四国遍路の旅記録 二巡目 第4回 その7

平成20年4月5日     黄色い遍路道札に導かれて


久万高原町の宿は市街地の北側に集中しています。今日は、その一番北側の宿から市街地を縦断、南端の消防署の前で県道153号に左折、そのまま槙の谷から770mの尾根に上る予定。
尾根道を辿り45番札所岩屋寺を打った後、寺北側の地道の遍路道を通って西行、高野の千本峠を越えてほぼ出発点付近まで戻る。そして三坂峠付近の宿まで。
地図上の距離は27k程度ですが、大半が山道であり、歩行距離は相当上乗せとなるでしょう。

藁ぼっち

槙谷の道標

県道から離れて、槙の谷への道に入ると、田園の趣は急変します。
この地方では、どう呼ばれるのか知らないが、藁ボッチが多く見られます。
道傍におもしろい道標があります。
大宝寺と岩屋寺を結ぶ道の一部としての槙谷林道改築記念の道標。昭和18年竣工。工事費3万1千円。等々、見飽きません。
人の生活と道とそして神仏がもっともっと密接であった時代を想わせます。

十数軒の民家の向こう、素鵞神社が見えてくると、道はいよいよ山道となります。道しるべに欄を譲りましょう。

「道しるべ」   槙谷、素鵞神社から岩屋寺へ

素鵞神社

急坂の遍路道

突如のブルドーザ道

45番岩屋寺への山道。
八丁坂を通る道が一般的と思われますが、もう一つ槙谷の素鵞神社から上る道があります。この道、最後の民家から標高770mの尾根に至る標高差130mが特に急坂で、1巡目に通った八丁坂より厳しいと感じます。
私は、この先で遭難のニアミスに遭遇。
実は、急坂の終り近く、突如道はブルドーザ道で分断されていたのです。
杉の伐採作業中で遠く電ノコの音も聞こえる。仕方なく暫くブルドーザ道を進みますが、その先の道はどこにも見付からない・・。

お大師さまに導かれたという話、先達さんのお話などでよく聞きますが、私は精進が足りない所為かそんな幸運にあったことがありません。
でもこの時は、鯖大師、明善さんの遍路道札に助けられたのです。
遠くの斜面、枯れた低木の枝に黄色いものが輝いていたのです。
それは、感動するほどの光景でありました。

遥かな黄色い札

一面のミツマタの花

八丁坂との合流点

770mの尾根に辿りつきます。ここより八丁坂が上がってくる峠へ、若干の下りです。一面にミツマタの白い花が咲いています。
そういえば、久万はミツマタの皮を原料とした和紙の産地であったことを思い出す。
ここより岩屋寺の本堂まで2k、アップダウン、ダウンの道です。

納経所で、槙谷道の状況報告とお願いをしておく。特に下りの場合、道の発見は更に困難であろうと思われます。何らかの対策が行われない限り、通行は控えるべきでしょう。

一言、加えさせていただきます 。私が助けられた鯖大師明善住職の遍路道札明善さんは、幾度となく遍路道を歩かれています。
今回の区切り打ちでも、「こんな所にまで・・」と思うような遍路道で札を見かけました。
この黄色の札には、例えば次のように書かれているのです。
「心をあらい 心をみがく へんろ道  鯖大師沙門明善」
一人歩む遍路道。時にポンと肩をたたかれ、語りかけられたような気分になったものです。


岩の中の岩屋寺。お参りの人で大変な賑わい。
千体地蔵には、この度もまた心動かされます。
人気のセリ割り禅定、今しがた出てきた5、6人の団体がいます。
聞いてみます。鎖2条、梯子10mで岩の上の仏を拝むという。
「こわーい?」「それほどでも・・」
「すげー景色?」「それほどでも・・」
いやー、こういうの主観によるからなー。
わたしは、ひょっとして梯子の途中でめまいなどに襲われたりしたら、コトだから止めとく。

岩屋寺の帰り道は、県道を通る人がけっこう多いようですが、直瀬川に沿ってトンネルの上を越えたり、楽しい地道があります。
古岩屋荘を挟んで、また緩やかなアップダウンの地道で、結局岩屋寺から5.5kの殆ど土の上を歩くことができます。

岩屋寺への尾根道

 岩屋寺への尾根道
岩屋寺

岩屋寺


 岩屋寺千体地蔵

 岩屋寺山門

県道153号の住吉神社の先、河合から高野を経て、国道33号の仰西バス停までの千本峠越え遍路道4k、けっこう荒れた道です。

「道しるべ」      千本峠遍路道

千本峠付近の遍路石

峠付近の道

下ってまた登る

山道から里の道へ

最初は林道を行きますが、間もなくこの道を左に分けて、山道となります。沢を左に見ます。1k地点、右に千本キャンプ場への道を分けて、まもなく千本峠。
峠のやや手前に旧い遍路道道標があります。
峠より2、300mを下り、再び上る。ここが唯一迷い易いところでしょう。
協力会の道しるべはありますが、やや分り難い。(実はこの箇所の道しるべ、、抜けて転がっていました。道を確認した後、石で打って固定しておいたのですが・・)
そのまま下れば、おそらく峠御堂トンネルの西の県道12号に出るのではないでしょうか。へんろ地図の下り、上りは実際より極端。実際の遍路道はこの地図より北側の道と思われます。
上ると民家があり、高野の広い道に出ます。
ここより仰西バス停まで1.7k、菅生、欅之沢の田園の中の道をひたすら下ります。
最後、砕石工場の音が喧しい。


千本峠を抜け、国道33号の緩やかな登りを今夜の宿、桃李庵に向けて行きます。足はやたらと重い。

     本日の歩行: 50236歩   地図上の距離: 26.9k


平成20年4月6日      桜満開の松山へ

三坂峠より松山方面を望む

段々畑 


 村の桜

心配した雨は、遅れそう。今日中は降りそうにありません。松山までカッパなしで行けそうです。
1巡目では、大雨で三坂峠をパスして国道33号を行きました。だから、初めての三坂峠下りです。
高低差500m近い急坂を一挙に下ります。
道はよく整備され、思ったよりは楽。岩陰の雪割一華の白い花に慰められます。

