四国遍路の旅記録  平成25年秋  その1

1年ぶりの四国へ

ここに私ごとを書くのは気が進まないのですが、お赦しください。2月から半年の母の看取り、そして別れ。今年の春は遍路に行く時間もありませんでした。
ホスピス病棟のベッドの上で、母は昔行った四国遍路を想うこともあったのでしょう。私の撮ったあの足摺の大岐の浜に波が寄せる写真を見て、「ここにもう一度行きたい・・」と呟いていました。
それが「その浜の上に飛んでいってください。そこでお会いしましょう。供養させてもらいますよ・・」の何となくの約束ごととなりました。

加齢による体力の衰えは、この半年で拍車がかかったような気がします。歩けるうちに歩いておこう・・というのが、1年ぶりの四国歩きの動機でした。もちろん、母の供養ということも一つの口実です。
苦しい歩きでした。そのあまり、ほんの短い区間ですが電車やバスにも乗りました。それでも予定通りには進めませんでした。
足摺の前後の二つの浜、大岐の浜と益野の浜で、自分なりの方法で供養もすることができたことが、せめてもの自らへの慰めと思っています。

私が四国遍路の旅を始めて、もう8年になります。初めの頃は、遍路道の所々で地の人、お年寄りから話かけられることが多く、その話のなかに、その地に息づく生活の知恵のようなものを感じて、感動もしてきたのですが、最近はそういうことも随分少なくなったような気がします。そのことに対応するように、(いや、反動かな・・)昔より多くの遍路が、旅人が、その地の人が、周囲の自然や風物に多くの心を残してきた、そんな道を確かめて、歩きたいという希望は強くなったような気がします。そして、歩いた人達が、後に歩く人の心を思い、また自らの証しのように道に残してきた石の仏や標石や丁石や・・そんなものを見て、手を触れて確かめていきたいとも。
実際の遍路旅では、遍路仲間や宿の人との熱中した話、偶にはその地の人との短い会話など、そんな出会いから、思わぬ遍路(遍路道以外の場所を含めて)になったりするものです。それが旅の楽しみの一つに違いないのですが、この度の日記の上では、そういうことを極力排して、上記の趣旨に沿いたいと思っています。
退屈な面白味のない日記となります・・えー いつものことだって・・おっしゃる通り、こらえてつかーさい。
これもいつものことですが、私の遍路は、巡礼の掟を少々違えるところがあるのかもしれません。我儘、勝手をお赦しください。

これまでの日記にも度々登場していますが、今回も江戸期の遍路記を参考として、日記の随所にその一部を引用させてもらっています。それらのうち主なもの、改めてここに示しておきます。
  ・澄禅 「四国遍路日記」 (承応2年(1653)の記録)
  ・真念 「四国遍路道指南」 (貞享4年(1687)の出版)
  ・「四国遍礼名所図会」 (著者、出版年ともに不明ですが、寛政12年(1800)の写本)
文はいずれも伊予史談会版によっています。

では、行ってきます。
(この度、同伴したコンデジカメラの御機嫌がすこぶる悪く、写真が撮れなかった所もあります。所によっては、前回までの写真で補ってズルしています。)







池ノ浦の漁港の民宿で

昼、宇佐大橋の袂から歩き始めます。
去年の秋、もう36番青龍寺まで行っています。ですから杓子定規には、ここはもう歩かなくてもよいのですが、実は今日の宿は、横浪黒潮ライン(通称「スカイライン」)の途中の漁港、池ノ浦にあるのです。
青龍寺に向けて歩きます。その途中で出会った可哀そうな茂兵衛標石のことなど、書いておきましょう。
宇佐大橋から海岸に沿う新道を通れば出会うことはありませんが、橋を渡り終わってすぐ右折、丹生神社の鳥居前の石垣にもたれかかるように放置され、それはありました。
一見、苔生した石塊のようにしか見えないため、これまで見逃していました。よく見ると、「・・廻目供養 ・・島郡椋の村 ・・司茂兵衛」の字が辛うじて読み取れます。上部は破損して無くなっているようですが、確かに茂兵衛標石です。
何とも哀れな姿です。どうにかならないでしょうか・・
(冒頭で言い訳したようにカメラのご機嫌が悪く、こういうものはちゃんと写してくれません。よって写真はありません。)

