四国遍路の旅記録  平成27年冬 


弥谷寺から丸亀までの小さな遍路


平成27年の12月、ある機会があって、弥谷寺から丸亀まで1日の旅をしました。そのことを書き留めておきましょう。
実はその年の夏、ちょっと大仰に言えば「道標研究会」というのがあって、地元の遍路研究者Mさんに曼荼羅寺周辺の遍路道標などを車で案内していただきました。その折の知見(知り得たこと)など、後追いしてみようという気持ちもあったのです。
この区間、私の日記にももう何度も登場していますので、できるだけ重複を避けたランダムな記述となります。お赦しください。

長い階段を上って、朝の弥谷寺にお参り。俳句茶屋の前を下ります。誰かおられるかな・・と覗いてみましたが無人でした。
茶屋の横に、海岸寺への道を案内する石の道標があることに初めて気付きました。道筋は黒戸山の裾を迂回するルートでしょうか。通行できるかどうかもわかりませんが・・
山門の石段口に、茂兵衛標石(100度目、明治21年)「左本堂 四丁打戻り/善通寺・金毘羅みち」。

 弥谷寺を下る


石段口の茂兵衛標石

曼荼羅寺への道

弥谷寺から72番曼荼羅寺への道、これまで三度は天霧峠を下って海岸寺を経由していますから、直接行くのは9年ぶりのこと。
緩やかな上り下りの地道。所々に石仏にも出会える気持ちのよい道です。
この道、最近の国土地理院地形図には「讃岐遍路道(曼荼羅寺道)と標記されています。「遍路道」という標記が国土地理院の地図に現れたのは、徳島のいわや道、大龍寺道、鶴林寺道などとともに最初のことではないでしょうか。
山麓の小さな池を廻って地道は舗装道に変わり、高松自動車道を潜ります。その手前に「へんろみち」、東京の遍路の名を刻んだ大きな標石があります。
上池の畔を通って、吉原大池の見渡せる高台、大きな地蔵尊像があります。(台石を合わせると5m近い。)脇の石燈籠には、享和元年の刻字も見えます。当時の溜池の工事は大変な難工事であったと伝えられます。犠牲者を弔う地蔵であるかもしれません。(もともと弥谷寺に納めるはずが、大き過ぎてここに・・という話も) この菩薩がここに置かれた意味については、3巡目第8回その3に極めて興味ある説を紹介しました。
上池と大池の間の堤には、大坂の西国観音講が納めたと思える両手指しの標石があります。

 大池の畔の大地蔵

上池と堤の標石

西碑殿の公民館の近く、地蔵と並んだ茂兵衛157度目(明治30年)の標石。旧道はその先で左に折れ、大池の畔を通っていたようです。
池に向って打球するゴルフ練習場の打席にすぐ後ろに茂兵衛標石「弥谷寺道」(88度目、明治19年)が残されています。そこからもう池畔のお堂が覗えます。


西碑殿の地蔵と茂兵衛標石

 ゴルフ練習場傍の茂兵衛標石

旧道はそのまま池に沿って七仏薬師に至っていたようです。
吉原大池の築堤は難工事で、村の庄屋が乳母を人柱にしたと伝えられることから別名「乳母ヶ池」とも呼ばれ、七仏薬師は女の乳がよく出る霊験があると言われます。
堂前に「弘法大師御作七仏薬師」(安永8年(1779)と刻される)の碑。少し離れて、地蔵尊像、古験松(こげんのまつ)の碑、西行法師の歌碑が並びます。
地蔵尊は一般には左手に宝珠、右手の掌をこちらに向けて下に垂らす与願印を結ぶ仏が多いようですが、この像の手の平はやや不自然なほどに長く、やや上に向けて伸ばす特殊な印相。何か謂れがあるのでしょうか。
地蔵の右手に西行の歌、「月見よといもの子ども能寝入りしを おこしに来たが何か苦しき」。
西行はこの近くに庵を結んでいましたが、月の美しい夜、芋を盗掘したと百姓に疑われこの歌を詠んだと伝わります。この話、武田明(以前の日記で「イヤダニマイリ」の伝承でも紹介しましたね。多度津の民族学者。)の「巡礼と遍路」にも記されていて、やはり「何かわけのわからぬ歌だ・・」と添えられています。
歌碑の裏を見ると「此方 へんろ道 こんひら道」刻まれています。道標の裏にあとから歌を刻んだものか・・


