四国遍路の旅記録  平成24年春  その5

ここからちゃんと逆打ち

立江寺の近くの宿を出て、立江寺にお参りし18番恩山寺に向います。
この辺りの道標のこと、忘れず書いておきましょう。
立江寺門前の道の三差路に、茂兵衛171度目、明治32年。横に上部のみの照蓮標石があります。この照蓮標石には上部に「鶴林寺道」と刻まれています。行先が刻まれた照蓮石は珍しい、あるいは移設後の後刻かもしれません。
恩山寺へ分岐する細い道の角に、茂兵衛標石(165度目、明治31年)と文化6年(1809)の宝珠付笠を載せた標石「(地蔵)是より恩山寺 七丁/是より立江寺 十八丁/備前國岡山富田村・・」が並びます。その先の畦道に保存状態の良い照蓮標石(文化7年)が立っています。
恩山寺の周辺は、徳島市街に近いにもかかわらず、竹林などの鬱蒼とした森に覆われ、義経の軍の伝説の残る弦張坂、弦巻坂や大師おむつき堂、江戸初期の仏足石のある釈迦堂などの霊場も多くあります。
恩山寺。お参りの後、本堂の前から左へ地道を辿ると荒れた山門に出ます。順打ちの場合、車道を通る遍路も多いようですが、この山門からの地道が本来の参道でしょう。
恩山寺の参道で目を惹いた
石仏道標を二つ追記しておきましょう。
一つは山門の先の参道の右手の草の中に無造作に寝かされた舟形地蔵。美しい彫り。一見、丁石地蔵のようにも見えますが、井戸寺方向で続く丁石は見当たらないようです。
何といっても光背に彫られた年号、「宝暦七丁丑年」(1757)に注目。近くには恩山寺道の入口手前に享保15年(1730)の地蔵道標「右おんざん寺/遍んろミち」がありますが、これに次いで古いものではないかと思われます。
 もう一つは、参道を進み立江寺への分岐点にある寛政12年(1800)の道標。正面に「四国十八番恩山寺」と寺標石とも。右側面に「向江立江寺道 従是三十一丁/左江井戸寺 従是ヨリ五里」。見事な地蔵の彫りに魅せられます。

 立江寺前三差路の照蓮標石

 恩山寺分岐道の茂兵衛標石と文化6年の標石

 恩山寺前の照蓮標石(文化7年)


弦巻坂

 恩山寺山門

 宝暦7年の舟形地蔵

 寛政12年の道標


勝浦川(勝浦川橋付近)


鷺のいる水路(方上町)

勝浦川橋を渡ります。勝浦川は静かで美しい川です。辺りを通る度にそのことを思いだします。
日本一低い山という弁天山の前を通り、あずり越えに向います。
峠の手前で道を聞きます。「この先をたおって、それからずっとたおらず行ってつかい・・」やたら「たおる」(「まがる」の阿波弁らしい)ので何だかよくわからない。「まーゆくべ・・」
そこに、子細ありげなお年寄りが入ってきて、話をします。
そのことはちょっと後にして、地蔵院東海寺に向います。石段の横に「左 あずりこえ・・」の古そうな石標があります。
この地蔵院という寺、入口に鳥居、境内に熊野神社が同居する神仏混淆の姿。地元では、昭和4年に徳島で亡くなったポルトガル人外交官モラエス所縁の寺として知られます。宝篋印塔や石仏も多数。
地蔵院より峠は直ぐ。峠には「(梵字ア)
南無大師遍照金剛」と刻す大師宝号塔があり、裏面には「名東郡上八万村堂原安土峠志建之 文政丁亥季十月五日於東郡龜井戸上人加持之」(丁亥年は文政十年(1827))とあります。
この塔、現地では判読困難ですが、資料によると名号左下に「木喰上人観正」、その下に「恩山寺江二リ 徳島へ一リ一宮へ一リ」と彫られているようです。観正は淡路出身の僧で、江戸を中心に火伏せや病気平癒を祈祷し活動、日本回国も行い、寛政9年(1797)に阿波を巡錫した記録もあるといいます。塔裏面の刻字からすると上人の加持祈祷の後、文政十年に地元有志が宝号塔を建てたのではないかと考えられています。
ここで江戸期のあずり越の道について考えてみます。
一の宮(大日寺)から徳島の街中を通らず、直接恩山寺に行くバイパスルートとして、中筋道を経て上八方町を通る道筋が江戸中期以降開かれたと思われます。
中筋道には、明和9年(1772)と文化12年(1815)の地蔵道標があり、夫々「左 恩山寺三里/右 一宮廿五丁」、「右 一ノ宮 三十五丁/おんざん志/二り者ん」と刻まれます。これらの道標は上八方町から園瀬川(昔のホツケ川)沿いに法花谷を経て恩山寺へ向う道を示していると思われます。
一方、上八方町樋口(つゆぐち)の道標(天保14年(1843))には「右 一のミや 三十五丁/「左 あづ里こへ」と刻まれており、江戸後期にはあずり越の道が整備され、峠を越えて法花谷を経る道と勝占(かつら)で合流し恩山寺に向かった遍路が多くあったことが想像できます。それは峠に宝号塔が建てられた時期に重なるように思えます。


地蔵院東海寺


あずり峠の宝号塔

このあずり越えの道については地元の人の間で、否定的な意見があるようです。曰く、この道が嘗て遍路道の本道であったことはない、あずり越えの名は明治以降に付けられたもので、義経の軍が「あずった」などというのは全くの捏造である(本来は「阿津伊地越」と呼んだらしい)・・など。
私は思います。この道、昔からの遍路道ではなかったかもしれないけれど、少なくとも江戸後期には存在した道であり、眉山の西の地蔵越道に繋がる道として、決して悪い道ではないのではないか・・と。(協力会が遍路道として指定している薗瀬川左岸の土手道(県道203号)は交通量が多く、歩くには危険な道です。)
あずり越えの道の維持管理に協力している城西高校の学生さんにも感謝したいと。(ただ、国土地理院の地形図に「あづり越」と表記されているのは何故でしょうか。)

寺山で園瀬川を潜水橋で渡ります。橋の周りは菜の花。地蔵越の道に入ります。
車の往来がけっこう多い道ですが、峠付近からは車道を離れた地道を通れるありがたい道です。天保二年の銘のある峠の地蔵。周りはきれいに清掃されています。
以前にお会いしたお年寄り、お元気でおられるでしょうか。懐かしい思い出の地蔵です。


寺山の潜水橋。菜の花の中

地蔵峠

地蔵院にお参りして、17番井戸寺に向います。
弱い雨が降ったり、止んだり・・ それから16番観音寺、15番国分寺、14番常楽寺、そして13番大日寺へと。気が付いた地蔵や道標のいくつか、記すにとどめておきましょう。

  観音寺

  国分寺

  常楽寺

分かれ道の地蔵

遍路墓

井戸寺、国分寺、常楽寺それぞれの門前には、徳右衛門標石があります。
この辺り、照蓮標石がたくさんあるのですけどね・・
観音寺の東100ほどに、茂兵衛161度目、明治31年。正面は大師像ではなく、観音立像となっている珍しいもの。鮎喰川を渡る一宮橋の西300mほどは昔渡し場があった所。その近くに、茂兵衛137度目、明治27年。
この辺りは草に埋もれるように、ぽつり、ぽつりとあの独特の墓形。遍路墓と思われます。
大日寺の近く、あの分かれ道の地蔵。台座に弘化四年(1847)の年号を見ます。
大日寺にお参り。納経所にはあの女性のご住職が優しい表情でおられます。
門前の宿に入ります。

(追記)分かれ道地蔵横の標石
上に写真も載せた分かれ道の地蔵、その向かって左の石が照蓮標石なんだそうです。
喜代吉栄徳さんの「駄家通信101(2016.4.6)」にそう書かれており、標石には番号付けもなされているといいます。
まったく気付きませんでした。機会があれば確認したいと思います。

                                             (平成24年4月19日)

 あづり越付近の地図 地蔵峠付近の地図を追加しておきます。


(追記)十三番大日寺から十一番藤井寺への道筋(澄禅が辿った道)について

「四国遍路日記」によれば、江戸時代の始め澄禅は、霊山寺から切幡寺までの「阿波の北分十里十ケ所」(第1番~10番)を残して、井土寺(第17番井戸寺)より始めて、観音寺(第16番)、国分寺(第15番)、常楽寺(第14番)と巡行し一ノ宮(第13番)に至っています。ここより澄禅の「一度歩いた道は通らない」「できるだけ順路で」という方針により、独特の道どりが始まるのです。
一ノ宮から藤井寺(第11番)に向かうのです。この道程、遍路日記には次のように記されます。
「・・本来ル道ヲ帰テ、件ノ川(今の鮎喰川)ヲ渡テ野坂ヲ上ル事廿余町、峠ニ至テ見バ阿波一国ヲ一目ニ見所也。爰ニテ休息シテ、又坂ヲ下リテ、村里ノ中道ヲ経テ大道ニ出タリ。一里斗往テ日暮ケレバ、サンチ村(山路村)ト云所ノ民屋ニ一宿ス。・・」
澄禅が辿った道程として最も有力であると見られているのは、鮎喰川を渡り、入田町月ノ宮から前山峰(通称「地蔵越}標高140mほど)へ(柴谷宗叔「江戸初期の四国遍路」による)、峠から下り北へ西へ、石井町の大道(現在の国道192号に併行した一つ南の道、後の伊予街道)に至る・・。以降森山街道を経て藤井寺までの道については別記事    (「吉野川の高地蔵を巡る(その4)」)に記しました。また、同記事でも触れたように藤井寺から観音寺方面に向かう旧遍路道の道標の多くは「藤井寺〇丁、一ノ宮〇里」のようにいきなり「一ノ宮」が表示されているのです。このことは、観音寺や国分寺を経ないで直接一ノ宮へ行くこと(あるいは道筋)がある程度常識化していたことを表しているのかもしれません。澄禅が辿った道は、当時から意外に知られた道筋であったのかも・・ 因みに、明治後期の国土地理院の地図には前山峰越えの道が記載されています。
前山峰には明和6年(1769)の「峯の地蔵」(今はコンクリート製覆堂)や天保10年頃(1839)の建立と伝わる「水かけ地蔵」(火伏せの地蔵)と呼ばれる地蔵三尊(地蔵、不動明王、毘沙門天)(今は他の地蔵とともに石窟の中に祀られる)があります。
入田町月ノ宮から上る道は、残念ながらゴルフ場を横断する道で確実に通れるとは言い難いものですが。石井町への道は立派すぎるほどの舗装車道となっています。(国府町あたりから上って、気延山、前山峰の尾根道を経て石井に下る道は格好なハイキングコースとなっているようです。)
なお、入田町月ノ宮の上り口の600mほど西には、笠を被った立派な高地蔵があります。この鮎喰川沿いの集落もまた江戸時代、明治を通じて幾度となく洪水の被害に曝された所でもあるのです。 
      