ここまで来たら、青龍寺へはやはり旧道「龍の道」を通ります。
井尻の大師堂のまわりは、まだ百日紅が紅さを保っていました。お堂の前には文化二年銘の灯籠、台座に明治8年の日付けで由来が刻まれた地蔵など、昔からの遍路道沿い故の歴史の重なりが見てとれます。
龍坂の樹木の成長は早く、3年前の春には上り道から見えていた宇佐大橋は、もうすっかり樹木に隠されていましたが、「九丁目」丁石や日向国小内海邑の代右衛門さんの墓(天明4年)など、お約束の心安らぐ出会いでした。

龍の道、九丁目丁石 

 

龍の道から萩岬を見る

 青龍寺の遍路

青龍寺にお詣りして、大師堂の横から奥の院不動堂に行きます。
不動堂には、以前「靴を脱いでおまいりください・・」の立札と靴箱まで置いてあったように思いますが、この度は何もなし。お不動さんのお赦しが出たのでしょうか・・ 
奥の院の南は断崖絶壁、驚くほどの青さの海が見渡せます。前回もここに立ちました。崖の下には青龍窟という岩屋があるそうです。そこに籠って修行をする行者もいるとか・・
ここは青龍寺の発祥の地、古くからの霊場です。
鳥居が並ぶ不動堂の参道の途中から南へ30mほど、大きな巌の上に置かれた虚空蔵菩薩におまいりしました。私は初めてです。
幽玄な雰囲気の立派な霊場ですが、江戸時代の遍路記には記載されていないようです。あるいは明治以降の比較的新しいものかもしれません。

ここで「虚空蔵求聞持法」についてオーバーラン気味の追記をしておきます。
(追記)「虚空蔵求聞持法」について
わが国には、古来より山岳信仰という素朴な宗教形態が存在し、それが奈良時代に入り半ば伝説化した役の行者の修験道などへの動きとして進んでいったと考えられていますが、そういった動きの中で養老二年(718)、「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼」(略して「虚空蔵求聞持法」)の請来は大きな影響を与える事柄であったと言われます。
「虚空蔵求聞持法」は山林修行の中で「自然智」を得るための知的能力、記憶力の増進に功徳があるとして流行します。
青年時代の空海もまたこういった動きの延長線上にあった時代。「三教指帰」の中で「・・阿国大滝嶽に躋り攀じ、土州室戸崎に勤念す。谷響を惜しまず、明星、来影す。」と記されています。(求聞持法が成功したというしるしに虚空蔵菩薩の使いである明星天子が流星あるいは明けの明星となって現れるといわれています。(五來重))
空海の山林修行の足跡は焼山寺(奥の院)、大龍寺(舎心)、最御崎寺(一夜建立窟)と辿れます。これらの寺は現在も本尊は虚空蔵菩薩です。空海の生地に近い出釈迦寺(捨身ケ嶽禅定)は求聞持院の院号を持ちます。(真念「道指南」には「虚空蔵尊います」の記述) また、空海の伝えはないものの禅師峰寺や竹林寺でも辺路修行の求聞持法が行われた所との伝えがあります。(禅師峰寺も求聞持院の院号を持つ) 番外霊場では多度津町奥白方の八王山虚空蔵寺、西白方の虚空蔵堂も気になる所。さらに坂出市高屋町の松浦寺(遍照院)の(求)聞持石、砥部町の総津権現山付近(五十一番石手寺奥の院石鉄山とも)(ここには赤の水岳(閼伽水)、コクゾ峰(虚空蔵窟)の地名も残る)など。
当時の求聞持法は虚空蔵菩薩の真言を唱えるだけでなく、行道と火を焚く(海の神に火を捧げる)ことを伴う厳しい修行であったと言われ、この条件に合致する場所(海岸の近くの岩場、高地)で多く行われたと考えられています。(最御崎寺の「最」は「火(ほ)つ」であると。)
この青龍寺の奥の院の場所もこの条件に合致する所であり、空海との係わりはともかく、虚空蔵求聞持法が行われた場所として考えてもよいのかもしれません。
平安中・後期になると、後に「雑密」と呼ばれる要素の強い求聞持法は(空海の請来した)体系的な「純密」あるいは阿弥陀信仰、観音信仰などの流れのなかに埋没して行ったと見られています。

