四国遍路の旅記録  平成24年秋  その2

土佐街道の峠を越えて由岐へ

やめてからもう7、8年になりましょうか、私は東京にある会社に勤めておりました。
その時の同僚が四国遍路を始めて「四国の何処かで会いませんか・・」とメールを寄せてきました。
そのIさんは、普段は3000m級の山にも登られる健脚さんで、今回は阿波の国の一国打ちを計画。
私は、10月の遭難紛い(その1で書いちゃった・・)のダメージが心身ともに残っておりましたが、23番薬王寺に近い由岐の宿で会うことを約束しました。それが、今年の秋遍路再開のきっかけ。(この旅記録、その1とその2の間は、実は1ヶ月以上が経っているのです。)
由岐の宿では、特別料理として頼んだ伊勢海老のさしみ。Iさんも私も「こんなうまいもの食ったことねーべ・・」と焼酎を重ねながら、職場での昔話、退職後の夫々の別世界の話など尽きせぬ楽しさでした。

さて、その日宿に着くまで、遍路日記としてどうしても書いておかなくてはならないことがあります。
私は今年の春、22番平等寺と23番薬王寺の間の古道を探っておりましたが、小野から木岐田井に至る貝谷峠、松坂峠越えの道(土佐街道)は探索を断念、次の機会を待っていたという事情。ある方から、無理すれば通れるのでは・・というアドバイスもいただいて実行することにしたのです。
徳島からのJR牟岐線を阿波福井駅で降りて、国道55号、県道25号を歩いて県道上の貝谷口まで。新しい自動車専用道が真上に見えます。右折して、貝谷の集落の道を行き峠に向います。
山道手前の最後の家の方に聞きます。
「あしは、昔からここに居るもんじゃないが・・家内の話では、昔の街道じゃが、今は崩れて通れんと・・」 「行けるとこまで行ってダメなら戻ってきますけー・・」と、常套の問答。
最初はコンクリートを流した2m幅の山道。おそらく大師像の小堂も右手に。やがて、右に折り返し急坂に。羊歯と小木の藪が道を塞いでいます。秘密兵器の鋸鎌が威力発揮。押し通ります。
これを繰り返すこと数度。街道の名残り、掘割状の道が現れます。
最高点(貝谷峠だと・・)を過ぎる辺りから、また藪漕ぎ数度。先人が残した赤テープも所々、ありがたいものです。
松坂峠と思われる所から樹間を通して、自動車道と田井の海が見えてきます。終点は近い。
峠から少し下った所、荒れた竹林の中で首のない地蔵を見ます。台座正面に「奉施日本廻國千人 奉供養光明真言百万遍」右に「寛政五癸丑年(1793)七月」の銘。街道であった証、うれしいものです。近くには人工の石積みも残っています。なお、その折は発見できませんでしたが地蔵の近くに立派な大師像道標「右遍んろ道 大願主 泉州波有手村住 西由岐村住〇門造之 石工庄兵衛自作」があります。
そこから暫く下ると、新しく開通した自動車道の側板が眼前に現れます。
山道の出口は、自動車道の下を潜り、工事作業小屋がある所。


貝谷峠への道の始まり。右手に小堂も見える。

 貝谷峠への道

 尾根付近。街道特有の掘割道

松坂峠付近、自動車道が見える

荒れた竹林の中

 寛政5年銘の地蔵

 山道の出口。自動車道の下

この貝谷峠、松坂峠越えの道、同じ土佐街道でも今春探った田井、北河内間の小田坂越えの道とは様相を異にし、尾根付近の掘割状の道の大部分は残っており、草刈りと多少の補修により復活できる道に思えました。全長2k強というところでしょうか。
昔、松坂峠を下った土佐街道沿いにあったとされる大師堂(目晴大師)は、今は西方300mほどの山裾に、江戸初期に中興開基された地蔵庵ともども移されています。
この地蔵庵の本尊は、胸元に十字が刻まれた地蔵菩薩立像で、キリシタン資料としても貴重と言われます。(もちろん拝観できませんけど・・)