 
明治後期の前山峰越の道(国土地理院) (図中央の南北の道)

北側より前山峰越え(地蔵越え)の道を見る



                                           (令和3年2月追記)


澄禅が辿ったであろう道を含め周辺の地図を示しておきます。 大日寺付近 観音寺付近



衛門三郎の像の前で

今回の遍路の最終日。13番大日寺より建治寺、玉ヶ峠経由で12番焼山寺まで。
逆打ちですから、衛門三郎がお大師さんに会った杖杉庵まででよいのだ、などと言ってる人がいたとか、いなかったとか・・ まあ、時間次第ということにしましょう。


小雨の鮎喰川


建治寺参道の石仏

建治寺参道の石仏

建治寺参道の石仏


建治寺参道の石仏

行場の入口(結界)

建治の滝

 不動堂

禅定への梯子

鮎喰川が小雨の中に霞んでいました。
建治寺の参道に並ぶ四国八十八霊場石仏は、眠るような遠い表情の素晴らしい仏だと、この度も感じました。
行場の建治の滝の水は一筋でしたが辺りの幽玄な雰囲気は一入です。
前回は禅定の岩場へ行く梯子に仰天して道を間違いましたが、今回は慎重。すぐ横のちょっとした鎖場を上がって建治寺に参ることができました。
寺では、若い修行僧が太鼓を打ってお勤め中。太鼓の音が山に響いていました。
山を下る山道も、広野の近くまで行く山腹の簡易舗装の道もよい道でした。
多くの古い道標も見ましたが、「一ノ宮江百八十五丁」の照蓮標石が美しく、目を惹きました。

 神山町阿野の照蓮標石

広野の阿野橋を渡った所に徳右衛門標石「是より一ノ宮迄二里」。
しばらく鮎喰川左岸に沿った道。
駒坂峠の前の潜水橋。大水の度に.流されていた木橋、初めての遍路では、きっと多くの人に感動を与えてきた橋でしたが・・、しっかりしたコンクリートの橋に付け替えられて」いました。


駒坂橋

禅定寺門前

 禅定寺門前の徳右衛門標石


駒坂峠を越えて橋を渡って本名へ。
私は県道を少し戻って井ノ谷の禅定寺に寄ります。(真言宗御室派に属しながら、信州善光寺の兄弟寺という珍しい寺、大寺です。)門前に「これより一ノ宮三里」の徳右衛門標石があります。
ここから道は緩やかな上り坂。
旧い道が斜面の少し上にあったようです。そういえば、道から少し離れて、見上げる位置にある民家が多いようです。
道端に長椅子一つの休憩所。お接待に置かれた紅八朔のうまかったこと。
鹿児島から来たという僧形の若い修行者に会いました。
遍路はまだ始まったばかり、「泊るところがわからなくて困っています・・」という。野宿装備の人に尋ねれば、善根宿や通夜堂のリストを持ってますよ・・」とお教えします。
宮分の新しいへんろ小屋にも寄りました。そこにも、お接待の紅八朔が置かれていました。
上りがきつくなって玉ヶ峠へ。一宿庵と多くの石仏。「是より一ノ宮迄四里」の徳右衛門標石も。


玉ヶ峠への道から。深い谷

玉ヶ峠、徳右衛門標石

玉ヶ峠を下って鍋岩へ。
この坂上ることを思うと何と楽なことか・・そして杖杉庵へ。しっかりとお参りします。
ここのお大師と衛門三郎の像は素晴らしい、特に衛門三郎の表情に感銘を覚えます。
時間はまだ十分あります。12番焼山寺にお参り。
今回の最後に確認した道標は、門前の徳右衛門「これより一ノ宮五里」でした。まーご熱心なことで・・
納経所に荷物を預け、奥の院まで足を伸ばします。
寺から焼山寺山山頂の奥の院「蔵王権現」まで1200m。途中に大蛇封じ込めの岩があります。
石の少ない歩き易い道で、荷物がないことも手伝って往復約1時間。
奥の院のお堂は、正に山頂(標高938m)にあり、そこからは四周の眺望。鮎喰川上流の集落まで見渡せます。


杖杉庵前の衛門三郎

 焼山寺

奥の院への道で

奥の院、蔵王権現堂


奥の院よりの眺め(神山町宇井付近)

(追記)焼山寺、奥ノ院
江戸初期の寂本「四国遍礼霊場記」には、焼山寺について次のように記されます。
「本堂 虚空蔵、大師の作。左に御影堂次に鎮守熱田明神祠、次に熊野権現社拝殿華表(鳥居)あり、・・奥院へは寺より凡十丁余あり。六丁ほど上りて祇園祠(八坂)あり。後のわきに地蔵あり、右に大師御作の三面大黒堂あり。是より一町許さりて聞持窟より上りて本社弥山権現といふ。・・・」
阿波で、焼山寺は鶴林寺、大龍寺とともに確実に大師が修行したとされる場所と言われます。奥之院を中心にその遺跡が色濃く残されています。霊場記にも記される三面大黒天は厨の神で修行をサポートするために重要な役割を担うと言われます。


四国遍礼霊場記 焼山寺

                                    (令和5年9月追記)


鍋岩まで下って、寄居まで行く町営バスを待ちます。(寄居から徳バスで徳島に連絡)
善根宿もやっているという小さなお店でうどんを戴き、八朔も買います。
店にいると、大型バスから下りてきた遍路さんたちが買い物に寄ってきます。私に代金を渡す人も・・「わしは店番じゃないんですが・・」と言いながらもお相手を。

気の緩んだようなのんびりした時間でした。
今回の遍路の終りです。

(追記)焼山寺付近 鍋岩付近 建治寺、行者野付近 の地図を追加しておきます。

                                             (平成24年4月20日)



 

コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )

四国遍路の旅記録  平成24年春  その4

土佐国境の二つの峠を越えて・・逆打ちへ

宿の付近から見た那佐湾の夜明けの風景です。

那佐湾の夜明け

那佐湾の夜明け

今日は阿波と土佐の国の境であった土佐街道の二つの峠道を歩きます。
まず、元越。
白浜まで行き、阿佐海岸鉄道の甲浦駅の近くを通って北に進むと、林道「元越線」の看板。
この道は峠までは簡易舗装の林道になっていたのです。
林道に入る前、土佐側の関所跡と思しき場所があり、石垣や石柱など転がっていましたが、何の標示もないので確定はできません。
峠から北に馳馬(はせば)に下る道は荒れた山道です。土佐街道も荒れるに任せて放置したという感じです。
山道を下った所に「土佐街道元越関所跡」の石碑。それ以外何もありません。

元越の下り道

田圃の中の道を東に。宍喰川に沿って行き、古目大師にお参り。
今度は北から南へ古目峠を越えます。この道は以前にも通ったことがあります。
「古道旧土佐街道」の標示から山に入ります。この道、普通の山道という感じで旧土佐街道という印象は薄いのですが、管理はされています。
峠には、頭の代りに石を載せた座姿の地蔵。台座に「安永十○年三月廿一日 俗名輿作施主十二銅講」とありますから、墓でもあるようです。(なお、「十二銅」は十二燈とも言われ、神仏への供物や灯明代に十二文を紙に包んで出したことによるという。)
隣には折れた石柱が転がっていますが、それには「神社五里半」「〇治廿七午年・・」「高知縣佐喜浜〇植村〇」とあります。年号は明治二十七年(午年)、神社は距離からして佐喜浜の八幡宮あたりを指しているのでしょうか。
こういう道標を見るにつけても、寺や神社が人々の心の拠り所であった時代を感じさせられます。

峠を下って、甲浦湾に近づきますが、道路が工事中で東股関所跡には行けませんでした。

古目峠への道

峠の地蔵と石標

さて、何ということでしょう。ここから逆打ちの開始です。
これまで歩いてきた道はワープする予定ですから、とりあえず甲浦駅から牟岐まで鉄道で移動です。
今日のお定めのお宿は、日和佐。牟岐からは15k先ですから、国道55号を脇目も振らず、私としてはけっこう飛ばして歩きました。ですから、記憶もそぞろ、記述も飛ばします。
山河内の駅の前から旧道を経由して、日和佐トンネルの前辺りを右折、横子峠の道に入ります。
逆打ちだと標識が何もないので迷いますが、田圃の横の道を左に上るのが正解。
私は直進して少々の藪漕ぎ。左の斜面を攀じ登れば、とにかく道には出ます。
峠には地蔵と徳右衛門標石が並んでいます。標石には「是より東寺へ二○○」(下部は埋まっていますが、おそらく二十リ?) 
峠からの下り、旧道は谷を下っていたようですが、今は林道を辿ります。この道、標識も十分にあり迷うことはありません。
林道に出て二つ目のガードレールの隙間辺りから、旧道に下れそうな気がしますが、止めた方がいいでしょう。