 奥の院不動堂


 巖上の虚空蔵菩薩


スカイラインの道から(外海)


スカイラインの道から(外海)


スカイラインの道から(外海)

スカイラインの道から(外海)

スカイラインの道から(外海)

スカイラインの道から(内海)

 白い彼岸花

スカイラインから眺める海の様はやはり素晴らしい。
今日は快晴。濃淡二色の青に塗り分けられた海、岬の緑と黒い岩の影、岩の周りの白い波、隠されたような小さな浜の渚・・ 
舗装道であり、けっこうな上り下りがあるので、歩くのを嫌う人が多いようですが、私はこの風景の見事さに免じて、好きな方の道です。
池ノ浦の漁港まで4、5kばかりの所でしょうか、道がカーブする先の広場にスカイライン唯一の出店。出店のおばちゃんも池ノ浦から。
「みっちゃん、お元気ですか・・」 「ああ・・元気よ・・」 
そう、今日の宿はみっちゃん民宿。辰濃和男さんの「四国遍路」(岩波新書)で紹介され有名になったみっちゃんはそこの女将です。
私にとっては、最初の遍路で泊ってから8年目の再訪になります。

スカイラインから池ノ浦まで、高低差150mの長い坂を曲がり曲がって下ります。
宿の前の道は井戸端会議風、おばちゃんたち数人の話声。その中から「○○さん・・」 声を掛けられました。
みっちゃんは元気そうでしたが、8年間の間にいろんな病気もしたようです。足も人工関節、手も骨折・・ 「津波が来てももう逃げないよう・・」と気の弱いことを。
辰濃さんからは今も励ましの便りが届くとか。
                                                     (9月27日)
南海トラフ地震の話も自然に出てくる。この池ノ浦地区には48戸の人が住むという。直接太平洋に面するこの浜に寄せる津波は20mという。到達時間は10から20分、スカイラインに向った高台への避難は悲劇的な結果を多く孕んでいるいるように思えます。「津波が来てももう逃げないよ・・」と言って眼前に迫る海に目を伏せたみっちゃんの顔を私は直視することができませんでした。(令和5年3月、思い出して・・)




須崎から焼坂を越えて久礼まで


スカイラインの道から(曇天の海)


甲崎の先端

朝、スカイラインの途中まで送ってくれたみっちゃんの軽自動車は、マニュアルシフト。エンジン音も元気です。ヘッドレストのカバーには、私が8年前に差し上げた浅草の半纏屋の手ぬぐいがありました。
うれしかったですよ。いま、私も同じ花柄の手ぬぐいを頭に被っています。

国土地理院25000地形図を見ると、池ノ浦から4kほど行ったところ、海に向って1.5kほども半島状に出た甲崎という岬があります。その狭い脊梁の上には山道が。
もし、両側に展望が開ける場所があれば、まるで「天空の道」。そそられますね・・
昨晩、みっちゃんに問うと、「あー、偶に釣り人が行く道かもねー・・、でも入口はわかんねー」 
その辺り見当を付けて、行きつ戻りつ探しました。やっと見付けた入口はガードレールが切れたところの小さな樹木のトンネル。
曇り日の薄暗い山道を蜘蛛の巣を払い払い進みます。道の下からはごうごうと波の騒ぐ音、樹の間から時折白い波が垣間見えますが、両側はづっと樹木に覆われています。
一つ目、二つ目のピークを過ぎて三つ目のピークへ。もう半ばです。でも、ここまでで諦めました。戻ります。
浦ノ内東分からは、内海を隔てて鳴無神社の赤い鳥居が見えます。いい神社でした。そこも懐かしい想い出の場所です。

 鳴無神社の鳥居

浦ノ内の舟


彼岸花の咲く道(浦ノ内西分)