 目晴大師

地蔵庵に寄り、それから石仏の点在する山裾の道を通って、由岐港口の宿に到着したのでした。

 由岐港


                                                (平成24年11月13日)


海と浜の美しさに戸惑う、田井、日和佐、生見


田井の浜の朝


田井の浜

朝、由岐から海岸の道をIさんと連れだって薬王寺まで歩きました。
田井の朝の海はねっとりとした美顔を装っていました。
南白浜では、安政地震津波を記録した石灯籠を見ます。
嘉永7年(1854)11月5日の地震は、マグニチュード8.4と推定され、石灯籠にも津波の高さ4丈余(12m以上)と記されています。木岐浦の203戸のうち190戸が流出、11人が死亡したと伝えられています。
灯籠の横には立派な二体の大師像、何を祈られるのか・・
恐ろしい海の力の記憶。それに対して今日の海の優しさ。我々はこの海にどう向き合えばよいのか・・戸惑いを覚えるほどの眼前の海です。

 安政地震津波石灯籠

 白浜の大師像

 山座峠から


日和佐の海


日和佐の海

 日和佐の浜

山座峠では、逆打ちの赤札の女性遍路さんと遭遇。へんろ靴談義のおまけまでついて。
えびす洞にも寄って、あまりにもきれいに清められた日和佐の浜に、また驚きを新たにします。

薬王寺にお参りして、Iさんは東京へ、私は甲浦まで、同時に南北に分かれる列車で発ちます。
不思議なことに、子供のように手を振ってお別れしました。
私は甲浦から生見の今日の宿まで歩きます。
この浜はサーファーのメッカとか。冬近い日とはいえまだ十分明るい時間。サーファーも浜に数人。
いつもは時間の余裕は無かった場所ですが、始めてゆっくりと浜を歩かせていただきました。その美しさを堪能するために・・


生見の浜


生見の浜

生見の浜


生見の浜


生見の浜


                                          
(平成24年11月14日)


道草しながら室戸岬まで



生見の浜の朝


生見の浜の朝


生見の浜の朝

生見の浜の朝の美しさも格別のもの。歩きまわって、ついつい時間を費やします。
生見から24番最御崎寺までは35kほど。私のように足弱で、かつ道草遍路にとって、1日の歩行距離としては長過ぎるのです。そこで、ちょっと?バス利用。
同宿の夫婦遍路も同様にバス停に・・(この夫婦とは、今回の区切りの最終日前日まで何度もお会いしました。このお二人、後で知ることになるのですが、全国の旧街道を歩き通しているという、着実なペースの健脚さん夫婦なのだ・・)
私と夫婦のどちらが先にバスを降りたか? それは秘密です。
5、6k行ったと思われる頃、降車ボタンを押してバスを降ります。
やがて入木の仏海庵。
仏海は伊予国風早郡猿川村(現北条)出身、江戸時代中期の木食僧で、地元の人に慕われ、土中入定したと伝わる旧暦11月1日には、今も仏海祭りが行われているといいます。
庵内はきれいに整理され、花や供物で飾られ、今し方も読経の声があったような気配。
庵の裏には、仏海がその下で土中入定した宝筐印塔があります。