横子峠

横子峠の徳右衛門標石

日和佐に近づき、国道55号が大きく北に向きを変える所。新道は鉄道線路の上を跨ぎます。
実はその下の鉄道線路に沿った旧道の傍に真念石があるのです。地蔵と弁財天の左です。
「右遍ん路○○/施主土州安喜郡○○」 
近くの家の庭にいるおじさんに「あそこにあるのは、真念石ですねー貴重ですね・・」と話しかけると
「そういえば、わしが小さいころからそこにあるなー・・」だって・・

日和佐の真念石


参考までに余談+蛇足を書いておきます。
真念石は年代が古いということだけでなく、石質の所為もあってか劣化が進行して刻まれた文字が明確に読みとれるものは少ないようです。私が見た中では、香川県観音寺市、琴弾八幡宮の玉垣の途中、側石に挟まれるように置かれたものが、最も状態が良いように思います。、その流れるような文字が読み取れます。


(参考) 琴弾八幡石段の真念石

ついでに、道標に関して更に一言。
真念が「四国遍路道指南」の序に、凡そ次のように書き留めていることに最近気付きました。
「巡礼の道筋に迷途おおきゆえに、十方の喜捨をはげまし標石を埋めおくなり。東西左右のしるべ、施主の名字刻み入墨せり。年月をへて文字落れば、辺路の大徳、並びに其わたりの村翁、再びこしらへる所仰ぎ奉るところなり」
真念の熱き思いを感ぜぬにはおれません。



                                             (平成24年4月17日)

 宍喰付近の地図を載せておきます。



海沿いの道、旧土佐街道、旧道を探る

この度の遍路で、平等寺からまわった順方向の往路で歩かなかった「海沿いの道」の方の旧土佐街道や旧道を探ってみようと思います。

日和佐から出発ですが、その前に、昔の遍路道はどうだったのか。その予測は「まえがき」でも記したことですが、真念の「道指南」を確認してみましょう。(澄禅はこの区間については詳しく記述しておらず、海辺と山を繰り返して七里と言っていますから、真念と同ルートであったと推定できます。)今日も逆打ちで歩くので、ちょっと混乱するかもしれませんが、平等寺から薬王寺への方向です。
(二十二番平等寺の項)
 「・・これより薬王寺迄七里。 ・・○かねうち(鉦打)坂。ふもとに茶屋有。さかせ川、此河の蜷貝とがりなし、大師加持し給ふなり。○小野村、此間まつ坂、標石あり、○だい村、とまごえ(苫越)坂。○きき(木岐)浦・・おほ坂。○ひわさ、たい(田井)村、をだ坂くだり川有。きたかわち(北河内)村。○ひわさ浦、川有。」
( )内は現在の地名を想定してあてました。上記文中で「さかせ川」は今の福井川と思われます。別書(四国遍礼名所図会)には逆瀬川の字をあて「水逆に流る」と記されています。小野地区北方で穿入蛇行している様を言っているのではないでしょうか?「まつ坂」は現在の松坂峠と思われます。小野の先の集落を貝谷(峠名も)と呼びますが大師伝説の貝と関係があるのかしらん? 「だい村」は後の木岐田井村と思われます。「おほ坂」は今の山座峠でしょうか? 「をだ坂」は今の小田坂峠と思われます。
以上より、昔の主ルートがかなり明確となります。現在の遍路道である県道25号にほぼ近いけれど、鉦打と小野の間は山越えの道。小野からは貝谷を経て、貝谷峠、松坂峠の道で田井(木岐田井)に。木岐田井から山座峠を越えて田井へ。田井から小田坂峠を越えて北河内へ。というルートです。
逆打ち方向ではありますが、これらの旧道の様子を見たいと思うのです。先ず、旧土佐街道小田坂越です。
薬王寺門前から国道55号を行き、北河内駅付近から旧国道に入ります。おっと、この辺に真念石があるはずですが、見落としました。井ノ上橋を渡って井上の集落を過ぎ山道に入ります。
荒れた山道ですが、旧街道の面影を若干は感じさせる地形も残ってはいます。谷に沿う道はやがて崩れ、その先は見付けられません。峠まで200mほどの所でしょうか。峠の上の空は木を透かして見えますが、予期した通り廃道です。
引き返します。

小田坂峠への道

小田坂峠の南2、3kに、日和佐から恵比須浜の田井に抜ける尾根道の旧道があると聞いています。
えびす洞の近くを通る海岸の崖上の道(県道25号)は、おそらく後に開かれたもの。それまでは、この尾根道が田井から日和佐への生活道であったと思われます。現在は、日和佐側の1/3ほどは「四国の道」となっていて、途中にある金毘羅宮や大岩を巡るハイキングコースとなっています。
日和佐の街で、道掃除中の奥様に聞くと「大岩から先の山道も多分抜けられるのではないか・・」というお言葉。信じて入ってみます。


大岩手前付近から見た日和佐の街

大岩までは、さすが四国の道、悠々。その先、道筋は怪しくなります。
203mの三角点を確認しましたが、その先はいけません。草木繁茂、全く道を失いました。
杉林の急斜面を右に左に。1軒の民家の裏の道に出てしまいました。本来の出口より3、400m北、尾根を一本間違えたようです。
振り返れば、右手に小田坂峠も見えています。民家から出てきたおばさん
「あんた、どこ通ってきたの・・」とあきれられます。
「あーあそこが昔の土佐街道じゃ・・今は通れん・・」

田井まで県道を歩いて、小田坂峠越の出口を確認しておきます。
田井の入江から北へ300m。道傍に石燈籠、その向いが八坂神社。
この辺りが小田坂峠越の出口のはず。でも、山に入る道はどこにも見えません。
若い夫婦がやってきます。
「この辺に昔の土佐街道が通ってたって、知りませんかのー・・」
「えっ、えっ、何カイドー・・それよりおじさんどこの人?言葉が変・・」と全く取り合わない。
「ヒロシマでがんすけーのー・・」と言って喜ばす。

 石燈籠

八坂神社

ここから山座峠への旧道も消えているようです。山座峠へは今の遍路道を上ります。
山座峠に上る道、心惹かれる石仏に出会えます。峠上り口の地蔵、「遍ろう道」と刻します。(明和元年(1764)) 峠に地蔵二基、不動明王。これらの石仏はいずれも旧道から移されたものと思われます。

峠下の地蔵

山座峠の石仏

その先の白浜へ下る山道は「俳句の道」と呼ばれます。
応募で入選した句の書かれた木柱が並ぶいい道です。遍路の知人、東京のMさん(本名からいうとTさんかな)の句もしっかり見させていただきましたよ。
この道で、多くの遍路さんと出会えました。「逆打ちですか・・大変ですねー、でももう先が見えてきましたねー・・」 「いえ、あの、その・・どうも」と、ついついごまかします。
白浜の浜には、嘉永7年の津波を記録した常夜燈を見ます。そういえば、四国の海岸、どこにいっても津波時の避難場所、避難経路の標示が目立ちます。海辺に住む人にとっては、まさにやりきれないような、深刻な問題だと思います。

山座峠付近から


田井ノ浜

木岐の街を過ぎて歩いていると、どこからか「おへんろさーん、がんばって・・」と、子供たちの大合唱が聞こえてくるのです。
見れば、100mほども離れた学校の窓に子供たちの姿が微かに・・
精一杯の大声で「ありがとー・・」と。すると、また大合唱が。

田井ノ浜から北に行けば、旧土佐街道、松坂峠、貝谷峠があるはずです。この道は田井(田井という地名が二つあって紛らわしいのですが、こちらは東側、旧名木岐太井村の方)から峠を越えて貝谷、小野、鉦打と繋がる道です。
小田坂峠越えの道の状態から考えると、おそらく廃道でしょう。でも、田井側の入口には大師堂(目晴大師)があると聞きますし、ひょっとしたら・・
疲れました。行く気力は失せました。次の機会があれば、その時までとっておくことにしましょう。

現在、「四国八十八箇所霊場と遍路道」を世界遺産に登録しようという運動が行われていますが、その提案書の中で、重要な遍路道を史跡と表現しており、今回、通行または通行を試みた古道が含まれているのです。
実は、これらの古道を歩きたいと思い立ったきっかけの一つはここにもあったのです。
しかし、提案書の中の古道の表現と現実のあまりにも未整備な道の状況の間に大きな落差を感じるのも事実です。提案書だから・・と言ってしまえば、それまでですが・・これ以上は申しますまい。

阿波福井の駅まで歩いて、電車に乗ります。今日の宿の立江まで。
                                             (平成24年4月18日)


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

四国遍路の旅記録  平成24年春  その3

丹前峠、白沢峠を越えて牟岐へ

薬王寺から、旧土佐街道であるという丹前(たんまえ)峠越えの道を通って、23番奥の院泰仙寺、戻って山河内の打越寺、そして、白沢から白沢峠(この峠、無名のようですが、ここでは白沢峠と呼んでおきます)を越えて水落、下浜辺の海岸を通って牟岐まで。
泰仙寺へは、5年前になる平成19年春に行っています。印象に残る寺です。
また、白沢から峠越えで牟岐まで行く道は平成21年秋に通っています。この道は古道ながら、現在は「四国のみち」になっているため、よく整備された道です。峠を越えて見た青い海の印象がいつまでも消えることのない、私の好きな道の一つです。

このルートの前半、峠を越えて泰仙寺、それから打越寺という道順は、江戸時代中後期に記されたと言われる「四国遍礼名所図会」に書かれています。この部分の一部を抜粋しておきます。
(廿三番薬王寺の項)
「・・北河内村、河原土手を行ク。丹前坂、森の内社の側より登ル。西河内村、谷川渡リ。是より玉づしヘ十丁。玉津志観音本尊、観音庵、是より窟迄三丁登る。・・西河内村亦川渡る。山河内村、西河内自リ廿五丁ナリ是迄谷川数十在。打越寺、往還の右の方山側有、辺路人ノ為大守様御建立・・」