鳥坂トンネルを抜けて須崎の市街へ。
この辺り、新しい道が縦横に出来ていて進む道筋は大層分かり難い。今回は観音寺にも大善寺にも寄りません。
新荘の道の駅に寄って、角谷(かどや)峠へ。
現在の遍路道は、峠の下を迂回する旧国道が充てられていますが、昔は、澄禅も「・・カトヤ坂ト云大坂ヲ越行。・・」と書いているように直登の道でした。
ちょっと探ってみます。旧国道が新国道のトンネル入口の上を越える少し手前、右手に上る山道。これは四国電力の保守用道路にもなっているようですが、途中までは保守用としてはかなり広い道。この道で尾根の送電鉄塔まで行けますが、旧角谷峠はこの道の途中から左に入る道。おそらく石積みが残っている辺りと思われます。残念ながら樹木繁茂です。
折角ですから、尾根まであがって、そこから須崎の街を眺めてから戻ります。

 角谷峠の入口(?)


角谷尾根から見た須崎の街

尾根から南側への下りは北側よりさらに急坂を思わせる地形。昔の道は残っていないでしょう。
この辺りの南斜面はみかん畑。急坂に設置された搬出用モノレールを見上げていると、地元の人に話掛けられます。
「昔の人はここを歩いたって・・ワシらー毎日命掛けだよ・・」

安和の海は今日も静かでした。
焼坂峠に向かう道の途中、消防屯所の横に一際大きな標石を見ます。徳右衛門の標石です。
梵字「ア」(大師像) 「是より五社迄六里」

安和の海

徳右衛門標石が出たところで、標石の御託を書いておきましょうか。(以前の日記にも書いたかな・・、私のメモとして書いている
ので、ここも読み飛ばしを)
今回の区切り(10月4日まで)では、今までよく登場してきた茂兵衛標石や真念石は、この日の冒頭の1基を除き、見られず、(実は、通った道筋に夫々1基づつあったのですが、熱中症気味とかと称して見逃したのです。)徳右衛門標石を4基見ることになります
武田徳右衛門は伊予国越智郡朝倉上之村の人。
徳右衛門の標石は、寛政6年(1794)から文化11年(1814)にかけて設置されたもので、多くは石の上部に梵字(「ア」:胎蔵界大日如来他諸仏、または「ユ」:弥勒菩薩)と大師像を彫り、その下に、最大の特徴である「是より○○迄 ○里」と札所までの里程が刻されています。
正確な地図のない当時としては、遍路にとって随分頼りになる道標であったことでしょう。
ただ、200年の年月は多くの石を劣化させており、破損し失われた石も多くあります。寂しい限りです。


 安和の徳右衛門標石

 焼坂峠の道

焼坂峠の道。他の道の選択枝はありませんから、私にとっては4度目の通行となります。
3年前に通ったときは、峠道の入口の砂防ダムが工事中で、2k以上もある迂回路(明治時代の県道らしい)を通り、距離は長いが楽ではありました。
砂防ダム工事の完了により、以前の遍路道が復活しました。
標高差200mを0.5kほどで登る急坂です。年齢を経るごとにこの道の厳しさが見に沁みる気がします。いえ、いえ、これは単に私の所為。
健脚であった昔の人も、この峠はきつかったと見え、澄禅は「・・焼坂トテ 跡ノ坂ニ 十倍シタル大坂在り・・焼坂ヲ上ル、土佐無双ノ大坂也。」と表現しています。
峠を越え、四国横断自動車道がトンネルを出て入る間300mほど、遍路道と併行する不思議な風景を味あうことになります。
久礼の街まで行きましたが、久礼の宿はどこも満員。安和に宿をとりました。一駅電車で戻ります。

須崎、安和付近の地図を追加しておきます。
                                                     (9月28日)


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コメント
 
 
 
お疲れ様でした。 (嵐丸)
2013-10-24 23:24:59
先日おっしゃっておられた、足摺での御自分なりのお母様の供養が出来たのですね。良かったです。
お母様と触れ合える瞬間はあったのでしょうか?
枯雑草さんが選ばれた「自分なりの供養の方法」はどんな形であったのか…。

