜や佐賀公園へと。
あの叶崎付近の荒々しい表情の海とは違った、穏やかな海をしっかり目に納め、土佐佐賀の駅で区切りました。
本来は前回区切った須崎まで行く予定でしたが、ちょっと所用ができました。ここまでで家に帰ることにします。


入野の浜



白浜の海岸 

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四国遍路の旅記録  三巡目 第4回 その4

中浜万次郎の故郷     (平成22年4月11日) 


貝ノ川の海岸

 貝ノ川の海岸

この日は叶崎から竜串、土佐清水の街を経て、松尾の宿青岬までの27.5kの行程です。
やはり、道の左側に美しい海と岩の間で騒ぐ波を眺めての歩行です。
多くあるトンネルの一つ歯朶ノ浦トンネルを通らず、海岸の道を通ってみました。
1個所崩れていますが、人の通行は可能です。
道の入口には工事中の看板。工事用の重機は海岸の道に置かれたまま、もう何年も経ったような様子。どうなっているのでしょうか。
月山神社を回る遍路は、その昔は港港の間は多く山越えの道を辿り、それが海岸の道へと変わり、更にトンネルとなった・・、きっとそうなのだと思います。
むろん、遍路だけではありません、一般の住民もまた。
トンネルにより車が通ることが無くなった海岸の道は放置すれば、そのうち崩れてくるでしょう。車道の幅で保持するのではなく、歩道の状態で保持するか、或いは思い切って自然に返してしまう・・それでいいのではないか、などと取り留めなく考えていました。

 
海岸の道

トンネル

海岸の道の崩壊

竜串の街を過ぎます。
ここより南の海岸には、大竹小竹と呼ばれる丸い節理の奇岩や、大師が見残したことに因むと言われる屏風岩などの「見残し海岸」、あるいは海中公園などがある観光地です。
どこの観光地も多かれ少なかれそうですが、現在の不況が齎すのでしょうか、辺りに漂う閑散とした寂しさを感じさせるのです。

道の駅「めじかの里土佐清水」に寄ります。5年前にも寄った懐かしい場所です。
開いている店も一軒だけ、人も少なくちょっと寂しい感じです。
デコポンを買いました。最小で4個入りです。
ちょうど1人の遍路が入ってきましたので、一つお接待とします。この人、この日会った唯一人の遍路でしたが、朝、土佐清水を発って叶崎の宿に泊まると言っています。
「食事は無いんだー・・」と言っています。ちょっとアドバイス。早速電話しています。
道の駅から見える所に、35号へんろ小屋があります。去年秋出来たばかりです。
大月でもそうでしたが、このように道の駅の傍にへんろ小屋を建てることには、ちょっと疑問を感じない訳にはゆきません。
道の駅では、遍路の休憩を拒否している訳ではないのですから、この辺りに来て敢えてへんろ小屋で休憩する遍路がいるのでしょうか・・。私も、またもう一人の遍路も道の駅に来てしまったように。(もちろん、宿泊という意味なら別でしょうが・・)

道の傍の田圃、一家総出の除草作業を見ます。ほっとする風景です。
益野。ここからは、今ノ山を経て三原に通じる道が分岐しています。延光寺へ行く魅力的な遍路道の一つです。
落窪海岸の化石漣痕(波や水流の影響で水中の堆積物の表面に出来た模様が化石化したものをいうそうです。)も目を見張らされるものです。

田圃の作業(下川口)

落窪の漣痕

土佐清水の街を過ぎ、中浜へ向う山越えの道。
近所の人に聞きますが、その入口は見落としてしまいました。逆打ちのデメリットですね。
その代り県道沿いにある清水の名水を見ました。土佐清水の地名の起源ともなったと言われる名水だそうです。でも、今は汚染が進んでいて飲まない方がよいとの注意書き。残念です。

土佐清水港口

中浜万次郎記念碑

中浜の街に入ります。
ここは何と言っても中浜万次郎生誕の地で有名。記念碑があります。
漂流から11年の後、故郷のこの地に帰ってきた万次郎は、三日三晩を母と過ごしただけで、幕府に旗本として登用され、江戸に出向いたといいます。
それからの活躍は広く知られるところですね。
碑の横に、ジョン万次郎が漂流後アメリカでまみえた友人ホイットフィールド船長に宛てた手紙が掲げられています。
原文はおそらく英語で書かれたものでしょうが、しっかりした文体、その時代の日本人を超えていたであろう心の広さを感じさせる感動的なものです。
長文ですが、その場に座ってじっくり読ませていただきました。