薬王寺から国道55号を少し戻り、日和佐川に架る橋の手前を左へ。1k少々で丹前の集落。
田圃の中の真直ぐな道の先に玉木八幡神社の森が見えます。
神社の左が丹前峠越えの道の入口です。
入口の左に駆上り地蔵堂があります。この地蔵には「寛政九年(1797)西河内村丹前講中」と刻まれているそうで、もともと丹前坂(峠)に祀られていたものを明治の終りに、ここに移したといいます。
この場所が何故駆け上りなのか、ちょっと理解できませんが、今は学業成就など子供の願いを聞いてくれる地蔵としておられるとか。ちょっと縁起の発生の様を見るようですね・・
道はゆるやかに上ります。さすがに旧土佐街道であったことを偲ばせる切り通しの道の形が残っています。今は通る人も殆どいないようで、日の当たる場所は一面の羊歯に覆われている所もあります。
峠の直下で「道が無い・・」と思わせる所がありますが、よく見通せば、大きく右折左折を繰り返し、切り通しの峠に到着です。
峠に地蔵が居られないのはやはり残念なこと。
下り道は上りよりよく整備されています。おそらく、旧道の一部は後に造られた林道に吸収されていると思われます。林道特有の迂回道で、直登の道筋ではありません。
すぐに府内の県道36号に出ます。約3.2k、1時間50分の峠越えでした。

丹前峠への道

丹前峠への道、羊歯の繁茂

丹前峠の切通し

ここから23番奥の院泰仙寺に参ります。
短いけれど急な道の参道。以前のお参りの印象と変わらぬ趣あるお寺でした。昔の記録にある窟へは寺よりさらに上りますが、ちょっと危険な道です。
山河内に戻って、打越寺にお参り。この寺はご住職も常住される里の寺ですが、由緒ある寺にもかかわらず何とも寂しい風情です。
その直前、県道36号と国道55号の分岐近くに茂兵衛道標219度目、明治40年があります。

山河内川


白沢の田圃

山河内から白沢(はくさわ)へ。ここから峠を越えて、南阿波サンラインを渡り、灘、水落そして牟岐へ。
白沢の畑から声がかかります。「これから峠越えかのー・・ごくろうなことで・・」 
3年前は台風の後だったでしょうか。荒れた道の印象はきれいに払拭されていました。さすが「四国のみち」ですね。
仰げば杉の枝の見事な密生。この度は鹿の足音は聞けませんでしたが、峠(「四国のみち」の標示は「山頂」ですが)では懐かしい地蔵にも会えました。
「東牟岐へ七十丁/薬王寺へ二リ」。(刻字は「楽王寺」ですが) 「東寺へ・・」の刻字はありません。古道ではあっても、昔から遍路道のメインルートではなかったのかもしれません。

ここで仮に「白沢峠」と呼んだ峠は、昔は「ゲダノタオ」と呼ばれていたようです。(徳島民族学会「阿波学会紀要43」橘禎男)報文では「この辺り昔はよくお化けが出たので、お地蔵さんを立てた」という地元の人の話を載せています。ゲダはゲドウの意(ゲドとも)。外道は仏教以外の真理に背いた教えを言いますが、転じて人に憑依して害をなす霊、あるいは獣を指すこともあるようです。

(追記)「虫送り」について
白沢から南東へ1.5k程、標高285mの峠は昔より「サデモリノタオ」と呼ばれていました。
この地方では昭和の初め頃まで、稲の害虫を防除するための「虫送り」の行事が行われていたと伝えられています。
虫送りの日は打越寺に集まって、日和佐の浄光寺から借りてきた大きな数珠をまわして祈祷した後、里芋の葉にオガ(害虫)を包んだものを1.2m 位の笹竹にぶら下げて「サイトウ ベットウ サーデモリ」と言いながら、峠まで持って行って捨てるといった単純な行事。
「サイトウ サデモリ」とは、源平合戦で活躍した平安時代末期の武将、斉藤別当実盛のこと。実盛と虫送りとの関係については様々な説があるようですが、一つには木曽義仲軍と戦った際、馬が稲株につまずいて転倒したところを源氏方の武将に討たれて無念の死を遂げたとされ、その死の原因となった稲を祟って害虫になって現れるというもの。実盛の怨霊を地域の外に送り出すことが虫送りの目的とされる。
海陽町樫ノ瀬地区の事例が紹介されています。そこでは、虫送りの行列は「サイトコ ベットコ ウッテントン イネノムシャー トサヘイケー」(その後に「トサノツギハイヨニユケ」と加えられることもあったという)と唱えて進むとされる。
虫送りの行事は日本各地に伝えられていますが、特に瀬戸内海周辺地域の虫害は厳しかったと言われます。
2011年、映画「八日目の蝉」の撮影を機に復活した小豆島中山地区(千枚田で知られる)の虫送り。それはその本来の目的と姿とはかけ離れたものかもしれませんが、ロマンな感情を掻き立てるものとなりました。松明に火をともし、千枚田を下る行列はさすがにサデモリとは詠わず「トーモセ トモセ」と声をあげます。
コロナ禍の現在、過去の人々は様々な自然からの禍(わざわい)を受け止めて生きてきたこと(この「送る」という言葉のなかにこそ・・)を、より現実感をもって認識できるように感じられます。(参考文献:阿波学会研究紀要第43号「日和佐町の峠道」(1997.3)他)              (令和4年2月)


天を仰ぐ(峠付近)

白沢峠

峠の地蔵


峠を越えて見た青い海



峠を越えて見た青い海

道下の潮騒

海沿いの道を行く


海沿いの道を行く

峠を越えると、もう木の間越しにちらちらと青い海が見えていました。
サンラインを渡って、水落の簡易舗装の道に入ると、海は目の前いっぱいに拡がっていました。
道の際、眼下の崖の下では白波が騒いでいるし、空には掃いたような雲。三年前と何も変わっていないように思えます。
所々に隠れたような家はあるのですが、車1台にも会わず、人1人にさえも出合わず、寂しさは一層増しているようにさえ思えました。高知神社の素朴な掲額も、地蔵堂の南無地蔵菩薩の赤い幟もそのままで・・
牟岐少年自然の家の立派過ぎるような建物を左に見て、下浜辺の浜の道を行きます。
若い親子連れの姿。
浜の岩に足を伸ばして座りこむ遍路は、小さな女の子から「こんにちはー」の声を戴きます。

下浜辺沖、岩上の釣り人、島は右より出羽島、津島、大島


下浜辺の浜

                                             (平成24年4月15日)

 山河内付近の地図 辺川・白沢付近の地図を載せておきます。


海部の峠を越えて

牟岐から高知県県境までの遍路道は、協力会のへんろ地図によれば、その殆どが国道55号を通ることになっています。山が海に迫っていて、道が自らの場所を選ぶ余地は少なく、昔の土佐街道も今の国道に近接していますし、復元または維持されている旧道も厳しく危険な箇所は殆どありませんから、私のような旧道好きならずとも通ってみたいと思う人が多いのではないでしょうか。
牟岐を出て先ず通るのが大坂峠の道。草鞋大師を経て内妻ノ浜を歩き松坂峠へ。そして古江ノ浜へ。
そうそう、この草鞋大師。協力会地図などでは大きく表記されているので、当然お堂の中と思い勝ちですが、もともと峠にあったものを移してきた露天の大師像なのですね。ちょっと戸惑います。
古江ノ浜から先は、少々国道を歩いた後、福良トンネルの前から鯖大師の境内に直接入る山越えの道に繋がります。
この辺りは昔から八坂八浜と呼ばれた道なのだそうで、真念も坂や浜の名を詳細に書き留めています。
大坂峠の旧道は、現在の道より下の山裾を通り、急坂で一気に峠を越えていたようですが、復元された道の方がずっと楽だと思えます。
浅川と海部川周囲の小さな平野を経て旧道は二つの山越えの道。奥の方から、居敷越そして馬路越です。
那佐に出た道は宍喰を経て土佐国境の峠道へ。ここも二つの山越えの道。元越と古目峠越えとなるのです。
ここでちょっとご注意。居敷越の南の出口の近くから海岸寄りに入り海崖の上方を越す短い道があります。「旧土佐街道」の標示はありますが、この道だけは入らない方がよいでしょう。ちょっと危険な道です。

大坂峠から

松坂峠から

朝から雨が続く日でした。八坂八浜の道を歩いた後、鯖大師八坂寺にお参りしました。境内には立派な多宝塔もでき、寺勢の盛んなことを感じさせる寺です。
以前、その南側からの入口が発見できず(近所の人に聞いたが結局わからなかった・・)通行していない居敷越の道を北側から歩くことにしました。
海部川橋を渡って、母川の畔を西に行きます。
母川はオオウナギの生息地として有名ですが、水もまた畔の緑もとても美しい川です。
この母川という川の名、何か意味ありげな名ですね。その由来について、真念の「道指南」に紹介されて」います。おもしろい話なので、口語私訳で引いておきましょう。
「空海が巡礼をしていた折、この地に来ると、日照りで山の妖怪の鬚も焦がれ、川の魚もいなくなったというのに、一人の女が遥々と山奥から水を汲んできていた。空海が一滴を請うと女は、日照り続きで幼子一人二人の渇きを見るに忍びず命懸けで岩窟から汲んできた水ではあるが、幸いに今日は母のきぎの寿なので坊様に差し上げようと言って、惜しげもなく空海に水を与えた。女の誠の慈悲水を空海が加持すると、水は溢れて月浮かぶ川となり、どんな日照りでも涸れることがなくなった。・・」


