吉野川の高地蔵を巡る(その5)

                                             

                 吉野川の高地蔵を巡る」 目次
                 (その1) はじめに  旧吉野川周辺の地蔵
                 (その2) 吉野川の南の高地蔵  
追記(R1,8)
                 (その3) 藍商の館とその辺りの地蔵
                 (その4) 川島から古い遍路道を辿って・・ 
追記(R1.9)
                 (その5) 城ノ内から府中へ 
(この記事) 

 

 

城ノ内から府中へ

高地蔵を巡る旅の最終回。前回に続いて古い遍路道を城ノ内辺りから府中へ向います。(地図は(その2)に載せた「吉野川南辺)」を参照してください。)

城ノ内の西の地蔵(建立:明治3年 1870) 名西郡石井町石井城ノ内
 二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上に地蔵半跏像。台座高2.03m、全高2.9m。
 台座正面に「三界萬霊」、側面に地蔵菩薩本願功徳経の一節「現在未来天人衆 吾今慇懃付嘱汝 以大神通方便度 勿令堕在諸悪趣」が刻まれます。読み「げんじみらいてんにんしゅう ごこんおんごんふぞくにょ いだいじんつうほうべんど もつりょうだざいしょあくしゅ」意「現在と未来の天人達に、我、今、教えを伝えるよう汝に託す。偉大な力によって、すぐれた教化をし、もろもろの悪業の報いによって迷いの世界へ落ちたものを救われるであろう。」(意は「仏教講座 法聖」による)
また、台座には「従是童学寺江六丁」とも記され道標ともなっています。
 この地蔵は、旧道の四ツ辻で東を向いて立っていました。北の飯尾川と南の渡内川に挟まれ、洪水被害も甚大であったこの地で、高地蔵は人々の心の拠り所だったと思われます。赤いよだれかけと赤い頭巾、肩から薄緑の数珠を掛けて、やさしい微笑みを浮かべています。
 私はこの地蔵の表情に極めて強い印象を受けました。置かれた場所は必ずしも恵まれませんが、 台座の周辺には、素朴な三色スミレが植えられていました。近在の人々の心を感じます。


 城ノ内の西の地蔵

 城ノ内の西の地蔵


城ノ内の西の地蔵

城ノ内の東の地蔵(仮称)(建立:嘉永6年 1853) 名西郡石井町石井城ノ内
 基壇、二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上に地蔵座像。建立者として九目良辰の名が刻まれる。(明治・大正期に藍商として久米家の名が残る。おそらく同一家)
 住宅の敷地の一角に入り込むように置かれた地蔵。水が供えられ、この時はバケツが置かれていました。きっと住宅の方の仕業でしょう。日頃の細かな気配りが感じられます。
 地蔵の前に「弘法大師 日本最初 開基 童學寺 是より南五丁」の道標が立ちます。童学寺はすぐそこです。


城ノ内の東の地蔵

 城ノ内の東の地蔵

 城ノ内の東の地蔵

城ノ内の南の地蔵(建立:文政8年 1825) 名西郡石井町石井石井
 二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上に笠を被った地蔵半跏像。台座高2.25m、全高3.22m。
 台座正面に「悲願金剛」。側面に遠藤春足の歌が刻まれています。「日は入りぬ 月はまだ出ぬ やみの夜の むつのちまたに 君のみぞ立つ」(遠藤春足は天明から天保の人、狂歌師、戯作家。「むつのちまた」は「六道」の意。)
 頭上に石笠がついているためか、美しく凛々しい顔立ちは、建立から170年も経っているとは思えないほど。台座もしっかりと補強され、傍らには立派な線香立てと石塔があります。
 石井警察署の真横に立っているこの地蔵は、町内会と石井警察署の協力で毎年旧7月23日には地蔵まつりが行われます。町内安全と石井署の交通防犯を祈願して、供物が祀られ、地福寺の住職によって心経が捧げられるといいます。地域住民に愛された地蔵だと思わせられます。
 この地蔵は道標地蔵でもあります。台座に「右 四國第十一番藤井寺へ近道 是よ里二里五丁(?)左童学寺へ 是よ里八丁」と刻まれています。

 城ノ内の南の地蔵

 城ノ内の南の地蔵

 城ノ内の南の地蔵

 台座の歌と道しるべ

 台座の道しるべ

道は石井から国府(その古の中心府中は「こう」と発する)へ。
先に引いた細田周英「四国遍礼絵図」の終わりの部分「〇シラトリ△小サカ〇ニジ(16番観音寺へ)」は今では「国道192号、石井町石井白鳥、鳥坂、石井町石井尼寺」。
鳥坂には文政元年の一字一石供養塔、立派な地蔵を戴く墓もあります。峠から右に鳥坂城跡、左に尼寺古墳群。下れば国分尼寺跡。
鳥坂城(茶臼山城とも)は、源頼朝より阿波の守護に任ぜられた佐々木経高が築城したと伝わります。
茶臼山から尾根を伝えば気延山に至ります。気延山東方は、弥生時代から古代に至る遺跡も多く残る所、古来の繁栄の地です。
聖武天皇の詔による国分尼寺跡は、150m四方の寺域に講堂跡の土盛りと碑を残すのみですが、廃寺後今に至るまで「尼寺(にんじ)」という地名を残し得たことこそ貴重なことに思えます。


峠の一字一石供養塔、地蔵


国分尼寺跡

遍路姿ではないけれど辺りをうろつく年寄りは多くの声がいただけます。うれしいことです。
地元の方々は、ここが昔から栄えた地であることに自負を感じている語り口です。

余談ながら・・今の遍路道を少し外れますが、鳥坂ラーメンで有名な「十三八(とみや)」という店があります。店に入る遍路姿の夫婦を見掛けました。さすがに周到。

東に進むと、四つ角に道標地蔵と茂兵衛標石が並びます。地蔵台座に「左 こくぶん寺/右 ふじい寺」と刻まれます。
すぐ16番観音寺。立派な山門が懐かしい。遍路の姿もちらほらと・・
ここからは17番井戸寺へ、今も多くの遍路が辿る遍路道です。
遍路道を少し西に外れると二つの高地蔵に出合えます。


