四国遍路の旅記録  平成27年春  その後

その後

この旅記録のなかでも既に書きましたように、4月4日、大窪寺で四巡目の結願をさせていただきました。
私は、初巡目の納経帳はそれ専用に、二巡目以降の納経帳は重ね印としてきました。その重ね印の納経帳を見返してみて、はたと思い出したのです。
四巡目の初め、1番から22番の札所で、お参りはしても納経はしないという所が何個所かあったのです。その欠けたような納経帳を見ると、どうも釈然としない・・
私にとって五巡目というのがあるのかどうか・・自信はないけれど。
欠けた納経帳を埋めておきたいという思い。それに、札所や遍路道の近くで新たに歩いてみたいと思う道もありますし・・
とりあえず 4月の春遍路の後、少し歩いた阿波の道の中、11番藤井寺近くの道について書いておくことにしましょう。


藤井寺から柳水庵、そして樋山地へ

11番藤井寺から12番焼山寺の「へんろころがし」と呼ばれる道。私はこれまで3度(順打ち2回、逆打ち1回)歩いています。
そのなかで、特に藤井寺から柳水庵の間の遍路道に交差する多くの道があること、また3巡目には「樋山地(ひやまじ)、石鎚山、お鎖」などの標識に気付かされておりました。
吉野川の南の東阿波の峰々を渡る多くの道のなかで、この遍路道はどのような位置を占めていたのか・・気になり思い惑うとともに、樋山地、石鎚山という、既に地名からだけでも齎し出される魅力にとり付かれておりました。
そんな折、遍路道に拘らない道を歩かれ、調査紀行をものにされている「楽しく遍路」さんが、平成26年春、藤井寺から焼山寺に行かれる途中、樋山地、石鎚山にも寄られた文に出会うことができました。そしてその導きによって、地元の方々の団体「鴨研究塾」が作成された詳細な地図と、樋山地、石鎚山の紹介パンフレットにも出会えました。
遍路道と一部重なる「麻名尾根古道」と名付けられた古くからの道(この道の名、麻植と名西をつなぐ古道という意で、ある山歩きの達人の命名だと)は、東から西へ、梨ノ木峠から始まり旧遍路道に重なり長戸庵へ、三村境辺りで遍路道を離れ石鎚山へ、六部の墓を経て堀割峠へと。(この尾根道。さらに東方は倉目辺りから発し、西方はさらに寒風峠から学峠を経て忌部山(忌部神社)に通じていると思われます。)
そして石鎚山の麓のやや平らな地「樋山地」は、江戸時代の初め伊予を追われたあの河野氏の一族が移り住んだ所と言われます。(なお、地名については、嘗て焼畑により開かれたことより「火山地」と書かれていたのものを後、用水路も整備され「樋山地」と表記されるようになったとも伝えます。)
これまで多くの山村で見てきたように、残念ながらここも既に廃村状態になって多くの時を経ているということも。
焼山寺へ向う遍路道から樋山地に入る道筋は三つでしょうか。一つは、長戸庵の先直ぐから右へ下り、左折して斜面をトラバースする石垣に沿った道。二つ目は、長戸庵から展望地(「風景発心の地」と呼ばれる)を経て馬ノ背の手前を右に下り、一つ目の道に合流する道。そして三つ目は、三村境付近から石鎚山に向う尾根道の途中から右に下る道。
この日、私は藤井寺に参った後、焼山寺への遍路道をほぼ中間の柳水庵まで行き、そこから折り返し、樋山地、石鎚山を訪ね、尾根道古道を六部の墓のある六部峠まで行き山道を下って川島まで歩く予定。このルートどりから、樋山地への道は、上記の三つ目を採用することにしました。結果的にはこの三つ目の道が最も厳しいものであったようですが・・
まあ、それはともかく、歩き順に記して行きましょう。