母川




居敷越を望む

居敷越の道

峠の地蔵

4kほどで西山です。
雨は強くなっています。山道にはちょっと不向きですが、ポンチョを着たまま、山道に入ります。
さすが旧土佐街道。入った当座は整備の行き届いた立派な道です。
神社は近くには見あたりませんが、鳥居だけがポツンと立っている所。そこから上り。
その先分岐がありますが、ここも上る方を選びます。この辺の道選びは勘に頼るしかありません。
峠には二体の地蔵があります。1体には「櫛川村子安堂 法道寄進」と彫られているようです。
櫛川は居敷越の入口から母川に沿って1、2k奥に入った今も残る地名です。
峠からの下りはやや荒れた道となります。
南側の出口は2、3m藪漕ぎ。コンクリートブロックの上の細い道を造成された空地に下ります。
よく見れば道跡、赤杭もあります。でも振り返れば道があるようには見えません。以前、入口を探った所は数メートル下。判ってしまえば手品の種明かしのようなものなのです。

那佐からもう一つの峠道、馬路越を今度は南から北へ抜けます。ここは以前にも通ったことがありますが、さすがに馬でも通ったであろうと思わせる石垣を積んだ広い道が残っています。
峠からは眼前の那佐湾の眺望が素晴らしい。(この道は、地元のウマジン(HN)さんが、整備に努められていると聞きます。ありがたいことです。)
ただ、北側から入った場合、山道に入ってすぐ右側の谷を上る道があり、こちらの方が古い道のようですが、南側の出口が崖で出られない恐れがあるようです。注意が必要です。
(追記)この馬路越の道、国土地理院の地図に記載されていますが、現在(私の通行時)最も通行し易いルートはそれとは若干異なるようです。下に地図を追加しておきましたので注意して通行してください。(太赤点線が私が通行したと思われるルート)

二つの峠道を歩き終え、鞆浦の宿に入ります。敢えて名前は書きませんが、町営で遍路には立派過ぎる宿です。
ここから見る那佐湾の夜明けは、また素晴らしいものです。(これは翌日)

宍喰の海岸

                                             (平成24年4月16日)

(追記)八坂八浜から母川への道
八坂八浜を過ぎ母川に至る道の事、これまで書いたことがないように思います。ここに記憶を辿りながら追記しておくことにしましょう。
 真念の「道指南」(1687)には次のように記されます。
 「・・いせだ川、しほミちくれバ河上へまわりてよし 〇いせだ村〇あさ川浦、大道より左に町有、〇いな村、観音堂あり。・・・〇からうと坂、これまで八坂の中、八浜の中、〇めんきょ村、大師堂有、・・」
 これに続いて、奥浦、鞆浦という賑わった港があるが主道を外れるため、両浦の人が遍路の便を図り、直接那佐に抜ける道を開いた・・というようなことが記されます。
 なお、「めんきょ村」は年貢放免の村で四方原村にあたります。
 伊勢田川を越えて浅川に入った所、右手の小高い丘に天保3年の地蔵や天保8年の弥勒菩薩があり目を惹きます。
 「道指南」文中にある「いな村、観音堂」も気になるところ。江戸時代の地図からは「いな村」の表記を見つけることはできませんが、今も港近くに「イナ」の字名が残っています。港を見おろす丘上の観音庵がこれにあたるとみてよいようです。
 この地は江戸時代から昭和にかけて数度発生した南海地震(いずれもM8.4クラスの大地震)の津波の被害を直に受けたところでもあります。慰霊碑や記念碑が数多くみられます。挙げれば・・ 弥勒菩薩付近の昭和南海地震(昭和21年)の津波死没者供養塔。天神社境内の安政南海地震(嘉永7年(1854))の津波碑文。観音庵の地蔵台石に刻まれた宝永地震(1707)の津波碑文(正徳2年(1712)建立)
「宝永四年丁亥十月四日晴天/日暖ナル同未刻俄大地震暫有/終テ後大海ヨリ髙サ三丈(9m)計ノ大汐指込/浦上村カラウト坂ノ麓迠上リ即刻/引汐ニ浦ノ中千光寺ノ堂一宇殘/有來在家不殘一軒モ海底引落/猶又流レ出ル老若男女百四拾人/余悉ク溺死仕〇依之右亡者/為菩提ノ此石像ノ地蔵〇一躰/致供養奉案地者也」。
観音庵石段に安政南海地震、昭和南海地震の津波の到達点を示す石標。など・・
更に一つ加えておきましょう。
古くより浅川から熟田(ずくだ)の庚申堂へ参る道として熟田越があり、今は新道と変わり一部残る旧道の峠(80m)に祀られる地蔵の一体が嘉永7年の地震碑となっています。(嘉永7年建立)碑の側面には次のように記されます。(海部郡誌)
「寛永度より嘉永7寅年迄百四十八年目なり 干時嘉永七寅年十一月四日辰刻晴天日並よく海上浪静穏にして暖気を催しする時候に背きしかる干天地震動して大
地震潮町中へ溢れ込猶また翌五日申刻大地震並津浪之高サ三丈餘(約十メートル)も山ノ如くニ押来リ諸人周章あへり山上へ逃登り海邊之人家流失野原と相成事也 施主 大里村 銀兵エ」  (R1年8月 R4年11月追記)

 「めんきょ村」以降、「四国遍礼名所図会」(1800)の記述を見てみましょう。
 「・・免許むら放れより左の方鞆浦 奥浦 町家有、陣屋見ユル、大川 船渡し四文宛、野辺村、大師堂右手に有・・」と記されます。
 現在、海陽町博物館に保管される真念石の元位置は旧道(江戸初期開設の土佐街道:この付近は現在の県道299号にほぼ重なる)が現在の国道と交わる辺り(海陽町大里片山1-2付近)とされています。ここより南西に旧道を進み県道193号を越して海南変電所の傍を通り海部川(「名所図会」に云う「大川」)に近く道が消える辺り、草叢に「渡しの地蔵」を見ます。(添付の地図を参照ください。)その先が「さいもんじ(「才門次」あるいは「西文字」をあてる。)渡し跡」です。この渡し、昭和10年頃まで運行されたと言われます。 
 越えれば母川の近く、旧土佐街道は馬路越の山路です。                    (R1年8月追記)

 

牟岐付近の地図浅川付近の地図海部付近の地図を載せておきます。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )

四国遍路の旅記録  平成24年春  その2

大龍寺の龍の窟を想う

今日は20番鶴林寺、21番大龍寺、21番平等寺にお参りし平等寺門前の宿に泊ります。

鶴林寺へ・・(当然、私ではない)

鶴林寺山門 「洗心門}

鶴林寺下り道の照蓮標石

水井橋

青い那賀川

大龍寺山門

大龍寺

昨夜からの同宿の遍路は3人。皆、1番からの初遍路。普段から山歩きをする人だったり、事前のトレーニングを積んだ人だったり。
焼山寺の坂も悠々越えてきて、これからの行程に期待と自信を持っているようでした。私の場合とは随分違う・・
鶴林寺への上り。息があがって休む私を、コンスタントなペースで追い越して行く人もいました。
「お先に・・」    
・・・・無駄口は、これくらいにして「まえがき」でも予告したように、4度目のお参りですので、お寺や以前に歩いた道の記述は、特に・・がなければ省略させていただきます。そして、これ
もお約束に従って拘りの道標について、蛇足をメモしておきましょう。
鶴林寺の登山道、水呑大師の先に茂兵衛219度目、明治40年の道標、「鶴林寺/大龍寺へ一里/立江寺二里半」の他「当山厄除け弘法大師毎夜開帳」の刻字。ちょっと仙龍寺への道標を想い出させますね。鶴林寺山門前に、茂兵衛179度目、明治33年「奥の院二里半」の道標。また本堂横にも茂兵衛179度目、明治33年があります。
鶴林寺を下る道、八幡神社を過ぎた所に、茂兵衛最初期の自然石の道標(88度目、明治19年)。これは貴重なものでしょう。
水井橋の手前、茂兵衛100度目、明治21年。これは添句付。「暮可希亭壱里モか礼ずあきの山 陶庵」(くれかけて いちりもかれず あきのやま)(もちろん現物は汚れていて判読困難です)
さて、鶴林寺を上り下って那賀川に至る・・ここで道標についての紹介はひとまづ置いて、川について、渡しについての話に飛んでゆきます。
(追記)那賀川を渡る、渡しについて 橋について
鶴林寺から大龍寺へ行く深い谷、真っ青な那賀川を越える水井橋を渡ります。霊山寺を発った遍路が最初に越える大河吉野川、そして次に渡る那賀川、夫々に違った印象で心を打つ川の情景です。江戸時代の初め那賀川には橋も渡しも無かった・・澄禅の「四国遍路日記」は次のように記す。

「・・晴天ニ成タレバ寺ヲ出、直ニ坂ヲ下テ川原ニ出。此川ハ大河ナレドモ舟モ無く渡守モナシ。上下スル舟人ニ向テ手ヲ合、ヒザヲ屈シテ二時斗敬礼シテ舟ヲ渡シテ得サシタリ。・・」
その三十年後、真念の「四国遍路道指南」には「なか川 わたし」とある。遍路の一般大衆への普及に伴い、渡しもまた広まったことが伺えるのです。ここでお約束をおおいに違えて四国遍路道全体の「道指南」に記された時代の「橋」「渡し」の状況を見てみましょう。(太字)には昭和前期の地図に記されたそれらの状況の変化を併せて見ることとします。
・10番切幡寺~11番藤井寺 よし野川舟渡し(渡し、後に橋) 渡しについて「吉野川の高地蔵を巡る その4」に少々記す。
・17番井土寺~18番恩山寺 つめた川 橋(園瀬川系冷田川 ) ほつけ川 橋(園瀬川 ) かつら川渡しは無記(勝浦川 渡し