ジョン万次郎の手紙

中浜から大浜そして払川、その先の山道を越えると、辺りは開けた公園の中。
そんな場所にあるのが今日の宿青岬でした。
この宿、思いもよらぬ驚きの宿だったのです。
まず、ロケーションの素晴らしさ。元、森林組合の保養所だったそうですが、前方いっぱいに拡がる海の眺望です。
施設の素晴らしさ、そして料理の豪華さです。
ご主人と奥さまが管理されていますが、ご主人は独自の経営思想をお持ちのようで、料理人でもあるようです。うつぼのから揚げの特別料理、何とも美味でした。
私は小食で料理の殆どを残してしまったことは残念ですが・・。是非、美食家の方と来てみたいものです。
客は車遍路の人、車の一般観光客、馴染みの歩き遍路が多いと聞きましたが、これで料金は、一般の民宿の1割高程度。経営が成り立つのか・・心配になるほどです。
私にとっては、ちょっとした感動の体験でした。
ここに歩いてくる途中、松崎で「○のくじら」という魅力的なペンションの看板も見ました。
ことによると、遍路が泊る宿もこれから後、変わってくるのではないか・・そんな気もするのです。


青岬の宿から松尾の街を



雨、雨、雨の足摺で     (平成22年4月12日)

感動の宿青岬を出て、38番札所金剛福寺にお参りし、足摺の東海岸を北上、九万地崎の宿まで約25kです。
予報の雨を聞いて、短い行程としました。
予報通りの雨です。ポンチョを着て出ます。
宿の隣の「うすばえさくら公園」、桜はもう大方散っていますが、少し前はさぞかし・・と思わせます。
松尾。坂の多い静かな街です。樹齢300年というアコウの大樹が、街の真ん中に聳えていますが、遍路道沿いに思わぬ見物がありました。
国指定重文「吉福家住宅」です。
明治34年、一代で財を築いた網元の二代目、吉福嘉太郎によって建てられた住宅。
日本古来の建築の伝統を踏襲しながら、随所に生活のし易さと楽しみが得られる空間が造られています。私にとっては、昔何処かで会ったような懐かしさを感じる家でもあります。
そして、このカラッとした明るい佇まいは、何ものにも代え難い貴重なものに思えます。
興味のある方、ぜひお寄りになるようお勧めします。

吉福家住宅

吉福家住宅

吉福家住宅

吉福家住宅



松尾の石垣の道

松尾の海辺

(追記)松尾の漁村について
宮本常一は、昭和52年の農林省「農山漁家生活改善技術資料収集調査」の一環として、当時の当主吉福金三さん(当時76歳)に「鰹漁」についての聞書を行っています。その中で次のように記しています。
「この地方の鰹漁は寛文5年(1665)頃にはじまった。紀州の印南浦から28槽が出漁したのに始まるといわれる。・・」「松尾は今(昭和52年当時)人口が1000人ほどになっているが大正7年には2700人もいた。その頃が松尾の最盛期で愛媛からたくさんの船方が稼ぎに来ていた。・・」
平成22年の調査では人口390人となっています。
古くからの農民の地に江戸中期、紀州からの鰹漁師が来て滞在しやがて定住するようになった、そのため一見農村的な漁村が出現したと宮本は考えたようです。
「松尾の村は海蝕崖の上の緩斜面にあり、海におりるには急な坂道を降りてゆかねばならない・・」この状況は今も変わりません。
私はその急な石段の道を海辺へと降りてゆきました。(写真をご覧ください。)上の別世界のように立派な「吉福家住宅」と下の崩れかけた家の落差の大きさを感じていました。それは松尾の地形と鰹漁の盛衰の歴史を象徴するものでもありました。(平成31年1月思い出して追記)



38番札所金剛福寺。
強い雨の中のお参りとなりました。納経所で歩き遍路へのお接待、虎が水晶玉の乗った御守りを戴きました。
誰も参るひとのいない隣の神社の参道では、雨に濡れる桜の花びら・・。
足摺岬も灯台も雨に霞んでいました。

