白いマリア像、神ノ島天主堂
















     西海から長崎湾に入る入口、高台に純白の聖堂が見える。神ノ島天主堂である。
     神ノ島は、その名が示すように昔は島であったが、埋め立てが進み、昭和24年
     頃に地続きとなった。
     神ノ島の小さな集落を通り、崖に取り付いたような細く急な階段(何と、88段と
     数えた人がいる)を登り天主堂の前に出る。天主堂の塔が、白い灯台のように
     見え、その向こうに長崎湾があり、通る船が見える。絶景である。
     この天主堂は、明治25年着任したジュラン神父が私財を投入、自ら設計し、
     明治30年(1897)献堂したという。長崎市内では、大浦天主堂に次ぐ古いもの
     で、煉瓦造の天主堂としても最初期のものである。太平洋戦争の後、煉瓦の上
     に石灰モルタルを塗り、更に白ペンキが重ねられた。そのため、一見煉瓦造には
     見えない。内部の平面は三廊式、立面は単層構造、天井はリブ・ヴォールト天井
     だというが、残念ながらこの日は見ることができなかった。
     天主堂の前の岬に、長崎湾を通る船を見守るように立つマリア像がある。
     イタリア人の彫刻家の手になり、昭和59年(1984)建てられたもの。毎年5月の
     聖母月には盛大な聖母祭が行われるという。

     (崖の上の天主堂の前に立って、目前に高鉾島、長崎港に出入りする船が行き
      交う様を見る。南西に目を向ければ、湾頭に横たわる伊王島の影も見える。
      この白亜の天主堂に毎日のミサに通う信徒の人の幸せを思う。しかし、崖を這う
      石段の道は、お年寄りには厳しかろう。上りは手摺りに縋って一歩一歩進めば
      どうにかこなせようが、下りは足の置き場を間違えれば危険である。安全を祈ら
      ずにはおられない。天主堂への道は、更に山の上に上にと伸びているが、2、
      30mも行けば、草木に覆われ、人の通行を許さない。)
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鞆の浦、雛の表情(2)
















     鞆の浦の街の雛祭りで見た、雛人形の表情。続きです。
     今まで、お雛さまをこんなにじっくり見たことはなかった
     ような気がします。おっさんが、お雛さまでもあるめーし・・、
     それに、そういう機会も無かったしなー。
     妖艶なお雛さま、可愛いお雛さま、凛々しいお雛さま・・
     人形夫々が、ちゃんと主張をもって座っておられる・・
     ってことが、よくわかりました。
     鞆の街まで出掛けていって、歩きまわった甲斐、あったと
     いうものですよ。

     (山が海に迫り、残された僅かの土地に、鞆の浦の街がある。
      街の中を抜ける道路は、狭く曲がっていて車の離合に往生
      する。海岸を埋め立てる計画もあるらしい。埋立反対の署名
      運動をしている人がいる。「埋め立てちゃったら、この港も
      街の風情も・・もう終りですがなー・・。」
      昔からの狭い路地を歩き、旧い商家や民家の門を潜って、
      会えるお雛さまにこそ価値がある。華やかで、やるせない、
      いにしえの文化とひとの心に会うことができるから・・。
      でも、現代に生きる人の利便とは相容れないこと。日本の
      多くの旧い街に生じているジレンマは、この鞆の街でもある。)
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鞆の浦、雛の表情(1)
















     広島県の東部の鞆(とも)の浦(現、福山市鞆町)は、瀬戸内海の中央に位置す
     ることから、引き潮、満ち潮が出会い、別れる場所であり、古くから九州大宰府へ
     また遠く唐へと向う船の潮待ちの港として栄えた。
     平家の栄華の跡や、室町時代最後の将軍の末路の地、あるいは、幕末の京都、
     七卿落ちの港として、歴史の表舞台に時々顔を出してきた。
     路地の彼方此方から、長い時のやるせない香りが匂う、そんな街で・・。
     このところ、毎年2月中旬から3月末まで、雛人形祭りが催されている。江戸時代
     後期から明治、大正、昭和30年代に至る、日本全国の雛人形が、商店の店先
     や民家の座敷に飾られている。その数、約70軒、街中をあげての雛まつりなの
     である。

     (江戸時代から続いているという商店の店先。何組かの雛人形が飾られ、ご主人
      はちょん髷の鬘なんぞ被って、見物客に説明している。何とも嬉しそうな表情。
      民家の土間に飾られたお雛さま。「今年95になるおばーちゃんのお雛さまなん
      ですよー」と、お雛さま自慢のおかみさん。でも、「他所も見られましたー・・どこの
      お雛さまがよかったー・・ですかー」やはり、他所が気になるらしい。)
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唐寺、長崎、崇福寺
















     聖寿山崇福寺、長崎にある4つの唐寺のうちの一つ。
     徳川幕府のキリスト教禁止政策の一環として寺請制度。これは、長崎に居住する
     唐人も例外ではなく、唐人のための寺が必要、そこで誕生したのが唐寺とよばれ
     た寺なのである。
     崇福寺は、1629年、当時長崎に多かった福建省出身の人々に招かれた明僧、
     超然(ちょうねん)が、創建した黄檗宗(臨済宗の流れをくむ禅宗の一派)の寺で
     ある。
     九州にある国宝建築物は五つ。そのうち三つが、長崎市内に。二つがこの崇福寺
     にある。あと一つは大浦天主堂。長崎の三つの国宝が、すべて外国人の手になる
     というのは、ちょっと不思議な気もする。
     一つ目は、第一峰門。1644年の創建というが、現存するものは、1696年の改築。
     寧波で切り組み、唐船で輸入して組立てたものという。軒裏の組物の華麗さ、
     繊細さには圧倒される。四手先三葉栱斗栱詰組(よてさきさんようきょうときょう
     つめぐみ)というのだそう・・。舌噛みそうでんな。
     二つ目は、寺の本堂である大雄宝殿。1646年、唐商の寄進による長崎最古の
     建築。2階は1681年、和様による増築部分。
     その他に、国重文の山門、媽姐門、鐘鼓楼、護法堂などがある。特に山門は、
     龍宮門とも呼ばれ、門下部天井の鯱や扉の怪物とともに、中国の風を彷彿させる。

     (長崎に行きました。主な目的は、天主堂を訪ねることでしたが、この崇福寺は、
      是非寄りたい所でした。特に、この第一峰門の軒裏の木組。すごいものですね。
      やはり、中国の人の感覚ですね。圧倒されますよ。)
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