・20番鶴林寺~21番大龍寺 なか川 舟わたし(那賀川 渡し
・23番薬王寺~24番東寺 カイフ川 サイモンジ渡しは不記(真念当時は渡しはなかった?)
・26番西寺~27番神峰寺 奈半利川舟わたし ()  
・28番大日寺~29番国分寺 物部川、大水の時ハ舟渡し (渡し
・30番一之宮~高知城下、31番五台山 ひしま橋、山田橋、さえんば橋 (
・31番五台山~32番禅師峰寺 江川舟わたし () 
・32番禅師峰寺~33番高福寺 浦戸渡し (渡し
・33番高福寺~34番種間寺 新川川、大水のときハ河上ニ舟渡し (
・34番種間寺~35番清瀧寺 仁淀川舟わたし (渡し) 
・35番清瀧寺~36番青龍寺 入海渡し(渡し
・36番青龍寺~37番五社 よこなみ三里舟にてもよし、山越、うしろ川引舟 (東又川、
・37番五社~38番佐陀山 五社への渡し(渡し) 下田道舟わたし(渡し) 大川舟わたし(渡川、渡し)、さね崎村天満、引舟あり、下ノかやうら舟渡しあり
・43番明石寺~44番菅生山 大川 舟わたし(肱川 
・53番円明寺~54番延命寺 ほうでう村、町中に橋有(立岩川 
以下伊予、讃岐には渡し、橋の記述はない。
以上、徳島、高知の市街地を除き橋は無かったこと、大河の渡しは江戸時代前期(真念の時代)の状態の多くが昭和前期に至るまで維持されていたことが分かります。
日本の国は明治維新の後も、太平洋戦争に至るまでそれほど大きな変化が無かったことに、むしろ驚きを感じます。あの変化の年代・・昭和40年代こそが日本の国の身も心も変えてしまったのかもしれません。
                                   (令和5年4月追記)

大龍寺から平等寺へ・・ここからまた道標の紹介に戻ります。
阿瀬比町大根峠への道の分岐に、茂兵衛169度目、明治32年。
茂兵衛道標以外では、平等寺門前に「これより薬王寺迠五里」の徳右衛門標石。鶴林寺、大龍寺にも徳右衛門標石があります。鶴林寺境内「これより/太龍寺迄、壱里半」、大龍寺参道階段傍「是より 平等寺へ 二里/靏林寺 一里半」。
大根峠登り口三差路の真念石「右遍ん路み○/(梵)為父母六親?」、木に縛りつけてあります。
それから、徳島県で忘れてはならない道標に照蓮のものがあります。このルートでは、鶴林寺を下る道の途中「是ヨリ大龍寺へ四十丁」を見ました。武田徳右衛門の標石設置が一応の終りを告げる文化4年(1807)に続き文化6年から建てられ始めるのが、この照蓮とそのグループの標石。「四国中千躰大師(しこくじゅうせんたいだいし)」「真念再建」の文字が見え、真念の志を受け継ぎ四国中に千躰の大師像建立を目指したと言われます。全部で72基が確認されており、その内62基が阿波の国なのです。石質あるいは設置場所の所為なのか、保存状態にばらつきが多いのも特徴でしょうか。鶴林寺下の照蓮標石は美しいものです。
大根峠を下り平等寺までの古い道標についてもここに記しておきましょう。
遍路道沿いに多くの古色の石造物が集められており、この地の人々の信仰心の深さを感じさせます。岡花に文化13年「平等寺十五丁」、西光寺(地名)に文化4年「是より平等寺ヘ十町」、その先に天保2年「平等寺江六丁」など。

鶴林寺への上り道の道標で重要なものを書き忘れていました。11丁から1丁の丁石です。これは南北朝時代の貞治年間(1362~7)から明徳年間(1390~4)の標石を再利用したもの。尖頭の頂部に二本線を刻します。(11丁石の手前にこれらの丁石とは形式が異なりますが、「鶴林寺道十三丁」と刻す道標があります。この隣は上記219度目の茂兵衛標石。)丁石の写真も追加しておきましょう。

 11丁石

 10丁石

 8丁石


大根峠上り口の真念石

大根峠

大根峠、竹林の道

平等寺

平等寺

大龍寺を下る道について、追記しておきましょうか。
本堂から少し南に行った所に、南の舎心といって大きな大師像が谷を向いて座っておられる所があります。(舎心とは「心を休める」という意味で、本来は捨身「捨身の行をする」であったと五来重博士は書いていますが・・) その少し先を東に下る道が旧道で、その途中に昭和30年頃まで岩窟があったそうです。
寺の縁起にも龍の窟と不動の窟という二つの岩窟があったと書かれているそう・・
澄禅は「四国遍路日記」の中で、その様子を極めて詳細に書き留めています。
その一部 「・・身捨山ト云所在。・・其ヨリ三十町斗下リ岩屋在リ。・・六七間入テ少ノビ上リて見バ、清水流テ広々タル所也。蝙蝠幾千万ト云数ヲ知ラズ、・・其奥ニ高壱尺二三寸ノ金銅ノ不動像在リ・・」 
その後、この
場所はセメント会社に売却されて窟は潰されてしまったそうです。誠に残念なことではあります。
大龍寺からこの道の途中までは行けると思われます。私も行ってみようと思っていたのですが、遍路2日目の体調は思いの他悪く、少し入った所で諦めました。せめてもと、旧道が下った県道28号側を見てみました。
そこはセメント会社の採石場への入口で進入禁止。路傍の三十三丁地蔵丁石がぽつりと寂しそうでした。大龍寺を下る旧道(いわや道)の採石場の上に三十丁の地蔵が残っていると聞きます。それからするとこの三十三丁石はもっと上にあったものを移してきたものと思われます。

(追記)龍の窟の位置
昭和初期の国土地理院地図(明治40年測図、昭和9年修正測図)この窟が「龍ノ窟」として大龍寺からの道(平等寺道、いわや道)とともに表記されています。意外に山を下った場所にあったのだ・・という感じ。



大龍寺旧道の丁石地蔵

                                             (平成24年4月13日)

(追記)江戸前期の大龍寺について
この日の日記中のすぐ前にも書きましたように、寺や道に関する記述はできるだけ省略する積り・・なれど日が経つと気が変わります。書いておきたいことがいろいろと・・よって追記ということに。
「四国偏礼霊場記」(元禄2年(1689))の大龍寺図を見ます。仁王門(「鶴道」と記入の傍)、鐘楼、本堂、大師堂、経蔵、弁財天、毘沙門堂、鎮守(五社明神)、天照大神、宝塔など、それに無記ながら三重塔が描かれています。
伽藍以外では、北ノ舎心、南ノ舎心、瀧(その位置からすると、細田周英「四国偏礼絵図」に示される「ソトバガタキ」と思われます。)、岩屋(龍の窟)が記されます。
約100年後の「四国遍礼名所図会」(寛政12年(1800))では求聞持堂が加わり、霊場記とほぼ同様の伽藍構成。ただ三重塔は「大塔」と表記されているようです。
大龍寺の三重塔は貞享元年(1684)建立の記録(棟札)があり、霊場記の絵図は建てられた直後(あるいは建設中)のものということになります。この塔は昭和34年、伊予三島の興願寺に移築、現存します。
現在の大龍寺に江戸前中期以来の伽藍は存在しないようです。古いもので文化3年(1806)再建の仁王門、嘉永5年(1852)再建の本堂、安政3年(1856)建立の六角経蔵、文久元年(1861)建立の多宝塔、以外の伽藍は明治以降の再建、建立。


四国偏礼霊場記 大龍寺

さて太龍寺まで来たところ・・ガラット気分転換、随分と真面目な遍路話を入れておきましょう。お許しのほどを・・

(追記)空海の修行地
四国八十八ケ所霊場の源となったと言われる四国における古密教の修行地(空海の修行地、空海以外の僧の修行地・・)についてはこの日記の諸所に雑記してきた積りですが、重複を覚悟の上で、ここに更に書き足しておきたいと思います。
まずは空海の修行地。延暦16(797)年、空海24歳の著書「三教指帰」には次のように記されています。
「阿国大滝嶽に躋り攀じ、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す・・」 また「或るときは金巖に登って炊凛たり、或るときは石峯に跨って粮を絶って轗軻たり・・」
即ち、空海の修行地は、①阿波大滝嶽(今の大瀧寺近く)、②土佐室戸岬(最御崎寺近く)、③金巌(かねのだけ)(吉野の金峰山、または伊予の金山出石寺の説がある。)、④伊予の石峰(石鎚)だというのです。
五来重は、初期の辺路の道、即ち空海の修行の道として、讃岐から大窪寺、藤井寺、焼山寺、ここより高鉾山の旭ケ丸を越え慈眼寺、鶴林寺、大龍寺、薬王寺、室戸埼・・(勿論多くは寺ではなく修行のための洞窟、滝、海原などを辿る道)と想定しています。
三教指帰に記された以外の空海の修行の道の拠点として考えられる処は、最初に平成になり発見されたまんのう町の中寺廃寺。ここは阿讃国境の大川山の北西山麓、標高600~700mに平安時代に栄えた山岳寺院。時も修行時代と重なり空海の修行地のひとつと見做せると言われます。次に挙げられるのは大窪寺。古様の本尊薬師如来、古い形式の鉄錫杖、奥院のせりわり禅定の存在などから相当規模の山岳寺院であったと想像される処。さらに、屋島寺、弥谷寺、八栗寺などもその可能性を秘めている寺も多いとされます。
さて、空海が修行地として選ばなかった場所であっても、空海以後多くの修行者が修行に適した場所(それは、洞窟や滝がある場所、海原に面した場所など行場と呼ばれる処・・四国には多く存在します。)で信仰に基ずいた修行が行われたと言われます。これらの場所の多くについても、日々の日記に加えて記してきた積りですが、若干を加えておきましょうか。
まず、補陀落信仰に基ずいた海岸の地。室戸崎、足摺の金剛福寺、志度寺などです。讃岐の七観音と呼ばれる平安時代に遡る古い観音像を本尊とする寺々もまたこの範疇に入りましょうか・・ また、修験道の山伏が四国の辺地を巡ることは修行の一つと捉えられていたことは明らかですが、これは後の大師信仰とは一線を画すものと見られているようです。加えれば、熊野神社を鎮守とする四国遍路の寺は数多い。神仏習合という日本仏教の特殊性故の弘法大師信仰との融合が図られている複雑さを感ずるのですが・・
これらの処こそ後に四国遍路の寺に繋がっていったと考えられているようです。
                   (参考文献 :五来重「四国遍路の寺」  武田和昭「四国へんろの歴史」)



