四国遍路の旅記録  平成26年秋  その1

今治の神と仏そして龍、泰山寺、龍泉寺、栄福寺、仙遊寺、国分寺、栴檀寺奥之院

JR今治駅前で遍路装束に着替え、一度思いきって背を反らしてから56番札所泰山寺に向って歩き始めます。次の日、とんでもないトラブルが待ち構えていようなどとは予知する術はありませんから・・ね。
そういうこともあって、今回はまたいつもにも増してくだくだとよしなしごとを書き連ねます。おゆるしください。
これまで3度のおまいりでは格別目に留るものではなかったのですが、この度は泰山寺の大師堂の柱に掲げられた言葉、不思議にも気になりました。
「同行二人之愛」 「相互供養之恩」 (だと思います)
大師堂の前で暫く考えておりました。仏教ではよく「相互礼拝、相互供養」ということを言いますね。これは、仏、衆生、菩提心の相互性、平等性を表すと言われます。それと同様の意なのでしょうか・・

泰山寺大師堂 


龍泉寺への道


龍泉寺の鏝絵の観音さん

門前の案内に従って奥の院、龍泉寺におまいりします。私は初めてです。
泰山寺から歩いて5分ほどの近さですが道標もしっかり・・
この地には元々行基が開いたと言われる天聖院(後に千寿院)という寺があり、大山積神の長女磐長姫の本地仏十一面観音を祀り(穴場様と呼ばれ)婦人病に験ありとか。その後、寺が他地より移転、龍泉寺と称するようになったとか。
最近TVで紹介された本堂正面の鏝絵(こてえ)の十一面観音が珍しく人気を呼んでいるようです。本堂が建てられら大正期のものでしょう。なかなか見事な観音さんです。
寺の横に「今治で一番小さいコーヒーの店」と称する「阿奈波」。阿奈波は別宮大山祇神社の境内にある神社の名。祀られるのはもちろん磐長姫。(阿奈波=穴場) お店に寄れば、少し上に書いたその謂れなど、きっと詳しく伺えるでしょう。
龍泉寺の境内でもう一つ気になったのは、役行者(神変大菩薩)の石像。
そういえば泰山寺にもありました。その縁とは如何に・・
今治で最古の寺と言われる石中寺(今治市中寺)に昔、役行者が寄り石土山に入り瓶ケ森で蔵王権現を感得し、寺に祀ったと伝えられます。この地と役行者(後に修験道と呼ばれる教え)との関わりの深さを感じさせられます。
おっと忘れるところでした。泰山寺の駐車場の隅に横倒しで置かれたままの徳右衛門標石について書いておきましょう。
この日記ではもう何度か書いたような気がしますが、武田徳右衛門は越智郡朝倉上之村(現今治市朝倉上)の生まれ。寛政6年(1794)から文化4年(1807)の間、四国八十八ヶ所霊場の道に標石を設置します。(現在まで129基が確認されています。)生地に近い今治の道には、特別の思いを込めた標石が残されています。泰山寺の前の標石には「(大師像)(手印)/五十五番へ(手印)願主 徳右衛門/五十七番へ(手印) 智玉童子 法林童子 智浄童女 観性童女 梅芳童女 法了童女」とあります。徳右衛門が標石建立の機縁となったといわれる夭折した6人の子供(金治、助七、おもよ、おひち、こいそ、おいし)の戒名が彫られているのです。
この標石、どういう訳か長い間、駐車場のコンクリートの上にねかされたままです。残念なことです。

泰山寺から57番栄福寺に向う道は、天保15年の「遍ん路道」と刻まれた大きな道標に従います。
以前は地道だった遍路道は立派な舗装道になっていました。私は彼岸花の咲く水路沿いの地道に寄り道をしたりします。願わくばこんな道を歩きたいですね。
先の四ツ角に「・・八幡へ十三丁/右 和霊大明神三十丁 奈良原本社五里半/弘化四丁未春・・」と刻まれた静道道標、その横の小祠の中に手印の刻された地蔵があります。
和霊大明神は玉川町法界寺にある神社、奈良原本社は純川温泉を経て、楢原山山頂(1041m)にある、役行者を開祖と伝える神社です。