平地になってから、第46番札所浄瑠璃寺までが、遠いこと。
その後は、第47番札所八坂寺、別格9番札所文殊院と1kごとのお参り。
文殊院では、堂内の掃除をしている男性からお茶と軍手のお接待。
修験道の家に生まれ、4歳から霊場の山を歩いているという。
「車を含めりゃ、札所まわりも100回以上だ・・」 
四国88札所は江戸時代の前頃より、次第に形造られてきたと言われますが、それ以前、空海の修行の場と伝えるところは、山岳信仰、修験道との係りが極めて深い。この人の話から、四国の人々により身近な霊場の姿をかいま見た思いがしました。因みに、今回の区切り打ちで参った伊予の札所では、修験道との係りが深いとされる寺が多い。佛木寺、明石寺、大宝寺、岩屋寺、八坂寺、西林寺、繁多寺の7箇寺を数えます。また、この文殊院は、遍路の元祖と伝説される衛門三郎の菩提所とされます。衛門三郎と熊野信仰との繋がりは研究者の指摘するところ。熊野山の山号を有する寺、石手寺、八坂寺を数えます。

(追記)
江戸時代初期、洛東智積院の学匠、澄禅の「四国遍路日記」に、衛門三郎が伊予の熊野信仰の拠点の一つである八坂寺の熊野権現社の掃除をしていた・・という言い伝えが記されています。

この日、文殊院で会った男性との類似、因縁。何百年もの間受け継がれてきたものの重みを感ぜずにはおられません。不思議な出会いでした。


第48番札所西林寺、本堂の美しい第49番札所浄土寺、桜満開の第50番札所繁多寺。そして、観光客も混じって賑わう第51番札所石手寺で今日の歩き納め。
門前で可愛い少女から果物のお接待。

この後、久しぶりの松山の知人と、満開の桜を横目に道後温泉の前で、地ビールを飲む。その後何が?遍路日記とは関係ないこと、省略、省略。

浄瑠璃寺

八坂寺

文殊院

西林寺 

浄土寺  

繁多寺

石手寺

     本日の歩行: 43214歩   地図上の距離: 27.8k


平成20年4月7日       山頭火の句

満開の桜花

山頭火一草庵

雨が降り出す中、松山市内遍路道傍にある、俳人種田山頭火終焉の地、一草庵に寄ります。
山頭火が広島からここ松山に移り住んだのは昭和14年のこと。
「今までに日本中を歩いたが、この松山が一番よいように思う。酒がうまいし、それに温泉もある。どうせ死ぬなら、ここにしよう」
と言ったという。


ここにある句碑
        鉄鉢の中へも霰
        春風の鉢の子一つ
        濁れる水のながれつつ澄む

 そして辞世の句
        おちついて死ねそうな草枯るる


ついでに松山市内にある句碑の中からいくつか。
        ずんぶり湯の中の顔と顔笑う
        まったく雲がない笠をぬぎ
        もりもりもりあがる雲へあゆむ
        分け入っても分け入っても青い山

さらについでに、私の名前(H.N)に勝手にいただいた句
        やっぱり一人はさみしい枯草
        やっぱり一人がよろしい雑草

今回の打ち止めの寺第52番札所太山寺。
雨の中でもこの何物にも代え難い堂々とした本堂が、迎えていただきました。
納経所で、何と2日目(3月24日)あの入野の先の遍路道でお目にかかった、東京の夫婦にお会いします。
これからまだ結願を目指して歩くという。
私は、ちょっと無理が祟って殆ど声がでない。
「私はここで区切らせていただきます。どうぞ、ご無事で・・」
聞き取っていただいたかどうか。
奥様の爽やかな笑顔が頼もしい。合掌してお別れしました。

この度の遍路の旅の終わりでした。 

太山寺山門の桜

太山寺 本堂(国宝) 

    本日の歩行: 17777歩   地図上の距離: 11k

                      (2巡目、第4回遍路の旅記録 おわり)

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四国遍路の旅記録 二巡目 第4回 その6

平成20年4月3日     水戸森峠を越えて出会えた大師堂


朝の道

永徳寺(十夜ケ橋)

少し肌寒いくらいの朝の空気、十夜ケ橋に向います。
別格第八番札所 十夜ケ橋 永徳寺。
「大同2年(807)、弘法大師がこの地方を通られた際に、一夜の宿を求めてまわった。宿をかしてくれるところなく、寒き中、橋の下で野宿したが、あまりの寒さに一夜が十夜にもまさる思いであったという。いつからか、杖の音で、橋の下に休まれる大師の睡眠を妨げてはならないという心遣いを、遍路の戒めとして「橋の上では金剛杖をつかない」ならわしとするようになった。」(以上、四国遍路ひとり歩き同行二人(解説編)より引用) 十夜ケ橋の下、お大師さまは今も休んでおられます。

(追記)「十夜橋」の由来について
上記、日記本文に引いたことは、まさに十夜橋の名の由来であり、江戸期に至るまで伝えられてきたものと思われます。(澄禅、真念、寂本は記録せず、少し後の「四国遍礼名所圖会」に採録される。)
また、橋の上では杖を突かぬことは、その後の弘法大師への尊敬の深まりにつれて生まれた遍路の風習と思われます。
十夜ケ橋(永徳寺)の縁起には、この橋の名の由来に続いて「このような艱難をうけられるについても、大師は六道輪廻の世界を行き悩む衆生を常楽の彼岸へ渡そうという衆生済度の思いを強くし「ゆきなやむ 浮き世の人を渡さずば 一夜も十夜の橋と思ほゆ」との歌を詠まれた・・」といった宗教的意味付けがなされていると言われます。

旧い新谷の街を抜け、休憩所、神南堂で休憩すると、お接待の伊予柑が置かれていました。
五十崎(いかざき)の駅を過ぎると、道は国道を離れ、内子に入るまで地道となります。
1巡目の時より忘れはしない、私の殊の他お気に入りの道なのです。
昔の農村の道を思わせる、それは懐かしい風景が広がります。
田圃もまだ空で、緑の展開も遅れてはいましたが、しっとり湿った草の道を踏み、清々しい気持ちに浸ることができました。

内子の旧い街並みは、けっこうな観光客で賑わっていました。欧米系の外国人の家族連れの姿も。
そんな場所で、現れる遍路姿は、旧い家並みと同様に観光客の興味の対象と化すのです。