道標地蔵

 台座の道しるべ


16番観音寺

国府日開東の地蔵(建立:文化4年 1807) 徳島市国府町日開
 石基壇、二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上に笠を被った地蔵半跏像。台座高2.63m、全高3.63m。
 この地蔵が建てられたのは文化4年。建立当時につくられた台座が今も残っているようです。石肌には白苔が点々と残り、座の銘刻は「三界萬霊」。のどかな田園風景の中、静かに佇む地蔵。目を伏せ、口元に微かな笑みを浮かべながら、日開地域の人々を見守り続けているようです。
 

国府日開東の地蔵

 国府日開東の地蔵

 国府日開東の地蔵


国府日開東の地蔵

文化の年号を見る尼僧の墓や立派な庚申塔をみる田園の中の道を2kほども行くと法光寺の裏の道に地蔵があります。


尼僧の墓


庚申塔

国府日開法光寺前の地蔵(建立:文化3年 1806) 徳島市国府町日開
 コンクリート基壇、二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上に地蔵半跏像。台座高1.94m、全高2.77m。
 台座の銘刻は「三界萬霊」。文化3年3月24日に建てられた地蔵。六角塔の銘文の一部が崩れ落ちていますが、そのお顔は200年もの時を隔てているとは思えないほどの美しさです。「お地蔵さん」というより「観音さん」という雰囲気、何事も受け入れる懐深い表情、不敬かもしれませんが、赤い頭巾を被ったお顔は赤いショールの女性にも感じられます。こんなに人間的で魅力ある地蔵によく出会えたものです。


国府日開法光寺前の地蔵

 国府日開法光寺前の地蔵

 国府日開法光寺前の地蔵


国府日開法光寺前の地蔵


国府日開法光寺前の地蔵(向いが法光寺)

国府日開法光寺の地蔵(建立:文化10年 1813) 徳島市国府町日開
 基壇、六角柱台座・蓮台上に地蔵半跏像
 寺の裏から表に廻って、法光寺にお参りしました。ここにも立派な地蔵が居られます。境内の高みから広がる田園を見渡しているようでした。


法光寺の地蔵

 法光寺の地蔵

こうやって法光寺とその周囲の地蔵尊にまいると、寺の本堂に祀られた本尊が寺の境内に出て石地蔵に、そして人々とのより多くの触れ合いをもとめて路傍に立つ石地蔵となっていった様を見せられているような気になってきます。

遍路道は井戸寺から東に向かいますが、高地蔵を訪ねる道は国道192号に戻り鮎喰川を渡る上鮎喰橋の袂に向かいます。
立派な地蔵堂、その前で熱心に手を合わせる女性の姿を見ます。

 地蔵堂

国府和田居内の地蔵(建立:安政6年 1859 堂内) 徳島市国府町和田居内
 三段の板状台石上に二種類の蓮台、地蔵座像を置く。台座高2.03m、全高3.23m。
 三上鮎喰橋の傍から堤防を下るとすぐ地蔵堂があります。立派なお堂は土手道からも見える程の高さ。ちょっと見えにくいけれど、中を覗くと、地蔵の膝や台座の上に、握り拳大の小さな地蔵が乗っています。それぞれに小さなよだれかけをして一人前の姿をしています。この小さな地蔵には、「夜泣き地蔵」の縁起があるそうです。
毎晩聞こえる赤ん坊の泣き声。泣き声を辿るうちに、それは池の水の底から聞こえるように思えてきます。翌日、池をさらうと地蔵がでてきます。不憫に思い手厚くお祀りすると、その晩から泣き声は止んだそうです。それからこの地蔵は「夜泣き地蔵」と呼ばれるようになりました。子供に関するご利益がある、と子宝に恵まれない人が願をかけて小さな地蔵を持ち返り、抱いて眠ると不思議と子供を授かるといいます。そしてお礼参りに、借りた地蔵の他にもう一体小さな地蔵を返すため、今でもたくさんの地蔵が残っているのだそうです。こんな話を聞きました。
この地蔵も「夜泣き地蔵」であるとともに嘗ては洪水犠牲者慰霊と洪水防止を願う地蔵でもあったと思われています。

これまで地蔵の前で手を合わせ、真言を唱えたり唱えなかったり・・「おん かかかび さんま えい そわか」・・


国府和田居内の地蔵

 国府和田居内の地蔵

近くには阿波人形浄瑠璃を支えた人形師「天狗久」の資料館があります。地蔵堂の横にその案内も立ちます。
鮎喰川の土手から、午後の陽が傾きつつある和田居内の街並みを長い時間眺めていました。この高地蔵を巡る旅の終わりです。


和田居内の街並


 

 

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吉野川の高地蔵を巡る(その4)

                                                             

 


高地蔵地図(3)川島・鴨島地域 (クリックすると大きくなります)

川島から古い遍路道を辿って・・

川島の高地蔵から、昔からの遍路道を辿って吉野川流域の南端を行き徳島の国府まで参ります。今回はその前半。

川島の浜の地蔵(建立:天保14年 1843) 吉野川市川島町川島
 二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上に地蔵半跏像。台座高2.67m、全高3.72m。
 台座の銘刻は「三界萬霊」。殿様巡視の際、台座が余りにも高すぎるため一つを外してしまったという伝説が残っています。台座高三位の高地蔵です。
 台座の右斜部に「天保癸卯四月念四日 脩流水灌頂干芳水高 造立導像予北為淹溺亡」と刻まれています。(念は「二十」、淹は「とどまる」の意か、何となく意味は分かりますね。) 地蔵が建てられたのは天保14年(1843)4月、まだ堤防がなかった頃のこと。この辺りは、川が湾曲しているため、水が出る度に被災者の亡骸が流れついたのですね。川遊びをする子供の事故も多く、水没者の供養と、水難除けのため地蔵が建てられました。
 「浜の地蔵」と親しまれて人々の信仰を集めるようになってから、付近の水難事故はなくなったと伝えられています。
 傍らには「川島渡し場跡」の碑。渡し場の出船入船を見守っていたのもこの地蔵です。
 南隣りの小さな公園では、かつて歌や踊りが催される地蔵まつりが行われていました。堤防が築かれた今では、堤防上に屋台が立ち並ぶひときわ賑やかなお祭りとなったそうです。堤防とダムがつくられ、洪水が以前のようには恐ろしいものではなくなった今も、8月の24日にはムシロを敷き、百万遍の数珠を操り、地蔵をお祀りしているといいます。