栄福寺への道、こんな道を歩きたい

小泉の静道道標

国道を横切ると、左側に遍路墓、文政、嘉永の年号を見ます。
へんろ小屋を経て蒼社川の河畔。土手に四基の舟形地蔵、川の方向を指す手印の静道道標など。風に揺れるコスモスの中、静道道標には「遠山に眼のとどきけり秋の月」の句。
昭和の初期までは、飛石に板を渡して対岸に渡っていたようです。対岸の土手に「へんろ道(手印)五十七番栄福寺へ十丁/五十六番泰山寺へ八丁・・」と刻まれた大正11年の道標が残されています。
今はよほどの渇水期でない限り渡河するのは困難でしょう。上流の橋を渡ります。


蒼社川左岸の静道道標


蒼社川右岸の道標

ここから栄福寺への道筋は、協力会へんろ地図には山上の石清水八幡に上る道と、直接栄福寺に向う道の二つが示されています。今は後者の道を採る遍路が殆どでしょうが、八幡宮が札所であった昔(江戸期)はどうだったでしょうか。別当寺の所在とともにみてみましょう。
澄禅「四国遍路日記」(1653)では「・・辰巳(南東)ノ方エ往テ河ヲ渡リテ南ノ山ニ上ル。山頭ニハ八幡宮在リ。・・此山ヨリ見バ今治三万石ヲ目ノ下ニ見ナリ。誠ニ碁盤ノ面ノ様ニテ田地斗也。真中ニ河在、北ハ海手向ヒハ芸州ナリ。・・」と。
寂本「四国遍礼霊場記」(1689)には「・・神社に仕える寺は長福寺。今は浄寂寺である・・」と。
能寂寺文書によれば「寛文年間(1661~73)に能寂寺を浄寂寺に改め石清水八幡の別当寺となった」との記録。
「四国遍礼名所図会」(1800以前)には「五拾有七番八幡社別当栄福寺」と標記し「越智郡いかなし村山上へ三丁上る、佐礼迄廿丁・・本社八幡大菩薩、阿弥陀堂、本尊阿弥陀如来海中より出現・・是より一町下り別当栄福寺大師堂、是より佐礼迄十八丁なり・・」と。
また、「伊予の遍路道」(平成13年度、愛媛県生涯学習センター)には「長福寺が別当となったのは貞享年間(1684~88)その後幾度か寺が替わり栄福寺が別当になったのは寛政4年(1792)・・」と記され、澄禅の時は別当寺は無く(あるいは能寂寺)、「霊場記」の時には長福寺から浄寂寺に替わり、「名所図会」の時は別当寺が栄福寺であったと整合できます。また、「霊場記」の絵図や地元の方が「寺は山上から下りてきたと聞いとるよ・・」と語るのを聞くと、栄福寺に移る前の寺は山上にあったと想像されます。(浄寂寺は神社南側に現存します。)
以上より、蒼社川の渡河地点からほぼ真南に八幡山の山下に、山を上り八幡宮へ、そして山を下る道筋がより古い遍路道であったと推定できます。(協力会のへんろ地図に示された道筋とは異なります。)
それを裏付けるように、山へとり着き左折する地点に「(手印)遍んろ・・」と読める石、鳥居の前に万延元年の「伊豫一社五十七番石清水八幡宮表口の碑、左側の草むらに二つの遍路標石(一つには「是より二丁・・」の刻字が読みとれる)が残されています。
八幡宮への上り道は、昔は地道であったでしょうが、今はすべて石段、標高差100m近くを一気に上る厳しい道です。


石清水八幡表口の鳥居

 鳥居横、草叢の道標

 石清水八幡宮

一方、八幡山の山裾を廻って直接栄福寺に向う道の分岐には、茂兵衛標石(100度目、明治21年)、上部が欠けた静道道標、それにもう一つ小さな道標が並んでいます。静道道標は「・・い山へ廿丁」とあり、「されい山へ・・」と想像される仙遊寺(佐礼山)を指す道標と思われています。
栄福寺の参道入口には、茂兵衛標石(173度目、明治32年)、少し上った寺入口に「是よ里佐禮山まで二十丁」の徳右衛門標石。これには徳右衛門の長女「於くら」の名が刻まれています。
栄福寺の本堂の回廊には、長らく箱車が置かれています。以前には説明書きもあったように記憶しますが、遍路の功徳を訴えるものでしょう。狭い境内ですが、大師堂に覆い被さるような背後の竹林の様も強い印象を与えられます。