五十崎の桜

内子への道

内子の街で

この先、私は通常の遍路ルートを通らず、インターネットの遍路サイトで紹介されていた、昔の遍路道「水戸森峠越え」に向います。
ここより恒例により「道しるべ」に欄を譲ります。

「道しるべ」    水戸森峠越え遍路道

内子の旧い街筋をそのまま進んでいると、いろんな人が声を掛けてきます。
「おへんろさん、道ちがう・・、づっと手前を右に曲がらないと・・」
「ありがとうごぜーます。ミトモリ峠に行くもんで・・」
でっぷりしたおっさんの登場。
「うん、ありゃ昔の遍路道だ・・、だけど行かんほうがええ・・」。
どうして・・と聞き返さないのが礼儀、とにかく道順を教えていただき、お礼を言って発つ。

水戸森峠への道

峠の桜

へんろ道標石

岡町を過ぎ、国道56号と交差します。そのまま進み橋を渡ると、「水戸森峠1.4k」四国の道の標示。
標示に従い、急坂のコンクリート道を上ると、松山自動車道が見え、その側道と思われる道に出ます。
それを左折、自動車道の下を潜ると、前方に自動車道のパーキングエリアが見えます。ここまで来ると、峠の所在が想像できます。

道傍に住宅がある所、折れて上る地道の坂が見える。登り切ったところが水戸森峠、休憩所があります。
(この峠直前の道、後に、ある方から指摘を受けたので、付記しておきます。
住宅に至る前に、右に上る擬木欄干の道があり、少し迂回して峠に通ずる。私の通った道は、いかにも私道風な畑中の道であり、ご指摘の道の方がよいと思う。)

峠は桜も満開。うーん、よきかな・・ のどかな春の気配。

休憩所の手前に、へんろ道標石があります。
あとは下り、標石から左に新しそうな林道が拓かれていますが、そちらに行かず、真っ直ぐ下に向う感じ。やがて舗装道に交差、ここにも標石があります。
これまた直進、(何方か、竹に「下に→」の書き込み)
しばらく行くと、私にとっては感動の瞬間、西光寺大師堂に出会えることになったのです。

この先はもうへんろ地図にある国道379号沿いの福岡商店が目の前です。

要は、水戸森峠から、東へ真っ直ぐ国道379号まで下るのが、ルートイメージです。
入口から福岡商店まで、私の足で45分、2k強です。



私は、東国の農村に今も残されている素朴で美しい観音堂や阿弥陀堂、こういったお堂が何故この四国には残されていないのか、かねがね残念に思ってきたものですが、このお堂には「やっと、出会えた」という感動を覚えました。
屋根下の桁が太い独特な造りで、そう旧いものではなさそうですが、木組み、彫刻のすばらしさ、何といっても空に向って羽ばたかんとするような雄大な屋根の形。
唯一の不調和は後に掲げられたと思われる寺名額と私には思えましたが・・。
お堂に向って、暫しの至福の時間を過ごすことができました。感謝、合掌。

西光寺大師堂

西光寺大師堂

ここより、国道379号、380号を辿り約17k、今日の宿小田のふじや旅館に向います。
1巡目は足を怪我し、引きずって歩いた所。
桜満開の大瀬小学校、以前に泊まった民宿来楽苦、遍路の間ではどういう訳か話題欠くことない徳岡旅館、・・・順調に過ぎ、15時15分宿に入りました。

     本日の歩行: 49885歩   地図上の距離: 31.5k


平成20年4月4日        へんろ道の変遷を想う


大瀬付近

 生活の橋

バス待合所


 菜の花に囲まれて

三島神社(大平)

この深い山に囲まれた小田では、街では見られない独特の生活を感じさせてくれる様々なものに出会うことができます。
川を渡る怖い橋、立派なバス待合所、ああ、これほどまでに菜の花いっぱいの畑。

国道380号の大平の三島神社から、県道42号の本成の三嶋神社を繋ぐ、畑峠遍路道。
国道380号は農祖峠に、県道42号は鴇田峠に繋がっている現在では、殆ど意味の無い道とも思えるのですが、真弓峠は壁のよう。
もしここにトンネルがなかったら・・と考えると、畑峠越えの道があった意味が分るような気がします。

「道しるべ」     畑峠遍路道

畑峠遍路道の始まり

崩落箇所

畑峠付近

大平の三島神社の脇から、所々コンクリートを流した狭い急坂が始まります。
国道を越え、急坂は続き、三度国道に至る。
おそらく、この部分がこの遍路道で一番急な部分。
国道に面した納屋の後ろを上る。この先、路肩が崩壊しています。注意して渡る箇所。旧国道(といっても、通行の跡はない、自然に還りつつあるような道・・)に出ます。ここを左方へ2、300m行ったところから始まるのが、平成18年10月復元されたという道。
5、600mで、いつの間にか緩やかな峠(標高640m)を越えています。
峠道から林道(畑谷高山線)に下りるところが、崩壊危険箇所、協力会の手でロープが張られています。
ここまで入り口から1.5k。
本成の三嶋神社まで、あとの2.6kは林道を歩く。木材の伐採、搬出が行われている。後半は舗装道。
私の足で、全行程、1時間30分でした。


三嶋神社(本成) 

菜の花の道を行く

下坂場峠の入口

ここより下坂場峠を越えて宮成に出ます。
通常、遍路は、ここから鴇田峠に向うのですが、私はこの度は農祖峠を越えてみたいのです。

宮成の電話交換局の前で、宿で作ってもらったおにぎりを戴いていると、先程通り過ぎた家の縁側にいたおじいさんが、わざわざ、よいしょ、よいしょと杖をついてやってきて、「あっち・・」と鴇田峠の方を指差す。
事情を説明しかけたが、おじいさんはもう、よいしょ、よいしょで引き揚げ開始。人の話は聞く気配もありません。有難くも困った話。

宮成から農祖峠の入口のある二名に向けて行く。
途中、道傍に旧い遍路標石があります。「左へんろ道」とある。どこから来てどこへ行く遍路道であったのでしょうか。現在の道からは想像もつきません。