 藤井寺本堂

 焼山寺道の入口

藤井寺の本堂の横から遍路道に入る時、それは一種の緊張を伴うものです。
最初に見た地蔵丁石は「焼山寺より百十九丁」と刻まれる寛延二年(1749)のもの。(以降の丁石は「山より○○丁」と焼山寺からの距離が示される。) 
新四国仏が並び、その先に大日如来を祀る奥の院。さらに擬木の階段を上りつめ、車道を横切ります。
この道は地元の方の毎朝の散歩コースとなっているよう。5、6人がベンチに。
お一人が話しかけてきます。
「ワシは70才、一番若いんじゃが、こっちは80才、あっちの95才が歩くいうけん、みんないっしょに歩いとるのじょ・・」 
とても95才には見えない。80才にも見えない。歩きの効用か。
つい樋山地に話が及ぶ。
「樋山地・・よう知っとるがー・・ 蜂須賀の殿様が水軍の力が欲しうて河野を入れたんじゃろ・・山の人がおっていくらか揉めたようじゃが・・今は誰も住んどらんじゃろう。鎖場は登れん。巻き道もあるが注意せんと滑落じゃ・・」

端山休憩所を過ぎ、急坂を上り藤井寺より1.5kほどの所。丁石地蔵、道標と並んで自然石に「右焼山寺道」と刻んだ碑(道標)。ここが三方地と呼ばれる旧道と新道の分岐。
左は尾根を辿る旧遍路道で、前記の梨ノ峠からの古道と合します。新道の先1.5kほど、長戸庵の手前で旧道は新道に繋がります。そこにも丁石地蔵と並んで自然石の碑「左藤井寺道」があります。この二つの自然石の碑は新道開設時に設置されたものと思われます。
旧道は尾根道ですから、高低差はありますが、長く維持するに容易な道。
国土地理院の25000地形図には、今だ旧道しか示されていません。
新道は殆ど平坦なトラバース道、楽を採るため造られたのでしょうが、その時期はそれほど古いことではなさそうです。
新遍路道には、水場とその近くに文政銘の地蔵堂、不動明王が置かれています。真念は「(藤井寺より)壱里半ゆきて柳の水有。大師いませし日、・・」と柳水庵の水については、その由来を記しますが、ここの水については触れていません。
「大師水」と呼ばれますが、真念の時代にさえその水も道も無かったものと思えます。
旧道の合流点から、尾根に通ずるしっかりとした道が見透せます。


新道と旧道の分岐(三方地)

 水大師と地蔵堂

 旧道(麻名尾根古道)の合流点

 旧道を見透す

長戸庵。そのお堂の建物も趣があり、また辺りも美しく開けているように思えます。
この地には「弘法大師がこの坂を登って、ここで休息していると、足腰を痛めた老人が通りかかった。大師が加持すると、たちまち痛みが止まったので、老人は一宇の堂を建て大師の像を祀って、修業山長戸大師堂と名付けた」という伝説があり、これが長戸庵の始まりであると言われます。
ここから下方に緩やかに繋がる斜面は、その昔、長戸の山村があった所なのでしょう。(なお、「長戸」の名はその場所「頂処」から来るのだとも。)
お堂の周りには、近代的なお顔の可愛い地蔵、石室中の大師像(宝暦14年(1764))、「是より焼山寺弐里」の徳右衛門標石、四国のみちの道標、森春美さんの平成へんろ石などがあります。
また、庵直前の道には丁石地蔵と2基の遍路墓。
ここから川島町赤坂に下る道、その途中をから樋山地へ行く道については既記の通り。

 長戸庵辺り

 長戸庵の地蔵

長戸庵から少し行くと、政吉の手指し道標に出会えます。ここでは「五嶋政吉」と刻されています。その開いた手の表情の素晴らしさ。(政吉については以前にも書きました。川の屋政吉、九州五島福江の人。)
すぐに「風景発心の地」と名付けられた展望休憩地。川島、鴨島の田園、吉野川、善入寺島、その向こうは大山でしょうか。
樋山地への道を右に分け、ちょっと奇妙な手指し道標、「十二(バ)ん」でしょうか。この辺りから下って、石堂の山腹を巻く旧遍路道があるようですが、道筋は明確ではないようです。
馬の背を過ぎ、三村境から石鎚山へ通ずる道を分けます。石堂権現を右に巻く道角に、四国のみちの道標があり、北松尾を案内しています。この道は荒れた道のように思えます。
ここから少し行くと、左に松尾に下る林道風の道が分岐する開けた場所に出ます。
ここに茂兵衛標石(164度目、明治31年)があります。標石に「左 二の宮」とあるのは、松尾を経て二ノ宮の柚宮八幡神社を指していると思われます。この道は、焼山寺から玉ヶ峠を越える遍路道の先、本名(植村旅館のある所)に繋がっています。