 栄福寺入口の徳右衛門標石

栄福寺大師堂

栄福寺大師堂

寺の下のお店で地元のおばあさんにお会いしました。「おへんろさんはお寺だけ・・ワシらは氏神さまにもおまいりしますけー・・」 あの石段を上って八幡さまにもまいったという。考えてみれば、神仏習合の風習の根強さとある意味での合理性を感ぜぬにはおれません。
栄福寺から犬塚池に沿う仙遊寺への道には、享保15年(1730)の覚心の地蔵丁石が並んでいます。
山道を逞しく日焼けした若者の遍路が大きな野宿装備を背に駆け抜けてゆきました。

 覚心の地蔵丁石と遍路墓


犬塚池の畔、仙遊寺への道を行く遍路

地道から車道に入って少し行くと左側に静道道標、「おのづからこころとどくや花の山」の句。
仙遊寺の仁王門の少し手前、国分寺への道の分岐もあるややひらけた場所には多くの石仏や道標があります。少し手前の安永2年(1773)銘のある地蔵、静道奉納の地蔵、台座に「よ記とこへこころ志図めて花のや満」の句、徳右衛門標石「是より国分寺迄一里」、宝暦12年(1762)銘の日本回国祈念地蔵など、特に心に残る表情との出会い。

安永2年の地蔵

静道奉納地蔵


日本回国祈念地蔵

 徳右衛門標石


仙遊寺への道を行く遍路

 放生池の龍

その同じ場所、寺に向って右側に放生池という池があります。「放生」とは、捕えられた龍を放つという意があるとか。少し上にある大師加持水として地より放たれた水(龍)は、蒼社川と頓田川の間の龍登川という川の水源であったといいます。(今の龍登川は護岸が施され、田畑の中の水路という感じの小さな川で流路も追えなくなっているようですが・・)
一方、龍登川はその名が暗示する伝説を持っています。「龍女が海から龍登川を伝って佐礼山(作礼山とも)に上り観音さんを刻んだ。(一刀刻むごとに三度礼拝、これが作礼山の名の由来と)河口近くの衣干という地名は龍女が衣を干して休んだ所。また、拝志という地名は龍女が川を下る時、刻んだ観音さんを何度も拝した所・・だと。」(「今治地方の伝説」(今治商工会議所)より)
放生池の畔には龍を祀った祠があります。古の龍と水に関わる生々しい諸業に思いを派すに相応しい場所です。
仁王門の立派な仁王に励まされ、急な参道を上ります。途中で大師加持水を一杯。石段の上に修行大師像が見えてくるのはやはり感動的な風景です。でも、不思議にも後姿。周りには八十八ヶ所本尊石仏が並びます。
団体バスが入ったようです。納経は1時間待ち。境内の標石などゆっくり見ておきましょう。
本堂横に真念石。「右されいじみち 左こくぶんじみち」と刻されます。放生池前の国分寺への道の分岐点にあったものをここに移したようです。
「入相のかね惜しまるる桜かな」の句を納めた静道道標もあります。


仙遊寺仁王門の仁王

参道を上って・・


仙遊寺の修行大師

仙遊寺の修行大師


仙遊寺の修行大師

澄禅は「佐礼山」の項に「・・大師此観音ノ像ヲ海中ヨリ求サセ玉イ、山ヲ開キ安置シ玉フト也。・・寺ハ仙遊寺トテ山下ニ在・・」と記します。伝説の龍女の業はここでは大師の業となっています。そして仙遊寺という寺は山下に。(「霊場記」の佐礼山図もそのように描かれる。)江戸期には、佐礼山に観音堂があり山下に仙遊寺という寺があったということでしょうか。

放生池の前より国分寺道に入ります。
五郎兵衛坂に「国分寺四十五丁」、見事な彫りの地蔵丁石。竹林寺への道の分岐に「・・智慧文殊尊道」を示す立派な道標など、そして山道の出口に「遍んろ道/されい山道」を示す嘉永5年の道標。これと五郎兵衛坂の丁石には、施主として仁右衛門の名が見られます。
その先、小堂のなかに手指しを刻んだ地蔵。供花のコスモス・・


五郎兵衛坂の地蔵

山道出口の道標

 手指しの地蔵

山道を出て、ほぼ真っ直ぐ北東に向う道は彼岸花の道。その道には多くの道標が見られます。それらの多くは嘉永五年三月のもの、私は4基を確認しました。「名所図会」に「松木村、川 常に河床とふる・・」とあるように、江戸中期までは道は整備されておらず、嘉永期に至って整備されたものと思われます。
先に嘉永4年の静道道標「雪とけて元の山家と成りにけり」。
右折して県道196号の道。蒼社川を渡る国分寺橋近くの土手にも静道道標、国分寺八丁、「竹に宿る雀も見えて夏の月」。さらに国分寺近くに「左邊ん路みち」(右を左の彫り変えた風)の真念石があります。