この旧い遍路標石を見ながら、思いは少し飛びます。
1巡目に通った鴇田峠のお堂の傍に粗末な石碑があり、判読し辛いが次のように刻まれていました。
「ヒフ病ニテ此処ノ大師様ニオタノミシマシタラ オカゲデナオリマシタ オ願ホドキニコレヲタテマス・・」
若干の気味悪さを持って見たことを、今も覚えています。さらに思いは飛びます。
遍路を始めてから、私は自然に、遍路道に関する書物に多く目がとまるようになっています。
その中の一つ(服部英雄「峠の歴史学」)に次のような記述があったこを思い起こします。「昔、悪病を患った遍路を隔離し、宿泊させる施設としての「ヘンドゴヤ」という地名が、この二名に今も残る・・」
「当時にあっては、不治の病とされた結核やハンセン病の患者らが絶望の中に四国遍路の旅を開始したことも多かったでしょう。病気治癒の奇跡は起こらず、故郷に戻ることもなく、異郷の地のヘンド小屋に生涯を終えた人がどれほどいたことか・・」
ヘンド小屋への道は、還ることのない、また通り過ぎることのない遍路道として人里離れた山裾に残されたのでしょう。
この道、この同じ大地の上を現代からは想像もできぬような心が、歩き去ったであろうことを思います。


農祖峠越え。久万の街まで約3kの峠道。傍らにいつも清らかな水の流れがある、緩やかな気持ちのよい道です。
夏の暑い日には、何物にも代え難い慰めとなるであろう渓流。
鴇田峠の方が雰囲気という点では、優る道でしょうが、楽という点ではこちらが明らかに優る。

峠を下りたところで、農作業帰りのおばちゃんの笑顔とばったり鉢合わせ。
手を取らんばかりに「えらいのー、ほんにえらいのー・・」褒められている気分にさせられます。
(いやいや、この言葉、「偉い」ではなく、「疲れたのー」という同情の意であること、私は知っていますが・・。)

宮成と二名の間にあるへんろ石

農祖峠への道


農祖峠付近

久万高原の街を通って、第44番札所大宝寺にお参り。
伊予鉄バスの団体遍路と一緒になります。美人の添乗の女性と話をさせていただく。遍路姿の役得。

今夜は、どうしても1巡目思い出の笛ケ滝に泊まりたかった。でも団体が入っていてだめだという。仕方なく別の宿へ。

大宝寺 

大宝寺  

    本日の歩行: 40997歩   地図上の距離: 23.9k

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四国遍路の旅記録 二巡目 第4回 その5

平成20年3月31日   新しいへんろ小屋には大うなぎがいた


宿を出てまもなく右手に喫茶「磯」があります。ここは、遍路道の維持保全にも尽力されている、てんやわんや王国大統領の居城と聞く。できれば拝謁の栄誉に浴したかったところだが、残念ながらまだ開店前。
平成18年11月に復元された宇和島松尾峠遍路道に入ります。

「道しるべ」  宇和島松尾峠遍路道
遍路道の始まり

道標

へんろ小屋

この道の入口は国道56号のトンネル入口の手前、右側の道から入り、トンネルの上を越える・・と聞いていたし、へんろ地図もそうなっています。
しかし実際は、国道の左側をそのまま上がってこの道に合流する道が出来ていました。歩道が国道の左側にあり、交通量の多い国道を横断しなくても遍路道に入れるよう、きめ細かい配慮であると感じました。

実は、この道独特の遍路道標識が随所にあり、まず迷うことはない道ですが、一応辿っておきます。
トンネル入口の上を越え、この道唯一のやや急な道を上ると舗装林道と交差。ここに旧い遍路標石があります。
標石の記述、「右岩松町一里 四十番八里・・ 左宇和島 四十番奥の院二里・・」とあります。
四十番奥の院とは龍光院のことでしょう。
やがてなだらかな峠の最高点220mに達し、立派な新しい遍路小屋があります。
天井には津島名物大うなぎがデザインされています。
あとは緩い下りで舗装道に出、砕石場があります。
道は山裾の狭い道に寄り道しますが、やがて旧国道の広い道に出ます。
全長3.7k所要時間1時間でした。

馬目木大師

龍光院

龍光寺

龍光寺

仏木寺

国道56号に戻った所で、前日同行した所沢のMさん、それに御荘の宿で同宿だった神奈川のMIさんと一緒になります。
馬目木大師、宇和島城、龍光院(別格6番札所)と同行。
私は龍光院で納経するため、二人には先行してもらう。
二人は歯長峠手前の宿まで、わたしは歯長峠を越えた宿なのです。

宇和島から第41番札所龍光寺までの道は、やたらと長く感じます。
門前のうどん屋の昼食で気を取り直し、龍光寺にお参り。勢いで2.6k先、第42番札所佛木寺にお参り。
突如、風が吹き雨が降る。このすぐ先の宿にすればよかったと悔やみながら、雨の止むのを待つ。

歯長峠の上り道のきついこと。それにも増して下り道の悪いこと。
この下り道、おそらく今回通った遍路道では、最悪の道だと思う。長くはないのでまあ我慢できるということですが。
でも、峠の前で私をパスした若者は、1回の休憩も取らず越えたといいます。同宿の宿で聞きました。

歯長峠遍路道(登る若者)

歯長峠から      

     本日の歩行: 53655歩   地図上の距離: 32.1k


平成20年4月1日     大先達登場・・


明石寺

明石寺

明石寺山門

卯の町、旧い街並み

早朝、第43番札所明石寺にお参りします。
へんろ地図にある寺の裏山を越える遍路道、行きつ戻りつしたがついにその入口は見つかりませんでした。

1巡目の時と同じ、卯之町の旧い街並みを見て通ります。歴史を感じさせる旧い旅館があります。女将さん風の人が奥から声を掛けていただく。
いつか、こういう旅館に泊まってみたいものだと思う。

前回は、お迎えいただいた地元のHさん。腰がお悪いと聞いているので、今回は知らせていません。
「こんどはゆっくり酒でも飲みましょうや・・」という言葉忘れてはいないのですが・・。

国道56号を行き、やがて鳥坂峠。
前回は雨の日でトラックが肩を掠める怖いトンネルを通ったが、今回はしっかり峠道を通ります。
鳥坂峠番所跡の立派な家の前を過ぎると、道は本格的な山道。
気持ちがいい道です。50分程で標高470mの峠に達します。
峠には立派なお顔の地蔵がおられる。その前で昼飯のおにぎりを食う。