(追記)仏海について
仏海は江戸時代の四国遍路においては、真念とともに最も大きな影響を与えた人物と言いうるでしょう。ここで仏海の一生について簡単に触れておかねばならないでしょう。(
その人物像と業績については、鶴村松一、喜代吉栄徳両氏の研究をもとに纏められた「えひめの記憶」四国遍路のあゆみ(平成12年度)に詳しく記されています。)
仏海は伊予、猿川の地に宝永7年(1710)の生まれ。西国三十三観音を巡拝、高野山で修行に入ります。時に18歳、5年後の23歳で落髪改衣、諸国を行脚。享保20年(1735)26歳で木食戒をもって湯殿山に参籠。一千体の地蔵尊刻像を目指し27歳で、さらに三千体刻像を31歳で成満。四国三角寺奥の院仙龍寺などに籠ります。37歳で全国廻国行脚の後、40歳で故郷猿川に戻ります。その後は四国遍路21度、土佐佐喜浜飛石に摂待庵建立。
人々に慕われ、明和6年(1769)60歳、入木村の宝篋印塔の下に土中入定するのです。
仏海の彫った石仏は多くは道標地蔵として四国各地に残されていますが、ここでは土佐に入った野根から室戸に至る遍路道で確認されたものを記しておきましょう。いずれも宝暦4年(1764)頃の建立とみられています。(刻字の読みは一部、喜代吉栄徳氏に依ります。)
・東洋町野根、野根橋を渡った所の地蔵堂内の舟形地蔵。「左へんろみち/さきのはまへ四リ」
・東洋町淀ケ磯付近の擁壁内の舟形地蔵。「さきのはまへ三(リ) 〇主木食佛海」
・室戸市佐喜浜 小仏崎 水尻海岸の舟形地蔵。「是よりさきのはまへ一リ半 のねへニリ半 願主木食佛海/三界万霊 覚然童子 智雲童子 」
・室戸市佐喜浜 津呂 墓地前の小祀(一般に地蔵堂と呼ばれる)内の石仏。「左へんろ道 願主木食佛海」。 この石仏、確定はされていませんが阿弥陀如来であると言われます。                            (令和1年12月追記)


 仏海の宝筐印塔

佐喜浜の入口にある八幡宮は、鎌倉時代の天福元年(1232)創立という古いお宮です。祭神は応神天皇。
今春、阿波・土佐国境の古目峠で見た「神社五里半」の道標もきっとこの神社のことです。
鳥居の両側に置かれた煉瓦造りの灯明台が目を惹きます。
昭和17年(何故か、「あー」とため息)出征兵士の武運長久を願って建てられたもののようです。
佐喜浜港、湾口にあるという徳右衛門標石は見つからず、代わりに「源内槍掛けの松」の碑を見ます。阿波侵攻の長宗我部元親と戦った大野源内佐衛門の碑です。
この地の人にとっては、数少ない中央からの侵攻軍、その残酷さを含め大きな心の傷として植え付けられたのかもしれません。

鹿岡鼻を望む

夫婦岩

左側は大きな丸石が犇めく浜。右側に迫る山。そんな風景の道が続きます。
尾崎の2軒の民宿を過ぎると、鹿岡鼻(かぶかのはな)の夫婦岩が見えてきます。
真念「道指南」には「・・○おざき村、かぶか坂、村もあり・・」とあり、昔は海岸を歩くことはできなかったようです。見ると鹿岡鼻の尾根続きに樹木が伐採された所があって電線が通っていますが、この辺りが「かぶか坂」であったと推定できます。
なお、夫婦岩は崩落の危険があるとかで、現在は立入が禁止されており、以前ここにあった休憩所も姿を消しています。
椎名から三津までは山が海岸まで迫り、昔は浜を歩くことができず、山の中腹に道が開かれていたようです。
「四国偏禮絵図」(1763)その他の文献に「カシコサカ」あるいは「ひ置坂」と書かれた山道があるといいます。この道の一部は、昭和の初めまで旧国道として使われていたらしい・・それに、三津に下る所に茂兵衛標石も残っているらしい・・などと聞いては旧道好き(マニアともいう)は黙ってはおれません。
椎名川を越えたところから旧道に入ります。
「その道は通れんぞー・・」の声。「通れるとこまで行って戻ってきまーす・・」といつもの答え。
元国道だけあって道は平で、所々アスファルトも残っています。しかし、笹竹の繁茂箇所は次第に増え先が見えないところも。それに山側からの水が路面に溜まり泥沼状のところも。
また、鋸鎌が大活躍する場面です。奮戦しながら2kほど進むと、左手に下る山道を発見。
ここを下ると坂半ばに日吉神社。ここからはコンクリートを流した参道。ここに茂兵衛標石を見つけました。
「薬王寺へ十九里半 東京本郷湯島三組町 高田〇〇/弐百十九度目為供養 願主 中務茂兵衛義教/明治四十年十一月吉辰」(順打ちの東寺への標示がありません。ひょっとしたら岩側の裏面にあったのかも・・(追記)と思ったけどM氏のご教示によると何もないんだそうです。それに、この石は元々もう少し南の三津と領家の境辺りにあったとか。薬王寺門前の茂兵衛標石には「東寺へ二十一里」と記されていることからすると、なるほどその辺り。室津、四十寺方面への道の分岐地点。東寺への距離が記されていないことと関係があるのでしょうか・・)