川島の浜の地蔵

 川島の浜の地蔵

 川島の浜の地蔵

 台座の銘


堤防の下

堤防の道を行きます。すぐあの懐かしい潜水橋(川島橋)が見えてきます。川島橋を渡る今の遍路道と浜の地蔵とは百mほども離れていません。でも、地蔵に参る遍路は少ないようです。
急に過ぎた雨の後、静かな吉野川の流れは少し霞んでいるようです。川の畔の樹木の影、緑の斜面の黄色の菜の花・・こんな美しい場所がこの世にあるだろうか・・と思うほどです。
川を眺める人、散歩する人・・に出合います。遍路の姿を探しますが、出会えません。
粟島の渡し跡。案内板には「遍路に限り無銭渡し」であったとあります。光明庵(別名無銭庵)もここにありました。光明庵は享保年間(1716~1735)の創建で、4、50人の遍路が泊まれることができたという大きなもので、渡しとともに庵の所有田畑の収益金と近隣の人の接待、藍役所の協力などによって維持されますが、大正3年の吉野川の改修工事に伴い姿を消すことになったと言われます。


吉野川


潜水橋(川島橋)


吉野川


粟島の渡し跡

堤防の道をおり、大正13年の道標の傍から市杵島神社(弁天神社)へ。参道に大樹に取り込まれた百度石を見ます。
新田の道には古い道標「(手指し)遍んろ道 切はた寺へ七十二(?)丁 ふじい寺へ九(?)丁」。国道そばには茂兵衛標石 茂兵衛さんとしては珍しい自然石、それも青石。(なお、この辺りで使われる青石と呼ばれる石は鴨島町の山麓で採取される緑色(泥)片岩のこと。)
藤井寺へ向う道、田淵(笠松神社前)の四つ角に集められた道標群、青石の道標、茂兵衛標石、照連標石、舟形地蔵道標。地蔵道標には「是より藤井寺へ六丁 切幡寺へ七十五丁」と刻まれます。
(追記)この地蔵道標は光背部に「〇享二丑三月」と刻まれています。年号の一文字と干支から判断すると、「延享二年乙丑」(1745)と思われます。これが事実だとすると、この地域で残る最も古い部類の道標に入ります。(私の見たどの資料にも記載されていませんが)果たして・・

この場所より右折、今の遍路道(県道240)の一筋南側の山際の道が旧遍路道と思われます。
旧遍路道に沿って西麻植の地蔵があります。今の遍路道を進むと。つい見逃してしまう場所です。


百度石

 新田の道標

 茂兵衛標石


街角の標石群

 道標(右端が地蔵道標)

西麻植の地蔵(建立:天明2年 1782) 吉野川市鴨島町西麻植東禅寺
 三段の墓石状台石、角柱台座・蓮台上に地蔵座像。台座高1.99m、全高2.52m。
 台座の銘刻は「三界萬霊」。
 地蔵が建つ道は、国道や県道ができるまでは徳島へ通じる唯一の道であったといいます。道行く人々が旅の途中で出会ったこの地蔵にほっとしながら暫し休んで、お参りして去る情景が浮かんでくるようです。
 この辺りではその昔、子宝を授かるようにと地蔵に参り、女児が生まれると赤いよだれかけをかけるという風習があったと伝えられます。所謂「子宝地蔵」と呼ばれる地蔵ですが、場所がら洪水の防止と犠牲者の慰霊を願う地蔵でもあったと考えられています。


地蔵の前の道

 西麻植の地蔵

ここから藤井寺への道にも多くの道標や庚申塔が残されています。
やがて藤井寺、多くの遍路はここから焼山寺の「へんろころがし」の山道にかかります。昔も今も・・
しかし、この度は東方国府に向かうもう一つの遍路道を辿ります。

細田周英「四国遍礼絵図」(部分)

宝暦13年(1763)細田周英「四国遍礼絵図」はこの道を次のように紹介しています。
(11番藤井寺)より〇イノウチ〇モリトウ〇サンジ△小サカ〇カミウラ〇ウラボウ〇シモウラ〇ゼウノ内〇石井〇シラトリ△小サカ〇ニジ(16番観音寺へ)
この道は阿波五街道の一つ伊予街道(今の国道192号に近い)の南側を併行(一部で重なる)する道で、その部分で飯尾(いのお)街道、下浦街道、森山街道などと呼ばれました。藤井寺からカミウラ(鴨島町上浦)までは森山街道と呼ばれるに相応しい所ですが、遍路道として分かり難い部分でもあります。この道筋についてある文献は次のように解説しています。
「藤井寺から北へ出て、呉郷団地南端から山裾の細道を東へ、梨の峠への登り口から三谷寺の前へ出て、壇の大楠の南へ登り、玉林寺の下を寺谷に沿って下り、向麻山の南から旧伝馬道に沿うルートと、梨の峠の登り口から少し北へ取り、一の坪から一町地の南に沿い、上浦の山裾を東に行く、森山小学校の東へ出て、山路の県道と並行して、向麻山の南で前の道に合流する。」(阿波学会研究紀要30号「鴨島町の遍路道」)
これを地図に落としたものを添付します。 阿波森山1山路付近
実際に歩く場合は、要点に道標などもよく整備されており、迷うことはないと思われます。(地図に●赤、無記は古い石道標を表しています。)
特に注目すべき石道標について記しておきましょう。一つは山路字立石の道標。極めて立派な石柱(高さ238cm)で 「(大師像)(手差し)四国十一番霊場藤井寺へ二十四丁 第十三ばん一の宮へニ里半 是より阿波西国第卅一番玉林寺へ八丁」(裏面に文化八年の銘)と刻まれます。(玉林寺は阿波西国三十三観音(東部)の30番霊場)
もう一つ、そこより西400mほど、森藤字大泉寺地蔵堂横の高さ2mほどもある自然石石標。天保5年(1834)の銘、「奉剣山大権現 右是より十里余 石鈇山大権現 同一里十八丁 (梵字)南無大師遍照金剛 藤井寺へ十九丁 左一の宮へニ里半」などと刻まれます。