今回に限らずですが、「退屈な面白味のない日記」なんかじゃありません。
枯雑草さんの、四国遍路やそれを取り巻く環境に対する姿勢や考え方には共感出来る部分がたくさんあり、私自身とても勉強させていただいております。

この後の巡礼日記もしっかりと拝見させていただきますね。
 
 
 
嵐丸さん。 (枯雑草)
2013-10-25 09:07:40
こんにちは。コメントありがとうございます。
いろいろなアドバイスありがとうございました。
最初の写真にあるように、浜に金剛杖を立て、名前を書き、語りかけと心経読経をしました。
波頭の上を飛んで多くの命が渡ってくるのを実感しました。一瞬、声を聞いたように思ったのですが、確信はありません。
異時空との交信は難しい。やはり自分の心の中だkrかと。
私のブログはウソが多く、勉強ブログではありません。でも、読んでいただければ、うれしく思います。
よろしく。
 
 
 
写真 (通りすがり)
2013-10-25 17:41:03
綺麗ですね
 
 
 
通りすがりさん (枯雑草)
2013-10-28 18:49:55
こんにちは。
今回はカメラの調子が悪く、苦労しました。
ソフトで大分ごまかしています・・
 
 
 
Unknown (やすし)
2013-10-29 10:46:51
iMacを最新のOSにアップデート中にトラブルになり、裏に入れていたWindowsも一緒に逝ってしまい復旧に一週間ほど掛かってしまいました。そのためコメントが遅れました。
お母様の介護お疲れ様でした。そしてお遍路に戻られてよかったです。少し比が違いますが同じ四国の地を歩いていたようですね。
老いは私も感じています。下り坂では特に注意を払うせいか登りと同じくらい時間が掛かってしまいます。身体が許す限り歩きたいと思っています。これからも情報の発信をお願いします。

 
 
 
やすしさん (枯雑草)
2013-10-29 18:48:07
こんにちは。
コメントありがとうございます。
私は目も悪いこともあって、下り坂は自家製の
長い杖で探りながら下りています。時間がかかること・・
でも、歩けるだけは歩こうと思っています。
どうぞ、よろしくお願いします。
 
 
 
枯雑草さん (湖山です)
2013-10-30 14:18:37
お疲れ様でした。

とてもいい供養ができたようですね。

今度89番でお会いできますか?
お会いしたいですね。

 
 
 
湖山さん (枯雑草)
2013-10-30 16:56:12
こんにちは。
そう、89番ですね・・
年寄りはそろそろという気もする
のですが、寂しいから多分おまいりさせて
いただくことになるかなー
その折はどうぞ、よろしく。
 
 
 
Unknown (まーきみ。)
2014-05-07 18:01:24
先日、窪川で政吉の道しるべを偶然見つけて色々調べててこのブログを見つけました。高岡神社にも参拝したらよかったと思いました。
また今度行く機会がありますのでその節はぜひ行ってみたいと思います。
色々勉強になりましたありがとうございました。
 
 
 
まーきみさん。 (枯雑草)
2014-05-07 19:26:45
こんにちは。
始めまして・・でもないか。実は以前、愛南町の真念石を調査された記事にコメント入れさせていただきました。
私は半年に一度、四国を歩かせていただいています。
まーきみさんの綿密な調査、大いに参考にさせていただいています。平成26年春その1の記事に、その旨書かせていただきました。
今後ともよろしくお願いします。
 
 
 
Unknown (まーきみ。)
2014-05-08 23:47:24
拝復
そのコメントいただいた事、よく憶えておりますありがとうございました。

政吉の道しるべ、貴を引用させて頂きました事後報告ですがお許しいただければ幸いです。

 
 
 
まーきみさん。 (枯雑草)
2014-05-09 11:08:34
どうぞどうぞ・・こちらこそ、いろいろと参考にさせていただき、感謝しています。
政吉の道標が好きなことの一つは、彫られた手の表情の素晴らしさです。
私が見たものの中で、最もすばらしいと思ったのは、高知県の三原村成山峠出口にある道標です。
 
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