 ひ置坂の茂兵衛標石

国道55号に出た所には、日吉神社の鳥居。
この近くに、明治41年茂兵衛発願による厄除弘法大師像があるはずですが、残念ながら見落としました。
三津から高岡までの旧道は、海岸の傍を通る道ですが、海洋深層水サイトやジオパークなど様々な施設が出来、道は寸断されてしまっています。
室戸岬の近く、今では空海が「三教指帰」で明星が来影したと記す修行の場所として「御蔵洞」が最も名高いように思われていますが、江戸時代の記録にはそのような記述は無いのです。ちょっと不可思議なことではあります。

東寺直前の空海所縁の窟などについては、澄禅「四国遍路日記」、真念「四国遍路道指南」(貞享4年(1687)、「四国遍礼名所図会」に詳細な記述があり、ほぼ共通したものとなっています。真念のものを引いておきます。
「・・・是より東寺までの廿町よの中に見所おほし。まづ大あな、おくへ入事十七八間、高壱丈、或ハ三四丈、広ハ二三間、或は五けん十間。太守いしをうがち五社建立あり、愛満権現と号す。この岩屋に毒竜ありて人畜をそんがいしけるに、大師〇徐し(退散させた)、其あとに権現を安置し給ふ。東に太神宮御社有。過て霊水、これを亡者にたむける。過て聞持道場、又庵有。うしろに岩窟、口壱間余、奥へ五七間。本尊によいりん石仏、坐二尺、竜宮より上り給うよし。石にてづしだん、わきだち(脇持)二尺六寸の二王、両のとびらに天人のうけぼり、ことごとく石なり。権化にあらずバ(神仏の権化でなければ)たれか此妙用をなさんや。その外竜燈時にあがり、霊瑞無辺の幽渓なり。東寺へハ女人禁制のゆへに此所にふだおさめ。海辺をすぐに津呂浦へ出る。男ハ聞持堂より七丁東寺へのぼる。」
上記で前者の窟が「御蔵洞」、後者が「神明窟」、また聞持道場うしろの窟が「一夜建立の岩屋」にあたるとおもわれます。

「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800))の東寺、女人堂の絵図を掲げておきます。
右方に窟があり、大神宮、イハヤ、アイマンなどの書き込み、中央にショウコイシなど、左に庵、女人堂の書き込みが見られます。


四国遍礼名所図会 東寺

五来重は、空海のお供が炊事をした所「御厨人窟(みくりやどうくつ)」がなまって「御蔵洞」になった、そして一夜建立の岩屋が空海が虚空蔵求聞持法を修した所(昔はここに虚空蔵菩薩が祀られていた)と推定しています。
求聞持法による修行は、真言を繰る、火を焚く、行道をするの三つの条件が揃うことであるという。最御崎の「最」は「火(ほ)つ」の意であること、洞窟を胎蔵界、岩や岬を金剛界、両方を巡ることを金胎両部の修行と見做すこと、などを知ります。この室戸岬周辺の地はこれらを実感を持って感じることのできる特別の地です。