山間の道、旧土佐街道を探る

平等寺門前から23番薬王寺まで行きます。
随分短い行程としましたが、旧土佐街道の山間の道を探りたいと思っているからです。
この辺りになると茂兵衛道標もぐっと少なくなります。忘れないようこの辺に書き留めておきましょう。平等寺の南の橋を渡ったところに 159度目、明治31年「二十三番薬王寺へ五里」。
平等寺から月夜辺りまでの古い道標についても追記しておきましょう。
平等寺の手前、石造物が集められた場所があります。淡路島の人の道標「遍路道/是へもどり川渡/左リびやうどうじ/享保13年(1728)」 左平等寺へ参り戻って川を渡って月夜に向う位置にあった道標と思えます。平等寺先広重に地蔵とともに二つの道標が並びます。「左 遍ん路道 延享3年(1746)」、「左 日和佐薬王寺 四リ 廣重女講(中)/平等寺江二十五丁/天保3年(1832)」

月夜御水庵に参ります。
真念は「・・月夜村、此名子細あり、たづねらるべし、・・」と興味を惹く書きぶり。
伝説では「水の無いこの地に立ち寄った大師が、衆生の不便を思い杖で加持すると清水が溢れ、水底に光明を放つ石を見つける。この石で本尊を造り祈願すると、闇夜に光明が現れ月夜となった・・」と伝わるとか。
そう聞いて改めて眺めると、お堂も周りの雰囲気もしっとりとして良いものだと感じます。
桜が散っていました。

月夜御水大師

小野の竹林

国道55号を行く。遍路は岩手のaさん

弥谷大師はパスして小野に。
ここに茂兵衛153度目、明治30年。
この道、薬王寺門前の193度目、明治36年「東寺へ二十一里/五里余」添句「鶯や法々希径の乃りの聲(うぐいすや ほうほけきょの のりのこえ)」まで茂兵衛さんには会えません。
さて、小野付近の道。
昨夜同宿の岩手のaさんと歩いています。この人、山歩きをしているようでなかなかの健脚。一時、地元の人も加わって三人歩き。
「この辺も若い人は皆んな出ていっての・・名産のタケノコ掘ったり出荷したりで、中国から若い人が大勢きているのですよ・・」 とけっこう深刻な顔で話をします。

くねくねと曲がる土道の旧国道に入り、星越峠を越えます。
新国道を行くaさんには先行してもらい、鈍足の私は旧国道を行きます。
この辺りは旧国道が旧土佐街道と重なっているようです。大戸の先で、いよいよ、北河内谷川の右岸(北側)にあるはずの旧土佐街道へ。

旧街道の地蔵道標、「へんろ道」と刻す

旧土佐街道の道

旧土佐街道の道、小さな峠

おそらく遍路墓


久望付近、強行渡河地点。樹木の中に旧道

消えかかっている旧街道の入口には大抵大きな農家があります。
家の前の庭の一部のようであったり、畑であったり。そんな場所を「ごめんくださーい」と声をかけて歩き抜けます。殆どの場合、家からの声は帰ってきませんが・・ 
やがて、森の中の道であったことを十分に感じさせる地形(路肩はかなり削れてなだらかになっていますが)に出会えます。
草木の繁茂した道傍に小さな石地蔵を見つけて「間違いなく街道だ・・」と喜んでいました。
藪漕ぎの先、畑のような地形で中年の男性に会いました。
突然の遍路姿に驚いて「いやー ごくろうさんじょ・・」。親切にも、抜け道を案内していただきました。

その先、久望(くも:昔は九毛村)の中心に近く、小さな峠に小さな社そして墓。
「文化14年 尾張城下田仲町村伊兵衛」(文化14年は1817)と私には読めました。きっと遍路墓です。
小峠の先は笹竹の深い河原。ジタバタしましたが、どうしてもその先の道を見つけられません。仕方なく来た道を戻って、旧国道の久望トンネル迂回道へ。迂回道からさらに農道を行き河畔まで。
そこに大きな一軒農家。声をかけると奥様が出てこられる。
「土佐街道の調査?ここで行き止まりじょ・・川の向こうが旧街道じょ。昔は岩に板を渡した橋があったがの・・浅いとこ見つければ渡れんこともないでしょが・・」
川の傍を歩いて浅そうな所を見つけ、靴を脱ぎ靴下だけで強行渡河。崖をあがってどうにか旧街道へ。
一軒農家の奥様は「通れるかも・・」と言っていた一ノ坂峠への道は、峠まであとわずかという所で無くなります。戻り、一ノ坂トンネルを潜ります。左手に水の溜まった不気味な旧トンネルの姿。
トンネルの出口側に自然石の道標。「是より薬王寺五十丁」(弘化3(1846)) 
こちら側からも一ノ坂峠への上り口を探ってみましたが、見付けられませんでした。
ここより薬王寺まで5kです。

一ノ坂トンネル出口の丁石地蔵

薬王寺

                                             (平成24年4月14日)

 旧土佐街道(久望付近)の地図を載せておきます。

(追記) 付録 鶴林寺三重塔

四国の寺に存在する三重塔は少なく、石手寺、西山興隆寺、興願寺(伊予三島)、それに鶴林寺を数えるのみです。
これらの三重塔のうち、私が第一に推したいのはこの鶴林寺の塔。
鶴林寺に参拝しても様々な理由により、三重塔にじっくり対面する機会は意外に少ないものです。私もそうでした。平成27年5月、何度目かのお詣りの際、写真に収めることができました。この鶴林寺の記事に、一緒に撮った本堂や山門の写真も含め、付録として追加させていただきます。

この塔は江戸時代の文政10年(1827)の建立。時代が下るため重文ではなく、徳島県指定文化財。
塔内には掲額の示す五智如来を祀る。高さ23m、銅板葺き、初層、二層の軒は二軒繁垂木、三層は扇垂木。軒先が鋭く反っています。
初層の中備えに一面彫刻が施されています。初層の四隅に軒を支える邪鬼が見えるでしょうか・・
三層には特徴のある高欄なども見えるのですが、何しろ山上の狭い敷地、全体像は撮影できませんし、カメラアングルも限られてしまいます。望遠レンズが無いのも残念。
しかし、私はこの塔のすばらしさを十分に感じとることができたように思いました。青い空に、緑の樹々の上に壮大に展開するその軒の様を見るだけでも、その壮大な世界にふれ心は開かれてゆくようでした。(平成27年5月)



































 

コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )

四国遍路の旅記録  平成24年春  その1

阿波から土佐への道往還(まえがき)

遍路道を歩いて・・


緑成す川の畔に

                                                (海部町母川)
青い海の浜辺に

                                                (牟岐町水落)


徳島から高知県境に向う現在の遍路道は、22番平等寺から23番薬王寺の間で、大きく二つのルートに分かれています。
由岐を経由する「海沿いの道」と星越峠を越える「山間の道」です。
今よりづっと多くの遍路が歩いたと言われる江戸時代の道はどうだったのでしょうか。
鶴林寺や大龍寺のような山岳の寺は、当然、昔から参拝専用の遍路道に依っていたのでしょうけれど、平等寺から薬王寺さらには土佐の国境に至るまでは、基本的に「土佐街道」が遍路道のメインであったであろうと想像できます。
土佐街道の主道は、小松島から岩脇、桑野、由岐、日和佐、牟岐、宍喰、甲浦のルートであり、多くの遍路もまた、平等寺の先、鉦打あたりでこの街道に入り、前述の海沿いの道にほぼ沿って薬王寺まで歩いたと思われます。
また、上記の山間の道の近くにも、土佐街道と称する道があったようです。この道もまた遍路道として利用された道であったでしょう。
そうだとすると、今も昔も変わらない・・と思われるかもしれませんが、「ほぼ」とか「近くに」とかと慎重に言葉を選んだのには理由があります。新道と旧道は、多くの場所で重なってはいないのです。新しい道の近くで、昔の多くの遍路が歩いた旧い道が潜んでいるらしいのです。私のように、「遍路はその道中にあり」と思い、昔から多くの遍路が通った道を歩きたいと願っている「旧道好き」にとって、これは無視できぬ問題なのです。しんどい話ですけどね・・
興味をそそるその旧道は、海沿いの道では、鉦打、小野の先、貝谷から木岐田井に通じていた旧土佐街道貝谷峠越え、松坂越え、田井から北河内本村に通じていた旧土佐街道小田坂越え、その南、えびす洞北側の尾根を越え日和佐に通じていた道など。山間の道では、星越峠の先、北河内谷川右岸に沿った一ノ坂峠までの旧土佐街道です。
薬王寺(日和佐)から先はどうでしょうか。
牟岐までの今の遍路道は国道55号であり、旧土佐街道の主道も基本的にはこれと重なっているようです。
しかし、その周囲にいくつかの旧い道があります。西河内の丹前から府内に通ずる丹前越の道(この道も土佐街道と呼ばれていたようです)。横川の横子峠越の道(これは主道の内かな・・)。山河内、白沢から峠を越えて水落を経て牟岐に通ずる道。
牟岐からも今は国道55号が主道ですが、八坂八浜とも呼ばれる旧土佐街道の道、整備・復元されていて通る遍路も多いでしょう。そして、海部の先、馬路越の道、居敷越の道。高知県境の古目峠越、元越の道へと・・