鴨島町山路立石の道標

上記のように、この道に残されている古い道標の多くは「藤井寺〇丁、一ノ宮〇里」のように観音寺や国分寺の表記はなく、直接「一ノ宮」へ行く道が存在するかのようにも思われ、その道筋の判断を迷わせます。直後述のように澄禅が一ノ宮から入田月ノ宮の北の峠を直接越えたという(柴谷宗叔氏の説)道は、低い峠ではあっても多くの一般の人が通る道としてはやや無理があるように思えます。遍路道としての一ノ宮への主道筋は、おそらく細田周英が示す(観音寺)、国分寺、常楽寺を経由する道筋であったであろうと思われます。
では、鴨島にある道標で、一ノ宮と藤井寺の距離の表記を見てみます。設置年、一ノ宮との距離、藤井寺との距離の順。
  文化8の石 二里半、24丁
  文政10の石 80丁、40丁
  天保5の石 二里半、19丁
江戸時代の一里は全国的には36丁と定められていますが、阿波、土佐では一里、50丁前後で運用されていたようです。(阿波48、51丁、土佐50,51丁)・・これを聞くと行うことの意味を疑ってしまうのですが・・まあいいや・・この換算を適用して藤井寺と一ノ宮の距離をもとめてみると、120~150丁となります。
一方現在の道程で藤井寺から観音寺を経て大日寺に至る距離を地図上で測ってみると170丁程度となります。この差は結構大きい。道標の示す道筋は地蔵越など峠越えの近道であると考えた方が素直なのかもしれません。

澄禅は江戸時代の始め一ノ宮から山を越え石井町城ノ内辺りからこの道を逆に辿り藤井寺に至っています。「四国遍路日記」には次のように記します。
「・・峠ニ至テ・・休息シ・・坂ヲ下リテ村里ノ中道ヲ経テ大道ニ出タリ。一里斗往テ日暮ケレバ、サンチ村ト云所ノ民屋ニ一宿ス。・・早天ニ宿ヲ出、山田ヲ伝テ藤井寺ニ至ル、・・」(サンチ村は今の鴨島町山路でしょう)

澄禅が越えたと思われる峠は、現在は地蔵越と呼ばれるもので、明和6年(1769)の「峯の地蔵」や「水かけ地蔵」が残る古道です。尾根道を辿れば童学寺越を経て童学寺に至ることもできます。

追記)ここから石井町に至る道は、現在は吉野川が北方に遠退いた山際の道です。しかし、昔は粟島(善入寺島)の南、西麻植で吉野川から分岐する江川、さらにその南の新宮川(:神宮入江川、その一部は現在の飯尾川に重なる)が吉野川の主水流の一つを形成していたと言われます。この地はやはり吉野川の賜物、この道はやはり吉野川南辺の道であったのです。
 天保11年(1840)の吉野川絵図(徳嶋県立図書館)では江川や新宮川が明確に表示され、昔の吉野川水流の様を想像することができます。
この絵図からは、当時の渡しの位置や様々な水系の事象が見られ興味が尽きません。(クリックすると村名などを補記した図に変わります。)一つをあげれば、本文「その1」にも記した善入寺島(昔:粟島)の遊水地化により大正4年に姿を消した「宮島八幡宮」(吉野川が氾濫した際には社叢が川の上に浮いたように見えたことから「浮島八幡宮」と呼ばれたと言われます。またこの社は「忌部大社」に比定されるとも。川島町の川島神社に移遷。)や藤大夫塚や児島塚など人々の彩豊かな生活の跡が記されています。(R1.9追記)


吉野川絵図(天保11年)


現在の吉野川

 

 

(続きは次回「その5」へ)

 

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吉野川の高地蔵を巡る(その3)

藍商の館とその辺りの地蔵

吉野川の洪水の頻発地域の只中に広大な藍商の館が残されています。田中家(名西郡石井町藍畑高畑)と武知家(名西郡石井町高川原天神)です。
田中家は国重文に指定。案内板にはおよそ次のように記されています。
「田中家は寛永の頃(1624~1643)この地に入植して続いた藍商の家です。「すくも」や藍玉、青藍を製造、販売しました。
屋敷は藩制後期に青石(緑色片岩)と撫養石(砂岩)を使って高い石垣を築き土盛りをし2100㎡の敷地を造成しその上に主屋、藍寝床など11棟を建築した。昭和52年から56年までの四年間にわたり根本的な修理が行われ往時の姿をあらわしました。宅地建物ともに藍作が盛んであった時代の姿をほぼ完全に伝え、そのデザインがすぐれているうえに各建物には棟札があって建築年代が知られることであり、しかも一人の棟梁大工によって三十年かけて建設された点です。高い石垣や主屋の大屋根のよし葺や床を高くしてあるのは、たびたびの吉野川の洪水からまもるためです。
安政6年より明治20年までの各建築物がそろっている点で全体のバランスも考慮した美しさが見事で建築学的にも貴重で藍商の生活を知るうえにも興味深い建物といえましょう。」