 室戸岬

一夜建立の岩屋

 最御崎寺

最御崎寺本堂

24番札所、最御崎寺(東寺)はいつも遍路で賑わっているように思えます。
歩き遍路はもとより、車遍路にとっても、この室戸岬の先端にある最果の寺は格別の意味を持っているように思えます。


室戸の街、行当岬遠望

 眼下の荒磯


西の海の夕暮れ

寺からヘアピンカーブの車道を下ります。
この道から見る室戸の街、津呂・室津の港、そして行当岬を遠望する風景は、何度みても感動を呼ぶものです。
眼下の荒磯も、岬を遠く廻る貨物船の姿もやはりこの岬特有のものと思われます。
今日の宿は、岬から1.5k先、坂本にあります。

椎名付近の地図を追加しておきます。
                                                (平成24年11月15日)

コメント ( 13 ) | Trackback ( 0 )

四国遍路の旅記録  平成24年秋 その1(番外)

野根山街道はやはり無理でした

私の四国遍路は四巡目となり、「乱れ打ち」ながら、この春一応、阿波、土佐の国境まで来ています。次は土佐の入口、東洋町からということになるのですが、大きな四国の地図を眺めながら、以前から気になっていて、通ってみたいと思う古道がありました。
室戸の岬をバイパスして、奈半利から野根に通じる野根山街道です。
この道を通ってその後、野根からは室戸の24番、25番・・・と順打ちに繋げないか、と考えていました。

この野根山街道は、718年、土佐で最も早く開かれた道と言われ、遠くは紀貫之が都との往還に、江戸時代には土佐の殿様の参勤交代の行列も通った道なのです。
土佐から江戸に向う参勤交代のルートは、この街道以外には、浦戸から船によるもの、それに北山越え(笹ヶ峰越えで瀬戸沿岸の川之江に出る土佐北街道)があったようです。
野根山街道ルートでは、土佐の城下を出て赤岡、安芸、田野に泊り四日目に野根山を越えて野根に泊ったとか。

さて、全長35.6kmの野根山街道の全てを1日で歩くことは、私には当然無理ですが、奈半利からタクシーが通行可能な米ヶ岡までが7km、また、野根側の国道493号上の四郎ヶ野峠から野根まで3、4kmに近づけば、携帯電話が可能でタクシーが呼べる・・と考えていました。
見込み通りに行けば、歩行距離は24kmほど。不可能ではないのでは・・と。しかし、結果を先に言ってしまえば無理でした。無謀でした。
この道と交差する林道はいくつかあるものの、人里離れた山地であり、トラブル時に有効なエスケープルートにはなり得ないこと。携帯電話が通じないこと・・等の悪条件があるものの、最も根本的な原因は私の足の力不足です。遍路装備の背中の荷物も、歩き始めた最初の日であったことも、その足に重しをつけることになったようです。(日頃の歩きトレーニングなどしないズボラは、初日二日の足と数日後のそれと大きな差があるのです。)
正直、遭難を辛うじて回避したという状態でした。とても恥ずかしく、見っともないことですから、その辺の記述は曖昧になることをお赦しください。

朝、奈半利から7kmほど、米ヶ岡にタクシーで行きます。この道は野根山街道に併行した谷の道で、最近全面舗装化が完了した・・と運転手。
米ヶ岡には、町立生活体験学校があり、その周りにはかなりの田畑が拡がっています。
江戸時代の前期、北川村野友の庄屋が百姓の二、三男対策として水田開墾された地で、最奥の高みにその白石伝左衛門を祀った白石神社があります。