彼岸花の咲く

 新谷の道標(嘉永5年3月)

(追記)「へんど道」道標
「へんろみち」ではなく「へんど道」と彫られた道標、いくつか見られます。
もともと伊予、宇和島辺りの方言であったとか。乞食、ものもらいの意もある若干蔑視的言葉であると思えます。
写真は今治の国分寺近くの道に見られますものです。幾度か場所を変えたものと思われ、本来左を向くべき「指差し」は右向き。
ふっと思いを留まらせる道標でもあるのです。

 「へんど道」道標

59番国分寺。
この寺は江戸期には逼塞していたようで、「霊場記」には「天下の国分寺の一つだが今は茅葺きの小さな堂となっている。心が痛む・・」といった意味のことが記されています。「名所図会」の時代になると、お堂の再建も始まっている様子がその絵図から覗えます。
今は、握手修行大師、体の悪所を治す薬壺、スイッチにより水が出る手水など目新しい趣向で人気を呼んでいるようです。
境内石段の上に「是より横峯迄六里廿八丁」の徳右衛門標石。
参道(本来は裏参道)の出口に「南朝之忠臣従三位脇屋公巡道」と読める道標があります。これは真念の「道指南」や「霊場記」、「名所図会」が揃って新田義助の墓(寺の2丁東)として紹介するものです。脇屋義助は新田義貞の弟で南朝(宮方)のために日本各地で戦い、1342年今治に来て病死したと伝えます。
新田将軍への期待は、思いのほか根強かったようで、この地と新田の地、群馬県太田市との交流は現在も続いているということです。ちょっと驚くべきことです。

 国分寺にまいる

参道出口から県道を渡った所に「六十番大峯寺」を案内する茂兵衛標石(152度目、明治29年)。
ここから県道を外れ南西に100mほど、四ツ角に今治最大の地蔵道標といわれる立派な地蔵があります。光背に「遍んろみち 天保十五辰正月、願主大坂真徳寺・・」とあります。


天保15年の地蔵道標

近くには「歴史のこみち」の案内も。今の遍路は多く県道を行くでしょうが、この四ツ角を左折、桜井小学校の手前で県道に合流する道が旧道です。
小学校の前に茂兵衛標石(198度目、明治37年)。その先には最南の静道道標。

国分寺の少し手前、頓田川を上流に沿って6、7k行けば朝倉。ここは伊予最古の豪族である越智(小知)氏の故地といわれ、水之上の氏神飯成神社の別当寺であった光蔵寺は越智氏の氏寺であったと伝えます。
奇しくも武田徳右衛門の墓所もそのすぐ近く。実は、時間に余裕があれば、この辺りも歩いてみたいと思っていたのですが・・そんな時間は無さそうです。
国分より先、長沢、湯ノ浦、孫兵衛作を経て、私は世田薬師にまいります。
途中、長沢の道の駅の裏の旧道に「是より横峯迠五里」の徳右衛門標石があることを書き添えておきましょう。
一般には世田薬師、正式には世田山医王院栴檀寺。行基の開基と伝えます。
元々、標高339mの世田山の山頂に近い場所にあり、昭和2年に山下に大師堂と三宝荒神堂を移し、今も山上に奥の院と称し旧本堂が残っています。
奥の院までは約1kの山道。このくらいなら行かねばならないでしょう。
上り口に藁帽子をかぶった可愛いい地蔵。私は8年前の初回の遍路でここを通っています。その記憶と寸分違わぬ地蔵との懐かしい再会でした。


奥の院参道の地蔵

奥の院への道

坂道には丁石地蔵があります。丁石よりもっと大きな数を刻んだ地蔵もあります。何を祈念する地蔵でしょうか。
0.8kほどで日本一体海上交通安全と説明のある船曳地蔵。
その右に5mはあろうかという不動明王の磨崖仏。足場もありまだ制作中と見受けます。今年82歳の老人が10年前から彫り続けているとか。山を下った後、地元の人から聞きました。
200mほど上ると、長い石段の上に奥の院が見えてきます。
石段の真ん中に触ると腹をこわすという「腹こわり石」。中央に旧本堂、右に不動堂。
栴檀寺の本堂であったというだけに、簡潔な装飾を施した立派なお堂です。
向拝に龍がいます。左甚五郎作と伝える、伝説の胴を切られた水呑み龍のレプリカでしょうか。
「龍は夜になると孫兵衛作の医王池(蛇越池とも)に水を飲みにくる。村の人は、夏になり田に水がいるとき水を飲まれては困るので、龍を八つに切って「かすがい」でとめてしまった・・」という伝説。
寺に伝わる「きゅうり封じ」の風習といい、この龍の話といい、何ものかを封じることの譬えであると説く市井の研究者もいます。さてさて、伝説の奥は深いようですね。