 政吉の手指し道標


展望地から、吉野川、善入寺島・・

 ちょっと奇妙な手指し

 馬の背


松尾への道の分岐

尾根道を行き、急な石段の道を下れば柳水庵。
一番高い所、柳水の水源と思われる場所に奥の院があります。ここには宝暦14年銘の地蔵や大師像が祀られています。
柳水庵は、私が遍路を始める数年前、平成13年まで老庵主夫妻が住んでいて、宿坊も営んでおられた。多くの遍路に感銘を与えた宿であったとしばしば聞いたこと、思い出します。
庵の少し下にある休憩所(布団も置いてある。)の前の道に一つの道標。
発起人は鳥取県米子の人、14度目の遍路を記念して、多くの人の協力により建てられたものと覗えます。「十一番江六十丁 十二番江六十丁・・」と刻まれます。そう、ここは藤井寺と焼山寺のちょうど中間に当る場所。
ここで遍路道は県道245号と交差しています。この道は昔は阿川と栩谷を結ぶ「柳ノ多尾」と呼ばれる峠道でもありました。  

柳水庵を見おろす

 柳水庵

 休憩所と道標

柳水をいっぱい戴いて、ここから道を帰します。
三村境近くの「樋山地、石鎚山、お鎖」の標示を左へ、「麻名尾根古道」に入ります。
少し行き右へ樋山地への道を下ります。この道はかなりの悪路。深く積もった落葉、倒木が道を埋めている所も。
左に石鎚神社への道を見て、更に下ると、整然とした石積が数段。石積の間には立派な石室も造られています。
数軒の廃屋を見ます。崩れかけた家の窓から、派手なカーテンの色が見えたり、それほど遠くない時に人が暮らしていたことを感じさせます。それは悲しげな風景です。

 石鎚山への道の分岐


石鎚山への道(麻名尾根古道)、ここまでは良い道

 樋山地の廃屋

その下に河野氏の先祖碑。
「人皇第七代孝霊天皇末葉元伊豫國城主 従五位上越智河野伊豆守萬五郎通吉 大通院殿前豆大守天叟長運大禅定門 天正十八年寅三月二十九日逝去」
ここに名の出る河野通吉という人は、伊予河野氏最後の当主で安芸竹原で没した通直(1564~1587)の父ともいわれるが、その実在が確認できない人物とも。
河野氏の一族は、稲田氏を頼ってこの地に入ったと言われています。
蜂須賀家政が阿波の藩主となったのが天正12年(1584)(当時は一宮城)。
稲田植元は家政の父、小六(正勝)と義兄弟の間柄で、阿波藩に入り筆頭家老や脇城主を勤めたと言われます。(この稲田氏の子孫、旧家臣は明治維新の動乱のなかで、明治3年北海道開拓に従事するため静内に移住します・・このことは、映画「北の零年」にも描かれたことですね・・) 稲田氏は1638年淡路に移っていますから、河野氏の一族が樋山地に入ったのは、江戸幕府が開かれた1603年前後ということになるでしょうか。
この地には、最も盛んな時には200軒を超す家があったと言われます。
先祖碑から少し東に行った所に八幡神社があります。(祭神は誉田別尊(応神天皇))
近くの石祠には、丸に二の引両紋が見られます。引両紋は室町幕府の足利氏の紋と言われます。この地の守護職であった一門の細川氏が一時用いたという紋かもしれません。あるいは中世の山の民に係わるものかも。なお、河野氏の紋「折敷に三文字」は、どこにもみることはありませんでした。
(雨が少々強くなってきたようです。辺りが暗くなるとカメラのご機嫌はすこぶる斜め・・写真は少なくなります。ご容赦を。)
道を戻り、石鎚神社に向います。
途中、2基の墓を見ました。一基は明治14年のもの。もう一基は倒れていますが文政2年のもの。側面「河野庄蔵子 河野俗名忠次郎」と読めます。

 