七仏薬師、地蔵、西行歌碑

 三井の江の茂兵衛標石

国道に出て、三井の江バス停の近く小さな橋の傍、茂兵衛標石「左 弥谷寺」。下半道に埋まった上、隣の松の木が繁り掻き分けないと見られません。
県道48号から旧道に右折する所に、「釈宗眠」と彫られた茂兵衛標石(173度目、明治32年)、茂兵衛標石には珍しく地蔵が刻されています。少し行くと草陰に「左水くき道」と刻まれた古い道標。ここから西行庵のある「みずくきの丘」への旧道は、現在の道より東寄りの川に沿った道であったようです。
直進、池堤の二つの茂兵衛標石(153度目、明治30年)(133度目、明治26年)を見てやがて曼荼羅寺の門前です。


旧道入口の茂兵衛標石

72番札所曼荼羅寺には、嘗て、弘法大師手植えと伝わる銘木「不老松」(一説に西行手植えとも)があったそうです。現在は枯れて代わりに笠松大師の像が置かれています。また「笠懸桜」と題した碑があり西行の歌が添えられています。 
笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなきあめがしたかな
曼荼羅寺境内、周辺の標石については、三巡目、四巡目の日記にけっこう書きました。重複は避けましょう。ただ、境内にあった徳右衛門標石改刻の茂兵衛標石、Mさんにご案内いただいた27年8月には立てられていました。「すぐ甲山寺」と直載に。

 立てられた徳右衛門改刻標石

出釈迦寺への道。以前(三巡目、H23.10,4)に見付けられなかった茂兵衛標石(140度目、明治28年)「鶴多ちし あとへ往天徒(ゆきてつ)む若菜可那 吉備津多嶋」の添え句付は、出釈迦寺現参道の一つ東側の通り(旧坂口屋の敷地で現在は墓地)の角にあることが判明しました。これもMさんにお教えいただいたこと。
ただ、盛土の土留めの一部として使われ、添え句も確認できません。残念なことです。

 旧坂口屋前の茂兵衛標石
(添句は右側
面)

出釈迦寺では、植栽を運んでおられた僧衣の女性(ご住職でしょう)から会釈とお言葉を戴きました。
そのため・・という訳でもありませんが、その他のこと、奥の院捨身ヶ嶽禅定のこと、すべて忘れ、いや省略いたします。甲山寺への道のこと、甲山寺のこと、善通寺周辺のことも併せて・・
落ち穂拾い。そうは言っても、これまでの日記に書かなかったこと、忘れたことほんの少し書いておきましょう。
74番札所甲山寺の背後は甲山(かぶとやま)という小山で、南北朝時代細川氏に随った香川氏の家臣朝比奈氏の城があったと言われます。その後、西国三十三観音の写し霊場も置かれており、甲山寺本堂の左手から山道を上って回遊することができます。ただし、行く人は少ないらしく、かなり荒れた道ではありますがね・・

 甲山寺

善通寺に近づき、仙遊寺。お堂の建替え工事中で平地の仮屋に石の大地蔵と稚児大師が置かれています。昔の寺の姿を想うと驚き・・
その近くの犬塚。高さ2.5mの角礫凝灰岩の笠塔婆で風化が進み、刻字は判読不能。空海に纏わる義犬伝説を伝えるようです。
善通寺の周囲は、それまであれほど多く見られた茂兵衛標石がぱったりと見られなくなります。不思議に思っておりましたら、市役所近くの郷土資料館前に3基の茂兵衛標石が集められているのでした。(これも夏にMさんの案内で知ったこと。)いずれも立派な大標石ですが、遍路道に置かれない茂兵衛さんはやはり寂しそう・・