現在は建物内部の見学は許可されていません。外部より敷地をぐるっと回って見せていただきます。近所の人の解説では主屋の葦葺の大屋根は洪水時には救命ボートになるようになっているとか・・
水が侵入しないよう隙間なく積まれた石垣の見事さ。大正元年九月の洪水はこの石垣をも越えたそうです。その痕跡も見られます。
緑の草原と点在する黄色の菜の花。その向こうに聳える藍蔵を見ると人の造り得た美しく偉大な造形を感じます。それはよいことも、そうでないこともすべてを包み込んで存在しているように思えました。


藍商の館


藍商の館


藍商の館


藍商の館


藍商の館


藍商の館


藍商の館

藍畑高畑の田中家の近くには二つの地蔵があります。

藍畑高畑西の地蔵(仮称) (建立:寛延3年 1750)
藍畑高畑東の地蔵(仮称) (建立:寛延3年 1750)
厳しくも優しい面差し。300年近くを経たとは思えぬ御身の美しさは、近在の方々の一方ならぬ心を感じさせられます。


藍畑高畑西の地蔵堂

 藍畑高畑西の地蔵


畑高畑西の地蔵

 藍畑高畑東の地蔵

 藍畑高畑東の地蔵

この近く、そして少し遠くまで、さらに高地蔵を巡ります。

加茂野の地蔵(仮称)(建立:寛政4年(1792)) 名西郡石井町高川原加茂野
 基壇、二段の墓石状台石、角柱台座・蓮台上の地蔵半跏像
 台座には「法界萬霊 寛政四壬子天三月二十四日 加茂野村女講中」と刻まれます。この地蔵もきれいです。
こうして多くの地蔵に出合ってみると、覆屋のない高不動の置かれた厳しい環境に思いを致さざるをえません。

 加茂野の地蔵

 地蔵の台座

桜間北の地蔵(建立:安政5年(1858) 大正5年修繕) 名西郡石井町高川原桜間
 基壇、二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上に笠を被った地蔵半跏像。台座高2.19m、全高3.27m。
 台座の銘刻は「三界萬霊」。この地蔵のお顔は確としません。しかし近づいてよくよく拝見すると微笑みを含んだ高貴さに出合えます。
 台石の前に横向きに二体の仏が置かれています。台座に「大正5年成田山」の字が見えるところからすると、大正5年の修繕時に置かれたものと思えます。ある資料によれば「不動明王と毘沙門天を脇侍として祀る地蔵三尊」と書かれていますが、私には「童子のような不動明王」はそうとしても、一方は毘沙門天には見えません。観音型のようです。(あるいは大日さまのようにも)
 供物が絶えることがない地蔵と聞きます。この時もお参りの婦人にお会いしました。基盤の周りは近在の人々の心をかんじるように花に埋め尽くされていました。

 桜間北の地蔵


桜間北の地蔵

 桜間北の地蔵

 不動明王 

 花に囲まれて

桜間北の地蔵への道は県道30号から南へ少し入ります。道傍に茅葺の家や古い墓があったりする静かな道です。
桜間という所、7世紀、武内宿祢の末、阿部真人広純が阿波国司として着任、真人の末裔田口氏が9世紀この地にに住み、桜間を名乗って阿波国を統治したと伝わる・・そんな地です。

住宅の敷地ともそうでないともつかぬところに立派な枝垂れ桜がありました。遊ぶ子供を見守る奥さんがいます。「もうちょっとで満開なんですがねー、明日くらいは・・」と。「いやー十分きれい ですよ・・」礼を言って帰る時「毎年見に来ておいでの方・・」と聞かれます。「いやー・・まあ・・」と曖昧にしておきました。



道傍の墓


 枝垂れ桜 



                  

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吉野川の高地蔵を巡る(その2)

                                                    


高地蔵地図(2)吉野川南辺(クリックすると大きくなります)

吉野川の南の高地蔵

吉野川を南へ越え、車の通行が多い堤防の道から外れると畑の畔を広げたような細い道に入ります。
思いがけず「鑓場古戦場跡」の石碑と案内板。
「勝瑞城主細川持隆は家臣三好義賢に討たれる。同じ持隆の家臣久米義弘(芝原城主)は主君の仇はたそうと天文22年(1553)兵をあげ義賢と戦った。これを「鑓場(やりば)の義戦」と呼ぶ。」ちょっとややこしいが言わば城主間の勢力争いといった様相。戦国時代はこの地にも・・

やがて、遠くからでも笠をかぶった特徴あるシルエットが見えてきます。

東黒田の地蔵(建立:文化8年 1811) 徳島市国府町東黒田宮ノ北
 4段の墓石状台石、六角柱台座、蓮台上に石笠を被った地蔵半跏像。台座高2.98m、全高4.19m いずれも吉野川流域の地蔵中第1位。
 台座の銘刻は「法界萬霊」。東黒田村講中と県内屈指の豪農、豪商長篠孫太郎の資力で建立されました。
 おまいりして振り仰げば、そのうつむいた姿勢と微笑みを含んだような清々しい表情に心深く慰められる思いです。
 「東黒田のうつむき地蔵さん」の愛称で地元の人々に親しまれているとともに吉野川流域の高地蔵中最も著名な地蔵と言えるでしょう。
 祀った人の願いは水没者の供養ですが、洪水で分りにくくなった土地境界の目印ともなったといいます。


東黒田の地蔵

 東黒田の地蔵

 東黒田の地蔵

 東黒田の地蔵

 東黒田の地蔵

吉野川の堤防の道に戻り、暫く右手に第十堰(第十は地名)を見ます。
第十堰設置の経緯はおよそ次のようであったと思われます。
「寛文12(1672)藩が実施した別宮川(後の新吉野川の旧名)の開削により、吉野川の水量が減り米が不作となります。それを解決するため、吉野川沿川の農家が主体となって別宮川の流頭第十に堰を建設する。これが第十堰の始まりですが、その後の増築・修築、管理も基本的に農家主体で行われます。藩は用水開発よりは藍作を重視したと言われます。(吉野川は阿波藩という一地方藩が管理するにはあまりの大河であったという評価も。)その後明治以降、「はじめに」でも触れたように洪水対策として、樋門を設置するなどして吉野川の付替えが行われ、第十堰も形と役割を変えて行くことになります。」