石鎚神社は、寛政年間(1789~1801)に伊予の石鎚神社の分神を祀ったと言われます。
立派な狛犬があります。新しいものは大正13年のお百度石。
神殿の右に、崩壊寸前の農村舞台が残っています。昭和30年頃まで賑わったこともあったと伝えられます。往時の生活がどんなものであったか、覗わさせるものかもしれません。
神社の右、急坂を上って、お鎖行場へ。
岩に架る鎖は、文化14年(1816)麻植郡児島村の講中が寄進したものとか。長さは50m。
特に下部は足場が無く、上るのは極めて困難に見えます。もちろん、私には無理です。岩の前を右に行き巻き道を上ります。
巻き道も相当な急斜面。張ってあるトラロープに頼って、どうにか攀じ登ります。
上り切った所に石鎚神社奥の院。鎖はここまで伸びています。

 石鎚神社

 石鎚神社の狛犬

 農村舞台

 鎖場

 巻き道のロープ

石鎚神社奥の院

奥の院の後ろが石鎚山頂(545m)。
雨の中でやや残念なのが、吉野川の眺望。でも、近くのヤマツツジの花の赤が目に沁みます。

石鎚山山頂から

 ヤマツツジ

ここから古道の尾根道を六部の墓のある六部峠まで歩き、川島に下りることにします。
山道ですから荒れた所もありますが、尾根道は基本的に歩き易い道。
1.3kほどで六部の墓の前。
お六部さん、正式には六十六部廻国聖と呼ぶのでしょうか。墓は殆ど壊れかけた覆い屋の中にありました。
安永二巳年(1773)四月二四日、「下野国足利郡寺岡村泰禅」と刻まれています。
現、栃木県足利市寺岡町、日光例幣使街道が通るところです。
関東は、お六部さんの発祥の地とも言われますが・・
遠くこの阿波の山の道を歩いて亡くなったのですね。ほんとに遠い、遠い道程を思います・・

 六部の墓

六部峠から川島に下る山道は、所々に「久保田ハイキングクラブ」が付けられた標識の他は、信疑半ばの赤テープが頼りです。荒れた道です。
こういう道を歩くと遍路道はその道自体も標識も、いかに整備された道であるかということを痛感させられます。
山道から街の道へ。吉野川に沿った緑の田畑を見ながら、阿波川島の駅まで歩きました。

 川島の田畑

地図を貼っておきます。樋山地周辺地図
                                               (5月9日)



(追記
)  付録  星の岩屋、仏陀石の道


勝瀬川を渡って

平成27年5月、私は藤井寺から焼山寺道を半ば、樋山地から阿波川島までの山道を歩いた後、横瀬から鶴林寺への道を上下し生名から勝浦川を渡り星の岩屋(星谷寺)を訪ねました。岩屋の先穴門、仏陀石を経る道は私にとって初めての道が含まれており、ここに付録として追記しておくことにしました。

まず、江戸時代の遍路記等に星谷の岩屋がどのように記されているかを見ておきましょう。
真念の「道指南」十九番立江寺の項に「・・かつら川(勝浦川)をわたり、星谷岩屋寺に広十畳敷三角のいわほ有。此中に明白な鏡石あり。三丈許の滝あり(1丈は約3m)、かたはらに弁ざい天の社有。取星寺のほし、天降給ふ石とて十丈余の大石あり。霊場目をおどろかす、かならず立よらるべき所也。・・」
寂本「霊場記」もほぼ同様。
立江寺の付 取星寺 星谷として「此所(取星寺)より二十町ほど隔て、星谷というに星の岩屋あり。三間四方もありなん。岩窟の口半斗に数丈の滝あり。殆霊区ときこゆ。此岩上に取星寺の星降れりといひ伝へたり。星石山と号す。(この後に、落ちた星が石になることに関する蘊蓄が続く)」
細田周英「四国遍礼絵図」には、立江寺から鶴林寺に行く道とは別に、立江寺(丗丁)取星寺、ホシタニを経て(廿丁)星谷、中ヤマ、ヨコセを経て(廿丁)鶴林寺の道程が示されています。(カタカナは村名。立江寺、取星寺、星谷、鶴林寺が一つの道筋と示されているのが注目されます。)
また「名所図会」では簡単に「星谷村 此奥谷に星岩屋 有」とのみ。
以上の如く札所ではないが特異な霊場であったことが伺えます。