実は善通寺では前日、私はある講習を受けていました。自利利他の講話を聞き、御宝号と般若心経を唱えていると、隣の席の人が何か絵を描いていることに気が付きました。座標軸を書き、その第1象限に加速的に増加する曲線、第3象限に加速的に下降する曲線・・(こういうの三次関数というのでしたっけ・・そして彼が描く図形の場は、きっと色、受、想、行、識の五蘊・・)いや、いや、それは誕生仏の手の形、あるいは蔵王権現の手足の形、そうであったかもしれません。しかし、私は・・
そうだ! この図形に沿って無限の右上に進まぬよう、また無限の左下に進まぬよう、歯止めをかけることこそ、我々の為すべきことではないか・・それが滅亡に向って進む我々の世界の進行を遅らせる方法ではないか・・そんなどうしようもなく、かつおおそれたことを妄想しておりました。あーあ・・

善通寺から76番札所金倉寺へ行く道。誰が定めたのか知りませんが、協力会地図に示されるルートは、古くからの道なのでしょうが、遍路の歩き道としては必ずしも良い道とは言えないのではないかと私は思います。
第一に交通量がけっこう多い車道(信号もない)を数度横断しなくてはなりません。それから、古い道標を殆ど見ることがありません。私が唯一出会った道しるべは、「左古んひら 右ぜんつうじ」と刻まれた石燈籠。それも傾き見捨てられたような姿で。

 金倉寺への遍路道の石燈籠

金倉寺への道、私の好みから言えば、「平成27年春 その3」の日記で紹介した石神神社付近を通る道のほうに軍配を挙げます。
金倉寺での出来事は省略。(この夏の道標研究会金倉寺場所では、いろんなことがあり、いろんな人に会いましたねー・・R丸さん。)
お参りのあと駐車場に行くと、若い遍路がベンチに座って、「次の札所まで・・」と書いた厚紙をかざしています。

「どうしたの・・」と尋ねると「足を痛めて殆ど歩けない。車で参拝している人に乗せてもらおうと・・」 「この辺は電車も通っているよ・・無理しないで利用したら・・」と言うと「電車やバスは絶対乗らない・・」と拘りを主張します。
この時期、車遍路はなかなかやってきません。次の札所に向って、紛らわしに途中の道標の話を皮切りに、取り留めも無いよもやまの話をしてゆっくりした同行二人にお付き合い。でも途中で「先に行ってください・・」と座り込む。


金倉寺、手前は茂兵衛標石(121度目、明治24年) 添句「真如乃月 かゝや久や 法の道 冷善」

隆寺への道の道標 
「すぐへんろみち 是ヨリ札所迄五丁」であろうか。隣の地蔵台座にも「遍んろ道」と。

77番札所道隆寺の納経所で、後からくる若い遍路のことをお願いしておきました。乗せてもらえる車遍路が見つかったでしょうかね・・
それから、私は丸亀の街まで歩きました。

これまで石垣の上に丸亀城の天守を仰いで通ったことはありましたが、城内に入るのは初めて。そんな時間が持てました。
天守は江戸の初期、1660年京極高知の時に完成。四国で最も古く、日本一小さい現存天守と言われます。内部に入れば、小規模であることが、その木組みのダイナミックさや美しさを際立させているように感じます。それより何より、この城は「石の城」とも呼ばれます。その石垣の見事さには感銘を受けます。それから、三の丸の高みから一望できる讃岐冨士(飯野山)、善通寺の五岳山、金毘羅の象頭山などの眺めも。
遍路の途中に城見物は・・と敬遠する方もおられるかもしれません。しかし、歴史を築いてきた多くの人々の汗の結晶を見る思いもするものです。時間に余裕があれば立ち寄られることをお勧めします。

丸亀城遠景

石垣と天守

天守

天守

天守内部

天守内部

 天守内部

石垣

曼荼羅寺付近の地図を載せておきます。

                                                      (12月10日)


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コメント
 
 
 
7ヶ所参り (たけのしん)
2016-01-16 08:57:36
7ヶ所参りですね。お疲れ様でした。
甲山寺の山を上る入り口のお宮さんが何を祀られてるのかが気になってます。
次回、納経所で聴く予定です。
 
 
 
たけのしんさん (枯雑草)
2016-01-16 17:11:37
こんにちは。
これはあの次の日です。
長い神仏習合の歴史のなかで、寺の境内に多くの
神社がありますね。その由緒を知ることも興味
深いことですね。研究の成果を期待しています。
 
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