鳥坂峠道


鳥坂峠から宇和町方面を眺める

峠からは国道56号を見下ろす道。
旧国道とも林道ともつかぬ不思議な道、人も車も通らない、これがやたらと長いのです。
へんろ道を下ったところが札陀懸寺(札掛大師堂)。
以前はゴミ置き場の様相でしたが、きれいに片付いています。軒は崩れかけているが、ガラス戸が入っています。堂守さんが住みつかれたのかもしれない。

国道56号を横目に

札陀懸寺

大洲の城と肱川

おそろしく立派な教会の建物が見えてくると、大洲の街。
肱川の傍、大洲城が見えます。「おー桜が満開じゃが・・」

JR伊予大洲駅に近いときわ旅館に入ります。
若い夫婦が仕切っている。洗濯もしてくれる。親切で気持ちのよい対応。

夕食には何と、所沢のMさん、神奈川のMIさんが顔を出す。
「何だかそんな気がしたんだ・・」
「大先達、お元気で・・」
3人のMが集まり盛り上がる。(私も本名はM)
お二人は初巡目、私は2巡目、たいして変わりはないのだが、風格から言って?私は冗談半分の大先達ということになっているのです。楽しい夜でした。

     本日の歩行: 44668歩   地図上の距離: 25.6k


平成20年4月2日   「道しるべ」   金山出石寺への道

別格7番札所金山出石寺への道、事前にへんろ地図を見ながら道定め・・。
へんろ地図によると、43番札所明石寺からのルートは、国道56号、鳥坂峠、札掛大師堂、国道197号を経て、JR伊予平野駅の前から上がる道と、寺から高山、阿蔵を経て大洲市街に下る道がはっきり区別されています。
宿は大洲市街にしかありません。大洲市街の宿に連泊して、荷物の大半を置いてお参りできるメリットは大きい。
そこで、省エネ?方法を採用。大洲の宿に連泊、朝、伊予大洲駅から伊予平野駅まで2駅、鉄道利用(7分)。

宿に着くと金山出石寺への歩きルート図が用意されていて、若主人が、高山、阿蔵ルートを「ぜったい、これが楽です・・」と推薦。ただし肱川から阿蔵に上がる山道は、崩壊危険区域なので迂回すべきという。
「ありがとうござんすが、決めたことですけー・・」
と、所期のルートに固執する頑固遍路。

沼田の標示に従う


段々畑の菜の花(沼田地区)

木材の搬出

地蔵道との合流点

丁石

翌朝、無人の伊予平野駅に降りたち、7時10分歩き開始。
沼田川に沿った県道を行きます。
やがて地蔵堂の集落、ここより右に「地蔵道」を分岐。私は「瀬田道」を辿ります。
最初に迷ったのは2.7k地点、舗装道が左に大きくカーブする所、「出石寺 保子野」の道路標示に惑わされて進み引き返す。ここは「沼田」の標示に従うのが正解。

3.4k地点、舗装道を離れ地道に入る。道はやや荒れた感じ、通る人は少ない感じ。舗装道を2度横切り、急坂となります。
やがて、民家の庭先のような場所に出ます。民家数軒、犬の声がけたたましい。左に行っても右に行っても民家の前。声を掛けても皆留守。ここは右に行く。
民家の直前で右に行く遍路道標示、すぐ舗装道に出ます。(へんろ地図、H280、10.1k地点)
ここは沼田の集落。見上げるばかりの段々畑、菜の花が溢れているところ。
14世紀、足利尊氏と戦った九州の菊池氏との親交と業績を称える不思議な碑があります。平成14年建之、歴史は生きている。

5k地点、再び地道となります。おっちゃんとおばちゃんが、伐採材の搬出中。おばちゃんの楫取りの巧まさに、ついつい「うまーい」。おばちゃん振り返りニッコリ。

道は荒れた山道、獣道風の何本もの分岐があります。一度上って、今度は下る。ここは、思い切り下るのが正解なのですが、私は心配となり少し上がる道を辿り民家の縁先に出てしまいました。
おばあさんがひとり、横になっています。挨拶して道を問う。口元は動くが言葉は出てこない、左手で下の方を指す。
「わかりました・・下に降りればいいんですね・・お気をつけて・・」
細い急坂を下って舗装道へ出ます。ここが瀬田の部落。
6.3k地点、再び地道。舗装道を横切った後、蔵のような建物の右横、山道を上る。間もなく6.9k地点、高山方面から上がってくる山道と合流します。
ここより寺まで1.7k迷うことのない一本道です。

この「瀬田道」と呼ばれる遍路道、遍路標識は、各分岐に基本的には設置されています。ただ、その位置が遅かったり、分り難かったりする所があります。少し進んで標識を確認する態度が必要。

沢山の奉納地蔵が見え、巨大な大師像に迎えられ、やがて出石寺山門。
伊予平野駅を出て、8.6k、3時間20分でした。

寺近くの奉納地蔵群

出石寺

出石寺

門前の広場には、タクシーがいたりして少々愕然とするけれど、参拝者も多く、立派な寺です。
標高812mからの眺め、朝の雲海が有名ですが、今は、全体が貌と霞んで展望はありません。
本当は、こういうお寺に泊めていただくと、いい経験が出来るのだろうけれど・・。

境内横に土産物とうどん屋があります。うどん400円を注文し、ストーブにあたりながら、おばちゃんと話しをします。
お店、年中開いてるんだそうだ。(ただし11月~3月は水曜が定休。今日は水曜、ぎりぎりOK)冬は、予想通り大変だそうだ。
甘酒300円の貼紙を声をあげて読んで、おばちゃんを期待させて、裏切った。

(追記)金山出石寺について
この山は古くは矢野々神山と呼ばれる霊山で、多くの人々の山岳信仰を集める場であったと伝えています。
また、長大な三崎半島を巡るこの地は古くから瀬戸内海南航路の要衝でもあって、阿波の焼山寺や大龍寺のように山頂に火が焚かれ、船からは灯台の役割を果たしていたと思われます。(火を焚くこと自体が宗教的修行の手段となったと・・)
「三教指帰」に言う金巖(かねのだけ)のひとつの候補地に挙げられるように、空海をはじめとする真言渓系の修行地として寺院の建立が為されたと考えられています。




延々と舗装道を下る(高山付近)