 白石神社

神社にお参りして歩き始め。薄暗い切り通しの道です。
瀬川と須川を結ぶ林道を交差して進むと、街道であった頃の石畳が残った道が現れます。
それから二里塚。塚は奈半利からの里程を示すもので野根まで8ヶ所あるとか。残念ながら、石標は当時の形式を模して造られた新しいもののようです。
その先に「六部様」。地蔵と小社があります。六部遍路は鎌倉時代末から始まったと言われる諸国霊場巡礼ですが、ここにある説明板によると、住民に嫌われ鉄砲で撃たれたこともあったとか・・それも昭和20年代・・信じ難い話です。(何やら、松本清張の小説「砂の器」の一場面を想起します・・)
土佐の殿様が参勤の際、籠を置いて休んだという石畳が残る「お茶屋場」を見て三里塚を過ぎると、街道での見物の一つでしょうか・・「宿屋杉」に到着。
この杉は嘗て周長16.6m、高さ32mの樹齢千年以上と言われる大樹で、昭和9年の室戸台風で倒壊。残る根元の空洞は四畳半もあり、旅人の4、5人も泊れたというもの。

 三里塚

 宿屋杉


熊笹峠。奈半利辺りの海が微かに・・

室戸市と北川村を結ぶ長大な林道(森林管理道羽根線)を交差すると、やがて街道の最高点装束峠(1082m)です。その少し手前、熊笹峠から奈半利辺りの太平洋が微かに望まれます。
「お産杉」。臨月にここを通った女性を襲ったオオカミ、それを撃退した飛脚、出産。そしてこれに纏わる怪談話・・
四里塚を過ぎ岩佐関所跡へ。ここは土佐藩にとって重要な関所の一つで、豊臣秀吉の家臣、木下家が関ヶ原戦後山内家に預けられ、番所長を勤めたといいます。復元された関所門と近くには幕末期の木下家の墓が残されています。

(追記)「安喜郡の関所について」
土佐藩では関所のことを番所とも呼んだ。国境近くのものを「境目番所」、領内の要所に置かれたものを「内番所」と云った。
「南路志」では、土佐、安喜郡(後、安芸郡)として、元越(甲浦、阿州堺)、野根伏越、岩佐、竹屋敷(阿州堺)、魚簗瀬(柳瀬)口(阿州堺)、別役口(阿州堺)、嶋村(別役の近くの旧村名)口が挙げられている。岩佐番所は主往還道(野根山道)に置かれた重要な内番所の一つである。

岩佐関所跡

関所の石垣と杉

地蔵峠。この道では殆どみることのない地蔵に出会います。
地蔵は天保3年(1832)に祀られたもので、それ以前のこの辺りは「千本峠」と呼ばれるほどに多くの大杉が茂っていたといいます。今もその名残り、峠を南に下ると天狗杉という大杉があるそうです。(その先は段林道を経て佐喜浜に繋がる道であるとか・・)


見えるのは山また山

地蔵峠の地蔵(天保三年辰五月銘)

ここまでの道、昔の街道とはいえ今はけっこう荒れていました。飛石や樹木の枝は足の上がらぬ者にとっては難。体調も不良で急激に足が重くなり休憩の連続。
ガイドブックなどに示された標準所要時間(2.3k/h)を15%以上下回っています。明るい内に国道493号の四郎ヶ野峠に着くことは無理。
五里塚の手前で、ついに野宿を決意。米ヶ岡から約15kmの地点です。

 樹枝の屋根の下で

標高900mの夜は寒い。予報には無かったけれど、時々雨まで降ってくるほどだから・・
やがて全くの暗黒の世界に。たまに見る携帯電話の時刻表示が唯一の明かり。
雨が止むと、葉の落ちる音と、小さな無数の虫たちでしょうか、パチン、パチンと葉や枝を切る音がしていただけですが、夜半を過ぎるといくつかの動物の鳴き声。
近くで四足が枯葉を踏む音。体の一部がビリッと痺れる感覚。人間としての我が身も動物の感覚を失っていない証しなのかも。
突然、至近に「キーン、キーン・・・・・・」 「ギャーチャー、ギャーチャー・・・・・・・」と甲高い鳴き声。おそらくハクビシンでしょう。大声で唸り返すと、その声もやがて遠ざかります。でも、朝までに数度やってきました。
ふと目を開けると、黒い樹木の影が空にいっぱい。月が空を照らしていました。やがて天の一角が薄い紅に染まります。
夜明けにより、森は色を得る代わりに、その緊迫した命の満ちた世界は失われていくように思えました。
夜が動物や「もののけ」たち有象無象の世界であることを心に深く感じさせられた枯草の上でした。
朝、歩きだしても、彼の縄張りでもありましょうか、数百メートルの間「キーン、キーン・・・」と声の見送りを受けたのでした。