さて、勝浦川を渡り星谷の集落から旧道の山道を登り星の岩屋(19番奥の院星谷寺(しょうこくじ)に向かいます。
最初の現れるのは「洗心の滝」落差6mほど。不動明王が刻まれます。大木に挟まれるような星谷寺本堂。その傍に岩窟(星の岩屋)。

 空海が求聞持法を修した所とも悪星失墜の秘法を修した所とも伝わります。朽ちかけた樟の大木に彫った樟の木不動、少し上った岩場に多くの不動明王を見ます。
岩窟を出た所に不動の滝(裏側が通れるところから「裏見の滝」とも)、落差30mほど、この時期水量は多くはないけれど見事な滝です。岩面に不動明王、前方に大師像を置く。

洗心の滝

星谷寺

不動の滝

不動の滝(上部)

星の岩屋から道を上り400mほど、登り詰めた尾根に中津峰山への道を分岐してすぐ、道下に「穴門」。人一人が身を伏せてやっと通れるトンネル。トンネルの上「佛石」の刻字、その横にも光明真言の文字や梵字が刻まれています。
そこから200mほど下り観音堂の前、少し下がった場所に銀杏の大木のある不思議な広場。そこに「仏陀石」があって驚かされます。
穴門の上にある、江戸時代末期建立の宝篋印塔の台石に仏陀石の由来が書かれていると言いますが私には読むことはできません。
両部曼荼羅の73体の仏が土地の人によって運ばれ祀られたといいます。(実際にここにあるのは53体の石仏。)正面中央には弘法大師像も祀られています。
先に記した江戸時代前中期の遍路記等には、穴門や仏陀石については記されません。仏像や刻字の鑿跡を見てもそれほど古いものとは思えません。(私は仏陀石の核となる石と真念「道指南」にいう大石との関連を思ってしまうのですが・・)おそらく江戸時代後期のこの地の人々の信仰心の為せるものなのでしょう。

穴門

仏陀石

仏陀石

仏陀石

仏陀石の下方は数段の石積があり、その中央を細い道が下っています。おそらく、谷の西側面を三渓に向かって下る古い道です。道の崩落は激しく下ることは不可能でしょう。曲りを重ねる舗装道を中山に下り、横瀬に向かいます。

仏陀石から谷を下る道

横瀬に向けて下る




                                                               (平成27年5月)


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コメント
 
 
 
Unknown (楽しく遍路)
2015-05-30 22:59:35
こんにちは
文章も写真も視点が定まっていて、なるほど枯雑草さんが歩くとこのようにまとまるのだなあと、感心するばかりです。たくさんのことを教わっています。
私は川島から藤井寺へ下の道を歩いたので、「六部の墓」にお参りすることが出来ていません。山の道があるとは、考えもしなかったのです。心残りです。もし山道を歩いていれば、お参りできていましたのに。
結局、「道」というものが、車道や電車に慣れていて、よくわかっていないのだと思います。
地図の添付、ありがたいです。また後追いで歩かせていただきます。
 
 
 
楽しく遍路さん (枯雑草)
2015-05-31 19:31:23
こんにちは。
コメントありがとうございます。
樋山地、石鎚山への道は、以前から気になっておりましたが、そこを歩くことができたのは、全く楽しく遍路さんの導きによるものです。
ありがとうございました。
石鎚山から尾根道を歩いたのは遍路からすれば外れですが、下野足利の六部さんとちょっと話ができました。
私はこういう出会いが好きです。
 
 
 
樋山地 (たけのしん)
2015-12-17 12:24:24
お話に聴いた樋山地の回はコレですか。
1~4巡を見返しても分からなかった。なぜか、このブログ見落としてますね。最新の太龍寺は読んだのに。
 
 
 
たけのしんさん (枯雑草)
2015-12-17 17:46:55
こんにちは。
そうです・・そうです。
歴史が辛うじてまだ息づいていそうな場所です。
ぜひお訪ねください。ただ、入り道は
長戸庵を出たすぐを右折、それから左折
の道がよいようです。
 
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