船曳地蔵


奥の院への石段

 栴檀寺旧本堂

旧本堂向拝の龍

旧本堂前に、楠村忠左衛門、天明八年(1788)と彫られた手水鉢。長い石段が寛政二戌年(1790)に造営されたという碑もあります。
不動堂の横に「大館伊豫守源氏明朝臣之墓」と刻まれた墓があります。大館氏明は新田義貞の甥で伊予の守護に任じられ世田城主。国分寺の所で記した脇屋義助らとともに南朝(宮方)のために戦ったが、義助が病没した同じ年、世田山の合戦で北朝方に敗れ、この地で果てたという。(世田山の合戦では河野通朝(28代)も南朝に組みして討ち死にしたという記録も。)
200mも行けば、世田山頂。そこからは、しまなみ海道の橋々も見えるといいますが、秋の日は頼りない、山道の足元の薄暗さ。西条市とその沖の青い海を展望する所まで行って、山を下ることにしました。

西条市沖の海


                                                   
(9月27日)

栄福寺・仙遊寺付近の地図  孫兵衛作付近の地図 栴檀寺付近の地図 を追加しておきます。



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コメント
 
 
 
いよっ!待ってました!! (湖山です^^)
2014-11-02 18:27:32
本当に待ってました^^

やはり秋遍路行かれたのですね。

何か最近弱気発言(失礼)が目立っていた枯雑草さん。
安心しました^^

いったいいつ歩いたのですか?

私も10月初めに同じところを逆に歩きました。

栴檀寺奥之院にも初めて参拝しました。


続きを楽しみにしてます
 
 
 
湖山大尽!!さん (枯雑草)
2014-11-03 16:24:05
ようこそ。
89番参道での不本意な別れ以来。
あんときは土佐のガードマンがいて
近づけましぇんでした。
今治から奥の院、記事の終わりにあるように
9月27日。ということは湖山さんより前!
翌日、少し戻って、とんでもない目に!
1ヶ月近く、フテ寝してて10月末ちょっと
歩き足しました・・絶不調!
 
 
 
いよっ!いよっ! (嵐丸)
2014-11-05 22:06:32
私も本当に本当に待ってました!!(^o^)ノ

ずいぶんご無沙汰してたので、お電話しようかなと思っていたところでした

翌日のとんでもないトラブルって何ですか?!
また遭難しかけたとかじゃないですよね?

私は栴壇寺はお参り済みですが、奥の院はお参りしていないので、次回(いつなんだ?!)行きたいと思います

湖山さん同様、続きを楽しみにしています~

ところで、89番は参拝されますよね?
 
 
 
嵐丸さん! (枯雑草)
2014-11-06 16:35:28
ようこそ! ようこそ!
ほんとにご無沙汰です。
とらぶる?  ピンポーン!
遭難しかけたじゃなく、遭難しましたよ。
でも生還。次回で。
栴檀寺は本堂は山上だから、奥の院に
参るのが本当のようですよ。
89番ね。今のところ参拝しないつもりです。
また、よろしく。
 
 
 
写真のファンです (野うさぎ)
2014-11-10 11:47:53
前から読ませていただいています。
私も昨年春から車ですが遍路を始めました。
何かの検索でこのブログを知りました。
私は信仰心や歴史にはあまり興味はありませんが
四国の遍路道には被写体として大変興味があります。
中でも枯雑草さんの写真のセンスは見事なものです。
今回、偶然にも私も今治市内を歩きました。
私も同じ遍路道で撮影してきました。気象条件の違いもありますが適格な場所選び・シャッターチャンスはお見事です。今後も参考にさせていただきます。
よろしくお願いします。
 
 
 
野うさぎさん (枯雑草)
2014-11-11 10:55:23
はじめまして。
ご訪問ありがとうございます。
お褒めにあずかりました写真は
趣味ですが、出来栄えはたいした
ことはありません。
特に遍路の場合は大抵最小のコンデジ
ですから、撮影条件が悪い場合はちゃんと
写ってもくれない・・それが悩みです。
今後ともよろしくお願いします。
 
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