肝心なことを忘れておりましたが、この街道は基本的に尾根道ですから、水場は極めて少ないのです。確か、岩佐関所跡の一ヶ所のみ。うっかりしていました。
水は殆どなし、四郎ヶ野峠まで5kmはある、我慢はできないでしょう。五里塚から一の門まで行き、その先、野根山街道から離れて鐙(あぶみ)街道に入れば水場があるという情報を思い出しました。
荒れた廃道のような鐙街道に入り水場を見つけた時は嬉しかったこと。そして、その甘いような水のうまかったこと。

 水場

 鐙街道

鐙街道は0.5kmほどで矢筈林道に繋がっています。鐙街道を上り返す気力は失せて、そのまま矢筈林道を下ることにします。
広い道幅の林道で、造成当時は奥まで車が入ることが可能であったでしょうが、今は各所で崩れています。それでも10kmほども行けば国道493号に繋がっていることは確かです。
私の頭はどうかしていたのでしょう。木の幹に書かれた消えかかった矢印についつい従って、林道とその下の渓谷の間にある道と言えない道・・廃道に迷いこんだのです。
この道は、あるいは昔の鐙街道の延長であったのかもしれません。
結果的には、国道に繋がる前、川に阻まれて行きどまり、袋小路の道であることがわかるのです。
林道からの出入口はおそらく二ヶ所。(私が入り、脱出したところ)いずれも恐怖の地形。
50mほど下には渓谷の水が騒いでいます。足元の石は、足を運ぶ度にそこまで音をたてて転がって行きます。
そんな所を、しっかりした木に足場をもとめ、手は次の枝や幹に持ち場を探す・・といった歩行です。菅笠の代わりに被っていた帽子も、いつか渓谷に落ちてゆきました。金剛杖は辛うじて斜面に止まってくれましたが・・
午後になると恐ろしい幻覚が襲ってきました。木や石は石仏に見えます。谷川に橋が架っています。その先には民家があって、六地蔵があって、人の姿だって見えるではないですか・・
「オーイ・・」声をかけても返答はありません。すべては幻覚の為せる技なのです。
水場だけはいくつかあります。ですから・・・
ふと、私はここから永久に出ることはできないのではないか、と思ったりしました。

水場の傍に座って「南無大師遍照金剛・・・・」何度も声をあげて唱えました。

兎に角、何とかそこを脱出して、林道を辿り国道493号に出たのは、その日だったのか、あるいは翌日だったのか・・
国道といっても、そこには人家は無く、車の通行も少ないのです。しばらくして、最初に来たのはオートバイの若者。停まってもらい、電話の通じる場所まで行ってタクシーを呼んでもらうよう頼んだのです。
脱出・・・・・・恐怖と悔恨の野根山街道越えの終りでした。
                                    (平成24年10月6~8日)
(追記)この日記自体、消える運命に近づいているように思われますので、恥を忍んで本当のことを記しておくことにしましょう。
野根山街道に続くこの渓谷の傍の廃道に野宿(テントなし、食料なし、水のみふんだんな場所)したのは丸々二日に渡ったことでした。
身に迫る危険な状態を実感しました。二日目の昼、木の幹を掴んで急坂を這ってやっと林道へ出ることができました。無謀を恥じるのみです。                                  (令和5年1月)

コメント ( 8 ) | Trackback ( 0 )