見渡すと、堰の前後で大きな水位差を生じており堰が有効に機能したであろうことが見て取れます。それが農民のみの手で為されたことは驚くべきことと言えましょう。


第十堰


第十堰付近(向いの河岸が樋門が設けられた辺り)

第十を過ぎると石井町の藍畑・高原地区、県道34号、県道30号の周囲の道に点在する多くの高地蔵を巡ります。そこはかつて洪水の頻発地域でもあります。

東覚円南の地蔵(建立:文政10年 1827) 名西郡石井町藍畑東覚円
 三段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の地蔵半跏像。台座高1.99m、全高2.81m。
 台座の銘刻は「三界萬霊」。かつて、洪水の常襲地域だった石井町藍畑に建ちます。後に雨除け屋根が設けられたためか長い歳月を経た今も、美しい石肌を保っています。しかし、六角石の下の台座には染みや痛みが目立ち、(そこが水位線であったのか)洪水の記憶を想わせているようです。

 東覚円南の地蔵


東覚円南の地蔵

 東覚円南の地蔵

近くの産神社境内に石井町有形文化財の「印石」があります。これは江戸時代末期に地域で水除け争い(堤を勝手に高くすること)が起こったとき、堤の高さの基準を定めるために建てられたものと言われます。洪水が当時の人々にとって死活問題であったことがうかがえる一事でもあります。

高畑の地蔵(初建:天保14年 1843 平成17年12月に再建) 名西郡石井町藍畑高畑
 石基壇、三段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の地蔵半跏像。台座高2.24m、全高3.09m。
 台座の銘刻は「延命尊」。交通量の多い県道34号沿いに置かれます。
 かつては両手が破損した痛ましい姿であったそうですが、平成17年地元小川家の人の発願と熱心な支援者の協力により再建されたと聞きました。(高畑の小川家はこの地の有力な藍商の一人で、藩政期、藍の品種・製法改良を行ったことで知られます。)
 上記の寸法は初建時のものですが、再建時にも形式等を含め、それを踏襲しているものと思われます。


県道34号に沿って

 高畑の地蔵

東高原南の地蔵(建立:慶応元年 1865) 名西郡石井町高原東高原
道に迷いに迷った末、この地蔵には行き着くことができませんでした。立派な地蔵だと聞いていました。残念です。

しかし、この辺りを動き廻っていての発見や出会いもありました。この石井町高原という田園、北を流れる吉野川(昔の江川)と飯尾川に囲まれた地で、それが洪水の頻発地域であったということが信じ難いほどの美しい地でした。低湿地のなかに微高地が形成されているようです。地名もそれを反映したものかもしれません。特に高原中島の新宮本宮両神社、三宝院の辺り。もし、その機会があり私の足が許してくれればもう一度歩いてみたいと思わせる所です。

(追記)「愛宕地蔵」(石井町藍畑西覚円734付近)について
石井町のこの付近で私が参ることができなかったもう一つの重要な地蔵(建立年代は下りますが)「愛宕地蔵」について追記しておきましょう。
「その1 はじめに (洪水のこと)」でも少々触れたことですが、明治21年7月の洪水により堤防が決壊、26名の死者を出す災害が発生します。それが(国の吉野川治水対策に対する住民の不満として)覚円騒動へと発展します。その後、死者供養のため建てられた高地蔵が「愛宕地蔵」です。
吉野川に架かる高瀬橋の南西200mほど、堤防を背に建つ地蔵。訪ねる機会のあることを切望するものです。(R1.8追記)


迷った末、少し南に道をとり思いもかけず出会ったのがこの地蔵でした。

高原池北の地蔵(仮称)  名西郡石井町高原池北
 二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上に石笠をかぶった地蔵半跏像。
 この地蔵、何度も水を被ったのでしょう。顔の表情も不明瞭なほどに。
 台座正面に彫られた銘文は「二世安楽」でしょうか。側面の建立年月なども読み取ることはできません。
 しかし、鮮やかな供花と台座に置かれた一つの蜜柑が近在の人の心を表すようでした。


高原池北の地蔵

 高原池北の地蔵

南島西の地蔵(建立:天保14年 1843) 名西郡石井町高川原南島
 コンクリート基壇、二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の地蔵半跏像。台座高2.46m、全高4.11m。全高は2番目の高さ。
 台座に「三界萬霊/天下泰平/五穀成就」と刻します。
 二ツ森神社を背に立っています。最下の基盤は、道路改修工事の際に壊れてしまったため、新しく作り直されたものといいます。
 毎年旧9月23日、近くの住職によって般若心経が唱えられます。近くの東禅寺に奉られている不動明王の縁日は28日。地元では、地蔵と不動明王は不仲で、どちらかの縁日には必ず雨が降ると伝えられていると言います。
 二ツ森神社は広い境内、開かれた感じの素晴らしい神社です。桜が二つ三つ・・地蔵の向かいに庚申塔形式の不動明王石像。


南島西の地蔵

 南島西の地蔵


南島西の地蔵


二ツ森神社

高川原の地蔵(建立:万延元年 1860)コンクリート造鞘堂  名西郡石井町高川原南島
 新設の石基壇、二段の墓石状台石、角柱台座・蓮台の上の地蔵半跏像。台座高2.43m、全高3.26m。
 この地蔵は飯尾川に架かる南島橋の北のたもとにあります。川船による輸送と主要道にも近いこの地は水陸交通の拠点でしたが、洪水の常襲地帯でもありました。安政4年(1857)7月29日、「八朔水」と呼ばれた大洪水がこの地を襲い、飯尾川の氾濫によって 田畑は冠水子供は溺れ死ぬという大惨事、その3年後万延元年にこの地蔵が建立されます。その後も洪水は続きますが、この地蔵が建てられてから犠牲者を見ることは無くなったと言い伝えられています。
 平成5年に行われた飯尾川の改修によって増水の危険も減少し、橋の新設によって露座だった地蔵もコンクリート鞘堂に安置されました。旧暦正月24日と夏の7月24日の縁日には、講中の人々によって熱心に祀られるといいます。