今回も私の遍路は矢鱈と変則ですから、あらかじめルートの概要を記しておきましょう。
19番立江寺から始めます。奥の院取星寺を経由して、20番鶴林寺、21番大龍寺、23番平等寺まで。平等寺から鉦打、小野を経て「山間の道」へ。星越峠を越えて旧土佐街道を探り23番薬王寺まで。
薬王寺から丹前峠の旧道を探り、奥の院に寄り、山河内の打越寺へ。そこから白沢の先の峠を越えて水落経由、牟岐まで。
牟岐から、旧土佐街道を重視して通り鯖大師を経て海部まで。高知県境またはそれに近い四つの峠道(馬路越、居敷越、元越、古目峠)を歩いてUターン。還路へ。
牟岐まで鉄道でワープ。(往路で歩いた道はワープする抜け目なさ・・)牟岐から薬王寺まで横子峠経由の道を。薬王寺からは「海沿いの道」。おそらく通れないであろう旧土佐街道の峠道を探り、福井からのワープを含め立江寺にリターン。
ここからは、部分的な逆打ちルート。18番恩山寺、あずり越、地蔵越を経て17番から14番の札所に参り、13番大日寺へ。
今回の最終日は、建治寺に参り、玉ヶ峠越え、逆打ちの区切りを思わせる杖杉庵に。時間によって、12番焼山寺、奥の院まで。
かくして、タイトルに「阿波から土佐への道往還」と銘うった由縁。

このところ、私の巡礼日記、いやいや私の遍路自体がますます捻じくれてきたのではないか・・という反省はあるのです。「遍路とは、どういう手段であれ、ルートであれ札所をまわること・・」というのが正論でしょうから。でも、一方で、私の遍路はこれでいいのだという気持ちもありましてね。我儘をお赦しください。
四度目、あるいは五度目となる札所やそこに至る道の記述は殆ど省略し、新たに通った道を主体に記しておきます。それから、遍路日記には付き物の宿や食物屋の情報(これが遍路旅の重要な情報であることは否定しませんが・・)は極力載せません。面白味のない日記になりますが、これは私の「拘り」です。
おーそうそう、昨年春の伊予の国以降、ちょっと凝っています旧い道標については、経路沿い見たものについてメモとして出来るだけ記録しておきます。
このことを含め、蛇足に更に足が生えたような日記ですから・・どんどん読み飛ばしていただきますよう。ではスタートへ。

余計なこと: 旧道の復元や整備に努められておられる方に。  私のような旧道好きのものにとっては、この上なく、ありがたいことです。旧道の多くは今でも公道でしょうから(中には私有地となったところも・・)勝手に手を付けることはできないのは当然でしょうが、昔の道の姿をよく調査された上で、出来るだけ忠実な復元・整備を図られますよう・・心より願っています。
                                      (以上 「前口上」でがんす・・)


立江寺から阿千田越で取星寺へ

19番札所立江寺。
寺から北へ1.5kほど、旧赤石港があります。明治以降整備された港で、その時代には近畿地方からここに上陸して立江寺から打ち始める遍路も多かったと言われます。「阿波の関所寺」とも呼ばれます。
境内は満開を少し過ぎた感じの桜が溢れていました。

 立江寺

この度は初めて奥の院取星寺(しゅしょうじ)にお参りします。
立江寺を出て南へ行くと、道角に「右あせん田古○」の古い標石。直進すると尾上神社の先「←古道 阿千田越え」の標示。ここが旧土佐街道の一部、阿千田越えの始まりです。
水田の傍を通る道は、やがて山の道へと。歩くにありがたい土の道です。立派に保存されています。
この道、現在の遍路道には指定されていません。(協力会の地図) 私には、不思議で残念なことに思えます。
峠には多くの石仏。上に車道が通っているのは、ちょっと残念ですが・・
峠を下ると自然石の道標。「右志ん四こくへ二丁 左ひハサ七リ つのミね六十丁 立江寺へ二十一丁」 
左は土佐街道。つのミね(現在の阿南市津乃峰)を経て日和佐に通じます。
私は右、新四国に向います。新四国の入口の傍の家の前でおばあさんにお会いします。
いっぱいの笑顔で「すぐほこを左へ行ってくれるでのー。こっちが88番で寺が1番でのー・・むかしはまけまけのひとがお参りなっとったが、近ごらあだれっちゃこられませんなー」
うーん、遍路地図の所為もあるのかなーなんて私は考えていました。

立江寺の近く、阿千田越の道標

阿千田越の道、水田の傍

阿千田越の道、山道

阿千田越の道、峠近く

土佐街道の道標

取星寺の新四国

取星寺の新四国(大師像)

取星寺の新四国

この新四国は岩の間を上る道の角々に置かれた大層立派なもので、お大師一千年御遠忌の天保五年(1834)に発願、二十五年の歳月を経て完成されたものといいます。
取星寺は神社(明現神社)と混合したような境内、やっと探した岩窟前の大師堂にお参りしました。

(追記) 古毛の大岩
取星寺を下り那賀川の河畔の道を行くと川の中に大岩があり、ちょっと驚かされます。これは「古毛の大岩」と呼ばれるものであることを後に知りました。これは慶応3年(1867)、増水時の万代堤(那賀川北岸の堤)の決壊を防ぐため覗石山から巨岩を落とし「水はね岩」としたというもの。近世の土木遺産として貴重なものと言われます。追記しておきます。(平成28年12月)


 古毛の大岩

那賀川の河畔から県道22、16を行き、星の岩屋に向います。
この立江寺から鶴林寺下の生名に向う道には、多くの古い遍路標石があります。萱原の三差路から立江方向に少し戻れば、櫛渕町に二つの真念石があったのですが、そこはパス。私が実見したもので4基の茂兵衛道標を確認しました。沼江大師付近、177度目、明治33年。勝浦川土堤三差路にも177度目、明治33年。沼江柳原の184度目、明治34年。勝浦中角の星の岩屋分岐の明治37年(巡拝回数刻字なし)。以上4基です。
3番目の柳原のものは添句付のもので、刻字は比較的明瞭なものの、研究者の間でもその読みとりが確定していない唯一のものではないかと思われます。(茂兵衛の添句付道標は36基と言われます。)
追記 : 上記の沼江柳原の添句付き茂兵衛道標。その後、松永氏のHP「空海の里」で句が追記されていることを知りました。私の写真でも確認しました。なるほど・・と納得。ここに書かせていただきます。 「勝浦川眺めも清く法の船」

沼江柳原の茂兵衛道標(184度目、明治34添句付)

道標と睨めっこしている所で一人の遍路にお会いしました。
後で、突然錦札を渡され、巡拝回数100回以上の大先達であることが判るのですが、その時は、これが遍路標石ですかー・・と驚かれた様子。道すがら、真念ってお大師さんと同時代の人・・とか、七福神って仏さんの位でいうと何処・・とか、冗談とも本気とも付かぬ風におっしゃる。愉快な人なのだ。

きつい上りの旧道を通って、星の岩屋にお参り。同じ道を戻って勝浦川を渡って生名の宿に入る頃は、もう辺り一面に夕暮れが迫っていました。

星の岩屋への道


星の岩屋への道

勝浦川夕暮れ

                                           
(平成24年4月12日)

 立江寺・取星寺付近の地図を載せておきます。


(追記) 立江寺から鶴林寺への古道について

 19番立江寺から鶴林寺へ向かう今の遍路道(県道28号・22号)の傍には、照蓮標石や茂兵衛標石など多くの石道標が残されています。特に気になる石道標は県道を少し外れた所に残る3つの真念石です。古い標石は道路改修などで移動されることが多いものですが、この真念石については大きな移動があったとは考えられない場所にあります。

「古道標の傍に古道あり」(このことは善通寺市のMさんのサイト「空海の里」の「道標による遍路道」から教えられた気がします。)
私は、この真念石付近の道の一部を歩く機会がありました。私が想定した古道の道筋を上記の添付地図に加えておくことにします。

最近、地元の民宿「鮒の里」のご主人を中心にこの古道を遍路道として復活させる活動があり新聞にも掲載されたことを知りました(2019年1月29日付け徳島新聞。某ブログにも紹介。)ここに掲載した道筋について、誤り、不都合などあれば(コメントで)連絡いただければありがたく思います。
                                                     (平成31年4月)
(さらに追記)
 「那賀郡櫛淵村総図絵」(徳島大学付属図書館所蔵)があります。作成年代は不明ですが、おそらく江戸後期に作成されたものと思われます。
 現在の櫛渕町に重なる地域であり、東の立江村西の沼江村との境界付近はやや曖昧ですが、地形と道路、築溜(溜池のこと)、神社などが詳細に描かれています。 (築溜、神社の名前は大字で重ね書きしました。)この図絵の道路上に前記の古道を橙色点線で落としてみました。
 櫛目状の丘と谷(東より西へ、東谷、大谷、湯谷、喰味谷、宮ノ内)を繰り返すこの地独特の地形、その丘の麓を縫うように走る古道の在り場所が明確に表されるように思います。
なお、この絵図の宮ノ内の先に「二反田築溜」の名が見えます。この二反田という地名は江戸期の澄禅の日記や真念の案内書などに現れることはありませんが、唯一細田周英「四国偏礼絵図」の立江寺から鶴林寺への道に 〇クシブチ△ニタンダサカ〇ヌエ〇ナカツノ、と記され、沼江への峠道が「二反田坂」と呼ばれたことが知れます。 
道沿いの神社について少々加えておきましょう。東より大谷の先に天神森、(天満神社として現存)、喰味谷の先に諏訪社(諏訪神社として現存)。その南に連なる5つの丸い丘はこの地の中央で霊地の中心でもありましょうか。先端より五山第1八幡宮(現、櫛渕八幡神社)、五山第2杉尾明神、五山第3諏訪明神、五山第4天満宮、五山第5額明神。五山第2の地は現在工場がありますが、16世紀後半秋元和泉守盛貞が城を築いた所といいます。(櫛淵城または秋元城)城の鎮守が杉尾明神、その神宮寺が法泉寺でした。法泉寺はその後(1720年頃)800mほど西の山口に移っています。(法泉寺の住職は杉生氏、現在の遍路道に沿っていて善根宿もあります。)                                          


 那賀郡櫛淵村総図絵 (クリックすると拡大します)

                                          
地蔵堂から二反田池への道                                   

    

  

 

 

コメント ( 14 ) | Trackback ( 0 )