金剛福寺の推移
金剛福寺は古い歴史を持つ寺です。その推移を辿るには、澄禅の「四国遍路日記」や寂本の「四国遍礼霊場記」などを見るより、鎌倉時代末頃の久我雅忠女の日記「とはずがたり」や室町時代末の「蹉陀山縁起」を見るほうがその様子が想像できると言われます。
まず「とはずがたり」、13世紀末のこと。「かの岬に堂一つあり。本尊は観音におはします。隔てもなく(一間のみの意)また坊主(僧侶の意)もなし。ただ修行者行きかかる人のみ集りて、上もなく下もなし」とあります。
「とはずがたり」にもまた「蹉陀山縁起」にも補陀落渡海の話が残されています。
「それは、弟子の小法師が先だって渡海したことを悲しんだ僧侶が岬に立って「残念だ・・自分も連れていけ・・」と足摺をした・・と。地名起源の形をもとっています。
足摺の名の起源についていえば、澄禅もまた「名所図会」も異なった伝えを記しています。名所図会は「此山、役行者修行の時、天狗多かりしを咒伏せしカバ、天狗共足ずりもだえけるより蹉跎山と云・・」(澄禅は、これを大師の話とし、更に蹉跎の二字を「足スリフミニジルト訓ズル成也。其訓ヲ其儘用ヒテ足摺山ト云也」と解説している。)と記しています。興味深い話です。

五来重博士は、「岬の先端に立って常世を礼拝するときに、足踏みをしたり、五体投地をすることによって、自らの身を苦しめながら礼拝したのが足摺・・」と解釈されているようです。
                      (令和5年8月改稿)

四国遍礼霊場記 蹉陀山金剛福寺

今は、すべてが雨の中、茫としていますが、ここまで歩いてきて見た小才角、貝ノ川・・その海岸の岩や波の様を想い起こしていました。観音の浄土を目指した多くの人の中に、ここにこそ、自らの足の下にこそ、その浄土があると思った人はいなかったのでしょうか・・ふと、そんなことを考えていました。

散る桜

金剛福寺

足摺岬

只管、雨の県道歩きです。山道は極力回避です。
津呂のへんろ小屋では、遍路二人が早い昼食中でしょうか。ポンチョを脱ぐのが面倒で、挨拶しただけで通り過ぎました。
以布利遍路橋もパスして県道歩き。女性の遍路に会います。この人も山道は回避して歩いているよう。
「あー、よかった。道間違っているかと思って・・」 
以布利の「浜を通る遍路道」は歩いてみました。
浜に下る道はまるで川のようです。道しるべ地蔵には辛うじてごあいさつ。 


大岐の浜

大岐の浜はどうしても歩きたい所。
雨の中で霞む、浜も、波も・・。あの晴天の輝く浜と青い波を、ただ、ただ想います。
浜から上ったところの食堂で、珍しく昼食のうどんを戴きます。雨宿りと持て余した時間の処理を兼ねて・・。

久百々海岸 

 
百々海岸

懐かしく、そして限りなく見事な久百々の海岸を見ながら歩き、早い時刻に久万地崎に近い宿に入ります。
同宿は、65歳の「若いだろ、若いだろ・・」遍路。60歳の若い高知の遍路。16歳の横浜の高校生遍路。東京の60代?と20歳の父娘遍路。
父娘遍路は、父はバス、電車で行って娘は歩くという不思議な遍路行。父は「わしゃー喘息でなー・・」と言ってたばこを吸う。
とにかくちょっと変わったメンバーではありましたよ・・。

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四国遍路の旅記録  三巡目 第4回 その3

 一本松先、集団登校の傘

遍路道での出会い     (平成22年4月9日)

夜来の雨は降り止む気配も見せず、予報では今日一日雨の模様。
女将さんの見送り、ポンチョを被って宿を発ちます。
松尾峠に向う道。色とりどりの傘、小学生の集団登校。「おはよー、おはよー」の弾んだ声。

この松尾峠越えの道。実に多くの順打ち遍路とお会いすることができたのです。老若男女、15人以上(それ以上は数え忘れました)
2番目に会った年配の男性。
松尾峠の休憩小屋で。話していると、何やら横柄な口の利き方なので
「もう、何回もお回りですか・・」と聞くと 「あんたの歳より多くなー」 
「それはすごい・・」 「どうも疑っておるなー、これを見ろ」
とリュックから納経帳を出す。
一面真っ赤。そうか、これが見せたかったのだなー。嫌な遍路。