 高川原の地蔵

 高川原の地蔵



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吉野川の高地蔵を巡る(その1)

                                          

はじめに

(洪水のこと)
 江戸時代(藩制期)、万治2年(1659)から慶応2年(1866)の二百年の間、吉野川流域の阿波国内で約100回もの洪水が発生したと言われます。
江戸中後期までの大洪水として記録に見られるのは享保7年(1722)と享和元年(1801)です。享保年間の記録には「農民の家屋は殆どが掘立小屋で地盤に石を敷いた家は僅かしかない。大きさも二間四方あるいは二間×三間であった。厳しい年貢の取り立てと水害によって借家住いや流浪人になり下がる者が出た・・」などと記されます。
幕末になっても洪水は続き、天保14年(1843)7月の「七夕水」、嘉永2年(1849)の「酉の水」(阿呆水とも)、安政元年(1854)の大地震、安政4年(1857)の「八朔水」、慶応2年(1866)の「寅の水」などが記録に残ります。
これら洪水の原因は、阿波地域の集中豪雨によるもの、吉野川上流の土佐の豪雨が加わったもの(「土佐水」とか「阿房(呆)水」とかと呼ばれた)、地震による「液状化現象」など様々です。「酉の水」では「板東村では百間が破提、水位七尺・・」、「徳島川内町で破提33箇所、海水の侵入・・」「山川町で死者250名・・」、「八朔水」では「川内町で350戸が倒壊・・」などが記録の上。また中喜来の春日神社の敬諭碑には洪水時の生々しい記録が石上に残ります。
明治以降も洪水は頻発、3年、6年、9年、17年8月石井町で破提、79戸流失、18年、20年、21年西覚円で破提。21年には国、県による改修工事の失敗によるものとして住民が土木事務所を襲撃する事件が発生。明治44年「土佐水」と言われる洪水、死者21名、不明6、住宅全壊164戸など記録に見えます。大正元年の大洪水、「板野郡誌」は「水嵩田の面上一丈(3m)、湖水の浸水5尺(1.5m)、三日三晩屋根の上で水の引くのを待った・・」などと記します。
このように、拾ってきた吉野川洪水の記録は悲惨を極めるものですが、当然ながら藩、県、国による洪水対策も行われてきました。
しかし、藩制期においては各所に部分的で小規模な堤防が築かれただけで、極めて不十分なものであったと言われます。(それは、後にも触れますが、洪水によって運ばれてくる土が藍作に適したものであったということにも因があったとされています。)
明治に入り、オランダの技師デ・レーケの指導などもあり本格的な改修工事が開始されるのは明治40年にまで待つことになります。その工事の概要は①藩制期に造られた第十堰に樋門を設置することによる旧吉野川の付替え、②別宮川を改修して吉野川本流とする、③市場と川島に跨る善入寺を全島買収し遊水地化する、④江川の締め切り、というものでした。この第1期改修工事が完成するのは昭和2年。その後は、支川や派川流域や遊水地帯での内水被害として形を変えた水害と向き合うこととなり、その対策との競合が続いていると言われます。

(高地蔵のこと)
吉野川の下流域には多くの高地蔵が建てられています。(特に定めはありませんが、台座高1m以上または全高1.5m以上の地蔵を高地蔵と呼ぶことが多いようです。)その数は200基ほどと言われます。
高地蔵が建てられた時期は、寛保から明和に至る江戸中期(1740~1770)、享和から天保に至る江戸後期(1800~1840)、安政から慶応に至る幕末期(1850~1870)に集中しています。
洪水の頻発地域と高地蔵分布は正確に重なっています。それは、脆弱な堤防で防げない洪水から逃れたいという願い、洪水被害者の慰霊、そしてそれを叶える地蔵が洪水につかることがないという願い、と言えましょう。また、それは今後も起こるかもしれない水害に対する警鐘にもなりましょう。


旧吉野川

(阿波藍のこと)
かように吉野川は周辺の人々に対し多くの災害を引き起こしてきましたが、当然のことながらまた多くの恵みを齎してきました。むしろ、阿波北部は「吉野川の賜物」というほどの地でしょう。その恵みの一つとして、高地蔵を巡る旅の中できっと出会うであろう「阿波藍にかかわる様々なもの」があるでしょう。阿波藍について簡単に触れておきましょう。
タデ科の植物である藍の乾燥葉を発酵させて作られる天然藍染料が「すくも」と呼ばれます。その製造には1年近い時間を要します。藍は吉野川流域で栽培されてきました。稲刈り前の台風の時期に大洪水を起こすことの多い流域は稲作に適さず、台風の前に刈り取りが終わる藍作はこの地に適したものでした。そして洪水は肥沃な土を流入させ、藍の連作を可能にしたのです。(前にもちょっと触れたように、藩の洪水対策としての堤防構築が不十分なものとなった原因の一つはこのことにあり、事を複雑化しかつ悲劇的にしているのです。)
  (追記)この地の高地蔵を巡って気づくことですが、高地蔵の建立において藍商の貢献は大きなものがあるのです。やはり、事は単純ではなさそうです。