大洲の街を望む

桜の大洲城

下りは高山、阿蔵を通り、直接大洲に戻る道を行きます。
この道、寺より2.5kの山道が舗装道(車道)と合流した後は、3箇所ほど、ヘアピンカーブをカットする短い地道があるのみで、阿蔵まで5.4kの舗装道です。
林間の決して悪い道では無いのですが、何しろ足に厳しい道なのです。
阿蔵からの地道約1kは、宿の若主人の注意も忘れ、つい通ってしまう。
平坦な道で、崩壊の危険は無いように思えるが、最後、市街に下りる所が、「危険区域」に入っており、天候状況により注意したい。

この高山、阿蔵を通る道、へんろ地図の標示にように、実際の遍路道標識も「44番大宝寺へ」と下りを前提とした設置で、上る場合には、遍路道標識はないと思った方がよい。

やがて桜満開の大洲城が見えてきます。
出石寺から大洲市街の宿まで、約11k、3時間30分でした。

出石寺へのルート選択は、良かったと思っています。上りは、やはり瀬田道を通ってこそ、価値がある・・とまで感じています。



     本日の歩行: 42314歩   地図上の距離: 19.8k

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四国遍路の旅記録 二巡目 第4回 その4

平成20年3月29日    御荘の宿  

 観自在寺山門

 観自在寺の仏

観自在寺

今日は、第40番札所観自在寺にお参りして、そのちょっと先、御荘(みしょう)の民宿磯屋さんに泊まります。
札掛の宿から僅か7.5kの距離。この宿に泊まるにはちょっと理由・・というか思いがあるのです。
1巡目にこの宿に泊まりました。同宿した名古屋のYさんは、先立たれた愛妻に出会うための旅でした。Yさんはその後奥様とのこと、遍路のことを綴った本を出版された。(八神和敏「旅立った妻に、ごめんね、ありがとう」)
よほどその夜のことが印象に残ったのでしょう。優しい女将さんのこと、もうひとりの同宿者大阪のOさんとともに、私の名まで実名で登場するのです。
本を贈られてからはがきの遣り取りも数回。宿に行ってもYさんに会える訳ではない。でもね・・・これがこの宿に泊まる理由。

それにしても時間を持て余します。この辺りには天義鼻とか、石垣の里外泊とか、名勝地も多い。折角だからとバスターミナルに行き、路線と時間を調べる。この辺のバスは通学が主目的、今日土曜は運休が多い。ダメだ。
たまたま明日は雨という、テレビから流れる予報の声を聞いて、結局、これより遍路ルートを10k進んで、内海の海岸(室手海岸)を見ておくことに落ち着く。

三つ、可愛く並んだ島「三つ島」(正しくは三ツ畑田島)を含む、室手海岸の風景は巣晴らしかった。のんびりと拡がる春の海でした。

内海からバスで戻り宿に着きます。
宿にはYさんの本が置かれていました。
女将さんは、私の記憶は曖昧であったようです。でも、当時のことを語りあっているうちに女将さんの心とも通じ合うものがありました。女将さんと、もう一人の同宿者神奈川のMIさんとともに、楽しい夕食でした。

 室手海岸

室手海岸 

 室手海岸


「コラム」     遍路の宿の女将とご主人

遍路にもいろいろな形がある。基本的に宿に泊まって歩くという典型的なひとり歩きの遍路に限ってみて、遍路と四国の人との出会いは、どういう場があるだろうか。

札所や遍路道の途中で、お接待という形であるいは、立ち話しという形で一瞬の、多くの場合、まさに一期一会の出会いがある。
札所の寺や宿坊での、遍路と僧侶との出会い。これは遍路の本来の有り様から言ってももっとも重要なものであろうけれど、そういう機会は極めて少ない、というのが現実のようである。

そこで、宿の女将やご主人と遍路との出会い。これは接する時間の長さ、そしてひょっとしたら一期一会ではないかも・・と思わせる点も含め、遍路と四国の人との最も大きな接点となりうるものではないか、と思えるのである。
もちろん、宿の中には、ビジネスホテルや、旅館であってもご主人や女将は事務的に客に接するだけといった所もある。こういう宿を好む遍路も増えているとは聞くが、人との出会いということからは埒外にある。

この度の区切り打ちでも、たくさんの宿にお世話になった。典型的な四つの宿を選び、その女将やご主人について、思うところを記しておきたい。
個々の宿の批判になったり、女将やご主人の身の上探索になってはならないことは承知している。この日記は時間を超越している。これまで出てきた宿もこれから出てくる宿もふくまれる。記述から、あの宿と想像できるかもしれないが、詮索しないで欲しい。私の書いておきたいことはそこにはないのだから。

民宿A:古くから民宿を経営している高齢のご主人と女将。民宿B:ここも古くからの民宿であるが、未亡人の女将がひとりで切りもりしている。民宿C:遍路をしていた四国外在住の女性が、数年前に開業した宿。民宿D:やはり遍路をしていた四国外在住の男性が昨年開業した宿。

民宿Aのご主人と女将のことについては、既に書いたからもうバレバレであろう。評判の良い宿であるが、疲れた遍路には過剰の心遣いではないかと危惧するところもあった。が、さにあらず。
近くの海で魚介が獲れなくなったことを愁い、森が死んでゆくのを悲しみ、これからどう生きていけばいのか、的確に語られる。宗教的なものではない、実際の生活のなかで掴んできたものと思える。
夕食のビールを傾けながら、ご主人と女将さんの表情を伺い、いつまでも聞いていたい話であった。

民宿Bも評判のよい宿。偏に女将さんの屈託の無い性格である。安心してまた泊まりたいと思わせられる。
自ら運転する車で荷物や人を2、30k先まで送り届ける。また、ご一緒にドライブしたいですな。

四国以外の人が、遍路宿を開業するのは大変な苦労が伴うだろう。25kから30kを隔てて、前の宿から次の宿に客を紹介するネットワークができている。
新参者は、既存の宿が集中する場所から離れた中途半端な場所でしか開業できない。
既存の宿のお手伝いなどして、遍路道や霊場の保全活動にも参加してお仲間として認めてもらわなくてはならない。それでも、新しい宿の新しい遣り方に対して強い口調で批判されるのが常である。
民宿C、宿泊人なしの日が多いであろう。台所から漏れてくるかなり前の流行歌の鼻歌と猫をたしなめる声、何処と無く寂しさを感じたものである。がんばれ、女将さん。