松尾峠への道

松尾峠

宿毛湾を望む

 峠を下る

峠からの下りでお会いした3番目の人がTさん。
顔を合わせたことはありませんでしたが、インターネットのある遍路サイトで何度か言葉を交わした人。
先達の資格も取得され、この時期6巡目の通し打ちをされることも知っていました。でも、私はこの度は88札所の巡路は殆ど歩いていません。この日だけといっても言いほど・・。そんな日に会えるとは・・。
こういうことを、遍路仲間ではお大師さんの「おはからい」というのでしょう。
話をしているうちにすぐ分かりました。
「・・もしやTさん・・、私、枯雑草です・・」 
Tさんはまだ60前ですから、とってもお若い。全身白づくめの姿(カッパも透明)で、颯爽と歩く姿は感銘を受けるほどです。
話は尽きませんが、納め札を交わしてお別れしました。

雨で霞んで、峠道から見る宿毛湾も茫としていました。
その後も数分毎に遍路に出会いました。
出会い毎の短い会話。中年の方も若い方も、特に女性は溢れんばかりの笑顔で応えていただきました。雨の中だけど、この遍路道を歩くことが楽しくて仕方ないというように・・。

今日の宿は、宿毛市街の南、小筑紫。39番札所延光寺への往復を含めると37kほどになります。
強くなった雨の中、宿毛市街のコンビニで雨宿り。どうするか考えていました。
「絶対、電車かバスに乗っただろうー」
はいはい、お代官さま、お察し通りでござんす。延光寺への参り、バスに乗りましたです。

延光寺山門

延光寺で

39番札所延光寺にお参り。
山門を入った所に、竜宮からの奉納の梵鐘を背負ってきたという赤亀の像。山号、赤亀山の由来ですね。
大師が加持して湧出したと伝える眼洗い井戸。ペットポトルに水を汲んでいる女性。「孫がねー、目が悪くてねー・・」
「どうぞ、どうぞ、私のもんじゃありませんけんど・・」
江戸時代の寂本「四国遍礼霊場記」を見ると、山の上に鎮守五社、拝殿があります。本堂の裏に見える小高い丘辺りかなーと想像します。
でも、十町ほど行くと奥の院と滝もあると書いてあります。聞きませんね。この辺り開発も盛ん。消えてしまったのでしょうか。残念なことです。

宿毛市小筑紫は、ちょっと寂しい港町。丘の上に立派な天満宮があります。地名の筑紫と天満宮、何かいわれがありそうな気配です。
古い宿に口数の少ない女将さんがひとり。客ひとり。寂しい一夜でした。



不思議の国、再訪     (平成22年4月10日)

大月の朝の道

雨は止みましたが、カラッと晴れという空模様からはほど遠く、雲の多い肌寒い一日でした。
でも、今日は待望の月山神社に参り、その周りの素晴らしい海の道「不思議の国」に出合える日です。
宿を出て国道321号を歩きます。大月の宿に泊った二組の夫婦遍路と相次いですれ違います。
大月の宿の前にあるへんろ小屋。素朴な竹造りで、2号小屋ですからもう相当古さが目につきます。そろそろ改築の時期かも。
姫ノ井から国道を離れ、赤泊に向う静かな道となります。
赤泊の音無神社の前に「赤泊太刀踊」の案内板があります。壇の浦で敗れた平家の落人が神社を祀り、踊りを伝えたという話です。
全国に平家の落人伝説は残っていますが、この話、地理的条件からも信頼できるものに思われます。
やはり、ここはそんな不思議の国です。
浜に向う道、道傍の一軒家から声がかかります。みかんのお接待。逆打ちだと、浜から上る遍路道の入口が分かり難いだろうと心配して下さる。
山と樹木に囲まれた道から、突如眼前に拡がる浜の様は感動的なものでした。
暫く、丸い大きな石ばかりの浜に打ち寄せる波を眺めていました。

音無神社


浜への道

赤泊の浜

やはり、山に上がる遍路道の入口は分かり難い。昨夜の雨で水嵩の増した川を、靴の上までたっぷり濡らして渡ります。
ジグザグに上る遍路道。木の枝に、大月の小学校の生徒さんが掲げた励ましの札が続きます。ほほえましく、ありがたいことです。