阿波藍の製造はすでに室町時代には行われていたと言われますが、その品質の良さに藩の保護政策も加わり、藩政期から明治にかけて飛躍的に増加し、1700年代には全国市場を支配するようになります。(宝暦13年(1763)細田周英「四国遍礼絵図」には下流で分岐した吉野川に挟まれた地に「アワノ中嶋縦三リヨコ一リ 玉アイ名物ナリ」と書き込まれています。(「玉アイ」とは当時の製法である「藍玉」のことか))
その繁栄は1800年代の終わりまで続きます。その後は合成藍の輸入により、阿波藍の生産量激減、現在は「その色の良さ」を貴ぶ「藍師」や関係者の努力により、その伝統が受け継がれているという状況と言われます。
また、藍繁栄時の藍商人の全国的な展開は阿波に様々なものを齎すことになったと言われます。そんなことの一つ、阿波踊りの改良に全国の踊りの要素が取り入れられたことは最近のNHKTV「ブラタモリ」でも紹介されたことですね。

(小さな旅)
私は吉野川流域に多くの高地蔵があることは以前から知ってはいましたが、八十八か所遍路の道すがら寄ることはありませんでした。高地蔵に出合える、一番霊山寺付近から直接徳島に行く道(遍路日記、平成28年春その1の追記参照)あるいは11番藤井寺から16番観音寺に向かう吉野川の南の道は古くから遍路道と呼ばれてはいましたが多くの遍路が通る主道となることはありませんでした。それはこの地が洪水の頻発地域と重なっていることと関係しているのかもしれません。高地蔵はそういう地に集中しています。
高地蔵を巡りたい。それを建てた人の心に近づきたい。と思い立ちました。
私はもう長い距離を歩くことはできなくなりました。移動の足の多くは車に頼らざるを得ませんでした。それは仕方ないか・・さあ、行ってきましょう。
(参考資料 「高地蔵探訪ガイドブック」(徳島県)他。)



高地蔵地図(1)旧吉野川周辺 (クリックすると大きくなります)

旧吉野川周辺の高地蔵

この吉野川の高地蔵を巡る旅の最初は遍路と同じように、第1番札所霊山寺からです。懐かしい境内、本堂前のベンチに暫く座っていました。門前一番の店は閑散。
「今年の遍路はちょっと出足が遅いようですねー・・」と女将さん。
霊山寺の参道とも見える2番札所への旧道を行きます。
右折すると地蔵堂横に光明真言塔などとともに真念石が置かれています。そこには不明瞭ながら「右いど寺のみち、左里やうぜん寺の○○」と。
真念石自体当初の位置から移動していると思えますから方向指示には従えませんが、とにかく霊山寺と反対方向の井戸寺への道を目指します。それは板東谷川に沿った雰囲気の良い道で、神社や寺が多くあることからひょっとしたら井戸寺への旧い道筋であるかもしれません。
旧吉野川を「ひのきばし」で渡ります。川は深い青。道角に地蔵堂が見えてきます。


1番霊山寺


霊山寺参道

 真念石


板東谷川


旧吉野川

乙瀬出来島の地蔵(建立:宝暦6年 1756)
大変美麗な地蔵で大切に扱かわれていることが感じられます。台座に念佛講中と。堂前の常夜灯は寛政12年(1800) 乙瀬村東講中と刻まれています。


出来島の地蔵堂

 出来島の地蔵

そこからおそらく井戸寺への道を外れ、細い道を東進。目指す最初の高地蔵です。

乙瀬中田の地蔵(建立:慶応4 1868) 板野郡藍住町乙瀬中田
 二段の墓石状台石、角柱台座・蓮台上の地蔵座像。台座高1.99m、全高3.04m
 台座の銘刻は「爲溺死亡霊菩提」。水没者の霊を慰めるために作られたことが記されています。
旧吉野川河畔に立つ地蔵。改修前は川幅が20mほどしかなく、ひとたび大雨が降れば止めどなく水が溢れ出し、たくさんの水没者を出したと言われます。
水深も今よりずっと深く、普段から水難事故が絶えなかった所であったとも。今は川幅が広げられ静かな川となっています。
この地蔵は、蓮台前部は破損、両手首も失った悲惨な姿です。何度となく水を潜ったであろうことを想います。


乙瀬中田の地蔵

 乙瀬中田の地蔵

ここから旧讃岐街道にある二つの高地蔵をたずねます。

東中富龍池の地蔵(建立:安政3 1856) 板野郡藍住町東中富龍池傍示
 石基壇、三段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の地蔵座像。台座高2.89m、全高3.82m、これは吉野川流域の地蔵中で 台座高2位 全高3位。台座の銘刻は「悲願金剛」
この地は旧吉野川・今切川河畔に近く昔「カクジの浜」と呼ばれ生産した藍玉の出荷や藍の栽培に欠かせない肥料の搬入を行う港として多いに賑わっていたところ。この地蔵は出入りする舟の標識として建てられたと言われます。
地蔵像としても実に立派なもので、板野十六地蔵の十六番札所ともなっています。(1番札所は吉野町西条 西光院)

 東中富龍池の地蔵

 東中富龍池の地蔵


東中富龍池の地蔵


東中富龍池の地蔵

東中富龍池から旧讃岐街道(現県道1号)を南へ500mほど。

東中富東の地蔵(仮称)(建立:宝暦7 1757)板野郡藍住町東中富東傍示
 石基壇、三段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の笠付き地蔵坐像。基壇高0.47m、全高2.83m。
 台座正面に「(梵字)奉造立地蔵尊」同斜前左面に「板野郡東中留邑念佛講中」と刻む。また同斜前右面に「從是 讃州金毘羅迄 十八里/從是 當國城下徳嶋迄 二里」と刻む讃岐街道の道標地蔵でもあるのです。
 隣に庚申塔があり、「奉建立庚申石像牛馬守護〇/宝暦七丁丑年七月七日 板野郡東中留邑講中」と刻まれます。
 交通量の多い県道1号線(ここは徳島自動車道、藍住ICの入り口でもあるのです)の傍で、そのひっきりない車の波に地蔵も庚申塔もとまどっているようでした。

 東中富東の地蔵
(突然、獲物を捕らえた烏が頭上を過ぎます・・)

 東中富東の地蔵


東中富東の地蔵

 台座の道しるべ

(以下 次回)

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