民宿Dの主人も事情は同様であろう。直接利害に係らない遠く離れた宿にパンフレットの配布を依頼している。
まだ若い主人、遍路仲間からの口コミ支援が多いようだ。型破り風なところもあるご性格とお見受けしたから、あっと驚く展開もあるかもしれない。がんばれ、若主人。


     本日の歩行: 31779歩   地図上の距離: 15.9k



平成20年3月30日    山は遠いし柏原はひろし・・


予報通り朝から雨。
内海まで歩いたというと、女将は「戻って泊まっていただいたんだから・・」と、内海まで車で送ると言って聞かない。
同宿のMIさんの荷物も内海まで運んで、知り合いの旅館に預かってもらうという。

女将さんとドライブ、でも15分、あっという間だ。
でも、内海の海岸は表情を一変させている。昨日歩いて見てよかった。

内海の旅館の前で、カッパを着て柏坂遍路道を目指す。女将さんには、いつまでも手を振っていただく。

この柏坂遍路道、けっこう急な登りが3k近くも続くきつい道です。
峠までは野口雨情の歌が、また峠から下りは、柏坂にまつわるよもやま話の看板があり、歩きを慰めてくれます。
書き留めた野口雨情の歌のいくつか・・。

・雨は篠つき波風荒りよと 国の柱は動きやせぬ
・松の並木のあの柏坂 幾度涙で越えたやら
・遠い深山の年ふる松に 鶴は来て舞ひきて遊ぶ
・山は遠いし柏原はひろし 水は流れる雲はやく

終りの歌、1巡目のときより心に残っています。

柏坂

柏坂

柳水大師


摂待松跡

馬の背 

宇和島の海岸(由良半島)の眺め

柳水大師、清水大師を過ぎ、つわな奥展望台、宇和島の海岸が美しい眺望ポイント。
残念ながらの雨中であるが、全体が雲海のような墨絵の世界、それなりの見事さです。
よもやま話の看板、必ずしも旧い話ばかりではなく新しいものもあります。それにしてもエッチなものが多い。人間から性を除くと何も無い・・というほどに重要事。当然のことかもしれないけれど。

(追記)「高群逸枝、柏坂にて」
八幡濱から始まった高群の四国遍路旅。柏坂、つわな奥からの展望は逆打ちで初めての広い「海」であったろうか・・大正7年7月22日雨の日、その興奮を綴っています。
「「海!」・・・・私は突然驚喜した。見よ右手の足元近く白銀の海が展けている。まるで奇蹟のようだ。木立深い山を潜って汗臭くなった心が、ここに来て一飛びに飛んだら飛び込めそうな海の陥し穽を見る。驚喜は不安となり、不安は讃嘆となり、讃嘆は忘我となる。暫しは風に吹かれながら茫然として佇立。」   (娘巡礼記 高群逸枝 岩波文庫)


 山桜 の咲く里


 菜の花

雨中の鷺

遍路道が国道56号と交差する所、国道を一人の遍路がやってきます。
これが所沢のMさん。昨年1番から挑戦したが、途中で故障入院。帰宅してからは、毎日10kを歩いて足を強化、万全を期してのリベンジとのこと。
「じつは私も所沢のMというとこに住んでたことありましてね・・」
「あーMね。水天宮さんの辺ね、よく歩きまわっているとこですよ」
東京の周辺の小さなエリアのローカルな話、四国の道の上で花が咲く。

私は、番外霊場満願寺に寄るため、津島の畑地の峠の前でお別れ。
峠を越えて満願寺までの道は、雨は小降りになったとはいえ、やたらと長い。
満願寺にお参り。有名な二重柿(柿の中にもうひとつ小さな柿がある)の木も見ました。でも、お参りの人もいなけりゃ、お寺も無人。
折角来たのに・・。お寺の人と話をしたかった。虚しいもんだ・・。

満願寺

満願寺の二重柿

桜ちらほらの岩松川の河畔を歩いて3k、コンビニで夕食を仕入れ、ビジネスホテルに入ります。

河畔の桜 


 岩松川の畔

     本日の歩行: 38743歩   地図上の距離: 20.6k

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四国遍路の旅記録 二巡目 第4回 その3

平成20年3月27日     篠山神社一の鳥居の元まで


 朝の田圃の傍の道 

延光寺

第39番札所延光寺に向う道すがら。
輝く朝日は、その断片を水を張りかけた水田の上に落としていました。
7時前の境内は、誰もいません。いつもにもなく、声を大きくあげて般若心経を読みます。そうしていると、心は何やら晴れ渡ったような気分になってくるのです。

宿毛市街に向う道、1巡目では、ここは39番に往復したところ。ラーメン屋や眼鏡屋や明治の偉人の生家跡、それらの佇まいまでよく憶えています。行きづりに見ただけなのに、不思議なもの。
市街を抜け、松尾峠に向う道に入ります。峠道にかかる前までのアプローチがけっこう長いのです。4kはあるでしょうか。山道になったり、里の道になったりを繰り返します。でも、私はこの道、好きな道です。
山には山桜、池に張り出したたわわな桜花、ああ、蓮華の畑も見えます。
農家の間の道を行けば、子供達から「こんにちは!」と元気な声がかかります。
菜の花畑のなかに入って、ついつい遊ぶ・・遍路。

山の桜

池の桜 

蓮華畑 

菜の花畑で

松尾坂口番所(関所)跡があります。
峠を越えれば伊予の国。江戸時代、土佐藩はここで人の出入りを厳しく取り締まったといいます。
峠道に入ったところに、子安地蔵堂(通夜堂)があります。きれいに掃除されています。良い季節であれば、寝袋持って、何人かとこういうお堂に泊まれば、楽しいだろうなーと思わせられます。辺りには、鳥の声も満ちているところです。

峠道は、きついけれど、昔からの通商路、よく整備されています。
峠には新しい大師堂があります。近在の有志、遍路宿の女将さん、それに全国から来た若い遍路が何日も泊まりこんで、その建設に協力したと聞きます。よく話しにでてくるお堂なのです。
今日もお堂と周辺の清掃のため、おじさんとおばさんが峠に上がってきていました。
「きょうはどこまで行くかねー」
「一本松の先の札掛宿まで・・。明日は篠山にお参りするつもりで・・」 
「そんな宿あったかなー。篠山はたいへんだ・・、確か山北に民宿が出来たと聞いたが・・」(山北は篠山の登山口に近い。ここに宿があれば、篠山参りも相当楽になる。)