元気よく歩く

遍路道を出て・・

眼下の潮騒


月山神社

月山神社大師堂


月山神社ご神体 月石

大師堂の天井絵

正午前、月山神社に着きます。

この神社、明治の神仏分離までは守月山月光院南照寺という神仏習合の修験の霊場であったと言います。
神社の本殿は明治22年の建立。それ以前の寺の建物は幕末期(安政5年頃)のもので、明治の神仏分離で大師堂に転用されたものと言われます。
本殿の右に位置する宝形造りの大師堂は、よく見ると三手先組の斗拱、象頭木鼻、蟇股や向拝部の虹梁にも彫刻が施され大変手の込んだ建物であることがわかります。
今回初めて、格子の間から天井を拝見、幕末・維新期の絵師、弘瀬友竹(金蔵:あの絵金!)、河田小龍、宮田洞雪などが描いたものと言います。驚くほどの色鮮やかさで残っているのです。
江戸時代の初め月山を訪れた澄禅は「四国遍路日記」に次ぎのように記しています。
「御月山ハ、樹木生茂リタル深谷ヲ二町斗分入テ其奥ニ巖石ノ重タル山在リ、山頭ニ半月形ノ七尺斗ノ石有、是其仏像ナリ、誠ニ人間ノ作タル様ナル自然石也。御前ニ二間ニ三間ノ拝殿在り。下ニ寺有、妻帯ノ山伏ナリ住持ス、千手院と云。当山内山永久寺同行ト云。・・」
幕末に伝わる寺名とは異なるものの、修験の寺であったことには違いない・・ 
時代が少し下った寂本の「四国遍礼霊場記」には、月山図とて絵図が載せられています。
それに依ると月石の下に二間、三間の「大師」、少し離れた道(寺山道)傍に二間四間の「寺」とあります。澄禅が「拝殿」と言うのが「大師堂」かと・・、寺は大きな建物で敷地も今より広かったように思えます。
「霊場記」には次のような次のような伝えを載せています。
「此月石むかし媛の井といふ所にありしを、一化人ありて、此所に移し置けるに次第に大くなりてさまざま霊端あるにより、人みな祈求せる事あれば、応ぜずといふ事なし。媛の井の所の人は精進せざれども参詣す。余所の人はかたく精進せざれば必ずあしゝといふ。」

また「南路志」には次の記述があります。併せて追記しておきましょう。
「或記云 月山、自然のミカヅキの白石、右大左小 巖上に在す、誠ニ神代の神造にして希代の霊石也。里人云、昔忠義公(二代藩主)此地ニ本堂新に御建立有しかとも、再度まて火災にかかり其後ハ御造営も止りける。
・・一条房家 此寺の持仏堂の扉に二首の歌を自筆にかかせられ今に残りぬ。「我こころまことの道に入ならバ祈るねがいの叶はさらめや」 「西東 出入り月の山ここにつひのすみかやここちなるらん」 」 
(当時(江戸期末)には月石は2基と認められていたのだろうか。現在は昭和末の道路拡張で出てきたものを含め4基確認?)


四国遍礼霊場記 月山


社務所は今回も無人。ここで、ご朱印をいただくのは奇跡みたいなもののようですね。宮司さんは隣の大きな家で守月さん。(月守さんと思っていましたが守月さんでした)
月山神社を出て、山道に入る所、川を渡ります。
増水した川に、またたっぷりと靴を濡らすことに。
月灘の街から小才角(こさいつの)の海岸へ。
海岸の岩に砕ける波、岩の上の鳥たち、岩を包み込む流れ。
岩に当った波は、おそらく多くの気泡を飲み込むのでしょう、鮮やかな明るい青色を呈するのです。空を映した青色ではなく、波自体の色の反映です。見飽きることのない、海辺の絵巻です。
今日は曇り空。それが抜けるような青い空であれば、海もまた違った表情を見せることでしょう。引き込まれるような見事な色で・・。
よく、無限の水平線に感動する・・と言われますが、それも晴天の海でのことでしょう。でも、曇天のもとでの海もまた違った魅力をもっていることに気付かされます。


 おつきさん ももいろ・・


だれんいうた あまんいうた・・

さんごを抱いた少女の像。
「お月さん ももいろ だれんいうた あまんいうた あまのくち ひきさけ」
少女の逞しくもやや憂いを含んだような表情とともに心を打つものがあるのです。
この少女の像を立てた人々の意図は、思いはどこにあったのでしょうか。

叶崎 


叶崎

小才角の海 


小才角の海


小才角の海


 
小才角の海

 
小才角の海

やがて叶崎(かなえざき)。
海崖の上の白い灯台です。
灯台の傍まで行きます。この灯台、明治44年、あの足摺の灯台に先だって建設されたもの、当然現役です。

15時頃には叶崎の宿に入ります。
気っ風の良さで評判の女将さんは腕を痛めて入院中。でも近所の奥さんの手伝いで食事は出ます。話好きのおじさん。気のおけない宿です。

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