松尾峠

松尾峠より宿毛を臨む

篠山神社一ノ鳥居

札掛の宿

峠を下り、一本松の街を通り、早くも午後2時過ぎ、篠山神社の一の鳥居の元、札掛の宿に着きます。
女将さんがニッコリとお出迎え。

この札掛という地名、各所に残りますが、遍路が札(昔は木の遍路札)を掛けてお参りした場所に由来します。この地は、その困難さから篠山詣りを果たせなかった遍路が、ここに札を掛け篠山を遥拝して去った地という・・その名残りだという。

今夜はもう一人泊まり客。篠山に上って下りてくるという。6時前、食堂の方から女将さんの声。「ちょっと、きて・・」
食堂の窓から宿に近づいてくる遍路の姿が見えるのです。
「きた、きた・・・」 女将さんうれしそう・・。
この人が東京のOさん。宿毛からバスで篠山登山口にできるだけ近い所まで来て、こちらに下りてきたという。なるほど、そういう方法もあったか・・。
話好きの人で、3人で鍋をつついて、篠山のこと、その他その他、話しに花が咲く。

     本日の歩行: 37383歩   地図上の距離: 23.6k


平成20年3月28日   「道しるべ」  篠山神社への道


田圃に朝日が

(今日は、日がな篠山詣り。全部「道しるべ」欄とします。)

時40分、外はまだ真っ暗。背中にはお借りした小さなリュックに、朝、昼分のおむすび4個。額にはこの日のために調達したライト。女将さんの見送りを受けて勇躍出発。

今回の区切りでは、おそらく足に一番働いてもらわなくてはならない日であろう。
1065mの山の上下を含む30kの歩きです。
広域農道を行くと、田圃の水が朝日に輝き始めています。
篠南(ささな)トンネルを抜け、5.8kで県道332号に入ります。
すぐに小中学校が。この学校の名前、おそろしく長いので有名。因みに「高知県宿毛市愛媛県南宇和郡愛南町篠山小中学校組合立篠山小学校」といった具合なのです。

篠山遠望


登山口の鳥居(二ノ鳥居)


鳥居後方の二体の地蔵

へんろ道道標

県道に入って3.2k、御在所の篠山橋を渡ると、左手に篠山神社二ノ鳥居があります。篠山登山口です。
鳥居後方に二体の舟形地蔵があります。左は元文五庚申六月吉日(1740)光背に「従是寺迄五十丁」と刻まれます。(この道が古くからの遍路道であることの証しです。)右は明治19年の地蔵。

宿を出てちょうど2時間。
急坂を登り始めます。
最初のカーブにへんろ標石があります。これ以降神社まで標石をみることはありません。
10分ほどで林道と合流、墓地があります。まもなく林道と別れ左に進みます。
かなり急な道が続きますが、やがて道は尾根筋にあがり、展望も開け、緩やかな道となります。
480mの三角点があり林道を左に分岐する地点より急坂となり、一挙に780mまで上る。
道は平らとなり、篠山荘(町営の無人の山小屋)の白い壁が見えてきます。県道と交差、駐車場とトイレがあります。
登山口からここまで2時間15分。(時間はすべて休憩時間も含む)

ここまでの地道は、想像したよりづっと良く整備されていて歩き易いもの。
落葉をしっかり敷き詰めた柔らかい道。椿の花が眼前に現れ、慰めてくれたりするのです。
私には、むしろここより山頂までの石の階段主体の道が厳しく思えます。
浮石に乗らぬこと、濡れた石に滑らぬこと。特に下りは慎重に。

篠山荘から37分で観世音寺跡に着きます。
300坪ほどの平地で、片隅に荒れた僧侶の墓があり、昔日の面影を偲ばせます。
これより上はネットが張ってあり、ゲートを開けて入る。ミヤコ笹を鹿から守るための処置。
そこより17分で山頂篠山神社に到着。10時50分、登山口から3時間10分でした。
お参りする手も合わないくらいの寒さ。風も強い。神社裏には不思議な水を湛えた池、伊予国土佐国境標石も。
心配いただいた宿の女将に到着を電話。(電話は通ずるのだ!)

絶景を鑑賞する間もあらず、11時5分早々に下山に移ります。同じ道を下り、登山口到着は14時20分。
所用時間は、登りとほぼ同じ3時間15分でした。

(追記)篠山信仰について
篠山の古い伽藍記録には「熊野三所権現廟」とあります。また、山頂直下の観世音寺(別当寺、現廃寺)ゆかりの鰐口鐘の銘に正長、応仁の年号が見られることより篠山信仰が中世以来のものであることが認められているのです。
登山口正木の庄屋蕨岡家は、山頂の篠山権現の神職を勤めており、蕨岡家は熊野行者であったか、あるいは密接な関係にあり、篠山先住の天狗(地神)を退け熊野信仰に代わったことを伺わせるとされます。このことは、蕨岡家に「戸たてずの庄屋」の伝説を生むとともに、弘法大師信仰も加えて、江戸時代における大師一尊化と遍路の大衆化への道を開いたと言われるのです。



椿のお迎え

落葉を踏んで

山頂への石の道

国境石

山頂の篠山神社

山頂の池

観世音寺跡、僧侶の墓

帰路、県道332号の途中、権現町に曹洞宗、白翁山 歓喜光寺があります。
篠山神社下に寺跡の残る観世音寺は明治初年の神仏分離により廃寺となったもので、歓喜光寺に遷座して御篠権現として祀られたという。
境内左手に大師堂がある。ちょっと不思議な感じの寺です。

歓喜光寺の大師堂

帰り道は、広域農道の入口を間違ったりしたけれど、16時50分、宿に帰り着きました。
宿の食堂から歩いてくる遍路の姿が見えたでしょう。
窓に小さく女将さんの姿が見えます。こちらの姿を認め庭に出たりまた入ったり。
杖を大きく振って「ただいま・・」
女将さんの心尽くしのお迎え、ありがたいもの。

     本日の歩行: 55264歩   地図上の距離: 30k

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